シンデレラをさがせ!


  シンデレラ  





また父の気まぐれが始まったと思った。
数週間前にいきなり日本に帰ると言われたのだ。
自分にとってはあまりよく知らない国へ「帰る」と言われても、目を丸くするだけでどう答えていいのかわからない。
それでも、父と母の故郷である日本へいずれは行くのだろうとわかっていたから、少年は黙って頷いた。
そうして長いフライトを終え、その少年────越前リョーマという────は、母親と一緒に日本へと降り立った。
父は一足先に日本に戻り、住居やリョーマの学校について、いろいろと動いているらしい。
(あの面倒くさがりの親父が……珍しい……)
季節は春だが、大量の雪でも降るのではないかと、リョーマはこっそり溜息を吐いて肩を竦めた。
「リョーマ、ちょっとそこのロビーで待ってて」
「うん」
母親に指差されたロビーに向かい、ちょうど空いている長椅子に腰を下ろす。
「はぁー…」
思わず長い溜息が出た。
飛行機は嫌いではないが、これだけ長時間乗っているとさすがに身体がどこかおかしくなってくる気がする。おまけにロビーには人が多くてうんざりする。
目の前をひっきりなしに人が行き来するせいで、視力の方にまで疲労感が込み上げてきた。
(う……なんか、気分悪い…かも)
実は一昨日から少し風邪気味だったリョーマはアメリカを発つ前に風邪薬を飲んだのだが、それがあまり体質に合わなかったらしく、飛行機の中でも微かな吐き気があった。それを眠ることでなんとか堪えていたのだが、今になってそのしわ寄せが来たのかもしれない。
(トイレ…行った方がいいかな……)
視線だけを動かして辺りを見回すが、なかなかトイレの在処を示すマークを見つけられない。
(あ…れ?)
視界が歪んでいる。
そっと額に手を当ててみるとさほど熱くは感じなかったが、熱がある時には自分の身体全体が熱いので、手と額の温度差がなくなるのは何度も経験している。
「やば…」
熱があるかもしれない、と思った瞬間から、頭痛までしてきた。
頭全体を鷲掴みにされたようにガンガンと痛みが増してくる。
「サイアク……」
母親はまだ戻らない。こんな時に何をしているんだと罵りたくなったが、それを実行に移す気力は、たぶん、もうない。
人目を気にせず、その場で横になろうかと身体を揺らしたその時、誰かが自分の目の前に立つのをリョーマは感じた。
「…?」
「…気分が悪いのか?」
低い、とてもハスキーな男の声だった。だがクールと言うよりは、どこか甘くも感じる声に、リョーマは目を閉じたまま小さく頷いた。
「失礼」
男がリョーマの額に手の平を当てる。
(ぁ……気持ちいい……)
「…相当熱があるな。一人でここに来たのか?」
小さく首を横に振ると、男が立ち上がって辺りを見回しているようだった。
「どこに?」
「…わかんない」
溜息を吐きながら小さく答えると、男も溜息を吐いた。
「…頭痛か?」
「ん……気持ち悪い……」
「トイレ、行くか?」
「歩けない」
男の優しいハスキーボイスがリョーマの警戒心を呆気なく崩してしまう。普段は他人に甘えたりしないのに、身体が弱っているせいか、今だけ、リョーマはひどくこの男に頼りたい気分になった。
「連れてって」
男は少し考えてから「わかった」と言い、リョーマの身体をそっと抱き上げた。
(え?)
いわゆる「お姫様だっこ」と言われる抱き上げられ方をしたことに気づいたが、リョーマには抗う気力も体力も、ない。
「少し歩くから揺れると思うが、このまま、我慢していてくれ」
遠慮がちな男の声に頷き、リョーマは男の胸に頬を擦り寄せた。
(いい匂い…)
男がつけているコロンか何かだろうか。仄かな甘い香りに包まれ、リョーマはほんの少しだけ気分を落ち着かせた。
