相思相愛


<1>




「ここは…」
開け放たれた門を潜ると、そこは都内にしては豊かな木々の生い茂る公園だった。門から内部へ続く道の右側すぐにはトイレやコインロッカーなどが置かれており、左側には、薄暗闇できちんと判別は出来ないが、銀杏か何かの並木があった。
「クニミツ、あっち」
リョーマが小声で言って前方を指さす。
少し先で四方に分かれている遊歩道を、真っ直ぐ奥へ歩いてゆく南次郎の後ろ姿を見つけた。
手塚とリョーマは顔を見合わせて頷き、充分に距離を取りながら南次郎の後をついていった。
公園内には人気がなく、だが比較的短い間隔で電灯が置かれているので妖しげな雰囲気はない。少し歩いたところに見えてきた屋根のある休憩所を素通りし、南次郎はさらにその奥にある池の近くまで歩いてゆく。
手塚とリョーマは息を潜めて時折道端の木の陰に身を隠し、南次郎を見失わないように注意しながら歩いた。
そして、池の畔で南次郎は足を止めた。
手塚とリョーマはチラリと視線を合わせて小さく頷き、少しずつ近づいて、低木の植え込みの陰にしゃがみ込んで身を隠した。
南次郎は腕を組み、池を見つめたまま動かない。
だがしばらくして、南次郎がふと自分の左側に視線を向けた。足音が近づいてくる。
「南次郎?」
男の声がして、その足音は走り寄るものへと変わった。
「おぅ。久しぶりだな」
「ああ。元気そうだな」
「ま、ボチボチってとこだ」
「そうか…」
それから二人はふっと黙り込んだ。
「クニミツ…」
リョーマが戸惑うような声で言いながら手塚の服を掴む。
「…少し、様子を見ていよう」
「ん……」
湿った風がザワザワと木々の葉を揺らす。
「……は、どうなんだ、南次郎」
風の音に紛れて会話が聞き取りづらかったが、男の口調は優しく、南次郎を気遣っているのがわかる。
「片方は結構ヤバイ感じだが、もう片方は新品同様だ。まだまだいけるぜ」
南次郎の言葉に男は苦笑したようだった。
「……それよりも貴徳、お前、ずいぶん有名人になったもんだな」
「………」
「何で日本に帰ってきたんだ」
南次郎の言葉に、その男──黒川貴徳は口を噤んだ。
「これじゃ、何のために俺らが日本に帰ってきたんだか…」
溜息を吐いて、南次郎が髪を掻き上げる。
「……すまない」
「…で、これからどうするつもりなんだ?」
「うん……そのことで、南次郎には一言言っておこうと思って……」
「待て」
黒川の言葉を、南次郎が途中で制止する。
「誰だ?そこにいるのは」
手塚とリョーマはギクリとして身体を硬直させた。
だが南次郎の視線は、別の方向へ向けられている。
南次郎が視線を向けている木の陰から、数人の男が姿を現した。
「We looked for,and we finally found you. (やっと見つけましたよ)」
「!」
黒川が顔色を変えて後退る。
「Where did you conceal the guinea pig?(モルモットをどこへ隠しましたか?)」
「No.He is not a guinea pig.(違う。彼はモルモットじゃない)」
黒川が反論すると、男たちは薄く笑った。
「Your theory is needless to us.It is your brain, and research report that we needs.」
男が早口で言ったので、手塚にはうまく聞き取れなかった。リョーマに視線を向けると、
「『アンタの考えはどうでもいい。自分たちが必要なのは、アンタの脳みそと研究レポートだ』って」
眉をきつく引き寄せながらも、リョーマは男たちの言葉を手塚に伝えてくれた。
会話の内容から言って、男たちが黒川を追ってアメリカの研究機関から来たのだろうことは明らかだ。
手塚は、あの教会の牧師が『危害が及ぶかもしれない』と言っていたのを思い出した。
(やはり、ただの研究機関ではないのか…?)
