  
        傷 跡 
          
         
<1> 
 
 
 生まれたての朝日の中を、手塚とリョーマは並んで歩く。 
ずいぶんと早起きをさせただろうに、リョーマは眠そうな表情ではなく、ほんのりと頬を染めたまま何も言わずに手塚の隣にいた。 
バス停でバスを待つ間、他に誰もいないのを確認してから、手塚はリョーマの手を取った。 
「……身体…つらいか?」 
「大丈夫。いつもより軽いくらい」 
心配そうに覗き込んだ手塚を見上げてリョーマが微笑む。 
「それよりさ、クニミツ…」 
「ん?」 
大きなリョーマの瞳が、キラリと瞬く。 
「なんかさ……朝起きた時から、いろんなものが輝いて見えるんだけど……なんでかな…」 
「え?」 
リョーマが不思議そうに首を傾げ、視線を空に向ける。 
「この前だって早起きしてこの道を通ったのに……なんか……全然違う場所みたいに見える」 
言われてみて、手塚も同じ感想を持っていたことを思い出す。 
隣を歩くリョーマの体調が気がかりで、頭の中はリョーマのことしか考えてはいなかったものの、目に映る景色がいつもより目に優しく、そのくせとても煌めいていたのだ。 
「世界が……変わったのかもしれないな……」 
「え?…世界が、変わった?」 
リョーマがまた怪訝そうに手塚を見つめる。 
手塚は頷くと、リョーマにふわりと微笑んでみせる。 
「昨日までの俺たちじゃない、だろう?」 
手塚がリョーマの手を握る力をほんの少し強めると、リョーマの頬が真っ赤に染まった。 
「ぁ……」 
「リョーマ」 
そっと名を呼ぶと、リョーマが頬を真っ赤にしたまま手塚を見上げる。 
「もうお前は俺だけのものだ」 
「うん」 
「そして俺は、お前だけのものだ」 
「……うん」 
嬉しそうに微笑んで、リョーマが手塚の胸に倒れ込んでくる。繋いでいない方の手でリョーマの頭を優しく抱き込んでやると、リョーマがさらに身を擦り寄せてきた。 
「大好き、クニミツ…」 
「リョーマ…好きだ…」 
溢れそうになる愛しさを抑えるように、リョーマの髪にそっと口づけてから手塚は静かに身体を離した。 
「…こっちがいい」 
リョーマがぽってりとした唇をつんと突き出すが、手塚は小さく微笑んで「今はダメだ」と諭すように言う。 
「……週末まで?」 
「ああ」 
「ちぇ」 
唇を尖らせたままリョーマが俯く。その耳元へ、手塚は意識して甘い声で囁いた。 
「その代わり、週末は寝られないと思っていてくれ。試合で疲れたなどという言い訳は、聞かないぞ?」 
「ぁ………」 
リョーマの身体がビクッと揺れる。 
そんなリョーマの反応に、手塚は小さく苦笑する。 
(我慢が必要なのは、むしろ俺の方だ) 
小さく発せられたリョーマの声に、昨夜の甘い記憶が蘇る。 
リョーマの甘い嬌声、甘い息遣い、甘い肌、そして、身体を繋げた瞬間の、甘い熱さ。 
「……っ」 
きつく目を閉じて、空を仰ぐ。 
「クニミツ…?」 
怪訝そうなリョーマの声に、手塚はゆっくりと視線をリョーマに向ける。 
「…リョーマ…」 
堪らずに、そっと口づけた。 
「ん…」 
リョーマの、鼻に抜ける小さな声ですら愛おしい。 
「………」 
「………」 
互いの舌先だけを触れ合わせて離れ、見つめ合う。 
「クニミツ……大好き…」 
リョーマの瞳が切なく揺れる。 
「ずっと…一緒にいたい……」 
「ずっと一緒だ」 
「………」 
手塚の言葉に、リョーマは黙ったまま微笑む。 
どんなに心から願っても、決して叶わないことがあるのだと、その瞳は語っている。 
「オレさ、やっぱ、朝練、一緒に出るよ」 
「…え?」 
「きつかったら途中で抜けるから………クニミツと、一緒にいたいんだ」 
「………わかった」 
ニッコリと笑ってから、リョーマがまた身を寄せてくる。 
手塚には「無理はするなよ」と、そんなふうに言うことしかできなかった。 
         
         
         
         
         
         
         
         
         
         
         
         
         
 
         
