  お帰りなさい
   <2> 
      
  食事を終え、そろそろ寝ようかと思いつつリョーマが自室でテニス雑誌を捲っていると、玄関の方が騒がしくなった。 
      「どうしたの?」 
      怪訝に思ったリョーマが階段を下りて玄関に来てみると、三和土がすごいことになっていた。 
      「ごめんなさい、カルピンの猫砂、こぼしちゃって」 
      菜々子がホウキとちりとりを手にオロオロとしている。 
      「ぁ、今、シューズどけるから」 
      「ありがとう、リョーマさん」 
      脱ぎっぱなしにしてあった自分のシューズを下駄箱にしまい、ついでにそこに出ていた家族の靴も全部しまった。 
      「まだ使ってないヤツでしょ?」 
      「ええ、だから匂いとかは大丈夫なんだけど……捨てるのは勿体ないから、こうして集めて使おうと思って」 
      「大丈夫?、菜々ちゃん」 
      リョーマの母・倫子も後からやってきた。 
      「ごめんなさい、おばさま、今すぐ片づけますから」 
      菜々子は散らばった猫砂をホウキで集め始める。 
      「結構そそっかしいね」 
      「ホント、ダメね、私」 
      困ったように笑う菜々子に「じゃ、頑張ってね、おやすみ」と笑いながら言い残して、リョーマはまた自室に戻った。 
      部屋に戻ってベッドに寝転がると、またクスクスと笑いが込み上げてくる。 
      (何がどーなって、あんなにいっぱい砂こぼしてんだか…) 
      優しくて、おっとりしているようで、時折なかなか鋭いツッコミをしてくる従姉の菜々子は、意外にそそっかしいのだと言うことを一緒に暮らしていてリョーマも薄々感じてはいた。 
      何もないところで躓いてみたり、階段の最後の一段を踏み外してみたり。今回のことも『猫砂事件』として、しばらくは食卓の話題に上ることになるだろう。 
      (手伝ってあげた方がいいかな) 
      ベッドの上で身体を起こし、少し考えて、リョーマはまた寝転がった。 
      (靴は全部どけたから、まあ、後は大丈夫、かな) 
      クスクスと笑いが止まらない。だが、リョーマは急に笑いを止めた。 
      (あ……始まった) 
      急激な眠気がリョーマを襲い始める。こうなるともうリョーマは、何も抵抗できずに「眠る」しかない。 
      リョーマはきつく眉を寄せて目を閉じた。 
      どうにかして『夢』の最中でも意識だけは保てないものだろうかと思う。普通に考えればそれは妙な話なのだが、『あの男』の存在を「夢の中での意識」で捉えたように、意識さえあれば、この、解決の糸口が全く見つからない状況に、少しでも変化があるかもしれないのに、とリョーマは思うのだ。 
      これ以上、こんな状況が続けば試合になんか出られない。きっとこんな状態で自分が出場したなら、青学に、手塚に、迷惑をかけるだけだ。 
      (どうすれば、いい……?) 
      だが必死に策を練ろうとするリョーマの意識は、深い闇の渦に吸い込まれるように、一気にフェイドアウトした。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
  いつもの『知らない場所』で、リョーマは微かに意識を取り戻す。 
      (また……いつもの場所……あの男は……?) 
      自由にならない身体を、それでも何とか動かそうとして、なぜか自分がいつも以上に動けないことにリョーマは気付いた。 
      (なんで……全然動けない……) 
      うっすらと開いたリョーマの目に映ったものは、自分の身体に回されている、男の腕。 
      (?) 
      どうやらリョーマはあの男に後ろから抱き締められ、ソファーかベッドのような柔らかい場所に座っているようだった。 
      男がリョーマの首筋に唇を寄せているのが微かにわかる。 
      (いやだ…っ) 
      拒絶する思いは身体には届かず、男に耳朶を噛まれてピクリと揺れるだけだった。 
      (…くっそぉ…) 
      男の腕を振り払って立ち上がり、一発殴ってこの場から逃げ出したいのに、指一本ですら、思うように動かせない。 
      悔し涙さえ流すことが出来ない絶望感に、リョーマは考えることを放棄しようとした。その時、 
      (え……?) 
      男が、大きく息を吐いた。たぶん、『溜息』だと思えるような。 
