  お帰りなさい
   <1> 
      
  溜息の数が、自分でも増えたと思う。 
      だが自分の周りに起こっている奇怪な出来事を思うと、気を紛らわせることもできずに溜息をつくしかない。 
      あれから三日続けてリョーマの身体には痕が残され、決まって朝五時に起きるリョーマは体力も精神力も、かなり削られてきている。 
      (こんなんじゃ、試合に勝てない……) 
      帽子を取って汗を拭い、また溜息を吐く。 
      今日は特に気温が高く、体力の限界がすぐそこまで来ている気がした。いつものリョーマなら練習中にへばったりはしないのだが、今は、状況が違う。 
      「次、越前と海堂、コートに入れ」 
      「ういっス」 
      「……ういーっス」 
      手塚に指名され、溜息混じりに返事をするリョーマを、海堂がギロリと睨みつけた。 
      「なんだその返事は。やる気あんのか?」 
      「ありますよ。先輩みたいに溢れ出してないけど」 
      「………」 
      何か言いたげに口を開いた海堂は、だがそれ以上は何も言わずにリョーマの向かいのコートに入った。 
      練習の仕上げに行う、いつもの2ゲームマッチだ。 
      「海堂のサーブから始めろ」 
      「ういっス」 
      厄介な相手と当たったと、リョーマは思う。 
      海堂の得意の戦法は、相手を左右に振ってペースを狂わせ、隙を狙ってくるものだ。一瞬たりとも気は抜けない。 
      「行くぞ、越前」 
      「いつでもドーゾ」 
      リョーマが答えるのとほぼ同時に、海堂がサーブを打ち込んでくる。 
      (本気だし…) 
      鋭く打ち返すと、早速海堂はスネークを打ってくる。 
      「ちっ」 
      リョーマは小さく舌打ちしてボールに追いつき、なんとか打ち返す。そして体勢を整えながらすぐにセンターに引き返してその次も打ってくるだろうスネークを待った。 
      しかし、海堂はスネークの代わりにネットギリギリのドロップを打ってきた。 
      「!」 
      リョーマは猛然とダッシュしてネット際のボールを拾った。だが打ち返した先にはすでに海堂の姿があった。 
      「ヤバ…っ」 
      「うらぁっ!」 
      凄まじい威力のボレーがリョーマのコートに突き刺さる。 
      「15−0」 
      審判役の堀尾の声に、リョーマはふぅっと溜息を吐いた。 
      海堂もいつものように長く息を吐きながら、サーブの位置にさっさと引き返していく。 
      本調子でないリョーマの身体は、一日の練習でかなり悲鳴をあげている。もちろん顔には出していないつもりだが、やはり、こうもダッシュさせられるとつらいものがある。 
      だが、かといって手を抜く気はない。それは、リョーマのプライドが許さない。 
      (誰だか知らないヤツに好きなようにされて、それで練習が出来ませんでした、なんてこと、あって堪るか!) 
      それでも軋む身体はいつも以上に疲労が激しく、リョーマの額には脂汗が滲んできた。 
      (くっそぉ…) 
      また海堂のサーブが叩き込まれる。スネークを打たせないように、リョーマは海堂の足下を狙って打ち返した。 
      「アウト!30−0」 
      「あ……」 
      海堂の足下深く入り込むはずだったボールは、ほんの少し距離を伸ばしすぎてラインの向こう側へ落ちた。 
