  
        傷 跡 
          
         
<2> 
 
 
 よく晴れた日だった。 
朝早くに目が覚めた手塚は、いつもより幾分早い時間にランニングに出ることにした。 
リョーマとの約束は午後三時だ。それまで、入念にコンディションの最終調整をし、完璧な状態でリョーマと戦うつもりでいる。 
家を出て、ふと思いついたように例の教会の前を通ってみることにする。 
「!」 
その教会が見えてきたところで、手塚は足を止めた。 
今日も留守だろうと半ば諦めていた手塚の目に、教会の前に駐車するシルバーの軽自動車が映ったのだ。 
(もしかして…) 
手塚はグッと奥歯を噛み締めると、教会に向けてまた走り出した。 
軽自動車の周りには人はいない。ボンネットに触れてみると、微かだが温かかった。 
(中、か…?) 
手塚が扉に手を掛け、そっと力を込めると、静かに扉が開いた。 
中は薄暗かった。 
高い窓から、まだ目覚めきらない深い色の空が見えている。その窓から薄く差し込む光の中で蹲る人影に手塚は目を凝らす。 
それはこの教会の牧師だった。十字架の前で跪き、一心不乱に祈りを捧げているように見える。 
少し躊躇ってから、手塚は声を掛けた。 
「………あの…」 
瞬間、牧師はひどく驚いた様子で手塚を振り返った。 
「すみません、車が停まっているのが見えて…扉も開いていたので勝手に入り込んでしまって……」 
牧師は暫し沈黙してからゆっくりと立ち上がり、手塚の方へと身体の向きを変える。 
「…ようこそ。何かご用ですか?」 
いつもの、穏やかな牧師だった。手塚は数歩歩み寄ってから、口を開く。 
「手塚国光と言います。青春学園中等部三年、テニス部の部長をしています」 
「青学の生徒さんですか…」 
牧師が「青学」と略して言ったことに、手塚は内心首を捻る。 
(青学を知っているのか…) 
「テニス部と仰いましたね。ランニングの途中ですか?」 
「ぁ、はい」 
「お急ぎの用でなければ、また違う日になさって頂けないでしょうか。私はまたすぐに出掛けなくてはなりませんので…」 
「急ぎの用です」 
牧師が柔らかく会話を拒もうとするのを、手塚は押し切る。ここで退くわけにはいかない。 
牧師は一瞬目を見開き、苦笑した。 
「…なんでしょう?」 
あくまでも穏やかな口調で問う牧師に、手塚はまた数歩近づいていった。 
「いきなり不躾で申し訳ありませんが、『黒川貴徳』という人を、ご存知ではないですか?」 
「っ!」 
手塚が口にした名前に、その牧師は明らかに反応した。 
「黒川……」 
「はい。青学の卒業生なんですが、以前、こちらに黒川さんがいらっしゃっているのをお見かけして………とても素晴らしい研究をしているとお聴きして、どんな方なのかと…」 
「素晴らしい研究なんかじゃありません!」 
ピシャリと、叩きつけるように言われて手塚は口を噤んだ。 
「あんな研究は…神への冒涜だとしか思えない……っ」 
「神への冒涜………クローンのことですか?」 
牧師はハッとしたように手塚を見た。 
「手塚くん、と、仰いましたか………君は、一体何を……」 
「俺はべつに黒川さんをどうこうしようと思っているわけではありません。……ただ、俺の大切な人がとても苦しんでいて…その苦しみを少しでも和らげることが出来ないかと、願っているだけなんです」 
「………」 
手塚が真っ直ぐに牧師を見つめると、牧師は言葉を失ったかのように目を見開いたまま黙り込み、しばらくしてからふっと肩を落として項垂れた。 