      そうして男は、リョーマの身体を少しの間強く抱き締めてから解放し、ゆっくり遠ざかった。 
      (???) 
      心の中で戸惑っているリョーマの頭を、正面に回り込んだ男はクシャッと掻き回す。そのまま男の胸に引き寄せられ、抱き込まれる。しばらくそうしていたかと思うと、身体を離した男は、リョーマの二の腕を掴んで立ち上がらせた。 
      (なに…?) 
      男がリョーマの手を引いて歩き出す。どうやらその場から移動するつもりのようだ。 
      (どこに行くんだ……変なところに連れて行くんじゃ……っ) 
      だがタイムリミットが来たようで、リョーマの視界が、また暗くフェイドアウトし始める。 
      (何か、手掛かりになるようなものは…っ) 
      暗くなる視界の片隅に、リョーマは何か『青い四角形』を見た気がした。だがその直後、リョーマの意識はぷっつりと途切れた。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
  目を覚ましたリョーマは、ふと窓の方を見て、いつものように夜が明けているのを確認した。そうしていつも通り、自分はベッドにちゃんと寝ていて、見ていたはずの雑誌はベッドの上にはなく、部屋の電気も消えている。 
      だが、手を伸ばして枕元の時計を手に取り、リョーマは目を見張った。 
      「六時半…?」 
      いつもは五時頃に目覚めるのだが、今日に限ってはずいぶんゆっくりと眠っていられたらしい。 
      目覚まし時計をもとの場所に戻し、ゆっくりと身体を起こしてみる。 
      「あ……」 
      身体のどこにも痛みはない。いつも感じる股関節の怠さも、後孔の違和感も、今朝はなかった。 
      「……しなかったんだ、あいつ……」 
      リョーマはふーっと、深く息を吐き出した。毎朝感じていた心と身体の不快感を感じずにすんで、心底ホッとした。 
      だが、リョーマは表情を暗くした。 
      (やっぱり……桃先輩なのかな……) 
      断定は出来ないが、その確率は格段に上がったと言えるだろう。なぜなら『あの男』はまたリョーマの髪をクシャクシャと掻き混ぜていた。桃城がそうするのと同じやり方で。 
      (とにかく、あいつは絶対テニス部のヤツだ……) 
      そうでなければリョーマの身体に手を出さなかったことの理由がわからない。 
      あの男は、昨日、リョーマが体調を崩して練習を途中で切り上げねばならなくなったことを知っているのだ。だから、今回は、リョーマに手を出さずに解放してくれたのだろう。 
      (誰なんだろう……一体……) 
      リョーマの髪を掻き回す仕草が似ているからといって、桃城だと断定することは出来ない。 
      とりあえず今わかっているのは、『あの男』はおそらくテニス部員で、リョーマよりも背が高いこと。 
      もう『ただの夢』だと思うことは、リョーマには出来ない。確かに夢のように信じがたい話ではあるが、現実に自分の身体には痕が残され、後孔は違和感が残るほど蹂躙されているのだ。 
      だが、今のところ体内に『あの男』の痕跡が残されるようなことはなかった。それだけが、今のリョーマには救いに感じる。 
      (SFとかホラー映画みたいだけど……普通の夢だったら、痕なんか残らないんだし…) 
      『夢』ではあるが、現実に『あの男』はリョーマの身体に触れていることになる。 
      それがどういう形で、どうやって実行されているのかが、全くわからないのだが。 
      それでも今回は、ひとつだけ、手掛かりを、得た。 
      「青い……四角形……」 
      夢の中での意識が途切れる寸前に見た『青い四角形』。 
      実際には、本当に四角いモノかどうか自信はない。三角だったかもしれない。確かなのは、丸くはなかったというだけ。 
      あの場所があの男の部屋ならば、男の部屋には青い四角形(もしくは三角形)のモノがあるはずだ。 
      (青い四角いモノ……本?CDのジャケット?…タオルとかもあり得るか…) 
      不鮮明な視界の曖昧な記憶を辿りながら、リョーマはベッドから降りて、風呂の準備をしている自分に気付き、「ぁ」と声をあげた。今日は風呂で温めなくても身体がつらくない。好きにいじられた痕跡もなさそうだから、身体を洗い流す必要もないのだ。 
      「でも、シャワー浴びようかな」 
      何となく朝風呂が身に付いてしまったようで、リョーマは苦笑しながらも、とりあえずシャワーだけ浴びることにした。 