男たちは『黒ずくめ』とまでは行かないが、大柄な身体をかっちりとしたスーツに包み、髪は清潔に短く刈り上げられている。
マフィアや暴力団と言うよりは、軍人に近い風貌だ。
(まさか…アメリカの…)
「Please」
リーダーらしき男が黒川に近づいてゆく。
「…get back with us.」
「う、あっ」
口調は丁寧だが、男は凄まじい力で黒川の腕を掴んだようだった。
「ちょっと待てや」
黒川の腕を掴む男の腕を、南次郎が掴んだ。
「!」
男の腕がギリギリと捩り上げられてゆく。慌てて南次郎の腕を振り解き、男は数歩後退った。
「…コイツはべつに、アンタらに隠し事をしているわけじゃねぇよ。用が済んだら、ちゃんと帰るつもりでいるさ」
「……?」
男は南次郎の顔をしげしげと見つめ、ふいに思い出したように「Oh」と声を上げた。
「…SAMURAI NANJIRO」
「あー違う違う。俺はただの通りすがり」
片手をパタパタと振って南次郎は溜息を吐く。
「サムライ南次郎はアメリカの田舎で暮らしているんだろう?俺は別人だ」
外国人相手に日本語で通す南次郎に、リョーマは溜息を吐きながら「何やってんだよ親父」と苦々しく呟いた。
「コイツだってべつに帰らないとは言ってねぇだろ。用事が済むまでちょっとくらい待っててやれよ。それとも何か?お前さんが早く家に帰ってママに会いたいのか?」
南次郎がふふんと鼻で笑うと、男もまた薄く嗤った。
「人を食ったような態度は選手時代と変わりませんね、Mr.越前」
「………日本語出来ンじゃねぇか」
「少々ね」
男は肩を竦めてまた嗤う。
「Mr.越前。あなたがここにいらっしゃるなら話は早い。あなたの『息子』はどこにいますか?」
ギクリと、リョーマの身体が揺れる。手塚は何も言わずにリョーマの肩をそっと抱いた。
「…家出しちまったよ。見つけたら俺にも教えてくれねぇか?」
「………」
男が溜息を吐いて肩を竦めた。
「オレを……どこに連れて行く気なんだろう…」
小さく小さく呟いたリョーマの言葉に、手塚は微かに眉を寄せた。
(「どこへ」連れて行かれるかを知らない…?)
「Freeze」
唐突に、手塚とリョーマの背後で声がした。
「な…」
手塚が振り返ろうとすると、背中に何か固いものが突きつけられた。
「Stand up」
手塚とリョーマはそっと視線を合わせて小さく頷き、ゆっくりと立ち上がった。すぐに背中を手で押され、二人は南次郎たちのもとへと歩かされる。
南次郎がこちらに視線を向け、顔を顰めて小さく溜息を吐く。
「Mr.越前、こちらはお知り合いですか?」
「………さあね」
とぼける南次郎の横で、久しぶりの再会に黒川は目を見開いていた。
「君は……」
「黒川さん…」
「大きくなって…」
黒川が目を細めてリョーマを見つめる。先日手塚が病院で見かけた時よりも、幾分窶れたような印象がある。
だがそんな黒川を見て、男がニヤリと笑った。
「これはこれは、自分から来てくれるとは助かりました。Mr.黒川と一緒に戻りましょう、越前Jr.」
「No way!」
伸ばされた男の手をリョーマが振り払う。咄嗟に手塚がリョーマを抱き寄せると、背中にまた固いものが突きつけられたが、手塚は構わずにリョーマをしっかりと胸に抱き込んだ。
「君は?」
日本語でそう言い、男が訝しげに手塚を見る。
手塚が黙ったまま男を睨むと、男は肩を竦めてやれやれといったふうに両手を上げてみせた。
「手荒なことはしたくなかったのですが…」
男が手塚の背後にいる部下に視線を送る。次の瞬間、手塚の身体がリョーマから引き離された。
「っ!」
「クニミツ!」
男の部下に左腕を掴まれ、手塚が顔を顰める。まだ自由な右手でリョーマに手を伸ばそうとするが、そこで手塚は、自分の身体の違和感に気づいた。
(肩が……?)
