<2>


浮上してゆく意識。
この感覚には覚えがあった。
(ああ……オレはまた『夢』を見てる……アイツの……)
重たい瞼を開いてみると、やはり視界は不鮮明で、腕を上げようとしても自分の身体は言うことを聞かない。
(アイツは……?)
不鮮明な視界の中でぐるりと辺りを見回すと、『青い四角形』が目に入った。
(やっぱり、ここは、アイツの部屋……)
部屋には陽の光らしきものは射しておらず、すでに時刻は夜になっているのかもしれない。だが男の姿はなく、リョーマは一人でベッドに寝かされているようだった。
少しすると、ドアが開閉するような微かな振動があり、『あの男』が姿を現した。リョーマの身体がギクリと強ばる。
「     」
男が何か喋っている。だがやはりリョーマには男が何を言っているのかわからなかった。
(なんだ……結局何も変わってないじゃんか……)
絶望的な気分で目を閉じようとして、リョーマは大切な何かを忘れている自分に気づいた。
(違う、オレは前と同じことを繰り返しに来たんじゃない……なんだっけ、オレは、何を忘れているんだ…?)
リョーマが考えている間も、男は何かをリョーマに囁き、だが反応のないリョーマに落胆したように、次第に何も語りかけてこなくなった。
(なんで声が聞こえないんだった……?)
背を向けてベッドに腰掛ける男を見つめながら、リョーマは必死で考える。

