傷 跡


<3>




後ろ髪を引かれる思いで手塚はコートを後にした。
大石が不審がるだろうからと、リョーマは苦笑しながら手塚の背中を押してくれたのだ。
別れ際、「あとで電話する」と約束はしたが、手塚の心はリョーマへの甘い想いで満ちていて、本当はすぐにも強く抱き合いたかった。
だが、肘の具合が気になるのも確かだった。
もちろんリョーマには言わなかったが、100%に近い力で戦っていたために、久しぶりに酷使された肘が少し熱を持っている。周辺の筋も張っている気がした。
「これから病院に寄ってもいいか?」
駅の改札で待っていてくれた大石と電車に乗り込んでから確認すると、「無理するからだ」と叱られた。
肘が壊れるかもしれないという覚悟はしていた。例えそうなっても、リョーマに伝えたい想いが、手塚にはあった。
だが、やっと自分のテニスをしようと目覚めてくれたリョーマと、同じコートに立てなくなるのはつらい。
そう考えてから、手塚は、ふと、リョーマの父・越前南次郎のことを思い出した。
(どんな思いで引退を決めたのだろう…)
あと一息で頂点を取れる選手だった。いや、あのまま続けていれば間違いなく、サムライ南次郎は頂点を手にしていたはずだった。
(怪我、か…)
しかし、リョーマをあそこまで鍛え上げていることを思えば、「実戦は無理」と言うだけで、動けなくなるような怪我や病気ではないのだろう。
(黒川氏が会いに行った時にすでに身体の不調のことを打ち明けていたとするなら……)
彼らが再会してから南次郎が引退を決めるまでは数年あったはずだ。黒川氏の研究は「間に合わなかった」ということなのだろうか。
(やはり……直接会って話をしなければならないな…)
直接南次郎と会って話したところで、すぐには本当のことは聞き出せないだろう。それどころか、追及を逃れるために、リョーマを連れて手塚の手の届かないところに行ってしまう可能性だってある。
もしそうなったら。
「………」
リョーマが自分の傍からいなくなると考えただけで、手塚の心は恐怖に震える。
(失えない。お前だけは、絶対に、失いたくない…)
「聞いてるのか、手塚?」
大石が話していた内容は全く聞こえてはいなかったが、曖昧に返事をしてから、手塚は窓の外に目を向ける。
(いざとなったら、リョーマ……俺はお前を攫うぞ…)
橙黄色に変わり始めた空を睨むように見つめながら、手塚は唇をひき結んだ。