左肩が巧く動かなかった。男の部下に抑えつけられているせいかと思ったが、それだけではなく、何か分厚い粘土を貼り付けられたように感覚が鈍く、鈍痛が走る。
「クニミツ!」
「く…っ」
左腕を捩り上げられ、手塚は地面に膝をつくように崩れ落ちる。
「クニミツ!クニミツを離せ!」
「It's up to you.」
リョーマの耳元に「それは君次第だよ」と男が囁く。
顔を強ばらせて男を見上げるリョーマに、男が手を伸ばそうとした瞬間、黒川が叫んだ。
「It is not him!」
彼は違う、と。
男は黒川の言葉に眉をつり上げる。
「……What's that ?(何だって?)」
「貴徳っ」
南次郎が低い声で制するが、黒川は南次郎をチラリと見遣って首を横に振った。
「リョーマくんにこれ以上迷惑をかけるつもりはないよ」
そう言って小さく笑うと、黒川は男に向かって言った。
「He is not an experiment body.It is not in Japan.(彼は実験体じゃない。実験体は、日本にはいない)」
黒川の言葉に、男はきつく眉を寄せて黙り込んだ。しかし、ゆっくりと黒川に歩み寄りながら、男は唸るように言った。
「……You mean it ?」
真偽を問われ、しっかりと黒川が頷く。その横で、南次郎が深い溜息を吐いた。
「親父……黒川さん……どういうこと…?」
静まった場で、最初に声を発したのはリョーマだった。手塚も少し乱暴に解放され、すぐにリョーマの傍に戻る。
「ちゃんと言ってあげていなくてごめんね、リョーマくん。君は、南次郎の細胞から作ったクローンじゃないよ」
「!」
リョーマの喉がヒュッと音を立てて身体が強ばる。だがすぐに全身から力が抜けるように、手塚の腕の中に倒れ込んだ。
黒川がまた男を振り返る。
「I apologize for bothering.I get back with you.(お手数をおかけしました。あなた方と一緒に戻ります)」
「…Where is the experiment body if it is true ?(…それが本当なら、実験体はどこに?)」
「I don’t know really.I also am looking for him.(わかりません。私も探しているんです)」
黒川の言葉に男は眉を寄せた。
「Do you think that I believe it?(信じると思いますか?)」
「If his DNA is examined, it understands at once. (彼のDNAを調べてみればすぐにわかることです)」
男はまた暫し黙り込んでから、大きく溜息を吐き、手を挙げて合図を送り、部下たちを自分の後ろに下がらせた。
「Certainly, he is different from the appearance written in the report.(確かに、彼は報告書に書いてあった風貌と違いますね)」
呟くように男が言うと、黒川は頷いて、再びリョーマへ視線を向けた。
「君は、正真正銘、南次郎と倫子の息子だよ。いつから僕の研究のことを知っていたのかは知らないけど、ずっと悩んでいたんだろう?すまなかった」
「でも……」
手塚に身体を支えられたままリョーマが言い募ろうとすると、黒川が片手を上げてリョーマの言葉を遮った。
「君は何も知らなくていいんだよ。ここでのことも、早く忘れてしまった方がいい」
「………」
リョーマは唇を噛み締め、きつく眉を寄せた。
「黒川さん」
手塚が静かに黒川に声を掛ける。
「…あなたは、リョーマにきちんと説明する義務があるのではないですか?何も知らなくていい、すべて忘れろと言うのは、あまりにも勝手だ。コイツが今までどんなに傷ついてきたか、あなたはわかっていない」
