シンデレラをさがせ!


    媚 薬    

<1>



四月になり、リョーマは青春学園中等部へと入学した。
入学式当日、式が行われる講堂の近くでソメイヨシノよりも遅れて咲き始めた八重桜を見つけ、リョーマは魅入った。
(キレイ……)
まだ咲き始めたはかりで花の数は少ないが、何重にも重なった花びらが見事で、一輪咲いているだけでも充分にリョーマの目を楽しませてくれる。
(もう少しいいかな)
入学式が始まるまでまだ時間がある。ギリギリまでこの花を見ていたくて、リョーマは樹の根元に腰を下ろした。
見上げる枝の向こうには澄んだ青空。薄紅色の花と淡い空色が綺麗なコントラストを描き、リョーマの目を楽しませる。
(いい感じ…)
頬に当たる柔らかな風も気持ちがいい。
リョーマはそっと瞼を閉じて樹に寄りかかった。
目を閉じると、それまで聞こえなかった音が聞こえてくる。
新入生たちのはしゃぐ声。
小さく小さく聞こえる車の音。
そして、穏やかな風にサワサワと擦れ合う、桜の葉の音。
それらの音に混ざって、誰かが自分に近づいてくる足音が聞こえた。
「…気分が悪いのか?」
「え…」
デジャヴを感じてリョーマが目を開けると、八重桜と青空をバックに、上級生らしき背の高い男が覗き込んでいた。
逆光になっていて表情はよく見えないが、ノンフレームの眼鏡をかけているのはよくわかった。
(びっくりした……「あの人」かと思った……)
シチュエーションがよく似ていたので、一瞬、あの空港での出来事がリョーマの脳裏に蘇った。
だが。
(声が全然違う)
今掛けられた声は、あの甘いハスキーボイスではない。
(でも、イイ声……)
空港で会った「あの人」の声とは似ても似つかないが、今聞こえた声も甘く、だが心の強さをも感じさせるクリアなテノールだった。
「……大丈夫なのか?」
「ぁ……はい」
返事を忘れて呆けてしまったリョーマを見て、その上級生は小さく溜息を吐いた。
「こんなところで寝ていると風邪をひくぞ」
「寝ていたんじゃなくて、桜を見ていたんスよ」
「桜?」
言い訳のように唇を尖らせてリョーマが言うと、その上級生は意外そうに目を見開いたようだった。
「ああ……この樹の……」
花を見上げるようにしてその上級生が呟く。
リョーマは制服の埃を軽く払いながら立ち上がり、その上級生の顔を真正面から見た。
「八重桜って言うんスよね?オレ、この花大好きなんス」
「……そうか」
リョーマに視線を戻したその上級生はとても整った顔立ちをしていた。
この年代の頃に見られるような中性的な面立ちというわけではないが、リョーマは、その造形を美しいとさえ思った。
だがその表情はどこか冷たさを感じさせるほど、動かない。
(笑ってくれたらもっと綺麗なんだろうな…)
「そろそろ自分のクラスに行った方がいい。新入生は式の前に一度自分の教室に行くことになっているだろう?」
「ぁ……そっスね」
「クラス分け表は見たのか?案内が必要なら教室まで連れて行くが?」
「いや、いいっス」
リョーマが柔らかく断ると、その上級生は黙ったまま頷いた。
「じゃ」
「ちょっと待て」
リョーマが校舎に向かおうとすると、腕を掴まれた。
「え?」
「髪に花びらが…」
少し強引に引き寄せられて、腕を掴まれたまま空いている手で髪に触れられる。
(ぁ……)
ふわりと、柑橘系のコロンの香りがして、リョーマは思わず目を閉じる。
(このコロンも…あの人とは違う…)
「……取れたぞ」
「ぁ…」
間近で声を掛けられ見上げると、穏やかな瞳に見つめられていた。
「あ、ありがと、ございました」
「いや、引き留めて悪かった。じゃあ…」
甘いテノールに、リョーマの心の奥がざわついた。
「あの、先輩、は…」
「……三年一組、手塚国光」
「手塚、先輩……」
そっと腕を離され、だがリョーマが手塚と名乗った上級生を見つめたままでいると、それまで動かなかった手塚の表情が、ごく僅かに和らいだ。
「またすぐ逢える」
「え…」
「じゃ…」
そう言って手塚はリョーマに背を向け、講堂の方へ歩いて行ってしまった。
(手塚先輩……)
心がざわついたまま静まらない。
手塚とは初めて逢うはずなのに、初めて逢った気がしない。
(何?、この感覚…)
似ている、と思う。
あの空港で感じた「あの人」への想いに。
恋に落ちたわけではないが、心の深い部分を、そっと優しく撫でられるようなくすぐったさがある。
(あの声のせいかな…)
空港で出会った「あの人」の声と、今出会った手塚と名乗る上級生の声は全く違うものだが、リョーマにとってはどちらも心地よい声だった。
リョーマがこんなふうに「声」というものに敏感になったのにはわけがある。
幼い頃、リョーマは高熱を出して一週間ほど寝込んだことがある。高熱が続いたのは三日ほどだったが、その間、父の友人でもある近所の医師がリョーマを診てくれた。
ひどい頭痛と吐き気が続き、もちろん食欲もなく、母親との会話もままならなかった。このまま自分は死んでしまうのではないかとさえ思った。
そんなリョーマを励まし、優しく癒してくれたのは、母や医師の優しい「声」だった。
母の声に名を呼ばれて安らぎを感じ、医師の「大丈夫だよ」という声には安心感を覚えた。
高熱で目を開けることもままならないリョーマの唯一とも言える感覚器官に、二人の声は優しく優しく、触れてくれた。
その二人の「声」は、リョーマの心の治療薬にでもなっていたかのように、高熱でうなされていても不安を感じることはなかった。
その時からリョーマは人の「声」に関心を持つようになった。
相手の「声」の調子で、相手が何を考え、どんな感情を自分に持っているかがだいたいわかるようになった。
だから、例えば相手がリョーマに声を荒げて何かを喚いたとしても、それが「動揺」や「怯え」から来るものならば、リョーマは全く動じなかったし、静かに話 していてもそれが心の底から「怒っている」ものだと感じれば、素直に謝罪した。悲しんでいる時は、さりげなく励ますようにもした。
そんなふうに「声」に関心を持つようになってから、完全にとは行かないが、リョーマは相手の話す「声」で相手の人柄がおおよそ理解できるようにまでなった。
(あの人の声は、ちょっと素っ気なく聞こえるけど、すごく甘くて優しくて…ハスキーなところが落ち着いてるオトナって感じがした…)
あの空港でリョーマを介抱してくれた優しい男の声は、まるで幼い頃自分を診てくれた医師の声のように、リョーマの心に安心感を与えてくれた。
(手塚先輩の声は、やっぱりかなり素っ気ないけど、すごく優しいってわかるし……それに…)
あの綺麗な顔に似合うとてもクリアで甘い声だった、と思う。
(どっちの声も好きだな…)
ふわりと頬を緩ませて、リョーマはまた花を見上げた。
(見つけなきゃ……「あの人」を……早く…)
手塚はまたすぐ逢えると言った。同じ学校で、学年も組もわかっていて、同じ敷地内にいるなら、当然、またすぐにでも会えるだろう。
会いたいと思うならリョーマから会いに行くことだって出来る。
(ぁ……オレ、名乗るの忘れてた…)
もしまた手塚と会った時には、しっかりと自分の名前を伝えなければと思う。
あの甘いクリアな声で名を呼んでもらうのだ。
(なんか…ついてるかも…)
入学式当日に「優しい声」の持ち主と出逢えたことに、リョーマは小さな幸せを感じた。