病院に到着し、早速章高医師に診察してもらうことにする。
肘を触診した途端、章高の表情が曇るのを見て、手塚は小さく眉を寄せる。
「先生……」
「……零式ドロップショットは何回打った?」
「正確には覚えていませんが……数回、打ちました」
「………」
章高は深く溜息を吐くと、カルテに何やら書き込み、手塚の瞳を真っ直ぐに見た。
「二、三日は絶対にテニスは禁止。出来れば体育の授業も腕を使うものは見学にしなさい」
「………はい」
「いつもの塗り薬と、もう一種類炎症を抑える飲み薬を出すから。それと今夜は湯船で温まるのは控えて、寝る時も必ず湿布をするように」
「はい」
章高は手早く手塚の肘に湿布を貼り、包帯で固定した。
「ありがとうございました」
袖を直しながら手塚が神妙に礼を言うと、章高がもう一度溜息を吐いた。
「……昨日、黒川から電話があったよ」
「え…っ」
驚いて顔を上げると、章高が苦笑した。
「越前くんに会いたいと…ああ、越前南次郎くんに、だが……そう言っていたよ。連絡先を全く知らないようだったから…少し悩んだんだが、電話番号だけ、教えておいた」
「……そうですか」
「…今日はあまり深く訊こうとしないね。君の中ではもう解決したのかな?」
「いえ……むしろ、今の方が…」
手塚が視線を落とすと、章高も苦笑して溜息を吐く。
「……黒川も……いろいろとつらいのかもしれないな……」
「黒川さんも…?」
「大切な人を守りたいという彼の純粋な想いが、彼本人の望まないような形になっていこうとしている。……研究者と言うよりは、一個人として、彼も苦しんでいることだろう」
「………ですが、一番苦しいのは、黒川さんの研究によって生み出された存在でしょう」
「……そうだね。確かにそうだ…」
静かに頷く章高を見て、手塚は、章高も黒川の実験によって「何が」生み出されたのかを知っているのだと確信した。
「…では、これで失礼します」
「ああ。また一週間ほどしたら来なさい」
「はい。ありがとうございました」
一礼をして診察室を出ると、大石が心配そうな顔で走り寄ってきた。
「手塚!どうだった?」
「…しばらくテニスは禁止だと言われたが……大丈夫だ」
「お前の『大丈夫』は信用できないよ」
顔を顰めて溜息を零す大石を見て、手塚は苦笑した。
「いつも心配させてすまない、大石。……今日の越前との試合のことは、みんなには黙っていてくれ」
「ああ。それは……そうするつもりだったけど……」
「ありがとう」
「なぁ、手塚…」
大石の声のトーンが少し下がったのを感じて、手塚は改めて大石に視線を向けた。
「青学の行く末を思えば越前に思い入れが強くなるのもわかるけど…もう少し、自分のことも大切にしてくれよ」
「……」
「それとも、テニスプレイヤーとしてだけじゃなく、越前はお前にとって特別なのか?」
手塚は内心ギクリとした。
大石の言う「特別」がどんなことを意味するのかはわからないが、肯定すべきなのか、否定すべきなのか、迷う。
黙り込んでしまった手塚を見て、大石はクスッと小さく笑った。
「…今日のお前たち、試合の後半はお前が一方的だったけど、二人ともどこか楽しそうだったな」
「え…」
「お前が越前のこと、本当に心配しているのがよくわかったし、越前もお前のことはすごく信頼しているみたいだよな」
「……」
「でも、お前のことを心配している俺の存在のことも、たまには思い出してくれるとありがたいんだけど?」
「ぁ……」
「何かあったら、どんなことでもいいから相談してくれよ、手塚。テニス以外のことでも、いつだって俺はお前の味方だからさ」
「大石…」
「おっと、俺だけじゃなかったかな。英二も、不二も、乾も、タカさんも、口には出さないけど、みんなお前のこと心配してるよ。同じように越前のことも。特 に不二や乾はお前の体調が万全でないことにも薄々気づいているし、越前が心に何かの傷を負っているのも感じてる。お前も越前も、どこか一人で抱え込むよう な性格しているから、気が気じゃないんだ」
「…ありがとう」
手塚は柔らかく微笑みながら大石の瞳を真っ直ぐ見つめる。
「…いつか、話せる時が来たら話す。でも今は…俺たちのことは、黙って見守っていて欲しい」
今の、手塚の正直な想いを伝えると、大石は少しの間沈黙してから、ふわりと笑った。
「わかったよ、手塚。でも、助けがいる時は遠慮するなよ?」
「ああ」
手塚も微笑み返すと、大石は満足げにまた笑った。
リョーマのためなら、全世界を敵に回しても構わないと思っていた。
だが自分には、こんなにも心強い友がいたのだと、手塚は胸に熱いものが込み上げてくるのを感じる。
そして、その熱い想いに、手塚はある決意をした。
(越前の家に行こう)
正面から南次郎に問いかけてみよう。
かわされても、拒絶されても、怯まずに、真っ直ぐこの想いで挑んでみよう。
その結果、リョーマや自分が望まない事実がわかってしまったとしても、自分のリョーマへの想いは決して変わらないことをリョーマに伝えよう。
事実は事実、もう変えることは出来ない。
大切なのは、その事実をどう受け止め、昇華し、糧にしていくかだ。
(護るだけでは前には進めない)
傷つくとわかっていても、越えなければならない壁がある。だったら、壁の前で立ち止まらずに、その壁の向こうの景色を目にしてから、その先の道のことを考えればいい。
例え心に傷を負っても、リョーマと二人でいられるなら、その傷跡さえ想いの証になる。
「大石、今日はありがとう。竜崎先生には、後で俺から報告するつもりだ。俺はこれから行くところがある」
「……そうか」
微笑みながら頷き、大石はそれ以上詮索しようとはしなかった。
薬局で薬の袋を受け取り、大石と別れて手塚は真っ直ぐに歩き出す。
再び戦いに赴く戦士のような瞳で、手塚は傾く夕陽を見つめた。
















