「蜘蛛の巣館探訪・前編」  


■ 館へ至る道

東京を離れてもう随分経つと言うのに、列車は農地とも山中ともつかぬ曖昧な風景の中をいつまでも走っている。
向かいのに座った友人は、窓枠に肩をもたせかけたまま何かじっと考え込んでいる。
平生饒舌な男が、房総行きの列車に乗り換えてからこっち、ずっとこの調子である。
空はまだ曇っていて、車内は薄暗い。
私はひどく心細くなってきた。
「なぁ、本当にこの列車でいいのかい?なんだかさっきから山の中ばかり走っている
みたいじゃないか。」
私の声に友人はふと顔をあげ、しばらくこちらの顔を見てから漸く初めて窓の外に
目をやった。列車は、今はやたらにだだっ広い畑だか田んぼだかの続く平地を走っている。
「あの向こうにずっと緑が続いているだろう?」
長い指がすうっと窓を横切る。確かに、彼方に何故か一直線に、ぽつりぽつりと民家が並び、その上に暗い緑の帯が連なっている。丘−にしてはひどくひらべったい。
「防砂林さ。九十九里浜の南端だ。ここらは砂が堆積して出来た平地だよ。」
そう言われても、私にはその向こうに白い波の打ち寄せる広々とした渚があるのか、それとも地の果てまで続く大地が広がっているのか、判断の仕様がない。
また山の中に入った。

「あ、」灰色の空の下に一瞬、今までと違った色合いが見えたようだった。
確かめようとして立ち上がりかけた瞬間、トンネルに入ってしまう。トンネルはいくつもいくつも続き、これまでで一番深い山に入ったようだ。


風景はいきなり開けた。

「海…」
膨大な質量が、こちらに向けて盛り上がって来る。水平線は濃く黛を引いたように
色が異なっている。両腕を伸ばした格好の断崖に支えられた広い湾だ。淡い斑(むら)の
流れている曇空の右すみに、何かとても薄い、軽そうなものが斜めに幾筋もかかっていて、
海面がその部分だけ細かく輝いている。
それが雲の切れ間から射す太陽の光だと気付くまでの暫くの間、私は何か全く別の
ものを見ている心持ちでいた。それは例えば…露をのせて輝くかすかな蜘蛛の網。
「降りるぞ。」
目の前の黒い影のような男は不意に立ち上がると、暗い車内を降車口の方へと向かった。



1998年08月



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