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  その瞬間、リョーマは他の皆とは違う映像を見ていた。 
      鮮明によみがえる記憶。 
      完膚無きまでに自分を叩きのめしたその男の姿を、リョーマは現実にコートに立つ彼の姿に重ねた。 
      (え……) 
      だが、重なり合うはずのイメージと現実の彼のフォームに微妙な「ズレ」が生じた。 
      「あっ」 
      誰かが叫んだ。 
      戻らずに相手コートの中へ軽やかに跳ね返るボール。そうして打ち返されたボールが再び相手コートに戻ることはなかった。 
      長い長い、手塚の戦いが終わった。
 
 
 
 
  「結果はどうだったんスか」 
      試合後、皆と別れて病院に向かう手塚を、リョーマは唇を噛み締めながら見送った。 
      手塚を労るように話しかけながら歩く大石や竜崎に並んで、自分も病院までついて行きたかった。 
      だが、手塚の瞳が自分に「ついてくるな」と言っているように、リョーマには、見えた。 
      だからリョーマはまっすぐ家に帰って風呂に入り、気も漫ろに夕飯を済ませてから受話器を手に取った。 
      『…大丈夫だ。心配ない』 
      受話器の向こうの手塚の声は至って冷静で、その冷静さがかえってリョーマを不安にさせる。 
      「ホントに?」 
      『……』 
      短い沈黙の後で、手塚が微かにため息を吐いた。 
      『九州に……行くかもしれない』 
      「え?」 
      リョーマの目が大きく見開かれる。 
      『向こうに青春学園大付属の病院がある。そこでしばらく治療することになりそうだ』 
      「……九州…」 
      『…すまない』 
      「……」 
      『リョーマ?』 
      黙り込んでしまったリョーマを気遣うように、電話の向こうの手塚が柔らかくリョーマの名を呼ぶ。 
      「…あ、…うん……そっスか……ちゃんと治るんなら…行った方がいいよね」 
      『……』 
      「アンタの分はオレたちが何とかするし…」 
      今度は手塚が沈黙した。 
      電話の向こうで、悔しげに眉を寄せている手塚の表情が、リョーマには見える気がした。 
      「…明日は…会えるよね?」 
      『ああ』 
      「じゃ、明日」 
      『リョーマ』 
      会話を続けていると、言ってはいけないことを口走ってしまいそうで、リョーマは醜態を晒す前に電話を切ろうとする。だがそんなリョーマの心情を知ってか知らずか、手塚がリョーマを呼び止めた。 
      「…なんスか?」 
      『………すまない』 
      「…っ」 
      リョーマの眉がきつく寄せられる。 
      「なんで謝んの?……後悔なんかしていたら、怒るよ?」 
      『…』 
      リョーマは受話器を握る手に力を込めた。 
      「アンタはアンタの試合を最後までやり遂げた。誰もアンタに文句なんか言わないし、言うつもりもないよ」 
      『ああ…後悔はしていない』 
      表情を和らげて、リョーマは手塚に聞こえないように小さく溜息をつく。 
      「出発はいつ?」 
      『多少手続きをしないとならないことがあるからな……だが数日中には行くことになるだろう』 
      「そっスか…」 
      リョーマの胸に小さな痛みが走る。だがその理由を口にするわけにはいかない。 
      「明日……部活が終わったら…ちょっとだけ…アンタの家に行ってもいい?」 
      『ああ』 
      「じゃ…明日」 
      『ああ、明日。お休み』 
      「うん。お休み」 
      リョーマはふっと微笑むと瞳を閉じて静かに受話器を置いた。 
      (逢えなくなる…) 
      大きく息を吐いて、リョーマはゆっくりと目を開ける。受話器に置いたままの自分の手が、微かに震えている。その手を受話器から引きはがし、強く握りしめた。 
      もう一度大きく息を吸い込んで、吐く。 
      リョーマは自分を叱咤するように両手でパンッと頬を叩くと、何事もなかったように二階の自室へと戻っていった。
 
 
  翌日、スリル満点のボーリング大会のあとで、顧問の竜崎の口から手塚の九州行きの話がレギュラーたちに告げられた。 
      さすがに動揺する面々の中、不二がリョーマに視線を向ける。リョーマは何も言わずにその視線を受け止め、まっすぐ見つめ返す。 
      それだけで不二にはリョーマの想いがわかりすぎるほどにわかった気がして、宥めるような微笑みさえも浮かべることができなくなった。 
      重い空気の中、手塚を囲んだままなかなか帰ろうとしない皆に向かって、竜崎が口を開く。 
      「手塚が抜ける穴は確かに大きい。だが、さっきも言ったように、あんたたちならやってくれるとアタシは信じてるよ。手塚も、今回がいい機会だと思って、治療に専念するんだね。完璧に治したら、とっとと戻ってきな」 
      「はい」 
      「さあ、今日はもう解散だ。明日からまたビシビシ行くよ!」 
      「うぃーっス!」 
      皆が手塚に声をかけてから背を向けて歩き始める。最後までじっと佇んだままだったリョーマが手塚の方を向くと、ちょうど竜崎が手塚に声をかけたところだった。 
      「手塚、ちょっと話があるんだが、時間はあるかい?」 
      「はい」 
      手塚はちらっとリョーマに視線を向け、小さく頷いた。 
      リョーマも小さく頷き返す。 
      「じゃ、お先に失礼します」 
      「気をつけて帰んな、リョーマ」 
      「ういーっス」 
      リョーマはとりあえず、一度自宅に戻ることにした。
 
