  
        意地悪 
          
         
        
         
 
        
        
雨はまだ降り続いている。 
夕方頃には止むという予報だが、今のところ空には雲の切れ目は見あたらない。 
昨日と同じように傘を差して学校へ向かうリョーマに後ろから声がかかった。 
「おーい、越前!」 
「ぁ、桃先輩、はよっス」 
桃城が傘を上下に揺らしながら走ってきてリョーマの横に並んだ。今日は雨のためか、自転車には乗っていない。 
「桃先輩、昨日来てなかったっスよね。サボり?」 
「バーカ、ちゃんと家で腹筋100回、背筋100回、腕立て100回をワンセットにして5セットはやったんだぜ?」 
「ふーん」 
得意げに胸を張る桃城を、リョーマはチラリと見遣って溜息を吐いた。 
「お前こそ昨日は出たのか?」 
「当然っしょ」 
「マジ?」 
ふふんと鼻で笑うリョーマを覗き込んで、桃城は意外そうに目を見開いた。 
「雨の日にお前が部活出るなんて、何かあったのか?」 
「べつに」 
手塚に誘われたから、というのは桃城に言うつもりはない。下手に詮索されるのはごめんだからだ。 
「そうか、お前が雨の日に部活出たりするから、今日も雨が止まねぇんだな〜」 
恨めしそうな桃城の視線に、リョーマはまた溜息を吐いた。 
「桃先輩が家で真面目に筋トレなんかするからじゃないんスか?」 
「ああ、そうかもな………って、お前!俺はいつも真面目に家でも筋トレやってんだよ!」 
「はいはい」 
どうでもよさそうに返事をするリョーマにガックリと肩を落としていたが、桃城は「ぁ、そうだ」と何か思い出したように話題を変えた。 
「夏休みが明けたら、三年部員はみんな引退だろ?毎年三年部員と一・二年とで対抗試合するんだ。その他にも何かお礼みたいなコトするから、越前もいろいろ考えておいてくれな」 
「はぁ……」 
曖昧に頷いておいてから、リョーマは改めて、暑い、いや「熱い」夏が終わるのだと感じた。 
四月に青学に入ってからいろいろなことがあったが、やはり、全国大会に向けて練習を重ね、先輩たちと一丸となって戦えたことは、リョーマにとって大きな収穫になったと言える。 
(部長にも………逢えたし……) 
手塚の微笑みを思い出し、リョーマは愛しさと切なさに眉を寄せた。 
自分が手塚を好きであることには何も変わりはないが、昨日までの自分と、今日の自分とでは、手塚に対する後ろめたさが大きく違う気がする。 
(早く……アイツを見つけなきゃ……) 
それに、とリョーマは店の男が言っていたことを思い出した。 
(オレが呪いを解いていないのに、オレの手元に指輪があるってことは、アイツに何らかの『しっぺ返し』が行くってことだよな…) 
「ねえ、桃先輩」 
「んー?」 
「今日、なんか体調悪そうな人とか、いつもと違う行動をする人がいたら、オレに教えてくれないっスか?」 
「は?」 
きょとん、とリョーマを見つめる桃城に、リョーマは小さく苦笑した。 
「えーと、夢で……そう、夢で、テニス部の人が救急車で病院に運ばれるシーンを見ちゃって、心配なんで」 
「はぁ?……お前、そんなに心配性だったっけか?大石先輩じゃあるまいし」 
不審そうにジロジロ見られて、リョーマは「もういいっス」と呟いて頬を膨らませた。 
「悪ぃ悪ぃ、わかったよ。お前もちゃんとみんなこと心配してんだよな。わかった!いつもと違う様子のヤツがいないか、俺も注意するから」 
チラッと桃城を見遣って、リョーマはコクンと小さく頷いた。 
「でもそれ、俺に言うより手塚部長に言った方がいいんじゃねぇの?お前、最近部長と仲良いんだから、心配なら部長にも一言言っておけよ?」 
「え?あ……そっスね」 
無意識のうちに手塚に逢いづらいと考えていたのか、桃城に言われるまでリョーマは「手塚に話す」という選択肢をまったく思いつかなかった。 
(部長と、不二先輩にも話さなきゃ) 
部員全体に注意を向けることは独りでは出来ない。だから、『あの男』である可能性がほぼないと思われる不二や桃城、そして手塚にも協力してもらわなければと思っていた。 
(そうだよ……オレと付き合い続けるかどうかは部長に選択権があるんだ。オレの方からいきなり避けたりしたら、部長に悪いよな) 
こんな穢れた自分でも、もしも、手塚がまだ欲しいと言ってくれるなら、いくらでも差し出そうとリョーマは思う。 
カラダがどんなに汚されても、手塚を想う心だけは、穢されてはいないのだから。 
リョーマは傘を少し上げて空を見上げた。ほんのりとだが、少し明るくなってきている気がする。 
「午後には止むかな」 
「さあな。止んでくれた方がありがたいけどなぁ」 
桃城も空を見上げる。 
雨は、まだ降り続いている。 
         
