シンデレラをさがせ!


    媚 薬    

<2>



翌日。
部活に来たリョーマは、同じクラスの堀尾の饒舌さに辟易としながら、レギュラーが現れるのを今か今かと待っていた。
(もうすぐ、あの人が来るんだ…)
顔はわからない。
手掛かりは、甘いハスキーボイスと、コロンの香りと、そして、眼鏡。
(ぁ…)
部室の方から他の部員とは異なるデザインのジャージを着た一団が歩いてきた。途端にコート内のあちこちから、歓声とも取れる声があがる。
(あれが、青学テニス部レギュラー…)
確かに、纏う空気が違う、とリョーマは思う。
強豪の青学テニス部の中でも八名しか着ることのできない「レギュラージャージ」を身につけることの誇りと自信、そしてそれらによって自然に生み出される風格。
「ふーん」
戦ってみる価値はありそうだと、リョーマの瞳の奥が鋭く輝く。
だがその前に、自分には違う目的がある。
リョーマはレギュラー陣全員にザッと目を走らせ、一人の男に目を留める。
(あの人は…)
レギュラージャージを着た一団の中で際立って背の高い男が一人。あの黒縁のごつい眼鏡もかけている。
(あの人かも…)
だが、どう声を掛けていいものかと迷っているうちに、レギュラー達のウォーミングアップが始まってしまった。
(部活が終わってからでもいいか…)
逸る心を宥めつつ、レギュラー達の動きを目で追う。
(ふーん……面白そうなコトしてるね…)
レギュラー達はスマッシュ練習をしているのだが、ただスマッシュを打つのではなく、すべてボールカゴの中へと打ち返している。
身体のバランス感覚と、打球のコントロールが必要になる、簡単そうに見えてなかなか高度な練習だ。
さすが青学テニス部レギュラーだけあって、ほぼ全員が正確にカゴの中へとボールを打ち込んでいく。
ウズウズと、リョーマの身体が疼く。自分もあの中に混じって、スマッシュをあのカゴへと決めてみたい。
「あっ、しまった、デカい」
そんなリョーマの気持ちが通じたのか、ボールが大きく弧を描いてリョーマの方へ飛んできた。
「………」
リョーマは脇に抱えていたラケットを左手に持ち、チラリとカゴの位置を確認してから、ジャンプしてボールを打ち返した。
鋭い打球がきれいにカゴへと決まり、その余るほどの威力でカゴが大きく動いた。
コート内が、一瞬、静まりかえる。
「あんがい簡単だね」
思ったことをそのまま口にすると、ボール出しをしていた男が「へえ…」と言ってふわりと笑った。
チラリと視線を走らせると、あの背の高い眼鏡の男もこちらをじっと見つめていた。
(チャンス。声掛けてみようかな…)
そう思ってリョーマが歩き出そうとしたところを、いきなり凄い勢いで胸ぐらを掴み上げられた。「一年坊主がしゃしゃり出る場所はない」などと怒鳴っている。
(ナニこの人、スゴイ動揺しちゃって…)
例によって、その声音から、リョーマは自分を怒鳴りつけている男が「大した器ではない」ことを感じ取った。
(ぁ…)
それよりも、怒鳴っている男の肩越しに見えた人影に、リョーマは一瞬目を丸くした。
レギュラージャージを着て、コートの入り口からこちらを静かに見つめているその人は。
(手塚、先輩…?)
「コート内で何をもめている」
落ち着いた静かな声だったが、リョーマはグッと奥歯を噛み締めた。
(怒ってる……)
「ぶ、部長ーっ!」
手塚を見て、部員たちが一斉に最敬礼する。
(え……手塚先輩が……ここの部長?)
胸元を掴み上げられた恰好のまま、内心ひどく驚くリョーマに目もくれず、手塚はまた静かに言い放つ。
「騒ぎを起こした罰だ。そこの二人、グラウンド十周!」
ゆっくりとこちらに歩いてくる手塚を見て、リョーマは小さく溜息を吐いた。
(神聖なコート内で騒いだから、怒ってるんだ…)
その静かな声音に、手塚がどれだけテニスを愛しているかがわかる。そして、その理に適った厳しさも。
だが、その手塚の想いを理解していないのか、リョーマを掴み上げていた上級生が、口答えをした。
「えっ、ちょっと待って下さいよ、コイツが…」
「二十周だ!」
手塚の凛とした声がコート内に響く。
(バカだな、この人……あんなに怒らせちゃって…)
リョーマは溜息を吐くと、何も言わずにコートを出て走り始めた。
言いがかりをつけられたのはリョーマの方で、言うなれば「被害者」のようなものだが、そのきっかけを作ったのは紛れもなく自分だ。手塚の大切な場所で騒ぎを起こすきっかけを作ってしまったのだから、その点は素直に反省しようかと思う。
(でも…別人みたい)
リョーマは走りながら、チラリと手塚を見遣った。
手塚はリョーマに背を向けたまま、部員たちに練習の指示を出している。
(やっぱ、付き合えって言ったのは、揶揄っただけなんだ)
あの綺麗な顔が氷のように冷たく見えた。
リョーマの大好きな、あの八重桜の樹の下で会った人物とは、まるで別の人に見えた。
(ぁ…でも、もっと驚くことって、このこと?)
そう考えてから、リョーマは小さく首を傾げた。
(オレがテニスするって、知ってた…?)
初めて出会った入学式当日は、テニスバッグは持っていなかったはずだ。
(何でわかったんだろ……?)
もう一度、グラウンドの反対側を走りながらコートに立つ手塚に視線を送る。
(ぁ…)
手塚が、肩越しにこちらを見ていた。
リョーマもじっと手塚を見つめたまま走る。
やがてコートに近づいていくと、手塚の表情がよく見えてきた。
「……っ」
手塚の視線は、間違いなくこちらに、いや、「リョーマだけ」に向けられている。
リョーマが小さく目を見開くと、手塚の目元が、ほんの一瞬だけ、緩んだように見えた。
(わ…?)
瞬きするほどの時間だけの、小さな微笑。だがリョーマは、それをはっきりと、見た。
慌てて目を逸らすようにして視線を前方に戻し、リョーマは二周目を走り始める。
ドキドキと、鼓動がうるさい。
この鼓動の乱れ方は、ただ単に、走っているからという理由だけではありえない。
(どうしちゃったんだ?オレは……)
小さな動揺に、リョーマは思わずぐんと加速した。背後で上級生が「ひぃっ」と小さく悲鳴をあげる。
(…そうだ、オレは、手塚先輩じゃなくて、あの人のことに、まずは集中しなきゃ)
あの黒縁の眼鏡をかけた背の高い男。彼が「あの人」なのかどうかを、確かめてみなくては。
(部活が終わったら、絶対に、声掛けよう)
背後の上級生をぐんぐん引き離しながら、リョーマは少し落ち着いてきた心の中で、よし、と頷いた。