      「………」 
      ボールを見送っていた海堂が、ギロリとリョーマを睨む。 
      リョーマはまた溜息を吐いて、次のサーブを受けるべく、レシーブ体勢を取った。 
      三本目の海堂のサーブが来る。 
      (集中しろ…!) 
      リョーマは歯を食いしばり、重いサーブを打ち返す。今度こそ海堂の足下深く入り込んだリターンを、海堂はクロスに打ち返す。そこからお互いに相手を左右に揺さぶろうとするラリーが始まった。 
      打っても打ち返しても、海堂はボールに追いつき、自分のいる場所とは遠い位置に打ち込んでくる。 
      「くそっ」 
      体力勝負ではリョーマには分が悪すぎる。特に、今のリョーマではボールに追いつくのがやっとだった。 
      (それならこれでどうだ) 
      リョーマはドロップショットを打った。 
      だが却って、猛ダッシュしてボールを拾った海堂の打球がネットスレスレに戻ってきたため、リョーマもネット際に猛ダッシュする羽目になった。 
      「く……そぉっ!」 
      あと一歩のところで追いつけず、リョーマの目の前でボールが二度目のバウンドをした。 
      「40−0」 
      はぁはぁとリョーマの息が上がる。脂汗が頬を伝ってトロリと流れ落ちる。 
      視線を感じて見上げると、海堂の鋭い瞳とぶつかった。 
      「…ちっ」 
      優勢なはずの海堂が、不機嫌そうに舌打ちして背を向ける。 
      「………」 
      短い付き合いだが、海堂のその言動の意味が、リョーマには何となくわかる。 
      (手を抜いているわけじゃないんだけど) 
      きっと海堂はリョーマが本調子でないことに腹を立てているのだろう。 
      (仕方ないな……) 
      リョーマはひとつ深呼吸をしてから、レシーブ体勢を取った。 
      海堂がサーブを打つと同時にリョーマも動く。 
      「ライジングだ!」 
      誰かが短く叫ぶ。 
      海堂も一瞬意表をつかれたのか、反応しきれずにリョーマのリターンエースを許した。 
      「40−15」 
      (こんな感じ?) 
      ニヤリと笑ってみせると、海堂も小さく笑った。 
      そうでなきゃ面白くねぇ、と海堂の唇が動いた気がした。 
      (そっスね、こんなことくらいでへばっていたら、全国制覇なんて…) 
      だがそう思うリョーマの視界がぐらりと揺れる。 
      「あ……れ?」 
      リョーマはその場にガックリと片膝をついた。 
      「越前!」 
      先輩たちが口々に自分の名を呼びながら駆け寄ってくるのがわかる。 
      ラケットで身体を支えて立ち上がろうとするが、それもできずにリョーマは完全に崩れ落ちた。 
      一番に駆けつけた桃城がリョーマの肩に手を掛ける。 
      「おい越前、大丈夫かっ?」 
      「……カッコ悪い…」 
      ボソッと呟くと桃城に頭を軽く叩かれた。 
      「バカ。体調悪いのに無理する方がカッコ悪いっつぅの!……部長、越前休ませてもいいっスか?」 
      どうやら手塚も近くには来ていたらしく、桃城が顔を上げて手塚に許可を求めている。 
      「………」 
      リョーマの目の前に来た手塚が、膝をついてリョーマを覗き込んできた。 
