  
        嵐 
          
         
<3> 
 
 
 
 「手塚、ちょっとこっち、来てみないか?」 
間もなく行われる校内ランキング戦のブロック分けを、竜崎や大石とともに校庭に面した教室で行っていた手塚は、コートの様子を見に窓辺へ向かった大石に呼ばれて顔を上げた。 
最後の一人の名をブロック表に書き込んでから、席を立つ。 
大石の隣に立ち指さされた方を見遣ると、練習が始まっているはずの部の様子がいつもと違った。 
ひとつのコートを囲むように、部員のほとんどが集まっている。 
(リョーマ…?) 
その、囲まれたコートにはリョーマがいた。ネットを挟んだ向かいには、二年の荒井。 
(またあいつか……) 
荒井がかなり負けず嫌いなのは何となく知ってはいたが、これでは負けず嫌いと言うより「逆恨み」をしているようにしか見えない。まさに「リベンジ(復讐)」だ。 
すでに始まってしまっている試合は、荒井の方が優位らしく、リョーマの方は満足に打ち返せていないようだった。 
(?インパクト音がおかしい) 
よく見てみれば、リョーマの持つラケットはずいぶんな年代物で、たぶん、彼自身のものではない。 
(「まともな」試合ではないな…) 
すぐにやめさせようかと口を開きかけ、だが、その直後、目に映った光景に、手塚は微かに息を飲んだ。 
リョーマが、打ち返した。 
しかも、「一年生」にしてはあまりにも鋭い打球を。 
(リョーマ……) 
隣にいる大石が「へぇ」と感心したような声を漏らす。 
その後も次々に鋭いショットを放ち、優位だったはずの荒井をあっさりと追いつめた。 
(さすがだな。アメリカのジュニア大会四連覇は伊達じゃない、か……) 
「どう思う?手塚」 
隣にいる大石が興味深そうに瞳を輝かせながら手塚を見た。 
思わず頷きそうになったが、歓喜する胸の内を悟られないようにわざと素っ気なく言った。 
「規律を乱す奴は許さん。全員走らせておけ」 
「え?レギュラー達も?」 
「あいつらもだ」 
平静を装ってドアに向かう。 
「生徒会に顔を出してきますので、少し遅れます」 
竜崎にひと言断ってから教室を出る。 
ドアを閉め、深く、息を吐いた。 
昨日までとはまた違うリョーマへの想いが、胸に込み上げてきた。 
それは、可愛いとか、護りたいとか、そんな言葉では語りきれない想い。 
(あれは…越前南次郎のプレイだ) 
何度もビデオで見た「サムライ南次郎」のプレイがそこにはあった。 
技術的にはまだまだ到底南次郎には及ばないだろうが、プレイスタイルが、そして相手を挑発する態度が、南次郎そのものだった。 
(青学が……変わるかもしれないな…) 
青学テニス部は、強豪の揃う関東の中でも注目視はされているものの、どうしてもあと一歩のところで全国レベルには達することが出来なかった。 
手塚はもちろん、歴代の部長達も「青学に何が足りないのか」という問題についてはいろいろ考えてきた。 
指導者には問題はない。 
練習環境にも問題はない。 
部員数も多く、それ故「競争」も適度に発生している。 
(そう、その「適度」という点が問題だったんだ) 
手塚は小さく眉を寄せる。 
青学テニス部には、毎月の校内ランキング戦を行う倣わしがあり、その度にレギュラーの入れ替えも行われるため、実力を持っていても常時コンディションを整え、臨戦態勢になければならない。 
しかし実際には、レギュラーのメンツはある程度決まってしまっており、ランキング戦も三年の引退で大きくメンツが入れ替わる時期以外は、「初めから結果がわかっている」と考える者が増えてしまった。 
ある程度実力を維持するのも大事なことかもしれないが、もっとメンタル的な点で、青学には「ハングリー精神」が足りないように、手塚には思える。 
だから、「越前リョーマ」の出現には、何か、部内に嵐を巻き起こしてくれそうな期待感が、ある。 
「越前リョーマ……」 
手塚にとっては愛しくて、恋しくて、可愛いその少年は、コートに立つと凶悪に牙を剥き、容赦なく相手を仕留める野生の獣に変貌するのだろう。 
その、変貌した美しい獣を想像すると、恋情で熱くなっている手塚の心を、恋情とは違う想いがさらに熱くさせる。 
(心が焼き殺されそうだ……) 
手塚は小さく笑みを零すと、廊下の窓から空を見上げた。 
風が出てきたのか、白い雲がみるみる形を変えながら流れてゆく。 
「俺も油断は出来ないな」 
小さく呟き、吐息に似た溜息を零して生徒会室へ向かう。 
歩いているうちに、早く用事を済ませてリョーマに逢いたくて堪らなくなり、階段を駆け上がり、誰もいない廊下を走り抜けた。 
途中、廊下の柱に貼ってある「廊下は走らない!」というポスターが目に入ったが、苦笑して見なかったことにする。 
早く、逢いたい。 
少しでも長く、リョーマの傍にいたい。 
(重症だな) 
我ながら呆れるほど、心の中も、頭の中も、リョーマへの想いが溢れかえっている。 
ゆっくり、リョーマとの心の距離を縮めようと思っていたはずなのに、これではこの先、自分がリョーマに何をしでかすかわからない。 
生徒会室が見えてきて、手塚は走るのをやめて歩き出した。 
(だが…リョーマに…拒絶されるのだけはごめんだな…) 
そのためには、暴走しそうになる自分を抑えなければ。 
(大丈夫だ。アイツのカラダが欲しいワケじゃないんだ) 
ふぅっと息を吐いてから生徒会室のドアを開ける。 
「ぁ、会長、お待ちしていました」 
生徒会役員メンバーが一斉に手塚へ視線を向ける。 
「すまない。新入生歓迎会の件だな。すぐ始めよう」 
「はい」 
この部屋に来るまでリョーマのことで心を満たしていた、ただの「手塚国光」から、生徒会長の「手塚国光」へと一瞬で切り替える。 
そう、今までだって、自分は理性で動く人間だった。 
だから、これからも感情のみで動くことはないだろうと思う。 
(大丈夫だ) 
リョーマのことを想うなら、リョーマの立場になって考えてやれるような男でありたい。 
手塚は書記から書類を受け取りながら、リョーマへの想いの詰まった心の扉に、一時、鍵をかけた。 
         