薄く目を開けて男を見上げると、ボンヤリとした視界の中、男が着ているポロシャツらしき淡いグリーンの色が、まず見えた。そこから視線を上げてゆくと、スッキリと伸びた首筋が見え、繊細な、しかし女性的ではない顎のラインが目に入る。
そこまで見上げたところで、また急に頭痛がひどくなり、リョーマは目をギュッと瞑って顔を顰めた。
「…つらいか?……もう少しだ」
「………」
男の優しいハスキーボイスが、ガンガンと痛む頭の中にスルリと入り込んでくる。
(いい人だなぁ…)
見ず知らずの自分を心配してくれて、こんなふうに我が儘を聞いてトイレにまで連れて行ってくれる。
(きっとモテるんだろうな…)
身体は最悪な状態だが、少しだけ自由な思考回路でそんなことをチラリと考えてみる。
「…ごめん……迷惑……」
呟くようにリョーマがそう言うと、男は少し押し黙ってから「気にするな」と言った。
だが喋ったことでリョーマの吐き気が限界まで来てしまった。
「ヤバ………吐く…」
リョーマの呟きを聴いて男が歩くスピードを上げる。
「十秒待て」
「う…」
ヒンヤリとした狭い空間に入る感じがして、リョーマの身体がそっと下ろされた。
「いいぞ」
「う…ぐっ」
洋式の便器を抱え込むようにして、リョーマは込み上げる苦いものをすべて吐き出した。
吐いている間中、ずっと男が背中をさすってくれている。
(優しい人…)
男の温かな手の平が、リョーマの心の奥も優しく撫でてくれているように思えた。
「…全部出したか?」
優しく問われて、リョーマが小さく頷くと、男はそっとリョーマの身体を起こしてくれた。
「口を濯いだ方がいい」
洗面所に連れてこられるが、水を掬って口に運ぶこともままならない。
思うように動かない身体が疎ましくて、悔しくて、涙さえ滲んでくる。
「……泣くな」
男の熱い手が優しくリョーマの涙を拭う。
「ほら」
男が両手で水を掬い、リョーマの口元に持ってきてくれた。素直に口を開けて水を啜り、口の中をすすいで吐き出す。それを三回ほどくり返してから、リョーマは「アリガト」と言って男に寄りかかった。
「さっきの場所に戻ればいいか?」
「ん…」
痛みの退かない頭に顔を顰めながら頷くと、また抱き上げられた。
「ごめ……」
「謝らなくていい。人として当然のことをしているだけだ」
淡々と話すハスキーボイスに、リョーマは小さな感動さえ覚える。
(フツーはここまでしてくれないよ)
ゆっくりと歩いてくれているのだろう静かな振動がどこか心地よくて、リョーマは目を閉じて男の胸に顔を埋める。
その心地よさが強い眠気に変わり始め、しかし、酷い頭痛にすんなり眠り込むこともできず、夢うつつのような状態でいるリョーマの耳に、母親が自分を呼ぶ声が聞こえた気がした。
「リョーマ!」
(母さん……?)
男が立ち止まったのがわかる。
「あなたは…」
「はい…………です」
「ぁ、じゃあ、主人が言っていた………の………ですか?」
「はい」
「まあ……じゃぁ………を………で……」
男と母親の会話が途切れ途切れに耳に入ってくるが、内容がよくわからない。
ただ、どうやら男は全く無関係というわけではなさそうだというのだけは、リョーマにも何となくわかった。
(じゃあ……また逢えるんだ……この人と……)
「今、誰か…」
「いえ、大丈夫です。このまま…」
男のハスキーボイスが近い。顔を覗き込まれている気がする。だがリョーマは敢えて反応せずに、苦しげな小さい吐息を零してみせた。
「じゃあ、家までお願いしても…?」
「はい」
体調はまだまだ最悪だったが、もう少しこの男と一緒にいられることを、リョーマは心の隅で嬉しく感じていた。

















