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  「今日は医者の許可をもらってきたっスよ」 
      フェンス際に立つ手塚の目の前に立って、リョーマが堂々と宣言する。 
      「わかった。練習に参加しろ」 
      「ういっス!」 
      「但し、少しでも身体に違和感があったらすぐに中止しろ、いいな?」 
      「了解!」 
      瞳を輝かせて練習に混じろうとするリョーマを手塚が呼び止める。 
      「越前」 
      「なんスか」 
      小さく手招きされて、リョーマが怪訝な顔で手塚に歩み寄る。 
      「レギュラーの名前くらいは把握しておけ。あそこに立っているのが…」 
      「乾先輩でしょ?」 
      「え?」 
      「昨日顔出した時にアンタが一人一人アドバイスしていたから、だいたい覚えマシタ」 
      ニヤッと笑うリョーマに、手塚は目を見開いた。 
      「…そうか。それならいい。練習に加われ」 
      「ういーっス」 
      嬉しそうにコートに入っていくリョーマを見送って、手塚は眩しげに目を細めた。 
      「手塚」 
      呼ばれて振り向くと、顧問の竜崎がコートの入り口で手招きをしている。 
      「大石、後を頼む」 
      「ああ」 
      ニッコリと微笑んで頷く大石に頷き返し、手塚は竜崎に続いて校舎の中へと入った。 
      「向こうの受け入れ準備が整ったそうだ。すぐにも出発できるが、どうする?」 
      「…そうですか…わかりました。では2、3日うちに……飛行機のチケットがとれ次第、行きます」 
      「……みんなには言ったのかい?」 
      「いえ、ギリギリまでみんなには余計なことを考えさせたくないので………明日、部活が終わる頃に俺の口から伝えようと思っています」 
      竜崎は「そうかい」と言って寂しげな微笑みを浮かべた。 
      「…竜崎先生、実は一つお願いがあります」 
      「ん?なんだい、改まって…」 
      「明後日、練習のあとで越前と試合をさせてください」 
      いきなりの手塚の言葉に竜崎は目を見開いた。 
      「試合って、お前……まさか…」 
      「はい。左は使いません」 
      竜崎はしばらく黙って手塚を見つめていたが、やがて軽く溜息をつくと、微笑みながら頷いた。 
      「お前のことだ、何か考えていることがあるんだろう?いいよ、好きにやりな」 
      「ありがとうございます」 
      手塚は一礼すると踵を返してコートへと戻っていく。 
      (明後日までに…間に合うか…?) 
      そう考えてから手塚はぐっと顎を引いた。 
      (いや、間に合わせるんだ) 
      もう逃げることはしない、と手塚は決めた。 
      たとえ自分の行動がどんな結果を招こうとも、手塚は目を逸らさずに全てを見極めようと思う。 
      「っつあっ、にゃろう!もう一本!」 
      コートの上で瞳を輝かせてボールを追うリョーマを、手塚はフェンス越しに見つめた。 
      (明後日の試合で…俺の想いの全てをお前にぶつけよう……リョーマ…!) 
      二人の未来に繋がる新たな絆を見出すことができれば、リョーマの記憶がたとえ戻らなくとも構わないと手塚は思った。 
      それは昨日まで考えていたような、リョーマと別の道を生きるためのものではなく、共に生きていくための道標になるはずなのだ。 
      (愛している、リョーマ……何があろうと、俺はお前を想い続ける) 
      手塚の瞳に揺るぎない強い光が灯る。 
      その瞳の見つめる先で、リョーマはただひたすらにボールを追い続けていた。
 
 
 
