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四月に入り、青春学園中等部に新学期が訪れた。
新学期の中でも一学期は特に、それぞれの学年が新たなスタートを切るため、新鮮さと緊張とが入り交じった独特な空気に満ちている。
手塚は生徒会室の窓から校庭を眺めた。
緑の多いこの青春学園は桜の木もかなり多く植えられており、学校周辺と、正門から校庭を取り囲むように並ぶ桜並木は、この辺りではちょっとした「お花見スポット」になっている。
裏門の傍には大きなしだれ桜もあり、通りがかる人の目を惹きつけていた。
この春の光景を見るのはもう三度目だが、手塚はこの時期の校庭が一番好きだった。
今年は特に桜が開花してから天気が崩れなかったので花の保ちが良く、未だに枝が見えないほどの花を咲かせている。
だが少しでも風が吹けば視界を薄紅色に染めるほどの花びらが舞い散り、その光景には誰もが足を止める。
(彼も気に入るだろうか…)
数週間前に出逢ったリョーマと名乗った少年。彼と接点が持てればいいと、密かに抱いていた手塚の願いは、その日のうちに呆気なく叶ってしまった。
あの大会会場に来ていた青学テニス部顧問の竜崎と偶然会って話すうち、手塚が出逢ったリョーマという少年が、四月から新入生としてこの青春学園に入学してくると聞いたのである。
しかも、手塚が驚いたのはそれだけではなかった。
あの少年の名は「越前リョーマ」という。
その名を聞いて、手塚はすぐに一人のプロテニスプレーヤーを思い浮かべた。
あからさまに竜崎に問いはしなかったが、リョーマの年齢やアメリカに住んでいたということを鑑みて、いや、何より、あの真っ直ぐな瞳が、彼の人と重なった。
突風のように日本テニス界に現れ、頂点を目指して世界にその名を轟かせ、だがその頂点に登り切る前に、テニス界から忽然と姿を消した、伝説のプレーヤー。
サムライ南次郎こと、越前南次郎。
手塚はそのプレイを生で見ることは叶わなかったが、テニス好きだった母に、何度も「サムライ南次郎」の試合のビデオを見せて貰った。夢中で画面にかじりついて見ていた。
世の人々はそのプレイを『天衣無縫』と銘打ったが、手塚の目には、南次郎はまるでしなやかで荒々しい野生の獣のように見えた。
そのプレイを美しいと思った。
そうして手塚もラケットを握るようになって、改めて思い知った。
越前南次郎のプレイスタイルは、自分には真似の出来ないものであると。
その、越前南次郎と同じ姓を持つ越前リョーマ。
手塚はますます、あの瞳の大きな、越前リョーマという少年に興味を持った。
「会長」
背後から声がかかった。
手塚は昨年から青春学園中等部の生徒会長をしている。二年生で生徒会長になるのは青学では二十数年ぶりとかで、他校にまで注目されたりもした。
そ の二十数年前に二年生で生徒会長になったという生徒は、K大生物理工学部に進学し、首席で卒業後大学院を経てアメリカに渡り、有名な研究機関で数々の功績を挙げたらしい。な んの研究なのか具体的には手塚は知らないが、今でもこの学園の誉れとして、何かというと越前南次郎とともに引き合いに出されるほどだ。
活躍のジャンルこそ違うが、二人は共に、この青春学園の誇りなのだ。
手塚は研究者になるつもりはなかったし、生徒会長になったのも、大石やクラスメイトたちに勧められたからであって、自分の置かれている立場がそれほどすごいものなのだとは思っていない。
だが周囲の、手塚を見る目は尊敬や憧れに満ちていて、時折手塚はその目を逃れて無性に一人になりたいと思うこともあった。
