公園


<1>


妙な感覚がした。
朝、目覚めたリョーマは、時計を引き寄せ、まだ6時にもなっていないことを確認した。
(うわ、なんでこんなに早く目が覚めちゃったんだろ)
大きく溜息を吐いて、もう一度寝直そうかとタオルケットを引き上げ、ハッとして目を見開いた。
ガバッと飛び起き、時計の横に置いておいた二つのリングを手に取る。
(オレ……今、なんで……忘れて……?)
昨夜は当然の如く『あの男』の元には行っていない。改めて、自分が指輪の呪力で『あの男』の元へと引き寄せられていたのだと、リョーマは感じた。
だが毎朝早くに目覚めていたのが習慣のようになってしまい、そのせいで今朝も目覚ましが鳴る前に起きたのだと思える。
その早起きの理由を、今、自分は「わからなかった」。
指輪を買う前とまったく変わらない感覚だった。
朝はギリギリまで寝る。そうして目覚ましが鳴るまで粘り、大音響の目覚ましに急かされて、目をごしごし擦りながら、やっとベッドで身体を起こすのだ。
(もしかして……オレ……)
相変わらず冷たいリングを握り締め、リョーマはきつく眉を寄せた。










今日は朝から快晴だった。
昨日までの雨ですっかり濡れてしまったコートも、きっと今日はちょうどよく乾いていることだろう。
だがリョーマは身支度を整える間も、朝食の間も、ずっと小さく眉を寄せていた。
「リョーマ、どこか具合でも悪いの?」
心配そうに覗き込んでくる母に「べつに」と言って席を立つ。
「行ってきます」
いつもの数倍素っ気なく言って玄関を出たリョーマは、いつものように、通りがかった桃城の自転車の後ろに乗せてもらうことにした。
「なんか機嫌悪そうだな、越前」
「べつに」
「また調子悪いとか?」
「べつに」
上の空のような返事を返されて、桃城は諦めて深い溜息を吐いた。
リョーマの心の中に、確信に近い『不安』が急速に広がってきていた。
(…オレの中から、『指輪』に関する記憶が消えかかっている…?)
リョーマはグッと唇を噛み締めた。
指輪にかけられた『呪い』を解く前に『鎖』を解かれてしまったせいで、急速に『呪力』が消えていくとでもいうのか。
冗談じゃない、と思った。
こんな曖昧な解決なんか望んではいない。
リョーマの中の指輪の記憶が消えるということは、『あの男』との出来事も忘れてしまうということなのだろうか。
忌まわしい夜の出来事を覚えていたいわけではないが、このまま忘れてしまって『あの男』を見つけられないまますべてに幕が下ろされてしまうのは納得がいかない。
(殴り飛ばせないじゃんか)
一発、いや、リョーマの気が済むだけ殴って、そうしてやっとキリがつく気がするのに、こんな状態で終わらされては、この胸の中の怒りが行き場を失くしてしまう。
それだけはなく、すべてを決着させて、そのすべてを手塚に告白しようと決めているのに、こんな状態で記憶がなくなってしまっては、『すべて』を話すことすら出来なくなる。
(急がないと……でもどうやって……?)