         
         
         
         
        ***** 
         
         
         
         
         
昨日と同じように部室で着替え、桃城と共に体育館へ向かう途中で、また不二に会った。 
「不二先輩、はよっス!」 
「はよっス、不二先輩」 
「おはよう、桃、越前」 
リョーマは早速、異変を不二に伝えようと身を乗り出した。 
「不二先輩、少し、話が…」 
緊迫したリョーマの表情を見てスッと目を細めた不二は、桃城に先に行くように言ってからリョーマに向き合った。 
「何かあったんだね?」 
コクンと大きく頷くリョーマに、不二の眉が小さく寄せられる。 
「これ、見てください」 
リョーマはポケットをあさり、念のために持ち歩くことにした二つのリングを取り出して不二に見せた。 
「これは………どういうこと?」 
大きく目を見開く不二に、リョーマは首を横に振った。 
「わかんないんス。朝起きたら右手にこれを握らされてて…」 
「いきなり終わりにされたってこと?」 
「…………」 
リョーマは俯いて唇を噛んだ。悔しさが、また込み上げてくる。 
「……ねえ、越前」 
不二の声音が少し固くなったように思えて、リョーマは眉を寄せながら不二を見上げた。 
「越前が見ていた夢って、どんな夢だったの?」 
「え……」 
「もしかしたら……いや、間違っていたらごめんね。……『誰にも言えないような夢』だったんじゃない?」 
「………っ」 
リョーマの顔色が微妙に変わったのを見て、不二は深い溜息を吐いた。 
「やっぱり………」 
「…………」 
きつく眉を寄せたまま、リョーマは項垂れるように視線を足下に落とした。 
「タフな君が体調を崩した時から、何となくおかしいとは思っていたんだ。初めは手塚が君を無理矢理…って思ったけど、手塚はそんなコトしそうにないし…」 
「部長はそんな卑怯なことはしないっス」 
「うん」 
真っ直ぐな視線を向けてくるリョーマに、不二は柔らかく微笑んだ。 
「そのうち君の見る『夢』のことを聞いて、もしかしたらって、思ってた」 
「…………」 
「その『夢』が、ただの夢じゃなくて……なのに突然に断ち切られたってわけだね」 
俯いたままリョーマは頷いた。 
「相手が誰なのかは、わからないまま?」 
また小さく頷くリョーマに不二は深く溜息を吐く。 
「………とりあえず、体育館には向かおうか。あんまり遅いと、桃に変に思われそうだし」 
「ういっス」 
リョーマが顔を上げて頷くと、不二はリョーマの肩をポンと叩いた。 
「部活のあとでゆっくり話そう。ああ、手塚も一緒にね」 
「はい」 
「じゃ、先に行ってて」 
「ういっス」 
「越前」 
不二に背を向けて歩き出したリョーマを、不二が呼び止める。 
「手塚は…知ってるのかい?」 
小さく目を見開くリョーマに、不二は笑みを消して歩み寄った。 
「今は、まだ………でも、いずれ、話すつもりではいるっス。そうじゃないと、フェアじゃない…」 
「そう……ちゃんと話せば、手塚はわかってくれるよ、きっと」 
柔らかな不二の声音に、リョーマはふと顔を上げた。 
「ありがと……不二先輩」 
「僕も越前が大好きだから、君にはいつものように笑っていて欲しい。ちょっと生意気そうな目で、ね」 
「………生意気そう、は余計っス」 
「あは、ごめんごめん。じゃ、またあとで」 
「ういっス」 
小さく笑うリョーマを笑顔で見送り、不二はふと笑みを消した。 
「厄介なことになってなきゃいいけど……」 
いつもより一回り小さく見えるリョーマの背中を、溜息をつきながら不二は見つめた。 
         
