シンデレラをさがせ!


    セクハラ    

<1>




ランキング戦に全勝して見事レギュラーの座を勝ち取ったリョーマは、すぐにレギュラーとしての練習メニューに加わることとなった。
それまでの「新入部員の練習」とは別世界のような練習の質と量で、さすがのリョーマも部活が終わる頃には身体中に疲労を感じるほどだった。
レギュラーとは言え、一年生であることに変わりのないリョーマは、それまでと変わらず練習後のコート整備や備品の片づけなども行っている。
「…………」
「大丈夫?リョーマくん」
ついつい出てしまった溜息が聞こえたらしく、カチローが心配そうな目で声を掛けてくる。
「べつに」
小さく笑ってそう答えると、カチローは「でも…」と言って眉を寄せた。
「なんか、顔色悪いよ?後は僕たちがやるから、リョーマくんは適当に休んでてよ」
「いいよ。ダイジョウブ。負けたくないし」
「え?」
「…なんでもない」
思わず口走ってしまった言葉に、リョーマ自身、苦笑する。
自分が負けず嫌いなのは自覚しているが、こんなに拘る方だったかと、内心首を傾げる。
(でも、弱ってるトコなんて、絶対に見せない)
特に、手塚にだけは。
ランキング戦の時に部室前で手塚と鉢合わせして以来、手塚とは目も合わせていない。
もちろん、声を掛けることも、掛けられることもない。
視線を合わそうとしない手塚の前をわざと横切り、だがリョーマからは決して視線を向けたりしなかった。
手塚がコートに入ると、わざわざ後方に回り、その背を穴が空きそうなほど睨みつけてやった。
しかし、逆にリョーマがコートに入ると、手塚はいつも乾と話をしていて、バインダーを一緒に覗き込みながら、こちらを一切見ようとしない。
(部長が目を離しているスキに、オレが倒れたりしたら慌てるかな)
そんな自虐的な考えまで、最近は頭を掠めるようにもなった。
(…バカバカしい)
声に出さずに呟いて、部室の方へ視線を流す。
今日はどこかへ行く手塚の背中を見ていないから、きっと部室で日誌を書いているのだろう。当番ではない二年生部員たちが慌ただしく部室から出てくるところを見ても、たぶんそれは間違いない。
「ねえ、どーでもいいけどさ、早く片づけない?」
「う、うん」
少しピッチをあげてコート全面にブラシを掛け、他の部員たちとも協力してテキパキと片づけを進める。
やがて、いつもより早いペースで全ての片づけが終わると、それぞれコートに一礼をしてから部室へと向かった。
ゾロゾロと部室に入り、リョーマがドアに差し掛かったところで、先頭にいた二年生が「部長、終わりました」と報告する声が聞こえた。
「ご苦労」
凛とした手塚の声は相変わらずいい声で、リョーマの耳に優しく響く。
(声は……すっごい好きなんだけどね…)
いや、実際、手塚自身にも少しだけ心を許し始めていた。恋愛感情ではないが、好きになりかけていた。
あの時、手塚があんなふうにキスしようとさえしなければ、きっと今でも自分は────。
リョーマはなぜかひどく心が重くなり、そっと溜息を吐いた。
「大丈夫?リョーマくん」
「え?ぁ、うん…べつに…」
またカチローに心配されてしまい、小さく笑みながら平気だと言おうとしたその時、微かに、手塚が座るイスが軋むのを聞いた気がしてリョーマはそちらに視線を向けた。
(ぁ…)
手塚が、肩越しにこちらを見ていた。
はっきりと、目が合った。
リョーマの鼓動が、ドキリと大きな音を立てる。
だが手塚は、すぐにまた向き直り、日誌の続きを書き始めてしまった。
リョーマの眉が、きつく引き寄せられる。
(ムカツク…っ)
リョーマは帽子を取って前髪を乱暴に掻き上げてから、自分の荷物が置いてあるロッカーに向かい、着替えを始めた。
少し前に、この部室で、あんなに熱っぽい瞳で自分を見つめたくせに、今はもうなんの感情も映さない冷めた瞳で見る手塚に腹が立つ。
(……それだけじゃない…っ)
手塚から向けられた視線を、リョーマは自分から逸らすことが出来なかった。
