「華鬼」 中 編  


 私は闇の中に孤座っている。
無人の家の中は勿論の事、家の周囲ですら白昼にもかかわらず
物音一つしない。
 けれど私には聞こえてくる。
表の桜樹に叢る蕾の一つ一つが、膨らみ、解れ、ざわざわと
揺れながら開いてゆくその音が。鈍色の海の辺の町から押し寄せる、
泡立つ薄紅色の花の波が、この東京中を押し包むその騒めきが。
常時は通行人が気にも留めない木ですらも、今は日に日に魔に近付く。
日頃は穏やかな人々が皆、この都が異界となるその瞬間を心待ちに
している。
 皆平気なのだろうか。皆畏ろしくはないのだろうか。
自分達の居場所が、逃れる隙なく白い鬼の指先で埋め尽くされて
行くというのに。

 来た。

 玄関の三和土が幽かに鳴る。表の戸を開けた気配は無かった。
最前の騒々しい客が開け放した儘に成っていたのだろう。
そのまま、軽い鳥の羽音のようなものが続く。
 はたはた。はたはた。
大きな鳥が静かに羽搏いているようだ。
天狗ではあるまいに。
漸く上がって廊下をこちらにやって来る気配がする。
足音という程のものは無い。
 やがて閉ざした襖の向こうから、抑えながらも善く通る声がした。
「関口君。此処かい」
 私の微かな返答に、襖が静かに引き開けられる。
廊下の薄明かりを背に暗い色の和服姿の男が立っていた。
闇に慣れた私の目にも、映るのはただ男の影の輪郭のみだ。
片手に布を携えている。黒い──羽織。
「京極堂──」
 声が慄えるのは安堵の為か、それとも怖れの為だろうか。

 室内に招くと、和装の男は暗い中をするすると奥へ進んだ。
馴れた様子で私が書き物に使っている窓際の文机の上から陶製の
灰皿を取り、改めて私と向かい合って座る。平生は店のある彼を
時間の自由が効く私が訪ね、その逆はあまり無いのだが、それでも
家の勝手は善く知っている。京極堂は袂から紙巻きを取り出し
ながら聞いた。
「吸っていいか?」
 おかしな事を云う、と思った。大体私達は何時もお互い煙草を
呑みながら無駄話をしている。わざわざ伺いを立てる事などない。
私が不審を口にすると、友人は空の灰皿を示して言った。
「だって君は全然吸っていないじゃないか」
 そういえばそうだった。私はこの三日間煙草を吸っていない。
妻が私の事を風邪だと言った事を思い出し、少し風邪気味なのだと
答えた。其の様だねと言って、京極堂も煙草には手を付けなかった。
茶をいれなければと思い、立った序に私は文机に手を伸ばす。
「そ──そうだ、君にこの本を返そうと思っていたんだよ、
丁度善かった」
 机に載せた儘になっていた借り物を持ち主に渡す。
昨日返そうとして果たせなかった本だ。
「ああ、急がなかったのに。大体君はちゃんと全部読んだのか?」
「必要な所は──」
「全部読み賜え。君が自分で買った本ならば読まなくともそれは
君の勝手だが、此れは僕の本だ。所有者の意向には従って貰う」
 此処なぞ君は是非読むべきだ、などと早速手渡された自分の本を
開いて捲り始める書痴を見下ろし、部屋を出ようとした私はそのまま
立ち竦んでしまった。
 変だ。凄く変だ。
京極堂は何時もの様子で本に目を落としたまま喋り続けている。
だが、読める筈が無いのだ。この部屋は──暗い。
「あ、あの、京極堂」
 何だい──と友人は俯いたまま答える。
「よ、読めるかい?」
「読める訳が無いだろう。真っ暗じゃないか。石榴なら少々暗くとも
物が見える様だが、生憎彼奴は字を知らない」
 猫が書を読んだら化け物だ。ふと気付くと、猫の飼主の傍らには
何か得体の知れぬ真っ黒な柔らかい生き物の様なものが蹲っている。
畳んだ羽織だ。
「あ、灯を付けようか?」
 今更ながら私は言った。考えてみたら最初に彼を部屋に入れた際、
そうする可きだったのだ。
友人は漸く顔をあげて私を見た。
「まだ外は明るいよ。雨戸を開けたら善いだろう」
 それは──駄目だ。
私の表情を見て、京極堂は手にした本を閉じた。
膝の前に本を置くと、袂が腕に従う濃い影のように畳に落ちる。

