「客人の咎」 −前 篇−   


 琥珀色の温い薄闇が、狭い店内に揺蕩っている。
ごめんねぇ、まだ仕込みが終ってなくってさぁ──と女主人は客に背を
向けたまま、ことことと何かしら準備めいた事を続けている。
細かいウェイブのかかった髪の下の広く開いた夜会服の背中が、淡昏い
灯の下でぼんやりと白い。
 カウンターには三つの影が、音も無く並んでいる。
左端の影はがっしりと幅をとり、客というより店の家具調度の一部のようである。
時折白い煙がゆらゆらと吐き出されるので、どうやら建具の類ではない事が
判別出来る。
右端の影も恰幅はよいが妙にてれっとまるっこく、これも客というよりは
出所不明の店の招福か魔除けの像のようである。
真ん中のいちばん人間らしい形の影──伊佐間一成は、そんな魔窟めいて
澱んだ空気の中に、なんとも居心地好く納まって居た。

 この小さな酒場「猫目洞」は、先日の乱闘で壊された跡をようやく片付け
終えたばかりだという。初めて連れて来られた客である伊佐間などには
よく分らなかったが、そう言われて見れば少々妙な所に隙間が空いている
感がしないでもない。椅子や棚などの壊された分を、まだ補充していない
のだろう。その隙間も今はとろりとした闇を溜めて、以前からあったように
店に馴染んで居る。

 煤けた雑居ビルの地下にあるこの店に下りる時、強い日射しが斜めに
差し込んで階段の上にくっきりとした影を落とした。交互に並ぶ黒と白の縞を
見て、伊佐間は一瞬、葬式の鯨幕が続いているような錯覚を覚えた。

 はじめからこうすればよかったのかもしれない。
三人の男達が安い冷や酒を前にして、黙って一人の死んでしまった女の
事を考えている。まるでお通夜のようだ、と伊佐間は思う。
それがなぜかとても心安らぐ事のように感じらる。
憔悴しきっていたこの一週間が嘘のように思えた。
死んでしまった理由をいくら親身になって調べても、死者には伝える術が無い。
こうして想って──悼んでいると云う事にしても、本当は死者は知り得は
しないから同じ事なのかもしれないが、それでもこのほうがずっと落ち着く。
葬儀も死者の供養も、全ては遺された生者のためのものだと、友人の一人は
常に言う。
そういうものなのだと思う。

                *

 釣りから戻って来たら、織作茜が死んでいた。

 殺されたのだという。
犯人は被害者とは一面識もない通りすがりの変質者だと、新聞等には報じられて
いた。織作の莫大な資産も由緒ある家柄も、苦難の人生も衣類すらも、何一つ
身に纏わずに茜はただ、ひとりの若い女として殺さた。
 伊佐間は呆然とした。
 それから漸く、これは「蜘蛛」の仕業ではないかと思った。
「蜘蛛」本人はすでにこの世に亡いのだが、そこかしこに張り巡らされた網はまだ
いくばくか残っており、主亡き後も自動的に作動し目的を完遂したのではないかと
──茜を殺害した犯人は、春の「勝浦の事件」にかかわった大勢の者達と同じ
ように、ただ蜘蛛の糸に操られていたのではないかと──思った。
 更に驚いた事には現在は釈放されているものの、当初容疑者として警察に拘留
されたのは伊佐間の友人である小説家であったという。彼が詳細に勝浦の事件の
聞き取りをし、現地を訪れて茜とも会っている事を伊佐間は知っている。
 これはやはり、春の事件と無関係とは思われない。
大平楽の釣り堀屋もこのときばかりは落ち着いて居られず、事件に揃って巻き
込まれ、織作の屋敷に一緒に逗留するはめになった友人のもとへと駆け込んだ。

「ああ伊佐間君、お帰りを待っていたのです。」
 青山の古物店主は伊佐間を慌ただしく奥に通すと、妙に粘り気のある水っぽい
口調で、それでも大層筋道立てて詳しい経緯を説明してくれた。
「僕は今回この件には巻き込まれなかったのです。
でも、僕とあなた以外の人は──」
 これまでにいくつかの怪事件に遭遇した経験のある友人知人のほとんどは、
五日程前中伊豆で勃発した大騒ぎに動員されたのだという。
骨董屋──今川は、箱根の事件で懇意になった雑誌記者にその詳細を教えて
もらったのだ。
「ようやくみなさん戻って来たのです。それでお話が聞けたのですが、」
 やはり茜の殺された理由は善く判らないのだという。
伊佐間が疑ったように、茜を殺害した実行犯は他人の意のままに操られて
いたのだった。しかしその首謀者は「蜘蛛」ではない。
本来なら大事件であるところの茜殺しは、この中伊豆の騒ぎの中ではほんの
末端の意義しかもたず、それも──ただ一人の男に対するあてつけでしか
ないのだ、という。
 意味が解らない。
それが解るのは茜殺害をメッセージとして突き付けられ、その意味を理解した
当の本人、中禅寺のみである。しかし、尋ねる訳にはいかなかった。

 あなたのせいで茜さんが殺されたというのは、
 いったいどういう意味ですか?

