夢の中で、リョーマは誰かに呼ばれた気がした。
自分を呼ぶその声はどんどん大きくリアルになって迫ってくる。
そしてついに部屋のドアが開けられる音でリョーマは目を開けた。
「リョーマさん、起きて。電話よ」
夢の中で自分を呼んだのは実際には従姉の菜々子だった。
リョーマの頭は覚醒しきれずに混乱している。
「…電話……?誰?こんな朝っぱらから…」
「桃城さんよ」
名前を聞いて、リョーマははっとした。
飛び起きてカーテンを勢いよく開ける。
リョーマは眩しさに手をかざした。
「いいお天気ね、リョーマさん。桃城さんとどこか行くの?」
「…………そーみたい……」
ニコニコしている従姉の何気ない言葉が、リョーマに追い打ちをかけた。
「いつまで寝てンだ?青少年」
「老人は早起きだね」
「ははーん……」
南次郎はリョーマの顔を覗き込んでニヤニヤと笑った。
「なんだよ、親父」
「やーね、お子ちゃまったら、賭けに負けてチョー不機嫌?」
ぷにぷにとリョーマの頬をつつきながら南次郎が不気味なおネエ言葉になってからかい始める。
「やめろよ、クソ親父っ!」
南次郎はいかにも楽しそうに声を上げて笑ったかと思うと、急に真面目な顔になってリョーマの顔を覗き込んだ。
「約束、忘れんなよ?」
「わかってるよ。………でも、ちょっと遅くなるかもしれない」
「ああ、いいぜ、別に」
リョーマは軽く溜息をついた。
何やらとんでもない一日になりそうな予感がした。
今日の部活は自主練扱いになっていた。
顧問の竜崎も、今日がこんなに晴れるとは思っていなかったせいなのだろう。
「こんないい天気の日曜にわざわざ学校に来て練習するヤツなんてあんまりいねぇよな、いねぇよ」
「……結構いそうな気がするんスけど…」
今日ばかりは頬に当たるさわやかな風を恨めしく思いながら、リョーマがぼそっと呟く。
きっと自主練とは言え、いつものメンバーは揃っているに違いないとリョーマは期待していた。
そう、桃城との『デート』の前に、やはりもう一度手塚に会っておきたかったのだ。
しかし、今日に限って運に見放されているらしいリョーマは、コートで手塚の姿を見つけることが出来ない。
レギュラーでコートに来ているのは大石、乾、それに海堂、そして桃城とリョーマだけだった。
大石に手塚の参加不参加を確かめたかったが、そうしょっちゅう「部長は?」と尋ねるのも変に思われそうなのでやめることにした。
ましてや乾にも海堂にも訊けるものでもなく……
「へえ、めずらしいな、部長が来てないなんて」
桃城が心底意外そうに、それでいて勝ち誇ったような顔でリョーマに「なあ?」と同意を求める。
「なんか用でもあったんじゃないっスか?」
「越前」
ちょっと小声になって桃城がリョーマに顔を近づけた。
「部長には俺との賭けのこと言ったのか?」
「…………」
リョーマは無言で頷いた。
「……へーえ」
桃城の瞳が輝き始める。それを見て取ったリョーマは逆にげんなりとして大きな溜息をついた。
(自分との賭けにも負けちゃったかな…)
もう一度溜息をついて帽子を被り直し、リョーマは心にこみ上げてくる不安感と闘うことにした。
時間は遡る。
早朝、午前6時。
腕を組んで窓の外を眺めていた手塚は電話の音に気付き、階下に降りた。
まだ寝間着姿の母親が受話器を取ろうとするのを制止して電話に出る。
「はい、手塚です」
『あ、おはよう、手塚。いい天気になりそうだね』
「不二か。…そうだな、いい天気だ」
電話の向こうでクスッと笑う気配がした。
『約束、覚えてる?』
「ああ」
手塚は溜息混じりに短く返事をした。
『そう言えば、越前くんも、桃と賭けをしていたみたいだね』
「…………」
手塚は眉をきつく寄せた。
その気配が電話の向こうにも伝わったのか、不二が「まったく二人ともしょうがないね」と困ったような声で言った。
「…で、俺は何時にそっちに行けばいいんだ?」
『いつでも良いよ。もう少し寝るつもりだし…』
「部活は出ないのか?」
『今日は自主練でしょ?それに、僕はいいけどベッドの猫が動けそうにないし』
