「華鬼」 後 編  


 私が勝手から茶を入れて来ると、部屋はすっかり普段の様子に戻っていた。雨戸
を開けてもさほど明るい部屋ではないのだが、京極堂は何時もの調子でさっき返さ
れた本の頁を捲っている。散らかった書き物机の上も、擦り切れた畳も、平生と同
じ曖昧な落ち着きを見せている。
 にもかかわらず、私にはまだ何かしら足りない様に感じられた。
茶を載せた盆を空の灰皿の横に置き、私は押し入れから座布団を出す。
一枚手渡すと、客は本から目を放さずに膝下に敷いた。これで善い。
 いや、まだだ。まだ何かが足りない。
「それにしても驚いたな──」
 座布団の上の地蔵の様な男に話し掛けながら、私はやっと何が足りないのかに思
い至った。御供えの茶菓子だ。
「僕が過敏症だなんて。いくら自分で心理分析してみても解けない訳だよ。」
 私のいれた茶はいくぶん渋い。いつも京極堂の家で味の無い茶を飲まされている
せいで、ついつい長く煎じてしまったようだ。
「理由の解らない現象が起きると、全て内なる精神・神経に解答を求めてしまうの
は現代人の悪い癖だな。特に君のようになまじ専門的になると却って始末におえな
い。古人のように解らない事は妖怪にして仕舞った方が、原因を外に置いて客観視
している分遥かに建設的だ。」
 古旗君も辛かったろうな、と京極堂は元精神科医の名を思い出したように呟く。
彼は精神の専門家として、求めても求めても自分の内に、また他人の内に、答えを
見い出し得なかった。当然だ。彼の答えは外に、現実に存在する物だったのだから。
私も同じだったのだ。私は遂には自分自身の正気を疑った。
「君は正常だよ。ずっと話をしてみて、おかしな点など何処にも無かった。僕がは
ぐらかすとちゃんと突っ込むし、暗くしてある部屋を気にするくらいまともだ。分
裂もしていなければ鬱でもない。暗闇の中で考え過ぎて少々自己催眠状態に嵌まっ
てはいたが、どっぷりと妖しい雰囲気に浸って妄想を暴走させてしまうのは、元々
の君の資質なのだから心配は無い。だからこそ君は其ういったモノを文字にする商
売をしているのだろう」
 最前の妙な会話は、私の反応を見ていたのである。
結局、あの不安は例によって私の暗鬱な想像力の生み出したものだった様だ。
「そうだね。最初の発作の時に桜を意識したせいで、いろいろと考え込んでしまっ
て──」
 言葉を途切らせる私に、君が罪悪感を持つ必要は無いよ、と京極堂は声を掛けた。
 用心して早めに注いだ二煎目の茶は、ほとんど色が付いていなかった。


 やはり茶はいれたてに限る、と言って私は茶をいれ直しに立った。
薬缶を火にかけ、蛇口を捻って大袈裟に水を流す。
 私は流しに両手を突いた。声を立てそうになるのを必死に堪える。
轟々と音をたてるように、私の中で嵐が吹き荒れる。
嵐の中から、裡なる鬼が顕われる。

 やっと解った。
 罪悪感。
そうだったのだ。
一昼夜考え詰めてずっと理由を探していたのは、逆にこの罪悪感を覆い隠すためだ
ったのだ。私は自分が自分の心の奥底に沈めたこの罪悪感に気付くのを恐れていた。
桜の事を考えると、それが意識の面に浮かび上がってしまう可能性があったから、
私の心はあれほど乱れたのだ。
 あんなに苦心して誤摩化し遂せた筈のものが、友人の何気ない慰めの一言で意識
の底からどんよりと姿を顕わす。
 怖かった。
あの一言を聞いてしまって、私は彼と向き合って居られなくなった。
彼の家で出される出涸らしに、わざと当て付けているようにみせて座を立ったが、
足は激しく震えていた。
 罪悪感。
それは、いままで私が無理に当て嵌めていたような理由によるものではない。
彼女の事を忘れていた償いだとか、事件の時のショックや拘留中の嫌な経験を思い
出したくないためだとか、そんな事は皆一番深い所の記憶を隠蔽するためのダミー
だ。
私自身がその場面をはっきりと憶えていないのを良い事に、私が自分自身に隠して
いた事は、揺るがせのない恐ろしい事実だった。

