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       「悪いね、手塚」 
      「いえ、先生にもご都合がおありでしょうから」 
      金曜日の放課後、手塚は顧問の竜崎に呼び出されて、運動部顧問の研修旅行が急に決まったので土日の運動部の練習は全面停止する旨を告げられた。 
      「レギュラーに関しては、各自トレーニングを怠らないように伝えておきますので」 
      「乾あたりに個人のメニューを組んでもらおうかねぇ」 
      「それには及ばないかと」 
      乾に任せてとんでもないメニューを組まれては困る、と言うのが一瞬手塚の頭に浮かんだ。 
      竜崎はニヤッと笑うと「そうだね、大丈夫だろ」と独り言を呟き、手塚を解放した。 
      コートに向かう途中、手塚は眉間にしわを寄せて考え込んだ。 
      (2日間、か…) 
      実は手塚の家族が、今日から旅行に行ってしまっていたのだ。 
      部活があるからと旅行を断った手塚だったが、土日の部活がいきなりなくなってしまい、どうしたものかと考える。 
      食事については自分でどうにでもなるし、家に一人でいることへの不安を感じているわけではなく…… 
      「ちぃーっす」 
      部室で着替えていると、リョーマが入ってきた。 
      「遅かったな。委員会か?」 
      「ういっス」 
      ちょっと不機嫌に返事をするリョーマに、土日の件を話そうとして、少し手塚は迷った。 
      リョーマのことだから「泊めて」と言いかねない。もし、リョーマと二人きりで夜を過ごすことになったら…と考えると、手塚は複雑な心境になった。 
      「なんスか?」 
      「…いや」 
      何か言いたげな手塚を不審に思ったのか、リョーマが不機嫌なまま手塚を見る。 
      「おばさんと何話していたんスか?」 
      未だに竜崎のことを『おばさん』呼ばわりするリョーマに少し眉をひそめたが、いつものことなので気にしないようにして手塚は質問に答える。 
      「週末に運動部の顧問たちが研修旅行に行くらしくてな。部活が中止になった」 
      「ふーん…ま、いいけど」 
      だんだんと機嫌が直ってきたのか、表情から不機嫌さが消えてきたリョーマに土日の予定を聞こうと手塚が向き直ったとき、ドアがノックされて桃城が入ってきた。 
      「あ、ちーっす」 
      手塚の姿を見つけた桃城はペコッと軽く会釈する。 
      「どうした?」 
      「忘れものっスよ」 
      鼻歌を歌いながら自分のバッグを探る桃城に手塚は心の中で溜息をつきながら、土日の件は練習が終わってからリョーマに切り出そうと決めた。 
      しかし、事態はそうゆっくりと構えていられない方向に進み始めた。 
      「なぁ、越前、明日とか明後日とか、ヒマ?」 
      「なんでっスか?」 
      「さっきスミレちゃんにあったら土日に部活ないって言うんだよ。お前ん家のコートで練習させてくれないかと思ってな」 
      「………なんでうちでやりたいんスか?」 
      「タダだから!」 
      ニカッと笑って桃城はリョーマの肩に腕を回す。 
      「可愛い後輩に毎日たかられて金がねえんだ」 
      「…ふーん。じゃ、今日はマック行くのやめときますか」 
      「え?そりゃねえぜ、越前!」 
      「部長、先に行くっスよ」 
      リョーマはまた不機嫌な顔になって手塚に断りを入れる。 
      「ああ。俺もすぐ行く」 
      本当は手塚も着替えは終わっていたが、タイミングを外してしまって一緒に出られない雰囲気になってしまった。部誌をめくったりして「まだ行けない」ふうを装う。 
      リョーマは軽く溜息をつくと、まとわりつく桃城を半ば無視して部室から出ていった。 
      残された手塚はといえば、眉間にしわを寄せて再び考え込む。 
      もしリョーマの家で桃城が練習することになったら、この土日をリョーマと過ごすことが出来なくなるわけだし、桃城の誘いを受けた後に強引にリョーマを家に誘ったりしたら、リョーマは何と言って桃城に断るのだろうか… 
      「…俺を選ぶとも限らないしな…」 
      口に出してから、今のセリフをリョーマに聞かれたらまた怒られるのだろうなと、微かに微笑む。 
      一度目を閉じてから、とりあえずは練習に出ようと、手塚も部室を後にした。 
      
      朝からリョーマは機嫌が悪かった。 
      それは朝練の後の不二の一言から始まる。 
      「今日から手塚の家、誰もいないんだって。知ってた?越前くん」 
      「いや…知らないっス」 
      不二はやっぱりね、と笑うと「押し掛けちゃえば?」などと面白がっているような言い方をする。 
      手塚はなぜ『そのこと』を事前に自分に話してくれなかったのだろう、とリョーマは考え込んだ。 
      (オレに来て欲しくないのかな…) 
      (いや、また『練習に支障が出たら…』とか考えているんだろううな…) 
      (それとも練習でオレに会うだけで充分とか…) 
      手塚並みに眉間にしわを寄せて黙ってしまったリョーマに、不二の言葉が、また追い打ちをかける。 
      「他の運動部の子から聞いたんだけど、どうやらこの土日は全運動部の活動が出来なくなるらしいよ?手塚はまだ知らないのかな」 
      手塚が知らないはずがない、とリョーマは思ってしまった。 
      家族が家にいなくて、土日の部活がなくなって……なのにどうして自分を『呼んで』くれないのだろう? 
