<1>

朝になった。
リョーマはベッドの上でゆっくりと身体を起こし、溜息を吐いた。
たぶん眠りについたのは明け方近く。夜通し手塚のことを考えていて眠れなかった。
昨夜、あの公園で至った自分の考えが正しいのか、何度も考え直してみた。
何度も考え直して、そうして出た結論は、やはり『あの男』が手塚なのではないかということ。そう考えると、どこか違和感のあった手塚の細かい言動のひとつひとつに、納得がいくのだ。
ただ、手塚が『あの男』だとすると別の不可解な点もいくつが上がってきてしまったが、それは本人に問い質そうと、最終的に、リョーマはそう結論を出した。
「とにかく、部長に逢わなきゃ」
リョーマはバチンと派手な音を立てて自分の顔を両手で叩き、ベッドから降りて階下へ降りていった。






いつものように玄関を出ると桃城と会い、自転車の後ろに乗せてもらって学校に到着した。
そうして自転車置き場に向かう桃城と別れて部室に向かおうとするところで、いつものように不二に声を掛けられた。
「おはよう、越前」
「ぁ、はよっス、不二先輩」
「昨日、あの後どうだった?手塚に電話をもらった時は、まだ君には会っていないって言っていたんだけど」
「ぁ、部長から電話があったんスか?」
「僕が家について結構すぐだったけど……越前が家の近くにいなかったかって訊いたら見てないって」
「ああ、たぶん部長は裏口の方から帰って来たんスよ。だからオレには気づかなかったんだと思います」
「ふぅん……で、手塚と話は出来たの?」
「………はい」
リョーマは改めて不二を真っ直ぐ見つめた。
「部長と話している時は、その、ちゃんと核心に迫るようなことを話せなかったんスけど、家に帰る途中でいろいろ考えていたら、少し、わかってきたことがあるっス」
「わかってきたこと?」
小さく眉を寄せる不二に、リョーマはしっかりと頷いてみせる。
「まずは、部長に直接訊きたいことがあるんス。それを確かめたら、また部長と新橋に行くっス」
「…そう…」
不二は少しだけ表情を和らげて頷いた。
「そこはたぶん、二人の問題だろうから、僕は口を挟まないよ。でも、新橋に行くなら、やっぱり僕も連れて行って欲しいんだ」
「え?不二先輩も?」
「うん。実は昨日………あれ?大石?」
驚いたようにリョーマの後ろを見る不二の視線を辿って、リョーマも振り返る。そこには、ひどく落胆したような、青ざめた大石が俯き加減で立っていた。
「大石先輩?何かあったんスか?」
「不二……越前……」
大石が涙ぐんだ瞳で二人を見る。
「手塚が……留学するって……」
「……え?」
「なんだって?」
不二が今まで見たこともないような勢いで大石の肩を掴んだ。
「今朝も手塚から部活を休むって連絡があったから、なんかおかしいと思って竜崎先生に事情を聴いてみたんだ。そうしたら手塚が留学を考えているって話を聴いて……なんで俺たちに何も言ってくれないんだろう…」
大石が潤んだ瞳で不二を見つめる。
「どういうこと?留学って、断ったんじゃなかったの?」
「ああ、前に話が来た時は、青学を全国大会で優勝させることに専念したいからって、断ったみたいだけど…その後も向こうの学校からぜひにって、言われ続けていたみたいで……」
その先を言葉に出来ずに、大石は唇を噛み締めた。
「そんな…っ」
「越前…」
大きく目を見開いて呆然とするリョーマに、不二がチラリと視線を向けてから、もう一度大石の顔を覗き込んだ。
「大石、とりあえず、他の部員には今のこと言わないでいて。僕と越前で手塚と話をしてみるから、君はいつも通りに部活を始めて」
「あ、ああ、…わかった、頼む、不二」
「頼んだよ、大石。副部長の最後の大仕事なんだから」
不二の言葉に、大石はハッとしたように顔を上げた。
「………わかった。部員には、いつも通りに振る舞ってみせるから」
