空の欠片たち


リョーマはまずバス停に向かい、バスに乗って駅へ向かった。
駅に着くと、辺りをさりげなく見回しながら切符売り場に向かい、切符の自動販売機に千円札を入れ、少し迷ってから金額のボタンを押して切符を買った。
自動改札を通り抜けるリョーマに続いて、手塚も定期券で改札を抜ける。手塚は少し離れてリョーマの行動を見ていたため、リョーマの買った切符の金額がわからなかったので、とりあえずこの駅でも使用可能な定期券で改札を通過し、あとで精算しようと思ったのだ。
階段を上って、リョーマは何本かあるホームを見渡す。少し考えてから、そのうちの一つに向かって歩き出し、ゆっくりと階段を下りてゆく。
降り立ったホームに、ちょうどほぼ同時に両方向から電車が入ってきた。
リョーマは自分の左右に入ってきた電車を交互に見ると、左側に停止した電車に乗り込んだ。
(この路線は………まさかな……)
ドアに凭れて外を眺めるリョーマを、手塚は軽く眉を寄せたままじっと見つめていた。
少しして、何度目かの車内アナウンスにリョーマが顔を上げる。
電車が駅に到着すると、リョーマは確認するように駅名を見てからホームに降りた。そして再び発車した電車を見送って、リョーマはゆっくりとホームの中央の階段へと向かう。
階段を上りきると自動改札の前で立ち止まり、軽く息を吐いてから切符を入れ、ゲートが開くのを確認してからリョーマは歩き出した。
手塚も自動改札機に定期券を差し込んで通り抜ける。ここは電車賃の精算の必要のない駅だった。
改札の前で左右に分かれた出口を見つめ、リョーマが考え込んだ。そんなリョーマを後ろから見つめながら、手塚はますます眉間にしわを寄せる。
ここまで、リョーマは一度も手塚を振り返らない。
だが、リョーマが『振り返らない理由』が、だんだん手塚にはわかってきた。
向かう出口を一方に決めたリョーマが、行く手を睨むような目つきで歩き出す。手塚も黙ってリョーマに続いた。
駅を出て、目の前のロータリーに待機するバスの中から一つを選び出し、リョーマがゆっくりとステップを上がる。料金を払って後部座席へと向かうリョーマをじっと見送り、手塚も同じようにバスに乗り込んだ。
程なくしてバスが発車すると、電車に乗っていた時のように、リョーマは窓の外をじっと眺める。乗客がまばらだったので、手塚はリョーマと少し距離を置いて座席に着いていた。
数分乗ったところで、車内のアナウンスに反応したリョーマがブザーを押した。
すでにリョーマの向かう行き先に見当のついた手塚は、胸にこみ上げる想いにきつく目を閉じた。
バスから降りたリョーマは、また左右の道を選び始める。だがすぐに左の道に頷くと、足を踏み出した。
リョーマは次第に、あまり辺りを見回さなくなった。前方を見据えて、迷うことなく歩いてゆく。
何回かあった曲がり角も、リョーマが立ち止まったのは車が来ないかの確認のためだった。
そうして歩いていくうちに、リョーマは道の向こうに一軒の和風の一戸建てを見つけて立ち止まった。暖かそうな光が窓に灯るその家を見つめ、軽く息を吐くと真っ直ぐにそこへ向かって再び歩き始める。
家の前まで来て表札を確認すると、リョーマはゆっくりと手塚を振り返った。
「やっぱりオレはあの日、ここへ……アンタの家へ行こうとしていたんだね」
「………」
手塚はきつく眉を寄せてリョーマを見つめていた。
「記憶が戻った訳じゃないんだ………でも、オレの目と耳と足が、ここを覚えていた」
「………」
「すごいよね……カラダが覚えちゃうくらい、オレはここに何回も来たんでしょ?」
手塚は何も言えずにただリョーマを見つめた。
「何回も来ちゃうくらい……オレはアンタが好きだったんだ……」
リョーマはゆっくりと瞬きをしてから、自分を見つめる手塚の瞳を真っ直ぐ見つめ返した。
「目と、耳と、足だけじゃないっスよ………オレの心も、アンタのこと覚えてる」
瞳を揺らしながら、リョーマが小さく微笑んだ。
「アンタが好きだ」
手塚はきつく目を閉じる。
「アンタが……誰よりも、大好きなんだ」