それでも行事の際には逃げ出すわけにも行かず、手塚はこの生徒会室から指示を出し、時には自ら現場に足を運んで尽力する。
明日は、この学園の行事の中でも特に慎重に進めなければならない入学式がある。そのための設営や、教師及び運営スタッフとの打ち合わせで、手塚は始業式を終えた午後からずっと動き回っていた。
「少し予定より遅れましたが、手配した花屋が先程注文した花を届けてくれました。今、OBの華道家の先生がステージの花を生けてくれています。それ以外の講堂の設営はもう仕上がったようです」
「そうか。ではあとは、受付のスタッフとの打ち合わせと、放送部に任せているBGMについての最終的な打ち合わせだな」
「はい」
手塚に報告に来た書記を務める二年の男子生徒は、ほんのりと頬を紅潮させて手塚を見上げている。
だが手塚はそんな書記の様子には構うことなく小さく溜息を吐いてから、スッと腕時計に目を走らせた。
「十分後に受け付けスタッフと打ち合わせをする。集められるか?」
「はい!」
「頼む。では十分後に、受付に行く」
書記は姿勢を正すと、一礼をしてから部屋を出て行った。
「…………」
一人残された手塚は、深く溜息を吐き、再び窓の外の光景に目をやった。
「明日……か……」
心の中で何かがざわめいている。
あのトーナメント会場で越前リョーマに出逢ってから、ずっとこんな調子だった。
そのざわめきが、今日は一段と、強い。
明日になれば越前リョーマと逢える。
そう思うだけで、手塚の心の中で小さな嵐が起こるのだ。
(本当に……どうしたのだろう、俺は……)
大石の言葉ではないが、あの少年の、「越前リョーマ」の、プレーを見てみたかった。
(テニス部に入るのだろうか…)
この学校に入学したからと言って、リョーマがテニス部に入ってくれるとは限らない。どこかのテニスクラブに所属して、学校の部活では何か違う部を選ぶ可能性だってある。
(説得、するか……)
もしもリョーマが他の部を選びそうになったなら、引き留めてみようかと思う。優遇するわけにはいかないが、スカウトするくらいは許されるだろう。
そこまで考えて、手塚はハッと我に返った。
「………どうかしている…」
溜息を吐いて、額に手を当てる。
誰にも関心など持ったことのない自分が、なぜここまで「越前リョーマ」に固執するのだろうか。
そのプレーを見たわけでもないのに。
もう一度短く溜息を吐くと、手塚は前髪を掻き上げ、ゆっくりと瞬きした。
「冷静にならなくてはな」
いつもの自分らしく、頭を冷やして冷静に振る舞わなくてはならないと思う。
自分の感情のままに行動してはいけない。
人の上に立つものが感情的に行動してしまったら、誰もついてこなくなってしまうだろう。
それでも。
明日になって、リョーマを目の前にした自分がどんな行動を取るのか、自分でも予測できない、と思う。
たった一度しか会ったことのない越前リョーマは、平穏だった手塚の心の中を確実に変え始めていた。






*****






入学式当日。
滞りなく滑り出した一日にまずは安堵しつつ、それでも手塚は気を引き締めたまま講堂の舞台袖で式の進行を見守っていた。
理事長や校長、来賓や新入生代表の挨拶の合間に、生徒会長として壇上で新入生への挨拶を読む仕事もある。
それに対する緊張はさほどなかったが、手塚は先程から視線だけを新入生の席に向け、硬い表情で一人一人の顔を確認していた。
(いない…?)
式が始まって十分ほど経つが、未だに越前リョーマを見つけられない。
受付で配っていたクラス分け表を見て確認したので、リョーマが2組なのはわかっている。なのに、その2組の男子生徒が座っている場所に、リョーマを見つけられないのだ。
(今日は欠席、なのか…?)