しっかりとした光が瞳に戻った大石に安心したように頷き、不二はリョーマを振り返った。
「越前、手塚のところに行くよ」
「…え」
「途中で話したいこともあるんだ。行こう、越前」
リョーマはグッと奥歯を噛み締めて、大きく頷いた。
「…ういっス!」




「家にはいないみたいだ」
手塚の家に向かう途中、駅のホームで電話をかけた不二が、溜息混じりにリョーマに言った。
「どこに行ったんだろう、手塚」
「………不二先輩、オレに話って…?」
「………うん。手塚のことなんだけど…」
「…………」
不二は自分を落ち着けるように小さく溜息を吐いてから、真っ直ぐにリョーマを見つめる。
「越前、指輪の記憶がなくなるかもしれないって、言っていたよね。手塚に関しても、記憶がどこか変化してきていた。そうだね?」
「はい」
「…でもそれって、本当に、手塚に関する『記憶』がおかしくなっていた?」
「え?」
訝しげに眉を寄せるリョーマに、不二は慎重に言葉を選ぶ。
「指輪に関しては記憶かもしれないけど、手塚に関しては、記憶と言うよりも、手塚の存在に反応しづらくなっていたんじゃない?」
「え………?」
「この前、三人で新橋に行った時、君たちの会話を聞いていて、おかしいと思ったんだ。あの時、手塚は、自分からは何も喋らなかった。君が何か手塚に語りかけた時だけ、口を開いていたんだ」
「…どういう意味っスか?」
わけがわからない、というようにリョーマはさらにきつく眉を寄せる。
「つまり、手塚から君へ何か言葉を発しても、君には聞こえないと、手塚は知っていたんじゃないかな」
「聞こえない?」
不二は小さく頷いた。
「そんなこと、あるわけ………」
言いかけて、リョーマはいろいろな場面が思い当たり、目を見開いた。
最初は単にリョーマが自分の思考に沈み込んでいて、手塚の言葉を聞き逃したのだと思っていた。だがそれはゆっくりとエスカレートしていき、手塚の声だけで なく、手塚が立てたイスの音、そして、その姿すら、リョーマの五感から徐々に排除されてきたように思える。そうしていつかは、リョーマの『記憶』からも手 塚という存在が排除されてしまうのだろうか。
「ぁ………だから昨日、部長はずっとオレと手を繋いで…」
ずっと触れ合っていることで、リョーマから一度繋がった意識を繋ぎ止めていたのだとしたら。
「なんで、そんな…ことに…」
「それが、指輪の呪い…『しっぺ返し』なんじゃないかな」
「しっぺ返し……?」
リョーマが大きく見開いた瞳のまま不二を凝視すると、不二はきつく眉を寄せた。
「君が夢の中で逢っていた、指輪の片割れの持ち主は、手塚なんでしょう?」
「………ぁ」
すべてを見通したような不二の言葉に、リョーマは観念したように頷いた。
「たぶん……部長だと、思います」
「だから今、手塚に『死ぬよりもつらいこと』が起ころうとしているんだよ」
「…っ!」
ショックを受けるリョーマから目を逸らし、不二は短く息を吐き出して視線を足下に落とす。
「…もしも、愛する存在に、自分が認識されないとしたら、こんなにもつらく苦しいことはないよ、越前」
「………」
「嫌われるとか、憎まれるとか、そっちの方がまだ、相手の心に自分の場所があるって思えるから、つらいことだけどマシだと思う。だけど、相手に自分の存在を感じてもらえないなんて、これほど切ないことはないと思わないかい?」
「オレが……部長を……感じない……?」
「越前……」
「そんなことないっスよ。だってちゃんとオレ、昨日部長に後ろから抱き締められて…でもそれが部長だって、ちゃんとわかって………」
昨夜、手塚の部屋の前での出来事をリョーマは思い浮かべた。
確かに最初は手塚の腕だとは気づかなかった。だが自分は、はっきりと、「それ」が手塚だと気づいたのだ。だから名を呼んだ。そして手塚も答えて微笑んでくれた。