「君は──桜が怖いのかい」

 それまでやっとの思いで、平静に振る舞って来た私の枷が外れた。


              *


 堰を切ったように言葉が溢れ続ける。私は吃り乍ら、閊え乍ら、
この数日間の出来事を語った。どこまでが日常で、どこからが非常か
私には判らない。どこまでが正常で、どこからが異常か、私にはもう
判らない。何もかも語り終えてしまうと、私には友人の判定を待つ
事しか残されていない。

 教えてくれ京極堂、私は、私は──

 声が問う。
「それで、何か不都合が有るのかい?」
「ふ?」
 顔を上げて正面から友人を見詰めると、彼は両の袖に腕を入れ、
少し体を傾けて私を見ている様だ。本も読めないし、煙草も吸えない
ので手持ち無沙汰なのかもしれない。
「不都合って──」
「だって君は、仕事はいつもここでしているだろう。一昨日原稿を
届けに行ったのだって散歩がてらで、普段は編集者がここまで取りに
来る。だいたい君は遅筆で何時もは鳥口君やら愚妹やらを無理矢理
待たせて缶詰めになっているじゃあないか。
取材の依頼だって一刻を争う特ダネなんか来やしない。
時期をずらせば善い。桜の盛りは一週間、せいぜい十日、大事を
取って二週間外出を我慢すればどんなに桜が嫌いでも特に不都合は
無いだろう」
 そ、そんな、
「旦那みたいに外回りが商売、しかも一人暮らしときては死活問題
だろうけれどね。君は買い出しに行く必要も無いから善いじゃないか。
そうだなあ、『怪奇!血を流す桜の怨念伝説』なんて取材依頼が来たら
困るな。それと、もし雪絵さんが花見に行きたいと言いだしたら、
うちのと行かせ賜えよ。君は早めに梅見に連れて行くと好い。
梅のほうが格調は高いし、香りも佳い。なにより文学に成る」
う、梅が佳いのは知っているが、
「なんだい君は、自分が花見をしたいとでも言うのか?毎度毎度
榎木津に衆人注視の中で芸をさせられて、酒もさして飲めない癖に
あんな乱痴気騒ぎが楽しいかなぁ。そういえば、一昨年の安来節は君、
どこで覚えたのだい?」
あれは、出版社の慰労会──では、なくて、
「京極堂ぉ!」
 思わず声が裏返る。
「も、問題なのはそんな事じゃない──」
 じゃあ何が問題なのだ、と友人が聞く。
「変じゃないか?桜が怖いなんて、」
「変、だな」
 いまさら君に変が一つ増えても大差ないだろう、と変の大家が
保証する。
なにか──噛み合っていない。
私の深い苦悩が全く伝わっていないようなので、私はここ数日の
「変」さ加減を重ねて強調した。語りながらだんだんに薄気味が悪く
なって来る。私を揶揄っているにしろ、本気で判っていないにしろ、
日頃嫌になる程察しの良いこの男に、私のこの苦境が通じないなど
という事があるだろうか。
 私は顔形の定かには判らない黒い着物の男をまじまじと見詰め
直した。
いくら見てもこの暗がりではその姿は判然としない。
何の脈絡も無く、渡辺綱が一条戻橋で出会ったという鬼の話を
思い出した。奪われた腕を取り返す為に、鬼は物忌として自宅に
籠った綱に乳母の声で語り掛ける。
 京極堂、
君は、本当に京極堂か?


