  指 輪
   <2> 
      
  家をいつもより早く出たせいで、いつものように家の前では桃城には会わなかった。 
      だが少し歩くと後ろから桃城の声が聞こえた。 
      「おーい、越前!何だよ、今日はえらく早いな」 
      「桃先輩」 
      そう言う桃城こそこんなに早くどうしたのかと思ったが、その理由にあまり興味がなかったので、リョーマはいつものように「はよっス」とだけ言った。 
      「ほら、乗れよ」 
      「ういっス」 
      いつも当然のように桃城の自転車の後ろに乗っていたが、今日ほどありがたいと思ったことはなかった。 
      起きてすぐほどではないにしろ、身体の怠さと後孔の痛みがまだひいてくれないのだ。 
      リョーマは小さく溜息を吐いた。 
      「ん?どうした、越前?」 
      「…べつに」 
      「また遅くまでゲームでもやっていたのか?」 
      「やってないっスよ」 
      「溜息吐いた分だけ幸せが逃げるって言うぞ」 
      「ふーん」 
      気のない返事を返すと、今度は桃城が溜息を吐いた。 
      「あ、桃先輩も不幸に一歩近づいたっスね」 
      「俺は四月からすでに不幸なんだ。ずっと片想いだからな」 
      「へぇ」 
      桃城に好きな相手がいることには少し驚いたが、それが誰なのか追求する気はなかったので、リョーマはそれ以上詮索はしない。 
      「それだけかよ、…ったく」 
      「なんスか?聞いてほしいんスか?」 
      「いーや、お前にだけは教えねぇ」 
      「なにそれ」 
      リョーマはまた溜息を吐いた。 
      自転車に乗せて貰うのはありがたいが、今は他人の恋愛話に耳を貸すほど自分に余裕がない。 
      「…やっぱ調子悪ぃのか?」 
      「べつに。早く起きすぎて眠いんス」 
      「なんだそりゃ」 
      桃城は愉快そうに笑う。 
      「桃先輩、ちょっと背中貸してくださいね」 
      「あ?」 
      どうしようもないほどの眠気と怠さに、リョーマは桃城の背中に抱きついて目を閉じた。 
      「………本気で寝るなよ?」 
      「うん……」 
      それきり桃城が黙ってしまったので、リョーマはありがたく休ませてもらうことにした。
 
 
 