「それは、越前が『手塚』という人間を意識したからなんだよ。つまり、相手が手塚だと認識していない状態の君には、手塚からのすべてのサインが遮断されてしまうんだ」
「な…っ」
『その通りです、それが指輪の力を使った者へのしっぺ返し』
唐突に二人の横から聞こえた声に、リョーマも、不二も、ギョッとして視線を向けた。
「アンタ……」
『こんにちは』
そこには、いつの間に現れたのか、あの店の男が立っていた。
リョーマは鋭い瞳で男を睨みつけると、いきなりその胸ぐらを両手で掴んだ。
「アンタ、部長に何したんだ!何か言ったのかよ!なんで部長がそんなことになるんだっ!」
激しい怒りのままに、リョーマは男に向かって叫んだ。
不二も、静かな怒りを湛えた瞳で男を見つめている。
不思議と、周りにいる人々がリョーマたちの騒ぎを気にすることはなかった。三人のいる、この空間だけが外界からシャットアウトされたように、人々に認識されていないようだった。
『私は彼に指輪を売っただけです。もちろん、ちゃんと指輪の呪力のことも、すべて話した上で、ですよ』
「全部話した…?」
胸ぐらを掴むリョーマの手がふっと緩むと、その手をそっと外しながら、男は柔らかく微笑む。
『あなたが指輪を買ってくださったあとに、彼がまた戻ってきて、同じ指輪が欲しいと言ったんです。その時に、この指輪の秘密について、彼に話しました。もちろん、誰にも言わないという約束つきで』
「部長が…」
『まあ、その時は、彼はあまり信じていないようでしたがね』
「指輪のこと、知っていて、部長は……」
男が、スッと笑みを消した。
『私はずっと長い間、この指輪の呪いを解いてくれる者たちを探してきました。あなたと彼なら大丈夫だと思ったのですが…彼は、私の想像以上に、あなたのことを愛しているようですね』
「え…?」
『越前くん、彼を捜しなさい。今なら、まだ間に合います。日付が変わるまでに、指輪の呪いを解きなさい』
「でも、どうやって…」
戸惑うリョーマに、男は優しげな瞳で笑いかける。
『あなたなら彼を見つけ出せます。彼のことだけを想い、考え、捜しなさい。その後どうすればいいのかは、きっと指輪たちが教えてくれます』
「指輪が…?」
男は微笑みながら頷いた。
『お行きなさい。誰かを頼ってはいけません。あなたの心で、彼を捜しなさい』
「………はいっ」
「越前っ」
黙って二人のやりとりを見ていた不二が、リョーマを真っ直ぐ見つめる。
「タイブレークだよ。油断せずに行こう」
「ういっス!」
リョーマは二人に背を向けて走り出した。どこへ行けばいいのかはわからないが、いつまでも来ない電車を待っている気にはなれなかった。
走り去ったリョーマを見送ってから、不二は静かに息を吐き、改めて男に視線を向ける。冷たい、相手を凍り付かせような瞳。
「初めまして、不二周助といいます」
『はじめまして』
「いや、今のは嘘です。あなたとは、『初めまして』じゃ、ないですよね?」
そう言って不二は、柔らかく微笑む男の胸ぐらを右手一本で強く掴み上げた。
「僕は越前ほど寛大にはなれませんよ?…あなたには、訊きたいことがあります」
『……お手柔らかに』
相変わらず切り離された空間の中で、不二は静かに男への尋問を始めた。







(どこに行ったらいいんだろう)
走りながら、リョーマの視界の隅に、チラリと地下鉄の看板が目に入った。
「そうか、まずは新橋……いや、有明…かも」
手塚がリョーマと離れる覚悟を決めたのだとしたら、あの試合観戦の日に初めて「試合する」以外でリョーマと二人だけで過ごした時間を懐かしんでいるかもしれない。
「とりあえず、行ってみよう」
幸いなことに、財布の中には交通費に当てられる充分な額が入っている。
(片っ端から行ってやる!)