      息を乱しながらリョーマが顔を上げると、手塚がきつく眉を寄せてリョーマを見つめていた。 
      「……越前、今日はもうあがれ」 
      「………」 
      リョーマは悔しげに唇を噛んで俯いた。手塚は小さく溜息を吐いて立ち上がる。 
      「桃城、送ってやれ」 
      「ういっス!」 
      桃城はしっかり了解すると、リョーマを抱きかかえるようにして立ち上がらせた。 
      「…他の者は自分の練習に戻れ」 
      背を向けて歩いてゆく手塚を、リョーマは見遣った。 
      「まだ……」 
      リョーマは桃城の手を振り切って手塚を追いかけた。 
      「まだやれます!最後まで練習させてください!」 
      ここでやめたら、自分を好き勝手に扱う見えない相手に負けるような気がした。それはリョーマにとって、ひどく屈辱的なことに思えた。 
      足を止めた手塚がゆっくりと振り返る。 
      「……身体を休めることも、時には重要だ。今日は帰って充分に睡眠を摂れ」 
      「あ……」 
      ひどく柔らかな声音で言われて、リョーマは目を見開いた。 
      あの、試合観戦の日の手塚のようだった。 
      他の連中には手塚が何を言っているのか聞こえないほど静かな声で、リョーマだけに語りかけるように手塚は言う。 
      「無理をするな」 
      「部長…」 
      手塚がポンとリョーマの頭に手を乗せた。そのまま、軽くポンポンと叩いて、何も言わずに背を向ける。 
      (部長……) 
      「桃城」 
      手塚が桃城に目配せすると、桃城は頷いてリョーマのもとへ駆け寄った。 
      「ほら、行こうぜ、越前。今日のところは部長の言うこと聞いとけ」 
      「…………ういっス」 
      桃城に促されてリョーマは仕方なく部室に向かって歩き出した。 
      「じゃ、お先に失礼します」 
      桃城が挨拶すると、レギュラーたちや部員たちからリョーマに温かな声がかかった。 「お疲れ」 
      「越前、ちゃんと身体休めろよ!」 
      「また明日な、越前!」 
      体調の悪い時は他人の優しさを素直に受け止めるようで、リョーマは自分を心配してくれるみんなの声に、微かな感動を覚えた。 
      ライバルであり、だがそれ以上に、ここに集っている人間は互いを仲間として大切にしている。競い合うだけでは生まれない強さが、そこにあるように思えた。 
      こんな時になって改めて、青学テニス部の結束力の強さを、リョーマは感じていた。 
      リョーマは振り返ってペコリと頭を下げる。 
      「ありがとう…ございました。海堂先輩、中途半端なことになってすみません」 
      リョーマが視線を向けると海堂は意外そうに目を見開き、ひとつ咳払いをした。 
      「……腑抜けたお前と戦ってもつまらねぇ。さっさと体調戻せよ」 
      「ういっス」 
      リョーマが苦笑すると海堂は照れたように「ふん」と言って視線を逸らした。 
      「行くぞ、越前」 
      「ういっス」 
      小さく頷いてリョーマはコートを出た。 
      桃城に肩を抱かれて歩きながら、リョーマはチラリと手塚に視線を向ける。 
      手塚と、目が合った。 
      帽子を取って小さく頭を下げると、手塚が頷いてくれた。 
      リョーマの胸に、安堵感のような温かな想いが広がった。
 