『指輪の呪いにだって、負けたりしない』

唐突に、自分で言った言葉が頭の中で木霊した。
(指輪の、呪い………ぁ……そうか、オレは……)
リョーマはスッと身体の力を抜いた。
そうして、リョーマに背を向けて座っている男を、じっと見つめた。
(この人は、オレの大好きな国光だ)
ザワリ、と、何かが自分の中で蠢くのを感じた。
(国光……)
ピクリと、指先が動く。
(大好きだよ、国光…)
不鮮明な視界が、ゆっくりと、光を取り戻し始める。
「く……み……」
ほんの少し、声が出た。
男の身体が、ビクッと揺れる。
「く、に……みつ……」
男が、弾かれたようにリョーマを振り返った。
「国光……」
不鮮明な視界が一気に総天然色へと変わってゆく。
「リョーマ…?」
リョーマの瞳に、不安げに見つめてくる手塚の顔がはっきりと映り込んだ。そして聞こえる大好きな声。
「わかるのか?リョーマ」
「……うん。わかるよ、国光…」
手塚に手を伸ばそうとすると、リョーマの手は思い通りに持ち上がり、その頬に触れることが出来た。
「ほら……ちゃんとオレの意志で動くよ。国光……」
「リョーマ……」
「アンタの声も聞こえる……」
「リョーマ…」
「やっと、気づけたんだ……」
手塚は自分の頬に触れているリョーマの手を剥がし、しっかりと指を絡めてきた。
「リョーマ…」
「気づくのが遅くて……ごめん、国光…」
小さく笑うと、手塚も困ったように眉を寄せながら微笑んだ。
「お前は何も悪くない……悪いのは俺の方だ……」
「国光…」
手塚の首に腕を回して縋りつくと、手塚はしっかりと抱き締めてくれた。
「…お前を、愛してしまって……どうしても手に入れたいと思った俺のせいだ…」
ゆっくりとリョーマを抱き起こしてやり、手塚が愛しげにリョーマの髪を撫でる。
「きっと俺は、もうずっと前からお前に恋していた。その想いが、あの試合観戦の日に溢れ出してしまったんだと思う」
あの試合観戦の日、心の中に温かな想いが芽生えたのはリョーマだけではなかった。
いや、リョーマ以上に、手塚の心には熱い恋情がはっきりと形作られたのだろう。
「だがお前が俺のことを恋愛対象として見 てくれるはずがないと思っていたから、この想いはずっと胸の中に押し留めておくつもりでいた。……だから、その代わりにせめてお前と同じものを持っていた いと思った」
「それで、あの、オレが買ったのと同じデザインの指輪を…?」
リョーマがじっと手塚を見つめると、手塚は小さく眉を寄せて頷いた。
「女々しいと思われるかもしれないが、あの時はそれだけでよかったんだ」
「…でもあのお店の人は、指輪の秘密を全部話したって…」
「ああ」
手塚はもう一度小さく頷く。
「指輪を買おうとしたら、あの人に『この指輪をしていれば、彼の方からあなたのもとを訪れることになります』と切り出された。だがいきなりそんな話をされて、信じられると思うか?でも彼の話は、その時の俺にはとても魅力的に思えた」
「…………」
手塚の話を聴きながら、リョーマは、自分の右手の指輪をそっと見つめた。
「それから指輪が作られたあらましを聴かされた。そして、指輪の呪力は特に夜に強まることと、指輪の力によって引き寄せられた相手が、本当に自分を受け入れてくれなかった場合は、厳しいしっぺ返しがあることも教えてくれた」
「………じゃあ、どんなことになるかも、知っていたんスね…?」
「ああ」
「だったらどうして、指輪を捨てて留学なんて……」
リョーマはきつく眉を寄せて手塚の瞳を覗き込んだ。
手塚は少しの間何も言わずにリョーマを見つめてから、そっと、切なげに微笑んだ。
「お前を解放したかった」
「え…?」
小さく目を見開くリョーマの頬を、手塚が愛しげに撫でる。
「……初めて指輪の効力と思われることが起きた時は驚いた。旅立つ前日の夜遅く、お前に逢いたくて家まで行ったことは話したろう?あの時、帰る途中で、お前が追いかけてきてくれたんだ」
「オレが?」
「ああ。少し様子がおかしいとは思ったんだが、ゆっくり話がしたいと言うから、この部屋に連れてきた」
手塚はふと視線を落として小さく溜息を吐いた。
「どうして自分を置いて遠くに行くのかと訊かれて………俺は、この先もずっとお前と共に居たいから肩を治しに行くのだと、お前への想いを口にした。するとお前は、俺の想いを受け入れてくれた」
「………」
リョーマは一番最初に見た『夢』を思い出した。
あの時交わした会話が『手塚の告白』だったのかと。
「お前に受け入れてもらえたことが嬉しくて……あの晩に、初めて俺はお前の身体に触れた」
リョーマが頬を染めると、手塚は柔らかく微笑んだ。
「だが次の日にお前に逢って、違和感を感じた。まるで前日の夜のことを何も覚えていないようだったからな。それが気になって、出発前に無理に時間を作って新橋に行って………その理由をあの店の男から聞いた時は、かなりショックを受けた」
「え?あの日一人であの店の人に、会ったんスか?」
手塚は静かに頷いて「すまない」と言った。
「あの男が、自分と会ったことをお前に言うなと言ったんだ。そしてしばらくはお前に会うつもりがないとも言っていた」
「だから、国に帰ったなんて……?」
手塚は小さく眉を寄せて、また頷いた。
「それで、あの人に会って、なんて言われたんスか?」
「……夜に逢うお前は全くの別人格で、自分の意志で動いているのではない、と…」
「………」
リョーマは、その時の手塚の心情を思って小さく眉を寄せた。
「だから俺は、早くお前に気づいて欲しくて、少し焦っていたかもしれない。いや、それだけでなく、お前に飢えていたんだろうな。……最初は加減もわからず、お前の身体に負担をかけてしまった。すまなかった」
苦しそうに話す手塚に、リョーマは小さく首を横に振った。
「お前が…『昼間の』本当のお前が、俺に好意を持ってくれていると感じるようになった時は、とても嬉しかった。普段の生活でもお前に近づけて……身体に触れても拒まれないことが嬉しくて………このまま、あの夜の時間に、お前が気づいてくれればと、思っていた……だが……」
そこで言葉が途切れ、手塚の瞳が自嘲的な光を浮かべる。
「日を追うごとに、罪悪感も増し始めた。お前の好意に甘えている気がした。……そして、桃城の家に行った時……無邪気にゲームで遊ぶお前を見て、気がついたんだ………俺がしようとしていることは、お前から自由と未来を奪ってしまうことなんじゃないかと…」
「え……?」
「俺は………お前の持つ無限の可能性を秘めた翼を引きちぎって、飛べないように俺に縛り付けようとしているのではないかと、そんなふうに思えたんだ。それこそ、この指輪の名前のように」
苦しげに眉を寄せ、手塚はそっと目を伏せる。
「お前の才能を潰そうとするヤツは許せないと思った。例えそれが、俺自身であっても」
「………」
「なのに俺はいつまでもお前から離れられなかった……浅ましい欲に囚われてしまっていたんだ……」
手塚は苦しげな表情のまま顔を上げ、リョーマを見つめた。
「……お前に、好きだと言われた時は嬉しかった。嬉しくて堪らなくて、だが、だからこそ、ひどく後悔した。なぜ、あの指輪なんかに頼ってしまったのかと……」
「国光……」
手塚は小さく微笑みながら、リョーマの髪や頬を撫でる。
「……あの指輪について説明されたいくつかの『条件』の中に、『期限』も含まれていた」

