「今年の七夕って日曜日なんだ…」
珍しく和風の朝食が並んだテーブルの横にどっかりとバッグを置きながら、リョーマがちらりとカレンダーに目を走らせてそう言った。
「リョーマさんは何をお願いするの?」
出来たてのみそ汁をリョーマの前に置きながら、従姉の菜々子がにこやかに尋ねる。
「…別に。どうせ雨降って天の川なんて見られないだろうし」
「おいおい、夢がねえな、青少年!」
首の後ろをぽりぽりと掻きながら、リョーマの父・南次郎が庭先から顔を出した。
「親父………どっから持ってきたんだよ、それ」
南次郎をチラッと一瞥すると、リョーマはみそ汁に口を付けた。
「お…おじさま……どうしたんです?その笹…」
ガサガサと騒がしく音をたてて、南次郎は大きな笹を「よっこらせ」と庭の真ん中に投げ出した。
「散歩の途中で拾って来たんだ。どーだ、スゲーだろう」
リョーマは溜息をつくと無視を決め込んで炊き立てのご飯を口一杯に頬張る。
「なあ、青少年」
いつの間にか南次郎がリョーマの後ろに立っていた。
「俺と『賭け』しねぇか?」
「カケ?」
夏服になってひと月。
梅雨の合間の青空が眩しい朝、リョーマは『通りがかり』の桃城の自転車に便乗して心地よい風を受けていた。
「なぁ、越前、今年の七夕って日曜日だよな」
「そっスね」
だから何だという感じの素っ気ない返答にもめげずに桃城が言葉を続ける。
「デートしねえ?」
「しないっス」
即答するリョーマに、さすがの桃城も苦笑しながら「ま、そーだろうな」などとブツブツ言っている。
「どうせ雨だろうし」
リョーマが空を見つめてぼそりと呟くのを聞き逃さなかった桃城が、ニヤリと笑みを浮かべた。
「そりゃあわかんねぇぜ?わかんねぇよ」
「…でも日本って七夕の時には滅多に晴れないって…」
「ふーん、じゃ、俺と賭けるか?」
リョーマは内心「またか」と思いつつも、桃城を見下ろして不敵に笑ってみせる。
「何を賭けるんスか?桃先輩」
「越前が負けたら俺と日曜日にデート」
リョーマは溜息をつく。
「…いっスよ。で?桃先輩が負けたら何してくれんの?」
「そーだなぁ……毎朝お前の家まで迎えに行って自転車で学校までお送りするってのは?」
「今もやってんじゃん」
はははっ、と明るく笑い飛ばした後、桃城が少し考え込む。
「1回だけ何でも言うこときいてやるよ」
「約束っスよ」
「お前もな、忘れンなよ」
「ういーっス」
そしてそのまま、自転車は軽やかに学校へ向けて加速していった。
「おはよーございます」
「あ、桃&おチビ、おっはよ〜」
「はよっス……菊丸先輩……それ……?」
菊丸は「へへっ」と瞳を輝かせて、リョーマが指さしたものを振り仰いだ。
「すごいだろう、おチビ〜!持ってくるの苦労したんだぁ」
「へ〜、こりゃいいや、エージ先輩さすが!」
「だろ〜?」
桃城の言葉に満面の笑みを浮かべて菊丸が自慢げに胸を張る。
「昨日飾りも作ったんだ!昼休みとかに飾り付け手伝ってくれるかにゃ?」
「ういっス!エージ先輩、短冊は?」
「いっぱい用意したにゃ〜」
「いいっスね〜一人何枚あるんスか?」
盛り上がっている菊丸と桃城を横目に着替えを始めたリョーマに大石が横から声をかける。
「越前は七夕を日本で迎えるのは初めてかい?」
「記憶にはないっスね」
両親に小さい頃の詳しい話はあまり聞いていないが、幼い頃に日本で七夕を迎えた記憶は、リョーマにはない。
「晴れるといいな」
「……別に……」
リョーマは複雑な表情を浮かべた。確かに七夕に晴れた夜空を日本で見てみたいとも思うが、晴れてしまうと桃城や南次郎との『賭け』に負けてしまう。
そんなリョーマに「あんまり興味なさそうだな」と爽やかに笑いかけた大石は「行こう」と部室のみんなに声をかけ、率先してコートに出ていった。
大石に続いてリョーマたちもコートに出てくると、すでに手塚と不二がコートに立ち、二人で何やら話し込んでいる。
部員たちがコートに集まってきたのを見た手塚が練習の開始を宣言した。
ランニングを始めながら、さりげなく手塚に近づいたリョーマは手塚の眉間にしわが寄っているのに気付いて声をかける。
「不二先輩と、何話してたんスか?」
「………七夕の話だ」
「七夕……?」
七夕の話でなぜそこまで不機嫌になるのかとリョーマは不思議に思いつつ、後ろを走る不二にチラッと視線を走らせる。すると、いかにも楽しそうにニッコリと微笑まれてしまい、嫌な予感がリョーマの背筋を走り抜けた。
「なーんか、やな感じ」
呟いてから手塚を見上げると、バッチリ目が合ってしまい、リョーマは内心ドキリとする。
何かもの言いたげな手塚の視線を受けてリョーマが眉を寄せた。
「…なんスか?」
「雨……降ると思うか?」
「は?」
「日曜に…雨が降ると思うか?」
「オレ、キショーチョーじゃないんでわかんないっス」
リョーマの返答にますますしわをきつく刻んだ手塚は黙り込んでしまった。
「でも、雨降ってくんないと困るんスよね……」
「なぜだ?」
前を見据えたまま手塚がリョーマに尋ねると、リョーマも前を見つめたまま答える。
「晴れちゃうと、オレ、桃先輩とデートなんスよ」
「………どういうことだ?」
明らかに、今までの不機嫌さとは違うオーラが手塚から出始める。