 
  「越前、そろそろ着くぜ」 
      「ん………ういっス」 
      はぁ、と深く溜息を吐いて、リョーマはゆっくりと目を開けた。 
      「ぁ、部長、大石先輩!おはようございます!」 
      桃城が背筋を伸ばして挨拶するのを聞いて、リョーマも身体を起こした。 
      「おはようゴザイマス」 
      「おはよう、桃、越前。今日はいつもより早いんじゃないか?」 
      大石が初夏の青空のような爽やかさで笑う。 
      「…おはよう」 
      一方手塚の方は、そう言ってリョーマたちにチラリと一瞥をくれただけで、いつも以上に素っ気なく視線を逸らして歩き出す。 
      その態度が何となくリョーマの気に障った。 
      「桃先輩、ありがと。ちょっと助かりました」 
      「ん。お前が落ちないかと思ってヒヤヒヤしたぜ」 
      リョーマがニッコリと桃城に微笑みかけると、桃城はどこか嬉しそうに笑う。自転車置き場に向かう桃城を見送って歩き出そうとすると、とうに行ってしまったと思っていた手塚が立ち止まってこちらを見ていた。 
      「……体調でも悪いのか?」 
      「いや、べつに。何でもないっス」 
      溜息混じりにそう言い、リョーマがバッグを担ぎ直して部室に向かおうとすると、少し前を歩いていた大石が何気なくリョーマを振り返って「あれ?」と声をあげた。 
      「越前、それ……」 
      そう言いながら、大石はバッグに手を掛けていたリョーマの右手を指さした。 
      (…やっぱり見つかった) 
      「痛そうだな、越前、それ」 
      「え?」 
      予想していたのと違う言葉が大石の口から出たので、リョーマは訝しげに眉を寄せた。 
      「人差し指、ささくれてるじゃないか。部室に絆創膏があるから、捲いてやろうか?」 
      「へ?ぁ、ああ……大丈夫っス」 
      「遠慮するな。何かに引っかけたりしたらもっとひどくなるぞ。確か指用の小さいヤツをこの間買っておいたんだ」 
      そう言いながら大石は部室に走っていってしまった。 
      (あれ?なんで何も言わないんだろう) 
      リョーマはポカンとして大石の背中を見つめてから、右手のリングを見つめた。 
      (あの大石先輩がこんなのつけてるのに何も言わないなんて) 
      隣で同じように大石の背中を見送っていた手塚が、スッとリョーマに視線を向ける。 
      (でも部長はなんか言うよね) 
      「…確かにずいぶんひどいな。栄養のバランスがよくないのかもしれないぞ」 
      少し身構えていたリョーマに、手塚も予想とは違う言葉を言った。 
      「……ういっス。気をつけマス」 
      手塚は小さく頷くと、リョーマに背を向けて部室に向かう。手塚のあとについて歩き出しながら、リョーマは首を捻った。 
      (なんで何も言わないんだろう……部長まで……) 
      そういえば、いつも細かいことをいちいち聞きたがる桃城も何も言わなかったなと思い出す。 
      (変だ…) 
      もう一人オーバーに反応を見せるのは菊丸だ。リョーマは部室で着替えながら菊丸を待った。 
      「おっはよ〜」 
      程なくして、朝のせいか、いつもより少しだけ低いテンションで菊丸が現れた。 
      「はよっス、菊丸先輩」 
      「おチビ〜眠い〜」 
      「うわっ、いきなりなんスか!」 
      通りすがりに後ろから抱きつかれてリョーマは藻掻いた。 