「青学テニス部・部長の手塚と言います」
リョーマの家を訪ねた手塚は、玄関に出てきた大学生ふうの女性にそう言って一礼した。
「あ…リョーマさんの…」
「はい。…彼はご在宅でしょうか」
「ええ、さっき帰ってきて……ぁ、でも、ごめんなさい、今はコートの方に行っているみたいです」
「コート?」
手塚が怪訝そうに尋ねると、彼女は丁寧にコートの場所を教えてくれた。
自宅裏の寺の敷地内にあるというコートに向かうと、少し離れたところからでもボールを打つ音が聞こえてきた。
寺の本堂の影からそっと様子を窺うと、傾いた西日の中で、リョーマが誰かとテニスをしていた。
リョーマの相手は、銜え煙草に黒っぽくも見える深い藍色の作務衣に身を包んだ、素人とは思えない動きをする男。
(あれは……!)
「サムライ南次郎…」
思わず呟いてしまってから、手塚は慌てて唇を引き結んだ。
だが二人はそんな手塚に気付きもせず、ボールを追い続けている。
実力の差は歴然としているものの、リョーマの動きは先程手塚と戦った時よりもさらにキレがよく、打球に迷いがない。
(いいショットだ、リョーマ)
目を細めて手塚が見つめる先で、リョーマの渾身のショットがとうとう南次郎の横を突き抜けていった。
「…………っし」
リョーマがガッツポーズをとる。
南次郎の方は、少し驚いたように目を見開いていた。
「親父…」
軽く息を弾ませながら、リョーマが南次郎に視線を向ける。
「強くなりたい。もっと……もっと!」
手塚は大きく目を見開いた。
(リョーマ…)
そして南次郎も大きく目を見開き、そして、ふっと笑った。
「何か嬉しそうじゃねぇか。どうしたよ?」
「別に」
リョーマの瞳に強い光が宿っている。その光を見た手塚の心が、深い感動を覚えた時のように、震えた。
「ガンガンいくよ」
リョーマが左肩をグリグリと回しながらサーブの位置に下がってゆく。
そこで初めて、リョーマは手塚の存在に気づいた。
「ぁ…え…?…クニ……部長?」
「…誰だ?」
南次郎に不審げに見つめられ、手塚は静かに一礼した。