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いよいよ全国大会に向け、各地域の地区予選が始まった。 
リョーマからダブルスにも興味を持ったという話は聞いていたが、いきなり桃城とダブルスを組みたいと言われた時は、手塚の心中は穏やかではなかった。 
だが試合中にダブルスに固執する理由を感じ取った手塚は、苦笑しつつも、内心ホッとした。 
リョーマは「桃城と組みたい」というわけではなく、「ダブルスでのリベンジ」を願っていたのだ。 
(本当に、心の狭い男だ、俺は…) 
ダブルスとは言えないようなリョーマたちの試合を眺めながら溜息を吐き、手塚は小さく眉を寄せてさらに表情を曇らせる。 
リョーマから衝撃的な告白を受けてから、新たにわかったことは何もない。 
家の近くの教会には何度も足を運んでみたが、教会はいつも留守で、家の方にも人の気配がなかった。 
章高医師も、今週は学会に参加することになったとかで、病院は大学時代の友人だという医師に任せ、今日まで帰って来ないらしい。 
まるで、真相を知る面々が手塚を避けるように、一斉に姿を消してしまった。 
全ての手を尽くしたとは言い難いが、そんな状況下でも、すぐに行動できることは全てしたと、手塚は思う。 
それに。 
(今は…試合に集中しなくては…) 
コートに視線を向けると、その視線の先で、リョーマは手塚と一緒にいる時とは別人のような表情をして戦っていた。 
(別人、か…) 
確かに真剣に試合に取り組むリョーマは手塚と二人でいる時のような甘さは全く感じさせない。だがそれとは違う意味で、最近、コートに立つリョーマを見ていて違和感を感じることがある。 
いや、リョーマ自身ではなく、そのプレイを見ていて、だと手塚は思う。 
同学年の、テニスを始めたばかりの連中と比較するのは難があるかもしれないが、彼らと比べて、リョーマは明らかに「楽しそうではない」のだ。 
確かにリョーマはテニスプレーヤーとして、同年代の中では抜きん出た実力を持っている。試合中も冷静で、その度胸には手塚でさえ舌を巻くほどだ。 
だが、どんなに快勝しても、手塚の中には違和感が残る。 
(お前は…テニスが…好きではないのか?) 
時折そんなふうにも思えるほど、コートに立つリョーマは、どこか追いつめられたような瞳を、一瞬、する。 
たぶん誰にもわからないほどの『一瞬の表情』なのだろうが、手塚にだけは、わかる。 
瞬きさえ忘れるほどリョーマを見つめている手塚ならば。 
         
そしてそれは、地区予選を勝ち進むごとに、手塚の中である『確信』へと変わっていった。 
リョーマのテニススタイルは、リョーマ自身のものではない、と。 
プレイだけではなく、コートに立つリョーマの表情も、人を食ったような言動も、左右両手を使った戦法も、全てがリョーマの父親を思い起こさせる。 
(それは、越前南次郎のプレイだ) 
不動峰中との決勝戦、シングルスで戦うリョーマを見つめて、手塚はきつく眉を寄せた。 
リョーマが、『南次郎のプレイ』をする理由が、手塚にはわかってしまうからだ。 
「お前がそんなことをする必要はないんだ…」 
「え?何か言った?手塚」 
隣に居た菊丸が怪訝そうに首を傾げる。 
「いや…」 
瞳を伏せて、手塚は溜息を吐いた。 
リョーマは自分が越前南次郎のクローンだと思っている。その想いが、リョーマにあんな行動や表情をさせているのかと思うと切ない。 
(リョーマのことを調べる前に、俺には、しなくてはならないことがあるようだ) 
そしてそれは、今の青学では、手塚にしかできないことだろう。 
(明日にでも…) 
手塚がそんな自分の思考に思い沈みそうになった頃、その異変は始まった。それには不二たちも気づいたらしく、原因を見極めようと身を乗り出す。 
(なんだ…?) 
「越前の動きが一瞬……」 
リョーマの動きがおかしい。 
体調は良好だと言っていたが、まさか自分の知らないところで何かあったのではないかという不安が、手塚の胸をよぎる。 
しかし、手塚はふと気づいた。 
(あれは、まさか……話には聞いたことがあるが…) 
リョーマの対戦相手は先程からトップスピンとスライスを交互に打っている。それを何度も打ち返すことにより、受けた側の筋肉が萎縮し、一時的に麻痺を起こすことがあるという。 
(確かその麻痺状態のことを…) 
「にゃろう!」 
手塚の思考を中断するようにリョーマが小さく叫んだ。 
その次の瞬間、アクシデントが、起きた。 
         