「貴徳は……私の姉の一人息子です」 
「え……」 
「どうぞ、こちらへおかけください」 
牧師は小さく笑みながら、近くの長椅子を示した。 
「あの子の…何を訊きたいと…?」 
長椅子に牧師と並んで座りながら、手塚は静かに口を開く。 
「……黒川さんが、なぜクローン技術を応用して人間を生み出そうと思ったのか……何かご存知のことがあれば教えてください」 
「…………」 
牧師は、目の前の一点を見つめたまま口を閉ざした。だがゆっくりと視線を上げて十字架を見上げ、静かに口を開く。 
「…あの子はとても優しい子で……姉の自慢の息子でした。よくこの教会にも遊びに来てくれて、子どもの頃は自分も聖職者になるのだと言ってくれていたんです」 
「………」 
「でも、そんなあの子に、神は試練をお与えになった」 
「試練?」 
静かに手塚が聞き返すと、牧師は頷いた。 
「最初は義兄の…あの子の父親の、事故でした。出勤途中、居眠り運転のトラックに追突され、何台かを巻き込んだ交通事故に遭って亡くなったのです。あの子が…高等部に進んですぐのことでした」 
手塚は黙って小さく眉を寄せた。 
「それでもあの子には傍にいて支えてくれる友達がいましたから、母のためにも自分がしっかりしなきゃならないんだと、すぐに立ち直ってくれました」 
(南次郎氏のことか…?) 
ふと思い当たったが、そのまま、牧師の話を遮らないように手塚は何も言わずにいた。 
「幸い、義兄はかなりの資産を残してくれたので、姉と貴徳は何不自由なく暮らしていけました。ですが、母と二人でささやかに暮らしていた彼に、神はまた試練をお与えになった」 
「また、何かあったのですか?」 
手塚が問うと、牧師はやりきれなさそうに頷いた。 
「今度は姉が……あの子の母親が、病に倒れました。白血病でした」 
「白血病…」 
「あの子が大学院に通っていた頃のことです。すぐに骨髄移植できないかと、まずは貴徳が検査をしましたが、駄目でした。もちろん私も検査をしましたがやは
り駄目で…。その後も骨髄バンクに登録されている中に適合する者がいないかと探し続けましたが、結局見つからないまま、姉は………」 
「亡くなられたんですね…」 
「ええ…」 
牧師は俯いて深く溜息を吐くと、もう一度十字架を見上げた。 
「あの子はしばらく立ち直れませんでした。自分が適合者であったら、母は助かったのに、と。実の親子でありながら助けてやれなかったことを、ひどく悲しんでいました」 
「………」 
「たぶん、その時からあの子は、親子よりももっと確実に、大切な人を助けてやれる存在を作り出そうと、思い始めたんでしょうね」 
「…っ」 
(だから『クローン』なのか…) 
同じ細胞を持つ人間ならば、何を移植しても拒絶反応は出ないのではないか。そう考えて、研究を重ね、クローン技術の向上に没頭していったのだろう。 
両親を失った心の傷は深く、その心の痛みが、黒川氏を研究に駆り立てていたのかもしれない。 
しかし。 
「でも…だからといって、黒川さんはなぜあの人のクローンを作ろうだなんて……」 
呟くように言った手塚の言葉に、牧師はふと視線を向けてきた。 
「……越前くんのことかね?」 
「え…」 
牧師の口から『越前』の名が出てきたことに、手塚は動揺した。 
(この人は、知っている……?) 
「やはり、黒川さんは、南次郎氏のクローンを作り出したんですか?」 