  「今日は僕が送ってあげるね、越前くん」 
      「別にいいっスよ、自分の家は忘れてないから」 
      部室で着替えていると背後からそっと耳打ちされて、リョーマは軽く不二を睨んだ。 
      「でも手塚に頼まれたんだ。キミを家までちゃんと送ってやってくれって」 
      部活が終わる前から手塚の姿が見えなかったのはリョーマも気づいていた。 
      「………部長は?」 
      茶化されるのを覚悟して、リョーマが不二に尋ねる。 
      「先に帰ったよ。寄るところがあるって」 
      「ふーん……そっスか…」 
      平然とそう言ったものの、リョーマは自分の心が明らかに沈んでいくのを感じる。 
      「にゃににゃに〜、おチビ、不二と一緒に帰るんだ。俺も一緒に帰っていいかにゃ〜?」 
      「うん、英二が一緒だと楽しいからね。いい?越前くん」 
      「いーっスよ、別に」 
      どうでもよさそうにリョーマがそう返事をすると、横で不二がぷっと軽く吹き出した。 
      怪訝そうな顔をしてリョーマが不二を見ると、不二が楽しげに微笑みを浮かべる。 
      「いや、やっぱり越前くんは越前くんだなと思って」 
      「なんスか、それ」 
      溜息を吐きながら言うリョーマに、不二がまたくすっと笑った。 
      「今日はマックなしか?越前」 
      着替えを終えてリョーマに声をかけてきた桃城を、不二がふと見つめた。 
      「……桃、よかったら僕たちと一緒に行かない?」 
      「え?いいんスか?」 
      「話したいこともあるから」 
      切れ長の目で桃城を見つめながら、不二がバッグを肩にかける。 
      「……ういっス」 
      一瞬桃城の顔が強ばるが、すぐにニカッと笑ってリョーマの肩に腕を回す。 
      「先輩のおごりなら、遠慮なく食えるよな、越前」 
      「ワリカンだよ」 
      不二がリョーマの肩から桃城の手を払いながら、ニッコリと微笑む。 
      「そうそう、桃ちん、甘えすぎ!」 
      フリーになったリョーマに、すかさず菊丸が後ろから抱きついて唇を尖らす。 
      「ははは…」 
      今度こそ桃城の顔は完全に引きつった。リョーマの方も肩の重みに眉を寄せる。 
      「…菊丸先輩……重いっス」 
      「気にしにゃ〜い、気にしにゃ〜い」 
      「いや、マジで重い…」 
      「さあ、出発にゃ〜」 
      そんなリョーマと菊丸を見つめていた不二は、軽く溜息をついて、またいつもの微笑みを浮かべた。 
      桃城にだけは真実を話して早めにクギを刺しておかないとならない、と不二は考えた。 
      そしてそんな風に考える自分に、不二は小さく笑みを零す。 
      (放っておけないんだよね、手塚も越前も…) 
      「不二!早く行くにゃん!」 
      「ああ、ごめん英二。…行こうか、越前くん」 
      「ういっス」 
      そうして四人は揃って部室を出て行った。
 
 
 