 私が彼女を殺したのだ。
その罪の意識が、桜の鬼を生んだのだ。
 手を下したのは私ではない。生贄に選んだのも私ではない。
彼女が生贄に選ばれた理由も、私とは関係がない。
それでも、私が彼女を殺したのだ。

 彼女が殺されたのは、京極堂と関わったからだ、と聞く。
その真の関わりを知るものは僅かだ。
糾弾すべき女を許したからだ、と伊豆の事件の首謀者達はその理由を語ったと聞く。

 なぜ、知っている。
私と、京極堂しか知らない彼女の秘密を、何故奴等は知っているのだ。

 私が、話した、からだ。

 奴等の術中に嵌まり、私は眠らされた。
質される儘に、全てを語ったような気がする。
それから、おまえがやったと吹き込まれたような気がする。
そうして、私はまた眠った。

目覚めたら、彼女が死んでいた。

 邪魔ならば記憶を消すのが奴等のやり方なのだそうだ。
現に私は殺されなかった。
ただ一人、桜の人だけが無惨な姿となった。

 私が。
私が、彼女と友人の継がりを、奴等に語ってしまったばっかりに。
不可抗力だとは判っている。奴等の術に抗う事は私には不可能だ。
私を責める者もいない。秘密を知る者は元々私以外一人しかいないのだ。
そしてその唯一の男は、全ての局面で常に自覚的で有り続けるが故に、
私より遥かに、辛い。

「僕には落とせない」
 最前の京極堂の言葉が蘇る。
唇を噛み締めるような声だった。

 桜を見ると、泪が流れる。
それは、故無き泪ではない。
憶えてはいなくとも、私の心は罪の重さに哭き続けていた。


 盆を捧げて部屋に戻ると、私は言い訳をした。
「家中を探したんだけど、こんなものしか無くて」
 僕はもう失礼するからいいよと言いながら、京極堂は私に小さな書き付けを手渡
した。
「さっき話した医者と病院を書いておいた。後で電話で君の事を話しておくから、
行ってき賜え。注射が嫌だなんて逃げるんじゃないぞ。──それにしても、」
君は本当にこんなものばかり好きだなあと不審気に私を一瞥し、盆の上のミルクキ
ャラメルを摘む。
 礼を言って書き付けから顔を上げると、失礼すると云っていた客は又本を広げて
座り込んでいる。端で見ていると、空いた片手で小さな四角い飴の包みを流れる様
な指捌きで剥いている。日夜古書の頁を捲って鍛え抜いた熟達の指先だ。私がもた
もたと手間取っている間にも、三つは口に入る。早い。
 いきなり、菓子を頬張っているとも思えぬはっきりとした口調で京極堂が言った。
「祀るかい」
「まるる?何?まつるって?」
 私の方はキャラメルが搦んで舌が回らない。
「祟るのだろう。桜の女人が」
 それは──つまり。
「織作茜さんの葬式は羽田会長が出したけれど、あれは世間一般の認識している織
作の娘の葬儀だ。僕達の知る人の弔いは終ってはいない」
 久し振りに聞いた彼女の名前の響きに少し驚く。そういえば私は、桜の幻に戦く
間にもその名前を意識に上らせてはいなかった。世間の知る織作の次女と私達の知
る桜色の女は、同じ人物でありながら重ならない存在だ。
「常人ではない。尋常な最期でもなかった。如何に安らかにあれと言ったって、治
まるものでもないだろう。生き身は蜘蛛で、死んで鬼に成っても無理は有るまいが、
あまり荒振られてもこちらの身が持たない。崇め奉って──神になって頂こう」
 そう云えば──絡新婦は元々は女性原理の土地神だったという。
「其うだ。憑き物ではない、神を落とそうなどと考えるのは失敬だろう。畏れ、奉
り、鎮まるのを願うのが信徒の努めだ。荒ら振らるるも鎮まるも、君の心掛け一つ
だ。精進し給え」
「僕の──」
「他の者は誰も彼女が畏るべき神の資格を持つ事を知らない。薄々察している連中
は居るようだが──証拠が無ければただの疑惑だ。妄説さ。口にせずに済む事は口
にせずに済ませる事だ。君は、唯一人の氏子だ」
「──君は?」
 何を言っているんだ、僕は宮司じゃないか、と既に複数の神を掛け持つ神官は微
かに笑った。