      着替えを用意し、階段を下りて、居間の横を通って浴室に向かう。 
      だがリョーマは、目に映る見慣れた家の中で、一瞬だけ違和感を感じて足を止めた。 
      (なんだ?何かが……) 
      リョーマは家の中をぐるりと見回した。居間も覗き込んでみた。 
      「?」 
      階段の中程まで戻り、もう一度浴室に向かってみようとして、リョーマは玄関に目を留めた。 
      「ぁ………え?あれ?」 
      そこに、あるはずのないものが、あった。 
      「シューズが……?」 
      昨夜、菜々子が汚してしまった玄関の三和土を片づけやすいようにと、そこにあったすべての履き物を、リョーマは下駄箱にしまい込んだ。 
      もちろん自分のシューズも、真っ先に下駄箱に入れた。入れたはずなのだ。 
      なのに。 
      リョーマの視線の先、三和土の上には、いつものように無造作に脱ぎ置かれたシューズが並んでいる。 
      「なんで?何でオレのシューズだけ……」 
      「あら、おはよう、リョーマ。最近早いわね」 
      まだパジャマ姿のままトイレに向かおうとした倫子が、玄関に佇むリョーマを見つけて声をかけてきた。 
      「母さん!」 
      「な、なに?」 
      駆け寄られ、縋りつくように腕を掴まれた倫子は、何事かとリョーマを見つめる。 
      「シューズ!オレのシューズ、下駄箱から出したの、母さん?」 
      「え?いいえ、出してないわよ?今起きたんだから」 
      「………」 
      リョーマは大きく目を見開いた。 
      「じゃ……」 
      「菜々ちゃんならまだ寝てるわよ?」 
      問う前にそう言われ、リョーマは口を噤んだ。 
      確かに、下駄箱から出して並べて置いた、という状態ではなかった。明らかに、履いた人間がいて、その人間が無造作に脱いでそのまま放置したというように、シューズが置かれている。 
      (オレが、シューズを履いて外に出た……?) 
      他には考えられない。母でも菜々子でもない。南次郎がそんな意味のないことをするわけもないのだ。 
      「リョーマ?シューズがどうかしたの?」 
      急に黙り込んでしまったリョーマを心配そうに倫子が覗き込む。 
      「……ううん、なんでもないよ。ちょっと勘違いしただけ。シャワー浴びてくるね」 
      怪訝そうに首を傾げる倫子に小さく微笑みかけて、リョーマは浴室に駆け込んだ。 
      勢いよく湯を出して、だがそのままじっと壁のタイルを見つめた。 
      (オレは…夜中に出歩いているのか……?) 
      長距離を走った後のように下半身に疲れが残っているのも、性行為に及んだからというだけでなく、どこか遠くまで歩いていったせいでもあるのだろうか。 
      もしそうならば、自分の身体に実際に痕が残っているのも頷ける。 
      しかしそうだとしたら、『あの男』のもとへ足を運んでいるのはリョーマ自身ということになる。 
      「そんな……ばかなこと……」 
      リョーマはしばらく呆然となって立ちすくんだ。 
      『あの男』を選んでいるのは自分なのか。それとも、たまたまフラフラと歩いている自分を、いつも『あの男』が見つけて自分の家へと連れ帰っているのか。 
      もしも、自分自身が『あの男』を選んでいるのだとしたら、なぜそんな行動を無意識の自分が取るのかがわからない。 
      「………」 
      リョーマは、背筋に冷たいものが走るのを覚えた。 
      自分が、自分でも知らないうちに、深い意識の底から求めている『男』がいるというのか。 
      (そんなはずない……っ!) 
      自分は同性に恋愛感情など持ったことはない。性的な興味だって、感じたことはない。 
      そんな自分が、『男』のもとを毎夜訪ねるなど、有り得ない。 
      ならば、意識のないまま出歩く自分を『あの男』が見つけて連れ帰っているのだろうか。 
      (まだその方が納得できるかも…) 
      つまり、自分は所謂『夢遊病』なのかもしれない。 
      そうであるなら、もはやこの状況は、自分一人ではどうすることも出来ないだろう。 
      (どうしよう……どうしたらいいんだろう……) 
      リョーマはタイルを見つめたまま、途方に暮れた。
 