それが、何より、悔しい。
「手塚」
まだ部室に残っていた乾が、手塚の背後から何やら話しかけ、いつも持ち歩いているバインダーを示してやり取りを始めた。
(乾先輩、まだ居たんだ…)
手塚にばかり気を取られて乾や他のレギュラーのメンバーがまだ部室にいることにリョーマは気づかなかった。
乾が、いたのに。
「………」
意識などするものかと思えば思うほど手塚のことを気にしている自分に、今さらながら気づいてしまう。
あんなに会いたかった「あの人」よりも、手塚の方が気になって仕方がないのだ。
居たたまれなくて、リョーマはシャツのボタンを急いで嵌め、学ランを掴んで部室を飛び出した。
「待てよ、越前」
「ぅわっ」
コートの手前でいきなり腕を引かれて、リョーマは後ろに倒れそうになった。
「も、桃先輩?………なんスか?」
「腹減らねぇ?」
「はぁ…」
「駅前のマック行こうぜ。チャリの後ろ、乗っけてやるから」
桃城をじっと見つめ、特に他意はないと判断したリョーマは、小さく笑って「いいっスよ」と頷いた。













「あれ?、サイフ忘れたかも」
駅前のマックに入り、いざ代金を払おうとしたところで、リョーマはズボンのポケットにサイフが入っていないことに気づいた。
「あぁ?お前、嘘つくとエンマ様に舌抜かれるぞ?」
「ホントっスよ。たぶん部室にあると思うっス。桃先輩、絶対返すから、貸してください」
両手をパチンと顔の前で合わせて拝むように頭を下げると、桃城は「しょうがねぇな」と呟いて、リョーマの分の代金を支払ってくれた。
「ホントに明日返せよ?」
「ういっス」
「明日返さなかったら利息つけっからな?」
「返しますって!」
唇を尖らせてリョーマが言うと、桃城が声をたてて笑った。
クセモノかもしれないが、この男は裏表のない性格なのではないかと、リョーマは思う。
まだ数日しか一緒に過ごしてはいないが、同学年にも、上級生にも、下級生にも、桃城はほとんど態度を変えずに接しているのを知っている。
確かに上級生相手には言葉遣いを丁寧に変えるものの、話す内容や態度は変わらないのだ。
カチローたちにも「桃ちゃん先輩」と呼ばせていることからしても、さほど、上下関係にも口やかましくは言わない質なのだろう。
(あの荒井ってヒトとは大違い、だね)
ランキング戦でリョーマが実力を見せつけるまでは何かと因縁をつけてきた荒井も、よくよく観察してみれば、とても上下関係に敏感で、礼儀を欠くようなことが許せないだけなのだとわかった。姑息な手段で懲らしめようとする性格は、好きにはなれないが。
「…ねえ、桃先輩」
「ん?」
窓際のカウンター席に並んで腰を下ろし、ハンバーガーを一口頬張ってからリョーマが言うと、口いっぱいにハンバーガーを詰め込んだ桃城が、リョーマを見ずに返事をする。
「……レギュラーの先輩たちって、みんなすごい個性的っスよね」
「んー、まあな」
もしゃもしゃと口を動かしながら、桃城がククッと笑った。
「お前だって、かなり個性的だと思うぜ?」
「…はぁ」
早速切り返されてリョーマは肩を竦めた。
「……まあ、個性的だけど、大石先輩とタカさん…ああ、河村先輩のことな、…それから菊丸先輩は、無害だと思うぜ」
「無害って…」
リョーマがクスクス笑うと、桃城も笑った。
「こえーのは乾先輩と、不二先輩。特に不二先輩は気を抜くといつの間にか向こうのペースに乗せられててさ。油断できねぇっつーか…」
「………それは何となくわかるっス」
不二は、あの微笑みの向こうに隠された本心がよくわからない。ひとつだけはっきりしているのは、敵に回してはならない男だということ。
「…乾先輩って、いつもああいう……?」
「そうだなぁ。あの人は、不二先輩とは少し違う意味で油断ならねぇっつーか。気ぃ抜くと、いつの間にか丸裸にされてる感じ?」
「はぁ?」
リョーマが目を丸くすると、桃城はぷぷっと吹き出した。
「いや、マジで裸にされるとかじゃなくて、個人の細かいデータまで全部分析されるっつーか?」
「ふーん」
