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  朝の光を感じてリョーマはゆっくりと目を開いた。 
      長い長い眠りから覚めたような不思議な感覚に包まれる。 
      (あれ…?) 
      天井を見つめてリョーマは内心首を傾げる。 
      知らない部屋ではないが、どうして自分がここにいるのか思い出せない。ゆっくりと横を向いて、そこにいて当然の恋人の横顔を見つける。 
      (いつ来たんだっけ……昨日は何してた…?) 
      手塚を起こさないようにそっと身体を起こすと、一瞬、軽い眩暈のような感覚がリョーマを襲った。 
      額を手で押さえてしばらくその感覚に耐えてから、ゆっくりと目を開ける。 
      (くにみつ……) 
      しばらく手塚の寝顔を見つめ、何気なく部屋を見回したリョーマはドア近くに大きなトランクを見つけた。 
      「あ………」 
      途端に自分がここに来ようとしていた理由を思い出し、リョーマは眉を寄せた。 
      (やっぱりドイツ……行くのかな……) 
      南次郎に手塚のドイツ行きの件を聞かされて、それを確かめようと家を飛び出したところまでは覚えている。しかしその先の記憶が曖昧になっている。 
      (家を出て……くにみつの家が見えて……) 
      リョーマは溜息をついて、トントンと自分のこめかみを指先でつついてみる。 
      (あ……そうだ、急に車が突っ込んできて…避けたところに猫がいたんだ…) 
      現像液の中で印画紙に絵がゆっくりと浮かび上がるように、リョーマの中で記憶が鮮明になってくる。 
      猫を避けてバランスを崩した直後に感じた頭部への痛み。誰かの叫ぶ声。間近で止まった救急車のサイレンの音。 
      (じゃあなんで、オレはここに……) 
      「起きたのか?」 
      ふいに手塚の声がして腕を引かれ、リョーマの身体がベッドに倒れ込む。 
      「…おはよ…」 
      「ああ、おはよう」 
      言いながら手塚が優しくリョーマの額に口づける。 
      「あの、さ…」 
      「ん?」 
      リョーマは手塚を上目遣いにチラッと見やってから言いづらそうに口籠もった。 
      「…なんだ?」 
      優しい声で問われて、リョーマは意を決したように手塚を見た。 
      「オレ…なんでここにいるんスか?」 
      「え?」 
      手塚が大きく目を見開く。 
      「ここに来ようとしていたのは覚えているんだけど、確かそのとき突っ込んできた車を避けて頭打って………それがなんでアンタとベッドにいるわけ?」 
      「思い出したのか……?」 
      「なにを?」 
      「俺のことを」 
      「は?」 
      きょとんと目を丸くしてリョーマは手塚を見つめる。手塚は溜息を吐くと目を閉じて仰向けになった。 
      「……なんかあった…?」 
      「…お前は頭を打って記憶をなくしていたんだ……青学に入ってからあとの記憶を、すっかりとな」 
      さらに目を見開いてリョーマは手塚を見た。 
      「なにそれ……ホント?」 
      「ああ」 
      「じゃ、尚更なんでここにいるわけ?……しかも…ハダカ…」 
      「……いろいろ…あったんだ」 
      困ったように微笑みながら手塚が答える。 
      「まさか何も覚えていないオレを無理矢理……」 
      「ばか」 
      手塚はリョーマの額を軽く小突いてから身体をリョーマの方へ向けた。 
      「記憶をなくしていた間のことは…覚えていないのか?」 
      「え………うん……ごめん」 
      「そうか……いや、いいんだ。記憶が戻ろうが戻るまいが構わないと思っていたからな…」 
      そっとリョーマを引き寄せて、手塚が柔らかく口づける。 
      リョーマはひどく切なくなって瞳を揺らした。 
      「記憶、なくしていたって……アンタのことも?」 
      「ああ」 
      「……でも、ここにこうしてアンタといるってことは……」 
      手塚が優しく微笑んだ。 
      「そうだ。俺たちはもう一度出逢って、二度目の恋をした」 
      「………」 
      リョーマがほんのりと頬を染める。 
      「…何度出逢っても、オレはアンタのことを好きになるよ。……でもできれば…ずっと傍にいたいけど…」 
      「……」 
      「いつ、行くの?」 
      部屋の隅にある大きなトランクを見ながら、リョーマが呟いた。 