リョーマはさらにきつく眉を寄せた。
八方塞がりになった気がした。






気分が浮かないまま学校に到着し、自転車置き場へ向かう桃城と別れて部室に向かう途中で、リョーマは不二に呼び止められた。
「おはよう、越前」
「はよっス」
「あれ、どうかした?」
不二はすぐにリョーマの様子がいつもと違うことに気づき、眉を寄せて顔を覗き込んできた。
「先輩……オレ、記憶が、薄れてきているかもしれない……っ」
「え?」
「指輪のこと、このまま忘れちゃうかもしれないっス。それじゃ何も解決なんかしないのに……このままじゃ……オレ……悔しいっス…」
「越前……」
小さく溜息を吐くと、不二はそっと手を伸ばしてリョーマの肩に手を置いた。
「……越前に報告することが二つあるよ」
柔らかな不二の声音に、リョーマは眉を寄せながら不二を見上げた。
「ひとつは、あのお店のこと。昨日キミたちと別れてから、あの周辺でちょっと聞き込みみたいなコトしてみたんだ」
「聞き込み?」
不二は頷く。
「ほら、あの辺って、露店なんかほとんどないよね?だから、君が指輪を買った『露店』はかなり目立つだろうと思って、あの辺を通るサラリーマンや、近くのお店の人にいろいろ訊いてみたんだ」
穏やかな口調で、しかし、その瞳だけは真っ直ぐリョーマを見据えながら、不二が話す。
「そうしたら、みんな一様に同じことを言うんだ」
「同じこと?」
「そう。『先月の頭くらいから見ていない』って」
リョーマは大きく目を見開いた。
「僕が話を聞いたのは全部のお店じゃないし、あの場所を通る人全員じゃないから、統計的には信憑性が乏しいかもしれないけど、それでも、みんな『知らない』んじゃなくて『最近は見ていない』って言ったんだ。つまり、確かに存在はしていたけど、最近は見ないってこと」
リョーマはきつく眉を寄せた。
「よく……意味がわかんないっス」
「誰も見たこともない、とか、知らない、とか言うなら初めから存在しないことになってそれもおかしいけど、確かに見たことがあるって人がいるのに最近は見ないってことは、キミたちが来る時だけ、その店が、キミたちにだけ、見えていたってことでしょう?」
「ぁ………」
不二は笑みを消してリョーマにグッと顔を近づけた。
「つまり、指輪を買った店、と言うか、指輪を君に売った男は、たぶん、高い確率で、今回のことに関わっているよ」
リョーマは息を飲んで目を大きく見開いた。
「あの人が……?」
柔らかく微笑む店の男の顔がリョーマの脳裏を掠める。
まさかあの店の男が『あの男』だったのだろうか。あの店の男が、毎夜リョーマを指輪の呪力で呼び寄せ、己の欲望のままにリョーマのカラダを蹂躙したというのか。
「……違う……あの人は……アイツじゃない……」
「え?」
「確かに、この指輪のことはあの店の人が関わっているかもしれないけど、オレが毎晩逢っていたのは……あの人じゃない気がする……」
不二の瞳がスッと細められる。
「なぜそう思うの?テニス部じゃないから?でもそれは、どこかから君を見ていれば問題ないよね?」
「………そっスね……でも……」
リョーマは眉を寄せて俯き、だが、すぐにグッと顔を上げて不二に真っ直ぐな視線を向けた。
「あの人の目は、オレのこと……愛してくれてる目じゃない……から……」
どんなに優しく微笑んでくれても、リョーマは、自分を心から愛してくれる人間の瞳と、そうでない人の瞳の違いを知っている。
自分を心から愛してくれる者の持つ瞳は、どこまでも優しく、深く、切なくなるほどに甘く、だがその奥には熱く激しい焔が揺れているのだ。
そしてその焔は、慈愛も、欲望も、嫉妬も、相手に対するすべての激しい熱を孕み、だからこそ妖しく、美しい。
そういう瞳で自分を見つめる男を、リョーマはもう、知っている。
「越前が毎晩逢っていた人は、越前のことを、愛しているってこと?」
少し躊躇ったが、リョーマは小さく頷いた。
「最初は乱暴だったけど、最近はずっと優しかったし……オレには聞こえないけど、いつも何か囁いてくれたり、髪を撫でてくれてた」
「越前……」
「ぁ、べつに、だからアイツのこと許すとか、そういうことじゃなくて、あのお店の人と、アイツは、違うって……ただ…そう思うだけで…」
「越前は、本当に、その人の心当たりはないの?」
「え……なんで…そんな……」
不二に真っ直ぐ見つめられて、リョーマは言い淀んだ。
テニス部で。
鍛え上げられた左腕を持ち。
リョーマを心から愛している男。
様々な矛盾を無視できそうなほど、振り払っても振り払っても、『あの男』のイメージが手塚に重なってくる。