 
 
 
  「ここんとこずっと調子悪いだろ、越前」 
      「………」 
      部室で着替えながら、桃城が眉を顰めてそう言った。 
      「べつに。そんなことないっスよ」 
      「うそつけ」 
      桃城が少し大袈裟に溜息を吐く。 
      「ここ何日か、いつも朝学校来る時に俺の背中で寝るじゃねぇか。あんま、無理すんなよ?」 
      「………ういっス」 
      リョーマはウェアを脱ごうとして、ふと手を止めた。 
      身体の痕を、桃城に見られないようにしなくては、と思う。 
      チラリと桃城を見遣って、タイミングを計りながら、リョーマは慎重に素早く着替えた。 
      「帰りにマック寄るか?」 
      「ぁ、ういっス」 
      シャツのボタンを留め終え、少しホッとしてリョーマが桃城を見上げると、桃城がいつものようにニカッと笑った。 
      「今日は俺のおごりだ。小遣い入ったからいっぱい食ってもいいぜ?」 
      「マジっスか?」 
      「おう!」 
      「やった!」 
      リョーマが嬉しそうに笑うと、桃城が目を細めてリョーマの頭に手を乗せた。 
      「そういう顔するとスゲー可愛いぞ、越前」 
      「なにそれ」 
      ムッとするリョーマを見て、楽しげに笑いながら桃城はリョーマの髪をクシャクシャと掻き回した。 
      (あ…っ) 
      リョーマの中で、デジャヴが起こる。 
      (この感じ……) 
      リョーマは目を見開いて桃城を見上げた。 
      「桃先輩…」 
      「ん?」 
      「あ、いや……もうすぐ着替え終わるっス」 
      「おう」 
      リョーマは、脱いだウェアをバッグに詰め込む手が微かに震えているのがわかった。 
      (まさか……桃先輩が……?) 
      何日か前、あの不鮮明な夢の中で自分を抱き締めていた男が、ふいにリョーマの髪を親しげにクシャクシャと掻き回した。その時の感触と、今、桃城が同じようにリョーマの髪を掻き回した感触が重なったのだ。 
      (桃先輩、何かって言うとオレの髪を掻き回すし……手の大きさとか、やり方とか……似てるし…) 
      「ねえ、桃先輩」 
      「ん?」 
      リョーマはぐっと両手を握り込んでから、視線を桃城に真っ直ぐ向けた。 
      「桃先輩って、オレの夢、見たりします?」 
      「え?」 
      桃城の顔色が、一瞬、変わった。 
      「ゆ、夢?越前の?……なんだよ、急に」 
      「…オレ、最近桃先輩の夢、よく見るような気がするから」 
      「俺の夢を?」 
      桃城の瞳が嬉しそうに輝く。 
      「どんな夢だよ」 
      「………内容は、覚えてないっス」 
      とりあえず、嘘をついた。いきなり全部手の内を明かすほど、リョーマは迂闊ではない。 
      「ふーん。でも、ま、イイ夢なんじゃねぇの?俺は優しい先輩だからな」 
      「さあね。そのせいでオレ、寝不足なのかもしれないっスけど」 
      「………」 
      桃城は一瞬黙り込んでから、プッと吹き出した。 
      「なんだそりゃ。それじゃまるで夢の中で俺がお前をいじめてるみたいじゃねぇか」 
      「…だから、もしも、桃先輩が夢の中でオレのこといじめてる自覚があるなら、少し手加減してもらえないかと思って」 
      桃城は笑いながら、またリョーマの髪をクシャクシャと掻き回した。 
      「わかったわかった、覚えとくよ。ほら、もう行こうぜ?」 
      「ういっス」 
      桃城に続いて、リョーマもバッグを担いで部室を出る。 
      「自転車取ってくるから、校門のところで待ってろよ。じゃ」 
      「ういっス」 
      自転車置き場へ走って向かう桃城の背中を見つめながら、リョーマはきつく眉を寄せた。 