手塚のバッグが、音を立てて足下に落ちた。
「…アンタのこと……好きって……思い出しただけじゃ、ダメっスか?」
ゆっくり瞼をあげて、手塚はリョーマを見た。
「それだけで……充分だ……」
瞳を揺らしながら見つめてくるリョーマの頬に、手塚がそっと手を伸ばす。
「リョーマ…」
「あ………」
優しく名を呼ばれ、切なげに微笑まれて、リョーマの胸は呼吸が止まりそうなほど強く締め付けられた。そしてそのあまりの苦しさに、リョーマは改めて、自分がどれほどこの男のことを好きでいるのかを思い知った。
手塚はリョーマの頬に触れていた指先を躊躇いがちにずらして、柔らかなその唇に触れてゆく。親指で下唇を辿り、人差し指でもう一度なぞる。
触れてくる指先の、あまりの心地よさにリョーマはうっとりと目を閉じた。
「キスを……してもいいか……?」
リョーマは頬を染め、目を閉じたまま小さく頷く。
唇に触れていた指先がゆっくりと首筋に移り、そのままリョーマの身体は手塚の方へ引き寄せられる。
「リョーマ…」
熱く名を囁かれ、唇が重ねられてゆく。
そっと、唇を触れさせるだけの口づけを繰り返したあと、手塚はリョーマの唇に優しく歯を立てた。
「…ぁ…」
リョーマの身体に小さな震えが走った。たまらずに手塚の背に手を回して制服のシャツを握りしめる。
薄く開かれたリョーマの唇へ、手塚は誘われるように深く口づけてゆく。驚いて逃げようとする柔らかなリョーマの舌を絡め取り、何度も角度を変えては甘く吸い上げた。
「う…っん…」
「リョーマ…」
口づけの合間に掠れた声で名を囁かれ、リョーマの身体が手塚の腕の中へ崩れ落ちてゆく。
「だ……め…っ、立って……ら…な…」
手塚は名残惜しげにそっと唇を離し、リョーマの身体をしっかりと支えた。
軽く息を弾ませて、リョーマがうっすらと目を開ける。
「……こんなキス……どこで、…覚えたんスか…」
「…お前とだ」
「え……」
手塚は微笑みながらリョーマの額に優しく口づける。
「家に入ろう。お前が来ると、母も喜ぶ。立てるか?」
「…うん」
リョーマは何とか一人で立つと、バッグを拾い上げる手塚をじっと見つめた。
「…なんだ?」
自分を見つめるリョーマの視線に気づいて、手塚は小さく微笑む。
「なんか、夢みたい…」
「え?」
リョーマは手塚から目を逸らし、赤い頬をさらに赤くする。
「アンタが…オレのSTEADYだなんて………嬉しすぎ…」
手塚は目を細めると、リョーマの頭を抱き寄せた。
「それはこっちの言う台詞だ」
そのまま身を屈めて口づけてくる手塚にリョーマは腕を回してしがみついた。
「どうしよう……アンタが好きすぎて…どうにかなりそう……」
「……それも、俺の台詞だ」
吐息混じりに耳元で囁かれ、リョーマの鼓動はいっこうに静まってくれない。
手塚は小さく笑ってリョーマから身体を離すと、玄関の引き戸を静かに開けた。




突然の来訪にもかかわらず、彩菜は本当に嬉しそうにリョーマをもてなした。
「…これ、なんスか?」
見たこともない一品を見つけ、リョーマはその料理を覗き込みながら彩菜に尋ねる。
「ああ、それね、『うな茶』って言うの。国光が大好きだから作ってみたんだけど…」
「うな茶?」
彩菜を見上げてから手塚に視線を向けると、手塚が「とにかく食べてみろ」というように軽く頷いた。
「………ん、へーえ、おいしいっスね!」
リョーマの反応に彩菜が嬉しそうに微笑む。
「よかった。日本を離れたら当分こんな料理は食べられないと思っ………」
言いかけて、彩菜が小さく「あ」と言いながら口元を押さえた。
リョーマの箸が一瞬止まりかけるが、聞いてなかったように平然と料理を一気に平らげて見せた。
「はあ、おいしかった!ごちそうさまでした」
「…ええ」
満足したように微笑みかけてくるリョーマに、彩菜は柔らかく微笑み返した。
「ごちそうさまでした。……母さん、お心遣い、ありがとうございます」
手塚の言葉に、彩菜が微かに瞳を揺らすが、ニッコリと笑うと「どういたしまして」と答えた。