         
         
         
 
         
         
生徒会での打ち合わせを終え、やっとコートに来ることが出来た手塚を真っ先に出迎えたのは、大石の苦笑だった。 
「どうかしたのか?」 
何かあったのかと、眉を寄せながら手塚は大石に歩み寄る。 
「いや……何かあったワケじゃないんだけど……越前って、扱いが難しいな」 
「え?」 
「あの実力だから、初心者の一年達と同じ練習させるのもなんだし……球拾いだけってのも気が引けるっていうか……」 
手塚は短く沈黙してから、小さく溜息を吐いた。 
「何を遠慮しているんだ大石。一年は九月までは基礎練習と球拾いのみ。それがここでの決まりだろう」 
「うん……まあ…」 
「今のところ特別扱いをする必要はない。ランキング戦のあとで、もしも状況が変わったならば、それはその時に考えればいい」 
「ぁ………そうだな!わかったよ手塚。さすが、冷静な判断だ」 
内心苦笑しながら大石に頷いてやると、大石は悩みがスッキリ解決したようで、いつもの晴れやかな笑顔を浮かべていた。 
「一年生に素振りの続きさせてくるよ。途中でグラウンド走らせていたから、まだ終わってないんだ」 
「ああ。頼む」 
大石を見送って、ザッとコート内に視線を走らせると、一年生の群れの外れにいるリョーマと目が合った。 
リョーマが軽く帽子を上げてペコリと頭を下げる。 
微笑みそうになるのを抑えて、手塚も小さく頷き返した。 
そのリョーマへ大石が駆け寄り、何やら話をし始めると、リョーマは大石の方を見ずに何度か頷き、溜息を吐いて一年の群れの中に入っていった。 
(ランキング戦までの辛抱だ) 
心の中でリョーマに声を掛け、手塚はレギュラー達が練習するAコートへと足を向ける。 
途中、荒井がいるのを見つけた手塚は、暫しじっと見つめてから、荒井のもとへと向かった。 
「部、部長っ……ちーっス」 
あからさまに荒井が萎縮するのがわかる。 
「荒井」 
「はい!」 
「他人を貶めるのではなく、自分が上に上がることを考えろ。今の自分には何が足りないのか、よく考えて練習に励め」 
萎縮していた荒井の瞳が、違う輝きを放ち始める。 
「は……はい!ありがとうございました!」 
最敬礼する荒井に頷いてから、手塚はクルリと背を向けて、再びAコートに向かって歩き出す。 
「さすが手塚。荒井のヤツ、お前のひと言で目が覚めたみたいだぞ」 
後ろから追いついてきた大石が、どこか嬉しそうに手塚に耳打ちしてくる。 
「本当に目が覚めたかどうかは、今後の行動でわかるだろう」 
「うん。そうだな!」 
大石を振り返るフリをして、少し離れたところで素振りを開始する一年部員達に目をやった。 
まだ形の整っていないフォームが多い中、ひときわ目立って美しいフォームでラケットを振るリョーマ。 
(格が違う、な) 
目を細めて暫しリョーマを見つめていると、横にいた大石が小さく溜息を吐いた。 
「まあ、扱いに関しては解決したけど……越前自身の態度も問題だよな」 
「?」 
大石の呟きを怪訝に思って視線を向けると、大石が、また先程見たのと同じ苦笑を浮かべていた。 
「越前自身の態度?」 
「うん。アメリカ育ちのせいかな……他の一年と馴染めていないっていうか…いや、一年だけじゃなくて、部員全員と、馴染めていない気がするんだ」 
「まだ入部したばかりだからじゃないのか?」 
「それはそうなんだけど、……俺や英二が話しかけても素っ気ない態度で返されて、会話が続かないんだ」 
苦笑しながら話す大石を見つめながら、手塚は先程、大石の話を明後日の方向を向いて聞いていたリョーマの態度を思い出した。 
「………少し、様子を見てみないか」 
「うん……」 
「そんなに気に病むことはない。しばらくしても態度が変わらなければ、俺から話をする」 
「え?手塚が?」 
驚いたように目を見開く大石に手塚が眉を寄せる。 
「…俺は出ていかない方がいいのか?」 
「え?ぁ、いや、そういう意味じゃなくて、手塚が、一年生に関心持つのって珍しいだろ?やっぱり越前は特別なのかなと思って」 
手塚は内心ギクリとした。 
リョーマへの特別な感情を悟られたわけではないが、少しでも「特別扱いしている」と思われては困る。ただでさえ、ランキング戦のブロック分け表にリョーマの名を書き込んだことで、すでに『特別扱い』をしてしまったのだから。 
「…これだけ目立つことをされては、無関心ではいられないだろう。ただそれだけだが?」 
真っ直ぐ大石の目を見つめながら話すと、大石は眉をへの字に歪めてコクコク頷いた。 
「そうだよな。手塚は部長だから、部全体の雰囲気を乱す奴は、直々に注意しないとな」 
「……ああ」 
「さあ、もう練習に集中しようか。アドバイスありがとう、手塚。ぁ、今日の練習はどうする?肘の具合は?」 
「大丈夫だ」 
声のトーンを落として気遣ってくれる大石に表情を和らげて頷いて見せた。大石もニッコリと微笑む。 
二人で並んでAコートへ向かいながら、手塚は大石の言った言葉を思い返し、内心首を傾げた。 
周囲と馴染めないリョーマ。 
いや、馴染もうとしない、のかもしれない。 
手塚の前ではあんなに素直な笑顔を見せるリョーマが、なぜ、他の人間には素っ気ない態度を取るのか。 
(少し、話をしてみるか…) 
大石には様子を見ようといったものの、やはり気になる。 
手塚にだけ素直に接してくれるのははっきり言って嬉しいが、部員達との間に溝を作るのはあまり好ましくはない。 
(今日も一緒に帰れるなら、その時に……) 
ベンチ横にラケットケースを置き、さりげなく一年部員の群れを見遣る。 
遠目でもリョーマがどこにいるのかすぐにわかった。 
(まだまだ…知らないことがたくさんある…) 
リョーマの全てを知りたい。 
手塚に見せる笑顔の意味も、他の部員にとる素っ気ない態度の理由も。 
自分が全てを見せれば、リョーマも全てを晒してくれるだろうか。 
(それもまた、難しいか…) 
自分の全てを晒すということは、リョーマへの想いをもさらけ出すということになる。 
そうするには、まだ、勇気が足りない。 
微かに眉を寄せ、視線を空に向けて溜息を吐く。 
ずいぶん厄介な相手に恋をしてしまったものだと、手塚は小さく苦笑する。 
(それでも、もう、止められないんだ) 
この恋の行く先にどんな結末が待っているのかはわからないが、走り出してしまった心は、もう止められない。 
誰にも。 
そう、自分自身でさえも。 
         