      「…不二先輩は、土日どうするんスか?」 
      「ききたい?」 
      「…っ!いや、いいっス!」 
      何となく、触れてはいけないことのような気がしてリョーマは質問をキャンセルした。 
      「そう?家族を旅行に行かせる苦労とか、聞いてくれないんだ?」 
      ああ、やっぱり…と、リョーマはその場を逃げ出したくなる。そして同時に、菊丸の身の安全を祈った。 
      「オレ、日直なんで、もう行くっス」 
      「うん、じゃあまた放課後にね」 
      「ういっス」 
      なんとかその場を切り抜けて安堵の溜息をついたリョーマは、また思考を手塚のことに戻す。 
      (もう飽きちゃったとか…ないよね…) 
      互いに想いを通わせるようになってから数回、すでに手塚とは肌を合わせている。 
      きっかけを作るのはいつもリョーマの方だったが、一度始まってしまうと手塚は驚くほど激しい。そのことを、リョーマはまさに『身を以て』知っていた。 
      手塚に求められると、リョーマは堪らなく嬉しく、切なく、熱くなってしまう。 
      手塚と過ごすどんな時間も、リョーマにとっては楽しくて心が躍るようなものだったが、取り分け身体を強く求められているときは手塚の想いがダイレクトにリョーマの中へ流れ込んでくるようで、とてつもない幸せを感じることが出来た。 
      「あの人は違うのかな…」 
      『好き』の強さが違うのだろうか?…と、リョーマはちょっと俯いた。 
      それから放課後までの時間は散々だった。 
      日直の仕事は、今日に限って忙しいし、図書委員会では先輩たちの仕事を手伝わされて部活には遅れなければならなくなるし…。 
      そして極めつけは部室で偶然はち合わせた手塚のはっきりしない態度。竜崎に呼ばれる手塚を見かけたので、土日の部活中止の件はもしかしたらまだ知らなかったのかもしれない、とは思ったものの、明らかに部活がなくなったことを知ったはずの手塚が、一向に自分を『誘って』くれない。 
      おまけに桃城にまとわりつかれている自分を見ても、手塚は何も言おうとしなかった。 
      「…オレばっかじゃん…」 
      きっと自分の方が相手のことを好きなのだろう、とリョーマは思った。 
      確かに手塚も自分を好きだと言ってくれるし、将来のことまで、その視野に入っていることも話してくれた。 
      だが、リョーマは『今の手塚』も欲しかった。 
      誰にも渡したくない、自分だけの手塚が常に欲しかった。 
      「決めた」 
      リョーマは手塚の家に『押し掛ける』ことを決意した。 
      
      
      練習が終わって部室で着替えをすませるとリョーマは桃城を振り返った。 
      「桃先輩、今日もおごってくれるんスか?」 
      「おう、いいぜ。珍しいな、お前から言うなんて」 
      明らかに『ものすごく嬉しそう』な顔をしている桃城に「腹減ったっス」と言って早く行こうと促す。 
      「ああ〜俺も俺も〜!マック行きたいにゃ〜っ」 
      菊丸が動物並みの聴力で、ごった返した部室の中からリョーマと桃城の会話を聞きつけたらしい。 
      「え?英二先輩がおごってくれるんスか?」 
      桃城が意地の悪い笑みを浮かべて菊丸ににじり寄る。 
      「うっ……」 
      菊丸が返事に困っていると、リョーマの予測通りに不二が割って入ってきた。 
      「ダメだよ、英二。今日はこれからすぐ僕の家に行く予定だろ?レポートをさっさと片づけて、明日は朝から遊ぼうって約束したじゃない」 
      「あ、そーだったにゃ。ってなわけで、桃、まった来週〜だにゃ」 
      「そう言えば、越前君、結局どうするの?」 
      菊丸をしっかりその腕に捕まえながら、不二がリョーマにそっと尋ねる。 
      リョーマははっきり答える代わりにニヤッと笑って見せた。 
      「そ。じゃ、頑張ってね。壊されないように」 
      最後の一言はリョーマにだけ聞き取れる声で耳元に囁かれた。 
      リョーマは顔を赤くしながらも、こくりと頷いて見せた。 
      そんなやりとりを少し離れたところから見ていた手塚は、リョーマを囲んで喋っている3人にイラつきながらも、その輪に入っていくことが出来ず眉間に深くしわを刻んでいた。 
      今日は諦めるしかないのかもしれない、と溜息をつき、もう一度リョーマに視線を送ると、ばちっと目があった。 
      リョーマが怒っているようなキツイ目でこちらを見据えている。 
      「えち…」 
      リョーマを呼び寄せようと名前を呼びかけたところで、ふと目を逸らされる。 
      「桃先輩、早く」 