      「…今日だ」 
      「え……っ」 
      大きな目をさらに見開いてリョーマが手塚を見た。しかし、みるみるその瞳が切なげに伏せられてゆく。 
      「…そっか」 
      そんなリョーマを見て、手塚は黙ってその身体を抱き締めた。 
      「…昨夜……お前と約束を交わした」 
      「約束?」 
      手塚は頷く。 
      「それを…思い出してくれ。今じゃなくてもいい、俺が帰るまでに…思い出しておいてくれ」 
      「…大切な、こと?」 
      ゆっくりと腕をほどいて、手塚はリョーマの瞳を真っ直ぐ見つめる。 
      「そうだ」 
      「……」 
      揺れていたリョーマの瞳が、やがて強い光を取り戻す。 
      「うん…わかった。絶対、思い出す」 
      手塚は微笑むと、祈りに似た想いを込めてリョーマに深く口づけた。応えるリョーマの睫毛が小さく震える。 
      時間をかけて互いの唇を味わった二人は、甘い吐息と共にゆっくりと離れた。 
      「…もう、家に帰った方がいい…学校に行かなくてはならないだろう?」 
      何か言いかけたリョーマが視線を落として小さく頷く。 
      だが手塚は、チラッと時計に目をやると、いきなりリョーマを組み敷いた。 
      「え?な…に」 
      「…まだ少しだけ時間がある………いいか」 
      リョーマはふっと笑うと手塚の首に腕を回した。 
      「今、その口で帰れって言ったくせに」 
      「時間は有効に使う主義だ」 
      「うん、賛成」 
      「リョーマ…」 
      それから少しの間、二人は全く会話をせずに、互いを貪り合った。 
      会話を交わす時間さえ惜しいと二人は思った。 
      そうして二人は時計のアラームがタイムリミットを告げるまで、ただひたむきに相手を感じ合った。
 
 
 
 
  気怠い身体を引きずってリョーマは何とか朝練に参加していた。 
      そこに手塚の姿はなく、レギュラーたちの表情も明るいとは言えない。 
      他の部員たちも、無口なリョーマが普段よりさらに口数が少ないため、その原因を思いやり、時折痛々しいものを見るような目でリョーマを見ていた。 
      フェンスに寄りかかって溜息をつくリョーマに、不二が柔らかく微笑みながら近寄っていく。 
      「疲れてるね。どうかした?」 
      「…べつに」 
      「あれ?」 
      不二が少し驚いて目を見開いた。 
      「なんスか?」 
      「記憶、戻った?」 
      今度はリョーマが目を見開いた。 
      「…なんでわかるんスか?」 
      「だって、表情にふてぶてしさが戻ってる」 
      「なにそれ」 
      憮然とするリョーマに、不二が「冗談だよ」と声を立てて笑った。 
      「でも、また『記憶喪失』なんスよ……事故から昨日までのことが思い出せなくて……」 
      「そうか…そっちの記憶が飛んじゃったんだ…」 
      笑みを消して真面目な顔でリョーマの横のフェンスに寄りかかると、不二は顎に手を当てて何か考え込み始める。 
      「…不二先輩が悩むこと、ないんじゃないっスか?」 
      「普段だったらね。面白いことになるから放っておくけど…」 
      その台詞にリョーマはげんなりと肩を落とす。 
      「でも今回は事情が違うよ」 
      「……」 
      「出発にはまだ少し時間がある。………キミも、思い出したいんじゃない?」 
      リョーマはチラッと不二に視線を送ってから小さく溜息をついた。 
      「でもいくら不二先輩でも、できることとできないことがあるでしょ」 
      言外に記憶を取り戻したいのだと含ませながら、リョーマはコートを見つめて素っ気なく言い放つ。 
      「まあね。………ああ、乾に相談するとか」 
      「…………なんで?」 
      「ショック療法。記憶を取り戻せるくらいすごい『飲み物』作ってくれるかも…」 
      「絶対、飲まないから」 
      リョーマは「そんなの飲み物じゃないっしょ」と呟きながらコートに入ろうとする。 
      「部活中のことなら話してあげられるけど?昨日の試合とか」 
      「試合?」 
      リョーマが不二を振り返った。 
      「試合って…まさか…オレと、部長?」 
      「うん。いい試合だった」 
      「…………」 
      きつく唇をかんで俯いてしまったリョーマを、不二は真顔で静かに見つめた。 
