シンデレラをさがせ!


    噂    


<1>




二日が過ぎた。
(いよいよ、か…)
リョーマはシューズの紐を結び直して立ち上がり、バッグを担いで家を出た。
体調は悪くない。
いや、目の怪我も完治し、かなり好調だと思う。
手塚に試合を挑まれても、全力を出して戦える。
メンタル面にしても、いろいろ思い悩むことはあるとはいえ、一旦コートに立ってしまえば切り替えは可能だ。
(無様な試合にはならない)
むしろ勝てるのではないかとさえ思う。
手塚のプレイは前の試合で見た。確かに強かった。
あの時に手塚が100%出し切ったかどうかはわからないが、あの試合内容ならば、自分の方が強いとリョーマは思う。
(アンタにもなんか考えがあるのかもしれないけど、コートに立ったら本気で行くよ)
リョーマはグッと前方を睨み、唇を引き結んだ。


高架下のコートに着くと、既に手塚がウォーミングアップをしながらリョーマを待っていた。
「遅れてすみません」
「いや、時間通りだ」
声が硬くなるのが自分でもわかった。応える手塚の声も、硬い。
「着替えます」
「ああ」
リョーマはその場で簡単に着替えを済ませ、早速アップに取りかかった。
空気が、既に、ここが戦いの場であることをリョーマに伝えてくる。
手塚への甘い恋情も、切ない想いも、今は心の奥に封じ込めておく。
身体を温め、十分に解し、壁打を少しして、リョーマは手塚の方へと歩いてゆく。
「……アップ、完了っス」
手塚がリョーマをゆっくりと振り返り、頷く。
そうして二人は黙ったままコートに入った。
「これからお前と俺で、ワンセットマッチを行う」
「はい」
「Which」
「Rough」
手塚が回したラケットは裏面が出た。
「じゃ、オレ、こっちのコートにします」
「ではサーブは俺からだな」
「ねえ」
リョーマが強い瞳で手塚を見つめると、手塚も真っ直ぐにリョーマを見つめ返してきた。
「倒しちゃってもいーんスよね?」
「……やれるならやってみろ」
笑われたわけではなかったが、リョーマはムッとして唇を引き結んだ。
二人は同時に互いに背を向け、それぞれのポジションへと歩く。
そして。
試合は始まった。
「はぁっ!」
「っ!」
いきなり手塚にサービスエースを決められ、リョーマの本気に拍車がかかる。
(そうこなくっちゃ)
しかし、最初こそワクワクと試合に臨んだリョーマだったが、その表情は試合の経過とともに険しくなっていった。
手塚からポイントがとれない。
つまり、全く歯が立たないのだ。
渾身のサーブは難なく打ち返され、コーナーを突いたショットはその倍の威力とスピードで跳ね返されてきた。
(これが、この人の、本当の実力……っ)
実力の差は歴然としていた。
どこへ、どんなショットを打っても通用しない。
それどころか、コントロールしているはずの打球は、すべて手塚の元へと吸い寄せられてゆく。
(なんでっ)
だがリョーマはその現象を知っている。父・南次郎がよく使う手だ。
相手から返される打球に回転がかかっており、リョーマがどんなにコントロールして打ち返しても、計算された回転のために打球がすべて相手の方へと曲がってゆくのだ。
(この人、ホントに中学生?)
何もかもが中学生レベルではなかった。
サーブの威力も、すべてのショットの質も、パワーでさえも。
(敵わ、ない…)
今まで、自分は何をやってきたのだろうかとリョーマは思った。
アメリカの大会で四つの優勝をもぎ取り、同年代にはもう、自分の敵はいない気がしていた。
青学に入ってからも、校内ランキング戦でレギュラー二人を倒し、地区予選でもすべての試合に勝った。
だから、自分は強いと、思い込んでいた。
(こんな人が、いるなんて…)
手塚の実力を甘く見ていたことは認める。
自分が、井の中の蛙だったことも、もう認めざるを得ない。
だが。
(このまま、負けるのはイヤだ!)
父親に勝ちたいと思っていた。
自分を馬鹿にする父親を見返すためだけに、テニスをしていた。
だから、とにかく父の技を盗んだ。
フォームも、グリップの握り方も、ポジショニングも、試合に臨む態度でさえ、父のあとを追いかけた。
確かにそれでテニスの腕前はグンと飛躍した。
ステップを踏む時、ラケットを構える時、ショットのコースも、深く考えずに父のようにこなした。
なのに、リョーマの中で時折違和感が起こったこともある。