「………その答えは、君ももう知っているのではないのかね?だから、ここに貴徳のことを聴きに来たのでは?」 
「………」 
手塚はグッと奥歯を噛み締めた。 
(やはり……リョーマは本当に南次郎氏のクローンなのか……) 
「…貴徳と越前くんは中等部の頃から仲が良くて……貴徳が父親を事故で亡くした時には、越前くんがずっと傍にいて励ましてくれていたんだよ。そのおかげで貴徳も『自分が母親を護ってやるんだ』と考えるようになって、立ち直ってくれたんだ」 
「二人が親友同士だったのは聞いています」 
手塚がそう言うと、牧師は柔らかく微笑んで頷いた。 
「越前くんは太陽みたいな子だったね。明るくて、活発で、面倒見がよくて、今時の子には珍しく、自分なりの信念みたいなものをしっかりと持っている子だった」 
卒業アルバムの中の南次郎の面影が、手塚の脳裏をよぎった。 
「姉が亡くなった時は、越前くんは海外に行っていてなかなか会えなかったようなんだが…それでも電話で励ましてくれていたらしい」 
「そうだったんですか…」 
(その頃すでに南次郎氏はアメリカに渡っていたのか……) 
「それから少しして、貴徳が越前くんに会いにアメリカに行ったことがあって……帰ってきてから、貴徳は以前にも増して、研究にのめり込むようになったんだ。…何かあったのかと聞いても、貴徳は何も教えてくれなかった…」 
また深く溜息を吐いてから、牧師は手塚に視線を向けた。 
「だがそれからしばらくして、私は貴徳がなぜまた研究に没頭していたのか…わかってしまったんだよ」 
「……どういうことですか?」 
「…………」 
手塚の強い視線から逃れるように、牧師は立ち上がって十字架の前に進み出た。 
「貴徳は、たぶん、越前くんに怪我のことを打ち明けられたのだと思う」 
「ぁ……」 
手塚はハッとした。 
サムライ南次郎の突然の引退は怪我のためだという説がかなり有力だ。 
もしかしたら、その怪我のことを、黒川氏はだいぶ前から聞かされていたのかもしれない。 
(だから、クローンを作って南次郎氏を怪我から救おうと、した……?) 
手塚は大きな衝撃を受けて黙り込んだ。 
やはり、リョーマがクローンだというのは、間違いないことなのかもしれない。 
南次郎がどこをどう痛めたのかはわからないが、移植によって治せるものなら治してやるのだという思いでクローンを生み出したというのなら、納得できてしまう。 
(そんな……ばかな……っ) 
手塚はリョーマがクローンでないことを証明したかった。証明してやるつもりだった。 
なのに、これでは、リョーマがクローンであることの確証が揃ってきてしまうではないか。 
「人間の命というものは神が与えてくださる尊いものです。それを人間が弄り回し、不自然に作り出すなど、神への冒涜以外の何者でもない。それに、初めから医療に利用するつもりで一人の人間を生み出すとは……同じ人間のすることではない!」 
「………」 
「だから私は、貴徳がここへ来ることを禁じました。神に背いたものが、再びこの神聖な場所に足を踏み入れるなど、私には許せないのです」 
(それであの晩、あんなに……) 
普段温厚な牧師が、激昂して黒川を追い返していた時のことを手塚は思い出した。 
「……では……やはり…南次郎氏のクローンを、黒川さんは作ったのですね…」 
「………残念ですが……」 
「そのクローンが、黒川さんの監視下から逃げ出したというのも本当なんですか?それを探して黒川さんも姿を消したというのは…」 