      「おーい、越前、俺たちの番だぞ!」 
      「ういーっス」 
      桃城に呼ばれてリョーマは帽子を深く被りなおしながらコートへ歩いてゆく。 
      「手塚は右でも手塚ゾーンを使ったよ。零式ドロップショットもね」 
      不二の言葉に一瞬足を止めたが、リョーマはそのまま何も言わずにコートに入っていった。 
      (右の、手塚ゾーン…) 
      リョーマはふっと笑みを漏らした。 
      「ホンっと、バケモノなんだから……」 
      どこか楽しげにそう呟きながら、リョーマは右手にラケット持ち、ネットの向こうでラケットを構える桃城に鋭い視線を向けた。 
      (アンタもまた進化したんだね…) 
      ツイストサーブを放ちながら、リョーマは右手を使う手塚を思い描く。
      進化しろ、越前!
  「え…」 
      ふいに手塚の声が聞こえた気がしてリョーマは目を見開いた。 
      向かいで自分のサーブを打ち返す桃城の姿に手塚の姿が重なる。
      俺の想いの全てを受け取れ
  「くにみつ…?」 
      返されたボールを反射的にまた打ち返しながら、リョーマの脳裏に様々な手塚の表情が浮かんでは消えていった。
      次に会うまでに、俺を倒せるようになっておけ
      たとえ立ち止まることがあっても、後ろを見る必要はない。     前だけを見つめろ
      一人の男として、俺はお前を愛している。     そして、一人のテニスプレーヤーとして、これからも俺はお前と戦い、     勝ち続けたいと思う
      帰国の目途がついたら、誰よりもまずお前に知らせる
      楽しみにしている。お前と全力で戦える日を…
      リョーマ…っ
  リョーマの左手からラケットが滑り落ちた。 
      桃城から打ち返されたボールがリョーマの足下にバウンドして後ろのフェンスに当たる。 
      「おい、越前、どうした?」 
      「……べつに」 
      リョーマはラケットを拾い上げると、桃城に向けて不敵に笑ってみせた。 
      「桃先輩、ガンガンやろうよ」 
      「お、おうっ!行くぜ、越前!」 
      「OK」 
      突然人が変わったように動きにキレが出てきたリョーマを見て、不二が柔らかく微笑んだ。 
      (…まったく……大したものだね…キミたちの絆は…) 
      そうして不二は微笑んだまま空を見上げた。 
      青く澄んだ空に一羽の白い鳥が羽ばたいていった。
 
 
 
 
  「結果的に皆に迷惑をかけてしまった。すまない」 
      手塚は空港のロビーで三年生のレギュラーたちと顧問の竜崎に囲まれ、出発までの時間を過ごしていた。 
      「関東大会勝って、全国への切符を必ず手に入れとくから」 
      不二の言葉に手塚は大きく頷く。 
      「そろそろ時間だね。アタシ達はあっちで見送ることにするよ。いいかい、つらいだろうが焦らずに頑張るんだよ、手塚」 
      「はい」 
      手塚が立ち上がって竜崎と握手を交わす。 
      「頑張れよ、手塚」 
      「俺たちもなんとか頑張るからさ」 
      「部員達のことは安心して任せてくれ」 
      「ちゃんと治してくるんだぞぉ、手塚!」 
      「たまにはメールして欲しいな」 
      それぞれと握手を交わしながら、手塚は一人一人に頷いてみせる。 
      「あとのことを頼む。俺の我が儘を聞いてくれて感謝している」 
      手塚はトランクに手をかけると、もう一度そこにいる面々を見回した。 
      「行ってくる」 
      竜崎に一礼して、手塚は背を向けて歩き出した。 
      しばらくその後ろ姿を見送っていた不二が、すっと皆から離れて手塚を追いかけていった。 
      「手塚」 
      「不二…?」 
      振り向いた手塚に、不二はニッコリと微笑んだ。 
      「越前から預かったよ」 
      不二は「はい」といって手塚にリストウォッチを差し出した。 
      「あいつがこれを?」 
      見覚えのある時計を見ながら、手塚が怪訝な顔をする。 
      「うん。それとこれが手紙。……って…ノートの切れっ端だけどね」 
      手渡された紙は急いで引きちぎったような雑な切り取られ方をしている。手塚は小さく苦笑すると、トランクから手を離し、折りたたまれたノートの切れ端を広げた。 
      そこに走り書きされた文章を見て、手塚は一瞬目を見開き、そうして微笑んだ。
     『I
      hand you my time. 