「…………」
手塚は額に手を当てて溜息をついた。
とりあえず昼前に不二の家に行くことを告げて、受話器を置く。
置いた受話器に手を乗せたまましばらく考え込んだ手塚は、もう一度受話器を手にすると、すっかり指が覚えてしまった番号を迷いもなく押した。
しかし、受話器から聞こえてきたのは『話し中』の冷たい音だった。
しばらくその音を聞いていた手塚は目を閉じると静かに受話器を戻した。
そしてゆっくりと目を開け、電話に出てくれるはずだった相手を思い浮かべる。
もうずっと言葉を交わしていなかった。
何か言いたげな瞳を向けられているのは感じていたが、その瞳を、手塚は避けた。
昨日見かけた彼は、同級生たちに軽く相づちを打ちながら真っ直ぐ前を見つめて歩いていた。
彼の姿が廊下を曲がるまで、手塚の瞳は彼を追っていた。
自分がどうしたいのか、本当は手塚にはわかっている。
(今日が雨だったら……)
そうしたら少しは素直に、彼に対して感情をぶつけられたのかもしれない。
しかし、外は明るい日差しに満ちている。
(部には顔を出さなくてはならんな)
気持ちを切り替えて部活に赴く準備を始めようとしたその時、台所の方から悲鳴と共に、ガタンと大きな音が響いた。
「母さん?」
手塚が足早に台所に向かうと、床に座り込んだ彩菜と倒れた椅子が目に入った。
「いたたっ」
「どうしたんです?大丈夫ですか?」
「ええ、大丈夫よ国光。ちょっと上の棚にしまったものを出そうと思ったんだけど届かなくて……あっ」
テーブルにつかまって立ち上がろうとした彩菜が顔を顰めてまた座り込んでしまった。
「母さん?」
「…足ひねっちゃったみたい……」
左足をさすりながら彩菜が苦笑を浮かべる。
「病院へ行きましょう」
「ああ、いいのよ、あなたは部活があるんでしょう?タクシー呼ぶから大丈夫」
手塚は今日が日曜であることを思い出した。あいにく父も祖父も今日は予定があってじきに出かけなくてはならない。
「あの休日診療所は人が多くて母さん一人では危ないですよ。部の方はご心配なく。副部長の大石に連絡を入れておきますから」
「ごめんね、国光」
「いいえ。それより、とりあえず湿布をしておきましょう」
テキパキと行動しながら、手塚は心のどこかで『母親をダシに部活を休もうとしている自分』に嫌悪感を抱いていた。
「あら、そう言えば今日って七夕ね」
彩菜がカレンダーを見ながら、本当に忘れていたらしい様子で目を丸くしていた。
「七夕に晴れるのって、……何年振りかしらね」
「………そうですね」
手塚は心の中で溜息をついた。その『何年振り』かの珍事のせいで、自分の気分は最悪だった。
「今年は恋人たちにとっては最高の七夕になるわね」
「…………」
否定するわけにも行かず、眉間にしわを寄せながら彩菜の足首に包帯を巻き終えると、彩菜の優しい瞳と目があった。
「こんなに素敵な日だもの、恋人たちに悪いことが起きたりなんかしないわよ、国光」
「…そう、ですね…」
一瞬自分に対して言われたように錯覚した手塚は、それでもなんとか心の動揺を表情には出さずに「大石に連絡してきます」とその場を立つことに成功した。
(最高の七夕、か……)
一年に一度、晴れたときにだけ逢うことが出来る恋人たちの伝説。
想いが叶う彼らに願いを寄せて、幸せでありたいと念じる人々。
自分も、もし素直になったら、この想いは彼に伝わるのだろうか。
(越前………)
逢いたくて、逢いたくなくて、それでもたった一日ですら逢わずにいられない愛しい恋人。
手塚は目を伏せて、ゆっくりと溜息をついた。
午前中の練習を終え、竜崎の提言もあって午後が休みになった部員たちは、午後の予定を楽しげに語りながら部室で着替えをすませ、我先にと帰り始める。
「まずは昼飯だな、越前」
「そっスね」
「おや、二人でお出かけかな?」
乾が眼鏡を光らせてリョーマの後ろからぬっと覗き込む。
「そーなんすよ、乾先輩!これから俺、越前とデート!」
乾の後ろで海堂が「けっ」と言いながら制服に袖を通す。
