「客人の咎」 −中 篇−  


「カンケイ?」
 伊佐間が間近に来た女主人の顔を見上げた。
お潤は眠そうに動いて、伊佐間と今川の前の空になった皿を片付る。
「何の関係だよ?」
 不思議そうな木場の問いに、お潤は──つくづくニブい下駄ねえあんた、
と大きな瞳を眇めて斜めに見下ろして来た。
木場がカウンターの向こうに視線を反らすと、今川が厚ぼったい唇をしまり
なく半開きにして放心している。
 もしかして。
「え、それはナニかおい、あいつらがその、で、出来、」
 思わず木場はカウンターに手を突いて身を起こす。
「いい加減な事抜かすなよ、このアマッ!だから手前は口出すなってンだっ!
なんでも思いつきゃ言って良いってもんじゃあねえンだよ。
第一、あの修羅場でいつそんなヒマが有った──」
「京極堂さんは茜さんに会いに行っているのです。」
 なにィ、と木場は今川の方を睨み付けた。
「僕が勝浦のお屋敷の美術品の処分を済ませた後、彼は蔵書の処分に
訪れたのです。」
 遺された織作の当主が、ただ一人住まう館へ。
「房総東線の汽車は特急が無いし、本数が少ないので日帰りで仕事を
済ませるのは難しいのです、」
「──泊まったんだって。」
「何ッ」
「あ、だから、宿に──」
 伊佐間も友人の話を思い出した。
「手ぶらで付いて行ったから難儀した、って関口君が言ってたけど──」
 桜が満開でとても綺麗だったとか、想像していたより繊細な作りの明るい
感じの屋敷だったとか──とりとめもなく伊佐間に語りながら、関口は一度も
顔を上げようとしなかった。現地の印象が生々しくて、関係者の顔が正視でき
ないのだろう、と──そのときは思ったのだが。
「──変だった。」
 なんだ、関口も一緒だったんじゃねぇか、と言いながら、木場はそれが何の
保証にもならない事を知っている。あのぼうっとしたお人好しの小説家を謀る
事なぞ赤子の手を捻るより易い。
「例え会っていたとしてもよ、あの石地蔵が女口説くか?あの陰気くさい
説教で落ちるのは化け物憑き物の類くらいだぜ。」
「口説かないわよねぇ、絶対。でも、女の方から言い寄って来たらどうかなぁ。」
 女主人は小鉢を客の前に並べ、あ、これもお醤油使って、と言い添える。
「けッ、ハナっから相手にするかよ。お前さん、古本屋の野郎知ってんだろ?
あの朴念仁、取り付く島もねえ──」
「でも、あたしが死んだら悲しんでくれるってさ。」
 木場が目を剥く。
一寸と好いわよねぇ、あんたじゃ絶対言えないでしょ、とお潤はふわふわした
細い髪を綺麗な爪で漉く。
「──手前が死んだらそこの棚の酒、全部タダで飲んでやらぁ。」
「死ぬよ。」
「後追い心中なのです。」
 木場は、意味も無く力を込めて二人を振り返る。
「おう。そんときゃあ、おめえらも手伝え。」
 何の因果で。
顔を伏せたので気を悪くしたのかと思ったら、お潤は俯いて笑っていた。
「これねぇ、半分飾りなんだ。こないだ酒瓶割られて勿体無かったからさ、
佳いお酒は隠してあンの。全部呑んでも別に好いわよ。」
「手前ェ、俺達にはその棚の瓶から注いだじゃねえか。」
 今時メチルじゃねェだろうな、と刑事が睨む。あんたの細い目潰して
どぉすんのよ、と酒場の主人が──ころころと小娘のように笑う。