      「おう!じゃ、お先に失礼しまーす!」 
      「リョーマ君、また月曜にね!」 
      そうしてリョーマたちが出ていったのを皮切りにゾロゾロと部員たちが帰り始める。 
      手塚も大石に部室の鍵を託し、部誌を竜崎に届けると、一人帰路につくことにした。 
      誰もいない家の鍵を開け、真っ暗な部屋に入り明かりをつける。 
      自室に入ると、手塚は深い溜息をついた。 
      バッグを少し乱暴に置き、ガクランを脱いでベッドの上に脱ぎ捨てる。 
      普段着に着替え終えると、もう一度溜息をついて、階下に降りていった。 
      どんな状況でも健康な身体は空腹を訴える。 
      だが自分で料理する気にはなれず、何か簡単に食べられるものを調達しに外に出ることにした。 
      近くのコンビニで今日の夕飯と明日の朝食になりそうなものを適当に見繕ってカゴに入れてゆく。壁際のドリンクコーナーを通り過ぎようとして、ふと、『Fanta』の文字が目に止まった。 
      (……美味いのか?こればかり飲んでいるが……) 
      少しだけ興味を引かれて、リョーマが飲むファンタの中でもよく目にするグレープを手に取る。しげしげとしばらく眺めてからカゴの中に入れてみた。 
      コンビニを出て途中の本屋に入り、新しい参考書を買って家に戻る。 
      家の鍵をポケットから出そうとした時、ドアの前に人影を見た気がして身構えた。 
      「…遅いっスよ。どこ行ってたんスか」 
      「越前?」 
      まさかいると思っていなかった人間が目の前に出現して、手塚は狼狽えた。 
      「桃城と帰ったんじゃないのか」 
      「帰ってたらここにいないじゃないっスか」 
      ふてくされたように屁理屈を言うリョーマに、今ひとつ事態が飲み込めていない手塚はとりあえず家の中に入るように促した。 
      「桃先輩に食わせてもらったんで、夕飯はいらないっスから」 
      「………?」 
      後ろをついてくるリョーマが手塚の背中に向かって断りを入れる。 
      手塚が黙ったままリョーマを振り向くと、射るような強い目はそのままに少しだけ声のトーンを落として探るようにリョーマが言葉を続ける。 
      「ここに来る途中家に電話して、宿泊許可とったから」 
      「…………」 
      黙ったまま何も言わない手塚に、リョーマが焦れ始める。 
      「来ない方がよかったっスか?………だったら帰るけど」 
      最後の方は頼りなく小さな声になってしまい、そんな自分が情けないのか、リョーマは軽く唇を噛んでいる。 
      「……まさかと思うが……不二から聞いたのか?俺の家に誰もいない、と…」 
      「え?…そうっスけど…」 
      手塚は軽く溜息をつき、ダイニングテーブルの椅子を指さすと、そこに座るように促した。 
      「桃城はどうした?」 
      「別に。『ご馳走様でした』って、ちゃんとお礼言ったっス」 
      「お前の家で練習というのは…」 
      「タダのコートはオレん家だけじゃないでしょって言って断りマシタ」 
      手塚は何となく、桃城が哀れに思えてきた。 
      好きな相手の言葉に一喜一憂させられたに違いない。しかも相手はこの越前リョーマでは、飄々とした顔で、とんでもなく冷たいことを言われているかもしれなかった。 
      (それでも諦めないところは誉めてやろう…) 
      何やら複雑な心境になってしまい、手塚は再び黙り込んでしまった。 
      そんな手塚を見やったリョーマは、ここに来るまでの強気はどこかに吹き飛んでしまったかのように俯いた。 
      だが目の前に差し出されたファンタに、驚いて顔を上げる。 
      「…いや、その…試しに飲んでみようかと思ったんだが…ちょうどよかったようだな」 
      「オレに?」 
      「味見はさせてくれ」 
      真面目な顔でそう主張する手塚がおかしくなって、リョーマはぷっと吹きだしてしまった。 
      「半分こ、しようよ」 
      「ああ、そうするか」 
      手塚の表情もやわらかさを取り戻した。 
      少しぬるくなってしまったファンタを冷蔵庫に入れて、手塚はまだ済ませていなかった夕飯をリョーマと一緒に摂ることにした。 
      「越前、風呂が沸いたぞ」 
      夕食を済ませ、しばらくとりとめのない話をしながら穏やかな時間を過ごした二人は、次第に深くなる夜の静けさにどこかぎこちなさを感じ始めていた。 
      「ういっス………アンタは?」 
      「…………あとでいい」 
      「ふーん、じゃあお先に。あ、着替えとタオル貸して」 