      遠回しにクギを刺してみた。 
      これでもしも、あの夢の中の男が行為をやめるか手加減し始めたなら、あの男が桃城である可能性が大きくなる。 
      だが、確証にはならない。 
      いくら髪を掻き回す手の感触が同じでも、そして、今夜からあの男がリョーマへの対応を変えても、それがそのまますぐに「夢に出てくる男=桃城」と言うことにはならない。 
      (何か、証拠がつかめれば…) 
      リョーマは歩きながら考え込んだ。 
      (でも、もしも、本当に桃先輩だったらどうしよう…) 
      もしも桃城があの男だとしたら、桃城はリョーマのことを性行為の対象として見ていることになる。 
      「………」 
      リョーマは溜息を吐いた。 
      桃城のことは嫌いではない。むしろ、どちらかと言えば好きだとは思う。 
      だが、恋愛の対象としては、見ていない。いや、見ていないと言うより、見ることが出来ない。 
      (だって、ドキドキしない…) 
      恋愛に関して、夢を見ているつもりはない。だが、普通の「好き」と、恋愛対象に向ける「好き」が、全く別物であろうことは、恋愛経験のないリョーマでも安易に想像はつく。 
      桃城に対する「好き」は、親近感のような、どこか、近しい者への想いに似ていると思う。 
      それに、よほどのことがない限り、同性に対して恋愛感情を持ったりはしないだろう。 
      (部長くらい格好良かったらわかんないけど…) 
      ふと、そんなことを考えてしまってから、リョーマは慌てて頭を振った。 
      「な、なんで、ここで部長が出てくるんだ。部長なんか、桃先輩よりもっと有り得ないだろ!」 
      だがリョーマの脳裏に、あの、試合観戦した日の手塚の微笑みが浮かぶ。 
      (……でも……あんなふうに微笑まれたら…) 
      優しくて、センスがよくて、博識で、自分と同じものが好きな手塚。 
      そして、テニスでは、きっとまだまだ敵わない。 
      「………」 
      リョーマは、先程自分にかけてくれた手塚の柔らかな声を思い出した。 
      部活の時には滅多に聞かない、いや、たぶん今まで一度も聞いたことがない優しい声。 
      (そうだ……部長は部活の時は「部長」としての責任を背負っているんだ。だからいつも怖いカオして……) 
      だからきっと、リョーマと二人きりになった時には、「部長」ではなく、「手塚国光」という一人の男として接してくれるだろう。そしてその時には、あの試合観戦の日の手塚に会えるのだ。 
      そう考えた途端、リョーマの胸の奥が仄かな熱を持った。 
      でも、とリョーマは思う。 
      (もしも、あの夢の男が桃先輩だったら…いや、桃先輩じゃなくても……) 
      同性である男にカラダを自由にされているリョーマを、手塚はどう思うだろうか。 
      (軽蔑、される……な…) 
      肌のあちこちに紅い痕を残され、後孔を蹂躙され続けている自分など、きっと手塚は受け入れてはくれない。 
      先程熱を持ったリョーマの心の奥が、痛みを伴って急速に温度を下げた。 
      「お待たせ、越前、行こうぜ!」 
      「………ういっス」 
      「……どうした?越前」 
      「べつに」 
      消え入りそうな声で返事をするリョーマに、桃城は眉を寄せる。 
      「………乗れよ」 
      コクンと小さく頷いて、リョーマは桃城の自転車に乗り込んだ。 
      「やっぱ、調子悪ぃんだな」 
      リョーマは答えなかった。 
      身体の疲労感よりも、腰から下のひどい倦怠感よりも、心の痛みの方がつらかった。 
      (軽蔑されたくない……) 
      手塚にだけは。 
      リョーマはギュッと唇を噛み締めた。
 