「登校途中に桃先輩と『賭け』することになって……それで…」
言いながら手塚を見やったリョーマは言葉を呑み込む。
リョーマを見つめる手塚の瞳に、一瞬、激しい焔を見た気がした。
手塚が何も言わずに視線を逸らしたので、リョーマは自分がひどくいけないことをしてしまったような気持ちになった。
桃城とはしょっちゅう部活帰りにハンバーガーを食べて帰るし、『デート』と聞いてもその延長のように考えていた。だから『賭け』を受けて立った。なのに……。
ランニングを終えてコートに戻っても、手塚は口をきいてくれなかった。
リョーマは溜息をつくと、空を見上げた。
『梅雨の合間』の空はリョーマの心とは裏腹に晴れ渡っていて雲一つない。
「……やな感じ」
リョーマは帽子を深く被り直すと、短く息を吐き捨ててラケットを手に取った。
昼休み。
律儀に菊丸の手伝いをしに来たリョーマは、鼻歌を歌う菊丸の横で何度目かの溜息をついていた。
「おチビ、手塚と何かあったのかにゃ?」
「えっ」
飾り付けの手は止めずに菊丸がちょっと真剣な顔でそんなことを言うので、リョーマは思いっきり動揺してしまった。
部室には今のところ菊丸とリョーマしかいない。
「…別に」
「なーんか、怒らせたんじゃない?」
口調は砕けているが、別にからかう風でもなく言われて、リョーマはほんの少し俯いた。
「菊丸先輩は……もし、自分の好きな人が他の人とデートするってきいたら、怒る?」
「当たり前にゃ」
「罰ゲームみたいな感じで、でも?」
「うん、怒る」
リョーマはまた溜息をついた。
「おチビは手塚が自分以外の誰かとデートしても平気かにゃ?」
「…………平気じゃないけど……オレはデートってつもりじゃなかったから…」
「でも相手の方はおチビと『デート』するつもりにゃ」
「あ…」
リョーマは意表をつかれたように目を見開いた。そして少しだけ桃城との『賭け』を後悔した。
「おチビ?」
黙ってしまったリョーマをちょっと心配して菊丸が覗き込むと、菊丸の予想に反してリョーマの口元が笑っていた。
「なーるほどね」
顔を上げたリョーマは、もういつものふてぶてしい一年レギュラーである。
菊丸は心配して損したにゃ、とぼやいてからふと気が付いたように短冊を一枚手に取った。
「ほい、おチビ!天の川にお願い書くにゃ!」
「え……お願い?」
「そ。全国大会に行けますように〜とか、でっかいパフェが食べられますように〜とか」
「そんなの、誰かにお願いしなくても自分で何とかするもんでしょ」
リョーマの言葉に菊丸が目を丸くする。
「一本取られたね、英二」
今のやりとりが外にまで聞こえたらしく、笑いながら不二が入ってきた。
それにつられて菊丸もぷっと吹きだし、笑い始める。
「ほーんと、おチビにはかなわないにゃ」
「これ持って帰って書いてもいいっスか?今は思いつかないんで」
「じっくり考えるにゃ」
菊丸にニッコリと笑顔で返され、リョーマもちょっと笑ってから短冊をバッグにしまい込んだ。
放課後の練習に手塚の姿がなかった。
リョーマが大石を捕まえて尋ねる。
「部長は、生徒会っスか?」
「ああ、少し遅れるからって言っていたよ」
「そっスか…」
菊丸には強気に笑って見せたものの、手塚を怒らせたままでいるのは気分が悪い。
リョーマはなんとか早いうちに、もう一度手塚と話がしたかった。
そうして部活も後半にさしかかった頃、ようやく手塚が姿を現した。
「遅れてすまない」
「ちーっす!」
部員たちが手塚に向かって挨拶をする。
手塚は頷くと大石と乾を呼んで練習経過の報告をきいた。
「わかった。大石、すまないが打ち合いに付き合ってくれるか」
「OK、こっちのコートでいいかい?」
「ああ」
話ながら手塚と大石がリョーマの方に歩いてきたので、リョーマは手塚を見つめた。
しかし手塚は一度も目を合わさずにリョーマの横をすり抜ける。
「…ふーん」
リョーマは溜息をつくと振り返らずにそのままコートの出口に向かって歩き出した。
「どこ行くの?越前くん?」
不二が呼び止めると、リョーマはいつにも増して素っ気なく「トイレ」と言い捨ててコートから出ていった。
「大丈夫かにゃ〜手塚とおチビ」
「英二は二人が心配?」
「手塚が荒れてると怖いにゃ」
不二はクスッと笑うと、菊丸の肩にそっと手を置いた。
「大丈夫、七夕様が何とかしてくれるから」
「そうかにゃぁ……」
トイレと言ったものの、リョーマは一人部室に来ていた。
部室の隅にたてられている笹飾りをじっと見つめる。
リョーマは一度目を閉じて息を吐くと、自分のバッグから昼休みにしまい込んだ短冊を取り出した。
無言のまま短冊に走り書きをして、すぐには見つからないような場所にくくりつける。
「アンタが気付くとは思えないけどね」
笹飾りに向かって小さな声でそう呟くと、くるりと背を向け、リョーマは部室を後にした。
コートに向かいながら、リョーマは自分自身に語りかける。
(これはオレ自身との賭けだ)
リョーマの瞳に次第に強い光が灯り始めた。
(決戦は日曜日…)
まさに運を天に任せて、リョーマはコートに足を踏み入れた。
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