  「ただいま」 
      「おぅ、早かったな、青少年」 
      居間を覗いたリョーマに、寝転んでテレビを見ていた南次郎が背を向けたまま答える。 
      「なんだよ、『早かったな』って…」 
      部活が終わる時間よりも遅く帰った自分に対して『早かった』という南次郎の言葉に引っかかってリョーマが聞き返す。 
      「いや〜てっきり手塚と別れを惜しんでくるんじゃねぇかと思ったんだが……」 
      「なにそれ」 
      「だってよぉ…暫しのお別れじゃねえか」 
      リョーマがほんのりと頬を染めてそっぽを向く。 
      「遠いよなぁ………ドイツじゃ」 
      「え?」 
      そのまま二階の自室へと階段を上りかけたリョーマは、続けて発せられた南次郎の言葉に自分の耳を疑った。 
      「何言ってんの親父?ドイツじゃなくて九州だろ」 
      「ああ〜ん?なんだ、まだ聞いてねえのか、リョーマ」 
      「!?」 
      リョーマはバッグを足下に落とすと居間に駆け込んで南次郎の背中を見つめた。 
      南次郎はちらりとリョーマに視線を流すと、小さく溜息をついた。 
      「今日の昼くらいにババアから電話があってな。手塚にドイツで治療を受けさせたいがどう思うかって聞かれた訳よ」 
      「何でドイツなんだよ」 
      南次郎は面倒くさそうにもう一度ため息を吐く。 
      「スポーツ医療施設があるんだよ。とりあえず九州行きを手配はしているが、昨日対戦したガッコの顧問の何とかって言うヤツが熱心に紹介してくれるんだとよ。まあ、俺も聞いたことのある名前の施設だから間違いはねぇだろうって言ったんだがな」 
      リョーマは目を見開いたまま呼吸を忘れた。 
      九州とドイツでは、距離が違いすぎる。 
      「…」 
      「マジで聞いてなかったみてぇだな」 
      南次郎には答えずに、いきなりリョーマは玄関で脱いだばかりのシューズを履き直し始めた。 
      「どこ行くんだよ」 
      「…部長のとこ」 
      短く言い捨てると、リョーマは薄暗くなってきた道へと飛び出していった。
 
  手塚は先ほどから電話の前で考え込んでいた。 
      何度も受話器を手にとって持ち上げては、そのまま元に戻すということを繰り返している。 
      (うちに来ると言っていたし…そのときに話せばいいのだろうか…) 
      軽く溜息を吐きながら電話を見つめていると、彩菜が困ったような顔をして歩み寄ってきた。 
      「国光」 
      「はい……あ、使われますか?」 
      手塚が電話の前から退こうとすると、彩菜が小さく首を横に振った。 
      「越前くんには早めにあなたの口から教えてあげなさいね」 
      「え…」 
      「あんなにあなたのこと慕っているんだから…あの子には一番に教えてあげないと…」 
      手塚は一瞬小さく目を見開いた。 
      「…そうですね…」 
      彩菜はリョーマが『後輩として』手塚のことを心底慕っていると言っているのだろうが、手塚は時折、この母親は自分たちのことを全て知っているのではないかという錯覚に囚われる。 
      「…今日、少し話をしにこちらへ来ると言っていたので、そのときに話そうかとも思うのですが…」 
      「越前くんが来るの?あ、じゃあ、ご飯一緒に食べるかしら?」 
      パッと表情を明るくする彩菜に、手塚も小さく微笑む。 
      「ちょうどよかったわ、今日おいしそうなお魚を多めに買ってきたの。越前くん、お魚好きだものね」 
      「ええ。喜ぶと思います」 
      「ご飯ももう少し多めに炊かないとね」 
      ニコニコしながら彩菜がキッチンへと足早に戻ってゆく。 
      それを見送り、手塚はまた溜息をつく。 
      (あいつが来てから話そう…) 
      そう思って自室に向かおうとする手塚の後ろで、電話の音が鳴り響いた。 
      (リョーマ?) 
      素早く手塚が電話に出ると、電話の向こうのザワつきが、まず耳に入ってきた。 
      「もしもし?」 
      『あ、もしもし、こちらは△△病院ですが、越前さんのお宅ですか?』 
      「え?いえ、違いますが」 
      『あれ?そちらに越前リョーマくんと仰るお子さんはいらっしゃいませんか?』 
      手塚の心臓が大きな音を立てた。 
      「越前は学校の後輩ですが…どうかしましたか?」 
      緊張し始める手塚の声に、キッチンから彩菜も顔を出してきた。 
      「国光?」 
      『そうですか、おかしいな…はっきり答えたのに……あ、では越前くんの自宅の電話番号がわかるようでしたら教えて頂けますか?越前くん、車と接触したようでして、さっきうちに運ばれてきたんです』 
      「えっ!」 
      手塚の顔から血の気が引いてゆく。 
      『とりあえず意識はしっかりしていますし、外傷はほとんどありません。いろいろ検査もしますのでご家族の方に来て頂きたいのですが』 
      「わかりました、越前の電話番号は××-××××-××××です。リョーマは無事なんですね!?」 
      『外傷についてはかすり傷程度です。詳しいことは検査をしないとわかりませんので。電話番号教えて頂けて助かりました。では、失礼いたします』 
      「はい…」 
      青ざめた表情のまま受話器を置く手塚を、彩菜が心配そうに覗き込む。 
      「国光?越前くんに、何かあったの?」 
      「事故に…車と接触したと……すみません、病院に行って来ます」 
      「わかったわ。気をつけて。これを持って行きなさい」 
      彩菜に財布ごと渡されて、手塚はやっと彩菜の顔を見た。 
      「行って参ります」
 