手塚とは本当に「すぐに」再会した。

手塚と別れてから、またしばらく桜を見ていたリョーマは、危うく遅刻するところだったが、なんとかクラス担任が来る直前に自分の教室に滑り込めた。
そうして式が始まり、新入生入場の爽やかなBGMの中、自分の席に着き、顔を上げて視線を向けたステージ横に、手塚を見つけた。
声は聞こえなかったが、仲間たちに指示を出し、教師連中とも短く会話を交わしている。
「ねぇねぇ、あれが手塚先輩だよね。カッコイイ」
近くに座る女子たちの会話が聞こえてきた。
「アタシ、去年の地区予選見に行ったんだ。すっごく格好良かったよ」
「えー、いいなぁ」
心底羨ましそうに言う声に、手塚の人気は新入生にまで浸透しているほど、生半可なものではないのだとリョーマは感じた。
「でもどっちかって言うと、私は不二先輩の方がいいかな。優しそうだし。手塚先輩って、なんか恐そうじゃない?」
「まあね。でもアタシはそこがいいんだけどー」
まるで芸能人の話をするかのように楽しげに会話する彼女たちの会話が途切れると、リョーマはまた手塚に視線を向けた。
(そういえばチクヨセンって…)
怪訝に思いながら手塚を見つめていると、ふと、目があった。
(ぁ…)
手塚が、小さく笑ってくれた気がする。
だがその手塚の微笑みに気づいたのはリョーマだけではなかった。
「ねぇっ!見た?今!手塚先輩がこっち見てちょっとだけ笑ってくれたよ!」
「見た見た!滅多に笑わないことでも有名なのにね!感動!」
精一杯に声を潜めて、先程の女子たちが歓喜の声を上げる。
「…もう私、手塚先輩のファンになる!」
「え?さっきは不二先輩の方がいいって…」
「手塚先輩ステキ……」
その会話を聴いていて、リョーマは小さく溜息を吐いた。
(ああ…べつに、オレのこと見て笑ったわけじゃないよな……ビックリした……)
出席番号順に座っているのでかなり前の方ではあるが、大勢いる新入生の中から、手塚が自分をあっさりと見つけるはずがない。いや、偶然見つけたとしても、さっきの短いやり取りだけの関係の自分に、あんなふうに微笑んでくれるはずがない。
もう一度、リョーマは手塚を見た。
だが手塚は、その後、一度もリョーマに視線を向けてはくれなかった。