 察している者達。
真相は知らされなくとも、勝浦の事件に関わり、見て、考えていた者達。
 だから榎木津は青山へ行ったのだろうか。
織作家の二柱の女神像は、今また待古庵に有る。
奉納される途上であんな事件が起きてしまい、由緒ある旧い神々は行き場所を失っ
た。事情に疎い羽田会長に危うく処分される所を再び引き取って来たのは、織作の
女神像と因縁浅からぬ骨董屋であった。
 今度こそ然る可き所に納めるのです──と篤実な店主が示した店の奥の台座には
小銭がいくつも積まれていた。ときどき暇な釣り堀屋がやって来て、店先で賽銭を
上げて行くのだと云う。

「今川君も僕も何処が奉納場所に相応しいか決めかねていたんだ。木花咲耶姫と石
長姫を祭った神社は全国に幾つも有るが、できれば二柱一緒に祀りたい。」
 石長姫の末裔を、私達は美しい木花咲耶姫の姿で記憶している。
二相一体の女神とする可きであろう。
「新しい祠を設けて、其処に二つ一緒に祀ったらどうかな。僕が持つから──」
 そこで此の神の本義を知る神主に祭儀を執り行ってもらうのだ。
心を形で現わす事は、私の様な意志の明確で無い者には効果的な手段だと思う。朽
ちかけた二体の木像は、唯一人ずつの神主と氏子によって新しい神性を身に付ける
のだ。
 そう頼むと、京極堂は腕を組んで少し考え込む様子をした。
「そう云われても、今直ぐという訳には往かないが──」
「善いよ。君の都合の付く時で」
 それなら、と暗色の着物の神主は窓の外を眺め遣りながら云う。

「──けりが付いてからで善いかい」

 私は愕いて目の前の友人の横顔を見る。
彼は少し眉を寄せて遠くを見ている。

 去年の伊豆の事件の際、いまひとりの友人は彼を唆したと聞いた。
私は止めるべきではないだろうか。
もう、あんな連中に関わるなと、云うべきなのではないだろうか。

「善い、よ」
 ややあって、私は掠れる声で承諾した。
「いつになるか分らないよ。数年先か、数十年先か、」
 ずっと無理かもしれない──と、遠くを見たまま友人は言う。
それで善い、と私は答えた。

 客が辞去した時も、私は見送りもせずまだ呆然と座っていた。
ふと我に帰ると、さっき私が返した筈の本が机の上に載っている。
 私は慌てて本を掴むと、往来に飛び出した。
通りの先にまだ友人の後姿が見える。今走れば追い付く。
しかし駆け出す前に、彼がそれを全部読めと私に薦めた事を思い出した。おそらく
態と置いていったのだろう。またそのうちあの坂を登って返しに行けば善い。
 空を覆った灰色の雲が落ち着いた菫色に染まっている。
雨が空中の塵を洗い落として、冷たい水の香りのするしんとした清浄な夕暮れだ。
家を出る際に羽織を纏ったのだろう、時には不吉な影のように見える友人の姿がし
っとりと水を含んだ薄墨色の風景の中に溶け込んで行く。
 角の白く浮き上がって見える桜樹の下にその姿が差し掛かった時、私は漸く彼の
濃い褐色の着物と黒っぽい羽織に見覚えがある事に気付いた。
 あの時の。あの一年前の桜吹雪の中の。
桜色と影色の。

 思い出しても不思議に心は波立たない。
この雨上がりの夕暮れの景色のように、懐かしく、慕わしい光景に思える。
 友人の後姿が消えた後も私は門口に立ったまま、ほの明るい花の彼方を見送り続
けた。

 そっと、私の肩に白い優しい指が載せられる。
柔らかく桜の花弁が散り落ちる様だ。

 振り向くと、仕事から帰って来た妻が、薄暮のなかで静かに微笑んだ。

─ 華鬼 終 ─


1999年03年



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