          When you return my time, please come to the first coat. 
          I am there,maybe become strong more than you.』 
             (アンタにオレの時間を預ける。 
              オレの時間を返す時は、オレたちの始まりのコートに来て。 
              そこにはきっとアンタより強くなったオレがいるよ)
  「それってどういう意味なのかな。その時計も…………手塚にはわかるんだよね」 
      「ああ」 
      手塚は目を閉じて穏やかに微笑みながら頷いた。 
      初めて見る手塚のそんな表情に驚きつつも、不二は手塚とリョーマが互いを想い合う、その想いの深さに胸が熱くなる。 
      「手塚、一つ聞いてもいい?」 
      「なんだ?」 
      「もしも、キミが越前と出会っていなかったら、キミはドイツに行ってまで肩を治そうと思った?」 
      真っ直ぐに見つめてくる不二の瞳を穏やかな瞳のまま見つめ返した手塚は、ゆっくりと首を横に振った。 
      「あいつと出逢っていなかったら、俺はテニスをやめていただろう」 
      「手塚…」 
      「俺はあいつとまた戦いたいんだ」 
      手塚の穏やかな瞳の中に、揺らぐことのない強さを見出し、不二は微笑んで頷いた。 
      「……だったら早く帰ってこないとね、手塚」 
      「ああ」 
      力強く頷くと、手塚は右手を差し出した。 
      「ありがとう、不二。あいつのこと、よろしく頼む」 
      不二も右手を差し出し、しっかりと握手を交わす。 
      「気をつけて」 
      「ああ。じゃあな」 
      手塚は不二に背を向けると真っ直ぐ前を向いて歩き始めた。 
      自分の踏み出す一歩一歩がそのままリョーマとの未来へと続くのだと信じて、手塚は二度と後ろを振り返らなかった。
 
 
 
 
  部活を終えたリョーマは、桃城の誘いを断って、自宅近くの川辺に一人佇んでいた。 
      美しい夕空のグラデーションを見つめながら、飛び立っていった手塚を想う。 
      本当は見送りに行きたかった。 
      飛行機に乗り込むまで、そしてその機体が視界から消えるまで、リョーマは手塚を見つめていたかった。 
      なのに、行かなかった。 
      いや、行けなかった。 
      手塚の口から別れの言葉を聞いたら、途端に自分がみっともない姿をさらしてしまうような気がして、リョーマは行けなかったのだ。 
      全てのことを、リョーマは頭では理解し、納得している。 
      だが、感情まで納得させることは、リョーマにはできていない。 
      手塚が自分の元へ戻ってくることはわかっている。それは真理のように確信している。 
      それでも、手塚への愛しさが、リョーマの心をどうしようもないほど追いつめる。 
      逢いたい。 
      逢いたい。 
      なのに、逢えない…… 
      手塚を想うだけで、胸が締め付けられる。苦しくなって息ができない。 
      リョーマはバッグを肩から落とし、その場に膝を抱えて座り込んだ。 
      苦しくて苦しくて、きつく眉を寄せると視界が歪む。 
      手塚は前だけを見つめろと、自分に言った。 
      そして、テニスに集中することこそが、自分たちの絆を確かなものにするとも言った。 
      涙など流している暇はないのだ、と。 
      それでも胸に湧き上がる喪失感や虚脱感を拭い去ることが、リョーマにはどうしてもできない。 
      手塚の瞳、唇、声、そして力強い腕の感触を思い起こすたび、あまりの切なさにリョーマは叫び出しそうになる。 
      涙を流せば楽になるのだろうか。 
      声が枯れるまで手塚の名を叫んだら、胸の苦しみから解放されるのだろうか。 
      たとえそうだとしても、リョーマにはどちらもできない。 
      それだけのエネルギーを、テニスにぶつけなければならない、と思うからだ。 
