シンデレラをさがせ!


    視 線    





校内ランキング戦のブロック分け表が、部室のホワイトボードに貼り出された。
『ランキング戦』というのは、青学テニス部で毎月行われる恒例のリーグ戦で、その順位により、毎月8名のレギュラーが更新される。
常に緊張感と向上心を保つために取り入れられたシステムだ。
「リョーマくん…」
「越前、お前…」
その場で一緒にブロック分け表を見たほぼすべての一年生部員が、皆、同じような表情をした。
「すごい!すごいよ、リョーマくん!ランキング戦にエントリーされてる!」
「へぇ」
「へぇ、じゃないだろ!スゴイコトなんだぞ、越前!校内ランキング戦は二年以上しかエントリーしないことになっていたんだ。なのにお前…!」
「ふーん」
比較的いつも一緒にいる同級生の動揺を他人事のような目でチラリと見遣り、リョーマはさっさと着替えてコートに出た。
リョーマがコートに入ると、ザワリと空気が変わった。
あからさまな視線が、コートのあちこちからリョーマに集中する。
(ま、しょーがないか)
堀尾の言うように、今までに一年生でランキング戦参加の例がなかったのなら、興味や嫉妬を向けられても仕方がない。
だが、そんな様々な感情のこもった視線を向けられても、リョーマは動揺しない。気にも留めない。
アメリカの大会に出場した時は、もっとひどいことを言われたりもした。
(要は、強けりゃいいんでしょ)
うるさいギャラリーを黙らせるには、実力を見せつけるのが一番手っ取り早い。リョーマは、もう何度もそうしてきた。
言葉よりも行動で示す。
それが、リョーマのポリシー。
「越前」
背後から、軽やかな声が掛けられた。リョーマの周辺にいた部員たちが「ちーっス」と慌てて挨拶を始める。
周りに軽く頷き返しながら、柔らかい笑顔を湛えて現レギュラーの一人が近づいてきた。
「えーと、不二先輩……ちっス」
「ブロック分け、見たよね?直接は戦えないけど、楽しみにしてるよ」
「ういっス」
ニコニコと微笑まれ、優しく肩を叩かれてリョーマの表情も和らぐ。
「でもランキング戦までは新入部員たちと一緒の練習になるから……調整とか、大丈夫?」
「大丈夫っス。うち、コートあるんで」
「へぇ、すごいな。じゃあ、期待してるから」
「ういっス」
悪意のない穏やかな声に、リョーマも小さく微笑んで答える。
外見通り、優しく、穏やかな声だと思う。だがたぶん、そのままの性格ではなさそうだと思えるのは、単に、リョーマの直感。
(ああいう感じの人って、本気で怒らせると結構怖かったりするんだよね…)
不二の背中を見送ってから、小さく溜息を零してリョーマは部室へチラリと視線を流す。
(同じブロックだったな…乾先輩…)
ザッと目を走らせたブロック表の、リョーマと同じDブロックに乾の名があった。
未だ乾とは言葉を交わしていないが、この機会に必ず接触できるのだと思うと、心が騒ぐ。
それにしても。
リョーマはふと考え込み、小さく首を捻る。
(オレのこと知っているはずなのに…どうして何も言ってこないんだろう)
わざとではないが、自分はもう部の中でかなり目立ってしまっているはずだった。だから、乾が「あの人」であるなら、自分の存在に気づかないはずがない。
あの空港で、リョーマの方は意識がはっきりしていなかったが、向こうは意識はもちろん、リョーマの顔だってしっかり見ているはずなのだ。
それなのに、何日経っても声を掛けてこない理由は何だろうか。
(オレから声掛けるのを待ってるとか?)
恩着せがましいと思われるのが嫌で、わざとリョーマに声を掛けずにいるのか。
チラリと浮かんだ考えに、リョーマはまた首を捻る。
(それにしたって……)
リョーマを見ても表情一つ変えないのはどうしてなのか。
(もしかして、本当は、すっごいメーワクだったとか……?)