どんなことをしても、どんなに足が疲れてしまっても、手塚を見つけなければならない。もしも見つけることが出来なければ、きっと自分は手塚を永遠に失ってしまうのだ。
(そんなのはいやだっ!)
電車の中以外は、すべての行程を走った。
あの日、試合が行われた場所に着いてもリョーマは足を止めず、走りながら手塚を捜した。そうして試合場の周りをすべて見て回り、ここには手塚はいないと結論を出した。
「じゃあ、次は新橋」
もしかしたら手塚は、リョーマとの思い出を辿る以外にも、あの店の男に会うという目的で新橋に行ったかもしれない。
すぐに踵を返して新橋に向かい、いつも店があった地点や、二人で何度か行った店を息を切らしながら見て回った。
だがそこにも手塚の姿はなかった。
「どこに……」
通りすがりに自販機でミネラルウォーターを買い、一口飲んでまた走り出す。
(一度、部長の家に行ってみようか……)
立ち止まり、クルリと向きを変えた瞬間、カクンと膝から力が抜けてよろめいた。
「わっ」
なんとか転ばずに堪えたが、かなり疲労が足に来ているのがわかった。寝不足が祟っているのか、体力の消耗が早い。
「負けるかよ…っ」
そう呟いて、リョーマはまた走り出す。
(絶対に行かせない!…留学なんて……ふざけんなっ!)
歯を食いしばってリョーマは走る。
足が重い。
息が上がる。
額から流れてくる汗が目に入りそうになり、何度も汗と目を拭った。
立ち止まるわけにはいかなかった。
落胆している暇などなかった。
どんなに身体が疲れてボロボロになろうとも、リョーマは諦めるわけにはいかなかった。
自分の身体がどうなろうと、手塚を失うことを考えれば、そんなものはどうでもよかった。
頭の中を手塚のことでいっぱいにした。
胸の中を、手塚への想いで満たした。
そうして走って走って、よろめきながら手塚の家に漸く辿り着いた。
インターフォンを鳴らすと、昨日見た手塚の母親らしき女性が、静かにドアから出てきた。
「あなた……昨日不二くんと一緒にいた…」
「越前…リョーマといいます……部長は……いますか……?」
門に手を掛けて身体を支えながら、息を切らしてやっとそれだけを口にしたリョーマは、縋るような瞳でその女性を見つめた。
「ごめんなさい、国光は、朝からずっと出掛けているの。…越前くん、よかったら少しうちに上がって休んで行きなさい」
「いえ……部長、どこに…行ったかわかりますか?」
「……ごめんなさい」
その女性が痛々しそうにリョーマを見つめ、すまなそうに視線を落とす。だがふと、何か思い出したように顔を上げ、リョーマを見た。
「行き先はわからないけど、あの子、いつものようにラケットを持って出たの。だから、どこか、テニスが出来るところに行ったと思うわ」
「テニスが…出来るところ……っスか…?」
「ええ」
「ありがとうございました!」
ペコリと頭を下げ、リョーマが背を向けて走り出そうとすると、その女性がリョーマを呼び止めた。
「越前くん」
「…はい?」
「国光を見つけたら、一緒にうちにおいでなさい。ごちそうするわよ?」
「え?」
穏やかに言われ、リョーマは少し拍子抜けしたように目を見開いた。だがその女性の瞳を見て、彼女が何を言いたいのかが、リョーマにはわかった気がした。
手塚を連れて帰ってきて欲しいのだ、彼女は。
そう、彼女も、きっと自分の息子が、何かを抱え込んでいて、一人で悩み、結論を出そうとしていることを感じ取っているに違いない。
だから、一人になりたがる息子を、心の闇から救い出してきて欲しいと、そう言いたいのではないか。
「………わかりました。部長を見つけたら、お邪魔します」
「好きなものは何かしら?」
「ぁ、じゃあ、和食でお願いするっス」
「わかったわ。お待ちしているわ、越前くん」
「はい」
微笑みながらリョーマが頷くと、女性も穏やかに微笑んで頷いてくれた。
(アンタを見つけたら、まず最初にしなきゃならないことがわかったよ)
女性に一礼して背を向けながらリョーマは心の中で思う。
(アンタを絶対に見つけ出す。そして見つけたら……)
リョーマはグッと唇を噛み、両手を握り締める。
