「神の薬屋」本文 (下)
伊豆の事件に関わったせいで、彼等は白い「薬屋」達も「不老不死の薬」探しを
しているという考えにこだわっているようだが、私の方は自分が顛末を見届けた
逗子の事件の印象が拭えない。
白丘少年の見た、神社で秘宝を掘り出す汚れた神主達の姿が、益田の話に
重なるのだ。
「やっぱり彼等は-他人には窺い知れないような宗教的理由で、神社の裏を
掘っていたのかも。」
「お、先生意見変えましたね。例のサンマの頭、すか。」
「イワシだよ。実害はないから気にならないだけで、けっこう彼等だけの世界で
訳の判らない儀式をしてる人は多いのかもしれない。だから、」
気にするな。忘れよう。理由など解らなくても、この世には不思議なことなど
何もないのだから。
「そぉっすねえ。これだけぼこぼこ当たるところを見ると、神奈川はもともとヘン
な宗教の巣窟なのかもしれませんねえ。」
神奈川。と神奈川県民が怪訝そうに呟く。
「それなら、なんで彼等は薬屋だなんて言ったんです。」
「そういう名乗りなんじゃないかな。」
「名乗り?」
「宗教法人神の薬屋。」
軽薄なノリが身上の雑誌記者と饒舌をもってして鳴る古書肆が、私の一言で
ともに沈黙に落ちる。
「僕は病気になんかならないから薬屋はいらないぞっ!」
眠そうな大声と共に、私の脇の畳の上からいきなり白い首が持ち上がった。
「ええ、え、え、えの、」
卓をはさんで向かい側に座っていた益田がのけぞって、再び後ろ手を突く。
「え、榎木津さん、こ、こんなところに、」
「それは僕のセリフだマスヤマ。“こんなところ”に来たのは僕が一番先なんだ
から。おまえこそこんなところで茶なんか飲んで、最後だから味がなかっただろう。
僕のときはまだ茶の味がしていたぞ、うらやましいか。」
どうやら益田は、座卓の下に潜り込んで体を折って眠って居た榎木津に、
ずっと気付いていなかったらしい。そういえば彼は最初からきちんと正座を崩して
いなかったから、卓の下に詰まっている人体を蹴ることもなく、私達の陰に転がって
いる頭を見ることもなかったのだ。最初に座敷に通されたとき彼は、
なぜ鳥口が私の座っている狭い卓の一方に詰めて並んだのかまでは思い至ら
なかったに違いない。
彼の頭の中は少年時代の不可解な記憶で一杯だったのだ。
「神は病気にはならないが、ずっと同じ体勢で寝てたから肩が凝った。仕事だ、
神の按摩師。」
ずりずりと丸めていた長い体が座卓の下から這い出してきた。柔らかい髪に
寝癖がついて、軽く跳ね上がっている。
「ところでマスヤマ、さっきの声はなんだ。悲鳴というのはもっと力強く響かねば
人の心は打たないぞ。姿勢は良いのだからもっと腹の底から息を吐き出せ。
僕が指導してやるから、まず“ひゃあ”からいこう。いち、にの」
「うるさい!」
さして息は吐いていないのに、無闇に通りの良い声が響いた。
「あぁもう、せっかく思い出そうとしていたのに、全部吹っ飛んでしまった。
なんでこんな時に起きるんです!」
部屋の主に凶悪な面相で怒鳴られて、起き抜けの榎木津も少し引く。
「五月蝿いというなら猿鳥のほうがよっぽど騒いで、」
「彼等の声は素通りしていくんです。あんただって目を覚まさなかったじゃないか。
思考の邪魔にはならない。あんたの大声は芯に響くんだ。」
私達は聞き流されていたのか。
「思い出すって、でもその男は、」
榎木津は少し首を傾げて不機嫌な古本屋を見ている。
「うるさい、といったでしょう。」
それっきり、京極堂は目を据えて黙り込んでしまった。
妙に険悪になってしまった二大奇人は置いておいて、私達はこそこそと隅で話を
続ける。
「さっきは冬虫夏草なんて妙なのが出てきたけど、」
床の間の方をそっと窺う。部屋の主はまるで全人類を呪い殺している真っ最中の
ように、顔の前に両手を固く組み合わせて、何か考え込んでいる。
「そこまで凝らなくても、薬屋の欲しがる土の中の宝はいろいろあるだろう。」
「大根とかですね。」
人参の事だろう。通じているので訂正はしない。
「このさい、いちばんそれらしいものを選んで、それだと言う事にしておこうよ。
決め手がないんだもの。」
座卓の向こうにちら、と目を遣る。全てを見抜く筈の探偵は、ながながと畳の上に
伸びている。眠ってはいないようだ。鳶色の瞳の表面に、縁側の障子の白く四角い
光が映っている。
「益田君、それでいい?」
話の当人は小さく頷く。
いいはずがない。真理は合議で得られるものではない。けれど、近付くと危険な真実