「あなたが戻るまでには、もっと上手に作れるようになっておくわね。…味見は越前くんにお願いしようかしら?」
「いーっスよ。喜んで」
楽しそうに声を立てて笑う彩菜を見て、手塚は安心したように小さく微笑んだ。
「あ、ねえ、越前くん」
「なんスか?」
「今日、泊まっていける?」
「え……」
彩菜の言葉にリョーマは驚いて目を丸くした。手塚もリョーマの横で目を見開いている。
「国光が明日出発するのは知っていると思うけど……せっかく来てくれたんだし……二人でいろいろ話すこともあるでしょう?」
「…母さん…」
僅かに動揺する手塚をちらっと見やったリョーマが、テーブルに手をついて立ち上がった。
「いいっスか?」
「ええ。越前くんこそ、いいの?」
「当分、部長のしかめっ面が見られないかと思うと名残惜しくて」
リョーマは笑いながらそう言うと、彩菜に「電話貸してください」と断ってからダイニングを出て行った。
「…勝手なことしてごめんね、国光。でも越前くんと一緒のあなたはいつも、本当に優しく笑うから、私、嬉しくて……」
「母さん…」
「これからしばらくの間、あなたは一人で頑張らなきゃいけないのよ。だから、今日くらいは楽しく笑っていて欲しいの」
手塚は彩菜を見つめた。
(俺はこの人に心配ばかりかけている…)
「……俺も……越前には、まだ話したいことがあったので……ありがとうございます」
そう言って手塚に小さく頭を下げられた彩菜は嬉しそうに微笑んだ。
(貴女の息子として生まれたことを、心から感謝します)


リョーマが自宅に電話をかけると電話口に南次郎が出た。
「今日、部長のとこに泊まるから」
『帰ってきていきなり出かけたと思ったらそれかよ、ったく不良息子が』
電話の向こうでぶつぶつと文句を言う南次郎の言葉にほんの少し悪いと思いながら、それでも今のリョーマは何よりも手塚の傍を選ぶ。
「ダメって言われても今日は帰らないよ」
『……ま、今度こそ暫しのお別れだからな、気の済むようにしろ』
「なんかそれ、前にも言われた気がする……」
リョーマは眉を寄せながら呟くように言った。南次郎は短く沈黙したあとで、微かに溜息を吐く。
『お前が事故る直前に俺が言ったんだよ。遠いドイツに行っちまう手塚とは暫しのお別れだってな」
「え……そのとき、オレは親父から部長のドイツ行きのこと、聞いたのかよ」
『ああ。そしたらお前が手塚のところに行くって、すっ飛んでいったんだ』
「……そっか…」
リョーマは、自分があの日手塚の元へ行こうとしていたという予測が間違いではなかったと知って嬉しくなったが、反面、その手塚を忘れることになった原因はもしかしたら自分の中にあるのではないかと感じて複雑な気分になった。
「…じゃ、親父、明日の朝、一旦帰ってから学校へ行くから」
『おう。手塚によろしく言ってくれ』
「わかった」
電話を切って、リョーマは溜息をついた。
(事故る前のオレは、部長のドイツ行きの件を知っていた……)
言うまでもなく、事故後にはそのことも思い出せない状態になっていた。
「………」
リョーマは一つの考えに行き着いて眉を寄せた。


「越前、風呂を使え。今日はお前も疲れただろう」
電話をかけ終わって戻ると手塚に風呂を勧められ、リョーマは素直に風呂に入ることにした。
湯船に沈み込みながら、リョーマはそっと自分の唇を指でなぞってみる。
(またあんなキスされたら……どうなっちゃうんだろ……)
想像しかけて、リョーマは慌てたように湯船に潜った。
「…ぷはっ」
少しして浮き上がると、リョーマは大きく息を吸ってゆっくり吐いた。何度か深呼吸して自分を落ち着けようとするが、なかなか心臓は静まってくれない。
(事故る前のオレは…部長とどこまでしたんだろう……)
自分を落ち着けたいのに、リョーマの頭の中は『落ち着かなくする原因』である手塚のことでいっぱいになったままだ。
(…こんなに好きなのに……どうしてオレはまだ、アンタと過ごした時間を思い出せないんだろう………)
リョーマはふと、先ほどの南次郎との電話のあとで行き着いた『原因』のことを考えた。