      突発的に『お泊まり』を決めたリョーマは、もちろん着替えなど持っているはずもなく手塚に着替えとバスタオルを出してもらう。 
      「あと…」 
      「『日本の名湯』か?」 
      「ビンゴ!」 
      入浴剤を手渡しながら、手塚は今の状況にデジャヴを感じていた。 
      (…そうか、あの日と同じだ…) 
      リョーマが初めてこの家に遊びに来たときも、雨にずぶ濡れになったリョーマを浴室に押し込め、着替えやタオルを貸してやった。 
      だが入浴剤を使ったのはその後の……。 
      そこまで思考が巡ったとき、リョーマも同じ様なことを考えていたのかちょっと顔を赤くしながら小さな声で呟いた。 
      「なんか、あの時みたいっスね」 
      「……」 
      手塚は返事の代わりにリョーマの頭をぽんぽんと軽く叩いた。 
      「ゆっくり入ってこい」 
      「…ういっス」 
      あの日、リョーマが初めてこの家に来た日、それは二人が初めて身体を重ねた日でもあった。 
      それ以来、何度か肌を合わせているが、やはり初めての時間、そして初めての熱い感触は強烈な思い出となっている。 
      (今日アイツがここへ来たのはそれだけが目的ではないはずだ…) 
      どうしても艶めいた方向へ流れそうになる思考を、どうにか引き戻そうと努力する。 
      だが、きっとこの我慢には限界があるだろうと、手塚は密かに思っていた。 
      「お先に」 
      「ああ」 
      リョーマが大きめのTシャツを着て風呂から上がってきた。 
      「あれ飲んでいいっスか?」 
      「ああ、これか?」 
      手塚は冷蔵庫からファンタを取り出してリョーマに手渡す。 
      「あ、半分こするんだった。コップ…」 
      「まあ、いい、味見できれば」 
      「じゃあ、はい、お先にどーぞ」 
      「ん…」 
      手塚は素直に受け取り、プルタブを引っ張って小気味よい音を立てる。 
      そのまま直接口を付けて一口飲んでみた。 
      「………甘い……」 
      手塚がリョーマの方をみると、明らかに笑いを堪えた顔をしたリョーマが口元を両手で押さえて肩を震わせていた。 
      リョーマにしてみれば、『手塚とファンタ』という、あまりにもミスマッチな組み合わせの上に、カラフルな柄の缶をしげしげと見つめて眉間にしわを寄せている様子など、笑うなという方が無理である。 
      「お前、試合前にも飲んでいたな…これでは余計に喉が渇かないか?」 
      「別に」 
      「…………」 
      手塚は溜息をつくとリョーマにファンタを返した。 
      「親父の時代はこれよりもっと甘かったって言ってたっスよ」 
      それを聞いて手塚はまた眉間にしわを寄せる。今でも充分に甘いと感じるのに、それ以上の甘さとは一体…。 
      「そんなにマズイかな…」 
      リョーマはごくごくと三分の一ほど一気に飲んでから独り言のように呟く。 
      「ねえ」 
      「なんだ?」 
      「も一回味見しない?」 
      言いながらリョーマはファンタを手に持ったまま手塚の首に腕を回し精一杯背伸びをして口づける。 
      迎え入れるように少し開いた手塚の唇から舌を割り込ませ、手塚のそれに絡ませた。 
      手塚の口腔内に、先ほどとは違う甘さが広がる。 
      しばらく舌を絡ませてから、リョーマがそっと唇を離した。 
      「どうっスか?」 
      「…こういう甘さは嫌いじゃない」 
      そのままもう一度、二人は唇を寄せ合い深く舌を絡める。 
      「…っと、零れちゃう…」 
      手塚の唇から逃れてリョーマが左手のファンタを持ち直した。 
      手塚は軽く溜息をつくとリョーマの額に口づけ、身体を離す。 
      「あ…」 
       ちょっと物足りなさそうな顔をするリョーマの頬に優しく手を添えながら、手塚はリョーマ以外には見せないやわらかな表情をする。 
      「俺も風呂に入ってくる…俺の部屋で待っていろ」 
      「……ういっス」 
      手塚を見送りながら、リョーマは手塚の一言に頬を赤らめる。 
      「『部屋で待っていろ』って……」 
      リョーマは手にしていたファンタを一気に飲み干した。 
      気分を落ち着けながら入浴を済ませ、髪を乾かしてから手塚が自室に戻ってみると、リョーマがベッドに寄りかかったまま眠ってしまっていた。 
      「越前?」 
      そっと声をかけても返事はない。 
      手塚は少し微笑んで、リョーマを起こさないように細心の注意を払って抱き上げ、ベッドに横たえる。 
      「ん…」 