「でも乾先輩は、結構努力家だと俺は思うぜ」
「努力家?」
「ああ。人が知らないようなところで、コツコツトレーニングとかやってるみたいだし。それに、この間のランキング戦でお前とマムシ野郎に負けてから、ちょっと雰囲気も変わったしな…」
「オレは、よくわかんないっス」
「ま、俺もどこがどうって詳しくは言えねぇけどさ……前より人間っぽくなった、みたいな…」
「もともと優しいヒトなんじゃ、ないんスか?」
「………どうだろうな?」
桃城は首を傾げて苦笑した。
「優しい、っていう定義は人それぞれだしな。いろんな優しさがあるっつーか?」
見かけに寄らず、ちょっと文学的に語る桃城をじっと見て、リョーマは小さく「ふーん」と言った。
「でも一番わかんねぇのは、やっぱ、手塚部長だろ」
「………」
「とにかく厳しい人だと思うけど、絶対に間違ったことはしない人だ。見てないようで、部員のこと一人一人ちゃんと見てるし……すげぇ人だよ、手塚部長は」
「でも……実は遊び人だ、とか、聞かないっスか?」
「はぁっ?…ないない!……あのカタブツに限って、そんなわけねぇよ!」
力一杯否定されて、リョーマは顔を顰める。
(桃先輩は、きっと知らないだけなんだ)
「だけど、あの人……」
呟くように言って口籠もる桃城に、リョーマは内心「やはり何かあるのか」と思った。
「なんスか?」
「……なんか、俺たちに隠してることがあると思う。ときどき、なんか深く考え込んでるし…特に最近は……たぶん、落ち込んでる」
「…落ち込んでる……?」
「たぶんな、たぶん。………手塚部長ってさ、なんでも出来る人だから、全部一人で抱えこんじまって、自己完結するタイプだと思うんだ。たまには誰かに相談すりゃいいのにって、思うぜ」
「………ふーん」
曖昧に返事をして、リョーマは残りのハンバーガーを一気に口へと詰め込んだ。
(自己完結、か…)
リョーマに拒絶されて、急に態度を変えたのも、手塚が「自己完結」したせいなのだろうか。
「あれ?」
(だとしたら、そのせいで…落ち込んで……?)
急に動きを止めたリョーマに、桃城が怪訝そうな目を向ける。
「どした?」
「ぁ……えっと……やっぱ、サイフ取りに戻るっス。部室に置いとくのもなんかヤダし」
残りのポテトを急いで口に放り込んで立ち上がると、桃城が「そうだな」と頷いた。
「俺も一緒にいってやろうか?」
「いや、いいっス。部室開いてるかどうかわかんないし」
「ん、わかった。気をつけろよ?」
「ういっス。アリガト、桃先輩」
足下に置いて置いたバッグを引っ掴み、リョーマはまた学校へと引き返すことにした。






だいぶ長くなった日も落ち、空が藍色に変わり始める頃、リョーマは学校に戻ってきた。
まだ一部の部活で残っている生徒がいるのか、校門は開いたままで、校舎にもポツポツと明かりが点いている。
バッグを脇に抱えるようにして部室へと急ぐと、遠くに見えてきた部室にまだ明かりが点いていることにリョーマは安堵した。
財布には発注したばかりのレギュラージャージの引換証も入っているので、やはり戻って正解だったと、リョーマは思う。
少しだけスピードを緩めてコートの横を通り、部室の前まで来て、急に我に返ったようにリョーマは足を止めた。
(もしかして、部長が残って……)
どうしようか、と戸惑う。
手塚と二人きりになるのは、出来れば避けたい。
例え互いに互いを視界に入れないようにしているとしても、リョーマの方は手塚が同じ空間にいると思うだけで息が詰まる。
(でもサイフ……)
しばらく悩み、リョーマは意を決してドアをノックした。
返事はなかった。
リョーマは構わずにドアを開けて中に入る。
「あれ…」
部室の中には誰もいなかった。
「不用心…」
やはり財布を取りに戻ってよかった。
いくら校内とはいえ、テニス部にとっては大切なものの置いてある部室を無人にするとは無防備すぎではないか。
ほんの少し苛立ちながら溜息を吐き、リョーマは自分が使っていたロッカーの前に行って中を覗いてみた。
(ない…?)