         
         
         
         
         
         
 
         
         
練習を終え、手塚は日誌を書くフリをしてコート内のベンチに腰掛け、コート整備をするリョーマの様子をさりげなく窺った。 
手塚がコート内にいるせいか、ネットを片づけたり、ボールを回収して片づける一年達は顔を強ばらせて、無駄話をすることなくせっせと仕事に励んでいる。今日はコートのブラシ掛けが担当らしいリョーマも、周囲とひと言も言葉を交わすことなく、黙々と作業していた。 
しばらくして、ネットやボールの片づけも終わり、ブラシ掛けもまんべんなく済んだ頃、一年に片づけ方を指導していた二年生が手塚に走り寄り「片づけ終わりました」と報告に来た。 
「ん。ご苦労だった。着替えて帰っていいぞ」 
「はい!ありがとうございました!」 
ペコリと頭を下げ、その二年部員の合図で一年生達も手塚に挨拶をしながらワラワラと部室に向かう。 
一年の群れの最後尾にいたリョーマも、手塚の前を通り過ぎながら、帽子を取って「お疲れッした」とぼそりと呟いた。 
「ああ」 
手塚がリョーマを見つめながら頷いてやると、帽子の下でリョーマがチラリと視線をこちらに向け、微かに笑むのがわかった。 
もう一度、今度は少し表情を和らげて小さく頷くと、リョーマも頷き返して手塚に背を向けた。 
言葉を交わさなくても会話が出来たようで、手塚の心が熱を持つ。 
その直後、「リョーマくん」と呼ぶ、少し高めの声が聞こえ、手塚はそちらに意識を向けた。 
「リョーマくん、一緒に帰らない?確か、帰る方向一緒だったよね?」 
「悪いけど、用事があるから」 
素っ気なく断るリョーマの声も耳に届く。どうやら部室に入りきれず、コートを出たすぐ近くのところで話をしているらしい。 
「え?そうなの?何か買い物?」 
「べつに」 
「…そっか、じゃ、明日は一緒に帰れる?」 
「………」 
今度はリョーマの返事は聞こえてこなかった。 
チラリと視線を向けてみると、リョーマは会話していた同級生にあっさりと背を向け、一人水飲み場の方へ歩いて行ってしまった。 
「……リョーマくんてさぁ……なんか、話しづらいね」 
残された一年生が傍にいる同級生に、少し声を潜めて話し始める。 
「うん。僕もさっき片づけ始める時に話しかけたんだけど、『ふーん』で終わっちゃってさ、会話になんなかった」 
「人見知りとかするタイプには見えないけどね」 
「うんうん。先輩にも堂々と話、するもんね」 
「…僕たちとはレベルが違うから、話なんかしたくないのかな」 
「…………」 
次第に会話している一年生の声音が沈んでゆき、消沈してゆくのが手に取るようにわかる。 
(なるほどな…) 
大石が言っていたことが、今、少しだけわかった。 
(やはり、少し話をしよう) 
手塚は立ち上がると、コートを出て水飲み場へと足を向けた。 
         