その時、父兄席の後ろの方で一人の教師が静かに動いた。何やらドアのところで誰かを招き入れている。
(ぁ……)
教師が足音を忍ばせて目立たないように身を屈めながら新入生席に一人の生徒を連れてきた。
「越前リョーマ…」
「え?なんですか?会長」
「いや」
傍らにいた副会長に小さく問われ、手塚は頭を振った。
教師がそっと連れてきたのは越前リョーマだった。
(初日から遅刻とは……)
小さく眉を寄せながらリョーマが席に着くのを見ていた手塚は、次の瞬間リョーマと目が合ってしまい、微かに動揺した。
それまで眠そうだったリョーマの目が、手塚を見つけた途端、ひどく輝いて見えたからだ。
手塚が小さく頷いてやると、リョーマが微笑んだ。
微笑み返してやりたかったが、今はそうしてやるわけにも行かず、わざとらしくならないよう、視線を壇上に向ける。だが少しして、さりげなくリョーマに視線を向けると、早速リョーマが居眠り体制に入っているのがわかった。
思わず手塚が小さく苦笑する。
初日から遅刻してきた上に、席についてすぐ居眠りをするなど、普通の神経では有り得ない。
あのトーナメント会場で話をした時にはわからなかったが、越前リョーマという少年は、かなりの「強者」なのかもしれない。
(そんなところも父親譲り、というわけか…)
手塚はますますリョーマのテニスが見てみたくなった。
だが今日は部活はなく、明日は新学期早々午後から練習試合を申し込まれているため、部の練習に参加することが出来ない。
手塚が小さく溜息を吐くと、副会長がそっと「もうすぐ会長の番ですよ」と耳打ちしてきた。
わかっている、というふうに頷いてやると、副会長は何を思ったか「リラックス、リラックス!」と小声で言って微笑んだ。
見当違いに励まされて、もう一度手塚は溜息を吐く。
人前で話をするのはもう慣れてしまった。もうずっと、幼い頃から一人でコートに立つ緊張感に鍛えられた手塚にとってはどうということはない。
特にこういった式でのスピーチは、あらかじめ作成された文を読み上げるだけであることがほとんどなので、はっきり言って、誰にでも出来るとさえ思うのだ。
(誰にでも、か…)
『次に、青春学園中等部生徒会会長より新入生の皆さんへ歓迎の言葉』
式の進行役の教頭がこちらに目配せする。手塚は小さく頷いて、来賓に一礼してから壇上に上がった。
マイクの前に立つと、新入生の視線が自分に集中しているのがよくわかった。よくわかるからこそ、「こちらを見ていない」存在もよくわかる。
(完全に寝入っているのか……)
心の中で溜息をついてから、手塚はあらかじめ用意していた挨拶文を広げた。
「新入生の皆さん、我が青春学園中等部へのご入学、おめでとうございます」
手塚が滑らかに話し始めると、リョーマの身体がピクリと動くのがわかった。文を読み上げながらまんべんなく新入生に視線を向けるフリをし、さりげなくリョーマの様子を窺うと、驚いたように目を見開いて自分を見つめるリョーマと目が合った。
内心、手塚も驚いたが、表には出さずにスピーチを続ける。
結局手塚のスピーチが終わるまで、リョーマはじっと手塚を見つめたままだった。
礼をして舞台からゆっくり降り、元の位置に戻ってからもう一度リョーマを見遣ると、やはりリョーマはこちらを見つめていた。思わず小さく微笑んでしまった手塚に、リョーマはさらに目を見開いて嬉しそうに微笑む。
(あとで声を掛けてみるか……)
ふと思い立ち、手塚はこのあとの新入生の予定をチェックしてみる。
(教室に戻ってHRのあとで教科書の受け渡し……受け渡しは視聴覚室を使うのか……)
「会長?」
「え?」
新入生の今日の予定が書かれたプリントを見つめながら考え込んでいた手塚の顔を、副会長が不思議そうに覗き込んできた。
「なんか、気になることでもあったんですか?」