      「あれれ、おチビ、それ、どしたの?」 
      「え?」 
      「指…」 
      「これっスか?」 
      リョーマが薬指を指さすと、菊丸は「違う違う」と言って人差し指をツンツンとつついた。 
      「どこ指さしてるのにゃ。こっちこっち。ケガした?」 
      「あー………ささくれっス。大石先輩が絆創膏捲いてくれたんス」 
      「う〜、俺もよくささくれになるにゃ〜。だから大石に頼んでちっさい絆創膏買ってもらったのにゃ」 
      リョーマは曖昧に頷きながら、小さく眉を寄せた。 
      (菊丸先輩ですら何も言わない………なんで?) 
      その後、部室に入ってきた乾も、海堂も、河村も、同級生たちも、リングについて触れてくる者がいない。あの二年の荒井たちでさえ、何も言ってこないのはどう考えてもおかしい。 
      リョーマ以外には、このリングが見えていないとしか、考えられなくなってきてしまった。 
      「…お先っス」 
      リョーマはキャップを深く被って部室を出た。どういうことなのかと考え込んでいると、目の前から不二がやってきた。 
      「ぁ、おはよう、越前」 
      「はよっス、不二先輩」 
      「あれ?」 
      不二がラケットを担ぎ持つリョーマの右手に目を留めた。 
      「珍しいね。どうしたの?」 
      リョーマは溜息を吐いて、今度は人差し指の絆創膏を指さしてみた。 
      「これっスか?」 
      「違うよ。越前が部活にそういうの着けて来るのって、ちょっと意外だから」 
      不二は薬指を指さした。 
      「!」 
      途端に弾かれたように顔を上げたリョーマは、不二の腕を引っ張って少し部室から離れたところに移動した。 
      「不二先輩は見えますよね?」 
      「え?」 
      「みんな、このリング見ても何も言わないんス。大石先輩も、部長も、あの菊丸先輩まで!」 
      不二は笑みを消して小さく目を見開いた。 
      「何も言わない?手塚も、英二も?……確かにそれは変だね」 
      「そっスよね!」 
      「気づいてない…いや、見えてない、のかな…」 
      「や、やっぱり?……いや…そんな……こと……まさか……」 
      リョーマは微かに動揺してリングを見つめた。 
      「これ、今朝から外せなくなっちゃったんス。だから仕方なく着けたまま来たんスけど……見えてないなんて、そんな……」 
      「………詳しく聞かせて?」 
      「………」 
      不二に柔らかく微笑みかけられて、リョーマは藁にも縋るような思いで、リングのことについて話した。とはいえ、新橋の露店で偶然見つけて買ったということと、すごく気に入って家ではずっと着けていたこと、そして今朝から突然外せなくなってしまったことしか話せることはなかった。 
      (身体の痕のことは話せない) 
      それだけは、誰にも話すつもりはなかった。 
      「新橋の露店、か……その店に一緒に行ってみる?」 
      「え?…不二先輩と?」 
      「うん。何か、曰わく付きのリングかもしれないからね。嫌?」 
      リョーマはフルフルと首を横に振った。 
      「お願いします!」 
      頷いて微笑んでくれる不二に、リョーマも小さく微笑み返した。 
      不二だけリングが見えるのなら、何か手を貸してもらえるような気がした。
 