      微かに声を発して寝返りを打つリョーマを見つめながら、手塚はなぜか少しだけ安堵している自分に気付く。 
      先ほどの口づけで、リョーマを抱きたいと思ったことは確かだった。 
      しかし今、眠ってしまったリョーマを無理に起こしてでも自分の欲求を満たしたいとは思わない。 
      たとえば、そんな風に求めても、リョーマは手塚を受け入れるだろう。 
      だが、それは自分の望む、リョーマとの本当の関係ではないとも思う。 
      「…おやすみ」 
      手塚はリョーマの頬に口づけると、部屋の明かりを落として、リョーマの隣に身体を滑り込ませた。
 
 
  翌朝、ポッカリと目を覚ましたリョーマは、見慣れない天井を見つめて、しばし疑問符を飛ばし続ける。 
      しかし、脳が覚醒し始めると昨日の光景が徐々に蘇り、ここが手塚の家で、風呂に入っている手塚を待ってベッドに寄りかかってからの記憶がないことを思い出した。 
      (オレ、寝ちゃったのか…?) 
      隣にぬくもりを感じて視線を移すと、眼鏡をかけていない手塚のアップがあった。 
      どくん、とリョーマの心臓が跳ねる。 
      どんな人間も寝顔は無邪気になると言うが、手塚の場合は少し違うように、リョーマは感じた。 
      手塚の寝顔は『無邪気』と言うよりはどこか『高貴』な雰囲気がある。 
      普段は眼鏡に隠されてしまうが、手塚は校内を見回しても比べられるものがいないほど整った顔立ちをしている。 
      不二のような優しい印象とは少し違う、また桃城のような精悍なものとも違う、完全なバランスを以て作られた彫刻のように美しかった。 
      見とれるようにしばらくリョーマが見つめていると、その視線を感じたのか、手塚の瞳がゆっくりと開く。 
      「おはようゴザイマス…」 
      手塚は一度瞬きをしてからリョーマにしかわからない微笑みを浮かべる。 
      「ああ…おはよう」 
      リョーマは何だかすごく幸せな気分になって微笑んだ。だが、昨夜のことは謝らなければならないだろう、と思う。 
      「ごめん……昨夜、寝ちゃったみたいで…」 
      「練習がきつかったのか?」 
      少し意地悪に聞いてくる手塚をちょっとだけ睨みながら、「そうじゃないけど…」と呟く。 
      「……別に構わん…気にするな」 
      「…ういっス」 
      「…朝食を済ませたらお前の家に行くか?」 
      「え?」 
      リョーマは驚いて手塚を凝視する。たった一晩で、しかも何事もなく、家に帰されてしまうのだろうか、と。 
      「なんだ?練習しないつもりか?それともたまには違うところがいいのか?」 
      「あ…」 
      自分の誤解に気付いたリョーマは「違うところがいいかな」と答えてうまく誤魔化した。しかし今朝の手塚は一枚上だった。 
      「たった一晩で帰すわけがないだろう……これ以上俺を飢えさせるなよ」 
      溜息をつきながらそんな殺し文句を言われたリョーマは、顔から火が出るほど赤面して枕に沈没した。 
      バスで20分ほど離れたところに公営のテニスコートがあるので、今日はそこで二人きりの『練習』をすることにした。 
      「ここ、よく使うんスか?」 
      「いや、最近は使っていなかった」 
      「ふーん…結構ちゃんと整備してあるっスね」 
      リョーマは片足でぴょんぴょんと跳んでコートの感触を確かめる。 
      「アップを兼ねて軽く打つか」 
      「ういっス!」 
      筋を痛めないようにストレッチをしてから、軽く打ち合いを始める。 
      軽く、と言っても端から見れば本気でやっているとしか見えないのだが、それでも見知った人間が見れば二人が「楽しんで」打ち合っているのがわかるほど、部活での練習の時とはまるで違う表情で二人はボールを追いかけていた。 
      申請してあった2時間があっという間に過ぎ、二人はコートを引き上げることにする。 
      「あっれ〜?おチビと手塚だぁ!」 
      聞き慣れた声に、手塚はまたしてもデジャヴを覚えるが、今度は思い出したくなかったというように額に手をやる。 
      リョーマはと言えば律儀に帽子を取ってペコリと頭を下げている。 
      「なんだ、君たちもここで練習していたの?英二が寝坊しちゃって僕達はこれからなんだけど」 
      「…寝坊したのは不二のせいだろ…」 
      珍しく歯切れの悪い調子で呟く菊丸を見て、リョーマと手塚はだいたいの出来事が想像できてしまった。 
      「……菊丸…無理はするなよ」 
      「うにゃ?」 
      「おや?越前君は全然平気みたいだね、手塚。もしかして昨夜は彼、寝ちゃったとか?」 