 
  手塚は病院に到着すると真っ直ぐ受付に向かい、リョーマの居所を尋ねた。 
      教えて貰った病棟に向かうと、廊下で立っている南次郎をすぐに見つける。 
      「おう、手塚」 
      「リョ…越前は?」 
      「ん、今ここの検査してる」 
      南次郎は『ここ』と言いながら自分の頭をトントンと指さした。 
      「…外傷はないと聞きましたが、本当ですか?」 
      「ああ、そっちは心配ねぇよ。車の方は咄嗟に避けたみてぇだが、そのあとバランスを崩したらしくてな……ちょっと打ったらしい」 
      手塚はきつく眉を寄せて汗ばむ手を握りしめた。 
      さすがの南次郎も、僅かに顔が強ばっている。火をつけないまま手にしている煙草を見ては「ちっ」と舌打ちを繰り返した。 
      「…すまねぇな……お前も忙しいだろうに……」 
      「…いえ」 
      そのまま重苦しい沈黙がしばらく続く。 
      そうして何時間にも思えた十数分が過ぎた頃、検査室のドアが静かに開いた。 
      カラカラとストレッチャーで運び出されてくるリョーマに、手塚が駆け寄る。 
      「リョーマ!」 
      「え」 
      きょとんと見つめ返してくるリョーマを見て、手塚は安堵の溜息を吐いた。 
      「大丈夫か?」 
      「…まあ」 
      不思議そうに見つめ返してくるリョーマに違和感を覚えつつも、手塚は南次郎と並んでリョーマの病室までついて行った。 
      病室に到着すると、リョーマは看護婦の手を借りずに自力でベッドに移る。 
      「今夜はここに泊まってもらうからね」 
      「はーい」 
      看護婦にニッコリと笑いかけられてリョーマは仕方なさそうに返事をした。看護婦は振り返ると南次郎に向かってテキパキと事務的な話を始める。 
      「越前さん、検査の結果が出るまでとりあえず入院して頂きます。それで入院の手続きなんですが…」 
      手塚は看護婦の横をすり抜けてリョーマの傍らに立った。 
      「どこか痛みはないか?」 
      「…うん」 
      「病院から電話をもらったときは心臓が止まるかと思ったぞ」 
      「…」 
      ジッと見上げてくるリョーマに手塚が微笑みかけると、リョーマは警戒するように顎を引いた。 
      「あのさ」 
      いつもと違う声音のリョーマに、そしてその鋭く煌めく瞳に、手塚はリョーマが言葉を紡ぐ前に異変を察知した。看護婦と話していた南次郎も気づいてリョーマと手塚を見る。 
      「アンタ、誰?親父の知り合い?」 
      「…っ!」
 
 
 