 「期限…?」
 目を見開くリョーマに、手塚は静かに頷く。
「あの指輪が発動してから三度目の満月を迎える前に、つまり、夏が終わる前に、相手に気づいてもらえなければ、終わりだと」
「夏…」
「それを暗示するかのように、お前はどんどん俺を感じなくなっていった。話しかけてもお前に声が届かず、傍にいても存在に気づいてもらえず……まるで…夜の時の関係に、近づいていくようだった」
苦しげに話す手塚を見つめ、リョーマの胸にも痛みが広がる。
「だが、それならその方がいいと思うようになった。お前が俺を感じなくなるなら、俺が傍からいなくなってもお前が気づくことはなく、苦しんだり悲しんだりすることもないだろうと」
「なに、言って……」
「俺を感じなくなったお前は、きっといつしか俺のことを忘れていく。忘れてしまえば、何も感じずにいられるだろう?」
目を見開いて呆然と手塚の言葉を聴いていたリョーマは、しかし、キュッと唇を噛んで手塚を睨みつけた。
「オレが、アンタのことを忘れるって?本当にそんなこと考えていたんスか?」
「…………」
「アンタはそれでいいかもしれないけど、でもオレは絶対にアンタを忘れたりなんかしないよ。例え指輪のせいでアンタを感じなくなって、記憶の中でアンタを忘れたとしたって、アンタを好きになったこの心だけは、アンタのことを忘れないんだ」
リョーマの手が、グッと手塚の襟元を掴む。
「記憶がアンタを忘れても、心はきっと、ずっとアンタのこと、好きで、好きで、大好きで、好きすぎて、アンタが傍にいなかったら寂しくて、悲しくて、苦しいままなんだよ!」
手塚は大きく目を見開いた。リョーマの大きな瞳から、透明な雫が流れ落ちる。
「…さっき、どうしてアンタのこと見つけられたのか、アンタ、聴いてなかったんスか?」
「………」
「オレがアンタを見つけられたのは、オレが、アンタのことを、本当に大好きだからだよ。……身体全部で思い出せるほど、いつだってオレは、オレの全部でアンタのことを欲しがっているんだ……なのに…」
言葉を詰まらせるリョーマの瞳から、止めどなく、大粒の雫がポロポロと零れ落ちる。
「アンタは、ずっと、オレに嘘ついてきたんだ………もうこれ以上、嘘は言わなくていいよ……」
零れ落ちる雫を拭うことなく、リョーマは手塚を真っ直ぐに見つめる。
「アンタは、本当は、どうしたいんスか?」
「…………」
「アンタの本当の気持ちだけ、オレに聴かせて……」
リョーマの真っ直ぐな瞳に見つめられ、その瞳から視線を外すことが出来ずに、手塚はしばらく押し黙った。
「俺は……」
手塚がゆっくりと、言葉を紡ぎ始める。
「俺は、お前の自由を奪うかもしれないんだぞ?」
「自由ってなに?アンタがいなかったら、どんな自由だって、オレには意味なんかない」
「未来だって、奪い取るかもしれない」
「奪い取るもなにも、オレの未来はアンタと共に在るんだ。今さら独りで生きろだなんて、そんなの、オレに死ねって言ってるようなものっスよ」
再びしばらく押し黙り、手塚は静かに笑った。
「………バカだな……俺から逃げられる、最後のチャンスだったのに」
「バカはアンタでしょ。そんなにオレのこと好きなくせに、無理して、オレにも、自分にも、嘘ついちゃって…」
手塚は堪らなくなったかのようにリョーマを引き寄せ、しっかりと抱き締める。
「ああ、好きだ。大好きだ。お前を誰よりも愛している。忘れてくれた方がいいなんて、嘘に決まっている…っ」
「うん」
手塚の苦しい葛藤がリョーマにも伝わってくる。苦しみ抜いた手塚を労るように、リョーマはその背に優しく腕を回す。
「……俺は、お前が欲しい。……本当のお前のすべてを、俺のものにしたい……」
身体が軋むほどきつく抱き締められ、リョーマは幸せな眩暈を覚える。
「…うん。……いいよ。全部、アンタにあげる」
うっとりと微笑むリョーマの瞳から、また新たな雫が流れ落ちた。
しばらく抱き合っていた二人は、ゆっくりと身体を離し、揺れる瞳で見つめ合う。
手塚がふわりと微笑み、徐にポケットから指輪を取り出した。
「まだ嵌めてなかったんスか?…それでも効力あったんだ…」
「ああ。俺の方の指輪は自分の意志で外せるし、指に嵌めずに持っているだけでも多少は力を発揮するようなんだ。だから昼間は指から外して持ち歩いていた。そうしないと、お前に指輪を持っていることがすぐにバレてしまうからな」
「ぁ、……オレの指輪が、熱くなってきた」
「ああ、俺のも……」