太陽は昇りきり、リョーマの足下に短く濃い影を落としている。
この影が伸びてゆき、消えてしまう前に手塚を見つけ出さなければならない。
(テニスが出来る場所……コート……ぁ、もしかして…)
以前手塚と二人で行った、リョーマの家の近くにある公営の施設を思い出した。
(行ってみよう)
一度立ち止まり、水分を補給して、リョーマはまた走り出す。カラになったペットボトルは、途中のゴミ箱に放り投げた。
手塚の家から自分の家へは交通機関を使わない方が早く着くことを思い出し、バス停には向かわない。
昨夜手塚と歩いた道を辿りながら、リョーマはこの道に既視感を感じた理由を考えた。
(きっとオレは、毎晩ここを歩いて部長の家に来ていたんだ。だからオレは「知って」いたんだ)
手塚の部屋の窓から漏れる明かりを見た時に感じた既視感も、きっと同じ理由で、毎夜手塚の部屋を訪ねては、窓に明かりが灯っているのを見て手塚が起きて待っていてくれることを喜び、そのドアをノックしたに違いないのだ。
そして手塚もきっと、嬉しそうに微笑みながら自分を迎え入れてくれたことだろう。
それがリョーマの意志ではないと、知るまでは。
(ごめんね、部長……気づいてあげられなくて……)
そう心の中で謝っていて、リョーマはやっと理解した。
(そうか、あの人が言っていた「気づけば呪いが解ける」って言うのは、アイツが部長だってことを、オレが気づけば、って言うことだったんだ…!)
それがわかった途端、リョーマは残りの体力を搾り出すようにスピードを上げた。
(早く、アンタに逢いたい……国光!)
つま先から感覚がなくなってきている。
それでもリョーマは走った。
身体中の感覚がなくなっても、手塚への想いがあればいいと思った。
それだけ失くさなければ、手塚を見つけ出せる自信があった。
「国光…っ」
リョーマは手塚の名を呼び続ける。
この声が、想いが、手塚に届くことを願って。






公営のテニスコートに着くと、リョーマは受付所に駆け込み、手塚が来なかったかどうかを訪ねた。
「すみません、部長……あの、手塚って人に、コートの貸し出ししていませんか?」
汗だくになって息を切らしながら訊ねてくるリョーマを見て、受付の職員が訝しげに眉を寄せた。
「あれ、君、確か越前リョーマくん?」
受付の職員の後ろから声がして、座っている男を押し遣るようにして別の職員が顔を出した。
「ぁ……こんちは」
「また来てくれたのかい?ありがとう」
「ぁ、いえ、今日はそうじゃなくて、部長を……この前一緒に来ていた先輩を捜していて……」
「ああ、彼なら確かにさっき来たよ」
「え?じゃあ、今コートに?」
「いや、それが、しばらく来れなくなるかもしれないからって挨拶だけしてフェンスの外からコートを眺めてね。いつの間にか帰っちゃったんだ」
「帰った……それ、いつくらいのことっスか?」
「そうだなぁ……一時間くらい、前かな……」
「そっスか……ありがとうございました」
「ぁ、ちょっと待って、越前くん」
「はい?」
立ち去ろうとするリョーマに、その職員は声を掛けて呼び止め、一度管理室の奥に引っ込んでから何やら手にして戻ってきた。
「これ、飲みなさい。そんなに汗かいたら水分補給しないと、脱水症になっちゃうよ?」
「ぁ………ありがとうございます!」
差し出されたスポーツドリンクを受け取って、リョーマはペコリと頭を下げた。
「また二人で来てね」
「はい!」
しっかりと頷くと、その職員もニッコリと微笑んでくれた。
施設を出て、リョーマは早速もらったスポーツドリンクで水分を補給する。
「はぁ……」
ドリンクを飲みながらリョーマは手塚の行きそうな場所について考えた。
(ここの他にテニスが出来そうな場所って……)
しばらく考え、そうして一箇所だけ、思いついた。
考えてみれば、あの場所で手塚と試合した日から、リョーマの中で微かな変化が起き、今の自分へと繋がっている。
そういう意味では、手塚によって、リョーマが新しい自分になるきっかけを与えてもらった場所でもあった。
(行こう……)
少しずつ影が伸びてきている。
(もうすぐだ。もうすぐ、アンタを捕まえてやる…!)