声を掛けたくもないほど、すでに嫌われていたのだとしたら。
「…………そんなことはない、よ…」
あんなに優しい人が、そんなふうに思うはずがない。
きっと最初に考えたように、こちらに気を遣ってくれているのだ。
(やっぱ、オレから声掛けなきゃダメだ)
よし、と小さく頷くと、後ろからぺしっと頭を軽く叩かれた。
「な…っ」
「ボサッとしてんなよ、越前リョーマ。一年生はネット張れよ」
「ぁ……桃城先輩」
「いや、その呼び方、長ったらしいからやめねぇ?」
「………じゃあ、桃先輩」
「お、それそれ!それでいーぜ」
ガシッと肩を抱き寄せられて、リョーマは顔を顰める。
(馴れ馴れしい…)
「お前もランキング戦出るんだな。ま、お前だったら、マムシの野郎に、案外勝てたりしてな!」
ニヤリと笑われて、リョーマはムッと唇をひき結んだ。
「オレは、誰にも負けるつもりはないっス」
「おー、言うねぇ」
ぺしぺしと頭を叩かれてリョーマはジロリと桃城を睨んだ。
「よかったっスね、桃先輩、オレと違うブロックで」
「………ったく、口の減らねえ後輩だぜ」
軽い口調で言う割に、桃城の目は鋭く光ってリョーマを捉える。
(この人……案外、クセモノ、かも……)
人当たりの良さに誤魔化されそうになるが、この男は、案外「くえない」男のように思える。
(面白いヒト…)
「じゃ、オレ新入部員なんで、ネット張ってきます」
「おぅ、ヨロシクな」
最後にまたぺしっと頭を叩かれ、リョーマがムッとすると桃城が楽しげに笑った。
「リョーマくーん、こっち、手伝って!」
「あぁ…」
確か『カチロー』と名乗った同級生に呼ばれて、リョーマは小さく溜息を吐いてから小走りにネットの方へと向かった。








練習が終わり、結局今日も乾とは会話ができずにリョーマは肩を落とした。
(これじゃ、ランキング戦で、同じコートに入るまで話せないかも)
そうして今日もまた当番の二年生部員と共に部室に戻ったリョーマを、手塚の背中が出迎える。
「片づけ、終了しました!」
「ご苦労」
相変わらず素っ気ない口調ではあるが、リョーマは手塚の様子がいつもと違うように感じた。
(ぁ…)
今まで、手塚は返事をする時はいつも視線をこちらに向けていたのに、今日は背を向けたままだったのだ。
そう言えば、今日の練習中も、手塚とは一度も視線が合わなかった。あの罰走の時以来、リョーマが手塚に視線を向けると、ほぼ9割の確率で手塚と視線が合うのに、今日はまだ一度も手塚の瞳をまともに見ていない。
(もしかして…)
昨日の件で、リョーマには全く脈がないと諦めたのだろうか。
だとしたら、それはそれで、清々する。
(アンタにすぐ靡くような他の連中と一緒じゃないって、わかったっしょ)
心の中で「ふふん」と笑い、勝ち誇ったような気分になる。
だがやはり、今日も超高速で着替えた二年部員が出て行ってしまうと、リョーマは気まずさに落ち着かなくなった。
(オレもさっさと着替えて帰ろう)
無言のまま荒っぽい仕草で着替えていると、ギシ、と手塚が座っているイスが音を立てた。
ビクリと、リョーマの身体が揺らぐ。
「越前」
「はい」
手塚の方を向かずに返事をすると、手塚が立ち上がった。
思わず勢いよく振り返ったリョーマの目に映ったのは、ドアの方へ向かう手塚の横顔。
「シャーペンの芯、そこに置いておく。昨日は助かった。ありがとう」
リョーマを見ずにそれだけ言うと、手塚は日誌を脇に抱えてドアから出て行ってしまった。
「………え?」
しばらくの間呆けてから、漸く我に返り、手塚がいたテーブルに歩み寄ってみると、そこにはシャーペンの芯が二本、置いてあった。
「…………」
何か、釈然としないものがリョーマの胸に込み上げる。
「なにそれ」
言葉にして呟いてみて、余計に腹が立ってきた。
「オレが悪いみたいじゃんか」
付き合えなどと言って迫ってきたのは手塚のくせに。
いきなりキスしようとしたくせに。
それを拒絶したからと言って、あんなふうにあからさまに態度を変えるなんて。
「やっぱ、イイのは声と顔だけってヤツ?」
(ムカツク)
唇をひき結び、乱暴にウエアをバッグへと詰め込んでいると、部室のドアがノックされ、ガチャリと開いた。
(戻ってきた?)