 
部室から少し死角になっている水飲み場には、リョーマ一人しかいなかった。 
バシャバシャと顔を洗っているリョーマに近づき、顔を洗い終えたところでタオルを差し出してやる。 
驚いたように顔を上げたリョーマは、手塚の顔を見てふわりと表情を緩めた。 
「ありがとうゴザイマス」 
リョーマはニッコリ笑って手塚からタオルを受け取り、顔を拭く。 
「…リョーマ」 
「………なんスか?『部長』」 
だが、声は掛けたものの、なんと言って切り出せばいいのかわからず、手塚はそのまま黙り込んでしまった。 
「ねえ、今日も一緒に帰ろ?」 
何も言わない手塚を不審に思う様子もなくタオルを返してくるリョーマからタオルを受け取り、手塚も表情を和らげた。 
「………ああ」 
頷いてやるとリョーマが嬉しそうに微笑む。 
こんなにも愛らしく笑うリョーマが、どうして他の人間にはあれほど素っ気ない態度を取るのか。 
(俺としては嬉しいが……) 
そう考えてしまってから手塚は内心苦笑する。 
自分だけに微笑んでくれるリョーマに、手塚は明らかに『自分だけが特別』なのだと、優越感を感じている。 
だが部長としては、このまま放っておくわけにもいかない。 
(いや、それだけじゃない) 
どうして自分だけに微笑みを向けてくれるのか、その明確な理由を、リョーマの口からはっきりと聞いてみたい。 
それは、もしかしたら手塚の望む答えかもしれないと思うと、どうしようもなく胸が熱くなるのだ。 
(確かめてみたい) 
リョーマも自分と同じ気持ちなのではないか。 
もしもそうなら、自分もきちんとリョーマへ想いを伝えよう、と思う。 
(帰り道の途中で、それとなく話を切り出してみよう) 
口下手な自分が上手く話せるかは自信がないが、今回だけは、何とかしてリョーマの本音を聞き出したい。 
「…今日も何か食べて帰るか?」 
「うん!」 
嬉しそうに微笑むリョーマに目を細めながら、手塚は小さな決意を、胸の奥で固めていた。 
         
         
         
         
         