         
         
         
「はよっス」 
「お、越前、おはよう!」 
爽やかな大石の笑顔に迎えられ、リョーマはペコリと頭を下げた。 
「今日は端っこ使えそうっスか?」 
「うーん」 
大石が苦笑したので、リョーマはまた今日もランニングか、と溜息を吐いた。 
「でも今日は午後には雨も止みそうだし、そうしたらコートを整備して外で練習できるんじゃないか?」 
「そっスね」 
小さく笑って大石に答えていると後ろから声がかかった。 
「おーい、越前、やっときたな。走る前に軽くストレッチやろうぜ」 
「ういっス」 
「じゃ、大石先輩」 
「あ、ああ」 
大石に背を向け桃城の元へ走り寄り、早速長座している桃城の背中を押してやった。 
「………なぁ、越前、お前、部長と何かあったのか?」 
「は?べつに」 
振り返った桃城をきょとんと見つめると、桃城が複雑そうな顔をした。 
「だってお前、あからさまに無視してたじゃんかよ」 
「え?」 
リョーマはビックリして、大石と話していた場所を振り返った。 
「あ………」 
大石の横には手塚が立っていて、こちらをじっと見つめている。 
「ごめ…っ、桃先輩、ちょっと待ってて」 
急いで手塚の元へ駆け寄ったリョーマは、大きく目を見開いて手塚を見上げた。 
「ぶちょ……ずっとここに、いた?」 
「ああ」 
手塚は小さく苦笑して、組んでいた腕を解いた。 
「ごめん……何でかな、気がつかなくて……あの…」 
「いい、気にするな。今日の体調はどうだ?」 
「あ、うん…大丈夫っス」 
「また一緒に走るか?」 
「はい!」 
嬉しそうに微笑むリョーマに、手塚も柔らかく微笑んだ。 
手塚が一緒に走ってくれることも嬉しいが、リョーマは手塚の声が聴けたことにホッとしていた。 
昨日、日誌を書き終えた手塚の声が聞こえなかったことが、ずっと心に引っかかっていたのだ。このまま手塚の声が聴けなくなるのではないかと、そんな有り得ないような危惧まで抱いていた。 
だから今、手塚と会話できたことに、心底安堵していた。 
「とりあえず、桃先輩とストレッチの続きやってきます。すぐ戻るから、待ってて、部長」 
「ああ」 
手塚に笑いかけると、手塚も頷きながら笑ってくれた。 
(よかった…部長には、何も起きてないし……やっぱりアイツじゃなかったんだ) 
視線をずらすと、手塚の横の大石も安堵したような顔をしていた。たぶん、先程手塚を無視したように見えてしまい、心配を掛けたのだろう。 
大石にもペコッと小さく頭を下げてから、リョーマは桃城の元へ戻ってストレッチの続きをした。 
しかし、すぐにリョーマは眉を寄せて考え込み始めた。 
(でも、さっきのはやっぱり変だ。だって、オレが、大石先輩の横に部長がいたのに全然気がつかないなんて絶対におかしい) 
店の男は『しっぺ返し』はリョーマではなく、相手の方に下されると言っていた。だとしたら、リョーマの方で手塚の声が聞こえなくなるという身体の変化が起きているとは思いづらい。 
(だいたいなんで部長だけ……ぁ、もしかして…) 
指輪で繋がり、固く結ばれなくてはならない相手がいたのに、リョーマが手塚に強い想いを寄せていたことが、『呪術』の効力を狂わせたのだろうか。 
その呪力の歪みが、自分と手塚との間に、何らかの異変を生じさせているとも考えられる。 
だがリョーマが話しかけた時、手塚の声はいつもと変わらず、甘く、リョーマの耳に届いた。 
(まさか、これからどんどんひどくなるとか……) 
「越前」 
「…なんスか?桃先輩」 
「心配事か?」 
「………べつに」 
口籠もるリョーマに、桃城は短く溜息を吐いた。 
「あれこれ悩むのはお前らしくないぜ。ドーンとぶつかって行けよ」 
「……そっスね」 
「だろ?」 
桃城にニカッと笑いかけられて、リョーマも小さく笑った。 
指輪と出逢ってから今まで、いろいろなことがありすぎて思考が追いつけないほど混乱している。 
だが桃城の言う通り、あれこれ悩んでも、それは自分の考えでしかないわけで、自分の中で考えているだけでは何も解決はしない。 
手塚に不審なことがあるなら手塚に訊いてみればいい。指輪の疑問は、あの店の男にもう一度訊いてみるのもいい。 
(オレが、行動しなきゃ……) 
「ありがと、桃先輩。ぶつかってみるっス」 
「おう。なんかわかんねぇけど、頑張れよ!」 
「ういっス」 
拳を差し出されたので、リョーマも拳を差し出して、軽くぶつけ合った。 
「よーし、各自、ランニング開始!」 
「ういーっス」 
大石の声でそれぞれがランニングコースに移動し始める。 
リョーマは大石の隣にいる手塚の傍に、さりげなく走り寄った。 
「部長」 
「ん?」 
リョーマの大好きな手塚の声。 
「あとで、話があるっス」 
真っ直ぐ手塚を見つめるリョーマの瞳を、手塚も真っ直ぐに見つめ返してくれる。 
「わかった。…いくぞ」 
「ういっス」 
手塚がリョーマにだけわかるくらい、小さく笑いかけてくれるのが嬉しい。 
その笑顔を、絶対になくしたくないと、リョーマは思う。 
「お先」 
後ろからポンと肩を叩かれ、不二に追い抜かれた。 
ムッとして不二の背中を見送り、ふと手塚に視線を移すと、じっと見つめられていた。 
「部長?」 
リョーマが仄かに頬を染めて問うと、手塚は小さく笑って「いや」とだけ言った。 
それからしばらく二人は会話を交わさずに走り続けた。 
そうして前日同様、二時間のランニングを終えた頃、雨は上がっていた。 
         