仮入部とはいえ、一年部員には練習後の後片付けとコート整備という仕事がある。解散してもすぐに帰れるわけではないのだ。
(早くしないと、あの人帰っちゃうじゃんか)
同じ学校で同じ部活なのだから、例え今日は話ができなくともチャンスが失われるわけではないとわかってはいるが、あの空港での出逢い以来、「あの人」に再会できる日を心待ちにしていたリョーマは、一分一秒でも早くあの先輩と話がしたい。
コート整備をしながら、リョーマはチラリと視線を流す。レギュラー達はAコートに集まり、練習後の簡単なミーティングのようなことをしているらしい。
リョーマはわざとらしくならないように、ブラシを引きずりながら徐々にレギュラー達の方へと近づいていってみた。
「昨日の遠征で思ったが、やはりまだまだ俺たちには鍛えるべきところが多い」
手塚の凛とした声がリョーマの耳に入る。
(相変わらずいい声…)
「それには俺も同感だな」
(え…?)
リョーマの脚が、止まる。
「校内ランキング戦が終わったら、今よりもっと多めに筋力トレーニングのメニューを加えた方がいいだろう」
(この、声…!)
今喋っていたのは、あの、黒縁眼鏡をかけた背の高い男。
(似てる……あの声……)
空港で聴いた時よりも、幾分マイルドになっている気がするが、「あの人」の声に、その声はそっくりだった。
(やっぱ、あの人がそうなんだ…!)
大きく目を見開いて立ち尽くしているリョーマに、レギュラーの一人が気づいた。
「……どうかしたの?」
「ぇ……あ…」
声を掛けてきた男が、柔らかな微笑みを浮かべてリョーマに歩み寄る。
「えーと、君は、確か、越前くん、だったかな?」
「ぁ……ういっス」
先程のやり取りのせいか、すでに自分の名前が知れ渡っていることに、リョーマは内心溜息を吐く。
「何か質問でも?」
声を掛けてきた男は、とても柔らかな物腰で、その外見通り声音もとても優しかった。中性的な顔立ちに、色素の薄いサラサラの髪がよく似合っている。
「ぁ、いえ、…なんでもないっス」
「そう?」
帽子で表情を隠しながらリョーマが言うと、その男がそっとリョーマの肩に手を置いた。
「このコートは後回しにして、隣のコートを先に綺麗にしてくれるかな」
優しく諭すように言いながら、男が顔を覗き込んでくる。その拍子に、男の方から微かに甘いコロンの香りがした。
(ぁ……このコロン……!)
リョーマが勢いよく顔を上げると、リョーマを覗き込んでいた男が小さく目を見開いた。
「ん?」
「………ぁ……邪魔してすみませんでした」
「こっちこそごめんね。すぐここ退くから」
リョーマはペコリと頭を下げると、足早に隣のコートへと移動した。
(あのコロン……「あの人」がつけていたヤツだ…)
声も話し方も「あの人」とは違うが、コロンは間違いなく、同じものをつけている。
(単に同じのをつけてるってだけなのかも……)
私立とはいえ、庶民も通える中学校の生徒が、そんなに高価なコロンを身につけているとは思えない。たぶん、コロンというよりも、市販されているデオドラントスプレーか何かなのだろう。
印象に残る甘い、柔らかな香りは、「あの人」よりもむしろ、今会話を交わした男の方が似合っている気がする。
そのことが、なぜか心に引っかかる。
モヤモヤと考えながらブラシを引きずっていると、隣のコートにいたレギュラーのミーティングが終わったようだった。
「ぁ…」
「越前!こっち」
あの黒縁眼鏡の男に声を掛けようとした途端、堀尾に腕を掴まれた。
「…なに?」
思い切り不機嫌そうに振り返ると、堀尾が繋がっている眉をさらに引き寄せていた。
「俺たち一年がレギュラーに気安く声掛けちゃダメだろ!…それに、ほら、二年の先輩がネット畳んで運べって」
「声掛けてきたのは向こうが先なんだけど」
「な…なんでもいいから早くネット片そうぜ!」
「………」
グイグイ腕を引っ張られ、リョーマは溜息を吐きながらされるがままに歩いた。
(今日はムリ、か……)
コートを出てゆくレギュラー達をチラリと見遣ると、先程の男と、黒縁眼鏡の男と、そして手塚が足を止めて再び何やら話をしていた。
堀尾に引っ張られながらリョーマが見つめていると、先程の柔らかな印象の男がこちらを見てニッコリと笑った。
「ねえ、あそこにいる先輩の名前、わかる?」
自分を引っ張る堀尾を見ずに尋ねてみると、堀尾の足が止まった。
「え?どの先輩?」
「…部長と一緒にいる先輩二人」
「あー。手前にいる優しそうな感じの人が不二先輩。今の青学で実力ナンバー2って言われてるんだぜ!」
「へぇ」
「で、こっちに背中を向けてる背の高い先輩が、乾先輩。すっごい理論派だって噂なんだ」
「理論派…」
「ま、どの先輩とも、試合できるのなんてまだまだ先の話だけどなー」
「ふーん」
適当に相槌を打っておいて、リョーマはさらにじっと三人を見つめた。
持っている雰囲気は三者三様。
その三人が、それぞれどんなテニスをするのか、少し興味がある。
だが今は。
(やっぱ、何とか話したいな…)
乾、というらしい男の背中を見つめながら、リョーマは小さく溜息を吐いた。