 『自分だったら』

だがそれはいつも練習相手だった父には通用せず、いつしか自分の頭で考えるよりも、身に付いてしまった『父のテニス』をするようになっていた。
その『父のテニス』が、手塚には通用しないのだ。
(くっそぅ…)
リョーマは全神経を手塚のショットに集中させ、脳細胞をフル活動させた。
『父のテニス』が通用しないならば、『自分のテニス』はなおさら手塚には通用はしないかもしれない。
それでも、自分で考え、自分の思うように、戦ってみたいと思った。
「っつぁっ!」
自分でコースを考え、自分の判断で回転をつけてショットの質を変える。
その瞬間、今まで動かなかった手塚の軸足が、微かだが、動いた。
「!」
結局打ち返された打球をリョーマが打ち返すことは出来なかったが、手塚を動かすことが出来たことに、ひどく嬉しくなった。
(もっと動かしてやる)
回転のかけられた手塚のショットを、さらに回転をかけ、また時にはその回転を殺すように、打ち返す。
手塚が少しずつ軸足をずらすたびに、リョーマの心に闘志が蘇ってきた。
だが、完全に手塚を動かすことは、リョーマには出来なかった。
「…………」
最後は、『零式』と呼ばれる逆回転のかかったドロップショットを決められた。
完敗だった。
1ゲームどころか、ポイントもろくに取れなかった。
「く……そ…っ」
跪き、目の前に転がるボールを見つめてリョーマは唇を噛み締めた。
悔しかった。
手塚に負けたことが。
そして、情けなかった。
自分の実力を買い被っていたことが。
「越前」
手塚が、ゆっくりとリョーマの前に立った。
「それが、今のお前の実力だ」
「………」
リョーマが顔を上げると、手塚は小さく頷いた。
「全国には、強い奴は山ほどいる」
「アンタよりも…?」
「……それは、自分の目で確かめるんだな」
「………」
手塚から目を逸らしてリョーマが俯くと、手塚はさらにネット際まで近づいてきた。
「越前」
「………」
「お前は青学を支える柱になれ」
「え?」
思いもよらなかった言葉を聞いた気がして、リョーマは顔を上げた。
「お前は、青学の柱になれ」
もう一度言い直す手塚の瞳を、リョーマは真っ直ぐに見つめる。
「……な、に、言って…」
「今日のプレイを忘れるな。お前は、お前自身のテニスを貫け。そうすれば、お前はもっと、強くなる」
「……っ!」
リョーマはハッとした。
手塚の意図が、漸く理解できた気がした。
(アンタは、オレに、本当のテニスを教えようと……)
「越前。……テニス、好きだろう?」
「………」
リョーマは目一杯大きく開いた瞳に、手塚を映し込んだ。
そして、頷いた。
「それでいい。じゃあ、また、明日」
手塚はふっと微笑み、くるりとリョーマに背を向けた。
「部長…」
小さくリョーマが呟くと、手塚は立ち止まり、静かに振り向いた。
「今日は泣かなかったな」
「え…?」
もう一度手塚は小さく微笑んで、今度こそ帰り支度をしてコートから出て行ってしまった。
(どういう、意味……?)
手塚の残した言葉を頭の中で繰り返し、リョーマは暫くその場に跪いたまま呆然としていた。







家に帰り着いたリョーマは、すぐに着替えて父をコートに誘った。
手塚と別れたあと、家に着くまでの記憶はあまりない。
ずっと、手塚の言葉の意味を考え、そして、今日の手塚の行動の意味を、考えた。
(やっぱり、オレと部長は、昔会ったことがあるんだ)
そして、おそらくは、試合をして、リョーマが負けた。
(だから、あんなこと言ったんだ)