「…詳しいことはわかりませんが、ここにも貴徳の所在を尋ねる国際電話がありました」 
「そうですか…」 
そう言ってから手塚はふと、気づいた。 
ここにも捜索の手が伸びることがわかっていたから、この牧師は敢えて厳しい言葉を浴びせて黒川氏がここに近づかないようにしたのかもしれない、と。だからこの牧師も、人目を避けるようにここには近づかないようにしているのかもしれない。 
(表には出せない親心、か…) 
黒川の両親が他界してから、この牧師が親代わりとなって黒川の面倒を見ていたことは安易に想像できる。それ故に、聖職者の立場では黒川の行為は許せないが、心の奥ではその身を案じているのだろう。 
「……でもどうして……俺にここまで話してくださったのですか?」 
出来れば周囲には隠しておきたいことであっただろう内容を、手塚にはほとんど洗いざらいといっていいほどまで話して聞かせてくれた。 
「…君は、大切な人の苦しみを少しでも和らげてやりたいのだと言った。その想いに、応えたくなったんだよ」 
「………」 
「もしかしたら、君の言う大切な人というのは、越前くんの息子さんなのかと思ってね…貴徳の犯した罪の償いが私に出来るとは思わないが、少しでも、役に立てたらと…」 
手塚はスッと視線を落として唇を噛み締めた。 
リョーマの心の棘を抜き取るヒントを得るためにここに足を運んだのに、却ってリョーマの心の棘をさらに深く突き刺すような事実がわかってしまったのだ。 
(俺は、どうしたらいいんだろう……) 
「手塚くん」 
「はい」 
「……先程私が言ったこととは矛盾しているかもしれませんが、やはり、人間の命は神が与えてくださる尊いものだと私は思っています。例え、貴徳が『ヒト』を作り出す研究をしていたとしても、生まれ出でたその命は、間違いなく、一人の人間なのです」 
手塚は顔を上げて目を見開いた。 
「同じ細胞を持って生まれたとしても、その人にはその人だけの命が与えられたと、私は思います。だって、一人の人間の命を分割して埋め込んだわけじゃないですからね」 
「ぁ……」 
「器は同じものでも、魂は別のものです。そのことは、ぜひ、伝えてあげてください」 
「…はい」 
「もうお行きなさい。ここに長居すると、あなたや、あなたの大切な人にまで危害が及ぶかもしれませんよ」 
「……っ」 
手塚はハッとしてから、丁寧に一礼し、牧師に背を向けた。 
「手塚くん。もし貴徳に会うことがあったら伝えてください。自分のしたことの始末は、自分でつけろと」 
「……」 
手塚は振り返ってもう一度頭を下げ、そのまま何も言わずに教会を出た。 
ここに来た時には色濃かった空が、朝陽の光を受けて生き生きと輝き始めている。 
空を見上げ、手塚は新鮮な空気を胸一杯に吸い込んだ。 
(何を迷うことがある…?) 
これから自分がしようとしていることは、きっとリョーマを光の中へと連れ戻すはずだ。例え心の棘の傷跡が一生残るとしても、リョーマの傍には自分がいる。 
(お前の本当の笑顔は、俺が護る) 
リョーマのためならば、全世界を敵に回しても構わない。 
パン、と音をさせて、手塚は自分の両頬を叩いた。 
(俺は今日これから、全力でお前を叩き伏せる) 
この胸に溢れるリョーマへの熱い想いを、すべて戦意に変えて戦う。 
手塚はゆっくりと目を閉じ、そしてまたゆっくりと開いた。 
前を見据える手塚の瞳に、青白い焔が揺らめいた。 
         