 
 
 
  *****
 
 
 
 
  「おう、越前、体調はよくなったか?」 
      いつものように「通りすがり」の桃城が、やはりいつものようにニカッと笑いながらリョーマの真横で自転車を止めた。 
      「……はよっス」 
      「……なんだ、まだ調子悪いのかよ。あんま、無理すんなよ?…ほら、乗れよ」 
      「ういっス」 
      小さく頷いて桃城の自転車の後ろに乗り込むリョーマを、桃城は眉を寄せて見守る。 
      「…また寝ててもいいぜ。出すぞ」 
      「うん」 
      だがリョーマは桃城の背にしがみつくことはなく、そのまま目を閉じてそっと溜息を吐いた。 
      身体はつらくはない。だが、心の方は、今までよりもさらに重い塊が占領しているようで、苦しい。 
      「桃先輩」 
      「ん?」 
      リョーマは目を開けて、桃城に視線を移す。 
      「桃先輩の好きな人って、どんな人っスか?」 
      「えっ!?」 
      桃城がひどく驚いたようにビクリと身体を揺らした。 
      「その人が、例えばいきなり夜中に現れて、何しても抵抗しなかったら、どうします?」 
      「夜中に、いきなりって………そりゃ…俺も男だし……ちょっと触れて、抵抗しなかったら…遠慮なんかしねぇよ」 
      「………そっスか」 
      「何だよ、急にそんなこと訊いて……まさか、お前、そう言うコトされたのか?」 
      「オレじゃないっス」 
      「は?」 
      「だから、……例えばの話」 
      「………」 
      少し納得がいかないというように唸ってから、桃城は黙り込んだ。 
      「…でももし、好きでも何でもなかったら……何もしないっスよね?」 
      「当たり前だろ。そんな手当たり次第になんて……そんな節操なしに見えるかよ」 
      はぁ、と大きく溜息をついたリョーマに、桃城は少し焦ったようだった。 
      「お、おい、越前、俺は一途だぞ!」 
      「はぁ……そっスか」 
      どうでもよさそうなリョーマの返事に、桃城はまた黙り込んだ。 
      「お前な…」 
      「ぁ、不二先輩」 
      もうすぐ校門が見えてくるというところで不二を見つけて、リョーマは自転車から飛び降りた。 
      「はよっス、不二先輩」 
      「ぁ、おはよう、越前、調子はどう?」 
      「もう大丈夫っス。昨日は電話、ありがとうございました」 
      リョーマの言葉に一瞬表情を変えた桃城が、不二に視線を向けた。 
      「はよっス」 
      「おはよう、桃」 
      ニッコリ微笑む不二に軽く頭を上げてからリョーマに向き直り、桃城は小さく眉を寄せる。 
      「なんだよ越前、昨日不二先輩に電話もらったのか?」 
      「ういっス」 
      「練習終わってすぐに携帯からかけたんだよ。心配だったから」 
      穏やかな声音で邪気もなくそう言われ、桃城は「そっスか」と言ったまま、また黙り込む。 
      「…まだ外れていないね。その後、なんか変わったことは?」 
      リョーマに顔を寄せ、囁くようにそっと尋ねてくる不二に、リョーマは小さく溜息を吐いて首を横に振った。 
      「何も……それより……」 
      言いかけて、リョーマは桃城を見上げた。 
      「桃先輩、ありがとうございました。ここからは歩いていくっス」 
      「え?……ああ、もう校門だもんな。じゃ、俺は先に行って自転車置いてくるよ」 
      「ういっス」 
      小さく溜息を吐く桃城を見送ってから、改めてリョーマは不二に向き直った。 
      「あの新橋のお店の人、故郷に帰っているみたいで、当分東京には戻らないかもって、部長が…」 
      「手塚が?」 
      「ういっス」 
      リョーマは昨夜手塚が家まで来てくれた時に、そんな話をしたのだと不二に掻い摘んで話した。 
      「へぇ、手塚が越前の家に行ったんだ」 
      意外そうに目を見開く不二の様子にはさほど気を留めずにリョーマは説明を続ける。 
      「あのリング買った時に部長も一緒にいたから、それとなく話をしてみたんス。そしたら、『そういえば』って、思い出してくれて…」 
      「ふぅん」 
      不二は口元に手を当てて、少し考え込んだ。 
      「………じゃあ、今また新橋に行ってみてもムダ、ってことか…」 
      「……そっスね…」 
      頷いて、リョーマは右手のリングを見つめる。 
      相変わらず何をしてもピクリとも動かないリングは、本当にリョーマの皮膚に溶け込んでしまったかのように存在感なく、そこに、在る。 
      「とりあえず、今のところそのリングは越前に何か害を及ぼすようなことはないんだよね?だったら少し様子を見るしかないか…」 
      「………」 
      一瞬躊躇ってから、リョーマは頷いた。 
      確かに、指輪に関しては、今はそうするしかないかもしれない。 
      「やっぱり指輪以外でも、何か心に引っかかっていることがある?」 
      「え…」 
      不二に覗き込まれて、リョーマは目を見開いた。 
      「………ないっスよ。べつに、何も……ないっス」 
      「………そう?」 
      不二は微かに眉を寄せたが、それ以上は訊いてこなかった。 
      この、距離を保ってくれるような接し方が今のリョーマにはありがたい。 
      だが不二はスッと腕を伸ばすと、リョーマの頭に手を乗せて、髪をクシャリと掻き回した。 
      「わ…」 
      「何かあったら、絶対に僕に相談するんだよ?」 
      「う、ういっス!」 
      ふわりと微笑まれて、リョーマは少しホッとする。 
      「とにかく今は、明日の試合のことを、考えようか」 
      「………はいっ」 
      しっかりと頷くリョーマに、不二も真剣な表情で頷き返した。
 