 
 
 
  練習が終わりコート整備を済ませてリョーマが部室に戻ると、すでに着替え終えた不二がベンチに腰掛けて待っていてくれた。 
      「すみません、すぐ着替えるっス」 
      「慌てなくていいよ」 
      不二にニッコリと微笑まれてリョーマも小さく微笑む。 
      「二人でどこかに出るのか?珍しい取り合わせだな、不二」 
      シャツのボタンを嵌め終えた乾が眼鏡の位置を直しながら意外そうに口を開いた。 
      「うん。これから二人でデートなんだ」 
      不二が楽しげに言う。 
      デートじゃない、と否定しようかと思ったが、そうすると余計に追究されそうだと思い、リョーマは黙ったまま着替えを続ける。 
      「どうかしたのかよ、越前」 
      だが桃城はリョーマが黙っていることを却って不審に思ったらしく、誰にも聞こえないようにこっそりとリョーマに尋ねてきた。 
      「……べつに。ちょっと野暮用っス」 
      「野暮用?」 
      桃城は小さく目を見開いてから、微かに眉を寄せた。 
      「…なんかあったのなら相談に乗るぜ?これでも一応、お前のこと本気で心配してんだからな」 
      「心配?」 
      リョーマは目を丸くして桃城を見つめた。 
      桃城はニカッと笑うと、リョーマの頭をポンポンと叩く。 
      「それだけ覚えておいてくれりゃいいさ」 
      「はぁ」 
      「じゃ、また明日な」 
      リョーマの髪をクシャッと掻き回してから「お先に失礼します!」と先輩たちに挨拶を言い、桃城は出ていった。 
      (本気で……心配、か……) 
      クシャクシャにされた髪を手櫛で直しながら、リョーマはクスッと小さく笑った。
 