嫌な考えが頭をよぎる。
念のために他のロッカーも覗いてみるが、やはりリョーマの財布はなかった。
「…………」
低く唸って考え込んでいると、部室のドアがいきなり開いた。
「わっ」
「…っ」
心底驚いてリョーマが振り返ると、ドアを開けた恰好のまま手塚が立っていた。
「ぁ……」
「……越前…」
久しぶりに、名を呼ばれた気がした。
どうしてなのかひどく嬉しくなり、リョーマは目を見開いたまま自分の頬がほんのりと熱くなるのを感じた。
「……ぶちょ…」
「………ああ、これを取りに来たのか?」
「え?」
ドアを閉め、手塚が自分のポケットから何かを取り出してリョーマの方へ差し出した。
「ぁ、オレのサイフ」
「竜崎先生のところに日誌を届ける際に、念のため俺が預かった。……間違いがあっては困るからな」
「…鍵閉めていけばいいじゃないっスか」
不思議そうにリョーマが言うと、手塚は小さく溜息を吐いた。
「今日は鍵を忘れたんだ。…大石は先に帰ってしまったから…日誌を届ける時に鍵も借りてこようと思ってな」
「あー、ナルホド」
一見、二度手間のように感じるが、先に日誌を届けて鍵をもらってきておき、後からゆっくり着替えていれば、「サイフを忘れた部員」が取りに戻ってきた時に対応できると考えたのかもしれない。
わかりづらい優しさを、手塚は持っているのかもしれないと、リョーマは思う。
「……あの…」
口籠もっていると、手塚が「ああ」と気づいたように財布を手渡してくれた。
「これからは気をつけろ」
「ういっス。アリガト、部長」
財布を受け取りながらリョーマが小さく笑うと、手塚は微かに目を見開いた。
「………」
「……部長?」
「あぁ……いや……」
手塚はリョーマからスッと目を逸らし、自分の荷物の置いてあるロッカーへと移動した。
「もう遅い。気をつけて帰れ」
「ういっス」
お先に失礼します、と言って帰りかけ、リョーマはふと疑問に思ったことを訊きたくなった。
「あの、部長……よく見つけてくれたっスね。オレの使ってたロッカー、向こうの奥の方だったのに」
「…部員が帰った後には必ずロッカーを点検するようにしている。お前のように大切なものを忘れて帰る者もいるからな」
チラリとリョーマを見遣り、手塚は小さく溜息を吐いてウエアを脱ぎながら答える。
「ナルホド…」
肩を竦めて溜息を吐いてから視線を手塚に戻し、リョーマはふと押し黙った。
ウエアを脱いだ手塚の背中に、目が留まった。
(すごく鍛えてる…)
手塚は着痩せするタイプなのか、ウエアや服を着ている時はわからなかったが、肩にも背中にも見事に適度な筋肉がついていた。脇腹やウエストはかなり引き絞られており、無駄な脂肪は一切付いていない。
中学生の身体とは思えないほど、手塚の身体は鍛え抜かれていた。
(この人も、努力している人なのかもしれない…)
リョーマの中で、「手塚国光」という男についての認識が、よくわからないものになってゆく。
初めて出会った人間をいきなり口説こうとするいい加減な男。
性別に見境なく手を出そうとする遊び人。
そう思っていたのに。
本当は、真面目で、不器用で、テニスを心から愛し、部員を大切にする、優しい男なのか。
(アンタが、よくわかんなくなってきた……)
手塚を見つめたまま立ち尽くしているリョーマに気づき、手塚は振り返って小さく眉を寄せる。
「……どうかしたのか?」
「………」
手塚が、自分のシャツのボタンを嵌めかけて、手を止めた。
「越前」
ゆっくりと、リョーマの方へ近づいてくる。
「え……ぁ、の…」
身構えるリョーマの胸元を見つめながら、手塚が小さく苦笑する。
「ボタン、掛け違えているぞ」
「え?あれ?あー……ホントだ」
広く開けた学ランの襟元から覗くシャツを見て、リョーマも苦笑した。
帰り際、苛々して乱暴にボタンを嵌めたせいで、掛け違えていることにも気づかなかったのだろう。
「今時、幼稚園児でも滅多にやらないぞ」
「オレ、日本のヨーチエン、行ってないから」
リョーマが唇を尖らせると、手塚が微かに笑った気がした。
「直してやる」
「ぇ……いいっスよ、こんなの、自分で……」
「この間は悪かった」
「え……」
襟元を掻き合わせるように隠して手塚を見上げると、真っ直ぐな、熱い手塚の瞳に見つめられていた。