 『負けると泣くくせに』
 『今日は泣かなかったな』

リョーマの考えていた『仮説』が、一つ、『確信』に変わった。
そして、それと同時に、胸が熱くなった。
手塚の、恋情だけではない想いを感じて、嬉しくなった。
(部長は、オレのこと、恋愛対象としてだけじゃなくて、ちゃんと、テニスプレーヤーとしても認めて、期待してくれているんだ)
手塚に負けたことは、正直言って悔しい。
たぶん、今夜は眠ることさえ出来ないほど、悔しく思っている。
だが、自分はもう、幼い頃の自分とは違う。
手塚が信頼してくれている今の自分は、悔しさを涙に変えるのではなく、前進するエネルギーへと変えることが出来る。
それを、少しだけ誇らしいと、リョーマは思う。
(オレは、オレのテニスで、もっと上を目指すんだ)
悔しさをバネに。
希望を翼に。
もっともっと、高みへと羽ばたいてみせる。
「…っし!」
渾身のショットが父の横を抜いた瞬間、リョーマはガッツポーズをとった。
父の前で、こんなふうに素直に喜んだのは初めてだった。
「親父、もっと強くなりたい」
父のテニスではなく、自分のテニスで。
父を倒すためではなく、自分が大好きなテニスを、もっと好きになるために。
「もっと、もっと」
手塚が思い出させてくれた、テニスへの純粋な想いを胸に。
(強くなりたい)
沈みゆく太陽に照らされて、リョーマのテニスは、生まれ変わった。


















*****

















翌日。
いつもと変わらぬ朝を迎え、いつもと同じようにリョーマは朝練に参加していた。
だがいつもと違うことがあった。
手塚が、コートに入らない。
部長の動向をあまり気に留めていない部員ならば「いつもと同じ」と感じるかもしれないが、リョーマには、その違和感ははっきりと感じ取れた。
手塚の傍には常に大石がいて、手塚がコートに入らなくて済むようにあれこれと気を回しているのがわかる。
(なんで?なんか、あった?)
訝しく思いつつも、リョーマは何も気づいていないふうを装って、朝練を終えた。


昼休み、リョーマは生徒会室へと走った。
ドアに耳を当てて中で会議をしていないか確認をして、ノックし、返事は待たずに中へ入る。
「越前…」
会長用の机に座っている手塚が顔を上げ、嬉しそうに微笑む。
だがリョーマはムッと唇を引き結んで机を回り込み、手塚の前に立った。
「……どうした?」
手塚が小さく眉を寄せる。
リョーマも、きつく眉を寄せた。
「腕、………どうかしたの?」
「………」
リョーマは手を伸ばして、そっと手塚の左腕をとった。
「湿布の匂いがする。昨日の試合で、痛めたんスか?」
「……いや」
「じゃあ……」
「お前のせいじゃない。気にするな」
「気にするよ!」
リョーマが強い口調で言うと、手塚は驚いたように目を見開いた。
「昨日の試合のせいなんでしょ?」
「………以前から、少し肘を痛めていたんだ。今日・明日は、大事を取って練習をセーブするようにと、医者に言われた」
今度はリョーマの方が大きく目を見開いた。
「こうなることはわかっていてお前と試合をしたんだ。だから、お前のせいじゃない」
「そんな……なんで……そうまでして、オレと……」
「言わなければわからないのか?」
手塚がゆっくりと立ち上がる。
そうしてそっとリョーマの髪を撫で、両手でリョーマの頬を包んだ。
「お前が好きだ。だから、お前のためになら、俺は何でもしてやる」
「………」
リョーマが瞳を揺らして手塚を見つめると、手塚は小さく微笑んで、触れるだけの口づけをした。
「……なんで、そんなに…オレのこと、好きなの?」
「さあな……」
手塚は小さく苦笑してリョーマを優しく抱き締めた。
「理由なんかわからない。…わからなくてもいい。俺は俺の心のままに、したいようにしているだけだ」
手塚の腕の中で、リョーマはゆっくりと瞳を閉じる。
「アンタ……バカだね…」
「ああ……そうだな……」
リョーマは手塚の背に腕を回して、ギュッとしがみついた。
「…そんなアンタのこと……素直に受け入れないオレは、もっとバカで、イヤなヤツだね」
「そんなことはない。……お前はお前で、いろいろなことを考えているのだろうからな」
深く優しく抱き締められ、髪に頬擦りされる。
「お前が納得してから、俺を受け入れてくれればいい。それまで俺はいつまでも待っている」
「ぶちょ…」
「だがお前が一旦俺を受け入れてくれたならば、俺は一生お前を離さないから、それだけは覚えていてくれ」
「一生…」
「ああ、一生、だ」
柔らかな声で、だがはっきりと宣告され、リョーマの心の奥がズクリと甘く震える。
「ぶちょ……触って…」
手塚の胸に頬を擦り寄せながら呟くようにリョーマが言うと、手塚の手にグッと力が入った。
「………いいのか?……そんなふうに言われたら……歯止めが利かなくなる…」
「だって……」
(どうしたらいいかわかんないくらい、好きなんだ…)
一旦言葉を飲み込んでから、リョーマが再び口を開きかけたところで、コンコンコン、とドアが軽くノックされた。
二人はゆっくりと身体を離す。
ドアを開けて入ってきたのは、リョーマにとっては初めて見かける生徒会役員の男子生徒だった。
「失礼します、会長、ちょっと急ぎの件が…」
「どうした?」
リョーマをちらりと見遣ってからその男子生徒は手塚に書類を見せた。
「ああ、この件か…」
手塚の顔が、部の時とはまた違う『生徒会長の顔』に変わる。
「この件は教頭先生に話を通してもらっている。今は業者の方から見積もりを出してもらっているところだ」
「予算内に収まりますかね?」
「昨年とそう変わりはないだろうから、もしもの場合は他で微調整すれば大丈夫だろう」
リョーマには何のことやら分からない話が始まり、居心地が悪くなる。
「部長、オレ、もう、教室戻ります」
「……そうか、すまない、越前………また放課後に…」
「ういっス」
リョーマが小さく笑うと手塚も微笑んでくれた。
本当はもっと手塚の傍にいたかったが、本来生徒会には関係のないリョーマがずっと手塚の傍にいては不自然だ。興味本位に、妙な噂を立てられても面倒くさい。
「じゃ、失礼しまーす、部長」
「ああ」
リョーマがドアに手をかけたところで、リョーマと手塚のやり取りをじっと見ていた男子生徒が「お邪魔してすみません」と手塚に向かって言うのが聞こえた。
聞こえなかった振りをしてリョーマは生徒会室から出たが、ドアを後ろ手に閉めたまま、その場で考え込んだ。
手塚を訪ねる自分を、生徒会役員には今回で3回は見られていることになる。
(そろそろ、ヤバいかもしれないな…)
自分のことはいい、とリョーマは思う。
だが、生徒の模範となるべき生徒会長の手塚が、生徒会室を私用で使い、後輩と逢瀬を繰り返しているなどと好奇の目に晒されるのは忍びない。
たとえ、本人が「構わない」と言うとしても。
(もうここへは来ない方がいいか…)
リョーマはゆっくりと、深い溜息を吐いてから教室へ向けて歩き出した。













