星祭りの夜に<エピローグ>



夜になっても下がらない気温は、川縁では少しだけ下がったように感じる。
川そのものは十数年前よりは綺麗になったとは言え、まだまだ美しいと形容するには無理のある水質だった。
だが夜はその姿を変え、対岸の電灯をわずかに揺らしながら映す水面はそれなりに風情がある。
リョーマと手塚はこの川の土手に腰を下ろしていた。
「がっかりしたか?」
先程から何も言わずにじっと目を凝らして空を見つめているリョーマに、手塚が苦笑しながら話しかける。
「東京の空では、このくらい見ることが出来ればいい方だ。街が明るすぎる。空気も不純物が多い」
「でもあそこのうっすらと色が変わっているところなんスよね、天の川」
「たぶんな」
リョーマは「ふーん」と返事をしてから、仰向けに寝転がった。
「オレたちには見えないけど、きっと雲の上でちゃんと逢えたっスよね。空の二人も」
「ああ」
手塚もリョーマの隣に寝ころんでみた。
あまりよくは見えないが、微かに星たちが煌めいている。
「短冊…いつ見つけたんスか?」
「短冊?…ああ、これか」
手塚は胸のポケットから紙片を取り出した。
「正直言ってこれは俺が見つけたのではないんだ」
「…もしかして菊丸先輩?」
「いや。不二がくれた」
「……そっスか」
そう言ってからリョーマははたと気付いた。
「…不二先輩にいつ会ったんスか?今日だよね?」
「ああ」
手塚は今日の自分の行動を手短に説明した。
部活に出なかった理由、不二との賭けのこと、そしてリョーマを探してあちこち走り回ったこと。
「狡いっス」
「え?」
「オレも食べたい。アンタの料理」
手塚は苦笑した。自分だってリョーマより先に不二たちに作らねばならないことをどんなに不本意に思ったことか。
「夏休みに入ったら、いつでも作ってやる」
「約束っスよ」
リョーマが身体を起こして手塚を覗き込んだ。
「ゆびきりでもするか?」
手塚が微笑みながら言うと、リョーマは手塚の左手を取り、指を絡ませた。
「オレだって、アンタを独占したい」
リョーマは手塚の左手に口づけ、自分の頬にそっと押し当てる。
手塚は目を細めながら、左手を預けてリョーマの好きなようにさせていた。
「オレは…まだアンタみたいに愛って言葉を口に出すほど自分の感情に自信はないけど…それでも…」
リョーマは手塚の左手を両手で包み込んだ。
「もしも、空の二人みたいに、誰かのせいで1年に一度しかアンタに逢えないなんてことになったら……そいつをぶっ飛ばしてでも、アンタに逢いにいく」
リョーマは強い瞳で手塚を見つめる。
手塚は自由な右手でリョーマの髪に触れた。
「そうだな…。目に見えない力に押し流されそうになっても、俺も必ずお前の元に泳ぎ着く」
「……どうしよう」
「…ん?」
リョーマは困ったように微笑んだ。
「…こんなに……誰かのこと、好きになれるんだね」
手塚の鼓動が大きく跳ねる。
「キス、していい?」
「ああ」
平静を装って手塚が答えると、リョーマがそっと手塚に唇を寄せてくる。
啄むようなバードキスを繰り返し、手塚の下唇をやわらかく噛んだりする。
そんな可愛らしいキスを続けられているうちに、手塚はどうにも身体が熱く昂ぶってきてしまった。
「…リョーマ…」
「なに?」
「……そろそろ帰るか?」
「ヤダ」
手塚の身体の変化を知ってか知らずか、リョーマは手塚に馬乗りになってキスを続ける。
「ん……っ」
上に乗られて、手塚が小さく呻く。
リョーマは手塚から唇を離してクスッと笑った。
「オレのキスでもその気になってくれるんだ?」
「…当たり前だろう」
手塚はわざと仕掛けられていたことにようやく気付いた。だがここは周りに隠れるところの何もない川縁、この先に進むわけにはいかない。
「こんなところで煽るな」
「でも………」
「………」
言葉の続きを言いづらそうにしているリョーマを見つめたまま手塚はしばらく考えていたが、意を決したようにリョーマを自分の上から下ろさせ、すくっと立ち上がった。
「………行くぞ」
「…どこへ?」
手塚はリョーマの腕を掴むとずんずん歩き出した。
手塚が向かう方向には大きな橋があった。ちょうどリョーマが生まれた頃にできあがった橋は車道が4車線有り、モノレールも走っている。
人間のための橋と言うよりは交通のための橋である。
黙って手塚に引っ張られていたリョーマは、次第にその橋が近づいてくると手塚の考えがわかってきて、頬を赤らめる。
大きな橋の大きな橋脚の下に来ると、手塚は歩みを止めた。
リョーマを振り返った手塚の表情は暗くてよくはわからないが、もしかしたらちょっとひきつっているかもしれない、とリョーマは思った。
「アンタ、結構大胆だね」
「……ならば、帰るか?この橋は駅に繋がっているぞ」
「……大胆になった上に、性格悪くなってない?」
リョーマは手塚に抱きついた。
「ずっと…口もきいてなかったんだから……っ」
切なくてつらかった時間を早く忘れたくて、リョーマは手塚にきつくしがみつく。
手塚もゆっくりと、リョーマを抱き締める腕に力を込めた
                      