         
         
         
         
         
         
         
         
         
         
結局、前日から降り続いた雨のため、雨が上がってもすぐにコートを使うことはせずに、午前中で練習は終了となった。 
「部長」 
解散し、部員たちが部室へ行くのを横目で見ながらリョーマが手塚のもとに歩み寄る。 
「今日も日誌、書くっスよね?」 
「ああ。お前も何か話があると言っていたな」 
「はい」 
自然と強ばる表情に、手塚は小さく眉を寄せた。 
         
昨日と同じ教室に入り、手塚はすぐ席に着いて日誌を広げる。 
「あとで不二先輩にも話に加わってもらおうと思うんスけど、いいっスか?」 
「ああ」 
部活の時よりも穏やかに微笑まれ、リョーマは頬を染める。 
(ちゃんと部長の声も聞こえるし……やっぱ昨日はホントに一瞬寝ていたのかも……) 
今朝、手塚の存在に気づかなかったのだって、大石の陰に隠れて見えなかっただけかもしれない。 
「……部長は、体調とか悪くないっスか?」 
「ん?」 
怪訝そうに見つめられて、リョーマはまた頬を染めた。 
「あ、いや、その、……オレのことばっか心配してもらってるけど…部長は大丈夫なのかなって…」 
「ああ、大丈夫だ。ありがとう、リョーマ」 
「うん……」 
ホッとしてリョーマが微笑むと、手塚もふわりと微笑んでくれた。 
「日誌、書き終わったら、話、するっス」 
「ああ」 
手塚は頷いて日誌を書き始める。リョーマは机に頬杖をついてじっと手塚を見つめた。 
(今日は眠ったりしない。ずっと部長を見てるんだ……) 
じっと、ずっと、手塚のことを見つめていても飽きることなどない。むしろ、見つめていればいるほどに、手塚への想いが高まってきて、触れたくて仕方がなくなってくる。 
視線を下に向けているせいで、いつもより手塚の睫毛が長く感じる。キリッとした眉も、スッと通った鼻筋も、引き結ばれた口元も、すべてがリョーマにとっては愛しくてならない。 
今は日誌を書いているのでその声を聞くことは出来ないが、手塚が顔を上げたら、真っ先に自分の名を呼んで欲しいと思う。 
(大好き……) 
手塚のことを好きでいられるだけでも幸せだと、リョーマは思う。 
そしてこの手塚への想いは、誰のどんな妨害にあっても、決して失われるものではないと確信している。 
(例え、事故かなんかで記憶がなくなったって、アンタのことは忘れないし、例え忘れても絶対に思い出せる。絶対に…) 
想いを込めて見つめていると、手塚がシャーペンを置き、顔を上げた。 
「終わりました?」 
「ああ」 
日誌を閉じ、手塚は話を促すように、真っ直ぐリョーマを見つめた。 
「………昨夜も、オレは『夢』を見ました。でも今回、オレが出掛けたんじゃなくて、相手の方がオレの部屋に来たみたいなんです」 
「相手が?」 
手塚が眉を顰める。リョーマはコクリと頷いた。 
「それで、『最後だ』って言って、これをオレの手に握らせて帰っていったんス」 
リョーマはポケットから指輪を取り出して手塚に見せた。 
手塚が目を見開く。 
「部長……このあと、オレはどうしたらいいと思いますか?……このまま、封印の道具を探して、封印しちゃってもいいのかな……」 