放課後の練習が始まった。
手塚はまだ来ていなかったが、レギュラーが全員揃ったところで、本格的に練習開始となった。
レギュラー用のメニューを読み上げる乾をぼんやり見つめながら、リョーマは「そう言えば乾先輩の風邪治ったんだ」と今更ながらに気づいた。

練習が一段落着いて休憩に入ったところで、リョーマは乾の方へ歩いていった。
「乾先輩」
「ん?」
「ちょっと話、いいっスか?」
「別に構わないよ」
手にしていたバインダーをパタンと閉じて、乾がリョーマの方へ向き直る。
「オレが日本に来た日のことなんスけど」
「うん?」
「乾先輩も、空港にいたんスよね?」
「ああ」
「それって…」
リョーマは一旦言葉を区切って、乾を真っ直ぐに見上げた。
「乾先輩が空港にいたってことにしないとマズいから、いたんスか?」
「………意味がよく分からないんだが…?」
「あの日、空港で、オレは、乾先輩とは、話、してないっスよね?」
一言一言区切って、問う。
乾の表情の変化を見落とさないように。
自分の考えを、辿るように。
乾は暫く沈黙し、やがて、小さく溜息を吐いた。
「確かに」
観念したような口調で、乾は言う。
「……確かに、あの日、俺は君とは直接会話を交わしてはいない」
「じゃあ…」
「だが」
リョーマの言葉を遮るように、乾は続けた。
「君と話していたのが誰かということを、俺の口から君に話すことは出来ない」
先に言われてしまい、リョーマは一瞬言葉を失う。
だが、ここであっさり引くつもりはない。
「それは、『その人』が越前リョーマには言うなって言ったからっスか?」
「…それもあるが…」
「他にも何かあるんスか?」
口籠る乾に訝しげな視線を送っていると、後ろから「越前」と呼ばれた。
(やっぱり声がかかった)
ここで声がかかるだろうことは、微かに予想はしていた。
なぜなら、自分が乾に『真相』に近い質問をしようとすると、必ずこの男が邪魔をするからだ。
「なんスか、不二先輩?」
チラリと肩越しに視線を送りながら問うと、その男はにこっと笑った。
「何の話?」
悪びれもせずに言う不二を見て、リョーマは小さく溜息を吐く。
「……不二先輩もあの日、空港にいたんスよね。乾先輩と一緒にいたんスか?」
「うん。そうだよ」
「?」
あっさりと白状する不二を、リョーマは不審そうに見つめる。
「それがどうかしたの?」
逆に問われてリョーマは黙り込む。
「ズルしちゃダメだよ、越前」
「え?」
そっと、囁くような声で不二に言われ、リョーマを目を丸くする。
「ズル?」
「僕たちに『答え』を聞くのは簡単だけど、それじゃあ意味がないことは、何となく君にもわかっているんでしょう?」
「………」
確かにそうだ、とリョーマは思う。
真相を知る人間にすべてを聞かせてもらえば、解決はあっという間なのだろう。
だがそれでは、『あの人』が守ろうとした何かを、粉々に壊してしまう気がする。
「……そうっスね。推理小説の犯人を先に聞いちゃったら、ブチ壊しっスからね」
「そうそう」
クスッと笑う不二を一度睨みつけてから、リョーマはキャップの下に表情を隠した。
「ありがとうございました、不二先輩、乾先輩」
「頑張ってね、越前」
「…っス」
ペコリと頭を下げて、リョーマはその場を離れる。
(不二先輩、絶対楽しんでる……!)
不二が悉く邪魔をする理由が、リョーマには何となくわかってきた。
たぶん、案外正直な性格をしている乾が、うっかり『真相』をリョーマに話してしまわないように警戒していたのだろう。