         
         
         
         
         
         
         
         
         
         
         
         
         
 
         
 
         
         
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「痛いか?」 
もう何度目かになる同じ質問を口にすると、リョーマが小さく苦笑した。 
「痛くないってば」 
地区予選を終え、河村の実家でもある「かわむらすし」で祝勝会を終えてから一旦家に帰り、すぐにリョーマは手塚の家に飛んで来た。 
二人でいつものようにベッドに寄りかかりながら短い逢瀬に甘く耽る。 
優勝という形で地区予選を終えたものの、その決勝戦で、リョーマは左目の瞼に傷を負ってしまった。 
見た目の出血ほど傷はひどくはなかったらしいが、しばらく左目は瞬きをしないように眼帯の奥で閉ざしていなければならない。 
「クニミツ…あの……ありがと…」 
「ん?」 
リョーマが手塚の胸に頬を擦り寄せてから、ふと見上げてくる。 
「オレのこと、信じてくれたから、続けさせてくれたんだよね?…だから…」 
「ああ…」 
そのことか、と手塚は小さく微笑む。 
「お前なら、大丈夫だと思った。何よりお前が戦いたがっていた。違うか?」 
「……違わない」 
ニッコリと微笑んでリョーマが頷く。 
「でもあんな技があるなんて知らなかった。なんて言ったっけ?相手の腕を麻痺させてペースを乱させるなんて、なんかヤな感じ」 
「だが、それも戦略のひとつだ。それにあれは、一朝一夕で会得出来る技でもないぞ」 
「うん……」 
「…きっと、まだまだお前の知らない技やショットがたくさんある。テニスは、案外奥の深いスポーツだ」 
「クニミツ、テニス、好きなんだね」 
「ああ」 
真っ直ぐリョーマを見つめて頷くと、リョーマの右目が微かに揺らいだ。その瞳の揺らぎを感じて、手塚は訊こうと思っていたことを口にするのをやめた。 
『お前はテニスが好きか?』 
その質問の答えを、今のリョーマがどう答えるのかは何となく察しがつく。 
だから。 
手塚はひとつの賭に出ることにした。 
もしもリョーマが本当にテニスを愛しているのなら、手塚はリョーマの瞳の翳りを、ほんの少し拭ってやることができるかもしれない。 
だがリョーマが、手塚が思うほどにはテニスを愛していなければ、『テニスプレーヤーとしての越前リョーマ』は消滅してしまうかもしれない。 
(俺は、お前を、信じている) 
愛することと、信じることは、どこか似ている。 
だから手塚はリョーマを信じることに、なんの迷いもない。 
(お前の怪我が治ったら……) 
手塚はそっとリョーマを抱き締める。 
「クニミツ…」 
「……今日は…あまり遅くまで引き留めるのはやめておいた方がいいな…」 
「え……ヤダよ、約束したじゃんか。………遅くなるって、ちゃんと言ってきたし…」 
「今すぐ帰すとは言っていない」 
「ぁ……」 
額に口づけるとリョーマの身体がざわめくのがわかる。 
「少しだけ……触れても構わないか?」 
「ヤダ……ちゃんと、いっぱい触って……」 
「リョーマ…」 
深く口づけ、そのままリョーマの身体をゆっくりと押し倒してゆく。 
「クニミツ……クニミツ……」 
熱っぽく、吐息混じりに名を呼ばれ、手塚の理性はすぐに危うくなる。 
リョーマの怪我に配慮しなくてはと思うのに、甘い熱が、手塚の思考を麻痺させる。 
「リョーマ…」 
「ぁ……もっと……はやく……」 
もどかしそうに呟き、リョーマが手塚の首に腕を回して縋りついてくる。 
艶やかな水音をさせて舌を絡め合い、次第に荒くなる呼吸が互いの体温を上げてゆく。 
リョーマの上衣を剥ぎ取り、露わになった肌に吸い付くと、リョーマが嬉しそうに微笑みながら甘い吐息を零した。 
「あ…ぁ……クニミツ…っ」 
固く立ち上がる乳首を舌先で転がし、きつく吸い上げ、歯を立てると、リョーマの身体が艶めかしく波打ち、手塚の情欲を煽った。 
「リョーマ…」 
愛しい名を想いを込めて耳元で囁き、そのまま耳朶を甘噛みしてやる。 
「あぁ…っ」 
リョーマの身体が痙攣するようにビクビクと震える。 
「クニミツ…」 
潤む瞳に強請られ、手塚はその瞳を見つめたまま指先を滑らせてリョーマの雄に服の上から触れてゆく。 
「ぁ……」 
途端にリョーマはきつく目を閉じ、顎を仰け反らせて熱い吐息を零す。 
何度か撫でさすってやってから手際よく下穿きをずらし、勃ち上がりかけているリョーマの雄に直に触れてやれば、その表情は一気に艶めいた。 
「あ…っ」 
手塚の手の中で急速に形を変えたリョーマの雄は、その先端もすぐに濡らし始め、さらなる刺激を求めて脈打つ。 
「気持ちいいか…?」 
「うん…」 
頬を上気させたリョーマがうっとりと瞳を潤ませて頷く。 
左目の眼帯が痛々しいが、手塚を見つめる右の瞳はコートに立っていた時とはまた違う輝きを放ち、手塚を誘惑する。 
「…痛いか…?」 
リョーマの前髪を掻き上げてやり、眼帯の上から左目に口づけてやると、リョーマはクスクス笑った。 
「クニミツって、本当は大石先輩より心配性?」 
「……かもしれないな」 
二人でクスクスと笑い、戯れるようにチュッと音を立てて口づけを交わす。 
「……心配性かもしれないが、無茶も、するかもしれない」 
「…いいよ」 
「…………」 
互いの表情から笑顔が消え、切ないほど真剣に見つめ合う。 
「リョーマ」 
「ぁ……クニミツ……」 
そうして部屋には熱い呼吸音が響き、二人の会話は途切れた。 
         