車の後部座席に乗せられたのは覚えている。
リョーマの隣に男が乗り込んで、リョーマの頭を膝の上に置くようにして寝かせていてくれたことも何となくわかっていた。
熱く優しい手の平が、何度か髪を撫で、時折額の熱を測るように触れてきたのも知っている。
なのに。
「名前、聴いてないの?」
「ええ、ごめんなさい。青学の生徒さんというのだけ聴いてて……」
「なにそれ!…あんなに世話になったのに、お礼も言えないじゃんか!」
「ごめんなさいね。お父さんなら知っているかしら」
母が苦笑しながら視線を明後日の方へ向ける。その「お父さん」は、今は姿が見えない。またふらりとどこかに行っているのだろう。
家に着いて数時間後、なんとか起きられるようになったリョーマは、開口一番に自分を介抱してくれた男について母に問い質した。
名前はなんというのか。
年はいくつなのか。
どこに住んでいるのか。
しかし母親の答えは「青学の生徒さん」だけだった。
青学というのは、リョーマの父・越前南次郎の母校でもあり、リョーマがこれから通うことになる私立の青春学園のことだが、青学は初等部から大学まであり、「生徒さん」だけでは、中等部なのか、高等部なのかもわからない。
(声はすごく低くて、オトナっぽかったから……高校生、かな……)
ふて腐れながらリョーマがあれこれ考えていると、母・倫子が「ああ、そうだわ」と両手を軽くぱちんと鳴らした。
「彼ね、忘れ物していったの」
「忘れ物?」
「ええ。彼が帰ったあと、玄関に置いてあって…」
これなんだけど、と倫子がエプロンのポケットから取り出したのは、黒い太めのフレームの眼鏡。かなりきつい度も入っている。
「?」
怪訝そうにリョーマが受け取ると、倫子が薄く笑った。
「いつか、逢うことがあったら返してあげなきゃね。リョーマが預かっていてくれるかしら?」
「え……それは…べつに……いいけど……」
リョーマは眉を寄せて首を捻った。
(フツー忘れないよ?眼鏡なんて)
身につけていたのだとしたら、近視か乱視か、とにかく彼は視力に問題があるのだろう。だとすれば、眼鏡無しで大丈夫なのだろうか。それとも、本当は眼鏡など必要ない程度なのだろうか。
「何だか時間に追われていたみたいだったから……慌てて置いていっちゃったのかもしれないわね」
「………」
それでも、玄関で眼鏡を外す理由がよくわからない。
「ま、いっか…」
いろいろ疑問はあるが、それはこの眼鏡を返す時にまとめて訊けばいいと思う。
自分の手の中には「彼」の手掛かりがあるのだ。きっとすぐに再会できるに違いない。
「さ、リョーマ、もう寝なさい。まだ熱下がってないんだから。明日病院に行きましょうね」
「はーい」
ベッドに再び身を横たえながら、リョーマは手の中にある眼鏡を見つめて小さく微笑んだ。
(なんか…シンデレラみたい…)
ごついデザインの眼鏡と、あのロマンチックな童話とは程遠いイメージだが、たったひとつの手掛かりを元に、もう一度逢いたい人間を捜すというシチュエーションはぴったりだと思う。
(早く…逢いたいな……もう一度……)
今度はちゃんと目を見て話したい。
そして、あの優しいハスキーボイスで、自分の名前を呼んで欲しい。
(なんか…ドキドキする…)
それはまるでシンデレラを一目見た王子が恋に落ちたように、彼を思い浮かべるたびにリョーマの心拍数が跳ね上がる。
男同士だから「恋に落ちた」わけではないのだろうが、どうしても、彼に、もう一度逢いたい。
(だって…あんなに優しい人、初めて……)
友達になれたらどんなに楽しい日々を送れるだろうか、とリョーマはうっとりと目を閉じる。
(四月になったら、すぐに探すんだ……)
四月になって青学に入学したら、真っ先に彼を見つけ出して今日の礼を言うのだ。
手の中の眼鏡を壊さないようにそっと胸に抱き締めながら、リョーマはゆっくりと眠りに落ちてゆく。

ささやかな幸せに包まれているリョーマは、その眼鏡の持ち主を捜し当てるまでに思いの外長い時間が費やされることを、この時、知る由もなかった。









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20070617