「──兎に角、あいつぁ口が上手えんだ。騙されんじゃねぇぜ。
ま、別に女にマメな奴でもねえけどな。」
 騙されないわよ、この商売長いンだから、とお潤は気にも留めない。
「京極堂さんは立派に奥方を娶っているのです。御婦人に対しそれ相応の
努力はしているのです。」
「うん。美人。」
「知ってるよ。しかしな、あの女房はそら、親戚筋とか幼馴染みとか、なんか
そんなんだったろ?そうじゃなくて──たとえばお前、釣り堀屋。」
「僕?」
 伊佐間は隣に顔を向ける。木場は正面を向いたままだ。
「お前、いつも一人でふらふら出歩いてるだろ。一度でも外で、女とその、
──懇ろになった、なんて事あったか?」
「──うん。」
 雰囲気は──好かった。潮騒の響く座敷でかなり惜しい──いや、危ない
場面が。
「あったのかッ!!」
 木場が鬼のような形相で詰め寄る。
「ない。ないナイ。ない。」
 実際、何事も無かった。
「無ェんだな?」
「うん。ない。」
 何友達脅してんのあんた、とお潤が呆れる。
「そうじゃねぇよ。こいつは男前もそう悪かあねぇのによ、なあンかそういう
柄じゃねンだよな。そう、柄よ柄。あの古本屋もそんな柄じゃ無えって──」
 一緒にされても困る、と伊佐間は思う。
「なんだ修ちゃん、悔しいの。」
 お潤の言葉にすうっと木場の角張った顔面に血が昇る。
図星だったのかも知れない。
女主人はにっと笑う。目を細めるとますます猫の様だ。
木場は努めて押さえた声を出す。
「あのな。殺された織作の次女ってのはな。貞女の鑑の誉れも高い評判の
操の固え女だったんだよ。亭主死んだからって、ほいほい他所の男引っ張り
込む様なタマじゃ無えんだよ。手前らみてェなあばずれと一緒にするんじゃ
ねぇ──」
 どうやら本気で怒らせてしまったようだ。
カウンターの端を掴んだ無骨な手の甲にも血管が浮き出ている。
伊佐間は身の危険を感じてコップと小鉢と箸を持って避難しようとした。
「でも、お潤さんの説は説得力があるのです。」
木場が凶暴な目つきで今川を振り返る。
伊佐間は二人に挟まれて、動けない。
「ただの下衆な野次馬じゃねえか。何の根拠も無え。どこに説得力がある。」
「根拠は無いのですが、可能性はあるのです。」
「可能性。」
「茜さんが殿方を迎え入れても、不思議では無いのです。」
手前まで馬鹿言うんじゃねぇ、と木場が毒付いた。
「ありゃあお前、貞女の鑑──」
「その呪いは、あの時京極堂さんが解いたのです。」
のろい──と伊佐間は小鉢を掴んだまま呟く。
「呪いって──貞女が?」
「京極堂さんの言い方をお借りすれば呪いなのです。
あの場面で彼が説明したように、一夫一婦制というのは近代になってからの
制度です。ただ一人の夫に生涯貞節を尽くせ、何事にも夫に従え、
というのは──あの家古来のしきたりを封じようとした伊兵衛氏によって
女性達にかけられた呪いです。
茜さんはそれにずっと苦しめられていたのです。」
──いつも、泣いていた。
言葉が判り難いでしょうか、と今川は女主人の方を見る。
「なんとなく判る。面白いわ、そのまま続けて。」
 お潤は座り込んでカウンターに肘を付いた。
「この女ぁな、なンか知らねぇが学が有るから気を使うこたねぇよ。それよか
俺に解るように話しな。」
 木場は聞く気になったようだった。