よりは、あたりさわりのない解釈を暖めていたほうが身のためだ。
たとえば。
「蚯蚓とか。」
「へ?」
「みみず。土を掘って探すだろう?」
我ながら情けない思い付きだ。
「でも蚯蚓、薬になりますか?」
「漢方の“地龍”はフトミミズだ。解熱・鎮痙・利尿作用があって、」
ふいに講釈が入る。ふりむくと、京極堂はあいかわらず心ここにあらずといった
様子で、私達の方などには注意を向けずただ口だけが動いている。
「リューマチ、喘息に効果がある。“海馬”はタツノオトシゴ、“反鼻”は蝮。」
単なる条件反射なのだろう。暫く眺めてからまた凡人三人で考え始める。
「でも、宝物というほどのもんですかあ。」
「ものすごく珍しい蚯蚓とか。」
「あ、そうかも。沼の主を釣るためにはそいつじゃなきゃいかん、とか。
伊佐間さんに聞いてみましょか、そんな特殊蚯蚓がいないか。」
鳥口は身軽く立ち上がろうとした。慌てて制する。
「あそこ、電話ないよ。それに蚯蚓は儲かるらしい。」
「儲かる。ほんとに?」
「海外では蚯蚓を養殖して大金持ちになった人達が大勢いるそうだ。」
「へえ、蚯蚓長者。」
「養殖。食うんですか?」
素手で土を掘り返し、がつがつ食う小児の姿が一瞬脳裏をよぎった。
「変な事を言わないでくれ。高蛋白質だから食べられるだろうけど、その養殖蚯蚓
は土壌改良に使うんだよ。」
「泥鰌。なるほど、そいつを食うんですね。」
「つち、だよ。なんでも食べるんじゃない。
優秀な蚯蚓を大地に放せば、荒れ地も豊かな農地に変えてくれる。」
「そりゃ、宝です。」
関口さんもけっこう変な事をいろいろ知っていますね、と益田が笑った。
いくぶん、気が晴れたようだった。
「土だよ。」
いきなり高らかな声がかかる。いつの間にか榎木津が畳に肘をついて起きていた。
大きな目を薄く開いて-卓越しに正面の益田を見ている。
「連中が採ってるのは土だけだ。虫とか蚯蚓とか大根じゃない。」
「榎さん、見えて-」
「宝物だって君らが騒ぐから見てみたら、詰まらない。王冠だったら僕がもらうのに。」
それは、さぞかし似合うだろう。
榎木津は起き上がって座卓の上に両手を載せ、土を掻く仕種をして見せた。
「ほら、蚯蚓とか芋とかを掘るなら、土から選り分けるようにしてこんなふうに掘
るだろう?そいつらはただ土を掬っているだけだよ。」
「そ、そう、でしたっけ?」
蒼白になった益田は、一心にその様子を思い出そうとしている。
覚えてはいないだろう。しかし、見てはいたのだ。
「土か。」
二人目の奇人が復活した。京極堂は鋭い目を榎木津に向けている。
「ああ。土だった。」
黒い影が立ち上がった。
客を残しそのまま部屋を出て行く。
茶を換えに立ったのではないだろう。
出て行きしなに私に、低く「これは君の領分だ」と囁いて行った。
隣に座って居た鳥口は、そんな小説あるんですか、と無邪気に私に尋ねる。
小説の事ではないだろう。「私の領分」といえば。
私の心臓の下あたりが、氷を呑んだように冷たくなる。
朝靄に沈む神域で何でも無いただの土を密かに掬い、不死の薬だの宝だのと言って
いた集団は確かにおかしい。
それは何かしら心理的に異常な状態だったのかもしれない。
だが、もし「おかしい」のはそれを見ていた方だったとしたら。
彼がそんな光景を見たのは嘘ではないだろう。だが、榎木津に出来るのは「見る」
事だけだ。土を採るだけの行為なら、別にそれほど不審ではない。
もし、「不死の薬」の話など、彼の頭の中でだけ交されたものだったとしたら。
それも、そういった語彙を最近の事件の中で獲得した後で。
実際にそんな妙な会話が少年と謎の「薬屋」との間にあったと考えるよりは、
そちらのほうが現実的なような気がする。
私はそっとうつろな表情の青年に目をやった。
変人揃いの私の友人知人の中では、もっとも良識的と言って良い、平生は朗らかな
好青年。刑事をやめて探偵に弟子入りするなど、やはりまともとは言えないのかも
しれないが、それでも私は彼の志を好ましく思っていた。
だから私は。
忘れよう、と言ったのに。
あたりさわりのない解釈を与えようとしたのに。
真実に近付こうなどとすると、あんな目にあうのに。
檻の中は、淋しいのに。
大将、その土ん中になんか見えませんかあ、と鳥口が榎木津にねだるように聞く。
土は土だよ、そのメガネも言ったんだろ、と榎木津は座卓にもたれたまま再び眠り
込みそうな様子で答えている。最初から聞いてはいたのだ。
「連中は“目に見えない宝”を探している、って。」
京極堂はまだ戻って来ない。
1998年11年
|