「蜘蛛の巣館探訪・中編」  


■茂浦−首吊り小屋−
・ 茂浦
明神岬と鵜原港をはさんで向かい合っている岩場がありますね。
“首吊り小屋”のあった茂浦はあのあたり。
波に穿たれた見事な洞窟が見えています。町に降りて、木場刑事御一行様手配犯川島を待ち受けるために向かった茂浦に行ってみましょう。
雲が出て来ました。雲が海面に映ると、みるみるうちに海の青さが消えて、鈍い金属の色に変わってゆきます…。

海沿いの道は途中川で遮られるので、本通りに戻り20分ばかり歩きます。
小学校の脇からくねくねとトンネルをいくつも抜けて、耕作老人の言う「村と村の境」−鵜原と興津の間へ。幸い薄い芳江さんが暮らしていた小屋があったのは、このあたりでしょうか。
捕り物をされるんですか。それなら、この丘の上はどうでしょう。
海風が鳴っています。…え、私もやるんですか?

・守谷海岸
茂浦を越えて興津へ向かうこの道は、伊佐間君が見た「蓑火」、派手な女の着物に蓑笠をつけた異様な風体の“男”が逆に辿って行きました。
本文には出て来ませんでしたが、茂浦と興津の間は、くっきりした凝灰岩の縞目模様の断崖に囲まれた、こぢんまりとした美しい湾になっています。浜のすぐそばに崖とおそろいの岩でできた小島があり、可愛らしい赤い鳥居と祠がちょこんとのっています。
2つの駅の中間点ですが、興津駅からバスも通りますし、水がきれいなので海水浴もおすすめ。電車からも、額にはめた絵のような風景が見えますので、お見逃しなく。


■興津−聖ベルナール学院跡−
時の止まったような鵜原の町に比べたら、興津は普通の町です。
何が普通かというと、町に信号があって、ガソリンスタンドがあって、コンクリートの四角いマンションがある。
織作家末娘、碧さんの通う「聖ベルナール学院」は、この興津の町の山側にありました。
線路は海岸沿いに走っていますが、山中を国道が通っていますので、少し調べてきました。…山と山の合い間に見下ろせる興津の町は、青や橙や銀色の瓦屋根が同じ高さにきちきちと並んで、それがきらきらと光って、その向こうに高く水平線が見えています。
そこで、山の方を向いてみると…こちらはただひたすら“山”です。もくもくとよく育った緑がなだらかな斜面をどこまでも覆っています。石造りの建物など、どこにも見えません。緑の結界が張られているようです。−伊兵衛氏の封印の魔法、ですか?いいえ、そんなものに効果はありません。ただ、見えないだけです。
見えないものは、アプローチのしようがありません。
蜘蛛の巣館での出来事は、常時伊佐間君の視点で語られています。彼は“外部”の人間でしたから、私達も館へ向かった彼の足どりを辿る事ができました。
一方、聖ベルナール学院の場面は、呉美由紀さんの視点によるものです。彼女は最初から学院“内部”に居て、冷たい石の壁は彼女の視線を跳ね返してしまいます。外から訪れるのは皆招かれた者達ばかりで、私達にはその道は知らされていないのです。
知らなければこの緑の中、ただ結界の周囲をうろうろと廻るばかりです。
もっとも、こんな山の中に広い平らな敷地を取るのは大変な事ですので、−町の西寄りの山中に出来た新興住宅地、案外あそこが「学園跡地」なのかもしれません。

興津から西は「絡新婦の理」事件の舞台にはなっていませんが、まだお見せしたいものがありますので小湊まで電車でお附き合い下さい。
駅を発車する時、車窓の山側を見ていて下さい。ほら、あれ。大きな本堂、不思議な形の高楼、…煉瓦色の立派な体育館、学舎…。
ええ。あれはただ普通のお寺と普通の中学校が並んで建っているだけなんですが、一瞬ギョッとしたでしょう。
次の停車駅は「滑川アイランド」、その次の「安房小湊」で降ります。


■小湊−呼んだら海から来る仏−
小湊は日蓮上人生誕の地です。
ここには「誕生寺」というそのまんまの名前のお寺があって、漱石の「こころ」の中でも「先生」と「K」が、学生時代に訪れています。
海のすぐそばにあるお寺の門前、門内に賑やかに市が出来て、のどかで、そぞろ歩きにはぴったりです。立派な山門をくぐり、祖師堂を参拝してから、寺宝を拝見しましょう。
宝物館(大人300円、8時〜16時)には日蓮上人御真筆や清正公遺品等に混じって、…あるんです。仁吉さんが授かったような「海から来る仏」が。(本文P175)
それは、葵さんの面差しにも似た美しい女神像…などではなくて、まぁ、仏像ですが、…
信心深い漁夫の網にかかって海からあがって来られたのだそうで…あら有難や畏ろしや、これも御上人様の奇瑞かな…、という訳でもありません。
今の誕生寺でも、お寺にしてはかなり海に近く建てられているようですが、1276年(建治12年)に創立された当時は、もっと海っぷち、現在遊覧船がこれまた奇瑞のを見せる “妙の浦”にありました。
それが、仁吉さんの語った富大明神同様、大津波で大伽藍を再三流され、今の位置に再建されたのだそうですが、…そのとき沖に流されてしまった仏様が、他の流出物ともども魚網にひっかかった、といったところでしょう。
この世には不思議な事など何もない−のだそうですね。


そろそろ、勝浦に戻りましょう。
「蜘蛛の巣館跡」にまだ御案内していませんでしたね。
鵜原の明神岬は峻険で、小別荘などを建てるのには適しているようですが、「てっぱつ」館を建てるにはやはりもっと広い敷地が欲しいところです。
「心当たり」と申し上げました。きっかけは今川雅澄氏の言葉です。
伊佐間君と二人坂を登って初めて館を目にした時に、こう言っています。
「−この明神岬にはその昔、勝浦城という堅固な城があったそうですが−」(本文P195)このくだりにあれっ、と思ったのです。勝浦城は実在しました。戦略上の要とされ、名だたる武将達が奪い合った戦国の城です。
ただ…勝浦城は明神岬にではなく、勝浦の八幡岬にあったのです。
何故今川君はこんな事を言ったのでしょう。単なる土地勘のない他所者記憶違いでしょうか?
そうは思えません。今川君は勝浦城主植村土佐守を知っていました。(本文P184)
しかもその話題は八幡岬の神様の話をしていた時、出たのです。
今川君は−見かけによらず−、鋭い頭脳の持ち主です。その彼の言葉なのですから…
蜘蛛の巣館は本当は八幡岬の城跡にあったのではないでしょうか。
行きましょう。



1998年08月



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