バッと勢いよくドアを振り返ると、そこにいたのは予想外の人物。
「乾、先輩……」
「……やあ」
大きく目を見開くリョーマを見て、乾はちょっと意外そうな表情をしてから、部室内を見回した。
「…あれ、手塚は?」
「ぁ…さっきどっか行っちゃったっス」
「………そう」
眼鏡の位置を直しながら、乾が自分のロッカーの方へと歩いてゆく。
「乾先輩、あの……忘れ物っスか?」
「うん。さっき大石に数学のノート見せてて、そのままここに置いて……ああ、あった」
(…やっぱこの声、だよ、な…)
空港で出会った、あの優しい人の声。
あの時リョーマは体調が悪かったせいか、空港で聴いた声の方がもっとハスキーだった気もするが、黒縁眼鏡をかけていることからしても、「あの人」はきっと、この目の前にいる男だろう。
何しろ、父が「現レギュラーの中の誰か」だと言ったのだ。現レギュラーの中に、これほど条件に当てはまる男は他にはいない。
「あの、乾先輩」
「ん?なに?」
「あの……オレ、空港で……」
どう言えばいいかと口籠もると、乾がしばらく考え込んでから「ああ」と、思い出したように言った。
「先月、成田空港で……」
「はい!そうっス!あれ、オレっス」
「ああ………」
乾がやっと思い出したというように何度か頷き、クスッと小さく笑った。
「君だったのか……わからなかった」
「え……わかんなかった…って?」
「すまない、よく見えてなかったんだ」
「そうなんスか?」
「あれから大丈夫だった?」
「はい、次の日には熱も下がったっス」
「なるほど。風邪と言うより疲労が原因だったのかもしれないな」
「はい」
会話を続けているうちに、リョーマは乾が「あの人」であったことをどんどんと確信していった。
「それで、あの、うちに眼鏡を……」
「眼鏡?………ああ、アレのことか……アレは……いつも使っているわけではないんだ」
「ああ、それで置いて行っちゃっても大丈夫だったんスね」
「ぁ…ああ…まあね」
気がかりだった謎が解けて、リョーマは心が少しだけスッキリした。使っていない眼鏡を持っていたこともまた新たな謎ではあるが、それは、今は追及しないでおく。
「本当にあの時は助かりました。ありがとうございました」
ペコリと頭を下げると、乾が苦笑した。
「いや俺は何もしてない。礼は言わなくていいよ」
「でも、本当にあの時はオレ…」
「いや、もう充分。……じゃあ、ランキング戦、楽しみにしているよ」
「はい」
リョーマが嬉しさを隠しきれずに笑うと、乾は小さく苦笑して頷き、部室から出て行った。
(見つけた…やっと会えた!)
「…っし!」
思わずガッツポーズが出てしまう。
あまり話す機会がなさそうだが、絶対に親しくなろうと思う。親しくなって、もっともっと、たくさん話がしたい。
(ランキング戦が終わったら、いろいろ訊いてみよう)
心がウキウキとしてきた。鼻歌でも歌ってしまいそうな気分だ。
「ぁ……でも……」
ひとつだけ、乾があの時と違うのは。
「コロン、つけてなかった…」
あの柔らかな香りが、今、乾からは全く感じ取れなかった。
デオドラントスプレーのようなものならば、練習後には尚更つけていそうなものなのに。
「今日は、たまたまつけてなかっただけかも…」
きっとそうに違いないと思う。
(だって、「あの人」は乾先輩で間違いないんだから)
空港でのことをちゃんと覚えていてくれた。
それが何よりの証拠。
とにかく、今は、「あの人」と再会できたことが嬉しい。
自然に込み上げてくる笑みを浮かべながら、リョーマは部室をあとにした。




















*****



















いよいよランキング戦が開始された。
現レギュラーが順当に勝ち進む他ブロックに比べ、リョーマの属するDブロックは初日から波乱の幕開けとなった。
「…海堂に勝っちまいやがった」
「まだ仮入部の一年が…」
リョーマを中心にして、さざ波のように部員たちのざわめきが広がってゆく。
「よし、今日はここまで!解散!」
手塚の凛とした声が聞こえ、リョーマはそちらに視線を向けた。
(ぁ…)
久しぶりに、手塚と目が合った。手塚は小さく頷き、だが、すぐに隣にいた大石に何事か話しかけて横を向いてしまった。
小さく頷いてくれたのは「よくやった」という意味なのだろうか。
今までのように柔らかな表情ではなかったが、しっかりとリョーマの試合を見ていてくれたことはわかった。
(部長として、…って感じ?)