「……心当たりなんて、ないっス」
後ろめたいとは思わないが、リョーマはなぜか不二の目を見ていられずに視線を逸らした。
聡い不二には、リョーマが口で何を言おうと心の中まで見透かされているかもしれない。だが、その『心当たり』は口には出せない。いや、出したくない。
(違う………部長じゃない、絶対……)
不二が小さく溜息を吐いた。
「今は、そういうことにしておこうか」
「…………」
「…それから、二つ目の報告だけど…」
言いかけて、不二が口を噤んだのでリョーマはふと顔を上げて不二を見た。
「不二先輩?」
「……もう一度、新橋に行ってみない?」
「え?不二先輩と?」
「そう、僕と、今から二人で」
「今からって……練習は……」
「あとでグラウンド100周付き合うから」
「………」
珍しく強引な不二に、リョーマは事の緊急性を感じ取った。
「わかりました。でも無断で休むのは…」
「桃!」
リョーマの後ろに視線を移して不二が少し声を張り上げた。自転車置き場から桃城が部室へと歩いていくのが目に留まったようだった。
「ぁ、ハイ、なんスか」
桃城がこちらへと小走りにやってくる。
「急用が出来て越前と新橋に行くって、手塚に伝えておいてくれる?」
「え?新橋っスか?はぁ……」
「用事が済んだら手塚にも報告するって、そう言っておいて」
「わかりました」
訝しげに眉を寄せながらも、桃城は大きく頷いた。頷いてから、リョーマに視線を向けてくる。
「越前…なんかわかんねぇけど、大丈夫か?」
心配そうな桃城に、リョーマは小さく微笑んだ。
「…大丈夫っス。じゃ、桃先輩、行ってきます」
「ああ…」
眉を寄せて見つめてくる桃城にペコリと頭を下げて、リョーマは不二と共に潜ったばかりの校門を、もう一度潜った。










地下鉄に乗り込んでから、不二はずっと黙ったまま暗い窓の外を見つめていた。
視線すら合わせてこない不二の横顔を時折見上げては、リョーマは小さく溜息を吐き、ポケットに手を入れて二つのリングを握り締めた。
(不二先輩は、何かわかったんだろうか)
普段の微笑みを絶やさない不二も、その心の奥で何を感じ何を考えているのかわかりづらいが、笑みのない今日の不二は、さらにリョーマを困惑させた。
「越前」
窓の外を向いたまま、不二が呟くように言う。
「…死ぬよりもつらい事って、どんなことだと思う?」
「え…?」
唐突な質問に、リョーマは訝しげに眉を寄せた。
「お店の人が言っていたんでしょう?君と対の指輪を持っていた人に『しっぺ返し』があるって。それも、死ぬよりもつらい…」
「はい」
リョーマはさらにきつく眉を寄せて頷いた。
「越前だったら、死ぬよりもつらい事って、何?」
「オレ、だったら……?」
リョーマは考えた。
考えたこともないことを、考えてみた。
だが。
「わかんないっス」
不二が小さく笑ってリョーマを見た。
「じゃあ、今、君にとって一番大切なものって何?」
「大切なもの?」
「大切な人、でもいいけど?」
「ぁ……」
うっすらと頬を染めてリョーマは俯いた。
大切なもの。
大切な人。
今のリョーマは、その両方の言葉が一人の男に繋がっていく。
不二がまた優しく微笑む。しかしすぐにその瞳が翳った。
「自分にとって一番大切なものを失くしたら、それは、死ぬよりもつらいこと、だよね…」
リョーマは小さく目を見開いて不二に視線を向ける。
「対の指輪を持っていた人にとっては越前が一番『大切なもの』だったかもしれない。だからその人にとって死ぬよりもつらい事って、越前がいなくなることなんじゃないかと考えてみたんだ」
「それって…オレが死ぬ、ってことっスか?」
リョーマは自分でも驚くほど落ち着いた声を出した。そんなリョーマを、不二が暫し無言で見つめ、だが、ゆっくりと首を横に振った。
「たぶん、違う、と思う。それなら越前にも『しっぺ返し』があることになってしまうからね」
「ああ……そっスね…」
「君が死ぬわけじゃないけど『失くす』………どういうことなんだろうね…」
「…………」
不二が深く溜息をついて、再び視線を窓の外に移す。リョーマも窓の外を見つめて眉を寄せた。
(オレを……『失くす』こと……)
確かに、あの店の男は、『しっぺ返し』は命に関わることではないとは言っていた。ならば、自分はもちろん、『あの男』も死ぬような事態にはならないだろう。
だとすれば『失くす』というのはどういう意味か。
失くす。消える。いなくなる。
連想できる言葉を並べてみて、リョーマはふと思った。
(……もしかして……もう二度と逢えなくなる、とか?)