      リョーマは唇を噛み締めて足下の雑草を引きちぎり、川面に向かって投げつけた。水面にまで届かなかった草の切れ端が風に巻かれて飛んでゆく。 
      もう一度草を引きちぎって投げようとして思い留まり、きつく握りしめていた手をゆっくりと開いた。するとすぐに、さわやかな一陣の風がリョーマの手の中の草をさらっていった。 
      「リョーマさん?」 
      聞き知った声にリョーマが振り向くと、従姉の菜々子が自転車に乗ったまま土手の上からリョーマを見下ろしていた。 
      「どうしたの?そんなところで」 
      自転車を降りてすぐ傍まで土手を降りてきた菜々子をチラッと見上げ、リョーマは軽く溜息を吐いた。 
      「………べつに」 
      「………」 
      菜々子はリョーマの隣に腰を下ろすと、足下の草を指で撫でた。 
      「こうやって草で遊ぶから『道草』って言うのかしら」 
      「…さあ」 
      ぼそっと返事を返すリョーマに、菜々子は小さく微笑んだ。 
      「結構ここ、気持ちいいのよね。私もたまに来て一人で考え事とかするのよ」 
      「………ふーん。何考えんの?」 
      あまり関心はなさそうだがとりあえず返事をしてくるリョーマに、川面を見つめたまま菜々子が答える。 
      「そうね…将来のこととか、好きな人のこととか…」 
      「好きな人、いるの?」 
      ちょっと関心を示したリョーマが菜々子にチラッと視線を向ける。 
      「からかわれるからおじさまには内緒よ?ちょっと遠くに住んでいるのだけど、高校時代からずっと好きな人がいるの」 
      「へえ……」 
      菜々子は足下の草を一本だけそっと抜き取ると、指でクルクルと弄び始める。 
      そのまま、リョーマがここにいるわけを聞き出すでもなく、ただ黙って隣に座っている菜々子に、リョーマは一つ聞いてみたくなった。 
      「遠くに住んでいて、寂しくないの?」 
      「寂しいわよ」 
      当然だといわんばかりに、しかしニッコリと笑いながら答える菜々子の顔を、リョーマはじっと見つめた。 
      「でも、私も、彼も、自分のやりたいことをちゃんと持っているから……そのために、今は別々に過ごしているの」 
      「……」 
      「傍にいたいって思うけど、私、頑張っている彼に負けたくないから」 
      リョーマは小さく目を見開いた。 
      「頑張っている人を応援するには、自分も頑張らないと、励ましの言葉なんて上辺だけになっちゃうでしょ?」 
      リョーマはさらに大きく目を見開いた。 
      「相手が頑張っているなら、時間が経って、またその人に再会した時に今のままの自分じゃ絶対に恥ずかしいと感じるはずだわ」 
      菜々子は空を見上げる。 
      「だって、再会する彼は、今よりずっと、前に進んでいるはずだから」 
      「それでも…」 
      「え?」 
      リョーマの呟きに菜々子が柔らかく聞き返す。 
      「それでも、つらい時はどうすんの?逢いたくて、堪らなくなって、その人に釣り合うくらい自分も頑張りたいけど、頑張れない時は……どうしたらいい?」 
      視線を逸らして苦しげに呟くリョーマを、菜々子は労るように見つめた。 
      「……そうね……頭の中を真っ白にして集中できることをすればいいんじゃないかしら」 
      「……」 
      「きっとリョーマさんにはリョーマさんなりの、つらい時間の過ごし方があるんだと思う」 
      ニッコリと菜々子に微笑まれて、リョーマは自分がいつの間にか心の葛藤を打ち明けてしまっていたことに気づき、頬を赤くした。 
      「あのね、リョーマさん」 
      そんなリョーマの瞳を真っ直ぐ見つめてから、菜々子が川面に視線を移す。 
      「たとえば、自分が苦しんでいる時、もしかしたら相手も同じように苦しいのかもしれないって思うと、一緒に頑張らなきゃって思うでしょ」 
      「え…」 
      「一人で頑張っているんじゃないって、…そう思うだけで、大好きな人がもっと近くに感じられるんじゃないかしら」 