 
  翌日。 
      練習の途中で部室前に集まるようにと手塚に呼び出されたレギュラーは、その口から告げられた言葉に、全員が耳を疑った。 
      (ドイツ……?) 
      リョーマはあまりの衝撃に呼吸すら忘れて立ち尽くした。 
      肩の治療のためだと、手塚は言った。 
      レギュラーたちに向かって「迷惑をかけてすまない」と謝る手塚の声が、リョーマには現実のものではないようにさえ思えた。 
      そうして、そんな風にショックを受けている自分に、リョーマはさらに驚きを感じていた。 
      (……なんでこんなに、苦しいんだろう…) 
      リョーマはそっと自分の胸元の服を掴んで、ラケットからこぼれ落ちて足下に転がるボールを見つめた。 
      ただ呆然と見開かれていた瞳が、次第に激しい憤りの色を浮かべ始める。 
      (…どうして…っ、……こんなにもオレの心を揺さぶる人のことを、どうしてオレは思い出せないんだっ!) 
      悔しさに、リョーマは血が滲みそうなほど強く唇を噛み締める。 
      なくした記憶の中の一番大切なひと欠片を、リョーマはどうしても見つけることができないでいた。 
      記憶をなくしていること自体に不安がないわけではなかった。だがリョーマは、ほんの二、三ヶ月間の記憶なら、これから作ってゆく思い出で、なくした分をいくらでも取り返せると思っていた。 
      なのに、たった一人の人間と過ごした時間の記憶を、リョーマはこんなにも思い出したいと願っている。 
      「出発は明後日に決まった。俺からの話は以上だ。練習の邪魔をしてすまなかった」 
      「明後日…」 
      思わず小さく呟いてしまったリョーマを、手塚が見つめた。手塚の視線に気づいたリョーマが顔を上げると、湖のように穏やかなその瞳と目が合った。 
      いっそのこと、今すぐ目の前の手塚に、自分たちがどんな時間を一緒に過ごしたのかと、リョーマは尋ねてしまいたくなった。 
      しかしリョーマは唇を引き結ぶと、強い瞳で手塚を見つめ返した。 
      (ダメだ。それじゃきっと意味がないんだ。この人との時間は、オレ自身の力で取り戻さないと……!) 
      手塚は足下のボールを拾い上げると、何も言わずにリョーマに差し出した。 
      「部長…」 
      「なんだ」 
      差し出されたボールを受け取りながら、リョーマが手塚を見上げる。 
      「もうすぐ追いつくから……なくした欠片を、きっと取り戻すから……」 
      「え…?」 
      聞き返してくる手塚を揺れる瞳で少しの間見つめてから、リョーマはくるりと背を向け、コートに戻っていった。 
      (リョーマ……?) 
      熱を孕んだ一陣の風が手塚の髪を揺らした。 
      ほんの小さな『奇跡の予感』を、手塚が心の片隅に芽生えさせた瞬間だった。
 
 
 
 
  手塚がドイツに行くと言う話題は、男子テニス部はもとより、翌日には学園内にもすでに広まっていた。 
      実際に手塚の口から直接話を聞いていない連中が次々とテニス部のレギュラーたちに真偽を確かめようと話しかけてくる。 
      もちろんリョーマも例外ではなく、むしろ下級生では先輩に聞きづらいということもあってか、唯一『一年生にして事情を知る』リョーマは廊下を歩くだけで3メートルごとに呼び止められる始末だった。 
      「手塚部長がドイツに行くって本当?」 
      「次の試合どうするの?」 
      「いつ帰ってくるの?」 
      何度も繰り出される同じ質問に、リョーマは「ああ」「別に」「知らない」と、普段に輪をかけて素っ気なく答えていた。 
      放課後の部活が始まる頃にはその質問攻めも収まっていたが、男子テニス部のレギュラー陣は『部長』としての手塚以上に、あらゆる生徒たちの中で手塚が必要とされている人間であることを改めてひしひしと思い知らされていた。 
      心なしか重い空気のコートに、生徒会の最後の引き継ぎを終えた手塚が遅れて入ってきた。 
      その手塚を見てテニス部の全員が目を見張った。 
      「!」 
      「手塚…?」 
      手塚の左手にはラケットが握られていた。 
      「手塚?無理はしない方がいいんでないの?」 
      「…出発する前に、一度このコートで打っておきたい」 
      菊丸の言葉に答えながら、手塚は全ての部員へ語るようにきっぱりと言った。 
      「心配するな。練習を続けろ」 
      驚きと疑問の視線が向けられる中、手塚はリョーマの背後を通って平然とAコートに向かう。 
      「不二、軽いラリーがしたい。つきあってくれ」 
      「…いいよ」 
      衆人が見守る中、手塚と不二のラリーが始まった。 
      右手を使う手塚に、あちこちで感嘆の声が挙がる。 
      (右でも打てるんだ……) 
      リョーマは手塚の相手をしている不二が、少し羨ましくなった。 
      (オレが打ちたかったな……) 
      「おい越前、続き、やるぜ?」 
      「ういっス」 
      リョーマは自分の練習相手である桃城に意識を戻した。
 