手塚の中で「切り替え」が起こったのだろう。今までは揶揄いの対象であった存在から、部の将来を担う存在に格上げになったのかもしれない。
(最初からそうしててくれればいいのに)
小さく溜息を吐いていると、後ろから遠慮がちに「越前」と、声が掛けられた。
振り返ると、片づけ当番でよく一緒になる二年生部員。
「なんスか?」
きょとん、と見つめ返すと、二年生部員は苦笑した。
「あのさ、その……スゴイよな、越前。いろいろされても全然気にしてないし、レギュラーの海堂には勝っちゃうし」
「はぁ…」
「俺の方がお前より先輩だけどさ、なんか俺、すごく越前のこと見習いたい気分になってきたんだ」
話がよく見えなくてリョーマが怪訝そうにしていると、上級生は、また苦笑した。
「今日からは、他の一年生と一緒に帰っていいから。いつもお前だけ引き留めて、ごめんな」
「あー……べつに、気にしてないっス」
「うん。そうだろうとは思ったけど、俺が気になっていたから。じゃ、今日も片づけ、みんなで一緒にやろうな!」
「……ういっス」
小さく笑って返事をすると、上級生部員はとてもスッキリしたように微笑んで奥のコートへと走っていった。
(いい人もいる、ってコト?)
個性派揃いの青学テニス部だが、心の底からひねくれたヤツはいないのかもしれないと思う。
(強そうな先輩も結構いるし、案外面白いトコかも)
初日にはひどく落胆したが、馴染んでみれば、なかなかどうしていい部かもしれない、と思えてきた。
(部長も、やっと真面目になったみたいだし?)
もう一度チラリと手塚の方を見遣ると、すでに手塚の姿はさっき居た場所にはなかった。辺りに視線を走らせて探すと、日誌を脇に抱えて校舎の方へと歩いてゆく手塚の背中を見つけた。
(今日は部室で書かないんだ…)
そう考えてしまってから、リョーマは慌てて自分の思考回路を修正した。
(べつに……部長がどこで日誌書こうが、オレにはカンケーないけど!)
むしろ、部室で書かないならその方がいい。
(部長の傍にいると、オレがおかしくなりそうだから…)
たぶんもう手塚はリョーマにちょっかいをかけてくる気はないのだろうが、まだ油断はできない、と思う。
(気まぐれで、またアンナコトされたんじゃかなわない)
「ほい、越前、ブラシ……越前?」
顔を覗き込まれて、リョーマはハッと我に返った。
「ぁ…サンキュ」
堀尾からブラシを受け取り、コートの端の方へ移動する。
(…そうだ……あの八重桜、まだ咲いてるかな……)
入学式の頃に「咲き始め」だったから、もしかしたら、まだ咲いているかもしれない。そう思うと、なぜだかとてもあの樹に会いに行きたくなった。













同級生との会話とコート整備を適当に切り上げ、リョーマは急いで着替えて、あの八重桜のもとへと向かった。
「ぁ、まだ咲いてる」
遠目で見ると、緑の葉に綿菓子がくっついたように、薄紅色の花が咲き競っていた。
数メートル離れたところから樹全体をしばらく眺め、ゆっくりと近づいて、花のひとつひとつをじっくり眺める。
(もうすぐ散っちゃうのかな…)
すでに足下にはかなりたくさんの花びらが散り落ちている。
中には花の房ごと落ちているものもあり、リョーマはその一つをそっと指先で摘み上げた。
「まだこんなに綺麗なのに……風のせいで落ちたのかな…」
小さく呟いて、その「綺麗」という言葉に、一人の男の顔が浮かんだ。
「…っ?」
(なんで……あんな…部長のことなんか……っ)
そう思いかけて、リョーマは樹を見上げた。
「この樹のせい、か……」
ここで、リョーマは初めて手塚と出会った。
薄紅色の花と、青い空を背景にして、小さく微笑んでくれた手塚。
甘くクリアなテノールに、印象的な強い瞳。
それから入学式のあとでまた再会して。
あの時は本当に、パーフェクトな男だと思った。
なのに。
「遊びまくってるヤツだったんだよな…」
同性の自分に「付き合え」と声を掛け、部室で二人きりになったのをいいことに、キスまでしようとした。
「あんな…」
手塚に掴まれた顎が、あの時の感触を思い出す。
「……っ」
ゴシゴシと顎を擦って、その感触を慌てて拭い取る。
(意識なんかしてない!するもんか!)