 
 
 
  *****
 
 
 
 
  結局、マックには寄らずにリョーマは真っ直ぐ家に帰ってきた。 
      別れ際、心配そうな桃城の瞳を、リョーマは真っ直ぐ見つめ返すことが出来なかった。
 
  玄関からすぐに自室に飛び込み、制服のままベッドに倒れ込む。 
      きつく目を閉じて深く息を吐き出し、ゆっくりと開いた視線の先にある右手のリングを、リョーマはボンヤリと見つめた。 
      「幸せが訪れるなんて……ウソばっか……」 
      恨めしげに呟いて、リョーマはもう一度目を閉じた。 
      このまま朝まで眠れたらいいのに、と思う。だがきっと今夜もあの男の夢を見るか、記憶に残る夢は見なくとも、またカラダは好きに扱われるのだろう。 
      (だいたいなんで夢なのにオレの身体に痕が残るんだよ……おかしいよ…) 
      目を閉じたままきつく眉を寄せる。 
      考えても考えても、わからないことが多すぎる。 
      どうして突然、こんなことになってしまったのだろうか。自分は何も変わらずに、日々を過ごしているだけなのに。 
      (この指輪のせい…?) 
      時折熱を発するように思えるリングは、今はヒンヤリとしていてリョーマの体温さえも拒絶しているかのように思える。 
      「ねえ、お前、どうしたいの?オレにどうして欲しいの?……どうしてオレの指から離れないわけ?」 
      声に出して問うてみるが、リングが答えるはずもなく、しんと静まりかえる室内にリョーマの溜息が響く。 
      その時、階下から菜々子の声が聞こえてきた。 
      「リョーマさん、お電話よ。テニス部の先輩から」 
      「まさか………部長?」 
      リョーマは勢いよく身体を起こすと、転がるように階段を駆け下りた。 
      「もしもし!」 
      リョーマが電話に取り縋り、勢い込んでそう言うと、受話器の向こうからクスクスと笑い声が聞こえた。 
      『よかった、元気そうだね』 
      「あ……不二先輩?」 
      リョーマはどこかガッカリとして身体の力を抜いた。 
      『今、部活が終わったところなんだ。ちょっと心配になって、携帯からかけちゃった。……大丈夫?越前』 
      「あ……はい、今日は早めに寝るっス」 
      『うん、そうだね。そうした方がいいよ』 
      受話器から聞こえる不二の柔らかな声が、リョーマの心にほんのりと安らぎを与えてくれる。 
      『ねえ、越前。もしかして、指輪のことで、相当参ってる?』 
      「え……あ……まあ……そっスね……なんでこーなってんのか、全然わかんなくて…」 
      『そっか……でも、指輪のことだけ?』 
      「えっ?」 
      不二の鋭い指摘に、リョーマはギクリとした。 
      「はい…指輪のことだけっス」 
      動揺が声に出ないように注意して、リョーマはそう言った。 
      不二に相談するのはリングのことだけだ。毎夜自分の身に残される『痕』については、誰にも頼らず自分自身で解決したい。 
      それは、リョーマの男としてのプライド。 
      「心配かけてすみませんでした。明日は、ちゃんと体調整えていきますから」 
      それは無理かもしれないが、今日のように途中退場するようなことはもう二度としない。 
      相手が誰であれ、なんであれ、リョーマは負けることが嫌いだ。 
      『明日は試合前だから練習もいつもより軽めにするって。越前も、調整だけするつもりでいればいいよ』 
      「あ、はい」 
      『じゃあね。何かあったら電話して。一人で抱え込んじゃ、ダメだよ?』 
      「ういっス。ありがとうございます」 
      会話を終え、リョーマは受話器を置いた。 
      「不二先輩、か…」 
      優しく、気配りの出来る男だと思う。 
      大石のようにすぐ傍で付き添ってくれる優しさとはどこか違って、少し離れた位置から、とても温かな目で見守ってくれているような感じがする。 
      どちらがいいという比較は出来ないが、人に干渉されることが嫌いなリョーマにとっては、不二のように、一定の距離を保ってくれるのはありがたかった。 
      「リョーマさん、お電話終わった?お風呂沸いてるけど、入る?」 
      「ぁ、うん、入る」 
      「今日ね、お隣から活きのいい『さより』を頂いたの。お刺身にしましょうっておばさまがはりきっているわよ。リョーマさんも好きよね、さよりのお刺身」 
      ニッコリと菜々子に微笑まれて、リョーマも小さく微笑んで頷いた。 
      菜々子もさりげなく心配してくれていることが、リョーマにもわかった。 
      優しい人々に囲まれている自分を、少しだけ幸せに思う。 
      「じゃあ、お風呂、入ってくるね」 
      「ごゆっくり」 
      心の中の重い塊が、今だけ少し軽くなった気がした。
 
 
 