「………」
黒川は一瞬大きく目を見開き、微かに苦笑しながら俯いて首を横に振った。
「その通りですね。あの子を作り出したのも、すべて僕のエゴだ。リョーマくんにも、南次郎にも、結局つらい思いをさせてしまった」
黒川は男を振り返り「もう少し話していてもいいか」と尋ねた。男は肩を竦め、「飛行機の手配はまだこれからだ」と言った。遠回しに了解してもらい、黒川は男に小さく礼を言う。
「……南次郎には…君のお父さんには、いつも支えてもらっていた。南次郎がいたから、僕は今まで生きてこられたと言ってもいい。……南次郎は、僕の一番大切な親友なんだ」
リョーマの目を真っ直ぐ見つめながら、黒川が穏やかに話す。
「だから、南次郎が怪我で大好きなテニスができなくなるかもしれないと聞かされた時に、僕は、何とかして南次郎にテニスを続けさせてやりたいと思った。そして、僕の研究が進めば、それは可能だと、思ってしまったんだ」
手塚は小さく眉を寄せて、南次郎に視線を向けた。南次郎はこちらに背を向け、真っ暗な池の水面を見つめている。
「南次郎には、ただ『実験に協力して欲しい』とだけ言って、皮膚や髪や、血液などを提供してもらった。そこから体細胞を取り出して……もう一人の南次郎を作り出そうと、躍起になった」
「………」
リョーマが手塚の服をたぐり寄せるようにギュッと掴む。手塚は、リョーマの肩をしっかりと抱いてやった。
「……何千回も実験を繰り返して……何度も何度も失敗を重ねて……少しだけ遺伝子に改良を加えたら、漸く一例だけ、成功したんだ」
「それは………オレじゃないなら、一体……?」
その問いかけには、黒川は答えなかった。
「……最初は、それが『人間』だとは、あまり感じていなかった。南次郎の身体のスペアを作りたいと考えていただけだったからね。……でもその考えは、『彼』が生まれた瞬間に、とてつもない間違いだと気づいた」
「………」
「『彼』は人間だった。他の子と何も変わらず、よく泣いて、よく眠って、僕の手からもミルクを飲んだよ」
黒川がきつく眉を寄せる。
「『彼』が笑ってくれた時には、自分が父親になった気持ちになった。このまま、研究は失敗だったと言って彼を密かに引き取り、二人で静かに暮らそうかと思ったほどだ。でも…」
黒川が自分の心を落ち着けるように、一呼吸おいた。
「でも『彼』は…他の子とは違った。僕が手を加えたせいで、成長の速度が日に日に加速していくようになった。そのままでは彼の身体のそれぞれの成長速度が 揃わずに変調を来すことは必至で、生命すら危ぶまれた。そこで僕は研究所に留まり、自分が改良した遺伝子とは逆の作用を及ぼす薬を急遽作って、『彼』に与 えた。そのおかげで『彼』の成長は何とかバランスを保ちながら進むようになった。それでも他の子よりだいぶ早いものになってしまったけれどね」
南次郎がゆっくりと動き、煙草を取り出して口に銜え、火をつける。そのライターの音が、その場にいた皆の耳に、静かに響いた。
「…今から10年くらい前……『彼』の身体と知能が、日本で言う小学校低学年程度にまでなった頃…『彼』の存在が、南次郎に知られてしまったんだ」
「それって…親父が引退した頃……?」
リョーマの言葉に黒川は頷いた。
「僕が…南次郎のために『彼』を作り出したとわかった途端、南次郎は引退を決めた。まだまだ選手として続けられただろうに……南次郎は、プロテニスプレーヤーという肩書きには未練などないのだと、僕に証明するために、あっさり引退してしまったんだ」
「…親父…」
リョーマが視線を向けた先で、南次郎はふぅと白い煙を長く吐き出した。