         
         
         
         
         
         
         
 
         
         
         
 
         
         
         
         
         
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春野台区営コート。 
頭上の高架を轟音と共に電車が走り抜けるこのコートはいつも人気がないので、手塚のお気に入りの場所でもあった。 
約束の時間よりもずいぶん前に来てウォーミングアップを充分行っていた手塚は、少し離れた柱の陰に大石の姿を見つけて苦笑した。 
(心配してくれるのはありがたいが……) 
これではリョーマとろくに会話も出来ない、と手塚は思う。 
(いや、言葉で交わす会話は、今日はいらないのかもしれない) 
これからの時間は、リョーマの心の奥まで踏み込んで手塚の想いを届けなくてはならない。それには、むしろ、言葉は不要かもしれなかった。 
額からこめかみにかけてほんのりと汗ばんできた頃、リョーマが姿を現した。 
約束通り、すぐにでもテニスが出来るように支度してくれている。 
「ちーっス」 
素っ気なくそう言ってから、リョーマは手塚に視線で大石の存在を示す。 
手塚が小さく苦笑して頷くと、リョーマも肩を竦めた。 
「越前、これから俺とワンセットマッチを行う。アップしてくれ」 
「……いきなり何スか?」 
「俺と戦えと言っているんだ」 
「………」 
大石に背を向けた状態のリョーマは、あからさまに訝しげな視線を向けてくる。 
リョーマの瞳が、「なんで?」と言っているのだ。 
「俺を倒すつもりで戦え。俺も全力で、お前を倒す」 
手塚の言葉にリョーマの綺麗な眉がきつく引き寄せられる。 
「……わかりました。アップします」 
リョーマはムッとしたようにそれだけ言ってバッグをベンチ横に下ろし、アップを始めた。そのリョーマをチラリと見遣ってから、手塚も軽く壁打ちをし始める。 
そうしてしばらくしてから、リョーマが「アップ完了っス」と声を掛けてきた。 
手塚は黙ったまま頷くと、リョーマのもとへ歩み寄り、ラケットを回して手塚のサーブから始めることを決めた。 
「クニミツ…」 
そっと声を掛けてくるリョーマを、手塚は笑みを消してじっと見つめる。 
「…話は後だ。本気でこい」 
リョーマの瞳が大きく見開かれる。何か言いたげに開かれた唇から言葉が零れる前に、手塚はリョーマに背を向けてサーブの位置まで下がった。 
(いくぞ、リョーマ) 
心の中で呟き、手塚は渾身の力を込めてサーブを放つ。 
「!」 
リョーマが反応しきれずにボールを見送る。 
それまで微かな戸惑いを見せていたリョーマの表情から戸惑いと、そして余裕が消える。 
リョーマはやっと本当に、手塚の「本気」を感じ取ったようだった。 
再び手塚がサーブを放つ。今度はリョーマも反応して打ち返してきた。しかし、 
「…っ!」 
手塚の鋭いショットがリョーマの横を突き抜ける。 
「………」 
リョーマの、瞳の色が変わった。 
(そうだ、その瞳だ) 
手塚のサーブをリョーマが打ち返す。リョーマのリターンを手塚が打ち返す。だがラリーは続かず、手塚のポイントが増えてゆく。 
「…くそっ」 
小さく呟かれたリョーマの言葉に、手塚はスッと目を細めた。 
(そうだ。もっと悔しがれ。自分の無力さを思い知るんだ、リョーマ) 
少しずつリョーマが焦り始めるのが手塚にはわかる。 
リョーマがどんなショットを放っても、手塚には通用しない。リョーマが父から受け継いだありとあらゆるショットは、すべて手塚に打ち返され、手塚のポイントだけが加算されてゆくのだ。 
(どうしてそのショットが俺に通用しないのか考えろ、リョーマ) 
「…っつぁっ!」 
右手に持ち替えて伸ばしたラケットも、閃光のような手塚のショットには僅かに届かず、リョーマは土煙を上げてその場に倒れ込んだ。 
「……っく」 
「お前は、なんのためにテニスをするんだ」 
「え……」 
手塚の言葉に、リョーマはふと顔を上げた。 
「なんのために、テニスをする?」 
ネット際にいる手塚へ、ゆるゆるとリョーマの視線が向けられる。 
「そんなこと……」 