      こいつはどこかで見ていたんではないのか?と言う思いが手塚の脳裏を掠めたが、言葉にはせずに軽く睨み返す。 
      「おっと、時間が勿体ないな。行くよ英二。じゃあね、越前くん。今日は頑張ってね!手塚もほどほどに」 
      「な……っ?」 
      「……いらんことを…」 
      真っ赤になって狼狽えるリョーマを見てクスクス笑いながら、不二は菊丸の手を取ってコートの中へ入っていった。 
      「……ときどき俺は、不二が普通の人間に思えないときがある……」 
      「…そっスね…」 
      しばらくの間不二と菊丸の後ろ姿を見ていた二人は、ほぼ同時に溜息をついて更衣室に向かった。 
      ここは公営の施設にしてはかなり整っていてちょっとしたシャワー室も設えてあるので、二人は汗を流すためにシャワーを借りることにした。 
      「狭い…」 
      「贅沢を言うな」 
      汗をかいたままでいるのが苦手な手塚は、さっさとシャワー室に入ってゆく。 
      手塚を追いかけるようにリョーマも急いでウエアを脱いで後に続いた。 
      シャワー室の中は低めの衝立で簡単に仕切られた、一応『個室シャワー』が5つほど並んでいる。 
      そのうちの奥2つを使って、二人は身体を流し始めた。 
      「ねえ」 
      リョーマが衝立から顔を出して手塚に話しかける。 
      「なんだ?」 
      「誰もいないっスね」 
      「………ああ」 
      リョーマはニヤリと笑うと自分のところのシャワーを止めてしまった。 
      手塚が「まさか」と思うより早く、リョーマが飛び込んでくる。後ろから抱きつかれて、手塚は狼狽えた。 
      「え…越前っ!」 
      「…ちょっとくっつきたくなっただけ」 
      「人が来たらどうする」 
      「さーね」 
      クスクス笑いながらリョーマがきつくしがみついてくる。 
      「離せ」 
      「ヤダ」 
      「襲うぞ」 
      「………」 
      さすがに一瞬怯んで、リョーマが手を緩める。すかさず手塚はリョーマに向き直って乱暴に唇を奪った。 
      「んんっ!」 
      自分で仕掛けておきながら、まさか手塚が乗ってくるとは思っていなかったリョーマは驚きに目を見開いたまま口づけを受け続ける。伏せられていた手塚の瞳がリョーマを捕らえたのを見て、リョーマはその瞳のあまりの艶っぽさに瞬きを忘れた。 
      二人は見つめ合ったまま、深く舌を絡ませ合う。 
      「ん………っ!」 
      根負けしたのはリョーマの方だった。手塚の熱い視線に堪えきれなくなって、ギュッと目を閉じる。 
      それを見た手塚はゆっくりとリョーマの唇を解放した。 
      「こんなところで挑発するな」 
      「…う……いっス」 
      はあはあと息を弾ませながらリョーマは衝立に背を預けて、そのままズルズルとしゃがみ込んでしまった。 
      「冷えるぞ」 
      ぐったりしてしまったリョーマの身体を、腕を掴んで引き上げて自分と一緒にシャワーを浴びさせる。 
      「……大丈夫か?」 
      「…ういっス」 
      恥ずかしそうに俯いて返事をするリョーマの額にチュッと音を立ててキスすると、手塚は「出るぞ」と言ってリョーマの身体を支えながらシャワー室を後にした。 
      身支度を整えて施設を出ると二人ともかなりの空腹になっていたので、近くのファストフードでちょっと遅めになってしまった昼食を摂る。 
      「アンタもこーゆーの食べるんスね」 
      「お前たちほどではないがな」 
      お前たち、と言うフレーズで、リョーマは昨日の様々な光景を思い出し、胸に引っかかっていたことについて手塚に聞いてみたくなった。 
      「ねえ」 
      「ん…?」 
      「なんで昨日、すぐオレのこと誘ってくれなかったんスか?」 
      「………」 
      「それに、桃先輩に誘われているときに、何も言ってくれなかったのはなんで?」 
      言い終わるとリョーマは手塚を見据えたまま二つ目のハンバーガーにカプッとかじりついた。 
      「…お前をすぐに誘わなかったのは………あとで話す」 
      「なんで?」 
      「ここでは話しづらい。………桃城に誘われているときに何も言わなかったのは、お前なら自分で何とかすると思ったからだ」 
      手塚は少しだけ嘘をついた。 
      嫉妬して、リョーマと桃城の間に割り込んだ自分に、リョーマがどんな反応をするのか少し怖かった。自分の醜い部分をさらけ出したくなかったのかもしれない。 
      「ふーん」 