その考えに行き着いて、リョーマはグッときつく眉を引き寄せた。
『あの男』が自分と逢えなくなるというのが、自分の中の指輪の記憶が薄れてきていることと無関係には思えなくなってきた。
だが、リョーマの中で指輪の記憶が薄れてきたからと言って、なぜ『あの男』が自分に逢えなくなるのかがわからない。
実際に昨夜は『あの男』とは逢っていないが、もし本当に『あの男』がリョーマに逢いたいと願うなら、指輪などなくても逢いに来ればいい。
(逢いたくても、逢えない状況になるって、コト?)
ただ単純に、リョーマの記憶の中から指輪の記憶と共に『あの男』のことが消えるというわけでもないのかもしれない。
(なんだろう……やっぱり早く…アイツのこと見つけないと……)
「不二先輩……あのお店の人に、今日は会えるかな……」
「………どうだろう」
リョーマは小さく溜息を吐いた。あの店がなければ、新橋まで行く意味がない。こうして移動している時間のうちにも、自分の中から指輪の記憶が流れ出して行っている気がする。
(早く……早くしなきゃ……)
強い焦燥感が湧き始めた。
嫌な感覚だった。
早く『あの男』を見つけなければ、リョーマ自身も、大切なものを失うように思えるのだ。
「……越前?」
不二が心配そうに覗き込んできた。
「大丈夫?顔色がよくないけど」
「大丈夫っス」
小さく笑おうと思ったが、失敗した。
「降りる駅、次っスよね」
「うん」
話題を変えて、心が強ばっているのを誤魔化した。









電車を降り、いつもの場所へ行ってみるが、やはり、店はなかった。
「どうして……」
心の緊張の糸が切れた途端、その緊張が蝕みながらも支えていたリョーマの身体はぐずぐずとその場に崩れていった。
「越前っ」
「………大丈夫っス。ちょっと、気が抜けて…」
「確かこの近くに公園があったから、………そこまでなら、歩ける?」
「はい」
不二に支えられて立ち上がり、リョーマは深く息を吐き出した。
気分が悪い。
頭痛がする。
こんなふうに、精神状態が体調に響くことなど初めてだとリョーマは思う。
吐き気と眩暈を堪えて、なんとか近くの公園に辿り着くと木立を背にしたベンチに座らされた。
「ちょっと待ってて、何か飲み物買ってくるから」
「すみません」
走り去る不二の背をチラリとだけ見送って、リョーマはベンチの背もたれに身体を預けて目を閉じた。
(なんでこんなに焦るんだろう……それに、さっきからずっと、何か忘れ物でもしてきたような……もどかしい感じがする……)
風が流れ、リョーマの頬を優しく撫でてゆく。
木々の葉が揺れる音が、なぜか遠くに聞こえるようだ。
「こんにちは」
不意にかけられた聞き覚えのある声に、リョーマはハッと目を見開いた。
「アンタ……っ」
リョーマの目の前に、あの店の男がいつものように優しく微笑みながら立っていた。
「アンタ、一体……っ、………あれ?」
立ち上がろうとしたリョーマは、自分の身体がベンチに縫いつけられてしまったかのように動かないことに気づいた。
「すみません。冷静に話をしたいので、座っていてもらえますか?」
男がまた微笑んだ。
リョーマはギッと、きつく男を睨んでから、諦めたように身体の力を抜いた。
「隣、座りますよ」
「………訊きたいことが山盛りなんだけど、何から話してくれんの?」
「そうですね……何から話しましょうか」
男はのんびりと空を見上げ、ふぅっとひとつ溜息を吐いた。
「何から話してくれてもいいけどさ。どうせ全部話してもらうんだし。…でも最初に、アンタが今までオレに話したことの、何が本当で、何が嘘だったのか、教えてよ」