そう呟きながら、手塚はリョーマの目の前で右手の薬指に指輪を嵌める。
「持っている者の想いが高まると、二つの指輪が
呼び合うように共鳴を起こして熱を持つのかもしれないな」
「共鳴………でも、じゃあどうしてこの前は、指輪が冷たいまんまで……」
手塚と一緒にいた時に指輪が発熱しないことがあったのを思い出して、リョーマは眉を寄せた。
「あの時、俺は指輪をわざと家に置いてきたんだ。だから共鳴が起こらなかったのだろう」
「え…家に?…なんで?」
「昼間のお前が惹かれているのは本当に俺自身なのか、それとも単に指輪に引き寄せられているだけなのかを、確かめたかった」
「………それで、確かめてみて、どうだったんスか?」
心外そうに軽く睨んでくるリョーマに、手塚は小さく苦笑した。
「余計にわからなくなった。指輪を嵌めていなくてもお前は俺を求めてくれた。だが夜になって、お前は俺の家に置いてきた指輪の元へ行こうとした」
「だって……夜は、何かがオレの身体を乗っ取っている感じで……」
「ああ、そうだな。お前に似た、だがお前ではない人格が、お前の身体を動かし、いろいろと喋っていた」
「な、何を?」
手塚は短く沈黙してから、静かに溜息を吐いた。
「……あの時は…とにかく指輪のもとへ行かせろと。…それでも俺が行かせないと言うとひどく怒って、指輪を持っていない人間がお前を抱いたら、お前の『心』が永遠に消えるのだから触るなと…忠告してくれた」
「心が、消える…?」
「お前の本来の人格が二度と表面に出てこなくなるということだと思う。あの店の男は教えてくれなかったが、いわゆるタブーなんだろう。指輪の呪力に取り込まれた者が、指輪に関係のない者と情を交わすということは、その瞬間 に、呪いを解くことに失敗したことになる。その時は、禁を破った側、つまりあの場合はお前の方に術返しのようなことが起こるようになっていたのではないかと…」
「それで、アンタはオレを……」
手塚は小さく頷いた。
「そんなことを教えられたら、何がなんでもお前を抱くわけにはいかなかったんだ。それだけでなく、他の人間と二人きりにするのも不安になった」
リョーマは、手塚が見せてくれた嫉妬心が単純なジェラシーだけではなかったのだと知り、自分の行動がどれだけ手塚を不安にさせていたのかと胸が痛んだ。
「……でも、指輪を持っている時もあったよね。なのになんでオレのこと……」
頬を染めながらリョーマが言いづらそうにして問うと、手塚はまた小さく苦笑した。
「夜のお前が俺に気づいてくれないうちは、お前を抱くつもりはなかった。何が起こるか、わからなかったからな…」
「そう言えば、あの店の人も『ややこしいことになってる』とか言っていた…」
「そうだな…夜のお前は俺に気づいていなかったが、昼のお前は俺のことを好きになってくれた。同一人物ではあるが、時間や状況によって指輪の呪力がどう働くのか、指輪を作った本人である彼にもわからなかったのかもしれないな」
「うん………でも…よかった……」
「ん?」
安堵の溜息を吐くリョーマに、手塚は少し怪訝そうに眉を寄せた。
「……何度も……アンタに最後までして欲しいって、言いそうになった。でも、オレのカラダは知らないヤツに散々汚されていると思っていたから言えなくて……でもそれでよかったんだ…」
「リョーマ……」
リョーマの頬がほわりと染まる。
「だったらもう何も我慢しなくていいんだよね?アンタも、オレも。指輪の呪いだって、これでもう………あれ?」
「?」
指輪を外そうとしたリョーマは大きく目を見開き、縋るような視線を手塚に向けてきた。
「抜けない……なんで?……アンタのは?」
リョーマに言われて自分の指輪を外そうとした手塚も、リョーマと同じように大きく目を見開いた。
「だめだ。外れない」
「そんな……呪いは解けたんじゃ……?」
チラリと時計に目をやり、きつく眉を寄せる手塚を、リョーマは呆然と見つめた。
「どうしよう……」

タイムリミットまで、あと、五時間。














 ←                              


*****************************************
←という方はポチッと(^_^)
つながりが悪い時は掲示板やお手紙でぜひ一言を!
*****************************************

掲示板はこちらから→
お手紙はこちらから→




20060526