「ほう?越前と桃城がデート。それはおもしろそうだね」
ニヤリと笑いながら呟く乾を恨めしげにきつく睨んで、リョーマが無言のまま着替えを続ける。
「どうする、越前、一回家に戻って着替えるか?」
「面倒だからこのままでいいっスよ」
「ムードのねぇヤツだなぁ」
口ではそんなことを言いながら、とにかく桃城は上機嫌である。
その様子を横目で見ながら、リョーマの方はどんどん憂鬱な気分になってくる。
手塚はどうして来なかったのだろう。
もしかしたらもう自分と顔を合わせたくないと思っているのだろうか。
いや、人一倍責任感の強い手塚が、『部長』としての役割を放棄してまで、自分の感情に素直に行動するとは思えない。
(きっと何か用事があったんだ)
リョーマはちらりと笹飾りに目をやった。
自分がつけた短冊が、あの中に飾られている。
自分の想いは伝わるのだろうか。
願ったとおりに、彼は行動してくれるのだろうか。
自分の手許に視線を戻して、リョーマが全てのボタンをとめ終わると、すでに着替えを済ませていた桃城が「待ってました」とばかりにリョーマの腕を引っ張った。
「じゃ、お先に失礼しまーすっ!お疲れっした〜!」
「お疲れっした」
「また明日な」
挨拶もそこそこに部室を飛び出ると、桃城が自転車を取ってくるから待っていろと言い残して走ってゆく。
リョーマは校門に背を預けて空を見上げた。
「いい天気」
雲は多いが、夏らしい青空が覗いている。
本当は、こんな風に晴れたら、手塚を誘って、以前二人で行った公営のテニスコートに行きたかった。
だが、「七夕は晴れない」という話をいろいろな人から聞いて、「どうせ雨だろう」と落胆していた。
今日という日に晴れて欲しかったのは、誰よりもリョーマ自身だったのに。
「なんでこうなっちゃうんだか…」
雨だと思っていた天気は晴れ、七夕という日に一緒にいたかった手塚には口もきいてもらえず、これからの時間は不本意な『デート』をしなくてはならない。
「お待っとさん」
思いっきり自転車を加速させて桃城が戻ってきた。リョーマのすぐ横で急ブレーキをかけて止まる。
桃城の後ろに当然のように乗りながら、リョーマが「腹減ったっス」と催促する。
そんなことすら嬉しいらしい桃城は「んじゃ、ワープするぜ!」とハイテンションで自転車を発車させる。
暑い日差しと、少しぬるく感じる風を頬に受けながら、リョーマは桃城に聞こえないように溜息をついた。
「お母さんの足、大丈夫だった?」
不二の家に着くなり、心配そうに尋ねられて、手塚は軽く頷いた。
「大丈夫だ、思ったほど悪くはなかった。2〜3日もすれば普通に歩行は出来るらしい」
「そう、よかったね」
リビングに向かいながら、手塚は途中にある階段の上を見やった。
「まだ寝ているのか?」
「そうみたい。起きたときに手塚がいたら驚くだろうな」
心底楽しそうに不二がクスクス笑う。
「で、何がいいんだ?」
「そうだなぁ……何が得意?」
楽しそうな笑みを浮かべたまま、不二がニッコリと聞き返す。
「…主に和食だな。イタリア系も作れるが」
「じゃあ、イタリア系で」
「わかった。メニューは適当でいいんだな?」
「おまかせするよ」
材料や調味料の場所を簡単に手塚に伝えると、不二はおもしろそうに腕を組んで手塚の行動を観察しはじめる。
手塚はそんな不二の視線もあまり気にせずにテキパキと調理にかかった。
「まさか今日が本当に晴れるなんてね」
「………」
桃城とリョーマが『賭け』をした同じ日、手塚と不二も同じ事で『賭け』をしていた。
もちろん、言いだしたのは不二で、気乗りしない手塚をほとんど無理矢理『賭け』に巻き込んだ。
手塚は「雨が降る」方に、そして不二は「降らない」方に賭けた。
手塚が勝った場合は、最近近くに出来た全天候型テニスコートの無料チケットをペアで3回分もらえるはずだった。
だが、空からは雨粒の落ちてくる気配はなく不二の勝利となり、手塚は「手料理」を不二と不二の愛する『猫』に振る舞うことになってしまった。