      リョーマは、普段は見ることのない菜々子の心の強さを感じ、思わずその優しげな横顔に見入ってしまう。 
      「それにね、神様はその人が乗り越えることができないような苦しみや悲しみは、お与えにはならないんだって」 
      「……っ」 
      自分の言葉を黙って聞くリョーマに、菜々子は凛とした瞳を向ける。 
      「だから、今はつらくてつらくて、どうしようもなく苦しくても、リョーマさんが大好きな人を想う、その自分の心の強さを信じていれば、いつか必ず終わりが来るわ」 
      ゆっくりと瞬きをしてから、リョーマは唇をひき結んで大きく頷く。 
      輝きを取り戻したリョーマの瞳を見つめて、菜々子は嬉しそうに微笑んだ。 
      「さあ、帰りましょう。今日のお夕飯はリョーマさんの大好きなお魚よ」 
      立ち上がる菜々子を見上げて、リョーマは少し照れくさそうに微笑んだ。 
      「後から行く。先に帰ってて」 
      「わかったわ。お夕飯すぐだから、早くね」 
      「うん」 
      小走りに土手を登り、菜々子は自転車に乗ってリョーマに軽く手を振った。 
      リョーマが立ち上がって頷くと、菜々子は自転車のペダルを踏み出した。 
      菜々子の姿が角を曲がって見えなくなるまで見送ったリョーマは、一つ小さな溜息をついてから、すっかり藍色に染まった空を見上げる。 
      小さな星が煌めき始めた空に向かい、リョーマは左手を伸ばしてみた。 
      (この空はアンタが見る空と繋がってる) 
      深く深く、どこまでも続く空。 
      時には眩しいほど輝き、時にはゆったりと全てを包み、常に変化し、しかしそこに永遠に存り続ける空。 
      それは、自分と手塚の関係に似ているとリョーマは思う。 
      恋愛感情だけではない。 
      テニスプレーヤーとしてのライバル意識だけでもない。 
      そのどちらもが自分たちを繋いで揺るぎのない絆を作り上げる要素であり、そしてそれらは、どちらか片方だけでは自分たちの関係を成り立たせることはできない。 
      目に見えるが本当は形のない空のように、自分たちの関係もまた『完成』という形はなく、常に進化を続けていくことだろう。 
      リョーマは今になってやっと、昨夜の手塚の言葉を本当の意味で理解したような気がした。 
      まるで空を掴もうとするかのように、リョーマは伸ばした手をギュッと握りしめる。 
      (前に進むよ……アンタとの約束のために…) 
      勝つために、そして想い続けるために、テニスプレーヤーとして、一人の男として、強くなりたいとリョーマは思う。 
      「オレは…負けない…」 
      手塚が覚悟を決めて挑んだあの試合で口にした言葉を、リョーマも強い想いを込めて口にする。 
      そうしてリョーマはゆっくりと腕をおろし、深く息を吐いてからバッグを担ぎ上げた。 
      急な土手を登り切ると、リョーマはもう一度空を見上げる。 
      「……After night comes the day. 」 
      そう小さく呟き、リョーマは踵を返した。 
      真っ直ぐ前を見つめるリョーマの瞳には、もう迷いの陰は微塵もない。 
      After night comes the day.  
      そう、朝の来ない夜など、ありはしない。 
      だから、やがて来る朝を迎えるために、リョーマにはやらなくてはならないことがたくさんある。 
      感傷に浸っている時間などない。
  リョーマもまた、自分と手塚の未来のために、力強い一歩を踏み出した瞬間だった。
 
 
 
 
 
  
      THE END 2003.10.18
  But! This
      is not an end. Their story begins from here. 
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       後日談→     
    
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