「客人の咎」 −後 篇−  


お潤が新しい酒をコップに注いで廻る。
相変わらず棚の下に置いてある安い酒である。
さっきの言い種とは裏腹に、無頼を気取っている刑事は高い酒を
出されると怒るのだ。
 男三人は織作の屋敷で中禅寺の講釈を聞いているから、織作の
しきたりを不道徳な話だとは今では思わない。
一方のお潤の反応は。
「いいわね、それ。面倒が無くてさ。」
 明解である。
「亭主とか、いらない訳でしょ。一緒に住まなくていいんなら、
中禅寺君とか確かにいいわよねぇ──。」
「おい。」
「だって、アタマ良い子が出来る訳でしょ。」
 話が通じている。
「結局そういう事なのです。優れた頭脳、優れた容姿、優れた体力
──母系の合理性は、子孫に優秀な遺伝子を遺すために端的に機能
するのです。」
 優れた体力、のところで一堂が木場の方を見る。木場はそっぽを
向いた。
「優れた容姿、っていうのも一寸っと魅かれるなぁ。」
「おすすめできないのです。性格も遺伝する可能性が高いのです。」
 隣で伊佐間も力一杯首を振る。
あの次女がなぁ──と、木場は唸り続けている。
「あの後婚約してたじゃねえか、大柴田のぼんぼんとよ──」
「解消したのです。」
「うん。中禅寺君が行った直後。」
 嵌まり過ぎる。
木場はなんとか反論を絞り出そうとする。
「でもよ、家屋敷売っ払っちまったんだろ?母系は土地で栄えるとか
言って無かったか?」
「こンだけ交通が発達してんだもの、今更場所にこだわること無いん
じゃない。」
「そうです、一定の土地に居なければ家柄に纏わる地域の名声や悪評も
消えます。
それに、現行制度一一家夫長制はいずれ破綻するのです。母系の理は
その時にこそ現代に適応したシステムとして、形を変えて復活する
のです。」
「今すぐ、なンないかなぁ。母子家庭って世間じゃすっごいワリ食う
のよねぇ──」
 手前、餓鬼居ンのか──と、木場がお潤の方に首を向けて固まる。
「馬鹿。あたしじゃないわよ。けど、知り合いとかそういうコ多くてさ、」
 餓鬼か、と呟いて木場は少し考える。
「そうだ骨董屋、俺は害者の剖検報告見たぜ。」
 すっ、と狭い店の中の空気の動きが停まった。

「胎に子はいなかった。──安心しな。」
 澱んだ空気が、ほっと吐き出される。

「契った女吊るされちゃあ動けねぇよな。──女房妹も危ねえし。
それにしたって、やっぱりあの小僧の云った意味は判らねえ。
──殺す程の罪か?」
 むしろこの際糾弾されるべきは、現行制度に則して生活していながら、
その規則を踏み外した──客人の方ではないのか。
「ねえ、男でも──許したッて言うの?」
「つ──」
 詰まンねえコト聞くなこの馬鹿ッ、手前は賢いのか馬鹿なのか一体
どッちなんだッ、と刑事の罵声がコップの酒を揺らす。

「お願いがあるのですが──」
 手にしていたつまみの小鉢と箸をカウンターに並べ、今川が改まって
言った。
「なんでぇ。言ってみな。」
「今までの僕の話はまともに受け取らないで欲しいのです。」
 な──と木場は絶句する。
「しかし、今までのお前さんの話じゃ、」
「全て憶測なのです。憶測どころか、妄想です。まったくの思い付き、
辻褄だけ合わせた口から出任せなのです。」
 否定材料を探すつもりで始めたら、見つからないまま終ってしまった
のです、お騒がせしたのです──と今川は頭を下げる。
「し、しかし、証拠が」
 証拠は何も無い。
「こ、根拠が」
 根拠など最初から無い。
半ば信じかけていた木場は、呆然とする。
今川は、黙ってしまった木場に切々と訴える。
「酒の席での話なのです。どうか、他の人には話さないで下さい。
取り様によっては、亡くなった茜さんの名誉を傷つける事になってしまう
のです。京極堂さん御本人に知れたら、誹謗中傷と取られても無理無いの
です。名誉毀損に問われても仕方がないのです。呪いをかけられ、七代
祟られても文句は言えないのです。奥方に聞こえたら、眼も当てられない
のです。今、この場だけの話ということで──」