「私は嘘はついていませんよ。…視力がよくないのも本当ですし、人混みが苦手なのも本当です」
男はクスッと笑った。その微笑みは、今までと何も変わりなく、穏やかで、柔らかい。
「ああ、ひとつだけ嘘をつきました。あの指輪は、友人から譲ってもらったのではなく、昔、私が作った物です」
「え?……作った…って……」
「はい」
目を見開くリョーマに、男はまた微笑みかけてから、視線をゆっくりと動かして空に向ける。
「昔、叶わぬ恋をした王子がいたという話、あれも本当ですよ。その王子は想いを言葉にするのがとても下手な人でしてね、見ていてこっちがもどかしくなるほどでした」
「………」
突然始まった昔話に訝しげな視線を向けつつも、リョーマは黙って男の話を聞いた。
「王子が恋をしたのは国王一家の食生活一切を賄う料理番の一人娘でしてね。身分が違いすぎて実るはずのない恋でした。それだけでなく、その娘はとても気が強くて、ですがとても優しくて……王子のことを想い、頑なに王子を拒み続けたんです」
懐かしい話をするように、男は目を細めながら淡々と話す。
「それでも王子は諦めきれずに、次々持ち込まれる他国の姫との縁談を断り続け………私の元に来ました」
「アンタ……一体……」
リョーマの問いに、男は小さく笑うだけで答えない。
「最初は惚れ薬を作れと言われたんですが、そんな物作っても効力なんてその場限りですからね…もっと、お互いの心を結びつけられるような物にしましょうと提案したんですよ」
「それであの指輪にしたんスか?」
「そうです」
男はリョーマを真っ直ぐ見つめて大きく頷き、それからまた空を見上げた。
「…あなたは『人魚姫』という童話をご存知ですか?」
「は?」
いきなり話が逸らされたように感じてリョーマは素っ頓狂な声を出した。
「そんなの……知ってるけど……」
「あの指輪には、『人魚姫』の話に似た秘密があるんですよ」
「秘密?」
「呪い、と言った方がいいのでしょうけどね」
「なんでそんなもの……王子のためにアンタが作ったんなら、なんでわざわざ呪いなんかかけるんスか?」
理解できない、と言外に言うリョーマの瞳を見て、男は寂しそうに笑う。
「恋を成就させるだけの宝物なんてこの世には存在しませんよ。欲しいものがある時には、それなりの代価を払わなくてはならない。いわゆる、等価交換というヤツです」
「……じゃあの指輪
の呪いを解くためには、何を『代価』にしたらいいんだ?」
逸る心を抑えて、ゆっくりと、リョーマは問うてみた。
しかし男は静かに首を横に振る。
「それは私の口からは言えません。ただ、あの指輪の呪いを解けるのはあなただけなんです。この言葉も嘘じゃない。あなたが気づきさえすれば、呪いは解けるんです。対の指輪の持ち主を、見つけてあげてください。今ならまだ、間に合います」
「でも、対の指輪がオレの元に来てるから、もう手掛かりがないんだ」
男は「知っています」と言って頷いた。
「あなたの場合は、どうにもややこしいことになってしまっているんです。でも大丈夫。あなたなら、きっと見つけ出せます。そして対の指輪の相手と、私を、助けてください」
「助ける…?アンタを?」
「私は、あの指輪を作る時…つまり、あの指輪に魔力を持たせるために私の命を代価に差し出したんです。あの指輪にかけた呪いが解けなければ、私の命は終われない」
「え……?どういう……」
男はゆっくりと立ち上がった。
「あなたの中に、対の指輪の持ち主の精が放たれたでしょう?それはラストヒントなんです。もう時間がない。三日以内に見つけないと……」
