飛行機雲



三月始めと言うにはあまりにも温かい日差しに、手塚はふと、窓の外に視線を向けてみた。
少し薄い青色の空には、筆でぼかしたような雲が広がっている。
「順調みたいで良かったな、手塚」
「ああ」
病院内の薬局でいつもの塗り薬と湿布薬を受け取って手塚がロビーに戻ると、付き添ってきてくれていた大石がにこやかな表情でそう言った。
「無理を言ってすまなかった。休診日なのに診察までして貰って…」
「気にするな。おじさんも今日は病院で人に逢う約束があるって言っていたから、ついでにお前の一人や二人を診ることなんか、何てことはないさ」
そう、今日は休日だったのだが、先週病院に来られなかった手塚は薬だけでも出して貰えないかと、大石を頼ったのだ。気のいい大石はすぐに手配をしてくれ、薬だけと思っていた手塚に診察まで受けさせてくれた。
「ああ、そう言えば、この近くのテニスクラブで、今日大会やっているみたいだぞ。ちょっと見ていかないか?」
「大会?」
手塚が怪訝そうに小さく眉を寄せると大石はニッコリと微笑んだ。
「ジュニアクラストーナメント。うちの部のヤツが出るわけじゃないけどさ、たまには気晴らしに、な」
「………ああ」
さりげない大石の気遣いに、手塚は心の中で礼を言う。
病院で診察を受けた後、手塚の気分が沈むことを大石だけは知っている。
大石は、普段あまり表情の豊かでない手塚の心情を理解できる、数少ない友人の一人だ。
一年生の時に、手塚は先輩から受けた暴力で肘を痛めた。それが思いの外長く尾を引き、三年生になった今日に至ってもまだ違和感が残る。
今日も「完治」の言葉を聞けなかった手塚は、いつものように沈んだ表情になっていたのかもしれない。だから、大石は「気分転換」を申し出てくれた。
「柿の木坂テニスガーデンでやっているみたいだ。行こう、手塚!」
少し表情を和らげて手塚が頷くと、大石も満面の笑みで微笑み返してくれた。


病院を出ると、ふわりと甘く風が薫った気がした。
(なんだ…?)
春の気配かと思ったが、それとも少し違う、風の薫り。
(何かの花、だろうか…?)
「手塚、こっちだ」
「…ああ」
大石に呼ばれ、手塚はその薫りがなんなのか考えるのをやめた。
その時。
「ねえ」
後ろから、自分たちよりも少し高めの声に呼び止められた。
手塚が振り返ると、そこには自分の身体ほどもある大きなテニスバックを担いだ少年が一人。
「柿の木坂テニスガーデンって、どこ?」
不機嫌そうに言う少年の態度は人にものを尋ねるのには程遠いものだったが、手塚は小さく溜息を吐いただけで特に注意もせず、大石を見遣った。
「大石、柿の木坂テニスガーデンは、どう行けば近道になる?」
「え?」
「急いでいるのだろう?」
手塚が少年を振り返ると、少年は少し意外そうに目を見開いてから小さく頷いた。
「近道か……一番早いのは、この道を真っ直ぐ行って駅を通り過ぎたら、大きな通りで右に曲がらずに、一本奥の細い道で左に曲がるんだ。そこを二十メートルほど行ったところを右に曲がるとすぐにクラブの裏門に出るから、そこから入れば早いよ」
「ありがと」
短く礼を言うと、少年はいきなり走り出した。
「大通りで曲がっちゃだめだぞ!正門まではすごく迂回するから!」
少年の背中に向かって大石が叫ぶと、少年は振り返らずに全力で走りながら帽子を上げて振って見せた。
突然の出来事にしばらくその場に立っていた手塚と大石は、少年の姿が見えなくなると、やっと自分たちの行き先を思い出したように歩き出した。
「なんだったのかな、今の子」
「トーナメントに出場するはずだった選手の一人だろう。あらかた、駅の出口を間違えたか何かで、道に迷ってしまったのではないか?」
「ああ、そういや、テニスバック担いでいたな……間に合うのかな……」
そう言って大石は時計に目をやった。
「間に合わなかったとしても、それは彼自身の責任だろう。きちんと場所の確認をせず、時間ギリギリに来ようとするから不測の事態に対応できないんだ」