 
 
 
  「越前」 
      練習が始まり、軽い打ち合いの合間に珍しく手塚が声をかけてきた。 
      「なんスか、部長」 
      「体調はどうだ?」 
      相変わらずコート内での手塚に笑みはないが、声音は幾分和らげてくれているのがわかる。 
      「今日は大丈夫っス。あの、昨日は、ありがとうございました」 
      リョーマがペコリと頭を下げると、手塚は「いや」とだけ言って瞳を和らげた。 
      「…昨夜は眠れたのか?」 
      「あ、はい……その……例の夢は見たんスけど、大丈夫でした。いつもよりちゃんと眠った気がするっス」 
      「そうか」 
      ホッとしたように手塚に頷かれて、リョーマはなぜか嬉しくなった。手塚が、練習中であるにも拘わらず自分のことを心配して話しかけてくれているのがわかって、心が温かくなる。 
      (ぁ……またリングが……?) 
      リョーマはふと、仄かに熱を持つリングを見つめた。その仕草に手塚は怪訝そうな顔をする。 
      「どうした?」 
      「え?ああ、いえ、なんでもないっス」 
      手塚は一瞬リョーマをじっと見つめてから、また頷いた。 
      「回復してきたからと言っても、今日の練習は軽く流すだけにしておけ。昨日の今日だ、誰もお前が怠けてそうしているのではないと知っているから、気楽にしていろ」 
      「ういっス」 
      リョーマが小さく苦笑すると、手塚も少し困ったような顔をした。だがすぐに表情を引き締めると、手塚は組んでいた腕を解いて、リョーマを真っ直ぐ見つめる。 
      「越前」 
      「はい」 
      「この全国大会が終われば、俺は……俺たち三年は引退だ」 
      じっと、一瞬も目を逸らさず、リョーマの目を真っ直ぐに見つめて話す手塚を、リョーマも同じように真っ直ぐ見つめ返す。 
      「だから、悔いの残らない大会にするために、お前の力を貸して欲しい」 
      リョーマは大きく目を見開いた。 
      試合前に、手塚がリョーマにそんなことを言うのは、初めてだった。 
      「お前と共に戦える、最後の大会だ」 
      「あ……」 
      「お前は一人でも充分に強い。だが、誰かと共に在ることによって、独りの時とは違う力が出せることを、知って欲しい」 
      「違う、力……」 
      呟くリョーマに、手塚は大きく頷く。 
      「それは、テニスに限ったことではない。誰かのためになら、何かのためになら、自分の持てる力以上のことが出来るという奇跡を、お前にも知って欲しい。そして、その瞬間の素晴らしさを味わって欲しいんだ」 
      切なくなるほど真剣に語りかけてくる手塚の瞳に、リョーマは心の奥が熱く震え出すのを感じる。 
      「One for all. All for one. …この言葉は、知っているだろう?」 
      コクリと、リョーマが頷く。 
      「お前の力を、青学に貸して欲しい。そして青学は、一丸となってお前を支え、力を貸す」 
      「………」 
      「共に青学テニス部として戦い、全国制覇を成し遂げよう」 
      「………はいっ」 
      大きく、しっかりと、リョーマは頷いていた。 
      きっと、まだまだ手塚のようには青学を愛せてはいない。それでも、昨日感じた小さな感動が、青学と自分とを、ほんの少し近づけた気がする。 
      一人の力は「みんな」のために。 
      そして、みんなの想いが、強くしっかりと「一人」を支える。 
      そのことを、リョーマは漸く、本当にわかってきたように思う。 
      全国大会に辿り着くまでにも苦しい戦いは多くあった。その度に、励まし合い、高め合い、支え合う先輩たちの姿を間近で見てきた。 
      だがリョーマもその仲間に入れてもらえていたのだと、改めて気付いた。 
      自分は独りで戦ってきたのではなかった。 
      リョーマは、自分でも気づかぬうちに、青学を支え、仲間を支え、そして、しっかりと支えられていたのだ。 
      「部長」 
      リョーマの強い瞳が手塚を捕らえる。 
      手塚は、今まで見たことのないリョーマの瞳に、息を飲んだように見つめ返してくる。 
      「明日は、誰にも負けないでください」 
      「…っ」 
      「オレを負かしたアンタが負けるのは、もう見たくないっス」 
      じっと、二人は互いを見つめる。 
      「その代わり、オレも、誰にも負けないっス」 
      「…越前…」 
      「オレを負かすのは、アンタだけだ」 
      手塚は一瞬目を見開き、そしてゆっくりと瞬きをしてから頷く。 