 
  「お待たせしました」 
      「うん。じゃ、行こうか」 
      「ういっス」 
      まだ着替え途中の部員たちの間をすり抜けて二人で外に出ると、手塚が一人、コート内のベンチに腰掛けて日誌を書いていた。 
      「手塚、お先に」 
      「ああ」 
      不二に声を掛けられて視線を上げた手塚は、不二がリョーマを連れていることに少し驚いたらしく、小さく目を見開いた。 
      「部長、お先に失礼シマス」 
      「……ああ」 
      だが手塚はそれだけを言うと、また視線を日誌に戻した。 
      (前に一緒に試合を見た部長と別人みたいだ) 
      リョーマはなぜか苛立ちを覚えて唇をひき結んだ。 
      「どうしたの、行くよ、越前」 
      「ぁ、ういっス」 
      少し先を歩いていた不二が振り返って柔らかな声でリョーマを呼んでくれる。リョーマは手塚への当てつけのように愛想よく返事をして不二のもとへ駆け寄った。 
      「ここからだと春野台に出るより地下鉄で銀座に行っちゃった方が早いかな」 
      「そうなんスか?」 
      「たぶんね。それで行ってみる?」 
      「はい。おまかせするっス」 
      にこやかに不二に頷いておいてから、リョーマはチラリと手塚を振り返った。手塚は黙々と日誌を書いているようだった。 
      「ねえ、不二先輩。部長って、ずっとあんな感じなんスか?」 
      「ん?あんな感じって?」 
      「ウルトラスーパー無愛想」 
      リョーマの言葉に不二は声を上げて笑った。 
      「…うーん、どうかな。一年生の時はそれなりに可愛かったと思うけど、例のケガした辺りからどんどん口数は少なくはなったかな」 
      「ふーん。カワイイ時もあったんスか」 
      「越前ほどじゃないけどね」 
      「は?」 
      「ぁ、バス来たよ。これで春野台まで行かないで、途中の地下鉄の駅で降りよう」 
      はぐらかされてムッとしながらリョーマは不二に続いてバスに乗り込んだ。
 
 
  新橋に降り立ったリョーマはぐるっと辺りを見回してから、あの日の記憶を辿ってリングを買った店を探した。 
      「こっちの方に歩いて、部長と食事して、それから店を出て、こっちの方の通りにぽつんとあったんス」 
      「手塚と食事?」 
      不二が少しずれたポイントで意識を留めたらしく、リョーマを覗き込んで不思議そうに尋ねてきた。 
      あの日は手塚と一緒に試合を見たのだということを言い忘れていたことに気付き、リョーマはそのことを不二に説明した。 
      「ああ、そうなんだ。あの試合なら僕も見ていたんだよ。あんまりいい席じゃなかったけど」 
      「え?そうなんスか?」 
      目を見開くリョーマに不二はニッコリと微笑んだ。 
      「話、遮ってごめんね。それで、その店はどの辺にあったって?」 
      「えーと、あそこの角を曲がったような………ぁ、あの建物の近くだった気がします」 
      「行ってみようか」 
      「ういっス」 
      二人はサラリーマンたちを掻き分けてリョーマの示した場所へと辿り着いた。 
      しかし、そこにはなにもない。 
      「今日も店があるとは限らなかったね」 
      「………」 
      リョーマは少しガッカリしながらも、辺りを見回した。ここじゃなくても近くに店を出している可能性だってある。 
      「少し、この辺りを歩いてみる?」 
      「はい…」 
      小さく頷くリョーマの肩に、不二は優しく手を置いた。 
      「店が見つからなくてもガッカリすることはないよ。いざとなったら僕の姉さんに見てもらおう」 
      「お姉さん?」 
      ニッコリ微笑む不二を不審そうに見つめてから、リョーマはまた辺りに視線を向けた。だが目に映るのは、日暮れと共に増えてきたサラリーマンと、次第に目立ち始めたきらびやかな電飾だけ。 
      「サラリーマンばっか……ぁ、そっか、休日じゃないと店を出していないのかも!」 
      ふと思いついた考えに不二も頷く。 
      「そうだね。平日だとここはサラリーマン天国になるから、そんなアクセサリーを販売しても売れないだろうし」 
      「そっスね!」 
      まだ希望を捨てなくていいとわかったリョーマは、瞳を輝かせて不二を見た。不二も優しく微笑んでくれる。 
      「じゃ、また土曜か日曜に、ここに来てみようか。二人で」 
      「え………いいんスか?でも今度の週末は試合が…」 
      「いいじゃない。じゃあ試合のあとで来ようよ」 
      「……ありがとうございます」 
      心強い味方が出来たような気分になってリョーマが頷くと、不二もさらに優しげな微笑みを返してくれた。 
      「じゃ、今日は帰ろうか」 
      「ういっス」 
      「それともマックかどこかに寄ってから帰る?」 
      「あ…」 
      さっきから自分の腹が鳴っていたのを不二には気付かれていたのかと、リョーマは苦笑した。 
      「じゃ、ちょっとだけ、寄ってもいいっスか」 
      「いいよ。越前と二人で寄り道できるなんて、何だか嬉しいな」 
      「えー?そっスか?オレ、たかっちゃうかも」 
      「それは困るかな」 
      軽口を言い合って笑い合う。 
      不二とこんなふうに話せることがリョーマには新鮮だった。 
      (部長ともあの時はこんなふうに楽しかったのに…) 
      リョーマはふと、あの試合観戦の時の手塚を思い浮かべた。 
      優しくて、男の目から見ても格好良くて、深い知識に時折感心もした。プライベートの手塚は、こんなにも魅力のある人間なのかと、リョーマは驚いたのだ。 
      なのに。 
      部活で会う手塚はあの時とは別人のように冷たくて、素っ気なくて、まるでテニス以外には関心などないのではないかとさえ思えるほど他人を寄せ付けない雰囲気だ。 
      「もうちょっと笑ってもいいのに…」 
      「え?」 
      「ぁ、いや、なんでもないっス!」 
      思わず呟いてしまった言葉を不二に聞き返されてリョーマは慌てて誤魔化した。 
      「えーっと、マックかなんか、あるかな…」 
      辺りを見回すリョーマを見つめて、不二はクスッと笑みを零した。
 