「…どういう意味だ?」 
「夢で逢っていた人を、探し出さなくていいのかなって……」 
リョーマは自分でも意外なことを口にしているように思えた。 
散々好き勝手にされた相手に、ほんの少しも良い感情など抱いていないはずだが、このまま指輪を『封印』してしまってはいけない気がしてきたのだ。 
「あのお店の人が言っていたじゃないっスか。『しっぺ返し』が来るのは、オレじゃなくて相手の方だって。それはそれで自業自得なんだろうけど、でも、オレの知らないところで知らない間に全部終わっちゃうのは、なんか、いやなんス」 
「…………」 
手塚は眉を寄せて黙り込んだ。 
「オレは、『封印の道具』は不二先輩が持っているか、その在処を知っているか、だと思っているんス」 
「不二が?」 
眉を寄せたまま視線を向けられて、リョーマはまた頷いた。 
「だって、指輪の持ち主じゃないのに指輪が見えたのは不二先輩だけだったし……きっと何か手掛かりを握っているんじゃないかって……」 
「そうだな」 
納得したように手塚も頷き、少し考えてから立ち上がった。 
「部長?」 
「行こう」 
「え?」 
「新橋に。不二も連れて、今から行こう」 
「………はい!」 
勢いよくリョーマも立ち上がった。 
グッと手を握り締めると、二つのリングの冷たさが手に伝わってきた。 
ずっと手に握っていても、リングは凍り付いたように冷たいままだった。 
「…このリング……死んじゃったのかな……」 
リョーマが呟くと、手塚はきつく眉を寄せた。 
「そんなものはない方がいいんだ。お前が指輪の片割れを持っていた人間を見つけたいと思うのはわかるが、そんな忌まわしい指輪は、早く封印してしまった方がいい」 
「…………」 
思いの外冷たく言う手塚に、リョーマは内心首を捻った。 
「部長…」 
「………ん?」 
「オレは、部長とだったら、この指輪、一緒に着けていたかったな…」 
リョーマがそう呟くと、手塚は小さく目を見開いた。 
「……呪いが、かけられていても、か?」 
「だって、オレは部長のこと好きだから……二人でなら、呪いを解いて、ずっと二人を繋ぐ、本当の意味での『恋人たちの鎖』に出来ると思うんスけど」 
「…………」 
しばらく黙り込んだあと、手塚は小さく溜息を吐くと、口の中で何かを呟いた。リョーマは、また手塚の声が聞き取れなかったのかと思ったが、今度は、本当に小さな声で手塚が呟いたせいで聞こえなかったようだった。 
「何?部長」 
「いや……その指輪の片割れを持ったのが、なぜ『手塚国光』ではなかったのかと、思ったんだ」 
「………うん」 
「これが運命だというなら……神という存在は、相当な意地悪だな」 
「そっスね」 
リョーマが苦笑すると、手塚も小さく苦笑した。 
「行こう、部長。不二先輩が部室で待ってる」 
「ああ」 
手塚は頷いて、日誌を持って歩き出した。 
リョーマはわざと手塚に軽く身体をぶつけ、優しく見下ろしてくる手塚に微笑み返す。 
そうしてどちらからともなく、そっと手を握り、指を絡め合う。 
「そうだ、部長、貸してくれるって言ってた本は?」 
「ああ、ちゃんと持ってきた。部室で渡してやる」 
「ありがと」 
嬉しくて、リョーマが微笑みながら礼を言うと、手塚の瞳が柔らかく細められる。 
そのまま二人は人のいない校舎を出るまで指を絡めたまま歩いた。 
         