「そうして南次郎は『彼』を引き取って、一緒に暮らしたいと言い出した。その頃には『彼』も自分の境遇には薄々気づいていたらしくて、南次郎のもとでテニスを学びたいと、そう言いだした」
「え……じゃあ……」
黒川が頷く。
「環境を変えてデータを取りたいと適当に言って、『彼』を南次郎に預けた。リョーマくんは小さかったから覚えていないだろうけど……君は『彼』としばらく一緒に暮らしていたんだよ」
「ぁ……知って…る……オレ、覚えてる……」
「リョーマ?」
手塚の腕にしがみつきながら、リョーマはゆっくりと手塚を見上げた。
「すごく小さい頃…親父と、母さんと、もう一人誰かいたんだ。一緒にテニスしたり、教会の神父さんと三人で遊んだり……よく喧嘩もしたから、その時に親父が…」
「喧嘩両成敗、か……?」
「うん、そう!喧嘩するといつも親父がそう言ってオレたち両方にデコピンして……」
手塚の言葉にリョーマは瞳を輝かせた。靄が掛かっていた記憶がスッキリと晴れ渡ったかのように。
「ぁ……でも……急にいなくなったんだ……その時から神父さんも具合が悪くなって……」
「……貴徳の研究が、とある筋に目をつけられて、今日みたいに『お迎え』が来ちまったんだよ」
池の方を向いたまま、南次郎が溜息混じりに言った。
「じゃあ……無理矢理……?」
「ジジィが教会で匿ってくれていたんだが………護りきれなかった……」
南次郎が溜息を誤魔化すように、また長く煙を吐き出す。
「そのことでジジィは責任を感じて倒れちまって……そのまま逝っちまった……」
「………そうか……オレが洗礼を受ける予定だった日に家にたくさん人が来ていたのって……」
リョーマが以前話してくれた「洗礼を受けたかったが出来なかった」という話を手塚は思い出した。あの時言葉を濁したのは、リョーマ自身記憶も曖昧で、しかも断念せざるを得なかった理由を理解していなかったからだったのだろう。
「…研究所に連れ戻された『彼』は四六時中監視下に置かれ、毎日様々なデータを取られ、あまり笑わなくなった。それでも、テニスをすることだけは許されていたから、……『彼』はコートに立っている時だけ、普通の少年でいられたのだと思う」
「………」
南次郎は小さく舌打ちをして携帯用の吸い殻入れに吸いかけの煙草を押し込んだ。しかしすぐにまた新しい煙草を取り出して口に銜え、火をつける。
「だけど『彼』は、ただ毎日淡々と過ごしているわけじゃなかったんだ。監視の隙を見て研究所の構造を調べ、業者用の出入り口を見つけて、警備の薄い時間帯を密かに調べ上げていた」
背を向けたままの南次郎がククッと小さく笑った。
「そしてある日、『彼』が私のところに来て奇妙なことを言ったんだ。『この目印をアンタの車に貼っていてくれ。そうすれば、いつかどこかでアンタの車を見つけて、必ず声を掛けるから』と」
「……それが、あのステッカーなんですか?」
手塚は、黒川の高級そうな車に貼られた不似合いなステッカーを思い出した。
黒川は微笑みながら頷いた。
「そのステッカーを『彼』と一緒に車に貼って、その晩は久しぶりに二人きりで夕食を摂った。監視カメラで見張られてはいたけど、『彼』はよく笑ってくれて、とても楽しい夕食だった。……だがその翌朝、『彼』は研究所から姿を消していた」
しん、とその場にいた全員が黙り込んだ。木々を揺らしていた風も、止んだ。
「あっはははっ」
重くなりかけた空気を、南次郎の大袈裟な笑い声が吹き飛ばした。
「こいつぁ、傑作だ」
「な…南次郎?」
「親父…?」
全員が驚いて目を丸くしていると、南次郎が肩を揺らしながらゆっくりと振り返った。
「さすがとしか言いようがねぇな。俺が同じ立場だったら同じことをするだろうよ」
「南次郎…」
黒川が複雑そうに顔を歪める。だが南次郎は、そんな黒川を見て優しく、ふわりと笑った。