「いや」
「そうですか?」
どこか心配そうに言う副会長には構わず、手塚はもう一度視線をリョーマに向ける。
アクビを堪えて口元を抑えるリョーマの仕草が愛らしくて、手塚は自分でも気づかないうちにまた微笑んでいた。









式が終わり、撤収作業の合間を縫って手塚はリョーマの教室を覗いてみた。だがすでに教室はもぬけの殻で、ほとんどの新入生が教科書を受け取りに視聴覚室へと向かったようだった。
手塚も少し早足になって視聴覚室に向かってみる。
たどり着いた視聴覚室は新入生でごった返しており、それでもなんとか教室内を覗いてみた手塚は、そこでもリョーマの姿を見つけることが出来なかった。
(おかしいな…)
あまり歩き回るわけにもいかず、今日のところはリョーマと話すのを諦めて生徒会室に向かおうと階段を上りかけ、だがふいに、ふわりと甘い香りを感じた気がして手塚は後ろを振り返った。
「クニミツ」
「リョーマ…」
視聴覚室の喧噪から逃れるように、少し離れた廊下で窓の外を眺めていたらしいリョーマが此方を見つめていた。
すぐにリョーマのもとへ歩み寄ると、リョーマは目を輝かせながら微笑んだ。
「また逢えたね、クニミツ。このガッコの生徒会長だなんて、やるじゃん」
手塚は、初めてリョーマに出逢った日にはもうリョーマがこの青学に入学することを知っていたが、そのことを敢えて言うつもりはなかった。
「大したことではない。誰でも出来る仕事だ。……今日も道に迷ったのか?」
遅刻してきた理由をさりげなく問うと、リョーマは肩を竦めて溜息を吐いた。
「今日は道に迷っても大丈夫なように早く家を出たら、早く着き過ぎちゃって、グラウンドの桜の木のところで寝転んでいたんだけど……」
「……そのまま寝入ってしまったワケか」
上目遣いで手塚を見つめたリョーマは、少し間をおいてから小さく頷いた。
「教科書はもう受け取ったのか?」
「まだ。だって人がいっぱいで……うんざり」
溜息を吐きながら前髪を掻き上げるリョーマに、手塚は目を細める。
「確かにな。俺も人混みは好きじゃない」
手塚の言葉にリョーマは「やっぱり?」と言って笑う。初めて会った日より、もっとうち解けてくれているリョーマの様子に、手塚はひどく嬉しくなった。
「……そういえば、入る部活は、決めたのか?」
「え?」
リョーマがきょとんと手塚を見つめる。
それとなく話を切り出したつもりだったが、リョーマにとっては唐突だったかと、手塚は自分の性急さに内心舌打ちする。それでも今さら話題を変えるわけにもいかず、手塚は平静を装って話を続けた。
「うちの学校はどの部も皆レベルが高いぞ。成績が良くなくとも、部活動で優秀ならば高等部へ推薦だってしてくれるほどだからな」
「ふーん…」
リョーマは少し考えるふうに視線を落として腕を組むと、しばらく黙り込んだ。
「……ウチの部に……テニス部に入る気は、ないのか?」
「………」
リョーマはチラリと手塚を見上げると、小さく溜息を吐いた。
「…オレ、団体行動苦手なんだよね」
「え?」
「人付き合い、って言うのかな、ソーユーの、嫌いで……」
リョーマの視線が微かに泳ぐ。
手塚はトーナメント会場でのリョーマの言葉を思い出した。
『……オレにもそんな友達、欲しかったな…』
あの時のリョーマはとても寂しげだった。
だから、今目の前にいるリョーマが言う『団体行動や人付き合いが苦手』という言葉に、微かに違和感を感じた。
だが手塚は敢えてそのことを追及しないことにする。
「部に所属したからと言って、ストレスを感じるほど人付き合いに気を回す必要もないとは思うが……団体競技では輪を乱すヤツは受け入れてはもらえないだろうな」
「………」
「テニスは、個人競技だが、団体競技でもある。人が多く集まれば、守らなければならない規律なども生じるだろう。だが」