退屈な入学式が終わり、クラスごとのHRも終わってリョーマは今朝見つけた八重桜の樹の下にまた来ていた。
腰を下ろして見上げる空は、朝よりもだいぶ色が濃くなっていて、花とのコントラストがさらに際立って美しい。
(八重桜ってどのくらい保つんだっけ…)
この花は好きだが、花についての知識が深いわけではない。
「桜」の代表的な種であるソメイヨシノのように短期間で散ってしまうのなら、開花している間はなるべくこの樹に会いに来ようと思う。
そんなことを考えながらボンヤリ花を見上げていると、朝のように、また足音が聞こえてきた。
「また会ったな」
「ぁ……手塚先輩…」
手塚が、脇に書類を抱えてリョーマの方へ歩いてきた。
「また花を見に来たのか?」
「そっスよ」
柔らかな口調で問われ、リョーマもほんのりと微笑みながら答える。
「…手塚先輩、生徒会長だったんスね。ちょっとビックリしたっス」
「ああ……」
入学式が進み、「生徒会長から新入生への挨拶」というプログラムで手塚がステージに上がってきた時は、リョーマはとても驚いた。だがそれと同時に、手塚が残した「すぐに会える」という言葉の本当の意味が、漸くわかった気がした。
「もっとビックリすることもあるぞ」
「え?なんスか?」
「………そのうちわかる」
「えー」
焦らされることが好きではないリョーマは、思い切り唇を尖らせて手塚を見上げた。
「今教えてください」
「……」
じっと手塚の瞳を見つめると、小さく見開かれていた手塚の瞳が、柔らかく細められた。
「…どうしても知りたいなら、ひとつ条件を出す」
「え……条件?」
「俺と付き合わないか?」
「は?」
「俺と交際しないかと訊いている」
「………そ、そーゆーシュミなんスか?手塚先輩って…」
「さあ……深く考えたことはない」
「………オレはソーユーシュミないっス」
「だろうな」
「え?」
クスッと小さく笑われて、リョーマは自分が揶揄われたのだと理解した。
「先輩っ、もしかしてアンタ、性格悪くないっスか?」
「うちのレギュラー連中ほどではないと思うが……」
「レギュラー連中?」
「じゃあな」
「ぁ……まだ教えてもらってないっスよ!」
立ち去ろうとする背中に慌てて声を掛けると、手塚がゆっくり振り向く。
「俺を振ったんだから、今は教えてやらない」
「な……っ」
「焦らなくてもすぐにわかることだ。楽しみにしているといい」
「なにそれ」
再びむぅっと唇を尖らせると、手塚がまた笑った。その笑みをリョーマの瞳に残したまま去ってゆく手塚の背を見つめ、リョーマは尖らせていた唇を、ゆっくりと綻ばせる。
(やっぱ…笑うと…すごくいい顔になる……)
端整な顔立ちはそれだけで魅入ってしまいそうになるが、そのクールな表情が軟らかく変わる様は、今まで出会った誰よりも魅力的だと思う。
声もよくて。
顔もよくて。
笑うともっとよくて。
スタイルだって、その辺の芸能人に負けないくらいよくて。
そして、きっと、生徒会長をこなすほど人望も厚くて。
「パーフェクトじゃん」
そんな男に付き合ってくれと言われたら、自分が女子であれば間違いなく頷いていたことだろう。
「ぁ……もしかして、ああ見えて、結構遊んでる、とか……」
今日出会ったばかりの人間にいきなり「付き合え」と言うなんて、普通では考えられないことだ。
しかも、男の自分に。
(性別に関係なく、今まで何人も付き合った人がいるのかも…)
そう考え始めると、今度は何だか腹が立ってきた。「その他大勢」と一緒にされることが、ひどく癪に障る。
(あんなにイイ声してんのに……性格悪いなんて、勿体ない…)
甘さの中に凛とした強さを感じさせる、あのテノール。
付き合えなどと言って揶揄われなければ、きっと「手塚国光」という人間は、リョーマの中で最高の好人物というランク付けがされていただろう。
「勿体ない…」
呟いてから、リョーマは、自分が何について「勿体ない」と思っているのか、ふと考え込んだ。
「?」
何か、モヤモヤしたものが胸に広がっている。
(…よくわかんないけど、なんか、勿体ないんだよ)
自分の感情を上手く整理できないまま、リョーマはまた小さく小さく「勿体ない」と呟いた。