 
  風呂から上がり、一息ついて食事を始めようとすると、玄関でチャイムが鳴るのが聞こえた。 
      パタパタと小走りに玄関へ向かった菜々子は、すぐに戻ってきてリョーマを呼んだ。 
      「リョーマさんにお客様。またテニス部の先輩ですって」 
      「え?誰だろ…」 
      訝しげに首を捻りながらリョーマは玄関へ向かう。 
      遠慮深いのか中に入らず外で待っているその「先輩」の後ろ姿を見て、リョーマは大きく目を見開いた。 
      「部長……」 
      信じられないものを見るようにポカンとしているリョーマに気付き、手塚は小さく微笑んだ。 
      「急に来てすまない。少し気になって、ここまで来させてもらった。調子はどうだ?越前」 
      「あ………え?あ、ああ、あのっ、………大丈夫っス」 
      「お前の『大丈夫』は信用できないな」 
      困ったように小さく眉を寄せて微笑む手塚に、リョーマは小さな感動を覚えていた。 
      あの試合観戦の時の手塚が会いに来てくれた。 
      部活や学校行事で見かける手塚とは全然違う、柔らかな微笑みを向けてくれる手塚が。 
      「部長……」 
      「大石も菊丸も…いや、部員のほとんどが心配していたぞ。タフなお前が体調を崩すなど、よほどのことなのではないか、と」 
      リョーマは苦笑して俯いた。 
      「……最近、よく眠れないんス。すごく眠くてベッドに入るのに、全然寝ていないみたいに疲れが取れないし、なのに、朝は決まって五時くらいに目が覚めちゃって、仕方がないからそのまま起きてて部活に出るんス」 
      素直に話すリョーマに、手塚は静かに耳を傾けてくれている。 
      「すごく疲れているはずなのに、寝ても寝ても眠れていないって言うか……うつらうつらしても、変な夢、見るし……」 
      「変な夢…?」 
      リョーマは内心「しまった」と思ったが、曖昧に話せば大丈夫だと思い、頷いて口を開く。 
      「なんか、知らないところに行って、誰だかわかんない人と話をしているんスけど………その話の内容とかが全然聞こえなくて、わからなくて、なのにオレ自身は頷いちゃったりしてて……思ってることと行動してることがちぐはぐで、……その夢見るたびに疲れちゃって」 
      「………そうか」 
      手塚はきつく眉を寄せて考え込んだ。 
      「………夢が原因、か」 
      「それと、指輪が……」 
      「指輪?」 
      怪訝そうな瞳で手塚がリョーマを見つめる。 
      手塚にも見えていない指輪の話をしても信じてもらえないとは思うが、どうしても胸に渦巻いている不安を、手塚に聞いて欲しかった。 
      「前に、部長と試合観戦に行った帰りに、新橋でシルバーのリング、買ったじゃないっスか。そのリングが……リングを……失くしちゃって……」 
      本当のことは、やはり言えなかった。信じてもらえるとは、とうてい思えないから。 
      「………失くした?」 
      「た、たぶん部屋にあるとは思うんスけど……それで、またあれと似たリングがないかなって新橋に行って見たんスけど、あの店、見つからなくて……ガッカリして…」 
      「………」 
      手塚は少し考えてから、何か思い出したように「そういえば…」と口を開いた。 
      「新橋でお前と別れたあとで、またあの店の前を通ったんだ。そうしたら、その時、その場にいた客との会話で、明日から故郷に帰ると言っていたから……あの店を出していた男は、当分東京には戻らないんじゃないのか」 
      「えっ!そんな…っ」 
      「越前…?」 
      「あ…」 
      取り乱しそうになって、リョーマはぐっと唇を噛み締めた。 
      「そっスか……じゃあ、もう……だめなのかな……」 
      この外せないリングの謎は、当分は解明されない恐れが出てきてしまった。 
      リョーマは思わず右手を握り締めてリングを見つめた。 
      「………そうガッカリすることもない。ああいうデザインがいいなら、どこかで見つけた時に買っておいてやるから」 
      「……え?」 
      「俺の趣味でいいなら、な」 
      「部長が…?」 
      思い切り目を見開くリョーマに、手塚は小さく微笑んだ。 
      「だから元気を出せ」 
      手塚はリョーマの頭に手を乗せると、優しく宥めるようにポンポンと弾ませた。 
      「…風呂に入ったのか?まだ少し濡れている」 