         
青春台の駅を越えたところに、青学の生徒があまり立ち寄らないファストフード店があるのを、手塚は知っていた。 
同じファストフード店が駅の手前にもあるため、青学の生徒は皆そちらを利用してしまうので、駅の向こう側の、さらには駅から少し離れているこの店をわざわざ利用する生徒はいないのだ。 
普段手塚はあまりファストフード店は利用しないが、以前、青学の生徒の少ない場所を一人で歩きたくなって、いつもは行ったことのない『駅の向こう側』を散策している時に、偶然この店を発見した。 
その、「青学の生徒がいない」という点を、リョーマも気に入ってくれたようだった。 
手塚はその話題から、少し踏み込んでみようと思った。 
「青学には馴染めたか?」 
「ん………まあ」 
チーズバーガーを頬張りながら、リョーマは曖昧に返事をする。 
「…俺も友達は多い方ではないが……気の合うヤツはいそうか?」 
「………」 
チラリとこちらを見ただけで、手塚の問いには答えず黙々と食べ続けるリョーマに、手塚は小さく溜息を吐いた。 
「…人付き合いは難しいからな……無理に友達を作る必要もないが…」 
「クニミツだけでいいよ」 
手塚の言葉の途中で、リョーマは拗ねたような口調でそう言った。 
「べつに……クニミツがいてくれれば……他に友達なんか……いらないし……」 
「…………」 
ほんのりと頬を染めて呟くように言うリョーマを、手塚はじっと見つめた。 
「俺がいれば、他はいらない、と?」 
「………」 
静かに手塚が問うと、リョーマは視線を合わせずに小さく頷く。 
「どうして?」 
「え?」 
手塚の問いに、今度は少し驚いたようにリョーマは顔を上げた。 
「どうして俺なんだ?」 
「………」 
テーブルに片肘をつき、少しだけ身を乗り出すようにしてリョーマを見つめていると、手塚を見つめたままリョーマの頬がどんどん赤みを増した。 
「どうして、って……」 
「ん?」 
出来るだけ柔らかく聞き返してやると、リョーマは瞳を揺らして俯いた。 
「……なんか…さ…」 
「うん」 
「なんか……クニミツは…話しやすいっていうか……オレのことわかってくれるっていうか……」 
「そうか?」 
優しく相槌を打ってやると、リョーマはまた視線を手塚に向けてきた。 
「オレが『越前』だってわかっても、クニミツの態度は変わんないし……ちゃんとオレのこと、見ててくれて……」 
「…今まで出会った人は、お前が『越前』だと名乗ると、態度が変わったのか?」 
「………全部がそうだったワケじゃないけど……」 
口籠もるリョーマに、手塚はさらに声音を和らげてみる。 
「それで人付き合いが苦手になったのか?」 
「…………」 
だがその質問に、リョーマは一瞬何かを言いかけ、すぐに思い留まったかのように口を噤んだ。 
先程から手にしているチーズバーガーも、口に運ばれることはなくなっている。 
「リョーマ?」 
「……クニミツは……クニミツこそ、何でそんなに、オレだけに優しいわけ?」 
「え?」 
切り返されて、今度は手塚が口籠もった。 
「部員の前じゃあんなに怖い部長なのに……オレの前でだけ……なんで、そんなふうに……」 
上目遣いに手塚を見つめ、リョーマの頬がまた赤く染まる。 
手塚の頬もほんのりと熱を帯びた。 
(お前が好きだからだ) 
心の中でそう呟いてみるが、それを口には出来ない。 
そんな勇気は、まだ、ない。 
「クニミツは、オレのこと、好き?」 
「え…」 
頬を真っ赤に染めたリョーマが、どこか縋るような視線を向けてきている。 