      納得したのか、それとも納得できなかったのか、リョーマはそれから少しの間黙って食べ続けた。 
      手塚も黙り込んでしまったため、二人は周りの雑音の中で自分たちだけ違う空気に包まれているような錯覚を起こす。 
      短いポテトを数本残したところで、リョーマはポテトを見つめたままぼそっと呟いた。 
      「嫉妬とか、…してくれないんスか?」 
      「…」 
      手塚はちょっと驚いてリョーマを見つめた。リョーマは上目遣いに、恨めしそうな目で見つめてくる。 
      そういえば、と手塚は思い出した。 
      先日、初めて二人で映画を見に行ったとき、リョーマは自分と話していた女子に嫉妬したと言っていた。女子だからと言うだけで、周りからすぐに彼女では?と認めてもらえるその同級生に嫉妬した、と。 
      素直に自分の想いをぶつけてくるリョーマが、手塚は少し羨ましかった。 
      何も隠さず、真っ直ぐに向かってくるその強さに、手塚は惹かれたのだと改めて思う。 
      「………それもあとで教えてやる」 
      手塚は想いを込めてリョーマを見つめ返す。じっと見つめていると、リョーマがふっと視線を外した。 
      「越前…?」 
      「………アンタに見つめられると……やばくって……」 
      「やばい?」 
      手塚は 何のことか一瞬わからずに聞き返すが、リョーマの様子を見て何となくその言葉の意味に気付く。 
      「なんでアンタの目は こんな簡単にオレのこと捕まえちゃうのかな…」 
      「…わからないのか?」 
      「え?」 
      リョーマは頬を染めながら手塚に視線を戻す。手塚は目を細めると「出よう」と言って席を立った。 
      それから何も喋らなくなってしまった手塚に、リョーマは少し不安になった。 
      傾きかけた陽の光が手塚の背中を照らし、リョーマはその眩しさになぜか切なくなった。 
      自分が見つめているこの背中は幻で、本物はもっとずっと遠い、手の届かない存在なのではないかと、そんな気までしてくる。 
      何となく確かめたくなって、目の前のシャツをそっと掴んでみると、それは幻ではなくちゃんと存在していてリョーマを振り返ってくれた。 
      「どうした?」 
      「…別に」 
      リョーマはシャツを掴んでいた手を慌てて離した。 
      そのままほとんど会話を交わさずに歩き続ける。バスに乗って、バスを降りて、途中のコンビニで各々の好みの飲み物を仕入れてから、二人は家に帰り着いた。 
      黙ったまま鍵を開けて玄関に上がり、再びドアに施錠した途端、手塚は大きく息を吐いた。 
      「部長?」 
      どうかしたのかと覗き込んだリョーマを、手塚はいきなり抱きしめた。手塚のバッグが下に落ちて音を立てる。 
      「ちょっ…!なに…!?」 
      リョーマは驚いて手塚を見上げようとするが、きつく抱きしめられていて身体が思うように動かない。 
      リョーマのバッグも足下に落とされる。 
      きつく抱きしめていた手塚の腕がふと緩んだかと思うと、言葉を発する間もなくリョーマは口づけられていた。 
      深く深く舌を絡め取られ、息が出来ずにリョーマが喘ぐ。 
      少し唇を離してはまた深く重ね、それを何度か繰り返されているうちにリョーマの身体から力が抜けてしまっていた。 
      長い長い口づけを終えて、手塚がそっと唇を離す。そのままリョーマの身体を再びきつく胸に抱き込んだ。 
      「リョーマ…」 
      熱く自分の名前を囁かれたリョーマは、しびれて動けない身体をぴくりと反応させた。 
      抱き込まれて密着した身体が手塚の部分的な熱を感じ取る。 
      「もう限界だ……お前が欲しい…」 
      手塚が苦しそうに囁いた。 
      力が抜けきって思うように動かない腕をやっと手塚の背に回したリョーマは、自分より大きなその身体を思いっきり抱き返した。 
      「オレも…昨日からずっと、アンタが欲しかったよ」 
      少し掠れた声で、リョーマはそう応えた。                                     
 
 
  「……リョーマ…?」 
      手塚が見下ろすと、リョーマは頬を上気させ幸せそうにうっすらと微笑んだまま気を失っていた。 
      慌てて自身をリョーマから引き抜くと、その衝撃でリョーマがぴくりと動いた。 
      「リョーマ、大丈夫か?越前っ」 
      「あ……れ?…どうか…したんスか?」 
      きょとんとしたリョーマの様子を見て、手塚は安堵の溜息をつく。 
      「すまない……ここまで自分が抑えられなくなるとは……」 
      いきなり我に返ったように頭を抱えてしまった手塚を見て、どうやら自分が意識を飛ばしてしまっていたらしいことをリョーマは知った。 