(”好きだから、忘れたかった”……)
もう一度ゆっくりと湯の中に潜り、ゆっくりと浮かび上がる。
いつの間にか、リョーマの鼓動は静まっていた。


リョーマが風呂から上がると、手塚の祖父である国一に続き、父親の国晴も帰宅してきた。
手塚が風呂を使っている間、リョーマが国一に捕まりリビングで話をしていると、彩菜がさりげなくリョーマを二階へと逃がしてくれた。
「お父さんたちにも邪魔させないようにするから、ゆっくり話しなさいね」
リョーマはちょっと困ったように小さく笑うと「ありがとうございます」と言って手塚の部屋に向かった。
手塚の部屋に入ると、懐かしいような、そして胸を締め付けるような甘い切なさがこみ上げる。
ゆっくりと部屋の中を見回して、その片隅に大きなトランクを見つけ、リョーマは瞳を揺らした。
(逢えなくなる……)
リョーマの中で、また一つパズルのピースが切なげな音を立てて嵌め込まれる。
軽く溜息をついてトランクから目を背けると、リョーマは本棚の下の方に何冊かのアルバムがあるのを見つけた。
リョーマはその中の一冊を手に取り、丁寧にそっと開いてみる。
そこには小学生くらいの手塚がいた。
入学式、運動会、王様の衣装を身につけて舞台に立つ姿、リョーマの知らない様々な手塚が、そこにはたくさんいる。
だがやはり多く枚数をとっているのがテニスのラケットを握っている手塚だった。
(この頃からしかめっ面してる)
真面目な顔でカメラに視線を向ける手塚を、リョーマは微笑みながら見つめた。
最後まで見終わると、また別のアルバムを開く。
今度は青学の制服を着た、リョーマと同じ一年生の頃の手塚がいた。
学ランの写真が夏服の半袖シャツに替わると、リョーマは手塚の左肘に医療用らしいサポーターが着けられているのを見つけ、微かに眉を寄せる。
(これは………)
その怪我が引き金となって、手塚が長い治療生活を余儀なくされたと、誰かが言っていたのをリョーマはぼんやりと思い出した。
(そうか……このせいで……)
リョーマは手塚に怪我を負わせたという、会ったことのない『先輩』にひどく憤りを感じた。しかし、今更どうにもできることでもないと思い、軽く溜息をついてページを捲る。
中学に入って写真を撮る機会が減ったのか、手塚はどんどん現在の風貌に近づいてくる。
入学式という文字が掲げられたステージでマイクに向かう手塚を、リョーマは見たことがあるような気になった。
(もしかして、オレが青学に入った時の…?)
そこまで見たところで、手塚が部屋に戻ってきた。リョーマが手にしているアルバムを見て、手塚は小さく笑った。
「何を見ていたんだ」
咎めるわけではなく優しくそう言いながら、リョーマの後ろから手塚もアルバムを覗き込む。
「……懐かしいな…。お前は確か向かって左側の前の方に座っていたな」
「え?オレのこと知ってたんスか?」
手塚は苦笑しながら頷いた。
「…お前が青学に入るという情報は、最初に乾が持ってきたんだ。写真まで添えてな。…さらには朝一番に登校してお前のクラスを調べ、式での座る場所まで俺に伝えてきた」
「…なにそれ」
「他のテニス部員たちには、なぜか知らないフリをしていたようだが…乾の考えていることは時折よくわからん」
リョーマがククッと肩を揺らして笑う。
「でもこの写真、いいアングルで巧く撮れてるっスね」
「写真部のヤツが撮ってくれたんだ」
「ふーん」
それからすぐ写真は途切れてしまった。
「終わり?」
「…写真は何枚かあるが…整理してアルバムに貼る時間がなくてな……ああ、そうだ…不二が撮ったのもある。見るか?」
「不二先輩が?へえ、見てみたいっス」
手塚は立ち上がると机の引き出しから水色の封筒を取り出した。
「いつ撮ったんスか?」
「ひと月近く前、か……」
「ふーん……どっかのテーマパーク?」
「ああ」
写真をめくりながら尋ねるリョーマに、手塚はベッドに腰掛けてタオルで髪を拭きながら答えた。
「……四人で行ったんスか?」
「…ああ。不二が誘ってくれたんだ」
「…ふーん…」