「もう遅ぉいッ!!!」
 いきなり、三つの頭が派手な音をたててカウンターに沈んだ。
お潤が驚いて顔を上げると、入り口の白い光の四角を背にして、
思いっきり躯を捻ったシルエットが浮かんでいる。
直後に、ドアが──ばったぁん、と閉まった。
「て──礼次郎!この阿呆!何しやがる──」
 後ろも見ずに闖入者の名を叫ぶと、木場は目の周りにくっ付いた
白い破片を払った。ほとんど手付かずだった冷や奴を、顔面で直撃した
のである。
おろし生姜が滲みたのか、小さな目をしばたたかせて木場は闖入者──
榎木津を睨めつける。
「阿呆はお前だ、この共食い豆腐!仲間潰して不憫とは思わないのか!」
潰させたなぁ手前だろうが、という木場の吠え声を聞きもせず、続いて
榎木津は向こうの席に怒鳴る。
「マチコッ!僕は情けないぞっ!この豆腐頭が脳の芯まで豆腐なのは
昔ッから知っていたが、お前までが下世話な与太話に興ずるとは──
あっ。あああッ!」
 榎木津は広い額に手をあて、悲痛な叫びを上げた。
「なんて事をしてくれたんだ、おジュンさんっ!」
「ええっ?」
 お潤は意味も無く安い酒の入った一升瓶を抱き締めて、狼狽える。
「こ奴にトロロを食べさせるなんて──納豆も不可ないが、トロロは
白いから口元に付くと目立ってもっとイケナイッ!君は客商売のプロ
なのに、気が付かなかったのか、──あああ、奇怪だ、今後マチコには
つまみは乾きモノしか与えてはならないぞッ!」
 呻きながら榎木津は、こんどは頭の前と後ろをさすっている伊佐間の
後ろに立ち、
──ごん。
天頂から無言で殴った。
「────!」
 伊佐間は声も出ない。
な、なんてことすんでぇ、と木場が立ち上がる。
「伊佐間。」
 探偵が重々しく正しく名を呼ぶ。
「────。」
「今、お前は何故僕に殴られたか判るか?」
「────?」
「判らないだろう。そこの豆腐は会う度殴るのが礼儀だし、マチコは
戯けた事を抜かしていたから天誅を下した。だけど、お前には特に
落ち度は無い。今お前を殴ったのは──」
 厳かな声だ。
「──僕が殴りたかったからだ。」
 手前ェ、と木場が椅子を離れる。
榎木津は落ち着き払って続ける。
「考えたって、そんな理由はわかんないだろう。被害者側がいくら理屈を
付けたって、こっちの落ち度とか、相手の思惑とか、いくらこじつけたって、
被害者には加害者側の理由なんて判る訳が無い。知りたかったら──」
 榎木津は、近くに立った刑事の肩を手荒く押し戻した。
「さっさとあの化け物親爺を引ッ括るんだな。──僕が殴ってやる。
お潤さんっ!」
 は、はい、とお潤が止めていた息を吸う。
「馬鹿共に説教したら喉が乾いた。何か飲ませて呉れないかな──」
 探偵は白い歯を見せて、にこり、と笑った。


 なんで手前がここに居るんだ、と木場は憮然としている。
榎木津は木場の座って居た椅子に掛けて、悠然とグラスを傾ける。
「僕の留守中にあの二人が物凄く面白い顔で訪ねて来て、そのあと
木場修の旦那の所へ行ったって和寅が言うんだ。どんな顔か見たかったから、
お前の左遷先に行ってみたらもう居なかった。でも、どうせ行く所なんて
知れているだろう?」
 そんなに面白い顔だったのか、と探偵はいかにも残念そうだ。
面白かねぇよ、真剣だったんだぜこいつら、と刑事は眉を顰める。
「あ、ああああ──ああ」
 今度は、懐紙で口の廻りを丁寧に拭っていた今川が、力の入らない異様な
叫びを上げた。
「お、思い出したのです!い、今、耕作さんに打たれたのと同じ所を榎木津
さんに叩かれて──あ、あの時にはまだ葵さんは、」
「黙れマチコ!黙ってろったら!」
 榎木津が強く制する。眼の光が鋭い。