わかっているくせに、とリョーマの唇が動く。声にならなかったその呟きに、手塚はきつく眉を寄せた。 
「立て。まだゲームは終わっていない」 
「………っ」 
ギリ、と音がしそうなほど唇を噛み締めてリョーマが立ち上がる。 
「……今、俺が戦っているのは、誰だ?」 
「え…?」 
大石に聞こえないように言った手塚の言葉に、リョーマは小さく目を見開く。 
「俺は、誰と戦っている?」 
「なに…を…」 
「俺は、お前と、……越前リョーマと戦いたいんだ」 
「………」 
リョーマがさらに目を見開き、眉をきつく引き寄せる。 
「打ってこい、リョーマ。お前の、ショットを」 
そう言って背を向けると、リョーマが小さく小さく「なんで」と呟いた。 
なんでそんなことを言うのか、と。 
(気づいてくれ、リョーマ。お前は『越前リョーマ』なんだ。そして、越前リョーマは、この世にたった一人しかいない) 
手塚が振り返って構えると、リョーマは、どこか思い詰めたような表情でボールを手に取り、サーブを放った。 
(お前のショットを打て、リョーマ) 
祈るように、願いを込めて手塚が打ち返す。 
「…っつぁ!」 
手塚の重いショットを、リョーマは歯を食いしばるようにして打ち返してくる。 
(違う。「それ」は越前南次郎のショットだ) 
手元に戻ってきたリョーマの打球を、手塚はさらに回転をかけて打ち込む。 
「…くっ!」 
左右に振られ、だがリョーマは全力で走ってボールに追いつき、打ち返してくる。 
(お前だけのショットを、俺に打ってこい) 
「…っくっそぉ…」 
「………」 
あと一歩届かなかった打球を振り返り、リョーマが悔しがる。その表情に、手塚は微妙な変化を感じて微かに目を見張った。 
(そうだ…思い出せ、リョーマ。初めてラケットを持った日のことを) 
「…はぁっ!」 
「!」 
リョーマのサーブに手塚のラケットが一瞬揺らいだ。 
(威力が増してきている…) 
だが手塚は顔色一つ変えず、ストレートに打ち返した。その打球をリョーマはクロスに打ち返す。が、手塚の反対側のコーナーへ向かうはずだった打球は、途中でコースを変えて手塚の手元へと戻ってくる。 
「そんなショットでは、俺には通用しない」 
そう言いながら手塚がまたボールに変化をつけて打ち返すと、リョーマは俊敏に動いてボールに追いついた。 
「アンタのショットだって、もうオレの横は抜かせないっスよ!」 
トップスピンを加えて打ち返されたリョーマのショットに、手塚は唇をひき結んだ。 
リョーマの瞳が強い光を宿し始めた。気を抜いたら、一気に形勢が逆転しそうな気がする。 
「……はっ!」 
リョーマの足下深くボールを打ち込みながら、手塚は気分が高揚してくるのを感じた。 
(もっとだ、リョーマ。もっと自由に、お前の思うままに打ってこい) 
「…っつあっ」 
ラケットを振り抜くリョーマの髪から、汗が煌めきながら飛び散る。 
(そうだ。お前にしか打てないショットを、もっと…) 
1ショットごとに、リョーマの瞳の輝きが増してくる。身体のキレもよくなってきた。 
リョーマの心の中で、何かが変わりつつあるのを、手塚は感じ取った。 
(…ならばもう、遠慮はしないぞ) 
手塚が、それまでよりも幾分前傾姿勢になる。 
「…!」 
手塚の纏うオーラのようなものの輝き方が変わるのを、リョーマも感じ取ったらしかった。 
オーラと言うよりも、それは「焔」。 
手塚の全身を、青白い炎が覆う。 
それ以降は、リョーマのショットはまるで歯が立たなかった。 
実力の差は歴然としていて、リョーマがどんなにキレのいい動きをして、どんなに気合いのこもったショットを打ち返しても、手塚はさらにその上をゆくプレイを見せつけた。 
「…………」 
そして、リョーマが1ゲームも取れないままに、その試合は幕を閉じた。 
跪き、目の前に転がるボールを愕然とした表情で見つめるリョーマに、手塚はネット越しにそっと声を掛ける。 
「………それが、今のお前の実力だ」 
ボールを見つめたままリョーマが唇を噛み締める。 
「だがお前はもっと強くなる。お前にしかできないプレイを、身につけろ」 
「オレにしか、出来ない……?」 
ゆるりと視線を向けられ、呟くように聞き返された言葉に、手塚は小さく頷く。 
「お前のテニスは、お前だけのものだ。誰にも真似できない、お前だけのテニスが出来るようになれば、お前はもっと強くなる」 