         
         
         
         
         
         
 
         
         
試合の疲れもあったのか、吐精と同時にリョーマの意識は途切れた。 
だがその表情は穏やかで、束の間であれリョーマが幸福に包まれていることを感じ取り、手塚も満足げに微笑む。 
(少し寝かせてやるか…) 
繋がり合ったままの下腹部では二人とも未だ芯を残してはいる。だが、やはり手塚はリョーマの怪我が気になり、燻る欲望を宥めるように静かに溜息を零した。 
改めてリョーマの顔を覗き込むと、少し顔色が悪い。それに激しく揺さぶったせいかリョーマの眼帯がずれてしまっているのに気づき、手塚はまた苦笑する。 
(まったく……俺はとんだケダモノだな……) 
ずれてしまった眼帯をそっと直してやり、埋め込んだままの性器を引き抜こうとすると、その感触に意識を取り戻したリョーマが慌てたように両腕を回して手塚の腰を引き留めた。 
「ダメ……もっと……っ」 
「……今日はもうやめておこう……お前の傷に障る」 
「ヤ……っ」 
リョーマは駄々をこねるようにフルフルと首を横に振り、手塚の腰に両脚を巻き付ける。 
「まだ離れたくない……もう少し、このままでいてよ」 
「…………」 
必死に縋りついてくる愛しい恋人を突き放せるはずもなく、手塚は小さく苦笑して自分の欲望と戦い始める。 
だが理性を総動員しても身体の方は正直で、リョーマの胎内の熱と腸壁の微細な動きを感じているだけで手塚の雄は再びすぐに変形を始めてしまった。 
「ぁ……」 
リョーマが頬を染めて手塚を見上げる。 
手塚は苦笑してからリョーマの額に口づけた。 
「すまない………もう一回だけ、いいか?」 
「うん……嬉しい……」 
うっとりと微笑むリョーマに今度は深く口づけ、ゆるゆると腰を揺らし始める。 
「ぁ……あっ……いい……そこ……っ」 
「ここ、か…?」 
「あぁっ!」 
本当はじっくりリョーマを味わいたいところではあるが、怪我のことを考え、短時間ですむように最初からリョーマの一番感じる場所を狙って突いてやる。 
グジュグジュと音がし始め、繋がり合った部分から手塚の放った体液が溢れてくる。 
「クニ…ミツ……もっと……もっと、オレを感じて……もっと深く……ちゃんと、オレを、覚え、て……っあぁ…っ」 
「リョーマ…」 
荒い呼吸に混じって紡がれるリョーマの言葉が切ない。 
自分を忘れるなと。 
例え明日この身がどうなったとしても、この熱を、この甘い衝動を、忘れないで欲しいと。 
リョーマが伝えたがっている想いが手塚には手に取るようにわかる。 
だから、手塚はその願いを、直向きに叶えてやるのだ。 
そして、手塚もリョーマへ想いを伝える。 
もしもリョーマの身に何か異変が起きた時は、独りでは逝かせない、と。 
深く繋がり合うのは、今、この瞬間だけでなく、そして、身体だけでもない。 
「リョーマ……俺は、何があっても、お前を、離さない…っ」 
「クニ、ミ…ツ…っ」 
「離さない……っ」 
「あぁっ!」 
深く深く、リョーマの最奥を突き上げながら手塚は願う。 
どうかこのまま、二人が魂ごと、永遠に強く結ばれますように、と。 
         