「…だったら、コイツらと一緒に薄暗いラボに引きこもっている場合じゃねぇな貴徳。『アイツ』はお前を待っているぜ?」
「え?」
「わからねぇのか?『アイツ』は、研究所じゃないところで、また会おうって言ったんだ」
「ぁ……」
黒川が大きく目を見開く。
「行け、貴徳!……そしてもう二度と、俺の前に現れるんじゃねぇぞ!」
「南次郎…」
黒川が瞳を揺らす。
突き放すような言葉とは逆に、南次郎の瞳はどこまでも優しい。
「元気でな。『アイツ』にもよろしく言ってくれ」
何か言いかけ、だが口を噤み、黒川は頷いた。
多くを語らずとも、互いの一番伝えたい想いを分かり合える関係なのだと、二人を見つめていた手塚は自分の親友たちをふと思い浮かべた。
そうして、何かを決心するようにもう一度頷き、黒川が踵を返して一気に走り出す。
「っ!」
黙って事の成り行きを見ていた男が素早く反応する。だがその男の目の前に、南次郎が立ち塞がった。
無言で南次郎を押し退けようとする男に、南次郎は薄く笑いを浮かべてこう言った。
「なぁ、最近就任したお前たちのボスの趣味、知ってるか?」
「………?」
「酒や煙草は全くやらねぇヤツだが、三度の飯より好きなスポーツがある」
訝しげに向けられる男の視線を、南次郎は楽しげに笑いながら受け止める。
「テニスだ」
男が目を見開いて南次郎を凝視する。
「テニスクラブに来ていたヤツに、あの美人のカミさんを紹介してやったのは俺だぜ?……これ以上貴徳と『アイツ』に何かしやがったら、お前の首が飛ぶと思え」
穏やかな口調とは裏腹に、南次郎の瞳は男を突き刺すような鋭い光りを湛えていた。
「そんな脅しは利かない」
だが男も百戦錬磨のプロらしく、南次郎の瞳を平然と受け止め、片手を上げて部下たちに黒川を追わせようとした。
その時、手塚の背後からバタバタと数人の足音が近づくのが聞こえた。
「大丈夫ですかっ!」
驚いて手塚が振り返ると、数人の警察官が駆け寄ってきた。
「拳銃を持った怪しい人物がいると通報を受けました!怪我はないですか?」
「え?…いえ…」
「逃げたぞ!あっちだ!」
声のした方に視線を向けると、さっきまですぐ傍にいた男が警官たちから逃れるように、黒川が消えた方とは別の方向へ部下たちと共に散り散りに走ってゆくのが見えた。
(やはり公での活動ではないというわけか…)
万が一にも男たちが掴まって事実が知れ渡ったならば、人道的観念から黒川の研究の内容も、そしてその研究を半ば強制的に推し進めさせていた機関へも、非難が集中するのは必至であるし、それが引き金となって国際問題にさえなりかねない。
今は、黒川を追うよりも日本の警察に掴まらないことの方が先決なのだろう。
「何の騒ぎかしらねぇが、ナイスタイミングだな」
南次郎もどこか拍子抜けしたような表情でポリポリと頭を掻いている。
しかしなぜここに警官が雪崩れ込んできたのか訳がわからず、手塚が傍にいる警官に事情を聞こうとすると、その警官の後ろから、先程手塚たちが乗ったタクシーの運転手が顔を出した。
「あなたは…!」
「ぁ、君たち、無事だったんだね!よかった!」
若い運転手は、心底安堵したように息を吐いて脱力した。
「あの…?」
「ぁ、ああ、実は君たちを下ろしてから、ちょっと気になって僕も車を降りて様子を見に行ったんだよ。そうしたら、君たちの後ろから、なんかヤバそうな大男 がそっとついて行くじゃないか。おまけに手にはピストルみたいなのを持っているのが見えて、慌てて引き返してタクシーの無線を使って会社から警察に通報し てもらったんだ」
「そうでしたか……ありがとうございます」
タクシーに乗っていた時は、刑事ドラマと勘違いでもしているのではないかというこの運転手の様子に閉口していた手塚だが、その好奇心が今、手塚たちを、そして黒川を助ける結果となったのだ。