「オレは……初めて逢った時からクニミツのこと好きだよ」 
「………」 
「クニミツは?」 
手塚の鼓動が急激に加速してゆく。頭の中が真っ白になって、上手く言葉が出てこない。 
(好き……?……リョーマが、俺を……?) 
軽いジョークなのかとも思ったが、リョーマの真剣な瞳を見ていると、それが単なる冗談ではないことがヒシヒシと伝わってくる。 
「クニミツだけは、ずっと友達でいてくれる気がするんだ。オレも…クニミツと友達でいたい……」 
「…………」 
スッと、手塚の心の硬直が解けた感覚がした。 
リョーマの言う「好き」は「友達として」の「好き」だ。 
手塚がリョーマへ向けている想いとは、違う。 
「……ずっと友達だ」 
漸く紡いだ手塚の言葉に、リョーマは瞳を輝かせた。 
「ぁ…」 
「俺もリョーマが好きだ。学校ではどうしても学年が違うから『先輩と後輩』ということになってしまうが、そんなものは関係なく、リョーマとは、もっと、親しくなりたい」 
「ホント?」 
「ああ」 
嘘は言っていない。 
リョーマのことが好きだ。 
リョーマとはもっともっと、心を近づけたい。一番親しい存在になりたい。 
ただそれは、リョーマが手塚へ向けるのとは少し違う種類の想い。 
(俺はお前に恋をしているんだ) 
自分の「好き」と、リョーマの言う「好き」は違う。 
だがリョーマにとって、手塚が特別であると言うことに違いはないのなら、今は、それだけでいい。 
「ずっと……ずっと、友達でいてくれる?」 
「ああ」 
身を乗り出すリョーマに、手塚は精一杯柔らかく笑んでやる。 
「ゆびきり、するか?」 
「ユビキリ?」 
首を傾げるリョーマに、手塚は自分の小指を差し出した。 
リョーマもそれに倣って小指を差し出す。 
「ゆびきりげんまん…」 
リョーマの小指に自分の小指を絡め、小さく揺すりながら手塚が静かに歌う。 
「嘘ついたらハリセンボン、飲ーます…」 
「何か、知ってるかも、これ…」 
「そうか?」 
小指を絡めたまま手塚が微笑むと、リョーマも頬を染めて嬉しそうに笑う。 
「うん……そうだ……すごく小さい時に母さんと、やったことがある気がする……大切な約束した時に……」 
「そうだ。これは大切な約束を交わす時にだけする『おまじない』だ」 
「おまじない?」 
「約束を破ったら、『ハリセンボン』飲まされるからな。絶対に破れないだろう?」 
「ハリセンボン、ってなに?」 
「針を千本、という説と、魚の、ほら、あの棘の多い魚を飲ませる、というのと、二つの説があるな」 
「うわっ、なにそれ、キョーハク?」 
「だな」 
「オレは飲まないからね。針も魚も」 
「俺もごめんだな」 
二人で見つめ合って、同時に笑い出す。 
「じゃあ、ずっと友達だね」 
「ずっと友達だ」 
もう一度、繋いだ指を揺らしながら微笑み合う。 
「嬉しい。オレにも友達が出来たんだ……」 
リョーマの言葉に、手塚はただふわりと微笑んだ。 
(友達、か……) 
今は「想い」の種類に微妙なずれがあるが、もしかしたら、いつの日か、リョーマの想いが自分と同じものに変わってくれるかもしれない。 
儚い望みだとは思うが、ほんの砂粒ほどでも希望があるなら、絶望せずにいられる。 
「これから毎日、一緒に帰ろう?クニミツ」 
「ああ、そうしよう」 
うっとりと甘えるように言うリョーマに愛しさが募る。 
リョーマの中で『特別』な立場にいる自分に小さな満足感を覚え、手塚はこの日、それ以上リョーマの「本音」を追及しようとはしなかった。 
         