 
 
 
 
  *****
 
 
 
 
 
  家に帰ったリョーマは、念のためにリングが見えるかどうか、家族の反応も見てみた。 
      だが、予想通り、家族にも右手のリングは見えていないことがわかった。 
      「なんなんだろう、このリング……」 
      夕食を終え、風呂から上がったリョーマはベッドに寝転がり、右手を翳してリングを見つめた。 
      普通の人間なら他人に見えないリングを自分の指に嵌めているという時点で動揺するものだが、案外自分が落ち着いていることに、リョーマは自分でも驚いている。 
      「だいたい、いきなりこんなに気に入っちゃうリングって言う時点で、オレにとっては珍しいことだもんな…」 
      このリングを買った時、自分はひどく機嫌がよかったような気がする。 
      手塚と見た試合内容がよかったこともあるが、試合後も、手塚と過ごした時間が楽しかったのだ。 
      今はもう、遠い昔のことのようにも思えるが。 
      「二人きりなら、また部長は、あの時みたいに優しくなるのかな…」 
      横になってリングを撫でると、またリングが微かに熱を発した。 
      (ぁ、また…熱い…) 
      リョーマはリングに唇を当ててみた。 
      (なんだろう……なんか、すごく……悲しい……) 
      そのまま目を閉じたリョーマは、自分が深い眠りへと引き込まれていくのを感じる。 
      (ぁ、また部屋の電気点けたまま……) 
      だがこうなるともう起き上がれないことを、リョーマは知っている。 
      (またあの変な夢、見るのかな……朝になったらまたオレのカラダは……) 
      もしそうならこのまま眠りたくはない。 
      だがそれは無駄な抵抗であることも、リョーマは知っていた。 
      (ヤバ……目覚まし、セット……してな……) 
      リョーマはそのまま、深い眠りへと落ちていった。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
  知っている場所だと思った。 
      前に一度来たことがある場所だと。 
      だが、これがどこであるのかはわからない。 
      視界は薄暗く、目をちゃんと開けていられないのか、薄目を開けている時のように不鮮明だった。 
      「     」 
      また、誰かが目の前に立って話しかけてきている。 
      リョーマは視線を上へ向けようとするが、身体が巧く動かない。 
      (ぁ、もしかして、前に夢見た時の人…?) 
      リョーマに話しかけている相手が、そっと、リョーマの右手を持ち上げた。 
      (なに……?) 
      「     」 
      やはり何を言っているのかはわからないが、なぜか、そのリングのことを言っているように、リョーマには思えた。 
      リョーマの唇が、また勝手に何か喋り出す。自分の唇なのに、自分で何を言っているのかさえわからない。 
      相手が、ギュッと右手を握ってきた。 
      あ、と思う間に引き寄せられ、抱き締められる。 
      (もしかして、オレのカラダに痕残したのって……) 
      そう思いそうになって、リョーマは「まさか」と思う。 
      これは夢だ。実際に自分のカラダに痕なんか残せるはずがない。 
      だが、強く抱き締められて感じる息苦しさが、妙にリアルだ。ほんのりと、相手の体臭も感じる気がした。 
      リョーマの腕が勝手に動き、相手の背に回されると、一層強く抱き締められた。 
      (あ………なんか……いいな……) 
      きつく締め上げられて苦しいはずなのに、リョーマの心は喜びを感じている。 
      (変なの……男に抱き締められて嬉しいなんて……やっぱオレって、そういう要素があったのかな……) 
      頭では今でも同性に触れられることを拒絶しているのに、身体の方は嬉しさを感じている。そのギャップが、リョーマにはつらかった。 
      (ちくしょ……なんでこんなに…心地いいんだろ……) 
      リョーマの胸に、悔しさに似た感情が湧き上がる。 
      なのに、拒絶できない自分がもどかしい。 
      「     」 
      抱き締めながら、相手がまた何か言う。 
      リョーマには届かない言葉。 
      だがリョーマの身体には届く言葉。 
      何もかもが、もどかしい。 
      「     」 
      相手が何か囁きながらリョーマの髪を梳く。その手指の感触があまりに優しくて、なぜか悲しくなってきた。 
      だがその手が、ふいにリョーマの髪をクシャッと掻き回した。 
      (え?今の感じ……っ) 
      その感触には覚えがあった。 
      (誰だっけ、よくオレの髪をそんなふうにクシャって……) 
      今は思い出せない、だがこの目の前にいる相手は、実際にリョーマが知っている人物なのではないかという気がしてきた。 
      (誰……?) 
      相手はまたリョーマをしっかりと抱き締める。 
      動揺したままのリョーマの視界が、また闇に覆われてゆく。 
      (まただ、またきっとオレはこの人に……) 
      ゆっくりと沈んでゆく意識の中で、リョーマは優しく額に口づけられるのを感じた。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
  翌朝、やはり五時頃に目を覚ましたリョーマは自分がベッドに入っていることを、まず不思議に思った。 
      部屋の電気も消えている。 
      そして。 
      「………また、か…」 
      やはり下半身に鈍痛がある。 
      リョーマは顔を顰めながら身体を起こし、風呂に入るために浴室に向かう。 
      (でも、昨日よりはまだマシかな) 
      股関節の怠さはあるが、腹部の鈍痛も、後孔の痛みも、昨日よりは遙かにマシだった。 
      昨日と同じく浴槽に湯を溜めて、リョーマは軋む身体をゆっくりと湯に浸した。 
      「痛…ッ」 
      リョーマはまたピリッとした痛みを右側の乳首の辺りに感じて慌てて見下ろした。 
      「な……」 
      乳首の周りに、微かに歯形の一部のようなものが残されている。 
      リョーマは急にゾッとした。 
      明らかに、自分以外の誰かが自分に触れたのだという事実を、目の前に叩きつけられた気がした。 
      「あ……ああ……っ」 
      リョーマは両手で顔を覆った。 
      急に自分の置かれた状況が怖くなってきた。 
      誰だかわからない相手に、自分の意志ではないはずなのに、なんの抵抗もなく、身体を好きなように扱われているのだ。 
      「く……っそぉ……」 
      怖くて怖くて、そして無性に腹が立ってきた。 
      リョーマは歯を食いしばって、目に見えない相手を睨むように、前方の壁を睨みつける。 
      「絶対、つきとめてやる……っ!」 
      リングの謎も、自分の身体を好きに扱う相手のことも、絶対に自分で解決してみせようと思った。
 
 
 
 
 
  
      続
 
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      20051119 
      
      
  
    
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