どうやら以前大石が言っていた「手塚は料理が好きらしい」という話に興味を持った不二が、どうにかして手塚に腕前を披露させたかったらしい。
手塚としては、まだリョーマにも食べさせていない自分の料理を不二たちに振る舞わなければならないことに多少の抵抗がなくはなかった。しかし、持ち前の責任感の強さが、今、不二の家のキッチンに手塚を立たせている。
「越前くんのこと、放っておいていいの?」
「………」
唐突な不二の言葉に一瞬手を止めた手塚は、しかしまた無言で下ごしらえを再開する。
しばらく二人の間に沈黙が流れたが、その空気に堪えきれなくなった手塚が溜息をつきながらやっと答えた。
「たぶん、あいつは軽い気持ちで桃城との賭けに乗じたのだろう……それはわかっているが……」
「手塚としてはおもしろくないよね」
「………」
手塚は手にしていた包丁を置いて不二を振り返った。
「男の嫉妬は醜いか?」
不二は真っ直ぐ手塚を見つめ返すと、自然な微笑みを浮かべた。
「嫉妬もできないようじゃ、本気だとは言えないよ」
少し意外そうに目を見開いた手塚は「そうか」と呟いて、また作業を再開する。
その後は不二が話しかけもせず、着々と料理が出来上がっていった。
ルッコラやほうれん草を使ったカリカリベーコンがのった緑野菜のサラダと、イカやエビ、アサリなど海の幸の入ったリゾット、そしてジャガイモ・タマネギ・トマトのティエラ(パン粉やチーズをのせオーブンで焼いたもの)があっという間にテーブルに並んだ。
不二はかなり驚いた様子で「すごいね」と拍手までして感嘆の言葉を次々に口にした。
「味の保証はしないがな」
「完璧な手塚のことだから信頼してるよ」
手塚はイヤミかとも思ったが、滅多に見られない不二の子どもっぽい笑顔を見て、素直に誉め言葉だと受け取ることにした。
「猫を起こしてやれよ。リゾットは温かいうちの方がうまいぞ」
「うん、そうする。手塚も食べて行くでしょう?」
「いや、俺はいい」
「…そう?」
帰り支度を始めた手塚に歩み寄ると、不二は折り紙のような紙切れを手塚に差し出した。
「?…なんだ?」
「誰かの願い事。彦星と織り姫くらいの時代の人じゃ、これは読めないと思って」
訝しげに眉をひそめて手塚がその紙切れを受け取ると、細長い紙片に走り書きのような文字で英文が書かれていた。
『You usually get my thoughts before I do,
so you probably know what I'm gonna say.
You should keep your valuables with you.』※
しばらくその紙片を見つめていた手塚は、ひとつ溜息をつくと、おだやかな表情になった。
「まったく…どこまで生意気なヤツなんだ」
「手塚の行動次第って感じだね」
「………」
「きっと待っているんだよ。どこにいるかわかる?」
手塚は首を横に振った。
「だが見つける」
紙片を畳んで胸のポケットにしまった手塚は、真っ直ぐに不二の目を見つめて言い切った。
「さすが、それでこそウチの部長だね」
「不二、感謝する」
「思った以上のごちそうを作ってくれたお礼だよ。越前によろしく」
手塚は頷くと不二の家を飛び出していった。
「桃先輩、このでっかいパフェ、頼んでいいっスか?」
メニューを再度開きながらリョーマが尋ねる。
「おう、いいぜ、好きなの頼めよ」
「んじゃ、遠慮なく」
リョーマは店員を呼んでこの店の中ではかなり大ぶりの器に入っているチョコレートパフェを注文する。
桃城も一緒にフルーツパフェを頼んだ。
「でもなんか、これじゃいつもとかわんねぇな。かわんねぇよ」
リョーマは食べ終わった食器を通路側に押しやりながら、チラッと桃城を見た。
「桃先輩」
「ん?」
嬉しそうに聞き返されて、リョーマは言葉の続きを言い出せなくなる。
そのまま黙ってしまったリョーマを見て、桃城は全てを察しているかのようにニカッと笑って見せた。
「まあ、いいじゃねぇか。俺はお前と『デート』のつもりなんだからよ。お前はいつもみてぇにしてればいいんだ」