         
        
だが翌日から、手塚は少し頭を悩ませることになってしまった。 
        
         
         
        
         
         
         
 
 
         
        
  
「手塚、少しまずいんじゃない?」 
放課後の練習の合間に、珍しく不二が真面目な面持ちで声を掛けてきた。 
「俺も、ちょっとマズイと思うよ」 
大石も顔を強ばらせて会話に参加してきた。 
手塚は黙ったまま、視線をリョーマに向けた。リョーマは初心者の一年生に混じって、今日も素振りを続けている。 
「越前のヤツ、ほとんど誰とも口をきかなくなってる。何かあったのかな」 
大石が眉を顰めながら溜息を吐く。 
「あれじゃ、そのうち、みんなの方が越前に声を掛けなくなるよ。二年や三年にもあまり良い印象ないし。孤立しちゃうのは時間の問題だと思うな」 
不二も溜息混じりに言いながらリョーマに視線を向ける。 
「これでランキング戦に特別参加することが知れたら、アイツ、なんかされるんじゃないか?」 
不安げな大石の言葉に、手塚の眉がピクリとつり上がる。 
「荒井か?」 
「いや、荒井だけじゃないよ。越前のヤツ、上級生にも不遜な態度とるから、みんなの反感買ってるんだ」 
「…………」 
手塚は腕を組んで考え込んだ。 
『クニミツだけでいいよ』 
あのリョーマの言葉が、こんなふうに実践されるとは思いもしなかった。 
リョーマは本当に手塚さえいてくれればいいと思っているらしく、他の部員達と『一線』を明確に引き始めたのだ。 
いや、それは『線』と言うよりは深い『溝』、もしくは高い『壁』のように思える。 
とにかく自分へ誰も近づけさせないようにするリョーマの態度は、度が過ぎていると、手塚でさえ思う。 
「わかった。俺が話をする」 
手塚がそう言うと、大石と不二は苦笑しながら頷いた。 
「でも、手塚が話をする前に、桃城の力を借りるのも、ひとつの手かもしれないね」 
「桃城?」 
不二の言葉に手塚が小さく眉を寄せると、不二は「うん」と言って頷いた。 
「桃城は、人当たりいいし、事実上二年生のまとめ役だからね。桃城が越前と親しいなら、とりあえず二年生は誰も越前に手を出さなくなるよ。だから、まずは桃城にそれとなく越前に近づいてもらって、本音を聞き出してもらうといいかもしれない」 
「………」 
手塚が黙り込むと、大石が不二の意見に賛同し始めた。 
「そうだな……それ、いい考えかもしれないぞ、手塚。桃だったら俺たちより学年が近いわけだし、越前も話しやすいんじゃないか?」 
「………ああ」 
「じゃあ、早速、桃に話をしてみよう。引き受けてくれるといいけど」 
言うが早いか、大石は桃城の元へ走って行ってしまった。 
その大石の背中を見送って溜息を吐いていると、不二が怪訝そうな顔をした。 
「桃城に任せるのじゃ不安?」 
「え?」 
「何か、不満そうな顔してるから」 
「…いや」 
「そう?」 
不二にニッコリと微笑まれて、手塚は内心深い溜息を吐く。 
自分とリョーマが『友達』であることは、たぶん、まだ誰も知らない。だからここで強く「自分が話す」と主張するわけにもいかなかった。 
桃城が二年生の事実上のまとめ役で、さりげなくトラブルを収めてくれていたことも知っているが、リョーマに関しては、できれば手を借りたくはない。 
手塚は自分の胸の奥で、嫌な感覚がジリジリと込み上げるのを感じた。 
(これは…嫉妬、いや、独占欲、か……?) 
「越前って、身体はあんなに小さいのに、ウチの部のちょっとした嵐になっちゃったね」 
「嵐……」 
「まだまだいろんなものを、掻き乱しそう。……もう乱されちゃったものもあるみたいだけど」 
ギクリとして不二を見つめると、不二はどこか意味ありげに微笑んだ。 
「僕たちもウカウカしていられないかもね」 
「………」 
(不二の前で気は抜けない。少しでも感情を表に出せば、すぐに何もかもを見透かされそうだ…) 
黙ったまま同意も否定もしないでいると、大石が走って戻ってきた。 