偶然飛び乗ったタクシーがこの好奇心旺盛な若い運転手の車でよかったと、手塚は小さな幸運に心から感謝した。
「あなたは彼らの保護者ですか?」
南次郎が警官二人に囲まれて職務質問とまではいかないものの、あれこれと尋ねられている。
「そうそう。俺は、そのちっこい方の青少年の父です。ちょっと散歩してたら変な外国人に絡まれて大変でした」
迫真の演技で南次郎がほっと安堵の溜息をついてみせる。先程、あの男相手に鋭い視線を向けていた人間と同一人物とは思えない豹変振りだった。
「あのタクシー乗務員の話では、あなたと彼らは別々にここに来たようですが?」
「刑事ごっこですよ〜。ほら、よくテレビでやるじゃないですか『前の車を追ってください』ってタクシーに乗るヤツ。どーしても一度そういうのやってみたいってコイツらが言うから、ちょっと付き合ってやったんですよ。な、手塚?」
いきなり話を振られて面食らったが、手塚は「はい」と言って神妙に頷いてみせる。
「ご迷惑をおかけしました。でも本当にあんな外国人たちに囲まれてしまって驚きました。来てくださってありがとうございました」
手塚が適当に話を合わせて警官たちに頭を下げると、警官はどうやら南次郎には不審な点はないと判断したらしく、「一応書類作りますから、車の方へ」と 言って南次郎を連れて行った。「しょうがねぇな」と警官に聞こえないように小さく呟いてから南次郎が歩き出し、だがふと、足を止めて振り返った。
「あぁ、運転手さん、ついでと言っちゃあ何だが、コイツらを駅まで運んでやってくれませんかねぇ。タクシー代は俺が払いますんで」
「はい、わかりました。お送りします。タクシー代は結構ですよ。大変だったんだし」
人の好い運転手はニコニコと笑いながら快諾した。
「おい、リョーマ」
「え……」
「今日は手塚と一緒に帰れ。まだいろいろ話したいことがあるんじゃねぇか?全部話して、スッキリしてこい」
「いいの…?」
南次郎はニヤリと笑うと、リョーマと手塚の間に割り込み、二人の肩を抱き寄せて声を潜めた。
「ま、明日ちゃんと学校に行けるように、ほどほどにな」
「え」
「な?」
頬を真っ赤に染めるリョーマを見てまたニヤリと笑い、南次郎が二人の背中をトン、と軽く叩いた。
「いいねぇ、相思相愛。青春だな、リョーマ」
「何言ってんだよ!バカ親父!」
声をたてて笑う南次郎の背中に、手塚は少し迷ってから声を掛ける。
「南次郎さん」
「……ん?」
「黒川さんは…あれで、よかったんでしょうか」
南次郎は一瞬口を噤むと、ゆっくり瞬きしてから、ふっと微笑んだ。
「幸せの感じ方は人それぞれだ。誰が何と言おうが、本人が幸せならそれでいいんだよ。大事なのは、過去よりも現在。今、息をしているこの瞬間だろう?」
「………はい」
「いろいろ複雑なことは、お前がもっとオトナになってから考えてみりゃいい。今は、他人の幸せを案じるより自分の幸せを大事にしな」
「はい」
「それに……これからも、アイツは一人じゃねぇからな…」
南次郎が言う『アイツ』とは、黒川のことを言ったのだろうが、それだけではなく、黒川によって生み出された存在に向けて言った言葉のようにも、手塚には聞こえた。
黒川が話してくれた短い話の中でも、黒川がどんなに『彼』のことを大切に思っているのかが伝わってきたし、『彼』も黒川を慕っているのがわかった。
出会いがどうであれ、彼らには、確かに温かな絆が生まれているのだ。
大切に思う人がいて。
大切に思ってくれる人がいて。
例えどんなに離れて暮らしていても、互いを想い合い、心の奥で繋がる相手がいれば、それだけで人は強く生きてゆける。