吐き捨てるように溜息を吐き、帰ろうかと樹に背を向けて、リョーマは動きを止めた。
「!」
校舎の影から、手塚がこちらに歩いてくるのが見えた。
リョーマは辺りをキョロキョロと見回し、適当な低木を見つけてその影に飛び込んだ。
(べ、べつに隠れなくてもいいんだけど…見つかると…アレだし……)
自分で自分の行動に訳のわからない言い訳をしながら、リョーマはそっと木の葉越しに手塚が歩いてくる方を窺った。
手塚は未だレギュラージャージのままで、日誌を脇に抱えている。
(日誌、どっかに書きに行ったんじゃなかったのか…)
何か考え事をしているらしく、少し俯き加減でゆっくりと八重桜の樹の前に立ち、小さく溜息を吐いてから、顔を上げた。
(え……)
リョーマの視線が、手塚に釘付けになる。
その手塚は、最初に会った時とも、部活の時とも違う表情をしていた。
(部長…?)
風が吹き、手塚の髪を乱す。
「………」
乱れる髪も直さず、手塚は何か呟きながらそっと、風に揺れる花に触れた。
そうしてその手で樹の幹に触れ、目を閉じる。
まるで何かを祈るように。
やがて、そっと顔を上げた手塚は、ひとつ深い溜息を吐き、静かに立ち去っていった。
手塚の姿が見えなくなってから立ち上がったリョーマは、手塚が立っていた場所に立ち、手塚が触れていた樹の幹に同じように触れてみる。
(…何、考えていたんだろう……あんな…)
あんな見たこともないような表情をして。
そう思いかけて、いや違う、とリョーマは思った。
(あの時と、同じ顔してた…)
部室で、リョーマに突き飛ばされたあとに見せた、一瞬だけの表情。
悲しそうな、ひどく傷ついたような、それでいて、何か熱いものを抑え込んでいるような、切なげな、顔。
(オレは……ちゃんと部長のこと、理解してないのかも…)
ゆっくりと幹から手を離し、その手をギュッと握り締める。
「……だから、何だって言うんだよ……オレは、べつに、部長のことなんか……っ」
初めて会った人間に、いきなり付き合えなどと言う軽々しい男を信用なんてしない。
一方的に言い寄って、同意もなくキスしようとする図々しい男などごめんだ。
「あの人の方が………乾先輩の方が、ずっとオトナだし、優しいし……」
そう思うのに、心が、手塚のことでいっぱいになりそうになる。
なぜなら、「あの人」が乾だとわかった時の喜びよりも、たった今目にした手塚の表情の方が、頭から離れないのだ。
「なんなんだよ、もう…っ」
小さく呟き、リョーマはクルリと樹に背を向けた。
「無視しよ」
今後一切、手塚を視界に入れないようにしようと思う。そうすれば、きっと自分は今まで通りの「越前リョーマ」でいられるはずだ。
誰かのせいで、自分が変わるなんて考えたくもない。
(オレはオレ。今までも、これからも!)