      「でも、次にアンタと戦う時には、オレは負けない」 
      「………」 
      「オレは試合で戦うたびに強くなる。それは、強い相手を倒していくからだけじゃない。アンタのいる、この青学で、戦っているからっス」 
      手塚は大きく目を見開いてリョーマを見つめた。その瞳が揺らめいて、奥に歓喜の炎が見えた気がした。 
      「明日は、万全の体調で臨みます。何があっても、絶対に、昨日みたいに途中で倒れたりしないっス」 
      例え今夜また『あの男』が自分を抱こうとしても、絶対にカラダを許したりなんかしない。 
      もしも、『あの男』の腕の中で意識が途切れそうになったなら、舌を噛んででも意識を繋ぎ、頑なに拒む決意がある。 
      それくらい、明日の試合は全力で、戦いたいと思う。 
      手塚は、ただ黙って頷いた。 
      すべてを言葉にはしなかったリョーマの強い想いは、手塚の胸に、しっかりと届いたようだった。 
      手塚が、黙ったまま左拳をリョーマに向かって差し出した。リョーマは小さく笑って、自分の左拳を手塚の拳にぶつける。 
      ごつんとぶつかり合う拳と拳に、戦う者だけが知る仲間との心の絆を、リョーマは感じた。 
      どんなに過酷な戦場でも背中を預けられる存在。 
      それが、自分にとっては、手塚の率いる『青学』なのではないかと、リョーマは気付いたのだ。 
      「部長……」 
      決意と共に、心強ささえ感じて小さく微笑むリョーマに、手塚もほんのりと瞳を和らげてくれた。 
      「手塚、越前…っ」 
      「え?」 
      大石の感極まったような声にリョーマが周りを見回すと、いつの間にか二人はレギュラーたちに囲まれていた。それだけではなく、コート中の部員が、リョーマと手塚に注目していた。 
      「やっと、本当に青学がひとつになったな」 
      「実力も団結力も、青学が日本一にゃ!」 
      「もうどこにも負ける気がしねぇ」 
      乾が、菊丸が、そして海堂も、青学テニス部員全員が仲間と顔を見合わせ、肩をたたき合い、それぞれが口々に明日の勝利を誓う。 
      「本当に、帰ってきてくれてありがとう、手塚!」 
      大石が、涙ぐみながら手塚の肩を叩いた。 
      「さあみんな、練習しよう!」 
      「おーっ!」 
      みんなの士気が、一気に高まるのがわかった。 
      「ぁ……」 
      手塚に向かって口を開きかけたリョーマは、だが、その場の雰囲気を壊さないようにとまた口を噤んだ。 
      (また「お帰りなさい」って言いそびれた……) 
      小さく溜息を吐いて帽子を取り、ポリポリと頭を掻いてみる。 
      「ま、いっか」 
      わざわざ呼び止めて言うことでもないと思い、軽く溜息をついて、リョーマはみんなに囲まれている手塚を見遣った。 
      (アンタがいると、みんなの心が何倍にも強くなるんだね) 
      テニスは技術だけで戦うスポーツではないと思う。その精神面の強さこそが、最後の最後で勝敗を分けるのだ。 
      (アンタの強さが、みんなを支えている) 
      その手塚に、青学を支える柱になれと言われた。その時は、その言葉の意味を本当にはわかっていなかったと思う。 
      だが今は、あの時とは違う意味で、リョーマは戸惑う。 
      (オレは、アンタみたいに青学を支えられるほど強くなれるんだろうか…) 
      手塚の強さは底なしだと、リョーマは思う。それこそ、名前だけのプロの選手ならば、手塚の前では呆気なく醜態を晒すに違いない。 
      肩を完治させた手塚は、纏うオーラの輝きさえもがさらに増したように思う。 
      今の手塚に敵うものは、同じ年代の選手の中には、いないのではないだろうか。身内の贔屓目を差し引いても、リョーマにはそんなふうに思えてくるのだ。 
      (アンタの強さは、一体どこから来るんだ…?) 
      手塚は青学を支え、その青学が手塚を支えているのか。 
      少し、違うような気が、リョーマは、した。 
      (アンタを越えたら、その答えが、わかるのかな……) 
      じっと手塚を見つめていたリョーマを、手塚がふと、振り返った。 
      (う…) 
      目が合ってしまい、だが、だからといってすぐ目を逸らすことも出来ずに、リョーマはそのまま手塚を見つめてしまった。 
      手塚も、何も言わずにリョーマを見つめている。 
      どうしようかと逡巡するリョーマに、手塚が、ふわりと柔らかく微笑みかけた。 
      「!」 
      瞬間、周りの音がすべて消えるような錯覚を、リョーマは覚える。 