「…帰るか」
「……うん」
手塚は優しくリョーマの髪を梳いた。
「俺たちは一年に一度の逢瀬ではないんだ……そんな顔をするな」
いつでもリョーマは、帰り際に切なげな顔をする。
自分とほんの少しでも離れていたくないのだと、直接口にされるよりも、手塚はつらくなる。
「夏の合宿ではずっと一緒にいられるしな」
「合宿…?」
「…まあ、こんな事をする体力は残らんだろうが…」
昨年の合宿を思い出したのか、手塚が溜息をつく。
「キツイんだ?」
「かなりな。夏の合宿でやめてゆく一年もいるくらいだ」
「へえ、おもしろそうじゃん」
リョーマが不敵にニヤッと笑った。
これが、先程の頼りない表情を浮かべた人間と同一人物かと思うほどの変貌に、手塚は笑みを浮かべながらリョーマを見つめた。
「そういえば、そこでなら見えるかもしれんぞ」
「?なにが?」
手塚は黙って空を指さした。
「ホントに?」
リョーマは瞳を輝かせた。
コロコロと表情が変わる恋人を眩しそうに見つめていた手塚は、リョーマの肩をそっと抱いた。
「行こう」
「うん」
二人は寄り添いながらゆっくりと土手を登っていった。
登り切ったところで、もう一度リョーマは空を見上げる。
「来年もここに来ないっスか」
「そうだな」
手塚も頷いて、空を見上げる。
「今度はお互いに、妙な賭けはなしだぞ」
「ういっス」
二人は顔を見合わせて微笑んだ。その直後、
「あ」
と、リョーマが小さく叫んだので、手塚は「なんだ?」と少し驚いてリョーマを見た。
「腹減ったかも」
手塚は一瞬キョトンとしたが、そう言えばそうだな、と思い出したように同意した。
「今日はうち、親父しかいないんだ…どうしよう」
「ならば、うちへ来るか?」
「え、でもオバサン怪我してるから動けないんじゃ…」
「俺が作る」
「あ!」
リョーマの瞳がまた輝き出す。
「すぐ帰ろう!早くアンタの料理食べたい!」
さっきまでのロマンチックなムードはどこへやら、リョーマが『育ち盛りの少年』を前面に出して手塚の腕をグイグイ引っ張り始める。
手塚は自分の前を歩くリョーマの背中を穏やかな瞳で見つめながら、来年も、その先も、こうしてこの七夕の日に二人でいられるようにと心に強く願った。

空の星たちは二人を包み込むように、遥か頭上で煌めき続けていた。

THE END  
2002.7.11 

Before