手塚が名乗ってからも二人の練習は軽く一時間は続いた。
途中手塚も混ざるかと誘われたが、手塚はさりげなく断った。
そうして空が藍色を帯び始めた頃になって、漸くリョーマの練習が終わった。
「ごめんクニミツ、シャワー浴びてくるから、俺の部屋で待ってて。ご飯、ウチで食べるよね?」
「いや…」
断ろうとすると、先にシャワーを浴びた南次郎が居間から顔を出した。
「おう、食っていけよ、晩飯。ウチの飯は美味いぞ」
「………はい」
「ぁ、電話するならそこにあるから使って。じゃ、ちょっと待っててね、クニ……部長」
「ああ」
廊下に置いてある電話を見遣ってから手塚は頷いた。
バスルームに飛び込んでいったリョーマを見送り、手塚は早速家に電話をかけてリョーマの家で夕飯をいただくことになった旨を母に伝えた。
「………」
静かに受話器を置いてから、手塚は一呼吸おいて、居間の方へ視線を向ける。
グッと奥歯を噛み締め、手塚はゆっくりと居間へ歩いていった。
「あの…越前さん…」
「南次郎サンでいいぜ。ウチには『越前さん』がいっぱいいるからな」
「はい。…では、南次郎さん」
「うん?」
どう切り出そうか迷っていると、南次郎が訝しげに眉を寄せながら手塚の顔を覗き込んできた。
「…なあ、今日リョーマに発破かけてくれたのはお前か?」
「え……」
「フラッとどこかに出掛けて帰ってきてから、アイツ、顔つきが変わってやがる」
言葉では肯定せずに、ただ真っ直ぐ南次郎を見つめていると、南次郎がふっと笑った。
「…手塚、っていったか?礼を言うぜ。これでアイツは、もっと強くなる」
「あなたよりも、ですか?」
「そりゃ、本人の努力次第だ」
大袈裟に肩を竦めながら南次郎が言う。
手塚はまた少し迷ってから、口を開いた。
「南次郎さん」
「まあ、座れ」
促され、居間に置かれた横長の座卓に、南次郎と向かい合わせに座る。
「お訊きしたいことがあります」
「…あ?」
手塚は心の中で深呼吸してから、静かに口を開く。
「今朝……黒川さんの叔父に当たる方と、話をしてきました」
「………」
ふっと南次郎の表情がなくなる。だがその瞳だけは、手塚の心の奥をを探るかのように鋭く光った。
「黒川さんの研究の内容については、その方からお訊きしました。なぜその研究を始めたかについても…」
「………」
南次郎は小さく溜息を吐くと、手塚からスッと視線を逸らした。
「で?お前さんは俺に何を訊きたいんだ?」
「あなたの息子さんについて、です」
「……リョーマのことか?」
「はい」
「話すと思うか?」
「その話を聞く覚悟はしてきたつもりです」
「……なるほど。じゃあ、そういうことだ。俺から言うことは何もない」
「では、越前リョーマは、やはりあなたの……」
「ここでは言うな。菜々子ちゃんは知らないことだ」
南次郎がキッチンに立つ女性をチラリと見遣ってから舌打ちする。
「……すみません」
もう一度溜息を吐いてから、南次郎はどこか鬱陶しげにぼりぼりと後頭部を掻いた。
「それを確認しに来たのか?」
「はい」
「で、確認してどうするつもりだ?」
ギラリと、音がしそうな鋭い視線が手塚に向けられる。
「…彼は、そのことに苦しんでいます。もし『それ』が事実なら、彼の苦しみが少しでも軽くなるように、俺に出来ることをなんでもしてやるつもりでいます」
「………」
南次郎の瞳がどこか不思議そうに手塚を見つめる。手塚はそれ以上は何も言わずに、ただ真っ直ぐ、強く揺るぎない瞳で南次郎を見つめた。
「……アイツと同じ瞳をしていやがる…」
小さく苦笑して、南次郎が呟く。
「初めて出会った時から、頑固で、一途で、だがとてつもなく温かい……」
「……黒川さんのことですか?」
肯定はせず、南次郎はふっと笑った。
「……アイツの研究とか実験とか、その結果に何が生み出されたのかなんて、俺の口からは何も言うつもりはない。一生、な」
「………」
手塚がきつく眉を寄せると、南次郎は一瞬だけ柔らかな笑みを浮かべた。
「だがな、手塚、ひとつだけお前には言っておいてやる」
南次郎の瞳が、先程までの強さとは違う光を宿し、手塚を捉える。
「リョーマは俺の息子だ。例え本人がそう思っていなくても、俺にとっては、アイツは可愛い息子なんだ」
「……」
「この話はこれで終いだ」
溜息混じりにそう言って南次郎は立ち上がった。
「菜々子ちゃ〜ん、今日の晩メシなぁに〜?」
今までのやり取りが嘘のように、戯けた口調で南次郎がキッチンに向かう。
手塚は小さく溜息を吐くと静かに立ち上がり、居間を出て、教えてもらっていたリョーマの部屋へ向かった。