「でもやっぱ、ちゃんと言わないと桃先輩に悪い気がする」
「…………」
桃城は笑みを消して、真面目な表情になる。
「オレには、好きな人がいるから……桃先輩も結構好きだけど、その人への『好き』とは違うから…」
「らしくねぇな、越前。いっつも俺のこと先輩扱いしねぇくせに」
リョーマは口を噤んだ。
「わかってるってばよ」
「…」
「誰かを想っているお前ごと、俺は越前リョーマが好きなんだよ」
リョーマは真っ直ぐに桃城の目を見つめた。
「その目、……最初に会ったときから忘れられなくなった。あん時すぐにモノににしとけばよかったぜ」
桃城がまたニカッと笑う。
「でもな、諦めてるわけでもないぜ?お前の好きな『あの人』に、いつか勝てると思っているしな」
「そりゃ無理じゃないっスか?」
「あぁ?」
「あの人の前に、俺を倒してから言う台詞でしょ、それ」
桃城はいつもの調子で「そりゃねえぜ」と頭を掻いた。
二人がクスクスと笑い始めたところにちょうど二つのパフェが運ばれてきた。
「いっただきまーす」
「あ」
リョーマがちょうどひとくち食べたところで急に桃城が窓の外を見て小さく声を上げた。
リョーマもスプーンをくわえたまま窓の外に目をやる。
「あ…」
窓の外では、道行く人々が慌てて通りを走っていく姿があちこちで見られる。
「雨、だ…」
「雨っスね…」
街を通り雨が濡らしていた。
そう言えば、今朝確認のために見ていた気象予報でも、一時的に雨の降るところがあると言っていた。
「すぐ止むのかな」
「通り雨だろ?すぐに止むだろうよ」
そのまま二人はしばらくの間、自分の注文したパフェを食べ続けた。
「桃先輩、ご馳走様っした」
「ま、たまにはな」
リョーマに背を向けて財布の中身を確認していた桃城がひきつり笑顔で振り返る。
「雨止んでから店出ればよかったっスね……」
「なあ、越前」
桃城が空を見上げながら少し真面目な口調で言った。
「雨、降っているんだよな」
見れば分かることをわざわざ確認する桃城に訝しげに首をひねりながらリョーマは「はぁ」と返事をした。
「雨降ったんだから、お前も勝ちだな」
「え?」
「一個だけなんでも頼みを聞いてやるぜ?言ってみろよ」
リョーマは目を見開いた。自分も勝ち、とは一体どういうことなのか。
「お前が賭けたのは『七夕の日に雨が降る』だろ?だからどっちかって言うと、お前の方が勝ちだろ?」
「あ…」
桃城がリョーマの頭をクシャクシャッと掻き回した。
黙っていれば自分を好きなように扱えたかもしれないのに、桃城はちゃんとリョーマに『逃げ道』を作ってくれた。
雨という現象は予想できなかったにしても、たぶんこの男は、何かの手段で自分を解放しようと思っていたに違いないと、リョーマは確信を持った。
「桃先輩…」
リョーマは桃城の『男気』に敬意を払って、それに甘えることにする。
「オレ、一人で行きたい場所があるから…これからそこへ行ってもいいっスか?」
桃城は軽く溜息をついた。
「『一人で行きたい』わけか。じゃ、ここでお開きにするか」
「ごめん、桃先輩」
「惚れた弱みだな」
桃城は明るく笑うと、リョーマを後ろに乗せ最寄りの駅まで自転車で送ってやった。
「サンキュ、桃先輩」
「おう、また明日な、越前!」
リョーマはくるりと踵を返すと駅の中に消えていった。
「俺もつくづくお人好しか?」
桃城は苦笑しながらも、雨上がりの爽やかな空のように心に青空を覗かせていた。
夏の夜は短い。
かなり時刻は夜に近づいているのに、まだ太陽は最後の輝きを地上に注いでいる。
夕方になって本数の増えた電車が頭の上を轟音と共に通り過ぎていった。
もう何本、電車の通り過ぎるのを見送っただろう。
青かった空は東から次第に紫色を帯び始め、周囲の建物は太陽の明るいオレンジ色に染まっている。
リョーマは一人、制服のままコートに立っていた。
桃城と別れてから真っ直ぐにここへ来た。
リョーマが来たときには高校生くらいの少年が二人で楽しげにテニスをしていた。