*****










父親が元プロテニスプレーヤーであったこともあり、幼い頃からテニスを身につけてきたリョーマは、強豪と呼ばれるこの学校のテニス部に入ることも、青学に入学した目的のひとつだった。
仮入部期間が始まったと言うことで早速コートに向かおうとしたが、質の悪い上級生に嘘を教えられ、コートに着くまでに時間がかかってしまった。
(大人げないイタズラするよな…)
コートに着いたら着いたで仮入部は明日からだと教えられ、さらにはまた質の悪い連中に掴まり、同級生三人が大金を巻き上げられそうになった。
(何ココ。性格悪い奴らばっかじゃん)
適当に上級生を蹴散らし、先程嘘の道を教えてくれた桃城と名乗る二年生を相手に試合のようなことをしてその日の「部活」は終わった。
家に帰ってきてから父親を相手にコートで憂さ晴らしをしていたリョーマは、ボールを追いかけながら父に尋ねてみた。
「ねえ、あのテニス部、ホントに強いの?」
「強ぇぞ」
「そーは見えなかったんだけど?変なヤツばっかで」
「変なヤツ?」
「嘘つきと、金の亡者?」
「はぁ?…ちゃんとレギュラーの練習見たのか?」
「レギュラーは遠征でいなかったけど」
「レギュラー連中のプレーを見ても、今のと同じ感想なら、この優しいお父さんがババアに文句言いに行ってやる」
「冗談。やめろよ、ハズカシイ」
「はい、アウト〜」
「ちっ」
あまりの苛立ちに、少し肩に力が入ってしまった。
自分でも気づかないうちに「青学テニス部」というものに期待を抱いていたというのが、今日の一件でよくわかった。なぜなら、かなり落胆しているからだ。
「なんだ?今日はもう終いか?」
「………ねえ。……空港に迎えに来てくれていたヒトって、誰?」
睨みつけるように父・南次郎に問うと、南次郎は肩を竦めて溜息を吐いた。
「まぁたその話か。だから、俺からワンセット取れたら教えてやるって言ってンだろうが」
ふふん、と鼻で笑われ、リョーマは唇を噛み締める。
認めたくはないが、今の自分では、父からワンセット取るのは不可能だ。
「……っくしょ…」
「悔しかったらもっと頑張れや」
「………もういいよ」
リョーマは大きく溜息を吐くと、コートに背を向けてスタスタと歩き出した。
「じゃあ、ひとつだけヒントな」
「え?」
「お前が入ろうとしている青学テニス部の現レギュラーだ」
「え!」
リョーマは大きく目を見開いて南次郎を振り返った。
「ちゅ…中学生?」
「ああ」
すっかり高校生だと思い込んでいた。
あの低い声といい、自分を軽々持ち上げた腕の強さといい、何よりあの落ち着いた大人の優しさは、自分とそう変わらない中学生とは思えない。
「マジ?」
「マジ」
疑り深く南次郎に再度尋ねるが、南次郎はニヤニヤしつつも、嘘を言っていない真っ直ぐな瞳をしていた。
「どーだよ青少年。部活がさらに楽しみになっただろう?」
「………まあね」
「もう少しやる気になっただろ?」
「べつに……」
そう言いつつも、リョーマはまたコートに入って構えた。
(明日になったら、あの人に会えるかもしれない…)
あの甘いハスキーボイスをもう一度聴けるのかと思うと、さっきまでの鬱屈とした心が急速に軽く、そして仄かな熱を帯びてゆく。
それはまるで、ほんの一滴の媚薬を、心の奥にそっと落とされたかのように。
(眼鏡、返さなきゃ……)
打ち込まれた南次郎のサーブを力一杯打ち返してから、リョーマはそっと口元を緩めた。












                                                      →          
    




*****************************************
←という方はポチッと(^_^)
そしてこのあとに続く言葉をどうぞお聞かせください…
*****************************************

掲示板はこちらから→
お手紙はこちらから→



20070622