「……相変わらず厳しいな、手塚は」
「試合というものは、何もコートでだけ行われるのではない。その日までにコンディションを整えたり、下準備を怠りなくするのも、試合のうちだ」
「はいはい」
クスクス笑って相槌を打つと、大石は手塚にニッコリと微笑みかける。
「彼の試合に、俺たちも間に合うといいな。なんか、あの子の試合、見てみたいと思わないか?どんなテニスをするんだろう?」
「…………」
大石の言葉に小さく目を見開き、手塚はそっと溜息を吐いてから曖昧に頷いた。
手塚は他人がどういうテニスをするのかに興味を持つことはほとんどない。せいぜい、自分の所属する青春学園中等部の男子テニス部員に微かに関心を寄せるだけだ。
しかもそれは、いかにそのテニスが青学の戦力になるか、というふうに。
手塚はその青学男子テニス部の部長を務めている。だから、部長として、部員のテニスを見てやることはするが、個人的にはあまり他人のテニスには興味はなかった。
自分自身の向上。
どんな時でも手塚はそれを念頭に置いてきた。
だから、同じ歳頃の連中が何をしていようが、関心はなかった。
自分が選んだ「テニス」というスポーツで、自分が向上していけばいいのだと、今でもそう思っている。
だから吸収できることの多いプロの試合ならば積極的に観戦したいと思うが、ジュニアレベルの試合など、手塚にとっては単なる暇潰しにしかならない。
つまり、さっきの少年がどんなテニスをしようが、手塚には全くと言っていいほど興味が湧いて来ないのだ。
大石の顔を立てるために会場には行くが、そうそうに引き上げようとすら思っている。
赤信号に足を止め、手塚はそっと溜息を吐いて空を見上げた。
ボンヤリとした空は、
未だスッキリと晴れ渡ることはなく、どこまでも薄く霞がかかっていて、元々の青さが見えなくなってしまっている。
それはまるで今の自分の心のようだと思う。
手塚の中で、それまで中心に在り続けた「テニス」というスポーツへの想いが、肘の故障以来、濁ってきてしまっているような気がした。
(心からテニスが好きだと感じていたのは、いつまでだったか……)
今でももちろんテニスが好きだ。好きだからこそ、故障した身体でも続けている。
なのに、そのテニスへの想いが、純粋な「好き」という想いではなく、どこか「執着」のように変化してきているように思えてきた。
「手塚、青だぞ」
「ああ」
大石に急かされて横断歩道を渡る。
先程の少年に教えた道ではなく、大通りで右に曲がる。大石は正門へ向かうつもりのようだった。
(大石も、本当はさほど興味はないのか)
手塚は大石に気づかれないように苦笑して、また空を見上げた。
(すっきりしない)
そっと肘を押さえ、手塚は小さく溜息を吐いた。






会場内はそれなりに賑わっていた。
選手とその関係者が主ではあるが、時折雑誌編集部の記者のような出で立ちをした連中とも擦れ違った。
「取材とかも来ているんだな」
手塚と同じように記者の存在に気づいた大石がちょっと感心したように呟く。
「あ」
その大石がコートの向こう側を見て瞳を輝かせた。
「ぁ、アイツ、ちゃんとテニス続けていたんだ……ごめん、手塚、ちょっと待っていてくれるか?向こうに知り合いが……」
「ああ、行ってくればいい。俺は適当に回っているから」
「ごめん、じゃ、ちょっと」
大石はすまなさそうに苦笑すると、コート伝いに走って行ってしまった。
短く溜息を吐いて、手塚は辺りをぐるりと見回す。
適当に回るとは言ったが、会場になっている柿の木坂テニスガーデンは、かなりのコート数があり、うっかり遠くまで行ってしまったら大石とはこのまま会えなくなりそうだった。
(テラスにでも居座るか)
正門から少し入ったところに全てのコートを見渡せるように高台になっているテラスがあり、自販機なども豊富に揃っているようなので、手塚はそこで時間を潰すことにした。
だがそのテラスに向かう途中、試合会場から少し外れた芝生に寝転がる小さな人影が、手塚の目の端に留まった。
(あれは…?)