その高校生を見ながら、あの日の自分と手塚を思い出して、リョーマは懐かしい気分にさえなっていた。
少しして高校生たちは帰っていった。
ガランと人のいなくなったコートは、まるで今の自分の心の中のような気がして、リョーマはコートに足を踏み入れる。そしてゆっくりと中央まで歩いてみた。
手塚と自分は、ここから始まった。
確かに青学テニス部の部長と部員と言うだけなら、4月に顔を合わせたそれが最初の出会いではある。
だがもっと違う意味で、この場所は二人にとって一種の『聖地』になる。
ここで手塚と試合をした後のリョーマは、それ以前とはまるで別人だった。
濁っていた視界を、手塚が綺麗にしてくれたようだった。
そしてその視界の中に、手塚もいた。
同性への、ましてや同じ部の先輩である手塚への恋を認めるのにはかなり抵抗があったが、今ではもう、リョーマにとって手塚のいない生活は考えることすら出来ない。
なのに、今、手塚がいない。
「ずっと一緒にいたいっスよ……アンタと……」
リョーマは聞いてくれる相手のない言葉を小さく呟いた。
電車がまた頭上を通り抜ける。反対側からも電車が来て、しばらくリョーマは轟音の中に包まれた。
二本の電車が通り過ぎ、やっと静寂が戻ってきたその時、コートの入り口が開く音が聞こえた。
リョーマは振り向くことが出来ずに身体を強ばらせる。
入口から真っ直ぐリョーマに向かってきた足音が、少し離れたところでぴたりと止んだ。
リョーマは動かない身体に喝を入れてゆっくりと振り返る。
夕陽を背に受けて、手塚が立っていた。
「やっと見つけた」
「…遅いっスよ……何時間待たせんの」
リョーマは声が震えそうになるのを必死で堪えた。
「行き場所くらい書いておけ。時間を無駄にした」
「オレは無駄になんかしなかったっスよ。ずっとアンタのこと考えていた」
手塚がほんの少し目を見張った。
「アンタが好きだよ。なのにどうして傍にアンタがいないんだろうって、……ずっと考えてた」
「リョーマ…」
「アンタが好きだよ。アンタだけが好きだよ。アンタしかいらないのに……」
「リョーマ」
「何でオレを一人にするの?」
手塚は堪えきれずにリョーマに駆け寄り、その細い身体を掻き抱いた。
「すまん…」
「……なんでアンタが謝んの?謝るのはオレの方でしょ?」
手塚にきつくしがみつきながら、リョーマが小さな声で「ごめんなさい」と呟いた。
手塚はもういい、と答える代わりにリョーマの身体を抱き締め返す。
「俺も悪かったんだ。ちゃんと話をすればよかった」
そうしてしばらくの間二人はしっかりと抱き合ったまま動かなかった。いや、胸にあった様々な想いが溢れだし、それらを言葉にすら出来ないまま動けなくなっていた。
いつの間にか太陽が地平線に沈み、炎が燃え尽きるように鮮やかなオレンジ色の空が落ち着いた藍色に変わり始める頃、ようやく二人は身体を離した。
間近で互いの顔を見つめ、優しく微笑みあう。
「帰るか」
「……ウチに来てくれる?」
「ああ、構わないぞ」
穏やかな夏の黄昏時、どちらからともなく指を伸ばし、二人はそっと手を繋いだ。
「お邪魔します」
礼儀正しく一礼して、手塚が越前家に上がった。
廊下の向こうからドタドタとものすごい足音が響き、南次郎がすっ飛んできた。
「遅かったな、青少年たち!………ん?こっちも青少年か?」
南次郎は手塚を指さしてリョーマに疑問符を投げて寄こす。
「…青学テニス部・部長の手塚です」
「オ〜ニホンノチュウガクセイ、ソダチイイネ〜ソーリーソーリー」
定番の『謎の外国人』になった南次郎が奥へ上がるように手塚に手招きする。
「リョーマ、おめぇはあっち行ってろ」
「何それ、ムカツク」
「男同士の話があるんだよ。邪魔すんな」
「あ、あの…」
「別にとって食ったりしねぇよ」
そのまま有無を言わせず手塚の腕をグイグイ引っ張って、南次郎が奥の部屋に手塚を引きずり込んだ。
「ちゃんとすぐ返せよ、オレのなんだから」
置き去りにされたリョーマの呟きが虚しく玄関の静寂に染み込んだ。
奥の座敷に通された手塚はいきなり南次郎に頭を下げられた。