 私は心の裡に何かを隠している。
それが、謂れの無い不安を生むのだ。
それが、私にあらゆるものを鬼に見せるのだ。
 安穏とした日々の暮らしの中で、あの桜の人の事を忘れ去って
いた事を気に病んでいたのか。無惨な姿を見せられたショックや
尋問の際の非道な扱いを思い出したくないための自己防衛だったのか。
それらの出来事を封じ込めてしまうために、私は桜を恐れたのだ
ろうか。
「──苦しかったよ。君の憑き物落としを真似て、僕は自分の身に
起きた事態の解釈を試みた。自分自身の心理を理解しようと努力した。
自分の畏れを分析して、なんとか納得しようとしたんだ。
ずっと、ずっと考えていた。少し納得出来たと思った時に榎さんが
やって来て──」
 明るい満開の桜樹のような友人の姿は、私をまた苦しめた。
私の自己分析は全く効果が無かったのだ。
「何も悲しいとは思わないのに、ひとりでに泪が出てきた。
僕の精神は僕の制御を離れている。僕の中には僕の手の届かない
何かが居る。そいつが勝手に僕の躯を震わせる。これは、君の言う
憑き物なのか?もしそうなら──」
「落としたいのか」
 聞き馴染んだ声が問う。
廊下からの薄明かりは、向かい合った男の片側の輪郭を浮き立たせる
ばかりで、その面貌は判らない。
「落としてくれるか、」
 縋る様な声になる。殆ど私は叫んでいる。
声が答える。
「僕には落とせない」
 そんな。
張り詰めていた全身の力が一気に抜ける。
 さらに──追い討ちを掛けるように
私が最も恐れていた助言が、よく通る声で発せられた。
「病院に行き給え。良い医者を紹介しよう」

 ああ。私は。私はやはり──

 落ち着いた声が病院と医師の名を告げる。
「大河内教授のところに話を聞きに行ったとき推薦された人だ。
若いけれど、その分野では最も進んだ知識と技術の持ち主だそうだよ。
安心してかかると善い」
大河内?
「大河内君の伯父上に?」
「そう、去年聞いたのだが、なんなら電話をしておこう」
 大河内教授は嗅覚刺激の研究をしている筈だ。
「い、いったい、その医者というのは、何の分野の権威なんだい?」
「アレルギーだよ」

 アレルギー?