大きなバッグを枕代わりにして、日光を避けるように帽子を顔の上に乗せて寝ている少年。
(さっきの……)
今、この時間にあんなところで寝ているということは、試合には間に合わなかったのだろう。
(ふて寝、といったところか)
手塚は小さく溜息を吐くと、ほんの少し心に湧いた興味のままに、近くの自販機でオレンジジュースを二本買ってから少年のもとへと足を向けた。


「間に合わなかったようだな」
少年の足下に立ち、驚かさないように幾分声を和らげて手塚が言うと、完全に寝入ってはいなかったらしい少年がふと帽子を上げて手塚を見、ゆっくりと身体を起こした。
「アンタ、さっき道教えてくれた……」
「失格になったか?」
「……五分、間に合わなかった」
「そうか………隣、座ってもいいか?」
少年は一瞬意外そうに目を見開き、だがすぐに小さく頷いた。
「飲むか?」
「え……あ……ども」
手塚の差し出したオレンジジュースを珍しげに眺めてから、その少年は素直に受け取った。
「……アンタもテニスやるの?」
「ああ」
少年にポツリと問われ、手塚は小さく頷く。
「強い?」
「……ある程度の自信は必要だとは思うが、自分では、まだまだだと思う」
「ふーん」
それきり、二人の間に沈黙が流れる。
同じ敷地内でテニスの大会が行われているのだとは思えないほど、二人のいる空間は静かだった。
(……ん?)
手塚は封を切ったジュースに口を付けようとして、ふと、顔を上げた。
「どうかした?」
さりげなく辺りを見回す手塚に、少年が怪訝そうに声を掛ける。
「ぁ……いや……なんの薫りなのだろうかと、思って」
「かおり?」
「甘い花のような……春先の空気とも違う……」
そう言って手塚が少年に視線を向けると、少年がじっと手塚を見つめていた。
(大きな目をしている)
今まであまりじっくりと見ていなかったが、よく見てみると、少年はひどく整った顔立ちをしていた。
印象的な大きな瞳は相手を真っ直ぐに見つめて揺らぐことはなく、その瞳を縁取る睫毛は程良く巻き上がっていて大きな瞳をさらに引き立てている。その瞳と同 様に、強い意思を表すかのような眉毛は、太くもなく、細すぎもせず、綺麗なラインを描いて前髪の間から覗いていた。
スッと通った鼻筋に続くぽってりとした唇は今は引き結ばれてはいるが、気を許した相手に綻ぶ時はどんなに愛らしくなるだろうと、安易に想像がつく。
いや、想像ではなく、今、その唇がふわりと柔らかな弧を描いた。
「もしかして、アンタ、ロマンチスト?」
言葉の割に口調は柔らかで、添えられた小さな微笑みに、手塚の目は、一瞬、釘付けになった。
「………いや、どちらかというと、リアリストだな」
「へえ、そーなんだ」
少年の笑みがさらに深くなる。
想像以上の愛らしさに、手塚の鼓動が妙なリズムを奏でた。
「…大会には個人参加なのか?」
心の中で微かに動揺しながら手塚は話題を変える。少年は柔らかな表情のまま小さく頷いた。
「日本の大会に参加するのは初めて。オレ、ずっとアメリカに住んでいたから」
「そうだったのか。それで道に迷ったのか?」
手塚が小さく目を見開いて問うと、少年は「あー」といって頭をポリポリと掻いた。
「駅で道、訊いた人が悪かったみたい。南口って言われたからその通りに歩いていったら……こうなった」
「それは災難だったな」
「ホント」
大きく溜息を吐く少年を見て、手塚が小さく微笑む。その手塚を見て、少年は少し驚いたように目を見開いた。