リョーマは半分ほど飲み残したペットボトルをバッグにしまい込んで、再び走り始めた。








頭の上の高架を、電車がもの凄い轟音で通過していった。
リョーマは眉を顰めて電車をやり過ごしてから、フェンスに手を掛けてコート内を窺った。
(いない……?)
相変わらず他に利用者のいないコートは陽も射しておらず、電車さえやり過ごせばひっそりと静まりかえっている。

『春野台の区営コート、知っているか』

そう言って手塚から試合を申し込まれたのが、もうずいぶん昔のことのように思える。
手塚と二人きりで試合をしてから、自分の中で少しずつ何かが変わっていったのを知っている。
あの日、手塚と試合を終えたばかりの自分は、手塚への敵対心のような感情を膨らませていた。悔しくて悔しくて、いつか絶対に手塚を倒してやるのだと、心の中で誓った。
その想いは今でも残っているけれど、今、再びここを訪れている自分は、あの時とは違う、けれどもあの時よりももっと強い想いを、手塚に対して抱いている。
(こんなにアンタのこと好きなのに……なんでオレから離れようとするんだよ……)
手塚もリョーマのことを好きだと言ってくれた。愛しているのだと、囁いてくれた。
それなのになぜ、手塚は遠くへ離れていこうとしているのか。
「わけ、わかんないじゃんか……」
少しずつ整ってきた呼吸に紛れて、リョーマがそっと呟く。
その時、コートの中で、風が動いた。
「!」
リョーマはもしやと思い、目を凝らしてコートを見つめる。だがそこにはやはり誰もいない。
「…………」
少し考えてから、リョーマはゆっくりと目を瞑り、大きく深呼吸をし始めた。
(部長………いや、「国光」……オレの大好きな人……)
リョーマは自分の持てる感覚を総動員して「手塚国光」を思い浮かべた。
手塚の凛とした声、甘く囁くような声、リョーマの名を呼ぶ柔らかな声。
そして手塚の瞳。学校や部活で見る鋭く研ぎ澄まされた瞳は、リョーマと一緒にいる時には優しく細められ、柔らかな光を湛えていた。
部活や学校ではほとんど見ることの出来ない微笑みは、リョーマには頻繁に見せてくれる。普段の冷たい印象が一変して、微笑みかけられたリョーマまで、つられるように微笑み返してしまうほど優しく柔らかな、そして温かな微笑み。
テニスで鍛えられた手塚の腕は強くて、それはリョーマを抱き締める時も力強く、だが、手塚の腕の中にいると、まるで大きな羽に包まれているように心地よく感じるのだ。
(国光……)
最初はそっと、大切なものに恐る恐る触れるように口づけてくる手塚の唇は、時折ほんの少しだけ震えていることがあった。だがリョーマが手塚を受け入れると、その唇は熱く変貌し、甘く深く、リョーマを求めてくる。
髪を梳いてくれる指先はとても繊細で、髪から頬へ、喉へ、そして首筋から胸元に滑り降りてくるとリョーマは堪らなくなって手塚に縋りついてしまう。
(全部思い出せるよ、国光……)
リョーマは全身で手塚を思い浮かべた。
大好きな、大好きな手塚を。
そうしてリョーマはゆっくりと目を開く。
その瞳に。
「………見つけた」
リョーマをじっと見つめる、手塚国光が、映った。
「国光…」
手塚を見つめながら、リョーマはゆっくりとフェンス伝いに歩き、入り口に向かう。
だがリョーマの見つめる先で、手塚はスッと、リョーマから視線を逸らしてしまった。
(国光…?)