「ちょっと待って。まだ呪いが解けていないってコトは、アンタに指輪を作るように頼んだ王子は、どうなったんスか?」
「……ちゃんと生き続けましたよ。父君の後を継いで、国王にもなられた。でも……二度と誰かを愛することはなかった」
「………」
発する言葉をリョーマが探していると、男がふと、リョーマの背後に視線を向け、苦笑した。
「そろそろ失礼します。あの人は苦手です。ある意味、適任ですけどね……」
「え…?」
「越前」
背後で不二の声がした。振り返るリョーマの耳に、男の声が響く。
『頼みます』
「え、ちょっ、………あ」
リョーマが再び自分の隣に目を向けると、そこにはもう男の姿はなかった。
「消えた……」
「遅くなってごめん、越前。自販機がどこも故障してて…………越前?」
ゆっくり身体を動かすと、リョーマの身体への戒めはすでに解かれ、すんなりと立ち上がることが出来た。
「不二先輩…時間が、ないみたいっス」
「……え?」
「今、あの店の人に会いました。三日…いや、あと二日以内にアイツを見つけなきゃこの指輪の呪いは解けない。…なんにも解決しないんだ」
不二が息を飲んだように目を見開いた。だがすぐに視線を落とし、小さく溜息を吐く。
「……やっぱり、僕がいるから姿を現さなかったんだね。自販機が全滅していたのも、あるいは……」
「不二先輩……?」
「どうしてかわからないけど、今日、何がなんでも君とここへ来なきゃならない、って気がしたんだ。その感覚はまるで僕が誰かに操られているようにすら思えて、ずっと電車の中でも、何か気配を感じないかと探してみたんだけど、わからなくて……」
「そ……だったんスか……」
電車の中で不二がいつもと違う表情でじっと窓の外を見つめていたのを思い出し、リョーマは納得した。
「でもこれで、ひとつわかったことがあるね、越前」
「え?わかったこと?」
不二が大きく頷いた。
「僕は君の嵌めていた指輪が見えていたけれど、お店の人とは結局会えていない。でも君と一緒に何度も店に、いや、その店の男に、会っている人がいるでしょう?」
「?」
リョーマは首を傾げた。
「もし彼が関係のない存在なら、今日、僕が避けられたように、店の人はキミたちの前に姿を現さなかったに違いないんだ。なのに、彼といた時にも店の人は現れた。つまり彼は…」
「あの、不二先輩?」
リョーマは不思議そうな顔をして不二の言葉を遮った。
「今まで一緒に店に行った人なんていないっスよ?」
「え?」
きつく眉を寄せる不二の表情を見て、リョーマはさらに訝しげな顔をした。
「この間の土曜日だって、オレは一人で新橋に来たし、この指輪を買った時だって…………買った、時…は……あれ…?」
「越前?」
「あ……違う……オレは誰かと一緒に…指輪を見て……そうだ、指輪を買ったのは……」
リョーマは次第に大きく目を見開いてゆき、その身体は小刻みに震え出す。
「越前…」
「どうしよう……不二先輩……どうして、オレ……部長のこと……忘れて……っ」
「……」
動揺して小さく震える肩を引き寄せ、不二がそっとリョーマを抱き締める。
「………学校に戻ろう、越前」
「…………」
「大丈夫。きっと大丈夫だよ。キミたちを不幸になんて…僕がさせないから…」
不二の言葉は、半分程度しかリョーマの心には届かなかった。
(部長のこと、忘れかかっている…?)
それはリョーマにとってはとんでもない恐怖だった。
大好きな、一番大切な人と過ごした時間の記憶が消えてゆく。そんな悲劇は堪えられない。
(どうして……これも、指輪のせい?)