「南次郎さん、何を…!」
「一度、アンタには礼が言いたかったんだ。オレには絶対できねぇことをあのバカ息子にしてくれた。感謝する」
もう一度深々と頭を下げられた手塚は「いいえ」と穏やかに語りかけた。
「……お礼を言いたいのは俺の方です」
南次郎が意外そうに顔を上げる。
「越前リョーマを、青学に入れてくださってありがとうございました」
手塚に頭を下げられ、南次郎は一瞬キョトンと目を丸くした。
「あいつはウチにはなくてはならない存在です。いえ、正直言って青学のためだけじゃありません。俺の…一個人としてもあいつはかけがえのない存在です」
南次郎の目を真っ直ぐに見つめながら、手塚はきっぱりと言い切った。
目を丸くしていた南次郎は、手塚の言葉の意味を理解したらしく、頷きながらニヤリと笑った。
「そういうことか。だからあいつはあそこまで変わったんだな」
手塚は黙ったまま、揺るぎのない強い瞳を南次郎から逸らさない。
「…いい目だな、手塚。この先、平穏な道のりじゃねぇとは思うが、お前とリョーマなら大丈夫だろうよ」
そう言われてから、父としての南次郎の心境を思いやり、手塚はもう一度頭を下げた。
それでもリョーマは誰にも渡せない、と手塚は思った。
そう、たとえそれが肉親であっても。
「何話していたんスか?」
意外に早く解放された手塚を自分の部屋に招き入れながら、リョーマがふてくされたように尋ねる。
「…挨拶をしただけだ。これから一生の付き合いになるしな」
ちょっとした手塚の言葉にリョーマは耳まで真っ赤になった。
「まさか、『息子さんを俺にください』とか言ってないよね?」
手塚は目を見開いた。
「いや、そこまではっきりとは…」
「はっきりとは?はっきりじゃないけど、似たようなこと言ったんスか?」
「ああ」
リョーマは頭を抱え込んだ。
「リョーマ?」
「クソ親父に弱みを握られた……っ」
手塚は微笑むとリョーマをそっと抱き締めた。
「すまない。だがリョーマ、俺はもう、お前を他の誰にも触れさせたくないくらい、お前が大事なんだ」
手塚の腕の力が緩められ、その両手がリョーマの顔を優しく包み込んだ。
「お前を愛している」
リョーマの瞳が目一杯見開かれた。
ゆっくりと手塚の唇がリョーマのそれに重ねられても、リョーマは瞬きも忘れて呆然としていた。
深く入り込んできた手塚の舌がリョーマの舌を絡め取り、吸い上げる。
何度も角度を変えて深く口づけられ、やっとリョーマの思考回路が手塚の唇に集中し始める。
「リョーマ…」
唇を掠めて名前を囁かれ、リョーマの身体がゾクリと震えた。
「んっ…」
そしてまた深く舌を絡め合う。
先程とは別の理由で麻痺し始めた思考回路の中で、リョーマは手塚の言葉を何度も何度も反芻する。
うっとりと目を閉じて身体を預けるリョーマから、手塚はそっと身体を離した。
「これ以上はやめよう。南次郎さんは間違いなく覗きに来そうだ」
リョーマは物足りなさそうに唇を尖らせて「クソ親父」とブツブツ悪態をついている。
「天の川」
思い出したようにリョーマがいきなりその単語を口に出したので、手塚はリョーマの顔を覗き込んだ。
「天の川、見に行こうよ」
「天の川を?」
リョーマは頷くと手塚の腕を取って部屋を飛び出した。
「親父、ちょっと出てくる!」
「あー?蚊に刺されねぇようにな〜」
その言葉の裏の意味を読みとってしまった手塚はほんの少し赤面した。
「三丁目の土手がいいかもしれんな」
「うん、行こう!」
二人は手を繋いで天の川の元へ急いだ。
二人でいることの嬉しさを、幸せを、胸の高鳴りを、そして一緒に過ごせなかった時間の切なさも全てひとつにして、この想いを、天空の二人と分かち合うために……
THE END
2002.7.9
※いつもオレより先にオレの考えが分かるから、多分今何を言いたいのか察しているよね。
大事な物は手もとに置いておく方がいいよ。
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