結局、片づけがすべて終わったのは上級生部員がほとんど帰ってしまったあとだった。
一年生部員も、当番の二年生部員たちに許可された者から着替えに行き、リョーマに許可が出たのは一番最後だった。
リョーマに因縁をつけてきた、あの荒井とかいう二年生が帰り際にこちらをもの凄い形相で睨んでいたので、リョーマの順番が最後になったのは、あの荒井の「口添え」のおかげなのだろう。
当番として最後まで残っていた二年生たちは皆、とても大人しそうな男たちで、リョーマに向かって「そんなに嫌なことばっかじゃないからさ」と、慰めのような言葉を口々にかけてくれた。
その当番の二年生と一緒に部室に入ると、隅に置かれた小さなテーブルで、手塚が着替えもせずに何やら書き物をしていた。
「部長、片づけ全部終わりました!」
「ん、ご苦労」
手塚がチラリとこちらに視線を向けてそう言うと、声を掛けた二年生部員たちの身体が硬直するのがリョーマにはわかった。ギクシャクとロッカー前に移動する先輩たちを見遣って、リョーマは小さく溜息を吐く。
(すごいキンチョーしちゃって…)
笑いそうになるのを堪えてリョーマも着替え始める。
ギクシャクしていた割に着替える速度は恐ろしく速い二年部員たちは、リョーマがやっと制服のズボンに脚を通す頃には部室から逃げるように全員出て行ってしまった。
呆気にとられてしばらくドアを見つめていたリョーマは、ふぅっと大きく息を吐いてから、手塚の背中に視線を向けた。
「……もっとビックリすることって、アンタがテニス部の部長だったってことっスか?」
静かにリョーマが言うと、手塚がゆっくりと振り返った。
「…驚かなかったか?」
「ちょっとね」
リョーマが唇を尖らせると、手塚の目がほんの少し優しくなる。
「…でも何でオレがテニスやるって知っていたんスか?…ぁ、オバサンから聴いてた、とか?」
「オバサン?」
「えーと、竜崎センセ?」
「顧問の先生をオバサンなどと呼ぶんじゃない」
溜息混じりに叱られて、リョーマは肩を竦めた。
「竜崎先生はお前については何も言っていない」
「じゃあ、何で…」
「……乾から聴いた」
「え…」
手塚の口から出た名前に、リョーマは一瞬ドキリとする。
(やっぱり乾って人はオレのこと知ってるんだ…)
リョーマが黙り込むと、手塚は微かに溜息のような吐息を零して、また書き物を始めた。
「……何、書いてるんスか?」
「部の日誌だ。部活が終わったあとに、毎日つけている」
「部長って大変っスね」
「まあな」
それきり会話が途切れ、部屋の中には手塚が走らせるシャーペンの音だけが小さく響く。
「あの…」
「……俺に遠慮するな。帰っていいぞ」
「…ういっス」
リョーマは「失礼します」と言って、ペコリと一礼をして部室を出た。
(…またなんか言うかと思ったのに…)
リョーマは足を止めて部室のドアを振り返った。
本当のところを言えば、手塚と二人きりにされてしまって、リョーマはほんの少し困惑した。
もしかしたら、手塚がまた「付き合え」と言って揶揄って来るのではないかと思った。
だが手塚は、普通の会話をしただけで、「冗談」は何も言わなかった。
(やっぱ、アレはホントに冗談だったんだ…)
ふぅ、と、深い溜息が出た。
「ま、そりゃそうだよね」
ぼそりと呟いて、また溜息を吐く。
ああいう冗談を真に受ける方がおかしいのだ。
「………」
リョーマはクシャリと前髪を掻き上げると、クルリと部室に背を向けて歩き出した。