うん、と一人頷き、リョーマはバッグを抱え直して校門へと歩き始めた。


















ランキング戦二日目にして、リョーマは乾とコートで相対することとなった。
長身の乾が放つ高速のサーブは厄介で、さらには乾のプレイスタイルが、あまりリョーマの好きなタイプではなかったことに、リョーマは内心驚いた。
(こーゆーテニスするヒトだったのか…)
対戦相手のことを事前に調べ上げ、そのデータをもとに頭の中でシミュレーションを繰り返し、実戦で生かす。綿密なデータに基づいて巧妙に張り巡らされた罠に追い込まれていくようなゲーム展開に、リョーマは微かな苛立ちさえ感じた。
データとか、理論とか、そう言う数字や常識に囚われた考え方は、好きではないのだ。
テニスとはこういうものだ、こうあるべきだと、凝り固まった考えを押しつけられるのも大嫌いだった。
何より、自分の行動が、相手の「予想したもの」であることが、一番嫌だと感じる。
「ヤな戦い方」
絶対に、これ以上は思い通りにさせたくないと思う。
あの空港での出来事はリョーマにとってはとても大切な思い出であるし、あの時助けてくれた乾に対しては心から感謝している。
だが、コートに立った瞬間、目の前にいるのは「倒すべき相手」以外の何者でもない。
「最近やっと出来るようになったステップがあるんだけど…出来れば温存しておきたかったね」
先を読まれているなら、自分はその先を行くまでのこと。
「全国大会まで!」
「!」
リョーマの言葉にどよめきが起こる。
(いいね、この感じ)
その場の空気が、一気に自分の思い通りに流れてゆく気がした。
(アンタが誰だろうと、オレが勝たせてもらうから)
片足のスプリットステップを繰り出したリョーマには、どんな予測も意味を成さなかった。
来る場所がわかっていても取れない球。
「データでくるなら、その上をいくまでだね」
理屈では理解できない事実があるのだという真実を、リョーマはその場にいた全員に叩きつけた。
結局、試合は7−5でリョーマが勝利した。
「完敗だな」
小さく笑みを浮かべる乾と握手を交わし、リョーマは溜息を吐いた。
「ちょっとムカついたけどけっこう楽しかっ…」
言い終わる前に、乾はすでにリョーマに背を向けてコートから去っていった。データがどうの、ステップがどうのとブツブツ呟いているところを見ると、自分のプレイスタイルを変えるつもりはないらしい。
「もうアンタとはやりたくないね」
溜息混じりに呟き、リョーマもコートを出てゆく。
乾という人間のもうひとつの面を見た気がする。
それは、空港でリョーマを介抱してくれた時の印象とは全く違うもののようにも思えて、リョーマは苦笑した。
(やっぱ……人間って、弱ってる時に助けてくれたヒトには、実物以上に好印象を持っちゃうのかな)
確か、そう言う心の動きを指す言葉もあった気がする。
あの時、自分を介抱してくれる男に抱いた好意や信頼感は、ただの錯覚だったのだろうか。
自分の身体を抱き上げてくれた腕の逞しさも、背中をさすってくれた温かな手の平の優しさも、全てが弱っていた自分の心が過剰に演出して見せた幻影だと。
(違う…)
リョーマはギュッと唇を噛み締める。
(きっと、あの時感じたのは、錯覚とかじゃない。あの人は本当に優しくて…)
「だって…オレの涙、拭いてくれた……」
ハンカチを差し出すのではなく、その優しい手でそっと拭ってくれた。
あの時の温もりが、どんなに嬉しかったことか。
「もっと、よく知り合えばいいのかも」
恋とか愛とか恋愛とか、そう言う類の感情についてはまだよくわからないけれど、あの時、あの空港で「あの人」に感じた感情は、きっと恋に近い。
同性である男に惹かれるなどと、抵抗がないわけではないが、そんな常識や体裁よりも自分の想いに素直でありたい。
「よし」
リョーマは小さく頷いてぐっと唇をひき結ぶと、クルリと踵を返して、コートから出て行った乾を追いかけた。





水飲み場のところに、乾がいた。
「乾先輩」
顔を洗っていたらしい乾が、タオルで顔を拭き、きちっと眼鏡をかけてからリョーマを振り返る。
「なに?」
「あの……乾先輩、今、付き合ってるヒトとか、いるっスか?」
「え?」
ポカンと口を開けてじっと見つめられ、リョーマは恥ずかしさと居心地の悪さに俯いた。
「あの…」
「越前」
