  指 輪
   <1> 
      
  帰宅したリョーマは、南次郎相手に日が落ちるまでコートで汗を流し、今日見てきた試合で目にしたプレイを自分なりに研究してみた。 
      「やっぱすぐには難しいか…」 
      「お前にゃ、十万年くらい早いぜ」 
      「なにそれ」 
      ムッとして南次郎を睨み返すが、彼の言うことはもっともで、むろん十万年というのは大袈裟だが、自分にはまだまだ身につけねばならないショットがたくさんあるのだと、リョーマは思い知る。 
      (部長ならこのショット、打てるかもしれないな…) 
      ふと、手塚のことを思い出した途端、リョーマの胸の奥が小さな熱を持った。 
      (部長が全快したら、また試合してもらおう) 
      「もう上がるか、青少年。腹減った」 
      「ああ……うん」 
      リョーマは横柄に頷くと、いつものように何も言わずにラケットをバッグにしまい込んだ。 
      「風呂は俺が先な」 
      「べつに。それくらいは譲ってやるよ」 
      「あら?リョーマ様ったら、ちょっと大人になったの〜?」 
      おちゃらけて言う南次郎を、リョーマはまたジロリと睨んだ。 
      「……一応礼のつもり。今日の試合は、すごくよかったから」 
      「………へぇ」 
      南次郎の表情がどこか嬉しそうに輝く。 
      「じゃ、遠慮なく、お先に」 
      そう言うと、南次郎は鼻歌交じりにさっさと歩いていった。
 
 
  南次郎と入れ違いに風呂に入ろうとしたリョーマは、自分の右手を見て、ずっとリングを嵌めたままだったことに、今さら気付いた。 
      「つけてるの忘れてた……さすがに風呂まで付けて入るのはヤバイかな」 
      暫しリングを見つめてから、リョーマは小さく溜息を吐いてリングを外し、急いで自分の部屋に戻って机の上にそっと置いた。 
      (こうして見ると結構存在感があるのに、全然つけていないみたいに軽かったな…) 
      リョーマは不思議そうに首を傾げてから、また風呂へと向かった。 
      いつもはのんびり入る風呂を早めに切り上げて、リョーマはすぐに部屋に戻り、リングを指に嵌める。 
      「つけてると、親父になんか言われそう…」 
      べつに南次郎に何を言われても構わないのだが、いろいろと詮索されるのが嫌いなリョーマは、リングを巾着に入れてハーフパンツのポケットに入れた。 
      なぜだか、そんなふうにしてでも、なるべくリングを身につけていたい気分だった。
 