  看護婦から連絡を受けてすぐに駆けつけた若い医者が南次郎と手塚を退室させてリョーマの『記憶の異常』を調べ始めた。 
      数分の問答の結果、若い医師はリョーマの症状を「解離性健忘の可能性がある」とした。いわゆる『記憶喪失』なのだが、医者の言葉はいちいち難しい。 
      さらに医師の話によると、『健忘』つまり一般に記憶喪失とも言われる症例の中でも、ある特定の時期以降から現在までの間に起きた出来事を思い起こすことができないと言う、大変稀な「持続性健忘」の疑いがあるらしかった。しかし、少しの間様子を見てみる必要があるという結論を、その若い医師は、最終的には出した。 
      「おいリョーマ、お前、俺のことは覚えているのか?」 
      「忘れたかったけど、無理だったみたい。残念」 
      南次郎の言葉に「いつものように」リョーマが答える。 
      「で、こいつのことは覚えてねぇってか?」 
      「………」 
      南次郎が指さした手塚をジッと見つめてから、リョーマは申し訳なさそうに項垂れた。 
      「気にすることはない」 
      「え?」 
      黙ってリョーマを見つめていた手塚が発した優しげな声に、リョーマは少し驚いたように顔を上げる。 
      「俺はお前が4月から入部した青学テニス部の部長だ。一年生でレギュラーの座を勝ち取った、皆の期待を担う部員が怪我をしたと聞いて駆けつけただけだ」 
      穏やかにリョーマに語りかける手塚の横顔を、南次郎は静かに見つめた。 
      「お前と俺は、個人的に親しかったわけではない。青学男子テニス部の部長と部員、それだけだ」 
      「ふーん、アンタもテニスやるんだ?」 
      リョーマの瞳が一瞬煌めく。 
      手塚は、初めて出会ったときのリョーマの瞳をふと思い出した。 
      どこかテニスに対して冷めてはいたが、強そうな相手には真っ向から挑んでくる瞳。 
      手塚に無限の可能性を感じさせた瞳だ。 
      「医者の許可が取れるようなら部活に出てこい。何を忘れても、テニスは身体が覚えているだろうからな」 
      「ねえ」 
      「なんだ?」 
      「オレはアンタのこと、『部長』って呼んでたの?」 
      自分を映すリョーマの瞳が微かに揺れているのを、手塚は切なげに見つめ返す。 
      「…そうだ」 
      手塚は小さく溜息をつくと、南次郎を振り返った。 
      「そろそろ失礼します。お大事に」 
      「…ああ」 
      一礼をして病室を出て行こうとする手塚を、南次郎が「おい」と呼び止めた。 
      「はい」 
      平然とした表情で振り返った手塚に、南次郎は一瞬言葉を失った。 
      「いや、その…気をつけて帰れよ。もう遅いからな」 
      「ありがとうございます」 
      静かに閉まったドアを少しの間見つめていた南次郎は、一つ溜息をつくとリョーマを振り返った。 
      「おい、リョーマ」 
      「…なに?」 
      珍しく真面目な顔で近づいてくる南次郎を見上げて、リョーマは軽く眉を寄せた。 
      「本当にあいつのこと、覚えてねぇのか?」 
      「…なんだよ……しつこいな」 
      南次郎は真面目な顔のままガリガリと頭を掻いた。 
      「じゃ、聞くけどよ、お前『どこに』行こうとしていたんだ?」 
      「え……わかんない………けど…」 
      「けど?」 
      茶化すわけでもなく問い返す南次郎をちらっと見やり、リョーマは視線をシーツの上の手元に移した。 
      「…たぶん…すごく……行かなきゃならないところが…あるんだ……」 
      「行かなきゃならないところ?」 
      「ん…」 
      手元を見たままリョーマが頷く。 
      「誰かが……オレのこと待っている場所に…早く行かなきゃならないんだ……早く行かないと…大事な何かが消えてなくなっちゃうから……」 
      「消えてなくなる?」 
      「オレはどこに行こうとしていたんだよ、親父!」 
      初めてかもしれない縋りつくような瞳を、リョーマは南次郎に向けた。だが南次郎は、その瞳を冷静に見つめ返す。 
      「そんなの知るか。自分で思い出せ」 
      「…っ!……ケチ!」 
      「なっ?ケチって……おまえなぁっ…」 
      南次郎の言葉をノックの音がかき消す。 
      「リョーマ!」 
      ドアを開けて飛び込んできた母親に抱きしめられながら、リョーマは手塚の後ろ姿を思い浮かべていた。 
      (あの人は………『誰』だ……?)
 
 
 
 
  翌日、放課後の練習開始前に、竜崎からレギュラーたちにリョーマの事故のことが簡単に報告された。 
      「さっきリョーマの父親と話したんだが、脳にも異常はなかったらしい。明日にはひょこり出てくるかもしれないよ」 
      事故と聞いて一瞬レギュラーたちの間に緊張が走ったが、「怪我なし、異常なし」の竜崎の言葉に全員が胸をなで下ろした。 
      「手塚は会いに行ったんだよね」 
      コートに向かう途中、不二が手塚を捕まえる。 
      「ああ」 
      「本当に大丈夫だった?」 
      手塚は不二を一瞬見つめると、溜息を吐いた。 
      「…不二には隠せないだろうから言うが…あいつは4月からの記憶をなくしている」 
      「えっ?」 
      不二が手塚を凝視する。 
      「青学に入ったことは覚えているが…テニス部に入ったことは覚えていないんだ」 
      「テニス部に入ったことを……覚えていないって……」 
      「ああ、今までテニス部員として過ごした時間を、全て忘れてしまっている」 
      手塚は不二から視線をはずしてコートを見つめた。 
      「一時的なものなんでしょう?」 
      「わからない……一時的なのか、一生忘れたままなのか……」 
      「手塚のことも?」 
      手塚はゆっくりと不二に視線を戻す。 
      「越前くんは、君とのことも、忘れてしまったの?」 
      「……ああ」 
      穏やかに答える手塚の表情に、不二はきつく眉を寄せた。 
      「手塚……まさかこのまま……」 
      「不二〜!練習開始だにゃ〜!こっちこっち!」 
      「あ、うん、今行くよ」 
      菊丸に呼ばれて不二が返事をする間に、手塚は不二に背を向けてコート奥のフェンス際に向かって歩き始めていた。 
      「手塚!」 
      「練習に集中しろ、不二」 
      「………」 
      全ての言葉を拒絶する手塚の背中を、不二はただ見つめることしかできなかった。
 