「……悪かった。もう…いきなりあんなことはしない」
「………」
「誓ってもいい。……だから…許してくれないか…?」
クリアなテノールで、甘く甘く、まるで愛を囁かれるように切々と告げられる言葉に、リョーマはどう答えていいものかと口を噤んだ。
「越前…?」
「……べつに……もうしないなら……許してあげてもいいけど……」
ボソボソと、俯きながらリョーマが言うと、手塚はホッとしたように小さく微笑んだ。
「……ありがとう」
「べつに……」
チラリと手塚を見遣り、リョーマはまた視線を足下に落とす。
リョーマの心の奥に、今まで感じたこともないような喜びが込み上げてくる。
今までの数日間がなかったことのように、手塚と自然に話せていることが嬉しいと、心が感じてしまっている。
その熱い心の動きに微かな戸惑いを感じていると、手塚が半歩、リョーマに近づいた。
「じゃあ……ボタン、俺が直してもいいか?」
「え……?」
手塚が屈み込み、その手が学ランのボタンにかかって、ひとつひとつゆっくりと外してゆく。
「ぁ……あの……」
「ん?」
視線を向けられ、二人の距離のあまりの近さにリョーマの頬が真っ赤に染まる。
「べつに、不埒なことはしないぞ」
「…されたら今度こそ絶交だから」
「わかっている」
手塚が、視線をリョーマの胸元に戻し、学ランのボタンを全て外す。次に、シャツのボタンが上から順番に外されてゆき、リョーマは金縛りにあったように目を見開いたまま身体を硬くした。
「色、白いんだな」
「え……ぁ……そ…っスか?」
「………緊張しているのか?何もしないと言っている」
「だっ…て…」
手塚がクスッと笑う。その吐息が微かにリョーマの肌にかかった。
「ぁ……っ」
リョーマの身体がビクリと揺れ、小さな声が無意識の唇から零れた。
(なっ、なんだ、今の声……っ)
「ずいぶん可愛い声を出すんだな」
「か、可愛いわけないっしょ」
また手塚が小さく笑う。
「し、閉めたいなら、は、早くボタン閉めてよ。寒いでしょ」
「寒い?」
手塚が怪訝そうにリョーマを見上げる。
「ああ……だからここがこんなに尖っているのか…」
言いながら指先で乳首をつつかれた。
「や…っ」
シャツを掻き合わせ、リョーマが手塚から逃げるように後ろへ二・三歩下がった。ドンッと音を立てて、背中にロッカーが当たる。
「……な…」
手塚に触れられた場所にピリッと電流が走ったように感じた。その電流は一瞬のうちに身体中を駆けめぐり、腹の奥の方で、甘い鈍痛に変わる。
「…何もしないって……っ」
頬が熱い。
その熱で瞳が潤んでくるのがわかる。
そんなリョーマをじっと見つめて、手塚は苦笑した。
「すまない」
「も、いいっス。自分でやる…っ」
「もうしない」
リョーマがこれ以上後ろに下がれないのをいいことに、手塚がゆっくりと近づいてくる。そうして、動けないリョーマの両手首をそっと掴み、静かに開いた。
パラリと、シャツの前が開き、手塚の瞳に肌が晒される。
「もう少しだけ、我慢しろ……ボタンを……嵌めるだけだ…」
「………っ」
手塚の瞳を見つめていられず、リョーマは頬を染めたままそっぽを向く。
言葉通り手塚はゆっくりとした手つきでリョーマのシャツのボタンを嵌め始めた。
とても丁寧に、ひとつひとつ。
手塚が触れているのはシャツとボタンだけなのに、リョーマの鼓動はどんどん加速してくる。
「……今日のお前は、少し顔色が悪くて……心配していた……」
「………」
シャツのボタンを嵌め終え、手塚の指先は、今度は学ランのボタンを嵌めていく。
「テニスは、メンタルな面も大事なスポーツだ。だから、やはりお前にはちゃんと謝って、少しでもストレスの原因を取り除いてやれたらと、思った」
学ランのボタンも嵌め終えて、だが手塚はリョーマの学ランから手を離そうとしない。
「本当に、これからはもう、お前には触れない。約束する」
「ぶちょ…」
「すまなかった」
手塚の手が、ゆっくりとリョーマから離れてゆく。
その手を、リョーマはいきなり捕まえた。
「……越前?」
「ぁ……」
自分の取った行動に、リョーマは戸惑った。
手塚の瞳と、手塚の手を握り締める自分の手とを交互に見て、頬を染めてゆく。