         
         
         
         
顧問の竜崎に日誌を提出し、部室に一人残っていた不二と合流した二人は、手早く着替えてそのまま新橋へと向かうことにした。 
「なんか邪魔者みたいで気が引けるけど、僕も指輪の件は無関係じゃなさそうだから同行させてもらうよ。ごめんね」 
申し訳なさそうに微笑む不二に、リョーマと手塚はほんのりと頬を赤らめて口籠もった。 
「そういえば、不二先輩は、あの店に行くのは初めてなんスよね?」 
「ああ、そうだね、そうなるかな。どんな店なんだい?」 
「すごくいいデザインのシルバーアクセがたくさんあって、店の人もすごくいい感じの店っス」 
「ふぅん」 
リョーマの話に興味深げに相槌を打ちながら、不二はスッと手塚に視線を流す。 
手塚はずっとリョーマを見つめていた。 
リョーマだけを、ずっと、見つめていた。 
その瞳は柔らかく、愛しくてならないものを包み込むような、不二が初めて見る、手塚の瞳だった。 
時折リョーマが手塚を見上げて話しかけると、その瞳はより一層柔らかさを増し、同時に熱を孕んだ。 
リョーマはリョーマで、普段、部活では決して見せることのない無邪気な表情を、手塚には向けて話している。 
それは年相応でもあり、恋する者の瞳そのものだった。 
だが、しばらくそんな二人を交互に見ていた不二は、そっと、小さく眉を寄せた。 
(おかしい…なんで手塚は………) 
そこまで考えた時、車内に次の停車駅を告げるアナウンスが流れた。 
「次で降りるんスよね」 
リョーマの表情が、ほんの少し固くなった。 
「今日もいるかな」 
「雨だったからな……どうだろう」 
リョーマが問いかけると、手塚は小さく眉を顰めて答えながら溜息を吐いた。 
その手塚を、不二は探るような瞳で、黙ったまま見つめる。 
やがて電車が駅に到着すると、三人は頷き合ってホームに降り立った。 
         
         
         
         
         