 
  退院を許されて自宅に戻ったリョーマは、縁側に座り、ぼんやりと空を眺めていた。 
      飲みかけのファンタに手を伸ばし、一口飲んでからジッとカラフルな缶を見つめる。 
      (こんな風にのんびりしていて…いいんだっけ…?) 
      心の奥で、何かが自分を急き立てている。 
      だが何をすればいいのか、どこへ行けばいいのか、リョーマには思い出すことができない。 
      そのとき、ふと、病院で会った男の言葉を思い出した。 
      『医者の許可が取れるようなら部活に出てこい。何を忘れても、テニスは身体が覚えているだろうからな』 
      リョーマは缶を握る手に力を込めた。 
      「…それもそうだね」 
      リョーマは一気に残りのファンタを飲み干すと、すくっと立ち上がった。
 
 
  「あっ、おチビ!」 
      菊丸の声にテニス部全員の視線が一点に集中した。 
      「え……と……ども」 
      皆の視線の先で、私服のリョーマがびっくりしたように目をまん丸くしていた。 
      「大丈夫なのか?」 
      「もう歩き回っていいの?」 
      「心配かけやがってこのヤロ〜」 
      レギュラー陣が練習を放り出してリョーマを取り囲む。他の部員も練習の手を止めてリョーマたちを見ていた。 
      「なんか家にいてもヒマだったんで…」 
      桃城がぷっと吹き出す。 
      「なんだそりゃ。一応怪我人なんじゃねぇの?」 
      「別に。擦りむいただけっスよ」 
      「んじゃ、やるか?」 
      「いーっスね」 
      リョーマの瞳が楽しげに煌めく。 
      「医者の許可は取ったのか?」 
      すぐにもコートに入っていきそうなリョーマに、硬質な声がかけられた。 
      「え?許可は…取ってないっス」 
      「ならば見学していろ」 
      手塚が少し離れたところから、リョーマを見ずに言い放った。 
      「なーんだ、せっかく来たのに…」 
      「でも手塚の言うことも一理あるよ。今日のところは見学にしておきなよ、越前くん」 
      不二にニッコリと諭されて、リョーマは渋々コートから離れるとフェンスに寄りかかった。 
      「さあ、練習を再開しろ。一試合終わったが、まだ大会中だ。気を引き締めていけ」 
      凛とした声に、ふと、リョーマは少し離れたところに立つ手塚を見た。腕を組んだまま鋭い瞳で練習を見守る手塚の傍にゆっくりと歩み寄る。 
      「ねえ。アンタも見学?」 
      「……ああ」 
      「なんで?怪我でもしたの?」 
      「そうだ」 
      「ふーん」 
      リョーマを見ることなく質問に淡々と答える手塚に、リョーマはなぜか苛立ちを感じる。 
      「アンタが部活に来いって言うから来たのに……『見学』じゃ意味ないじゃん」 
      頬を膨らませて文句を言うリョーマにちらっと視線を走らせて、手塚はリョーマに気づかれないように微かに笑う。 
      「明日は医者の許可を取ってから来ることだ。検査では何も引っかからなくとも、まだ油断はできないからな」 
      「はーい、部長」 
      ふて腐れたように返事をするリョーマに内心微笑みつつも、手塚は小さく溜息をしてみせる。 
      「…コートに入りたい気持ちは、俺にもよくわかる。だが今は我慢しろ。大丈夫だ。きっとすぐにまたコートでお前が輝く時が来る」 
      リョーマは少し驚いたように手塚を見上げた。 
      仏頂面をした、ただのおカタイ『部長サマ』だと思っていたのに、強がる自分の心をわかってくれている。 
      「……うん」 
      リョーマは肩の力を抜いて、フェンスに寄りかかった。 
      「明日…」 
      呟くように言ったリョーマの言葉に、手塚はゆっくり視線を向ける。 
      「明日、医者の許可をもらってきたら……アンタと打ちたかったな…」 
      手塚は小さく目を見開いた。 
      「でも無理そうっスね。アンタも怪我人だったんじゃ…」 
      「………とにかく明日は医者の許可を取ってから来い。本格的に練習に参加させることはできないが、別にメニューを考えておこう」 
      「ういっス!」 
      嬉しそうに自分を見上げてくるリョーマに、思わず手塚が小さく微笑む。 
      その瞬間、リョーマの鼓動が大きく鳴った。 
      (え?なに…?) 
      「どうした?」 
      微かに頬を染めて自分を見つめるリョーマに、手塚が不審そうに声をかける。 
      「……別に」 
      慌てて視線を逸らすリョーマの横顔を少しの間見つめていた手塚は、諦めたように目を閉じると、視線を再びコートに戻した。 
      「大石、踏み込みが浅い。スピードも威力も半減するぞ」 
      「ああ、ありがとう手塚」 