などと、当人に聞く事など出来る筈が無い。
 結局、この点に関しては雑誌記者──鳥口にも、今川にも、そして当然
伊佐間にも皆目見当が付か無かったのである。

 更に一週間が過ぎた。
その間も伊佐間は折々今川のもとに連絡を入れた。
進展は無かった。
伊佐間が居ても立ってもいられなくなって青山の「待古庵」に再び顔を出すと、
今川は痛ましそうに彼を見て呟いた。
「折角京極堂さんに蜘蛛の巣館から解放してもらったのに、これでは元の
木阿弥なのです──」
 また捕らわれてしまった。
常に自然体で一つの物事にそれほど執着する事のない伊佐間が、茜の死の
理由からはどうしても離れる事が出来なくなっている。
 無理も無いのかもしれない。
伊佐間は、茜を天涯孤独の境涯に追いやった責任はいくぶん自分にもあると
思っている。蜘蛛に利用されることを厭い、蜘蛛の放った幾筋もの糸による
招聘を悉く断わってきた中禅寺を、最後に動かしたのは伊佐間自身の依頼
だった。そして最強の陰陽師は文字通り悲劇の幕引きを果たした。
それが最善のやり方だったのだと、人に言われもするし自分でもそう思う
のだが、やはり──蜘蛛の計画とは無関係にふらふらと自分で網にかかった
間抜けな蠅が、結局蜘蛛の思惑通りに織作家の瓦解の後押しをしてしまった
のだと──忸怩たる思いがなくも無い。
 だからといって、伊佐間は自分を責めているわけでは無い。
もし自分を責めるなら、同時に自分の心中を思い遣って依頼に立った今川や、
網にかかった者達を解放するために憑き物落としを敢行した中禅寺の事を、
──やはり責めてしまう事になる。
それはしたくなかった。

「ここはもう、遠慮している場合ではないのです。今日は眦を決して
行くのです。」
 今川は手早く店を出る支度を始める。
そうは言っても今川が眦(まなじり)を決してもただ目がまんまるくなって
より一層珍妙な顔になるばかりだったし、一方の伊佐間は切れ長の目の
どこに力を入れば眦が決するのか善く判らなかった。
 結局二人ともあまり決意の程は見て取れない顔のまま、関係者廻りに
出掛ける事になった。

 初めに訪れた探偵は、留守であった。
もとより二人とも、彼が他人に対して物事を理解可能なように説明してくれる
事など期待してはいなかったので、たいして落胆もせず予定通り次は友人
である刑事に会いに行く事にした。

「すまねえな、俺にも──解らねぇ」
 後ろ前にした椅子に跨がって話を聞いていた刑事は、そう言って気の毒
そうに分厚い肩を竦めた。伊佐間も今川も、見た目はさして変わらないものの
その答えに悄然とした事は間違い無い。
遺産狙いの犯罪ではない。数少ない縁故者達は、名門織作家の幾十倍もの
資産を持つ大財閥の会長達である。茜の実の父親は、何者なのか全く姿すら
現さない。警察の扱える動機は無いのだろう。
「まだちっと早えぇが──、」
 以前よりいくぶん痩せたようだが、それでも充分重量のある体躯で椅子を
軋ませながら、刑事──木場は、二人を見比べて煙草の煙を吐く。
「飲みに行かねえか。」
 ちっとどころか──大分に早かった。