      手塚の指がリョーマの髪に差し込まれ、すぐにするりと通り抜けてゆく。 
      (あ……) 
      リョーマの心臓が、ドキンと音を立てた。 
      「……夢に関しては、俺には手の打ちようがないが、指輪ならなんとか力になれるだろう。他にも何かあったら、いつでも言ってくれ」 
      そう言って微笑む手塚に、暫しリョーマは目を奪われた。 
      柔らかな微笑み。慈しむような瞳。だがそれは決して女性的なものは感じさせず、積み上げられた自分への自信の上に成り立つような、どこか大人の香りさえも漂っている気がした。 
      「越前?」 
      手塚に見とれていた自分に気付いて、リョーマは慌てて視線を逸らした。きっと頬は仄かに紅いだろうと自覚しながら。 
      「あ………でも、部活中は……話せない、っスよね……」 
      「練習中は、な。だが休憩時間なら何を話しても構わない」 
      「でもコートの中にいる時の部長は、なんて言うか……その……」 
      すべてを言葉にはしないが、チラリと上目遣いで手塚を見ると、手塚は承知しているとでも言いたげに肩を竦めて小さく溜息を吐いた。 
      「…だったら部活のあとで話せばいい。お前が話したいと言うなら、いくらでも時間は作る」 
      「……ホントっスか?」 
      「ああ」 
      また優しく微笑まれて、さらにリョーマの頬が熱を持つ。 
      「…じゃあ、そろそろ失礼する。夕飯時だったろう?すまなかった」 
      「ぁ、そんなの全然…」 
      むしろ手塚が来てくれて嬉しいと言いかけて、リョーマは口を噤んだ。そんな、告白めいたことを言うなんて恥ずかしくてとても出来ない。 
      少し視線を落としたリョーマに、手塚はまた微笑んだ。 
      「……また明日」 
      そっと頬に触れられて、リョーマはビックリして顔を上げた。 
      「ああ、すまない。顔色が戻ってよかった。…今日はちゃんと寝られるといいな」 
      「……はい…」 
      苦笑しながら小さく頷くリョーマに手塚も静かに頷いた。 
      「おやすみ」 
      穏やかにそう言うと、手塚はゆっくりと背を向けて歩き出した。 
      「ぁ………部長っ」 
      「ん?」 
      振り返ってくれた手塚に、リョーマは小走りに駆け寄った。 
      「ありがとうございました、部長」 
      手塚はふっと微笑むと、何も言わずにリョーマの頭をポンと軽く叩いてまた歩き出した。 
      (部長……) 
      リョーマはずっと手塚の背中を見送った。 
      手塚が角を曲がって見えなくなるまで、ずっと。 
      そうしてふと、思った。 
      (…オレ、まだ部長にちゃんと「お帰りなさい」って言ってない……) 
      本当はそんな言葉を言うつもりなどなかった。 
      だが青学に手塚が戻った途端、今までの部とは比べものにならないほど、空気が引き締まり、活気が漲った。 
      青学には手塚が必要なのだと、思い知った。 
      (それが、アンタのいう「柱」ってヤツの意味なのかな……) 
      強くて、優しくて、テニスに対して誠実で、青学を深く愛している手塚。 
      「アンタみたいに青学を愛せるかどうかはわからないけど……結構好きっスよ、青学も、アンタも……」 
      今はもう見えない手塚に語りかけるように、リョーマは呟いた。 
      「ぁ……」 
      リングが、仄かに熱を持った。 
      「お前も、あの人、好き?」 
      答えるはずのないリングを見つめて、リョーマは溜息を吐く。 
      「オレも、負けてられない…」 
      リョーマは、いつの間にか星の目立ちはじめた空を見上げた。 
      夢の中の男が誰であろうと、決して屈したりなんかしない。たとえカラダを好きにされても、心だけは強くありたい。 
      それが、今、リョーマに出来る、最大限の抵抗。 
      「よし、飯食って寝よう!」 
      リョーマは大きく伸びをすると、家の中に入っていった。
  空に飾られた小さな星が、ひとつだけキラリと瞬いた。
 
 
 
 
 
  
      続
 
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      20051122 
      
      
  
    
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