      レギュラーたちそれぞれに的確なアドバイスをする手塚の横顔を、リョーマは時折そっと盗み見る。 
      最小限でポイントを突く言葉に感心しつつ、リョーマはその声にも聞き入っている自分に気づいた。 
      (こういう声…結構好きだな…) 
      父親とは違う、自分とももちろん全然違う、今まで聞いたこともないような心地よい響きを、リョーマは手塚の声から感じ取っていた。 
      「…ねえ、部長」 
      「なんだ」 
      自分を見ずに返事をする手塚に、リョーマはなぜかさっきとは違って切なさを感じる。 
      「……なんでもないっス」 
      それきり黙ってしまったリョーマに、手塚がやはりコートを見つめたまま言う。 
      「……越前」 
      「なんスか」 
      「帰りは俺が送っていく。着替えるまで少し待っていろ」 
      「え……?」 
      リョーマは手塚の意外な申し出に驚いて顔を上げた。 
      「なんで…?」 
      「何か不満でもあるのか?」 
      ちらりと視線を向けられ、リョーマが口ごもる。 
      「いや、…別に……ないっス」 
      「また事故に遭われてはたまらんからな」 
      手塚の言葉にリョーマは一瞬ムッとしたような顔をするが、ふいに「…あ、そうだ」と、ずっと気にしていたことを思い出したように、大きな瞳で手塚を見上げた。 
      「何でアンタのとこに病院から連絡がいったんスか?ふつうはオレの家に直接かけるんじゃ…」 
      「事故の直後で混乱していたんじゃないのか?自宅の電話番号を訊かれてお前が答えたのが俺の家の番号だったんだ」 
      「ふーん……なんで部長の家の番号なんか覚えているんだろ…」 
      「……」 
      手塚はリョーマに気づかれないように、ぐっと奥歯を噛み締めた。 
      全てを話して今すぐリョーマを抱きしめてしまいたくなる衝動を、必死に抑え込む。 
      「…今日はもうあがるか?ちょっと待っていろ、竜崎先生に断ってから着替えてくる」 
      「あ、ういーっス」 
      手塚が竜崎のいる隣のコートへゆっくり歩き出す。その姿を目で追っていたリョーマは、自分を見つめる別の視線に気づいた。 
      その視線の主である不二が、ニッコリと微笑んで近づいてくる。 
      「そろそろ帰るのかな?越前くん」 
      「…そうみたいっス」 
      不二は「今日はそうした方がいいね」と言いながらリョーマの隣のフェンスに寄りかかった。 
      「手塚から君の記憶のことは聞いているよ。本当はみんなのこと、覚えてないんでしょ?」 
      「………」 
      リョーマはちらっと不二を見てから、溜息をついた。 
      「でもオレがここの部員だったってのは納得できるっス。ここにいると、なんか安心するって言うか…」 
      「手塚が傍にいたからじゃないの?」 
      「は?」 
      不二の言葉に、リョーマは眉をひそめて聞き返した。 
      「なんで部長が傍にいると、オレが安心するんスか?」 
      「以前のキミがそうだったから」 
      「………なにそれ」 
      リョーマはきつく眉を寄せると、隣のコートで竜崎と話をする手塚を見やった。竜崎に一礼をして手塚がこちらを振り向くと、リョーマは視線が合わないようにわざとそっぽを向く。 
      「ほら、やっぱり意識してる」 
      「別に。そんなのしてないっスよ」 
      「…もうあまり時間がないんだ。素直になった方がいいと思うけど?」 
      「え…どういう…」 
      「不二、練習はどうした」 
      不二とリョーマが話しているのを見た手塚が、少し足を速めて戻ってくる。 
      「今交代したところだよ。5分休憩中」 
      「不二」 
      戻ってきた勢いのまま、手塚が不二の腕を引いてリョーマから少し離れさせ、小声で話す。 
      「……越前に妙なことを吹き込むな」 
      「…わかってるよ」 
      手塚は目を伏せて溜息を吐くと、リョーマに向き直った。 
      「一緒に来い」 
      「え?」 
      クギを刺したとはいえ、不二がこのままおとなしくしているとも思えない手塚は、これ以上リョーマに余計なことを吹き込まれないように、一緒に部室まで連れて行くことにした。 
      「お先に失礼しまーす」 
      「大石、すまないがあとのことを頼む」 
      「ああ、わかったよ、手塚。越前も、今日はおとなしくしてろよ!」 
      「ういーっス」 
      部室に向かう二人を見送って、不二は溜息をついた。 
      「不二?」 
      菊丸が心配そうに不二を覗き込む。 
      「このままで本当にいいのかな、手塚は……」 
      「おチビもね」 
      「……うん……そうだよね…」 
      不二と菊丸の視線の先で、部室のドアが静かに閉められた。
 