「お待たせ。」
 黙りこくっている三人の客の前に、女主人はつまみをことん、ことんと並べる。
飾り気のないただの白い皿の上にこれまたいかにも素っ気無い白い冷や奴が、
ちんまりとおろし生姜と晒し葱を載せている。
「とうふ」
 少し嬉しそうに呟いた伊佐間に、木場は嫌な顔をした。
「お潤。」
「あ、お醤油これ。回して。」
 屈託の無い様子で醤油注しを示す女を、木場はじっと見る。
「何。」
「悪いけどお前さん、ちッと席外しててくんねえか。」
 女主人──猫目のお潤はすうっと背筋を伸ばすと、いきなり馴染み客を頭の
上から怒鳴り付けた。
「なアに寝惚けた事いってんのさこの馬鹿下駄ッ、ここはあたしン店だよっ、アタ
シが邪魔なら端からこんなとこ来なけりゃいいじゃないのさ──」
 豹変した女主人の剣幕に圧されながら、なんでェ、いっつも客ほったらかしに
する癖によ──と、木場が口の中で呟く。
「ああ、いいのです、お潤さんは関係者です。被害者なのです。話は聞いて
もらっていても一向に構わないのです。」
 今川が慌てて取りなす。重苦しい男達の様子に、彼女がずっと不安を感じて
いたのを察したのである。
木場はしょうがねえ、余計な口は出すなよ、と言って黙る。
お潤は一旦くるっと笑顔になってから、こんどは深く眉根を寄せる。
なかなかに忙しい。
「やっぱり──あの件?うちで大暴れしてった連中とか、この馬鹿が逐電した
騒ぎの──」
「被害者」の一人のお潤も、だいたいのいきさつは先週聞いたばかりだ。
逐電じゃねえ、ありゃあ捜査よ、と木場が唸る。
華々しい「捜査」のあげく減俸のうえ転属処分となり、暇を持て余して日の高い
うちから飲んでいるようでは世話は無い。
その事件の一部なのです、と今川がお潤の問いに答える。
事件の一部。
事件全体から見ればほんの瑣末の、けれど伊佐間にとっては最も重い一部分
である。

 判らねェ──と、木場は言う。
「あの内藤って野郎はよ、」
「実行犯?」
 伊佐間は会った事が無い。
「そりゃ、間違いねえ。でもまあ心身耗弱状態ってぇことで、極刑は免れる
だろうが──」
「でも、操られてた。」
「通じるかよ、警察に。あんな訳わかんねぇ理屈。それに本人もな、四の五の
言わずにすっぱりと刑に服す覚悟でいる。」
 その内藤を、木場は一年前の雑司ヶ谷の事件で知った。
「──俺は目の前で見ていた。内藤の外道が、あの京極に呪いをかけられる
所をな。と言うより、あいつは俺達の無念さを晴らす為に奴を呪ったのよ。
だから、伊豆の佐伯の屋敷であの小僧がほざいた言葉の意味も、
俺には少し判る。」

 関口巽は──この人が癒した男。内藤赳夫はこの人が呪った男。
 この二人は本来同じ種類の人間なのに。

「同じ?」
「阿呆。同じじゃねえよ。関口は、あいつは内藤なんぞとは違うだろうが──」
 関口は木場と生死を共にした戦友だ。
「ただ、連中は京極に──いけ好かねえ野郎は呪い、友達なら救う、そんな
手前勝手であの強力な技を使うのか、ッてな、まあ嫌味だわな。そう言って
たんじゃねえかと思う。」
 ある意味正論のようにも取れる。
しかしそれは実は超越者を自認する者達の奢だ、と伊佐間は感じる。
彼等は超越者の立場を捨てて人間に甘んじた中禅寺が目障りだったのだ。
だから彼の感傷を嗤い、人間性を詰るのだ。
「だがな。そうすると織作の娘は奴にとって何の意味がある?あの家族を
救ってやろうとして救えなかった事を嘲笑って──いや、そうじゃねぇよな。」

 織作茜は──この人が許した女です。
 ──本来、あの女性は糾弾するべきなんです。

 木場は、自分に向けて微笑む少年のあどけない顔を思い出し、
寒気がした。
「あの娘はなんだ、殺されて当然の悪い女だった、て云うのか?」
 木場は一気にコップに残った冷や酒を呷ると、判らねえ、餓鬼の言う
事だしよ、と言った。
獣の様に背を丸めて冷や奴を食べていた今川が、顔を上げて言う。
「その少年の示唆しようとした事柄は別としても、京極堂さんは茜さん殺害を
首謀者達のメッセージとして理解し、自ら動きを止めて居たのです。
彼にとっても茜さんの存在はやはり重大な意味があったのです。」
 当時の京極堂の苦境を察する事の出来なかった若い記者は、今川にその
顛末を語る時も、なんだか泣きそうになっていた。
「どっちにしてもよ、知り合いを殺してみせて、──手前が動いたせいだぞ、
思い知ったらもう動くんじゃねぇっ──て脅したいんならよ、たいして関わりの
無い女なんざ使う事ぁねえじゃねえか。関口殺りゃあいいんだよ。
捕まえてンだから。」
 生死を共にした戦友の筈だが。
「吊るす?」
「──手前も並べてな。」
 遠慮したい。

「だから──関係があったんじゃない?」
 お潤がこちらに近付いて来て、気怠げな声で言った。
ふわり、と香水が甘く薫る。



1999年02年



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