*****














翌日の部活は、さらに最悪だった。
リョーマの愛用しているラケットが隠され、また例の荒井に因縁をつけられた。
(サイアク…)
今日こそは乾に声を掛けようと意気込んでいたのに、部活開始早々出鼻を挫かれた気分になった。
姑息な手段を使う上級生に、さすがのリョーマもかなり頭に来た。
「いるよね、弱いからって小細工する奴」
また手塚を怒らせるだろうかと、リョーマの脳裏に昨日の手塚の表情が浮かぶ。
だが、売られたケンカは買う主義だ。それが「テニスで」なら、尚更。
「いーよ。やろうか」
ラケットを「持っていない」リョーマに、荒井は壊れかけたラケットを渡してそれで試合しろと言う。
使い物にならないようなラケットならば、自分に勝てると思っているところが浅はかだと思う。
そう、ラケットで勝敗が決まると思っている荒井に、思い知らせてやりたい。
(アンタなんか、オレの視界に入っちゃいない)
リョーマの興味は「強い相手」のみに向けられる。自分よりも「格」が上の相手にしか、興味はない。
(アンタには、このラケットで充分)
フレームのガタつきも、ガットの弛みも、その特徴を掴んでしまえばコントロールするのも、スピンをかけて打ち返すのも可能だ。
「最後までやってもらいますよ、先輩!」
青ざめた荒井の顔がさらにひどく引きつる。
そうして、完膚無きまでに荒井を叩きのめした直後、部長からの伝言だということで「全員グラウンド十周」が副部長の大石から言い渡された。
(やっぱ、また怒らせちゃったか…)
ゾロゾロと連なる上級生部員たちの後方について走り始めたリョーマは、そっと、小さく溜息を吐いた。
(部長を怒らせるつもりはないんだけどな……)
なまじ綺麗な顔をしているせいで、手塚が怒りのオーラを纏うとこちらの身体が強ばりそうになるほど冷たい表情になる。
(笑うとあんなに綺麗なのに…)
八重桜の下で、自分に小さく微笑んでくれた手塚を思い出す。