「越前」
強く名を呼ばれて、リョーマは揺れる瞳で不二を見上げた。
「しっかりしなきゃダメだよ。とにかく、一度学校に戻ろう。手塚に訊きたいことがあるんだ。一緒に来てくれるね?」
リョーマは少し間をおいてから小さく頷いた。
未だに『あの男』が手塚だとは思えないが、手塚が何か関係しているだろうことは、リョーマにも何となくわかってきた。
手塚と話をしなければならない。
本当に手塚と過ごした時間の記憶がなくなってしまう前に。
リョーマはキュッと唇を噛んで、不二に強い瞳を向けた。
「……すみません、もう大丈夫っス。すぐに学校に戻りましょう」
不二は大きく頷くと、リョーマの肩をポンと軽く叩き、歩き出した。リョーマも不二に続いて歩き出す。
店の男は呪いを解けるのはリョーマだけだと言った。
ならば、置かれている状況に戸惑っている暇などない。
店の男の口調から言って、『あの男』を見つけ出すことこそが呪いを解く鍵になっている。それがどういう意味なのかはわからないが、リョーマが『あの男』を見つけ出せば、きっとすべてが解決するのだ。
(それってなんか……)
リョーマの頭の中に、店の男の言葉と共に、ひとつの考えが浮かんだ。

 『…あなたは『人魚姫』という童話をご存知ですか?』
 『あの指輪には、『人魚姫』の話に似た秘密があるんですよ』

「人魚姫……」
歩きながら、リョーマは小さく呟いてみた。
人間の王子に恋をして、その王子に逢いたくて自慢の美声と引き替えに人間の身体を手に入れ、だが声を失ったことで王子に真実を話すことが出来ず、泡となって消えていった可哀相な少女の悲恋物語。
その『人魚姫』に似た秘密とはなんなのか。
(そうか……自分が王子を助けた人魚だと気づいてもらえなかった人魚姫が泡になってしまったみたいに、オレがアイツを見つけないとアイツがオレの前から消えるってコトなんじゃ…)
だとしたら、『あの男』はやはりリョーマの近しい存在であると言うことになる。
(でも…違う…部長じゃない。部長はあんなコトはしない!)
きつく眉を寄せて、リョーマは前を歩く不二の背を見つめた。
了承も得ずに自分を抱き、その強引さのせいで体調さえ狂わせた『あの男』のことを、リョーマは受け入れるつもりはない。
例えカラダが『あの男』の熱に馴染んでしまっていたとしても、心は『あの男』を許してはいない。
だがもしも、万が一、『あの男』が手塚だったとしたら。
「…………」
リョーマは、自分がどう反応するのか想像しかけ、頭を振って思考を止めた。
手塚を『あの男』に見立てて想像するなど、手塚を汚すような気がしたのだ。
自分と手塚はまだ始まったばかりだ。暴発のような告白だったが、今では想いを伝えられてよかったと、リョーマは思っている。
告白する前からも熱く触れ合ったりはしていたが、言葉にして想いを伝え合ってからさらに濃厚な疑似SEXを何度もした。だが手塚は一度も乱暴なことはしな かったし、無理に身体を繋げようとはしなかった。身体を繋げることが罪悪とでも思っているかのように、頑ななまでに、繋げてこなかったのだ。
だが、そういうことを望んでいないわけではないこともリョーマは知っている。疑似SEXの最中、何度も後孔を弄られたし、手塚の熱い性器を擦りつけられたこともある。
それでも繋げて来なかったのは、手塚がリョーマを想い、大切にしてくれているからだ。
(アイツとは全然違う)
ほとんど強姦に近い形で自分を抱いていた『あの男』。
想い合っているのに身体を繋いでくれない手塚。
同一人物なわけがない、とリョーマは思った。
しかし、そう思う一方で、不二の言うように手塚と指輪との間に何らかの関係があることも否定できなくなってきた。
だから。
(話をしなきゃ…)
部活を休んだことを怒られるだろう事は承知しているが、今だけは、テニスよりも優先しなければならないことがある。
(早く、部長と話を……)
心が逸る。
何かに急かされている。
早く。
早く。
取り返しのつかないことが起こる前に。


綺麗に晴れていた空が、いつの間にか低い雲に覆われ始めていた。













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20060411