写真の中には自分の記憶にない『越前リョーマ』がたくさん写っている。
カメラを見つめる時はどれもきつい瞳をしているのに、手塚を見つめる時だけは楽しげに瞳を輝かせている『越前リョーマ』が。
あからさまに『手塚に恋をしている』自分を見せつけられた気がして、リョーマはほんのりと頬を染める。
手塚に気づかれないうちにと、そそくさと写真をめくって見つけた菊丸の戯けた顔に、リョーマは思わず吹き出した。
「…ぷっ、なにこれ、菊丸先輩、変な顔してる」
そんなリョーマを見つめて、手塚も柔らかく微笑んだ。
「あ……」
だが、ふいにリョーマの手が止まる。
不審に思って手塚がリョーマの手元を覗き込むと、そこには、不二に隠し撮りされた自分たちの甘やかなシーンが写っていた。
「あ……」
「これ………オレとアンタ……だよね…」
「………ああ」
気まずそうに手塚が口ごもる。そんな手塚を見て、リョーマがくすっと笑った。
「結構大胆なことしてたんスね、オレたち」
「いや違うんだ、それは、気分が悪くなった俺をお前が……」
リョーマがまたくすっと笑った。
「いい写真っスね」
「………」
手塚は小さく目を見開いてリョーマを見た。
「…やはり同じことを言うんだな」
「え?」
手塚は目を伏せて微笑むと、軽く溜息をついた。
「どんな反応をするのか見たくて、不二がお前にその写真を見せた時にもお前は『いい写真だ』と言って笑ったそうだ」
「…当たり前じゃん。同じ『オレ』なんだから」
きょとんと見つめ返してくるリョーマをじっと見つめてから、手塚は小さく「そうだったな」と呟いた。
「違う人間になったかと思ったんスか?」
「………いや…」
短い沈黙のあとで、手塚がすっと立ち上がった。
「何か飲むか?」
「え、あ、うん」
「適当に持ってくるが、それでいいか?」
「いいっスよ」
手塚は頷くと、部屋から出て行った。
リョーマは見終わった写真を封筒に入れ直して手塚の机の上に置く。
(違うのかな……前のオレと、今のオレは…)
違うとしたら何が違うのだろう、とリョーマは考えた。だが、今のリョーマにそれがわかるはずもない。
リョーマはもう一度、水色の封筒の中から先ほどの自分たちの写真を探し出して見つめた。
そこには、全てを許し合ったような瞳で見つめ合う『恋人たち』が写っている。
きっとこのときの自分は、手塚以外見ていなかっただろうとリョーマは思う。そして手塚の声以外、耳に入ってこなかったのだろう、と。
指先に優しく絡めた手塚の髪に、そして膝の上の手塚の重みに、写真の中の『越前リョーマ』は溢れるほどの愛しさを感じていたに違いない。
(部長のことが好きだ、って顔に書いてあるみたいだ)
そして手塚の瞳も、リョーマへの愛しさに満ちている。
今のリョーマを見つめる手塚の瞳も、もちろん優しさに溢れている。だが、写真の中の手塚の瞳と何かが違うように、リョーマは感じてしまった。
途端に、リョーマの心に切なさが広がる。
(何が足りないんだろう……)
その『何か』が、もしかしたらなくした記憶を取り戻すための最後のひと欠片なのかもしれない、とリョーマは思った。
リョーマがもどかしさに溜息をつくと、ほぼ同時に背後でドアが開いて手塚が戻ってきた。
手に持っていた写真を慌てて封筒の中にしまってからリョーマは手塚を振り返る。
「一本残っていたぞ。ほら」
手塚がファンタの缶を差し出す。
「ありが…と………」
「ん?どうした?」
ファンタを受け取った拍子に、何かに気づいたらしいリョーマがじっと自分を見上げてきたので、手塚は怪訝そうにリョーマの瞳を見つめ返した。
「二人の時、オレはアンタのこと、なんて呼んでた?」
「え?」
「まさか『部長』じゃないっしょ?………ファーストネーム、呼んでた?」
手塚は目を見開くと、リョーマから微かに視線をずらして「ああ」と答えた。
「国光」
「ん?」
「んー…なんか違うな……KUNIMITSU?……違う……」
「……何が違うんだ?」
ちょっと呆れたように溜息をつきながら手塚はベッドに腰掛けて、自分の持ってきたスポーツドリンクの封を切った。
「くにみつ……」