         
         
         
         
         
         
         
         
         
         
         
         
         
         
         
         
 
         
「傷が、ね……」 
情交の余韻を味わいながら、リョーマがポツリと話し始める。 
「ん…?」 
胸にリョーマを抱き締めたまま手塚が優しく先を促すと、リョーマは小さく吐息を零した。 
「結構血が出ていた割に…傷が浅いって、医者が言ってた」 
「………」 
「傷跡も残らないだろうって……」 
「そうか…」 
リョーマがギュッと手塚にしがみついてくる。 
「リョーマ…?」 
「オレ……やっぱり普通じゃない……」 
「え?」 
「だって……怪我したすぐあとに大石先輩に診てもらった時、大石先輩が小さい声で言ってたんだ『こりゃひどいな』って………なのに……」 
そこまで言って、リョーマは黙り込んだ。 
手塚も黙り込む。 
黒川氏はクローンを作り出すだけではなく、新たに生まれるクローン体の遺伝子を改良し、細胞を活性化させる研究も進めていると言っていた。 
つまり、もしもリョーマが越前南次郎のクローンで、且つ、身体の細胞が活性化されているのなら、この短時間で傷が治ってきている可能性もある。 
確かに、あれだけひどい出血をしていながら、ひと針も縫わなかったというのを聞いた時には誰もが驚いた。 
しかし、竜崎がリョーマに施した応急処置を間近で見ていた手塚にはわかるのだが、彼女の手際はかなり良く、しかも傷口が開かぬようしっかりと固定していたために、ある程度傷が塞がってしまったという可能性もないとは言い切れない。 
だが、自分がクローン体だと信じ込んでしまっているリョーマには、些細な傷ひとつでも心の棘を大きくする確実な要因になってしまうのだろう。 
「リョーマ」 
ギュッとしがみついたままのリョーマの身体を、手塚は優しく抱き締めてやる。 
今はどんな慰めも、リョーマには気休めにしかならないだろう。だから、手塚はたったひとつの言葉を伝えることしかできない。 
慰めでも、気休めでもなく、手塚の想いを、伝えることしか。 
「俺は、お前をずっと愛している」 
「………」 
リョーマが大きな瞳を揺らして見上げてくる。 
「お前は俺が、好きか?」 
「うん。大好き」 
真っ直ぐ手塚の瞳を見つめたまま頷くリョーマに、手塚はふわりと微笑みかける。 
「ありがとう」 
手塚が礼を言うと、リョーマは大きく目を見開き、泣きそうな顔をして笑った。 
         
         
         
         
         
         
         
         
         
         
         
         
         
         
         
         
 
         
         