一旦言葉を区切ってリョーマの様子を窺うと、リョーマは小さく眉を寄せて唇を噛み締めていた。
「部長の俺も人付き合いは苦手なんだ。付き合いが悪いからと言って、誰もお前を責めたりしないと思うぞ」
手塚の言葉に、リョーマはハッとしたように顔を上げた。
「部長?クニミツ…部長なんだ?」
「ああ」
「だったら………テニス部に、入ろうかな」
自分が狙ったところと少しずれた点でテニス部に興味を持ったらしいリョーマに、内心首を傾げながらも、手塚はここぞとばかりに言葉を綴る。
「顧問の竜崎先生も、あまり細かいことには頓着しない人だ。他の部に比べても、かなり自由に活動できる部だと思うが」
真っ直ぐな視線を向けたまま、リョーマは手塚の言葉を聞いている。
「オレ……あまり他の人と仲良くできないかもしれないけど……テニス部に、入ってもいい?」
「ああ。大歓迎するぞ」
リョーマの言葉の意味をあまり深く考えずに手塚は頷き、小さく微笑んで見せた。
「じゃあオレ、テニス部に入る。明日から、コートに行ってもいい?」
「仮入部期間はまだだが、コートに来て練習に参加して貰っても構わない。ただ、明日は俺も含めてレギュラーと三年生が他校に遠征に行くから、相手はしてやれないが……」
「ぁ……クニミツはいないんだ……でも、覗いてみるよ」
「ああ」
手塚が頷いてやると、リョーマは嬉しそうに小さく笑う。
「ああ、そうだ、少しだけ約束をしてくれないか?」
「約束?」
ふと思った心配事を、リョーマにそっと話す。
「部活中は俺のことをファーストネームで呼び捨てにしてはだめだ。一応部長だからな」
リョーマに目線を合わせるようにして手塚が屈み込んで話すと、リョーマはほんのりと頬を染めた。
「……そっか……じゃあクニミツのこと『部長』って呼べばいい?」
「ああ、そうだな。俺もお前のことは『越前』と呼ぶことにするから」
「え?」
何気なく付け足した手塚の言葉に、リョーマは驚いたように目を見開いた。
「なんで知ってるの?オレの苗字……?」
「竜崎先生から聞いた」
「ぁ…そっか…あのオバサン、テニス部の先生なんだっけ…」
リョーマは俯き加減に呟くと、キュッと唇を噛んだ。
「リョーマ?」
「じゃあ、オレがこのガッコに入ることも知っていたんだ?」
「ああ、知っていた。だから嬉しくて、昨夜はあまり眠れなかった」
「え……」
不思議そうに、リョーマが手塚を見上げる。
手塚も自分で言った言葉に、微かに動揺した。
「オレに逢うの、楽しみにしててくれた……?」
「ああ」
「でもそれって、オレが『越前』だからじゃないの?」
手塚は少し考えてから、リョーマの機嫌を損ねたらしい点が何となくわかり、小さく微笑んだ。
「俺がお前と話したいと思ったのは、お前が『越前』という苗字だとは知らない時からだ。リョーマと、もう一度逢いたかった」
「……ホント?」
リョーマの大きな目がさらに見開かれ、ふるりと揺れる。
途端に、ザワリ、と、手塚の心の中でつむじ風が起こった。
リョーマに触れたいという衝動が湧き上がり、手塚はそっと、ほんのり色づいたリョーマの頬に触れてみる。
「クニミツ…?」
手塚が触れても嫌がる様子もなく、リョーマはどこか不思議そうな瞳で手塚を見つめ返してくる。
「ぁ……いや……すまない。何でもないんだ」
柔らかなリョーマの頬から手を引き戻し、手塚はその手をギュッと握り込んだ。
(俺は今、何を……)
「…そろそろ戻る。生徒会の仕事を放り出してきてしまったんだ」
手塚の言葉にリョーマは目を見開いてからプッと吹き出す。
「それってヤバイんじゃないの?生徒会長なのに?」
「…新入生はすぐに帰ってしまうかと思ったんだ」
「ぁ………」
言外に「リョーマに逢いたかったから仕事を放り出してきた」と伝えると、リョーマの頬がはっきりと赤く染まった。