      「だから言ってることとやること違いすぎるってば」 
      リョーマがクスッと笑う。 
      「………」 
      手塚はリョーマの隣に仰向けに寝ころんだ。 
      「…どこか痛みはないか?」 
      「……まだよくわかんない。しびれてる感じ」 
      その返事を聞いて、もう一度手塚は深く溜息をついた。 
      「…なんとなく…こんな事になるような気がして、お前を誘うのに躊躇いがあったんだ」 
      「………」 
      「お前の身体だけを求めているわけではないのに……触れてしまうと歯止めが効かない…」 
      「オレの身体の心配ならいらないっスよ」 
      「強がりを言うな」 
      手塚は起きあがって片膝を立てた。 
      「いつか、俺はお前を壊してしまうかもしれない」 
      「やってみなよ」 
      「……!」 
      リョーマはあちこちの鈍痛に顔を顰めながら身体を起こした。 
      「オレを壊すくらいの勢いで、俺のこと、好きになってよ」 
      「……リョーマ…」 
      「オレはもう、アンタを壊したいくらい、好きで堪らないんだけど」 
      ちょっと物騒な愛の告白をされて、手塚は黙り込んだ。 
      「…別にアンタの身体を壊したいって言うんじゃなくて、オレの場合は、アンタの外側の殻みたいなのを壊したいって言うか…」 
      「殻?」 
      「たとえば、今みたいに自分だけが悪いみたいに思うところとか……嫉妬したら嫌われるかも、とか思っちゃうところとか」 
      「!?」 
      ちょっと驚いて振り返った手塚にリョーマはニヤッと笑いかける。 
      「昨日…桃先輩とか不二先輩とか、菊丸先輩にも妬いたんじゃない?」 
      図星を指されて手塚はさらに黙り込んでしまう。 
      「ま、でも……そんなアンタが好きなんだけど」 
      リョーマは頬を染めて、上目遣いに手塚を見やった。 
      手塚は困ったようにリョーマを見つめ返したが、表情を和らげると軽く溜息をついた。 
      「かなわんな…」 
      「だからテニス以外ではオレの方が上手なんスよ」 
      「生意気を言うな」 
      そう言って手塚は言葉の割に包み込むような優しげな瞳をリョーマに向ける。 
      「風呂に…入るか?」 
      「シャワーでもいいっスよ」 
      「いや…今朝、出がけにタイマーをセットしてあったんだ…多分この時間ならもう大丈夫だ」 
      リョーマは「じゃあ入る!」と嬉しそうに言い、立ち上がろうとして、だが思いとどまった。 
      「どうした?」 
      部屋を出かかっていた手塚が、動かないリョーマを振り返って声をかける。 
      「……ない」 
      「え?」 
      「立てないっス!連れてってくださいっ!」 
      真っ赤になりながら唇を尖らせて拗ねたように言うリョーマに「だから強がるなと言っただろう」と言いながら手塚が歩み寄る。 
      手を差し伸べてもそっぽを向いて完全に拗ねてしまったリョーマを、手塚はいきなり抱き上げた。 
      「あっ!」 
      「手の掛かるヤツだ」 
      「…アンタのせいじゃん」 
      「………そうだったな」 
      ばつが悪そうに仏頂面になる手塚を見上げて、リョーマが吹き出す。 
      「あ、ねえ、もう一つ『後で教える』って言ってたことあったよね」 
      「…?」 
      「どうしてオレはアンタに見つめられると、すぐに『したく』なっちゃうんスか?」 
      周りに誰もいないせいか、リョーマの質問の仕方がキワドクなる。 
      「…知りたいか?」 
      「うん」 
      「簡単なことだ。俺が        」 
      その言葉を耳元に囁かれて、リョーマが驚いたように大きな目で手塚を凝視する。…が、みるみるうちに顔を赤くして俯いてしまった。 
      「わかったか?」 
      「…ういっス」 
      小さく返事をするリョーマに愛しさを募らせて、手塚はリョーマに口づけた。 
      「やっぱりアンタにはかなわないっス」 
      「当たり前だ」 
      先ほどまでの形勢を逆転させて、満足そうに手塚はリョーマを抱え直した。 
      夜はまだこれから。
                                            
  
      END    
      2002.4.02  
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