      その音のない世界で、自分の心臓が大きく脈打つのを、リョーマははっきりと聞いた。 
      そうしてそのまま、リョーマの心臓はドキンドキンと鳴り続ける。 
      (うわ、なに?なんで、こんなに……心臓が……) 
      大石に話しかけられて手塚はすぐに視線をリョーマから外してしまったが、リョーマの目には手塚の微笑みがしっかりと焼き付いてしまったようで、どんなに瞬きを繰り返しても、その残像が脳裏を離れてくれない。 
      心臓の方はといえば、まるでどんどん加速していくかのように、一向に静まる気配がない。 
      さっきの手塚の微笑みは、あの、試合観戦の日の手塚の、つまりは「手塚国光」という男の、本物の微笑みだった。 
      (こんな……コートの中でそんな顔して笑うなんて……ビックリするじゃんか…っ) 
      リョーマは、手塚から無理矢理視線を外して帽子を深く被り直した。 
      この心臓の妙な高鳴りは、驚いたからだ。いきなり『部長』の仮面を外して素顔を見せたりなんかするから、自分の心臓が、驚いたのだ。 
      リョーマはそう、思おうとした。 
      思おうとして、もう一度、手塚の後ろ姿を見つめた。 
      (え…) 
      また、心臓がドキドキと新たに鳴り始めた。向こうのコートへと歩いてゆく手塚を、瞳が、追いかけてしまう。 
      (驚いただけじゃ、ない…?) 
      リョーマは大きく目を見開いた。 
      ドキドキしているのは、違う理由なのではないかと、気付いてしまった。 
      (オレは、部長に……部長のこと……) 
      リョーマは愕然として、手塚の背を見つめた。 
      そんなことがあるはずないと、必死に否定しようとするが、心よりも、頭で考えるよりも、リョーマの心臓は正直に反応している。 
      (どうしよう……) 
      今度は手塚を見つめていられなくなって、視線を逸らし、それだけでは足りなくてゆっくりと背を向けた。 
      有り得ないはずだった。 
      自分が男に、こんなふうに胸が高鳴るのを感じるなんて。 
      「いや……やっぱ、絶対、そんなこと、有り得ない…っ」 
      もしかしたら、これも何か『あの男』の仕業なのではないかと、リョーマは思い始めた。 
      「オレに……いや、もしかしたら、このリングに、何かしたんじゃ……」 
      リョーマはそっと右手を持ち上げてリングを見つめた。 
      呪いとか、まじないとか、そんなものをリョーマは信じてはいないけれど、こんなふうに妙なことが起こってしまっている今、人間の力以外のものが働いていると思わざるを得ない。 
      だから、この手塚に感じている恋情に似た感情は、きっと自分自身のものではないのだ。 
      『あの男』がリングを通して仕掛けた、何かの罠だ。 
      そう考えて、リョーマはふと思った。 
      でも、これが『あの男』の罠ならば、『あの男』は桃城ではないことになる。 
      (だって、桃先輩は、このリングが見えてない…) 
      見えないフリをしているのだろうか。青学でも五本の指に入りそうなほど策士な桃城ならば、そのくらいの演技は出来そうにも思える。 
      (待てよ、もしかして…) 
      そういえば、確実にリングが見えていて、桃城以上に真意の見えない男がいる。青学の一・二を争う策士な男が。 
      (まさか……『あの男』は、不二先輩……?) 
      リョーマはふと、今朝の不二の行動を思い出した。 
      クシャリと、リョーマの髪を掻き混ぜた不二。その手指の感触が、『あの男』のものと、また重なったように思える。 
      (ぁあっ、ちくしょう!わけがわかんないっ!) 
      リョーマは右手で額を押さえて俯いた。 
      頭の中で、いろいろなことが渦を巻いて、メチャクチャになってしまった。 
      外れない指輪。 
      意識のないまま夜に出歩いているかもしれない自分。 
      その自分を好き勝手に扱う『あの男』。 
      そして髪を掻き回す『あの男』の手の感触。その男と同じクセを持つ、桃城。 
      リョーマ以外では唯一、なぜか指輪が見える不二。 
      そして、『あの男』の罠かもしれない、手塚への恋情に似た想い…… 
      「越前」 
      突然背後から呼びかけられて、振り向くと、そこには不二の笑顔。 
      「大丈夫?やっぱりまだ本調子じゃないなら、無理はしない方がいいよ」 
      「………大丈夫っス。ちょっと、顔、洗ってきます」 
      リョーマは帽子で表情を隠すようにして、その場を逃れた。
 