         
いつも店の出ている場所を探したが、今日は来ていないようだった。 
「やっぱり雨だったからかな…」 
リョーマが呟くと手塚は眉を寄せて「ああ」と頷いた。 
それでもリョーマが辺りを見回していると、すぐ傍にあるドラッグストアから店の前を掃除しに出てきたらしい店員が目に入った。 
「あの、すみません」 
「はい?」 
いきなりリョーマに声をかけられた若い店員はちょっとビックリしたようにリョーマを振り返った。 
「いつもこの辺に出ているシルバーのアクセ売ってる露店、今日はいないみたいなんスけど、見かけませんでしたか?」 
「いや、今日は見てないけど……」 
若い男の店員は掃除の手を止めて首を捻った。 
「……っていうか、先月の初めくらいから、もうずっと見てないよ、その店」 
「え?」 
リョーマは大きく目を見開いてその若い店員を凝視した。 
「俺も結構その店気に入ってて、休憩中によく覗いたりしていたんだ。でも先月の頭ぐらいに見かけたっきり、この辺では一度も見てないよ。場所、変えたんじゃない?」 
「え、でもオレ、土曜日に……店の人と話したっスよ?」 
「え?そうなの?土曜日、俺も店にいたけど……おかしいな、見かけなかったよ?」 
「そっ……スか………ありがとうございました」 
ペコリと頭を下げて、リョーマは手塚と不二の傍へ戻った。 
「ねえ、部長、土曜日、確かにあの店、あったよね?」 
「ああ」 
「でも…出てなかったって、今、あの店の人が」 
「気がつかなかっただけじゃないのか?」 
「あの人も気に入っていた店だったらしいっス。でも……土曜日どころか、もうずっと、先月の頭から見てないって」 
「それって、越前が指輪を買った頃から見てないってこと?」 
いつもの笑みを消し、不二が眉を寄せてリョーマを覗き込む。 
「………そういうことに、なるっスね」 
「…………」 
手塚が黙ったままゆっくり腕を組む。不二は口元に手を当てて考え込んだ。 
「まさか僕がいるから現れない、とか……」 
ボソッと呟いた不二の言葉に、手塚が小さく目を見開いた。 
「部長…?」 
「……とりあえず今日は帰ろう」 
微かに動揺しているリョーマの肩を抱いて手塚がそっと声をかけると、リョーマは揺れる瞳で手塚を見上げてから小さく頷いた。 
「せっかく一緒に来てもらったのに、悪いな、不二」 
「ううん。僕はいいけど……大丈夫?越前」 
「………大丈夫っスよ」 
しっかりと返事を返すリョーマを見て、不二はほっと安堵の溜息を漏らした。 
「僕は、もう少しこの辺を見てから帰るよ。手塚、越前のこと、よろしくね」 
「わかった」 
「ありがと、不二先輩」 
「じゃ、また明日」 
背を向けて歩き出す不二の背中を見送って、リョーマは眉を寄せる。 
(どういうことなんだろう……あの店って……あの店の人は…) 
眉を寄せたまま手塚を見上げると、手塚がふわりと微笑んでくれた。 
「ぁ……」 
途端にリョーマの心がほわりと熱を持ち、その熱さを頬に映し出す。 
「部長は、どう思いますか?」 
「……やはりあの店自体が、お前の持つ指輪と何らかの関係があると見た方が良いんじゃないのか?」 
「やっぱり……」 
「今日は帰って、明日、また来てみよう」 
「うん」 
手塚がリョーマの肩を軽くポンポンと叩き、歩き始める。 
「部長」 
「ん?」 
リョーマは手塚の腕を掴み、そっと身体を寄せた。 
「部長、………今日も、うちに寄ってください」 
「………ああ」 
「でもその前に、お腹空いたね」 
笑いながら手塚を見上げると、手塚も笑ってくれた。 
「そうだな。今日は制服だから…いつもの店はやめて、途中にあったカフェにでも行くか」 
「ういっス」 
二人は微笑み合って歩き出した。 
歩きながら、リョーマはそっと手塚の制服の端を掴んだ。 
またひとつ、小さな不安の種が胸の中に生まれた気がする。 
その不安を少しでも払拭したくて、リョーマは手塚にさりげなく身を寄せた。 
手塚は何も言わずに、自分の服の端を掴むリョーマの手を取り、ギュッと握り込んできた。 
「部長?」 
「大丈夫だ。もうすぐ、きっと、すべてが終わる」 
「うん…」 
前方を強い瞳で見据えたまま話す手塚の言葉に、声に、リョーマの心は強く支えられた。 
(そうだ、落ち着いて、しっかり情報を整理して、状況を見極めなきゃ) 
「ありがと…部長……」 
「…………」 
答える代わりに、手塚はリョーマの手をもう一度しっかりと握り込んだ。 
         
何かが起きようとしているのか、それとも、もうすでに何かが始まっているのか。 
リョーマにはわからないことだらけだったが、自分の手を握ってくれる、この温かな手塚の手がある限り、誰のどんな策略に巻き込まれてもしっかりと立っていられると、思った。 
         
         
         
         
         
         
         
         
         
         
続 
         
         
        
         
         
         
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        20060328 
         
         
          
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