  「不二に何を言われた?」 
      「別に」 
      そっぽを向いて答えるリョーマに小さく溜息を吐くと、手塚は着替えを開始した。 
      手塚が脱いだユニフォームの下から、痛々しく包帯に巻かれた肩が現れたのを見て、リョーマが眉を寄せる。 
      「肩…やったんスか?」 
      「…ああ」 
      「いつ」 
      「試合中だ」 
      「じゃあ…その試合……」 
      手塚は答えずにリョーマを見た。リョーマの瞳が小さく揺れている。 
      「肩のせいにはしたくない……俺がまだまだ弱かったんだ」 
      「……」 
      「お前のおかげで青学は勝利した。いい試合だったぞ、越前」 
      手塚が微笑む。その柔らかな瞳に、リョーマの心臓が再び激しく脈打った。 
      (まただ…!) 
      今度は真っ赤になってしまった顔に気づかれないように、リョーマは返事もそこそこに部室の中を見回すふりをした。 
      密室に二人きりでいるせいか、リョーマの鼓動は静まる気配がない。 
      (なんでこんな……これじゃあまるで…オレが部長のことを……) 
      「つっ…」 
      手塚の呻きで、リョーマの思考がとぎれた。 
      「え?大丈夫っスか?ぶつけた?」 
      リョーマが手塚に駆け寄る。 
      「…いや、なんでもない、大丈夫だ」 
      手塚は左手に持っていたバッグを右手に持ち替えた。 
      「バッグ、持とうか?」 
      「心配するな。もう何ともない」 
      間近で視線が合わさり、リョーマの胸がさらに高鳴る。 
      「待たせたな、行こう」 
      そんなリョーマの様子に気づいていないように、手塚がリョーマの横をすり抜けて部室のドアを開ける。 
      「ういっス……」 
      リョーマは自分の前を歩く男の背中を、困惑した表情で見つめた。
 
 
  「あ、あそこ…」 
      帰る道すがら、リョーマは目についたファストフードの店を指さした。 
      「もしかしてあの店って、オレがよく行っていなかった?」 
      「…ああ、よく帰りに寄っていたようだな。桃城と」 
      「モモシロ?」 
      「さっきお前とコートに入ろうとしたヤツだ」 
      「ああ、あの人…」 
      手塚は立ち止まって一瞬考え込むと、リョーマに向き直った。 
      「…寄っていくか?」 
      「え?いいんスか?」 
      「今日は特別だ」 
      「ふーん。部長のおごり?」 
      上目遣いに見上げてくるリョーマの瞳が、いたずらっ子のようにキラリと輝いた。 
      手塚は目を細めると、胸の痛みをこらえて『渋々頷く』演技をする。 
      「滅多にないことだ。おごってやる」 
      「やった!」 
      嬉しそうに笑うリョーマに手塚の表情も和らぐ。 
      (この笑顔が見られれば、もう充分だ…)
 
 
 
  リョーマの家の近くの道を、二人は並んでゆっくりと歩いていた。 
      「今日はごちそうさまっした」 
      「ああ…たまに食べると美味く感じるものだな」 
      「いつもは真っ直ぐ帰るんスか?」 
      「当然だ」 
      部活の時よりも手塚の表情が軟らかい気がして、リョーマは無性に嬉しくなる。 
      (このままもう少し、この人と歩いていたいな…) 
      ぼんやりとそんなことを考えているうち、リョーマの家が見えてきてしまった。 
      「ここまででいいか?」 
      「…寄って行かないんスか?」 
      「遠慮しておく。ご家族に気を遣わせてしまうからな」 
      「………そっスか…」 
      明らかに落胆しているリョーマを見て、手塚は思わずその頭をぽんぽんと軽く叩いていた。 
      「え…?」 
      「あ……いや、すまない、じゃあな」 
      「…ういっス、部長」 
      「ん、また明日な」 
      手塚がリョーマに背を向ける。 
      「……部長っ」 
      優しげな手塚の瞳の中に一瞬翳りを見た気がしたリョーマは、自分でも気づかぬうちに手塚を呼び止めていた。 
      「なんだ?」 
      「え…と、あ、いや、なんでもないっス……じゃ、」 
      身を翻して家に向かおうとするリョーマに一台の自動車がスピードを落とさずに角を曲がって突っ込んできた。 
      「リョーマっ!」 
      「えっ、うわっ!」 
      手塚がバッグを投げ出し、リョーマの身体を引き寄せる。 
      間一髪、車をやり過ごすと、手塚は安堵の溜息を吐いた。 
      「…俺がついてきて正解だったな」 
      「………」 
      しっかりと手塚に抱き締められて、リョーマは激しく動揺していた。 
      「リョーマ?」 
      突っ込んできた自動車のせいではなく、抱き締めてくる手塚の腕の強さに胸が高鳴り、リョーマは眩暈すら覚える。 
      「…大丈夫か?」 
      密着した身体全体に手塚の声が響き、リョーマの心はさらに熱く揺さぶられる。 
      (オレは……たぶん、この人のことを……) 
      手塚の香りがリョーマを包み込む。リョーマはいつの間にかうっとりとしたように目を閉じて手塚に身体を預けていた。 
      「……」 
      「…っ!?」 
      一瞬、リョーマは手塚に強く抱きしめられた気がしたが、すぐに身体を引きはがされた。 
      「しっかりしろ、越前、大丈夫か?」 
      「………大…丈夫…っス……」 
      「玄関先まで送ろう」 
      心配そうに覗き込んでくる手塚から、リョーマはそっと顔を背けた。 
      「いいっスよ。もう平気だから。じゃ、部長、また明日」 
      手塚と目を合わさずに早口でそれだけ言うと、リョーマは自宅の方へ走り出した。 
      (こんなの変だ……部長は男なのに……っ) 
      今も背中を手塚に見つめられているだろうと思うだけで、胸に熱い何かが広がってくる。 
      (ただの部長と部員だって……最初に言っていたじゃんか…!) 
      玄関に飛び込み、勢いよくドアを閉めて、そのままリョーマはドアに寄りかかった。 
      『リョーマっ!』 
      身を挺してかばってくれた手塚の声が鮮明によみがえる。 
      (…?) 
      リョーマはふと、顔を上げた。 
      「いつもは名字で呼ぶくせに……なんでさっき……」 
      そういえば最初に病院で会った時もそうだった。自分の名を『リョーマ』と、彼は呼んでくれた。 
      自分に向けられる手塚の優しげな瞳は、少なくとも部活中は他の誰にも注がれることがなかった。 
      (まさか…) 
      事故直後、咄嗟に答えた手塚の電話番号。 
      一瞬だが、確かに強く抱き締められた腕の感触。 
      リョーマの中でそれら全てがゆっくりと形を成そうとしている。 
      それでもどこか、まるでパズルの最後のピースをなくしてしまったように、はっきりとした確信にはなってはくれない。 
      「……親父、いる!?」 
      リョーマは瞳に強い光をともすと、南次郎に病院へ連れて行ってくれるように頼んだ。
 