「桃に話してみたら、二つ返事で引き受けてくれたよ。桃も気になっていたみたいで、早速今日の帰りに声を掛けてみてくれるって」 
「そう。さすが面倒見のいい桃城だね。しばらくは任せて様子を見てみようよ。ねえ、手塚」 
「…………」 
手塚が小さく頷くと、大石と不二も顔を見合わせて頷き合った。 
(嵐、か……) 
リョーマとの出逢いによって平穏だった自分の心に嵐が起こったことは認めるが、確かに、リョーマ自身が嵐そのものなのかもしれないと、手塚は思う。 
自分の心を掻き乱し、テニス部内を掻き乱し、今また、手塚の心に別の嵐を呼び込もうとしている。 
ランキング戦が終わる頃には、部内も、自分の心も、さらに掻き乱されることになるだろう。 
(厄介な相手に恋をしてしまった) 再びそんな考えが浮かぶが、やはり、後悔はしていない。 
なぜなら、リョーマと出逢い、リョーマを好きになれたことを、手塚は嬉しく思っているからだ。 
この出逢いは、一生に一度の恋になる予感がする。 
そんな相手に巡り会えた自分を幸運だとさえ思える。 
それに、嵐の通り過ぎたあとには、必ず澄み渡った青空が広がるはずだ。 
リョーマの中の嵐が収まり、彼自身が穏やかな風に戻れた時、そこには新しいリョーマが生まれているかもしれない。 
そして自分の心にも澄み渡った青空が広がることを夢見て、最後まで諦めずにいようと手塚は思う。 
(青空、か……) 
手塚は組んでいた腕を解いて、ふと空を見上げた。 
上空の強い風が、薄い綿のような雲を千切り、変形させながら遠くへと流してゆく。 
(あの日見た飛行機雲の果ては、どこに繋がっていたのだろう……) 
リョーマと出逢った直後に見た、真っ白い飛行機雲。 
もちろんそれは自然に出来たものではなく、飛行機が作り出した人工的な雲だったが、その美しさと儚さは、自然に生まれた雲にも劣らないほど胸を打つものがあった。 
(お前の心も、どこに向かっているんだ……リョーマ……) 
飛行機雲の端は、虹の端を見つけるよりも容易く感じるが、実体があるのにこの手に出来ないもどかしさは、虹を見上げた時よりも何倍も大きい。 
それは、目の前にいるリョーマの本心を聞き出せていないもどかしさと、どこか似ている気がする。 
「手塚?」 
「……ああ、今行く」 
空から視線を下ろして大石に頷いてみせてから、手塚は素振りを続けるリョーマに視線を向ける。 
(俺が、護ってやる……) 
例えリョーマがどんなに凶悪な嵐だったとしても、自分だけは、全てを受け止めてやりたいと思う。 
リョーマの中の嵐も。 
リョーマが起こす嵐も。 
そして、リョーマの全てを受け止められるほどの、度量のある男に、なりたい。 
「………さあ、練習に集中しよう」 
誰に言うでもなく口にした言葉は、自分自身へ向けたもの。 
「何か」が始まる前に、その「何か」を恐れて、足を竦ませてはいけない。 
今自分が出来ることは、直向きにテニスに向き合い、そして、リョーマに誠実であること。 
あの日、リョーマと初めて出逢った直後に見た飛行機雲は、青空に真っ白いラインを、どこまでもどこまでも、真っ直ぐに描いていた。 
自分の中のリョーマへの想いもまた、果てなど見えないほど、真っ直ぐ彼へと続いていくだろう。 
この想いが、届くまで。 
         
         
ランキング戦は、もう目の前に迫っている。 
越前リョーマという愛しい嵐は、今はただ、手塚の視線の先で無心にラケットを振っていた。 
         
         
 
         
         
         
         
         
         
        
続 
         
        
         
        
        
        
        
         
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        20061030 
         
         
        
        
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