 
  そうして全ての練習メニューが終わり、日が傾く頃に全員に集合の声がかけられた。 
      大石の口から手塚の休部についての言葉が出ると、部員たちはやるせない表情をそれぞれ浮かべる。 
      最後に、部員たちへのメッセージを大石に促されて、手塚はいつものように凛とした声を発した。 
      「関東大会優勝、そして全国制覇に向けて大石を中心に頑張って欲しい。健闘を祈る。今日の練習はここまで。以上だ」 
      だが手塚の言葉が終わっても部員たちは誰も部室に戻ろうとはしなかった。 
      手塚の胸に、熱い思いがこみ上げる。 
      しかし、感傷的になりかける内面を顔には出さずに、部員一人一人の顔を見渡し、最後にリョーマへと視線を定めた。 
      「越前」 
      「なんスか」 
      「コートへ入れ。これからお前とワンセットマッチを行う」 
      手塚の言葉に、その場にいた全員が息を飲んだ。 
      ただ一人、リョーマだけは動じず、真っ直ぐに手塚を見つめ返す。 
      リョーマはなくした記憶の欠片を取り戻すための、最後の大きなチャンスを与えられた気がした。 
      「いーっスよ、別に」 
      その言葉に、手塚は大きく頷いた。 
      (いよいよだ、リョーマ……俺たちの未来が、この試合にかかっている) 
      コート内が一気に慌ただしくなる。 
      迅速に試合の準備が進む中、不二は試合が長引くことを想定して照明準備の指示を下級生部員たちに出してから手塚の元に歩み寄った。 
      「手塚、勝算は?」 
      「負けるつもりはない」 
      「だろうね」 
      不二がそっと微笑んだ。
 
  ネットを挟んでリョーマと手塚が対峙する。 
      リョーマがサーブ権をとると、二人は一瞬瞳を絡ませてから背を向けた。 
      「遠慮しないっスよ」 
      「当然だ」 
      二人の準備が整ったところで、審判の大石が高らかに宣言した。 
      「ワンセットマッチ、越前、トゥサーブ!」
  試合開始早々はほとんど誰もがリョーマの優勢を予想したが、試合の中で進化を始めた手塚によって、いつしか試合は手塚が圧倒的な優位なものへと変わっていった。 
      (どこへ打ってもボールが部長の方へ引き寄せられる……これは……) 
      「手塚、ゾーン……」 
      リョーマの中で、欠片が一つはめ込まれる。 
      (初めてじゃない……オレは、この人と、前にも一度、戦った……?) 
      『俺を倒せるか』 
      唐突に、手塚の声がリョーマの頭の中に蘇る。 
      『越前、お前はなぜテニスをする?』 
      リョーマは目を見開いた。 
      目の前の手塚に、もう一人の手塚のイメージが重なる。 
      だがその二人の手塚は、まるで鏡に映したようにラケットを逆に持っている。 
      (左…!) 
      何とかボールを打ち返しながら、リョーマは『左を使う手塚』の声を聞く。 
      『見せてみろ、お前にしかできないテニスを。越前リョーマのテニスを!』 
      (そうだ、オレはこの人と戦った。そしてオレは……)
  リョーマから打ち返されるボールの微妙な変化を、手塚は見逃さなかった。 
      (心が乱れている……どうした、リョーマ?) 
      しかし、食い入るように自分を見つめるリョーマの瞳に、少しずつ強い光が戻り始めている。 
      (そうだ、打ってこい、リョーマ!)
  『打ってこい!』
  二人の手塚から、リョーマは同時に声を聞いた。 
      その瞬間、リョーマに激しい闘争心が湧き上がる。そしてこの感覚に、リョーマは覚えがあった。 
      『打ってこい、越前。俺が絶対に打ち返せないショットを!』 
      手塚の打球が、リョーマの心を熱く揺さぶる。 
      コーナーを突いたその打球に、リョーマはラケットを持ち替えながら飛び込んだ。 
      『そして進化しろ、越前!』 
      リョーマが右手で打ち返した鋭い打球が手塚のラケットに食い込んでガットを傷つけた。 
      「!」 
      手塚の打ち返したボールがネットに引っかかって落ちる。 
      (この人と戦って、そしてオレは……) 
      ゆっくりとリョーマが立ち上がった。 
      (オレは、生まれ変わったんだ)
  ガットの切れたラケットを交換してコートに戻った手塚は、リョーマの表情を見て小さく目を見開いた。 
      リョーマの瞳は真っ直ぐに手塚を見据えている。 
      (迷いが…消えた…?) 
      手塚は唇を引き結び、リョーマの強い瞳を、同じくらい強い瞳で見つめ返した。 
      (これからだ、リョーマ。俺の想いの全てを受け取れ) 
      手塚はぐっとボールを握りしめてから頭上高くトスを上げた。
  リョーマは手塚が繰り出す力強い打球を打ち返しながら、その度に熱い何かが心に流れ込むのを感じていた。 
      まるで手塚の打球に、彼の想いが込められているような気がした。 
      (部長…) 
      自分が生まれ変わるきっかけをくれた手塚への想いが変化していっただろうことを、リョーマは『記憶』という確かなものではなく、心の中のとても深い大切な場所で思い出していた。 
      リョーマが生まれ変わった日、リョーマの中の『手塚国光』という存在も変化した。 
      苦手だったポーカーフェイスの内側に隠されていた暖かな優しさを知ったリョーマは、自分でも気づかぬうちに、ものすごい早さで手塚に恋をしていった。 
      (今ならちゃんとわかる…オレはアンタが好きだ…) 
      その自分に手塚がどう応えてくれたのかはわからない。 
      ただ、今この瞬間、手塚が自分に何かを伝えようとしているのを感じることができる。 
      (だからオレも、全力でアンタに応える) 
      リョーマは、叫びたくなるほどの手塚への想いを、打ち返す打球に詰め込んだ。 
      (アンタが好きだ) 
      手塚から返ってくる熱い打球に、さらに想いを込めて打ち返す。 
      (もっと強くなってアンタに追いつきたい。だから…) 
      「っつあっ!」 
      「…っ!」 
      (アンタが望む進化を、オレはやってみせる) 
      残り少ない体力を惜しげもなく使って、二人はボールを追いかける。 
      そうして、ついに手塚がマッチポイントを迎えた。 
      だがリョーマの瞳から、戦意の炎が消えることはない。 
      (アンタが進化するなら、オレも進化し続ける!) 
      手塚が放つサーブを、リョーマは渾身の力を振り絞って打ち返す。 
      次の瞬間、手塚の身体が光に包まれる錯覚を、リョーマは見た。 
      そして手塚がその構えからショットを放った途端、自分の想いが遙か上空へと舞い上がり、手塚と言う名の青空へ包み込まれていったように、リョーマは感じた。
 