少ししてリョーマが部屋に戻ってきた。
「お待たせ、クニミツ」
「…すまない、ベッドに座らせてもらっている」
「あー……ごめん、今片づけるから」
首からタオルを提げたまま、リョーマが床に散らばった雑誌やゲームソフト、CDケースなどを集めて部屋の隅に積み上げてゆく。
「ちゃんと掃除はしてるからね。ただちょっとものがすぐ散らかっちゃうだけで…」
チラチラと手塚を見ながら言い訳するリョーマに、手塚は柔らかく微笑む。
「リョーマ」
手塚が両手を広げてやると、リョーマは嬉しそうに頬を染めて腕の中に飛び込んでくる。
「クニミツ……」
「リョーマ」
ギュッと抱き合ってから少し身体を離して見つめ合い、互いに引き寄せられるように唇を寄せてゆく。
「ん……っ」
甘く舌を絡め取ると、リョーマの腕は手塚の背にまわり、必死にしがみついてくる。
愛しくて愛しくて、手塚自身も息ができなくなるほど深く強く、リョーマの唇を貪る。
「んっ」
「は…っ」
「リョーマ」
「ぁ……っ」
まだしっとりと濡れたままの髪に指を差し込み、優しく梳いてやると、リョーマがうっとりとした瞳で手塚を見上げる。
「クニミツ…大好き…」
「愛してる…リョーマ…」
唇が触れ合うほど近くで愛を囁き合い、そうしてすぐにまた唇を重ね、言葉にしきれない想いを伝え合う。
だがリョーマは訝しげな顔をして、そっと手塚から身体を離した。
「クニミツ?」
「ん?」
「………どっか痛めた?湿布してるでしょ」
手塚は苦笑すると、リョーマの身体をもう一度引き寄せ、その額に口づける。
「念のためだ。心配はいらない」
「……もしかして…前に話してくれた怪我が悪化した?オレとの試合のせいで?」
「悪化はしていない。大丈夫だ」
「………」
黙ってしまったリョーマの顔を覗き込むと、リョーマの瞳が悲しげに揺れていた。
「オレが……もっと強い心だったら…クニミツにこんなこと……」
「お節介だったか?」
「違…っ!」
慌てて否定するリョーマと真っ直ぐ瞳を合わせ、手塚は微笑んだ。
「お前のためなら、俺に出来ることは何だってしてやる。前にもそう言わなかったか?」
「クニミツ…」
「俺は俺のしたいようにしただけだ。今日の試合は、お前が負担に思うことは何もない。それでも気にするというなら、その分、俺を愛してくれ」
「え……」
リョーマの頬がふわりと赤く染まる。
「テニスをしていない時は、ずっと俺のことだけ考えていてくれ」
「…そんなの……今だって、クニミツのことばっか考えてるよ……」
「もっとだ。まだまだ足りない。もっともっとお前の中を、俺でいっぱいにしてくれ」
ますます頬を赤く染めてリョーマが俯く。だがゆっくりと手塚に視線を合わせてきたリョーマの瞳は、しっとりと潤み、艶めいた輝きを放っていた。
「……オレ……今すぐにでも、クニミツでいっぱいになりたい……」
「……ばか」
小さく微笑んで、手塚はまたリョーマを優しく抱き締めた。
「…今日はこれ以上煽らないでくれ。本当はお前を抱きたくて仕方がないんだ。たぶん…いつもより歯止めも利かない…」
「………」
「…だが……この部屋ではすぐにバレてしまいそうだからな…」
リョーマの部屋の真下は南次郎がいる居間になっている。ベッドを何度も軋ませるような音を立てれば、何をしているかなど見に来なくてもわかってしまうだろう。
手塚が苦笑すると、頬を染めたままリョーマがキュッと唇を噛んだ。
「リョーマ」
優しく名を呼ぶ手塚に、リョーマが恨めしげな視線をよこす。
「そんな顔をするな」
閉ざされた唇を何度も軽く啄んでやると少しずつ綻んでくる。終いにはリョーマがクスクスと笑い出した。
「クニミツ」
リョーマが手塚の首に腕を巻き付け、唇を触れさせながら甘えるような声で手塚を呼ぶ。
チュッと口づけてから「ん?」と応えてやると、リョーマはまた微笑んだ。
「……いつか…また試合しよう、クニミツ」
「ああ」
「オレ、もっともっと強くなるから……アンタも、今よりずっと強くなっていてね」
「そのつもりだ」
真っ直ぐリョーマの瞳を見つめて頷く手塚に、リョーマは嬉しそうにニッコリと微笑んでから口づけてきた。
「クニミツ…」
「ん?」
リョーマの熱い吐息が唇を擽り、手塚の身体の奥に甘い疼きが走る。
「もう一回、ちゃんと、キスして。今日は、それで我慢するから」
「………」
間近で見つめ合い、先にリョーマがゆっくりと目を閉じる。薄く開かれた唇をじっと見つめてから、手塚はリョーマの名を囁きながら深く唇を重ねていった。
