今川は一度目を丸く見開き、──沈黙した。

「それより、辻褄の合う凄い説なら僕にもあるぞ。神の推理を聞きたいか。」
 聞きたかねぇ、という木場の叫びを探偵は黙殺する。
長い脚をカウンターの下で組み、仄かな灯を受けて色素の薄い髪と膚が
セピア色のポオトレイトの様に浮き上がる。
「聞いて驚くな。──紅子さんは、実は京極の実の娘だったのだッ!」
 聞いて驚いてしまう。
紅子さんって誰、とお潤が問う。色だけ近い。
「だけど、歳──」
「京極は歳を誤摩化している。十、いや、二十はサバ読んでいるな。」
「お二人は学校が一緒だったのではないのですか?」
「修ちゃんなら小さな墓石くらいの時から知っているから騙せないけど、
京極は初めて会った時にはもう、今と同じくらいの大きさだった。
今よりまだ痩せていたから、骨格標本に使えて便利だったぞ。
──きっとあのとき、もう三十過ぎてて子供もいたに違いない!
だからあんなに余計な事ばかりいっぱい知っているのだ。それで出歩くのが
億劫なのだ。トシだから。」
 カラン、とグラスの中の氷が鳴る。
そういえば、榎木津だけ洒落たロックグラスで、色の着いた洋酒で、
氷まで入っている。
「馬鹿か手前ェは。」
 今や慰霊碑くらいの大きさの修ちゃんは、両手で頭を抱えている。
「反論できるか?」
「どんな根拠が有るよ。」
 探偵は、グラスを眼の前に翳す。琥珀色の陰が白い陶器のような頬に
落ちて揺れる。
「根拠は僕のインスピレェションだ。しかもたった今思い付いたのだ!
証拠もないぞ。どうだ、反論できるか!」
 出来ない。神の如き推理では無く、神の推理なのだ。
「あ、阿呆。反論も何もあるか。」
 木場は脱力している。
「信じるか?」
「馬鹿も休み休み抜かしゃあがれ。誰が信じるよ。」
「信じたじゃないか。」
 榎木津の声から、巫山戯た調子が消える。
グラスを降ろすと、淡い陰と同じ色の瞳は木場の顔に向けられていた。
「証拠も根拠も無い、思い付きだけのマチコの話を信じたじゃないか。
信じただろ?僕の説とどこが違う?今でもまだ少し信じているじゃ
ないか──」
──どうか忘れて下さい、と今川が懇願する。
木場は否定とも肯定ともつかない唸り声を上げて酒を飲む。
お潤は眠そうに、緩慢い動きで氷を砕いている。
伊佐間は──朦朧としている。

 いつのまにか伊佐間の前にも、水で割った薄い色の付いた酒が置かれて
いる。氷のかけらを通して淡い飴色の陰がくらくらとカウンターの上で踊る。
酒と食べ物を口にしながら、男達は賑やかに一人の死んでしまった女の話を
している。精進落しの席のようだ、と伊佐間は思う。
地下に降りる階段に落ちていた鯨幕を引いたような黒白の影は、日が暮れて
しまったからもう消えただろう。

 弔いは終ったのだ。

けれど狭い店の灯の届かない隅には、榎木津がさっき蹴散らしてしまった
妄説のかけらがまだいくらか漂っているようだ。
伊佐間は暖かに澱んだ琥珀色の空気の中に、陶然と──蕩蕩と──溶け込んで
往きそうになる。

「いや、俺だって別に信じちゃいねぇがよ、」
木場はまだなんとなく片付かない様子である。
「何かこう、さっきの話はデタラメだったって、腹の底から納得出来る様な
証拠は無ぇか?」
「それこそ京極に聞け。悪魔の様な顔をして厭と言う程反証を並べ立てて
くれるぞ。選り取りミドリで好きなのを選べば善い。」
それもなぁ──、どうするよ釣り堀屋、と木場は顔を振り向け、
──あれ、寝ちまったのか、と呟く。
伊佐間君はあまりお酒に強くはないのです、と今川が言う。
顔に出ないから不便だなあ、関君なんて酔っぱらったら真っ赤っかになって
ますます猿に成るから判り良いぞ、と榎木津が笑う。


 桜吹雪が降りしきっている。

 訪れた織作の屋敷の印象を語るとき、小説家はひどく散漫な情景描写ばかりを
続けた。とりとめのない表現だったが、綺麗だと伊佐間は思った。

満開の桜の海に浮かぶ黒い洋館。
織作家最後の当主が門の中に立っている。
伊佐間の見ていないあでやかな桜色の着物を纏い、
優美な所作で客人を迎え入れる。
その和やかな顔に溢れているのは、
伊佐間は見る事のなかった眩いばかりの笑みだ。

これまで閉ざされていた己の生き方を己自身で決め、
己の選んだ「客人」を己自身で招き入れる、

自信に満ちた、輝くばかりの、歓びに溢れた笑顔で

舞い散る桜の花びらに包まれて
織作茜は誇り高く立っている。


──泣いているよりはいいね。
伊佐間は思う。

ずっと、ずうっと、いいね。


                    ──客人の咎・終──


1999年02年



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