(やな性格)
グッと唇を尖らせてから、フゥッと溜息を吐く。
(でも、痛いところも突かれた)
不二の判断は、ある意味、正しい。
これはリョーマと『あの人』との問題だ。第三者に真相を聞いてしまっては、『ズル』と言われても仕方がない。
(あとは、オレ次第)
もう何度も心の中で繰り返してきた言葉。
だが今度こそ、本当にリョーマの記憶次第になってきたように思える。
(手掛りがないなら、自分で見つけなきゃ、ね)
リョーマはふと、空を見上げる。
(届きそうで、届かない…)
『あの人』は、そこに在るのに手に取ることが出来ない雲のようだと思う。
(でも、絶対に捕まえる)
突き抜けるように青い空は、ただ静かに、リョーマを見下ろしていた。





遅れてきた手塚と視線だけで合図を交わし、リョーマはまた部室に残って手塚を待つことにした。
今日はきっちりと着替えを済ませ、すぐにも帰ることが出来るように支度しておく。
なぜなら、今日は「我慢」が利かない気がしたからだ。
(今日は、きっと断りきれない)
手塚への想いが高まってきていることは自覚している。
だから、流されて最後の一線を越えてしまわないように、その気がないように見せかけるために、きっちりと着替えた。
やがて部室には誰もいなくなり、ほどなくして部長の仕事を終えた手塚が戻ってきた。
「待たせたな」
「べつに」
制服をかっちり着込んでベンチに座るリョーマを見て、手塚は小さく目を見開き、だがすぐに自分も着替えを始めた。
「………ねえ」
「ん?」
背を向けて着替える手塚に、リョーマが声をかける。着替えの手を止めず、手塚は返事をした。
「今度の週末……アンタの家、行ってもいい?」
「え?」
シャツを羽織ったところで、手塚がふと振り返る。
「ダメ?」
自然と上目遣いになってしまう目で手塚をじっと見つめると、手塚は一瞬沈黙してからふわりと微笑んだ。
「狭い家だが、構わないか?」
「いいよ、そんなの」
そっぽを向いてぼそぼそと言うリョーマの頭を、手塚が優しく撫でる。
「……本当は、俺の方から誘おうと思っていた」
「え…?」
「そろそろお前と俺のことが噂になり始めているらしくてな…」
「ぁ……やっぱ、生徒会の人に何か言われた?」
「いや、うちの役員たちは皆、個人のことには干渉しない奴らばかりなんだが……他の生徒何人かに、お前が生徒会室に入るところを何度か見られていたらしい。今日の昼休みに来た彼は、そのことも忠告しに来てくれたんだ」
「………」
「だから、もう生徒会室で逢うのはやめた方がいいかもしれないと、言おうと思っていた」
「うん……」
「その分、うちに来てくれないか、と…誘ってみようと思っていたんだ」
髪や頬を優しく撫でられ、リョーマはゆっくりと顔を上げる。
「……アンタの家で……昼休みみたいなこと……する…?」
呟くようにリョーマが言うと、手塚は微かに目を見開いた。
本当は少しでも「手掛り」が見つかればいいと思って、手塚の家に行こうと思った。だが手塚を目の前にして、自分の口が勝手に、昼休みのあの甘い時間を望んだ。
「……してもいいのか?」
リョーマは頬を赤く染めて、少し躊躇ってから小さく頷いた。
「越前」
まだシャツのボタンを留めていない手塚の裸の胸に、グッと引き寄せられる。
「ぁ…」
「……今日、来てもいいぞ」
「え……」
「今から俺の家に、来ないか?」
「………いいの?」
「……すぐに支度する。待っていてくれ」
手塚はリョーマの額にチュッと口づけ、着替えを再開した。