「オレだけの、テニス……でも、オレは……」 
「お前は越前リョーマだ」 
俯きかけたリョーマが、手塚の言葉にハッとしたように顔を上げる。 
手塚は、もう一度繰り返した。 
「お前は、越前リョーマ。俺が愛する、この世でたった一人の人間だ」 
「……!」 
「お前は、お前のためにテニスを続けろ。そして越前、お前は、青学の柱になれ」 
リョーマの瞳が大きく見開かれる。 
「クニ……ミツ……?」 
手塚は小さく微笑むと、静かに息を吐いた。 
「……ちょっと…待っていてくれ」 
「え…」 
少し考えてから、手塚は真っ直ぐ大石のいる柱の陰に歩いていった。 
「大石」 
金網越しに声を掛けると、大石が慌てたように飛び出てきた。 
「え……ぁ……手塚…」 
気づかれていないと思っていたのか、大石がバツの悪そうな表情を浮かべる。 
「駅の改札で待っていてくれないか。少しだけ、越前と二人で話がしたい」 
「………わかった。おじさんには、これから行くって連絡入れておくから」 
「すまない。頼む」 
大石は小さく苦笑すると、手塚に背を向けて駅へとゆっくり歩き始めた。 
(……ありがとう、大石) 
心の中でもう一度礼を言って、手塚はリョーマのいるコートへまた戻った。 
未だコートに座り込んだままのリョーマが、手塚を見上げる。 
「クニミツ……」 
「リョーマ」 
手塚はリョーマの傍まで行くと、片膝をついてリョーマの瞳を覗き込んだ。 
「…テニスは好きか?リョーマ」 
「……」 
じっと見つめる手塚の瞳を正面から受け止め、リョーマもまた真っ直ぐに見つめ返してくる。 
「お前はなぜ、テニスを続けている?」 
真っ直ぐ手塚に向けられていたリョーマの瞳が、微かに揺れる。 
「オレ、は……」 
スッとリョーマの視線が落とされ、だがすぐにもう一度手塚に向けられた。 
「強くなりたい」 
手塚が小さく目を見開く。 
「もっと強くなって……もっともっと、高いところに、行きたい」 
リョーマの瞳の奥に、焔と言うよりは光彩に近い輝きが揺らめくのを、手塚は見た気がした。 
「…オレ、今、すっごく悔しい……クニミツから1ゲームも取れなかった」 
「………」 
「オレは、今まで、親父がテニスプレイヤーだったから、オレもテニスを続けなきゃならないんだって思ってた。でも、本当はそうじゃなかったんだ」 
強い、強い光を宿した瞳が、リョーマの心に芽生えた熱い想いを手塚に伝えてくる。 
「オレは、オレ自身がテニスをしたいから続けるんだ。テニスが好きだから。テニスでは、誰にも負けたくないから…!」 
リョーマの強い瞳から、熱い雫が零れ落ちる。 
手塚は微笑んで頷きながら、その雫をそっと指先で拭ってやった。 
「……それでいい」 
「クニミツ…」 
「お前は、この世にたった一人しかいない『越前リョーマ』だ。誰かのために生きるのではなく、お前自身のために、思うがままに生きていいんだ」 
ポロポロと熱い雫を零しながらリョーマが頷く。頷いて、微笑んだ。 
「ありがとう、クニミツ…」 
黙ったまま手塚が微笑み返してやると、リョーマがふわりと抱きついてきた。 
「アンタに逢えて、本当によかった」 
「リョーマ……」 
「ずっと傍にいて、クニミツ」 
柔らかく抱き締め返しながら、手塚は熱い吐息を零す。 
「もちろんだ。お前が嫌がっても、俺はもう、お前を離せない」 
「うん……」 
止めどなく溢れてくる熱い雫を拭おうともせずに、リョーマが笑う。 
「本当に、アンタが好き、クニミツ…」 
その笑顔は、出逢ってから初めて手塚が目にする、リョーマの心からの、本物の笑顔だった。 
 
 
         
 
         
         
         
         
         
         
        
続 
         
        
         
        
        
         
        
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        20070328 
         
         
        
        
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