ちょうど帰宅したリョーマの母親も一緒に、五人で賑やかな夕食を摂った。
「ごちそうさまでした」
翌日は学校があるからと、手塚は夕食後、あまり時間を置かずに越前家を出ることにした。
「あなた、車で送ってあげたら?」
玄関まで見送りに来ていたリョーマの母・倫子が、居間から出てこようとしない南次郎に声を掛ける。
「ぁ、いえ、そこまでして頂くのは申し訳ありませんから、結構です」
「でも、」
倫子が言い募ろうとした時、廊下の電話が鳴り響いた。
「ぁ、おばさま、私が」
菜々子(夕食時にリョーマの従姉だと聞いた)がパタパタと電話に走り寄り応対を始める。その電話は南次郎へかかったものらしく、菜々子はすぐに居間にいる南次郎を呼びにいった。
「オレ、そこまで送ってくる」
手塚を追うように三和土に降りたリョーマがシューズを履いて手塚にニッコリと微笑みかけた。
「いや、いい、リョーマ。もう遅いからここで…」
「俺が途中まで車で送ってやるよ、手塚」
受話器を置いた南次郎が唐突にそう言ったので、その場にいた全員が目を見開いて南次郎に視線を向けた。
「親父…?」
「出掛ける用事が出来た。ついでだ」
どこか憮然とした表情で、南次郎はさっさと草履を履いて手塚の横をすり抜けて出ていった。
「……では、お言葉に甘えて……お邪魔しました」
丁寧に一礼すると倫子が「また来てくださいね」と言った。
「オレも一緒にいく」
手塚の服の裾をそっと握ってリョーマが見上げてくる。南次郎が車を出してくれるなら帰りもリョーマが一人になることはないだろうと、手塚は小さく微笑んで頷いた。