数日が経ち、リョーマの怪我は、医者の言った通り傷跡を残さずに綺麗に治った。 
「越前」 
放課後の部活が終わったあとで、手塚はリョーマを呼び止めた。 
「なんスか」 
素っ気ない声に互いへの甘い想いを潜ませて、二人は向かい合う。 
部活が終わり、解散宣言をしてから間もないが、部員たちは二人の近くにはいない。 
だが、ただ一人、手塚の動向を心配して物陰からこちらを伺っている大石の存在に、手塚は気づいていた。 
手塚は地区予選の帰りに大石と共に学校に向かい、竜崎にある許可を願い出たのだが、その時に廊下にいた大石にも会話が聞こえていたらしく、以来、大石は手塚の行動を心配そうに見守ってくれている。 
「春野台の区営コート、知っているか?」 
手塚が「部長」として話す時のように少し硬い声で言うと、リョーマは怪訝そうに瞬きしてから思い出したように「ああ…」と言って頷く。 
「高架下のところっスね。知ってますけど?」 
学校では敬語で話すというのがすっかり身に付き、リョーマは人気がなくても馴れ合うような言葉遣いをしなくなった。 
大石がこちらを見ている今は、そうでなくては困るのだが。 
手塚はもう一度決心を固めるように溜息を吐き、ポケットに入れたままでいたボールを取り出してリョーマに投げた。 
「なんスか?」 
どうも手塚の様子がおかしい、と、リョーマも気づいたようで、綺麗に整った眉が微かに歪む。 
「三日後の午後三時に待っている。一人で来い」 
「!?」 
「ボールは俺が用意する」 
「クニ…?」 
わけがわからないと言うふうに身を乗り出したリョーマも、手塚の近くにいる大石の影に気づいたらしく、一瞬手塚の背後に視線を滑らせてから口を噤んだ。 
大石に聞こえないように、手塚は声を潜める。 
「…お前に話したいことがあるんだ。テニスが出来る用意をしてコートに来て欲しい。いいか?」 
リョーマは真っ直ぐ手塚を見上げ、そして小さく頷いた。 
「…今日も…一緒に帰れる?」 
呟くように小さな声でリョーマが訪ねてくるが、手塚は首を横に振った。 
「今日は、たぶん大石に掴まるから……」 
大石に背を向けた状態で、手塚はリョーマに苦笑してみせる。 
リョーマは一瞬表情を曇らせ、だがすぐにいつもの勝ち気な瞳になって頷いた。 
「じゃ…」 
リョーマに背を向けてしばらく歩くと、案の定、大石に掴まった。 
「手塚、越前と試合するって……竜崎先生に言っていたこと、本気なんだな」 
「ああ」 
「なぜ……」 
「…………」 
困惑している大石をチラリと見遣り、手塚は何も言わずにまた歩き出す。 
「手塚!」 
「心配するな。無茶はしない」 
「………」 
今度は大石が黙り込んだ。口では無茶をしないとは言うが、手塚が特別扱いしてまで申し込んだ試合で手を抜くはずがないことを、大石は見抜いているのだろう。 
(全力で行くぞ、リョーマ…) 
そうでなくては、リョーマの心の棘のひとつを抜き去ってやることなど出来ない。 
何を言っても無駄だとわかった大石は、それ以上何も言おうとはしなかった。そんな大石に感謝しつつ、手塚の心はまたリョーマのことでいっぱいになる。 
(俺が今、お前にしてやれることは、これくらいなんだ…) 
リョーマの心の棘は、リョーマの出生に関わる全ての謎が明らかになったからといって、消えるものではないのかもしれない。 
だが越前リョーマという人間は、この世にたった一人しかいない。 
そして手塚が愛する人間も、たった一人しかいない。 
手塚が心から愛する越前リョーマは、誰かのコピーではなく、確かに存在し、今もこうして手塚の心を熱くさせているのだ。 
大切なのは、どんな形でこの世に生を受けたかではなく、自分たちが同じ時の中に生まれ出で、出逢い、愛し合えたということだ。 
それがどんなに貴重で、幸せなことであるかを、リョーマにはもっとわかって欲しい。 
星の数ほどいる人間の中で、自分たちが巡り逢い、愛し合えた奇蹟に、喜びを感じて欲しい。 
(だから、俺と戦え、リョーマ) 
手塚はふと足を止め、空を見上げた。 
もしも神という存在がいるならば、自分に「テニス」というスポーツを与えてくれたことを感謝したいと思う。 
テニスを選んでいなければ、リョーマと出逢うことも、愛し合うことも、いやそれどころか関わることさえ出来なかっただろう。 
ただもしも、もうひとつだけ願いを叶えてくれるというなら、リョーマの心に光を与えてやって欲しい。そして、リョーマ自身も、自分に差し込むその光に気づき、受け入れ、心の奥までもその光で満たして欲しい。 
そのためなら、自分はテニスを失っても構わない。自分の身体がどうなろうと、リョーマを幸せにしてやりたい。 
「手塚…?」 
空を見上げたままでいる手塚を、大石が怪訝そうに見つめる。 
手塚はそっと自分の左肘を押さえた。 
「……手塚……三日後に、おじさんの診察が受けられるように、連絡しておくよ」 
「………すまない。頼む」 
大石を振り返り、小さく微笑むと、大石は苦笑しながらも頷いてくれた。 
「行こう」 
「ああ」 
大石に促されて歩き出し、だがまた足を止めて手塚は夕空を見上げる。 
(どうか……) 
どうか、リョーマに、本当の笑顔が戻りますように。 
そして誰かのためでなく、越前リョーマとして、生きていってくれますように。 
声には出来ない手塚の願いは、穏やかな橙黄色の空へと吸い込まれていった。 
 
 
         
         
        
         
         
 
         
         
         
         
         
         
        
続 
         
        
         
        
        
         
        
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        20070222 
         
         
        
        
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