二人揃って部室を出たところを、グラウンドから引き上げてくる陸上部の連中にチラリと見られた。
「また噂になるかも」
リョーマが溜め息混じりにぼそっと言うと、手塚も溜息を吐いた。
「言いたい奴には言わせておけ、と言いたいところだが……すまない。お前には迷惑な話だな」
「オレじゃなくて、アンタの方がいろいろ大変じゃん。なんてったって、生徒会長サマだし、部長サマだし……優等生サマなんだから、さ」
「役職や立場は関係ない」
足を止め、リョーマを真っ直ぐに見つめながらきっぱりと言う手塚を、リョーマはじっと見つめる。
「俺はお前への想いを恥ずかしいとは思っていない。だから誰に何を言われても気にはならない。だが、おまえが嫌な思いをするのなら、俺はお前への想いを、他の人間の前では隠すつもりでいる」
「………」
「………行こう」
肩を抱かれて優しく促され、リョーマはまた手塚と共に歩き出す。
手塚の真摯な瞳に見つめられて、リョーマは思わず「オレもアンタが好き」と言いそうになった。
言ってしまいたくなった。
(もう、オレが部長のこと好きなのは、バレてるようなもんだし)
きっと手塚への想いが、瞳や言葉に表れてしまっているに違いない。
今更、勿体つけるようなことではない気もする。
それでもやはり、手塚に流されたのではないということをわからせるために、もう少し、想いを言葉にするのはやめようと思う。
(大丈夫。部長は、待っていてくれるって、言った)
手塚から向けられる瞳に宿る熱は、初めて出逢った時から変わらない。いや、それは逢うたびにさらに熱く、甘く、リョーマへと注ぎ込まれてくる。
この熱は、決して衰えることなどないと、手塚の声が、微笑みが、信じさせてくれる。
(でも………もしも………)
リョーマはそっと、手塚の学ランの裾を握った。
「越前…?」
「………」
俯いて歩きながら、さらに力を込めてしっかりと手塚の学ランの裾を握りしめると、手塚は小さく笑ってリョーマの頭を撫でた。
「噂……広まっても構わないか…?」
「え……」
立ち止まり、リョーマが手塚を見上げると、手塚の真剣な瞳に見つめられていた。
「………構わないよ」
手塚の瞳を真っ直ぐ見つめながらそう応えると、手塚は一瞬、苦しげに眉を寄せてから、きつくリョーマを抱き締めた。
「好きだ……越前……っ」
「…………うん……」
背が撓るほど抱き締められ、髪に頬擦りされ、上を向かされて深く口づけられた。
「ん……っ」
「………ん…越前……っ」
先ほどの陸上部の連中の姿は既に見えないが、どこで誰が見ているかもしれない場所で、二人は抱き締め合い、口づけ合う。
「ぁ……」
「越前……」
ほんの少し身体を離して見つめ合い、小さく微笑み合って、またきつく抱き締め合った。
もうこのまま、手塚のものになってしまってもいいと、リョーマは思った。







                                                      →          
    

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20080524