玄関を出てガレージに向かうと、すでに南次郎が車のエンジンをかけて待っていてくれた。リョーマと共に後部座席に乗り込むと、何も言わずに南次郎は車を発進させた。
リョーマがそっと指を絡めてくる。
手塚がしっかり握ってやると、リョーマもギュッと握り返してきた。
「駅まででいいか?」
赤信号を睨むように見上げたまま、南次郎が問う。
「はい、お願いします」
(…少し、急いでいるのか?)
それまでそんなにせっかちには見えなかった南次郎が、赤信号に舌打ちをし、忙しなくハンドルを指先でトントンと叩いている。
信号が青に変わると、待ちかねていたかのようにアクセルを踏み込む。
「親父、今日の運転、雑」
「乗せてやってるだけありがたいと思え」
リョーマの抗議を鼻にも引っかけない南次郎が、悪びれずに言う。だが、バックミラー越しに手塚の目に留まった南次郎の額には微かにシワが寄せられ、穏やかとは言い難い表情をしていた。
(なんだ……?)
手塚の中で、何かが繋がろうとしているが、あと少しのところでうまく行かない。
(何の用事なんだろう)
手塚が帰る時には居間から動こうともしなかった南次郎が、唐突に出掛ける用事が出来たと言った。
(ぁ……電話……誰かに呼び出されたのか……)
そう考えて、手塚の思考がひらめくようにまとまった途端、車は急停止した。
「ほい、駅に着いたぜ。リョーマも降りろ」
追い出されるように手塚とリョーマは車を降りる。
「ありがとうございました」
「おぅ。じゃな」
挨拶もそこそこに南次郎が車を発進させる。
手塚は走り去る南次郎の車を横目で見遣って、すぐ近くに止まっているタクシーにリョーマの手を引いて乗り込んだ。
「クニミツ?」
「すみませんが、あの、前を走る4WDを追いかけて頂けませんか」
若い運転手に急いでそう告げると、一瞬運転手は目を丸くしたが「あの四駆ですね!」とやけに乗り気な様子でアクセルを踏んだ。
「クニミツ、どうかした?」
「南次郎さんは……きっと、黒川さんに会うつもりだ」
「えっ?」
リョーマが大きく目を見開く。
「…あの二人の先輩に当たる人が俺の主治医だと言っただろう?その先生が、黒川さんに、お前の家の電話番号を教えたと言っていた。黒川さんが、南次郎さんに会いたがっているらしいんだ。きっとさっきの電話は黒川さんからだろう」
「黒川さんが、親父に…?」
リョーマに視線を向けて手塚が頷くと、リョーマがキュッと唇を噛んで手塚を見つめ返した。
「確かめよう、リョーマ。黒川さんの口から、お前のことを」
「………でも…」
「事実は事実として受け入れよう。そこから、俺たちはまた新たに出発すればいいんだ」
「おれたち…」
手塚の言葉に、強ばっていたリョーマの表情がふと緩む。
「ああ。どんな事実があったとしても、俺はお前とずっと一緒にいる。約束しただろう?」
手塚が柔らかく微笑んでやると、リョーマも小さく微笑んだ。
「………うん」
繋いだままでいた手を、リョーマがギュッと握ってくる。手塚もグッと握り返した。
見つめ合い、微笑み合い、そして、強い光を宿した瞳で、二人は前方の車を見る。
曖昧な足下では、高く高く飛び立つことは出来ない。だから、例え、胸の傷跡を再び深く抉るような事実であったとしても、傷口から流れ出した血で足元を固め、力強く羽ばたけばいい。
(リョーマには、俺がいる)
どんなに傷だらけになっても、どんなに痛みに藻掻いても、やっと取り戻したリョーマの白い翼だけは守り通してみせる。
リョーマの痛みも苦しみもすべてを分かち合い、いや、すべてを手塚が引き受けてでも、二人の未来を、光満ちる世界へと繋げてみせる。
「………」
もう一度、強くリョーマの手を握ると、リョーマがそっと肩を寄せてきた。
「リョーマ…」
「オレはもう、大丈夫」
リョーマが顔を上げ、ふわりと微笑む。
「リョーマ…」
「お客さん、前の車、停まるみたいですよ!」
手塚の言葉に、緊迫した運転手の言葉が被さった。
「…気づかれないように、少し離れたところで停めて頂けますか?」
「はい!任せてください!」
運転手はどこかウキウキとしたふうに歯切れのいい返事をする。手塚は内心苦笑しながら、バッグから財布を取り出した。

リョーマが運命と闘う決意をしたその日、事態は、急激に動こうとしていた。












                                                         

*****************************************
←という方はポチッと(^_^)
つながりが悪い時は掲示板やお手紙でぜひ一言を!
*****************************************

掲示板はこちらから→
お手紙はこちらから→




20070410