瞬間、ハッとしたように手塚の動きが止まる。だがすぐに、手塚は自分の気を紛らわせるかのようにペットボトルを口に運んだ。
そんな手塚の様子をじっと見ていたリョーマは小さく溜息をつくと、自分もファンタのプルタブを引っ張って小気味よい音をさせた。
自分の手の中のファンタの缶を一瞬見つめ、一口飲んでからリョーマが静かに口を開く。
「あのさ…」
「なんだ」
手塚はリョーマを見ずに答える。
「さっき、……事故る前のオレと今のオレは同じだって言ったけど……本当は違うかもしれないっス」
「え?」
手塚が軽く眉を寄せてリョーマを見た。
「いや、たぶん、違うんだ……と…思う」
「リョーマ…?」
「ここにいる『オレ』は、アンタとたくさんの時間を共有した『アンタの越前リョーマ』じゃないってことっスよ」
リョーマが手塚を真っ直ぐに見た。手塚もリョーマを見つめ返す。
「…どういう意味だ?」
「今のオレはアンタのものじゃない。だって、アンタと過ごした時間なんて、ほんの二、三日分しか記憶にないんだから」
「………」
「だけどっ」
手にしていたファンタの缶を机に置くと、リョーマは手塚の傍に歩み寄った。
「だけど、ここにいる『越前リョーマ』も、アンタが好きなんだ」
手塚は大きく目を見開いた。
リョーマはふっと瞳を和らげる。
「アンタに二度も恋をしちゃったんだけど………どうしてくれんの?」
「!」
「このまま記憶が戻らないかもしれないなら、今アンタの目の前にいる越前リョーマを、アンタのものにしてよ」
「リョーマ…」
微笑んでいたリョーマの瞳が、大きく揺れた。
「こんな中途半端なままオレを置いていくなよっ!」
リョーマは手塚に思い切りしがみついた。手塚の手からペットボトルが滑り落ちる。
必死に自分に縋りついてくるリョーマの身体を、手塚はそっと抱きしめた。
「これはお前の…『越前リョーマ』の本音……なのか?」
リョーマは少しの間沈黙すると、ゆっくりと手塚から身体を離してその場に座り込んだ。
「アンタの肩は…専門家に診てもらって、ちゃんとした設備のあるところで、じっくり治した方がいいって……そのためには、アンタが安心して治療に専念できるように……オレたちが……オレが、頑張らなきゃいけないって……頭ではわかっているけど……」
「リョーマ……」
「でも、オレには、アンタと一緒にいた時間の記憶がないんだ……何もないのに……何を支えにすればいいんだよ…」
「………」
手塚はきつく眉を寄せた。だが、悔しげに俯いて唇をかむリョーマの頬を両手でそっと包み込むと、ゆっくりと上向かせる。
自分を映し込む大きな瞳を間近で見つめ、手塚は瞳だけで微笑んだ。
「……確かに、遠く離れて暮らしているうちに、いつしか相手を想う気持ちも、この手のぬくもりも、曖昧なものになっていってしまうのかもしれない」
リョーマはきつく眉を寄せる。
手塚は、そんなリョーマの心の奥に、言葉を届けたいと思う。
「たとえば今、俺がお前と身体を繋げて所有の宣言を高らかに叫んだところで、それは変わらない。良い意味でも悪い意味でも、人の想いというものは変わっていくものなんだ」
手塚を映すリョーマの瞳が切なく揺れる。
「だがそれは、『恋愛』という一つの関係においての話だ」
「……え?」
訝しげに手塚を見つめ直すリョーマの瞳に、一瞬煌めきが走る。
「お前は今日、俺と戦って、何を得た?」
両手をそっとはずしながら、手塚は強い瞳でリョーマを見た。リョーマは小さく目を見開く。
「それは……うまく、言えないけど……アンタのショットを打ち返すたびに…オレも強くなろうって……アンタがオレの前にいる限り、アンタに追いつけるように、……そうしていつかは、アンタに勝つだけじゃなくて、もっともっと強くなって、『上』に行きたいって思った」
手塚はゆっくりと、そして大きく、リョーマの瞳を見つめながら頷いた。
「俺たちの関係は、単なる恋愛だけのものではないはずだ。だから俺たちは、自分たちで望まない限り、この絆が断ち切れるようなことにはならない」
「…っ」