つらそうに眉を寄せ、足下に視線を落としてリョーマを見ようとはしない。
だがリョーマは構わず入り口からコートに入った。バッグを下ろし、小さく深呼吸してから、静かに、一歩ずつ踏みしめるようにして、手塚のもとへ向かう。
ゆっくりゆっくり近づいてゆくリョーマに、ゆるゆると手塚の顔が上がる。そうして徐々に見開かれていった瞳は、まるで信じられないようなものを見るようにリョーマを見つめた。
手塚から視線を逸らさずにゆっくりと歩み寄り、すぐ目の前まで来て、リョーマは立ち止まる。
「……やっと見つけた。朝からいろんなところ探したっスよ」
「………俺が……見えるのか……?」
「見えるよ。だから……」
リョーマはふっと笑うと、いきなり左手を振り上げた。
「っ!」
パシッという乾いた音が響いた。
手塚の眼鏡がカシャンと、軽い音を立てて地面に落ちる。
「何やってんの、アンタ」
「………」
「大石先輩と、不二先輩と、たぶん竜崎先生にも、心配かけて。…何よりアンタのお母さんに、すごく心配かけているの、わかんないんスか?」
リョーマはスッと屈み込んで、自分がはじき飛ばした手塚の眼鏡を拾ってやった。
「今の一発は、みんなに心配かけた分」
「リョーマ……」
「…何か言うことある?」
「………なぜ……俺が見えるんだ……」
きつく眉を寄せ、手塚はリョーマを見つめる。
「そんなことも、わかんないんスか?」
黙り込む手塚に、リョーマは小さく笑いかけた。
「昨日アンタは、オレが考えているよりずっとオレのこと想ってくれているとか言っていたけど、その台詞、そっくりそのまま、アンタに返すよ」
「え……?」
「オレがアンタを好きな気持ちは、誰にも、何にも、絶対に負けやしないんスよ」
手塚が大きく目を見開く。
「指輪の呪いにだって、負けたりしない」
「!」
手塚が息を飲むのがわかった。
「アンタのことずっと考えて、アンタの声とか、目とか、手とか、全部思い出して、身体中の記憶と神経を全部使ったら、アンタを感じられた」
「………」
リョーマはポケットから二つのリングを取り出した。
「この指輪……片方は、アンタが持っていたんでしょ?」
手の平の二つのリングを手塚に見せると、手塚はきつく眉を寄せた。だがそのまま黙り込んだ手塚は、リョーマの質問を、肯定も、否定も、しなかった。
リョーマは小さく眉を寄せて溜息を吐く。
「まだ…答えてはくれないんスね」
「………」
視線を逸らす手塚に、もう一度溜息をついてから、リョーマは手の中の二つの指輪を見つめた。
(…ぁ……そうだ……)
リョーマは徐に一回り小さい方のリングを摘み上げると、いきなり自分の右手の薬指に嵌め込んだ。
「!…バカッ、何をやって……っ!」
驚いてリョーマの指から指輪を外させようと伸びてきた手塚の手を、リョーマはしっかりと掴んだ。
「……リョーマ?」
「アンタも嵌めて」
「バカを言うな」
「バカでいいんスよ、オレは!」
そう叫んで真っ直ぐ見つめてくるリョーマに、手塚は言葉を失くした。
「アンタを失くさないでいられるなら、オレはバカでもなんでもいい。だから、この指輪を……」
言いかけて、リョーマは自分の身体が膝から崩れ落ちるのを感じた。
「リョーマ!?」
地面に倒れる寸前で手塚が抱き留めてくれる。
「ちょっと……疲れたっス……でも、アンタのこと、連れて帰るって、オバサンと…約束……」
「リョーマ!」
自分の名を呼んでくれる手塚の声がどんどん遠くなってゆく。
そのままリョーマは、手塚の腕の中で意識を失った。














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20060522