  越前リョーマと手塚国光、二人の全力をかけた試合は、手塚の零式ドロップショットで幕を閉じた。 
      ネット越しに二人が歩み寄る。 
      「その手、あげましょうか?」 
      リョーマは途切れ途切れに蘇った微かな記憶をたどって、そう言ってみる。 
      最後にリョーマが見たのであろう手塚の試合で、手塚が相手に健闘を称えられ、手を高く掲げられたシーンが頭に浮かんだのだ。 
      (思い出したのか…リョーマ…) 
      「いや、それより…」 
      だが手塚は、リョーマの記憶が戻ったのか確かめることよりも、新たな絆の手応えに満足していた。 
      「越前」 
      「なんスか」 
      「次に会うまでに、俺を倒せるようになっておけ」 
      リョーマは顔を上げて手塚を見た。 
      「もちろん」 
      微笑むリョーマに、手塚の表情も和らぐ。 
      そんな二人に、周囲から拍手が贈られた。 
      リョーマは少し驚いたように周りを見回してから、手塚をもう一度見上げる。 
      「…部長」 
      「なんだ」 
      「帰り、ちょっとオレにつきあってくれません?」 
      「…わかった」 
      鳴りやまない拍手に紛れてそんな短い会話を交わすと、二人はコートを出て、仲間たちの元へと並んで歩いていった。
 
 
 