「じゃあな、リョーマ。無事に教科書を受け取れるよう祈っているぞ」
ほんの少し意地悪くそう言ってやると、リョーマの頬が、今度はぷぅっと膨らんだ。
「それくらい、祈ってくれなくてもいいよ」
「そうか。………じゃあ、明後日からは同じテニス部員として、一緒に練習しよう。楽しみにしている」
「うん。オレも楽しみにしてるから」
ふわりと微笑むリョーマに手塚も微笑み返してやると、リョーマはさらに嬉しそうに笑みを深めた。
「生徒会の仕事、頑張って」
「ああ」
頷いて、リョーマに背を向ける。
「バイ、クニミツ」
小さく声を掛けられ、手塚はもう一度振り返って片手を上げてやった。リョーマも片手を上げてひらひらと振っている。
手塚の心の奥が、ほんのりと熱を持った。
真っ直ぐ前を見つめて歩きながら、手塚は次第に眉をきつく寄せてゆく。
鼓動が荒れている。
胸の奥の柔らかな熱が、次第に焼けつくような熱さに変わってゆくのがわかる。
(さっき……俺は、リョーマに何をしようとした……?)
頬に触れて。
大きな瞳に見つめられて。
その小さな身体を、引き寄せたいと思った。
抱き締めたい、と。
(バカな……なぜそんな……)
手塚は唐突に足を止め、リョーマの頬の感触が残る左手を見つめた。
柔らかかった。
ほんのりと熱を感じた。
手の平に吸い付くような瑞々しい肌だった。
(おかしい……)
鼓動がさらに加速を始め、息ができないほど胸が苦しくなってくる。
(確かに可愛いとは思うが……それは弟のようだと思っただけのはずだ)
だが、そう思うには、この胸の鼓動の早さと息苦しさの説明がつかない。
手塚は廊下に面した窓に視線を向けると、飛びつくように窓に駆け寄り、勢いよく全開した。
すぐにふわりと新鮮な風が舞い込み、手塚は大きく深呼吸を繰り返してみた。
しかし、心の奥の嵐は収まる気配がない。
(冷静に……ならなくては……)
手塚は目を固く閉じて、もう一度ゆっくりと深呼吸してから、そっと目を開けた。
(アイツを特別扱いしていると、周囲に思われてはいけない。…俺の二の舞には、させない……!)
手塚はギュッと左肘を右手で押さえた。
心に生まれた熱い嵐が、スッと収まってゆく。
胸の嵐を抑え込んだのは忌まわしい過去の記憶だけでなく、リョーマを護ってやらなくてはならないと言う、使命感にも似た想い。
人付き合いが苦手な上に、部長である自分に特別扱いを受けていると周囲が知ったら、リョーマがどんな仕打ちを受けるかわからない。
手塚は、人の心の奥に潜む、凶暴などす黒い感情を知っている。
その感情に飲み込まれた人間が、どんなに残酷な行動を取るかも、この身を以て知ったのだから。
(俺が護ってやる)
誰にも傷つけられることのないよう、自分が、この手で、リョーマを護る。そして、リョーマを護りたいと思っていることを、周囲には悟られないようにしなければならない。
(いや、アイツ自身にも…知られないようにしなくては…)
自分の心の中のリョーマのへの感情は、手塚自身、理解しがたい様相を呈し始めている。
こんな感情を抱いていることを、リョーマに知られるわけにはいかない。
幸いなことに、手塚は感情を押し殺すのには長けている。
リョーマの前でも「いつもの自分」を演じきれば、誰にもこの決意を悟られることはないだろう。
ゆっくりと一呼吸してから、手塚は静かに窓を閉めた。

手塚は、自分の世界が、リョーマを中心に回り始めるのを、感じた。











                                                         

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20061019