『俺と付き合わないか?』

「わっ」
いきなり妙なシーンを思い出してしまい、リョーマは内心動揺した。
(なんで、あんな場面を……っ)
「どうかした?リョーマくん」
隣を走る同級生が怪訝そうな目を向けてくる。
「べつに」
何でもないふうを装って、リョーマはいつものように素っ気なく返事をする。
「でも、リョーマくん、すごいね。先輩たちみんなリョーマくんのプレーに感心していたよ」
「ふーん」
「乾先輩なんか、すっごい真剣に見て、なんかメモとか取っているし、ホント、すごいね、リョーマくん」
「………」
乾の名前が出て、リョーマはまたドキリとした。
今日こそは、何としてでも話がしたい。
(でも、今日もムリそう…)
十数メートル前方を走る乾の背中を見つめ、リョーマは唇を噛み締めた。










練習が終わり、コート整備と片づけを済ませ、昨日と同様に当番の二年生と一緒にリョーマも部室に戻った。
「部長、終わりました」
「ご苦労だった」
やはり昨日と同じように手塚がこちらへチラリと視線を向けながら応える。
毎日書いている、と言っていたように、今日も手塚は小さなテーブルに向かって日誌を書いていた。
「お疲れさまっした!失礼します!」
そして今日も、もの凄い勢いで着替えた二年生たちは、逃げるように部室から出てゆく。
時間が昨日に巻き戻ったかと思うほど繰り返された同じ状況に、リョーマは深く溜息を吐いた。
(また二人っきりになっちゃったじゃんか)
静かな室内に手塚が走らせるシャーペンの音が響く。…が、パツンと音がして、シャーペンの芯が折れてしまったようだった。
「…」
カチカチと音をさせて新しい芯を出そうとするが、なかなか出てこないようで、手塚は小さく溜息を吐いた。
「……越前」
「ぁ……なんスか?」
急に振り返られて驚いた。いきなり目が合ってしまい、リョーマは自分が着替えながら何となく手塚の背中を見つめていたらしいことに、漸く気づいた。
「シャーペンの芯、余分に持ってないか?」
「芯?…ああ、あるっスよ。ちょっと待って」
シャツのボタンを留めずにガサゴソとバッグを漁り、ペンケースを取り出して愛用のシャーペンから芯を二本取り出した。
「はい」
指先で芯を摘んで手塚の左手の上に乗せてやった。
「すまない。明日、返すから」
律儀にそんなことを言い出す手塚がおかしくて、リョーマは小さく吹き出した。
「いっスよ。シャーペンの芯くらい」
「…ならば、別の形で礼をしよう」
「え…」
「もうすぐ書き終わるから、少し待っていてくれるか?」
「はぁ…」
「腹、減ってるんだろう?」
「え…」
思わず腹に手を当てると、タイミングよくキュルルと鳴ってしまった。
「ぁ……」
手塚がククッと笑う。
「待ってろ。すぐ着替える」
「…ういっス」
小さな恥ずかしさが込み上げてきて、リョーマはほんのりと頬を染めて手塚に背を向ける。
いや、頬が染まったのは、恥ずかしさだけではない気がした。
(また見ちゃった……部長の笑顔…)
リョーマの頬がふわりと緩む。
端整な手塚の顔が綺麗に綻ぶ様は、何度見ても飽きない。
(最後まで残ってて得したな)
シャツのボタンを嵌め、学ランを手に取ろうとしたところで手塚が立ち上がる気配がした。
「ぁ…書き終わったん……」
「越前」
リョーマが振り返るのと名を呼ばれるのはほぼ同時だった。
日誌をテーブルの上で閉じ、手塚がゆっくりと近づいてくる。
「……」
学ランを手にしたまま、リョーマの身体が微かに強ばる。
身体が触れそうなほど近くまで来た手塚が、リョーマの背後のロッカーに手を掛け、覆い被さるようにしてリョーマの瞳を覗き込んできた。
リョーマの鼻孔を、ふわりと柑橘系の香りが掠める。
「…ぁ…の…?」
「レギュラーの中に……気になる相手がいるのか?」
「え…?」
「よく…レギュラー達がいる方を見ているだろう」
「………べ…べつに…」
隠すようなことではないが、探している人がいることを手塚に話すと、何か「誤解」をされそうに思えて、リョーマは視線を逸らして口を噤んだ。
「『ソーユーシュミ』はないんじゃなかったのか?」
顔を逸らしたせいで手塚の方へ向けられた耳に、甘いテノールが囁く。