リョーマの瞳が目一杯見開かれ、次第に大きく揺れながら輝き始める。
「お前が俺を追う限り、そして俺がお前に勝ち続けるだけでなく、さらなる飛躍を目指す限り、俺たちはいつでも相手のことを想い、考え、支えにしていくはずだ」
「アンタに、勝ちたいと…思う、気持ち…」
手塚はもう一度、深く頷く。
「その想いがある限り、俺たちはどんなに遠く離れていようとも、常に心は共にある」
リョーマの瞳に強い光が灯り始める。
「それに、俺は少し自惚れている」
「え…?」
手塚は瞳を和らげてリョーマを見つめた。
「記憶という拠り所がなくてもお前が俺の家に辿り着いたように、俺の存在はお前の心の奥に、深く刻みついているのだと」
リョーマは少し照れたように小さく微笑んだ。
「だから、俺たちは、前にだけ進めばいい。俺たちの絆の証しも、未来も、自分たちの『前』にしかない」
真っ直ぐ手塚を見つめるリョーマの瞳に強い光が満ちてゆく。
「たとえ立ち止まることがあっても、後ろを見る必要はない。前だけを見つめろ」
揺るぎない手塚の瞳に見つめ返されて、リョーマの心に言葉にならない熱い想いと、限りない安心感が湧き上がる。
「くにみつ…」
「ん?」
リョーマは頬を染めて立ち上がると、手塚の横に腰掛けた。
「やっぱ、アンタはすごいね。オレが二回も好きになるはずっスよ」
「そんなことはない」
リョーマが座り込んでいたあたりを見つめながら、手塚は呟くように言う。
「お前の記憶がないと知った時、俺はこのままお前とはただの『部長と部員』に戻った方が良いかもしれないと考えた」
「え…」
驚いて視線を向けるリョーマと視線を合わさずに、手塚は続ける。
「その方がお前を悲しませないかもしれない、と……そう思いながら、本当は、お前の傍を離れなくてはならないつらさから、俺の方が逃げようとしたんだ」
「………」
「だが、俺は逃げてはいけないと思った。だから、逃げないと決めた」
リョーマはじっと手塚の言葉に耳を傾けた。
「今回のことだけじゃない。きっとこの先も、俺たちにはつらいことがたくさんあるはずだ。その度に弱気にならないために、俺は今日、お前に試合を挑んだんだ」
手塚は軽く目を閉じた。
「今日の試合でお前と俺の『新たな絆』を見出し、そして、それを守り続けることができるだけの、お前と俺の『心の強さ』を確かめたかった」
「絆と、強さ…」
「俺たちは、青学という名を背負った同志であり、恋愛関係のパートナーであり、そしてもうひとつ、近い将来俺たちは、テニスプレーヤーとして、互いが最大のライバルになる」
ゆっくりと、手塚がリョーマに視線を向ける。
「一人の男として、俺はお前を愛している。そして、一人のテニスプレーヤーとして、これからも俺はお前と戦い、勝ち続けたいと思う」
リョーマは唇を引き結んで、手塚を見た。
「その想いはどちらも、きっと一生変わらない。………俺は、そう確信した」
じっと手塚を見つめていたリョーマが、ふっと強気な笑みを浮かべた。
「I want to become your greatest rival……not one in many rivals but only one. 」
「……それはお前次第だ」
「…そっスね……」
言葉で突き放しても、手塚の瞳はリョーマへの信頼に満ちている。
リョーマには、その手塚の想いが手に取るようにわかる気がした。
「次に会う時、オレはアンタを倒すよ」
「やってみろ」
挑むような瞳で不敵に笑うリョーマを、手塚も揺るぎのない自信に満ちた瞳で見つめ返す。
「次は左で行く。覚悟しておけ」
「アンタもね。オレの強さに驚くかもよ」
手塚はふっと微笑んだ。
「楽しみにしている。お前と全力で戦える日を…」
「うん」
リョーマも微笑んだ。微笑みながら手塚の頬に口づけ、そっと首に腕を巻き付ける。
「…好きだよ、くにみつ…」
「リョーマ…」
二人はどちらからともなく唇を寄せ合う。
軽く唇を触れあわせるだけのキスから、次第に深く熱く、舌を絡ませてゆく。
「…くにみつ……っ」
手塚の唇が離れると、リョーマは切なげに瞳を揺らした。