「……アンタ、笑うとすごく優しい顔になるね。なんでいつも怒ってるみたいな顔してんの?」
「ん?」
少年に指摘されて手塚は苦笑した。
「……最近の俺はいつも、自分に怒っているんだ。過ぎたことをいつまでもうじうじと考えて、苛々して、自暴自棄になりそうになる自分が、俺は好きになれない」
「ふーん」
「ぁ……すまない……君にこんなことを言っても仕方がないのにな。つまらない話をして悪かった」
「べつに」
少年はまたふわりと微笑み、だが、そっと瞳を伏せた。
「そーゆー気持ち、オレにもわかるよ。オレも、そんな感じだから…」
「え……?」
「ねえ、あの人、アンタのこと探してるんじゃない?」
少年が指さす方を見遣ると、大石がキョロキョロしながら歩いているのが見えた。
「ああ……」
「ねえ、アンタ名前は?」
「ん?……手塚、だ」
「違うよ、『アンタの』名前。それはアンタの家の名前でしょ?アンタの名前じゃないじゃん」
「ああ……『国光』だ。君は?」
「オレは『リョーマ』。……またどこかで会えるといいね、クニミツ」
「……そうだな」
「もう行ってあげなよ。あの人、泣きそう」
大石の方を見てクスクス笑う少年を見て、手塚も小さく笑った。
「彼は心配性なんだ。俺が無茶をするとすぐ胃炎になってしまう」
「いい友達なんだね。オレにもそんな友達、欲しかったな…」
「え?」
「じゃあね、クニミツ。今日はアンタと話せて嬉しかった。また逢えたら、友達になって?」
「……もう『友達』でもいいんじゃないか?」
手塚の言葉にリョーマは大きく目を見開いた。歓喜に満ちた瞳は、だが、すぐに寂しげな色に染まってゆく。
「バイ、クニミツ」
「ああ。じゃ……」
手塚は静かに立ち上がると柔らかく微笑んでからリョーマに背を向けて歩き出した。
少し歩いて振り返ると、リョーマはまだこちらを見つめていた。手を振ってやると嬉しそうに振り返してくる。
(……生意気なのかと思ったが……)
話してみるとリョーマはとても素直な少年だった。
(また会えるといいが……)
そう考えて、どこに住んでいるのか訊いておけば良かったと後悔した。
だが大会に参加した選手なら、最終手段はいくらでもあるだろうとも思う。
「リョーマ、か……」
ポツリと呟いて、手塚は自分が微笑んでいることに気づいた。
(どうしたんだろう、俺は……)
誰かと話して、こんなに心が安らいだのは初めてかもしれない。
いや、安らいだだけではなく、もっと奥の心の隅では、何かがざわめく感覚さえ感じる。
(なんなんだろう……この気持ちは……)
手塚はふと空を見上げた。
「ぁ………」
さっきまでくすんでいた空が、すっきりと見事に晴れ渡っている。
そして、その真っ青な空を横切る真っ白い線が一本。
「飛行機雲……」
さっきまでのくすんだ空だったなら気がつかなかったかもしれない白い線は、今ははっきりと、絶妙なコントラストを以て真っ青なキャンバスに描かれている。
(彼のようだ……)
見上げる飛行機雲が、さっきまで逢っていた少年を彷彿とさせた。
真っ青な空を真っ直ぐに横切る、真っ白い一本のライン。
リョーマと名乗った少年は、青い空に描かれた飛行機雲のように、手塚の心にはっきりと、その痕跡を残した。











  

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20061014