「君は勝浦の事件での目潰し魔のいきさつを今川君から聞いているだろう。
奴は白粉を嗅ぐと皮膚に発疹が出来て心拍数が上がる白粉アレルギー
だった。それを視線のせいだと勘違いしたのが悲劇の始まりだ。
君が本当に一昨日アレルギーの発作を起こしたのかどうかは、専門家では
ないから今断定はできないが、かなり近い様に思わないかい。
もしそうだとしたら原因物質は調べてもらわないと判らないけれど、
二度とも外での事なのだから、いずれ空中を漂っている植物性か動物性の
微末だろう。そのせいで涙がでたり、呼吸が苦しくなったりするのだ。
洟も出るから一見風邪にも見える」
 故無き泪。胸苦しさ。動悸。鼻水。た、確かに──。
しかし。
「僕が──平野と同じ様なアレルギー患者だっていうのか?でも僕は
これまで一度たりとも過敏症の症状が出た事なんかないぞ。一度部隊で
古い鯖の缶詰を食べて、皆七転八倒していたけれど僕と旦那は平気だった」
 それは又最強コンビだな、と友人は唸る。
「しかしね。特定の物質に対する過敏症は、原因物質にある一定の量
晒されて、初めて発症するのだ。それまで平気だった人が次から
その物質に接すると突然症状に見舞われる。君も次に鯖を喰う時は
用心し賜えよ。大河内先生に拠ると原因物質はまちまちだが、
こういった症状の患者は年々増えているのだそうだ。将来はもっと一般に
認知されるようになるとも云われた。君もちゃんと検査して過敏症だと
診断されたら、素を特定してもらえば予防の仕方も判るだろう。」
「原因物質って?」
 京極堂はいきなり立ち上がると、窓に寄って硝子戸を開き、続いて
躊躇せず雨戸のさるを落とした。反射的に私は身を竦める。
立て付けが悪いな、少しは君も手を入れろよ──と力仕事を厭う古本屋が
零しながら、がたがたと音を立てて木製の戸は引き開けられる。充血した
目に外光が滲みる。鈍い銀色の光が室内に流れ込むと、私を包んでいた
真昼の闇は消え去った。
「何だ、雨戸が重いと思ったらさっきの雨で湿気ていたんだな。
この様子なら、たぶん君が外に出ても大丈夫だよ」
 外を見回してから硝子戸を閉め、手首を捻りながら京極堂は私の前に
座り直した。こうして見ると彼の着物は濃い茶色で、黒くはない。
「凡そあらゆる天然物質人工物質が原因に成り得るが、これまでのところ
風媒花の花粉が広汎な原因物質になり易いと聞いている。
軽いので、空中を広がって遠くまで飛ぶのだね」
 京極堂は自分で開けた窓を顎を上げて示す。
「目には見えないし、大概の人は反応しないので空気中にそんな物質が
ある事など誰も意識してはいない。榎さんが駆け込んで来た時、君は
家の中に居たのに症状が出たのだったね。彼は外を駆け回ってどこかで
全身にたっぷり原因物質をくっ付けて入って来たのだろう。あんな
ひらひらの山程付いた服なんか着ていたから余計にいけない」
 春らしい白いフリルの満艦飾が、満開の桜の花を思わせていた。
「君が入って来た時はなんともなかったよ」
「来る時雨にあったのさ。羽織が濡れて仕舞ったので此処の玄関先で
拭いたから、その時花粉なりなんなりは落ちたのだろう。それに僕が
君の発作の素を引被っているとは限らない。特定の場所にのみ多い
物質かもしれないしね。もし飛散花粉が原因なら風の無い日や雨の日、
それと夜間は花粉は飛ばないから症状が軽くて済むそうだ」
 あの押し寄せる騒めきは雨音だったのだ。鳥の羽音は羽織の雫を
はたく音だったのだ。
目覚めた後の夢のように、白い花の鬼は現実の中へ拡散して行く。
「榎さんはあの後、君の所へ行ったのだね」
「あの格好で掛け込んで来て、君が暗がりで一人花見をしているから
行ってやれ、と云われた」
「今も君の家かい?」
 店番をしている筈は無い。座敷で寝ているのだろうか。
「何かあったら待古庵に連絡するよう言って、出て行った」
「今川君に?」
「墓地に行ったんだよ。僕も花見をするぞ、と叫んでいたから」
 異相の古物商の店は青山にある。
まだ少々早すぎると思うがなあ、と自分の店を空けて来た古書店主は
顎を擦る。早い桜より謎の麗人の衣装のほうが余程人目を引く事だろう。
雨になったので、不運な元部下が無体な元上司に無理難題を吹きかけ
られているのではないかと、私は少し心配になってしまった。
「花粉って──そんなに強力なものなのか?」
「ヘイ・フィーヴァーというのを聞いた事がないかい。」
「塀──、何だって?」
「枯草熱というやつだよ。ヘイとは乾し草の事だ。春ではないが、
北米産の野草の播き散らす花粉のおかげで、何万人という人が毎年
特定の時期涙と洟で大層難儀するそうだ。日本にもその植物が上陸
してきて基地周辺や港湾では迷惑しているらしいよ。北欧では白樺
なんかが原因になると聞く」
なんだか聞いているだけで首筋が痒くなってくるようだ。
「桜は?」
「桜は虫媒花で花粉が大きいから原因にはなり難いだろう。
この時期外を歩けばこの東京では必ずどこかしらで桜を見かける。
どこで発作が起ころうと、おそらく君は桜を見ていることに
なったのだよ」
 もし僕と一緒の時続けて発作が起きていたら、君は僕が君に呪を
かけたと思ったのじゃないのかい、と呪術を善くする男は笑った。

「桜に罪は無いよ」






1999年03年



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