「……」
手塚はもう一度深く口づけてからゆっくり唇を離し、軽く眉を寄せた。
「リョーマ……」
「ん?…なに?」
掠れた声で聞き返すリョーマの身体を、手塚はそっと胸に抱き込んでゆく。
「愛している……リョーマ……っ」
「オレも……くにみつが……くにみつだけ……」
「…っ」
手塚は熱い吐息を漏らしながらリョーマに深く口づけ、その身体をきつく抱き締める。
二人の鼓動が急速に高まってゆく。
「……オレの心臓の音、うるさい…」
「……俺もだ…」
ほんの少し離れた唇の隙間からそれだけ言うと、手塚はゆっくりとリョーマの身体をベッドに倒していった。
手塚の唇が頬を掠めて首筋に滑ってゆくと、リョーマはくすぐったそうに身体を捩った。
「あっ……やっ……くにみつ………っ」
「………」
リョーマの声に顔を上げた手塚は、じっとリョーマの顔を覗き込んだ。
手塚の視線に気づいたリョーマがきつく閉じていた瞳をゆっくりと開く。
躊躇う手塚の瞳に、リョーマは柔らかく微笑んだ。
「アンタと俺は『恋愛のパートナー』なんでしょ?だったら、何を躊躇ってるんスか?」
「………」
「……さっきみたいな回りくどい理由なんか、もうつけないっスよ……今は、ただ、アンタにたくさん触って欲しいんだ…」
手塚の瞳が揺れた。
「……ダメっスか?」
何も言わずに手塚がゆっくりとリョーマに覆い被さった。
   



       

「…約束、しようよ…」
「え…?」
呟かれたリョーマの言葉を、手塚はリョーマを抱き締めたまま聞き返した。
「帰ってきたら、真っ先に、オレと試合、しよう…全力で」
手塚は一瞬目を見開き、そして、ゆっくり閉じた。
「ああ。帰国の目途がついたら、誰よりもまずお前に知らせる」
「誰よりも…?」
手塚は少しだけ身体を離してリョーマを見つめた。
「そうだ。誰よりも先に、お前に知らせる」
「家族、よりも…?」
「ああ」
リョーマが瞳を揺らしながら微笑む。
「ダメじゃん。オバサンだって心配してるんだから」
「それでも、だ。俺は我が儘なんだ」
クスクス笑いながら、リョーマが手塚の胸に顔を埋める。
「……嬉しい」
震えそうになる声で小さく小さく呟いたリョーマを、手塚はもう一度しっかりと抱き締める。
「試合がすんだら、お前を抱く」
「…いいっスよ。そっちも楽しみにしてる」
肩を揺らして笑いながらリョーマがそう答えると、手塚は真面目な顔でリョーマの瞳を覗き込んだ。
「俺は本気だぞ。どんなに試合がハードでも、その日は寝かさない。覚えておけ」
リョーマは紅潮した頬をさらに赤く染めて手塚を見つめた。
「……トレーニングメニューに体力上げるヤツ、入れとくっス」
「…良い心がけだ」
二人は少しの間見つめ合ってから同時に小さく微笑んだ。
「ねえ」
再び強く抱き締められながらリョーマが吐息混じりに呟く。
「とりあえず、今、この状況をどうにかしてくれない?………アンタが中にいるだけで、またイっちゃいそうなんだけど…」
「イっていいぞ。何度でも」
言いながら手塚がゆっくりと腰を左右に揺らす。
「あ……ん、…アンタのが……気持ちよすぎて死にそう……」
手塚はちょっと頬を染めてリョーマを見た。
「そんなに感じるのか?」
「ん………やっぱ…オレの身体って、アンタに合うように…できているんスね」
少しずつ荒くなる息を抑えながらリョーマが悪戯っ子のような笑みを浮かべる。
「……そうかもしれないな」
手塚は目を細めると、リョーマの腰を撫で上げた。
「あ……だから………早く、してよ」
リョーマの内部がヒクヒクと蠢いて手塚を誘う。手塚は誘われるまま、無言で腰を動かし始めた。
互いの唇から甘い吐息が漏れる。
「くにみつ…っ」
「リョーマ…」
深く深く口づけて甘く熱く舌を絡め合う。
二人はそのまま夜明け近くまで繋がり合って熱を共有した。

止まるはずのない時間の流れを、この夜だけは忘れたいと思いながら………






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