「越前……これは……どう受け取ればいいんだ?」
「ぁ…えっと……だ、だから、その……………セクハラ?」
「セク…ハラ…?」
手塚がきょとんと目を見開く。
「だ、だから、アンタはオレに触っちゃダメだけど、オレはアンタに触っていいんだし、………オレがアンタに触っても、アンタはオレに触れないから、……イヤガラセ、みたいな?」
「…………」
手塚は意味がわからないと言いたげに小さく眉を寄せる。
「アンタ、散々オレに嫌な思いさせたんだから、今度はオレが、アンタに嫌な思いさせるんスよ。……文句ある?」
開き直ったかのように強い瞳で手塚を真っ直ぐ見つめると、しばらく黙り込んでから、手塚が静かに頷いた。
「わかった。これは、セクハラ、なんだな?」
「ういっス。だから、アンタからオレに触るのは、ダメだからね!」
フッと、手塚の表情が緩む。
「……確かに、このセクハラは効く」
「それから、」
手塚の手を握り締めたまま、リョーマは手塚にぐっと顔を近づけた。
「オレのこと、無視するのもダメ。オレがコートに入ってる時は、ちゃんとオレのこと、見て」
「…ああ。わかった」
「それから、オレは他の人と笑って話したりするけど、アンタは他の人に笑いかけちゃダメ」
手塚がまた目を丸くする。
「それもセクハラなのか?」
「そう」
大真面目に、リョーマは頷く。
「それから……」
「まだあるのか?」
「文句あんの?」
「いや……ひとつ質問だが…俺からお前に声を掛けるのは、構わないのか?」
瞳を覗き込まれて、リョーマの頬が熱を帯びる。
「…い……いいけど?」
「そうか。よかった」
ふわりと微笑まれて、リョーマの鼓動が跳ねた。
「オ……オレの気が済むまで、このセクハラは続けるからね。覚悟しておいて、部長」
「わかった」
「じゃあ、それ、オレがやるから、アンタは触んないでよ?」
そう言って手塚の手を離し、リョーマは手塚のシャツのボタンを嵌め始める。
手塚がしたように、ゆっくりと、ひとつひとつ、丁寧に。
「セクハラ、か……」
甘いテノールが小さく呟くのを聴いて、リョーマは心がウキウキとしてきた。
今、この時間を、どうしようもなく、楽しいと感じる。
シャツのボタンを嵌め終えると、ロッカーに畳んで置いてある手塚の学ランを手に取った。
「それもやってくれるのか?」
「セクハラだから」
手塚に着せてやりながら宣言するように言うと、手塚がククッと小さく笑った。
「イヤガラセだから!」
「わかっている」
学ランのボタンを嵌めるリョーマを見下ろして、手塚が小さく吐息を零す。
「越前」
「なんスか」
顔を上げずに返事をすると、手塚がまた微かに、吐息のような溜息を吐いた。
「………いや、いい」
「なにそれ」
ムッとして顔を上げると、手塚が瞳を小さく揺らしながらリョーマを見つめていた。
胸の奥がぐっと苦しくなるのを感じ、リョーマは唇を噛み締めて手塚を睨んだ。
(またそんな目をして……っ)
「はい、終わり」
学ランのボタンも嵌め終え、リョーマは手塚の胸をポンと叩く。
「ありがとう」
素直に礼を言われて、リョーマは言葉に詰まった。
「……鍵、返しに行くんスか?」
「いや、先生はもう帰るから、明日の朝そっと返してくれればいいと言われた」
「ふーん。じゃ、帰れるっスね」
床に置いていたバッグをリョーマが担ぎ上げると、手塚も同じようにバッグを肩に担いだ。
「何か食べて帰るか?」
「もう食べたっス。桃先輩と」
「桃城と…?」
一瞬、手塚の動きが止まったことに、リョーマは気づかなかった。
「ぁ、でも部長がお腹空いたんなら付き合いますけど?」
ドアに向かいながら振り返って手塚にそう言うと、手塚はリョーマに背を向けたまま黙り込んでいた。
「………」
「部長?」
「いや……俺はいい」
手塚はポケットから部室の鍵を取り出し、電気を消して、リョーマの後から部室を出る。
ドアに施錠する手塚の手元を見つめていると、手塚がふとリョーマに視線を向けた。
「?なんスか?」
「明日もするんだろう?セクハラ」
「当然」
「そうか」
それきり、二人は黙ったままバス停まで歩いた。











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20070714