  手塚の送別会をやりたいという大石の誘いを、手塚は「越前と話がしたい」と言って丁重に断った。 
      手塚がリョーマのことを『自分たちの夢を受け継ぐ者』として特別視していると思っている大石は、手塚のその言葉に潔く自分の申し出を引っ込めた。 
      「行くぞ、越前」 
      「ういっス」 
      二人で並んで帰ってゆく姿を見た不二が、ふっと微笑んだ。 
      「初めてだね」 
      「ん?にゃにが?」 
      隣で着替えていた菊丸が不二の方を向く。 
      「『送る』とかじゃなくて、手塚が純粋に越前と帰りたいって言ったのは…初めてじゃない?」 
      「そういえばそうかにゃ〜」 
      「…なんか……『最初で最後』みたいで……いやだな…」 
      菊丸にだけ聞こえる声でそう呟いた不二が、そっと苦笑する。 
      「大丈夫にゃ」 
      「え?」 
      ニッコリと笑う菊丸に、不二が目を見開く。 
      「大丈夫」 
      それだけ言うと、菊丸は不二の手を取った。 
      「俺たちも今日は二人で行くって約束にゃ」 
      「え?…あ、マック?」 
      「お腹空いたにゃん!早く行こ!」 
      菊丸の笑顔に、不二もつられて微笑む。 
      「うん、行こうか、英二」 
      「へへっ。今日はにゃんにしよっかにゃ〜」 
      きっと本当は菊丸も寂しいのだろうと不二は思った。だが自分たちがあの二人に今してやれることは、優しく見守ることでしかない。 
      それに、試合を終えた二人の表情には別離への不安など微塵も感じられなかった。 
      「大丈夫、だね…」 
      「うん。絶対大丈夫!」 
      部室を出ると、不二は空を見上げた。 
      こぼれ落ちてきそうな星たちに、そっと願いをかける。 
      (どうか、あの二人が……残った時間を悔いなく過ごせますように………) 
      同じように神妙な顔つきで空を見上げる菊丸の様子を見て、不二が柔らかく微笑んだ。 
      「行こう、英二」 
      二人は微笑み合うと、肩を並べて軽やかに歩き出した。
 
 
 
  「荷物置いてくるから、ちょっと待ってて」 
      越前家の門扉の前で、手塚は怪訝そうな顔をした。 
      リョーマの家に連れてこられたのかと思った手塚は、さらにこれからどこかへ出かけるらしいリョーマの行動に、内心首をかしげた。 
      (こんな時間にどこへ行こうと言うんだ……?) 
      あたりはすでに暗闇に覆われている。 
      ここに着くまでろくに話もしなかったせいで、手塚にはリョーマの考えがわからない。なのに、自分の中の何かが、黙ってリョーマに従えと言っているような気がする。 
      手塚は溜息をついて空を見上げた。 
      こうしてリョーマの我が儘につきあうのも当分はないだろう、と手塚は思う。ならばどこへでも、リョーマの望むようにしてやろう、と。 
      夜空を埋める無数の星々がゆらゆらと煌めいて手塚に何かを語りかけてきているようにも見える。 
      遙か上空から、常に人間を見守ってきた星たちの歴史の長さに、手塚はつい願いをかけたくなる。 
      (………いや、やめておくか……) 
      もう一度手塚が溜息をつくと、背後で玄関の戸が開く音がした。 
      「お待たせ」 
      制服のままのリョーマが手塚に小さく微笑みかける。 
      「今からどこへ行くつもりだ?」 
      手塚の言葉に答える前に、リョーマは目を閉じて一度深呼吸した。 
      「…越前?」 
      「どこに行くのか、………それを確かめたいんだ」 
      「え?」 
      リョーマの言葉の意味がわからず、手塚は軽く眉を寄せた。 
      もう一度大きく深呼吸すると、リョーマは手塚を真っ直ぐに見つめた。 
      「何も言わずに、オレについてきてくれないっスか」 
      ひたむきで揺るぎのないリョーマの瞳を見つめ返した手塚は、ゆっくりと頷いた。 
      「…わかった」 
      奇跡の瞬間が、すぐそこまで近づいていた。
 
 
 
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