  『あの男』は誰なのか。 
      自分は本当に、自ら『あの男』のもとへ通っているのか。 
      夜中に無意識のまま逢いに行くほど、自分は『あの男』を求めているのだろうか。 
      それとも、未知の力で、『あの男』が自分を呼び寄せてでもいるのだろうか。 
      わからないことが、多すぎる。 
      そのわからないことを、調べる術さえもが、わからないのだ。 
      そして。 
      手塚への想いが何なのかも、リョーマにはよくわからない。 
      憧れ、尊敬、それと、あの試合観戦の日に感じた小さな親近感。 
      それだけでは、なかったのだろうか。 
      恋情に似たこの想いは、本当に、『あの男』の仕掛けた何かの罠なのだろうか。 
      「………」 
      今は落ち着いた鼓動を確かめるように胸に手を置き、リョーマはコートの方を見遣る。 
      (部長の、さっきの微笑みの意味も、わからない……) 
      優しい微笑みだった。 
      どこか、嬉しそうにも見えた。 
      どうして、自分だけにはそんな表情を見せてくれるのだろう。 
      それも、わからない。 
      だが。 
      『あの男』が誰かはわからないが、手塚だけは、『あの男』ではないと思う。 
      手塚は、絶対に、自分に対してあんなことはしない。するはずがない。 
      しかし、だからといって、手塚にすべてを打ち明けて相談することも出来ない。 
      もしすべてを話したなら、軽蔑され、疎まれてしまうかもしれないからだ。 
      もう二度と、あの柔らかな微笑みを向けてくれなくなるかもしれないのだ。 
      「それは……ヤダ…」 
      ポツリと呟いてから、リョーマは小さく眉を寄せる。 
      恋愛感情があるかないかは別としても、自分はかなり手塚のことを好きになっている。テニスプレイヤーとして尊敬もしている。 
      その手塚に、拒絶されるのはつらい。 
      (オレって、こんな女々しいヤツだったっけ…?) 
      今までの自分だったら、誰に好かれようと、誰から嫌われようと、何も関係なかった。 
      ただ自分の進むべき道を、自分のやりたいように、自分の力で進んでいくだけだった。 
      (青学が、オレを変えたのかな…) 
      いや、その『青学』に、目を向けるきっかけを与えたのは手塚だ。 
      あの高架下のコートで、手塚に「柱になれ」と言われるまでは、青学のことなんて、これっぽっちも考えていなかったのだから。 
      「部長……オレは、青学にいて……いや、アンタの傍にいて、強くも、弱くもなったみたいっス…」 
      きつく眉を寄せ、深い溜息を吐く。 
      「でも明日は…試合のことだけ、考えるから…」 
      リョーマは、キュッと唇を噛んで空を見上げる。眩しさに目を細めた。 
      「おーい、越前、こっち、ちょっと集合だってよ!」 
      「ぁ……ういっス!今行きます!」 
      桃城に呼ばれてリョーマは元気そうに声を張り上げた。 
      手塚に、負けないと誓った。 
      手塚にも、負けるなと言った。 
      それを嘘にしないために、そして、嘘にさせないために、自分の持てる力をすべて賭して、明日の試合に臨もうと思う。 
      リョーマはグッと、帽子を深く被り直して、コートに向かって走っていった。 
      
 
 
 
 
 
  
      続
 
   ←前                              次→
 
  
      ***************************************** 
      20051126 
      
      
  
    
  |