 
 
  手塚は家に戻るとすぐ自室に入り、制服のままベッドに仰向けになって天井を見つめた。 
      自分から逃げていくようなリョーマの背中を、手塚は静かに思い起こす。 
      (リョーマ……) 
      堪えきれず、咄嗟に抱きしめてしまった。 
      腕に残る、自分より小さな身体の愛しい感触が、手塚の胸をきつく締め付ける。 
      リョーマの髪の香りも、身体の熱さも、何も変わってはいなかった。もしあのまま口づけても拒まれなかったのではないかとさえ思えるほどに。 
      だが、と手塚は思う。 
      記憶のないリョーマにそんなことをしてはならない、と。 
      今のリョーマが自分に対して抱いている『好意』は『部長』へのものだ。そしてそれは、恋愛感情であるはずがない。そんなリョーマに想いを打ち明けたところで、拒絶されないわけがない、と…… 
      手塚は目を閉じて大きく息を吸い込み、ゆっくりと吐き出した。 
      (大丈夫だ……このまま、俺はあいつに何も求めはしない…) 
      このままリョーマの記憶が戻らないのなら、その方がいいかもしれないと手塚は思っている。 
      激しすぎるリョーマへの自分の想いが、いつの日かリョーマを縛ることにもなりかねないのだ。 
      誰よりもリョーマに空高く羽ばたいて欲しいと願う自分が、リョーマの自由を奪ってしまうようなことがあってはならない。 
      (それに……) 
      今なら、リョーマを悲しませることなく、旅立って行けるかもしれない、とも思う。 
      (俺は卑怯だな…) 
      恋愛感情ではなく、ただの『好意』ならば、別れの言葉をすんなり受け入れてくれるだろう。 
      そして、ただの後輩ならば、自分もつらい思いをせずにすむかもしれない…… 
      そこまで考えて、手塚はハッとした。途端に、自分に対する嫌悪感が胸に湧き上がる。 
      (これは『逃げ』だ) 
      手塚はきつく眉を寄せた。 
      別れを告げる瞬間を恐れているのは自分の方だ。 
      そしてリョーマの将来を気にするように見せかけて、本当は自分とリョーマの行き着く先に、微かな不安を感じているのかもしれない。もしもいつかリョーマが自分から離れていくのなら、今のうちに自分から手放してしまった方がダメージが少ない、と。 
      (情けない男だ…) 
      自分は何度もリョーマに『離さない』と誓ったはずだ。そしてリョーマも自分を離さないと言った。 
      (なのに、今、俺が考えたことはなんだ…っ) 
      手塚は勢いよく身体を起こした。 
      悪い方へとばかり考えを巡らしていた自分の思考回路を断ち切るために、しなければならないことがある。 
      手塚はバッグからラケットを取り出すと、ラケット専用のバッグに詰め替え、手早く制服をウエアに着替えた。 
      階段を下りてきた手塚の格好を見て彩菜が驚いて目を見開く。 
      「国光?あなた何を…」 
      「無茶はしません。旅立つ前にやらなくてはならないことがあるんです」 
      彩菜はじっと息子の顔を見つめた。真っ直ぐに見つめ返してくるその瞳に、ふっと微笑みを浮かべる。 
      「あなたはどんどん私の手を離れていってしまうのね。…わかりました。あなたは自分の行動に自分で責任をとれる子です。好きなようになさい」 
      「…ありがとうございます」 
      手塚は彩菜に頭を下げると、玄関でシューズを履き、紐をしっかりと結び直す。 
      (リョーマ…) 
      そうして傾きかけた日の光の中へ、力強く歩き出した。
 
 
 
  
            
    
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