リョーマの言葉を遮るように、柔らかな声に呼ばれた。
「…?」
振り返ると、いつものように笑みを浮かべる不二が立っていた。
「越前、ちょっと」
「え?は……あの?」
きょとんとするリョーマの腕を掴み、不二がグイグイとリョーマを引きずってその場から離れてゆく。
「あのっ!」
部室の前まで来たところで、リョーマは我慢しきれずに不二の腕を振り解いた。
「オレになんか用なんスか?不二先輩」
「乾はダメだよ。やめた方がいい」
「え……?」
リョーマに背を向けたまま、不二は静かに言った。
「だ……ダメって……どういう……」
「乾のこと、好きなの?」
不二がゆっくりと振り返る。
「え……あの……」
「……でも乾は、君のことは好きにはならないよ」
断言する不二に、リョーマはムッとする。
「なんでそんなことがわかるんスか?」
「…確かに君のテニスセンスは、乾の興味の対象になるだろうけど」
不二の表情から笑みがフッと消える。
「それはただの『興味』でしかない。恋愛感情には、ならない」
リョーマの目が大きく見開かれる。
「君から付き合ってくれなんて言われたら、たぶん乾はOKするよ。でもそれは君のことが好きだからじゃない。君のデータを、より詳しく得るためのことなんだ」
「な…」
「そのことに後から気づいて君が傷つく前に、忠告したつもり。ああ見えて乾は結構、手段を選ばない非情な策略家、って一面もあるから気をつけて」
「………べつに、オレは……ゲイじゃないし……」
ぼそぼそと呟くようにリョーマが言うと、不二はニッコリと笑った。
「そ?ならいいけど」
「……なんで…」
「え?」
リョーマは不二を真っ直ぐに見つめた。
「何でオレに、そんな忠告してくれるんスか?」
「………さあね」
不二がふわりと微笑む。
「乾と違う意味で、僕は君に興味があるから、かな」
「………は?」
意味ありげにクスッと笑みを残して、不二がリョーマに背を向ける。
「君がレギュラーに加わったら、楽しくなりそうだね」
「………ちょっ…」
「明日の試合も頑張ってね。じゃ」
そのまま、不二はさっさとコートへ戻っていった。
「な…んなんだよ…もう……」
もっといろいろなことを知るために、乾と、より親密になってみたかった。だから次の休日に、一緒に出掛けないかと誘うだけのつもりだったのに。
(いきなり付き合えなんて言うわけないじゃん…)
「……部長じゃあるまいし」
口に出して呟くと、背後から視線を感じてリョーマは振り返った。
「!……部長…っ」
部室の中にいたらしい手塚が、ドアを開けたままリョーマを見つめていた。
「……いきなり現れないでくださいよ。ビックリした」
「………」
無言のまま部室のドアを閉め、手塚がリョーマの方へ歩いてくる。
「…!」
リョーマが微かに身構えると、手塚は何も言わずにリョーマの横をすり抜けた。
(え……?)
一瞬呆けて、だがすぐに振り返ると手塚はもうすでにコートに入っていくところだった。
(無視、された……?)
思わず、ギュッと唇を噛み締めた。
(なにそれ)
無性に腹が立ってきた。
(なんで、『オレの方が』無視されなきゃならないわけ?)
握り締めた両拳がブルブルと震え始める。
だが、リョーマはハッと短く息を吐き捨て、一度空を仰いでからゆっくりと視線を手塚に戻した。
「べつに、そっちがその気なら、オレだって…」
今後一切、自分から声なんか掛けてやるもんか、と思う。
あれだけ熱っぽい瞳で口説こうとしたくせに、リョーマにその気がないとわかると手の平を返したように態度を変える手塚が許せない。
(いつか、絶対に謝らせてやるから!)
軽い気持ちで口説いたことを謝らせてやる。
いきなりキスしようとしたことも、急に態度を変えて無視したことも、全部謝らせてやる。
そうしてもう二度と、越前リョーマを軽く扱わないと、誓わせるのだ。
その瞬間を思い描き、リョーマはククッと笑った。
「楽しみだね」
フェンスの向こうにいる手塚の背中に、リョーマは射抜くような強い視線を、いつまでも送っていた。











                                                      →          
    




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20070703