「…っ」
腹の奥がゾクリと揺らぎ、その見知らぬ感覚に小さく動揺しながら、リョーマは手塚に真っ直ぐな視線を向ける。
「そんなんじゃないっス!」
リョーマの視線を真っ向から受け止めた手塚が、同じくらい強い瞳でリョーマを見つめている。
「………アンタこそ……どうしてそんなに…オレに…構うんスか……?」
「………わからないのか?」
手塚の瞳の奥で、ゆらりと危険な炎が揺れる。
「なに…」
「一目見て……心を盗られた」
「え……」
大きく見開いたリョーマの瞳に映る手塚が、ゆっくりと大きくなる。
そっと顎を掴まれ、唇が触れ合う直前で、リョーマは何とか顔を背けることができた。
「……嫌なのか?」
「当たり前っしょ!」
強ばりそうになる身体を必死に動かして、リョーマは手塚の身体を突き飛ばした。
「キスって、好きな人とするもんでしょ。アンタみたいに、誰とでも軽くするもんじゃない!」
「………」
手塚が小さく目を見開く。
(…え?)
その手塚の表情に、リョーマは一瞬、口を噤んだ。
「……確かにそうだな。こういうことは、互いに好き合う者同士がすることだ」
「ぁ…」
瞬きする間に、手塚の表情はいつも見るものに戻っていた。
「あ、明日、シャーペンの芯、やっぱ、返して下さい。それでチャラっス。お礼なんかいらないから……っ」
リョーマは動揺を隠してそれだけ言い放ち、学ランとバッグを抱えて部室を飛び出した。
バス停まで一気に走って、誰もいないベンチにドカッと腰を下ろす。
(何なんだ、あの人…っ)
綺麗な顔をして。
クールそうに見えて。
品行方正な優等生だと思っていたのに。
(いきなりキスしようとするなんて!)
いくらアメリカ育ちとは言え、あんなふうにキスされそうになったことなど今まで一度もない。挨拶程度のキスとは意味が全く違うのだ。
「くそ……っ」
やはり手塚は今まで何人かの交際相手がいたのだろう。
いや、もしかしたら、今も同時進行で付き合っている人間がいるかもしれない。
(ふざけんな……っ)
苛立たしげに前髪を掻き上げて、リョーマはまた深く溜息を零す。
だが。
(遊び人のくせに……それなのに……なんで……あんな……)
リョーマに突き飛ばされて、浴びせられた言葉に手塚が見せた一瞬の表情。
(あんな……悲しそうな……)
一秒もないほどの、ほんの一瞬だけの表情なのに、それがリョーマの目に焼き付いてしまったかのように頭から離れない。
「何なんだよ……もう……っ」
頬の熱が引かない。
手塚に触れられた顎に、未だ、強い指先の感触が残る。
耳元で囁く甘い声も。
強く、熱い瞳も。
手塚に与えられたすべての感触が、強い記憶となって身体に刻みつけられてしまったようだった。
「あの人……ヤバイ……」
リョーマはもう一度深く息を吐いて、夕空を見上げた。
こんなにも他人に動揺させられるのは初めてだった。
頭の中も、胸の奥も、すべてが引っ掻き回されてグチャグチャになりそうだ。
「オレが……おかしくなっちゃう……」
八重桜の下で初めて手塚と出会った時から、胸の奥の奥で、小さな異変が起き始めている気がする。
「あの人……Potion……いや、Poison……みたい……」
甘く心とカラダを惑わす媚薬と言うよりも、それはまるで毒薬のように、手塚という男の存在自体が、リョーマの心と身体を動けなくしていくように思える。
「あの人は……ヤバイよ……」
もう一度呟いて、リョーマは両手で顔を覆った。












                                                      →          
    


注:羽鳥は塚リョしか書きません(笑)
(他のキャラのCPを書かないと言う意味ではないですが…いや、たぶんもう書かないけど/笑)

*****************************************
←という方はポチッと(^_^)
そしてこのあとに続く言葉をどうぞお聞かせください…
*****************************************

掲示板はこちらから→
お手紙はこちらから→



20070629