 僕はどうも京極堂さんのようには弁が立たないし、織作家での憑き物
落としは途中までしか聞けなかったので少し違うかも知れませんが──と、
今川は恐縮したように身を屈めて、和服の膝にちんまりと手を揃える。
「効果的な話し方の順序というのが分らないので、初めから説明するのです。
 織作家の悲劇には、基本的に二つの要因がありました。
 一つはさっき話した母系・父系二筋の家系の相克による家の“歪み”。
これは外部からは“天女の呪い”と呼ばれていたものです。
 いま一つは“蜘蛛”が企みを持って仕掛けた“網”です。
蜘蛛は織作家の家の“歪み”から生まれた怪物ですが、それ自身の行動は
“歪み”からは独立しています。二つは別物なのです。」
 膨大な言葉の群れを流暢に操って他人の意識を支配してしまう中禅寺と
その型は異なるが、舌足らずで真摯な分、今川の語りは無意識に聞き手を
引き込んで考え込ませる力がある。
「三月に伊佐間君と僕は偶然勝浦のお屋敷を訪れて、そのまま出られなく
なって仕舞いました。もっともそれは、蜘蛛がわざわざ僕達を足留めするため
事を謀った訳ではありません。警察の許可が下りれば去る事は出来ました。
僕らは自分達で勝手に、織作の家の“歪み”の方に嵌まったのです。」
「僕ら」ではない。伊佐間はそれが自分の事だと分っている。
崩れかかった家族の中で押し潰されて行く織作の女達を、伊佐間は見捨て
られなかった。呪いをかけられた黒い絵画のような屋敷に、ぺたりと蠅の
ように張り付けられてしまったのだ。
蜘蛛の網に掛かっていた訳では──無かった。
「蜘蛛の計画には無い飛び入りだったので、結局僕らは次の場へ働きかける
駒には使われなかった。僕らだけは絡新婦の網からは初めからずっと自由
だったのです。そして伊佐間君は自分の意志で、“織作家にかけられた
呪い”を解いて欲しい、と僕を通じて京極堂さんに依頼したのです。」
 伊佐間は周りから見えないようにそっと親指で左の薬指の先に触れる。
生涯傷跡が消える事はないだろうが、もう触れても痛くは無い。
ただ感覚を失っただけの事なのかも知れないが。
「京極堂さんのところにはそれまでにもいくつかの出動要請が届いて
いましたが、それらは全て蜘蛛の放った糸がかけられていました。
だから蜘蛛の網に載せられるのを避けていた彼はその悉くを断わっていた。
しかし、伊佐間君の依頼だけは蜘蛛とは関わりが無く、家の“歪み”を
取り払う事だったので彼は引き受けたのです。」
「しかしよ、奴は学院で蜘蛛の糸をかたっぱしから切っていたぜ。」
「ついでなのです。」
ついで──
「あのひとは、見過ごせない性分なのです。面倒見がいいのです。」
お潤がそこで何故か、ふっと笑う。
「最初から京極堂さんは、自分には絡新婦そのものは落とせない、
とはっきりと断わっているのです。蜘蛛は憑き物ではなくて害意のある実体
ですから、それは拝み屋の仕事ではないのです。
けれどその一方で、京極堂さんは自分の依頼のほうはきちんと成功させた
のです。」
「成功──したのか?」
「したのです。近代男性原理社会からの押し付けを取り除き、由緒ある織作家の
母系の誇りを取り戻す。葵さんの誤謬を除き、奥様の罪悪感を払い、同時に
茜さんの枷を外す。憑き物落としは成功して、あの家族は、お互い理解しあえる
人間同士として、再生できるはずだったのです──」
蜘蛛さえ、居なければ。
「蜘蛛は、葵さんの糸が切られるのを待っていました。僕は気を失っていて見て
いなかったのですが、彼女の行いが露れる時、葵さんは死ぬ。そういう仕掛けに
なっていたのです。でも、彼女の行いは彼女自身の意志によるもので、
それを蜘蛛に付け込まれたのですから、呪いを解かれたせいで死んだのでは
ないのです。全てが同時に起きたので、凄惨な──後味の悪い結果となって
しまったのですが、蜘蛛のした事は蜘蛛のした事──」

「──伊佐間君、あなたは織作家の呪いを、家の歪みを解いてあげることが
出来たのです。」

うん、と伊佐間は小さく頷く。


「呪いが解けると──どうなるの?」
お潤が大きな目を見開いて、頬杖を付いたまま聞く。
「古代より伝わる誇り高い織作の習慣が“正統”となります。」
「どんなの──その織作の正統な習慣って。」
体を折って聞き入って居た木場が、大波のように身を起こす。
「おいっ!まさか、お前さん──」

今川は女主人の目を見ながら答える。
「織作は、古来土地を訪れる貴い“客人”を迎え入れ、貴種を宿し繁栄を
続ける女系の一族なのです。神聖なる一夜の婚姻こそが、家系を永続させる
手段と成ります。」

木場が、叫ぶ。
「アイツが──京極が、その“客人”に成ったと言いてぇのか──!」





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