願わくは、黒川と『彼』が、一日でも早く再会してくれること。そしてその時には、強い絆で結ばれた家族として、穏やかで幸せな日々を手に入れてくれることを心から祈る。
「じゃ、悪いが今夜はそのワガママ坊やのオモリ、頼むな」
「…はい」
真剣な瞳で手塚が頷くと、南次郎は小さく笑ってから背を向け、少し先で待っている警官たちのもとへと歩いていった。
「……行こうか、リョーマ」
「うん」
リョーマの肩を抱き寄せると、リョーマが揺れる瞳で見上げてくる。
「オレ…クニミツに話したいことも、訊きたいことも、たくさんあるよ……」
「ん……だから、俺の家に、来てくれるか?」
そっと額を擦り合わせてそう囁くと、リョーマは頬をほんのりと染めて頷いた。
「じゃあ、駅まで送るよ。タクシーへどうぞ」
二人の甘い雰囲気にはまるで気づかないらしい運転手が、ニッコリと微笑みながら声を掛けてきた。
「お手数をおかけします、よろしくお願いします」
手塚と一緒にリョーマもペコリと頭を下げると、運転手は「はい」と気のいい返事をしてまた笑った。
木々を揺らして、また風が吹き抜ける。
つい先程まで目の前で繰り広げられていた光景に、手塚は未だ、あまり現実感を感じることが出来ないでいる。
たった一日のうちにあまりに多くのことがありすぎて、自分の思考回路がオーバーヒート気味なのかもしれないと、手塚は苦笑する。
それでも。
(俺の傍に、リョーマがいる…)
そのことだけは紛れもなく、確かな事実で。
そして、そのことだけはこれから先も、決して変わることのない現実であって欲しい。
「ん?なに?クニミツ」
思わずグッと抱き寄せてしまったリョーマに小さく問われ、手塚は柔らかく微笑み返す。
「…俺は恵まれているな」
「え?」
「温かな家族と、優しい友人たちに囲まれ、平和なこの国で穏やかに暮らしていられる」
「………」
「何より、傍に、お前がいる」
「うん…」
リョーマが、どこか切なげに微笑んで頷く。
自分が南次郎のクローンではないとわかっても、いや、わかったからこそ、リョーマの心に新たな痛みも生まれているのだろう。
(その痛みを、俺が拭ってやりたい)
リョーマが幸せであるように。
いつも、心からの笑顔を浮かべていられるように。
初めて出逢った時に、手塚の心の濁りを拭い去ってくれたように、今度は自分が、すべての憂いや苦痛からリョーマを護ってやりたい。
(きっとこの想いが「愛する」ということなんだろう)
恋愛経験が皆無な自分の考えは、もしかしたらとても稚拙で浅はかかもしれない。それでも、この想いが『愛』ではないというなら、『愛』という言葉の本当の意味などに興味はない。
なぜなら、リョーマに対して抱くこの感情以上に熱く、激しく、そして崇高なものなどないからだ。
タクシーの後部座席にリョーマを先に座らせてから手塚もその横に滑り込む。
「お願いします」
「はい」
運転手がメーターを「回送」にして車を発進させる。
座席に座ると同時にしっかりと握り合った手の平にリョーマの温もりを感じて、手塚はひどく穏やかな、満ち足りた気分になった。
南次郎の車を追いかけている時には気づかなかったが、車内には運転手の趣味なのであろう軽快なスイングジャズが、程良い音量で流されている。
あまりにもいろいろなことがありすぎた一日が、ゆっくりと、夜の静けさの中に溶けていくような気がした。












                                                         

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次回はいよいよ…「警告付き」vvv…でしょう………ふふふ(妖笑)




20070420