 
  食事も終わり、自室に戻ってやっと自分の時間を過ごせることになると、リョーマはすぐにポケットから巾着を取り出して、リングを指に嵌めた。 
      「いい感じ…」 
      こんなにも気に入るアクセサリーには、今まで出逢ったことがない。 
      リョーマは感動さえ覚えて、大切そうにリングを撫でた。 
      「運命の出逢い、ってヤツ?」 
      自分で呟いておいて、リョーマはクスッと笑った。 
      運命なんて自分自身で切り開いてゆくものだ。あらかじめ用意されたプロセスを順に通っているだけだなんて考えたくもない。 
      運命の出逢いとか、運命の瞬間とか、そんな言葉はあとから勝手に名付けただけで、ロマンチストの戯れ言だと思う。 
      だが、確かに、あの「店」はいきなり視界に飛び込んできたのだ。それまで何もなかったように関心のなかった路上に、唐突に出現したような気さえする。 
      (そんなことあるわけないけど) 
      そして、ふらりとその「店」に寄って、このリングを見つけた。 
      もしもあの「店」を目に留めなければ、このリングとも出逢えなかった。いや、あの通りを歩かなければ、あの「店」には気付かなかっただろう。そして、手塚と食事を摂ることにならなければ、あの通りを歩くことなどなかった。 
      (やっぱり、オレが部長を誘ったからこのリングと出逢えたのかも…) 
      遡って考えていくと、そんなところへ考えが行き着いて、リョーマはまた手塚のことを思い浮かべた。 
      普段とは少し違う手塚。 
      いつもは制服を隙なく着こなしている手塚の私服姿は新鮮だったし、今まで見たこともないような柔らかな微笑みを、何度もリョーマに向けてくれた。 
      ジンジャエールを飲み干してしまったリョーマに、自分のを飲めと差し出してくれた優しい手塚。 
      堅物だと思っていたのに、リョーマと同じようにシルバーのアクセサリーが好きだというのも意外だった。 
      もう少し、話をしていたかったと、今なら素直に思うことができる。 
      (でも、明日からしばらく、部長はいなくなるんだ…) 
      リョーマはふぅっ、と小さく溜息を吐いた。 
      昨日までは何とも思わなかった手塚の離脱が、今のリョーマには少しだけ、寂しく思える。 
      だが、感傷的な気分には、なっていない。 
      (アンタが戻ってきた時には、オレは今よりもっと強くなっているから) 
      部活の時の手塚の、あの無表情を驚く顔に変えてやりたい。 
      あの高架下のコートで「柱になれ」と言われた時は冗談じゃないと思った。ふざけるなと、思った。 
      たかが自分の所属する学校のために、煩わしいものまで背負い込むつもりなどない。 
      自分が進みたい道に、自分以外の存在など邪魔なだけだ。 
      その考えは、今もさほど変わりはない。 
      ただ。 
      青学のために身を犠牲にした手塚のことを考え始めると、そうまでして願う手塚の夢の手伝いなら、してやってもいいとは思う。 
      それは自分にとっても全く無駄になるということではないのだし、手塚も、夢が叶うまで自分を必要としてくれると思うと、なぜだか少し楽しくなる。 
      (全国大会で優勝するまで、アンタと一緒に同じ敵を倒していくのもいいか…) 
      リョーマはリングを見つめて、ふっと微笑んだ。 
      きっと生涯のうち、今だけだ。誰かのために、テニスの試合に勝とうと思うのは。 
      「このリングと出逢えたお礼、ってヤツ」 
      そう呟いて、リョーマはベッドに転がった。 
      「なんか……もう眠いや……」 
      自分でも知らないうちに緊張でもしていたのだろうかと思い、それはないなと否定しながらリョーマは目を閉じた。 
      (部屋の電気……消さなきゃ……) 
      そう思うが身体はどんどん眠気に支配されて動かなくなってくる。 
      「…………」 
      そうして、何とか目覚ましだけはセットして、リョーマはついに深い眠りへと落ちていった。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
  知らない場所にいる、と思った。 
      だが、どこか、室内にいることだけはわかる。 
      途中どこかを歩いていた記憶はほとんどなく、うっすらと開けた瞳に映るものは、見たこともない家具ばかりだった。 
      (どこだろ…ここ…) 
      立ち尽くしていたリョーマは、背後から名を呼ばれた気がしてゆっくり振り返った。 
      「     」 
      振り向いた先にいる相手が何か言っている気がする。だがリョーマには、何を言われているかが理解できない。 
      「     」 
      相手がまた何か言う。 
      どうしようかと思っていると、リョーマの唇が勝手に何か言葉を紡いだ。 
      「どうして」 
      そんな言葉を、自分の唇は紡いでいる気がする。 
      すると、相手がゆっくりと近づいてきた。だが、手が届くほど近づいても、相手の顔は見えない。 
      「     」 
      相手がまた何か言った。 
      声が聞こえてくるわけではないのだけれど、それでも相手が何かを言っているのがわかる。 
      (あ、もしかして、これ、夢?) 
      そう思うと、途端にリョーマは警戒心を解いた。 
      夢ならば、こんな奇妙なシーンも頷ける。 
      だがこれは何の夢なのか。何か意味があるのか。それとも記憶を勝手につなぎ合わせた自分自身が見せる、ただの映像の「遊び」なのか。 
      そんなことを頭の中でいろいろ考えていると、ふいに、目の前の相手がリョーマの肩を掴んで、引き寄せてきた。 
      (え?) 
      しっかりと、抱き締められる感触がある。 
      (ずいぶんリアルな夢) 
      抱き締められて、目の前でリョーマにいろいろ話しかけてきていたのが男だとやっとわかった。 
      「     」 
      相手が、リョーマの耳元で、また何か囁いた。 
      耳元で言われたのに、やはりリョーマにはその言葉の内容が理解できない。 
      だがリョーマは、リョーマの身体は、勝手に頷いていた。それだけでなく、自分の腕がやはり勝手に動いて、相手の背に回った。 
      「     」 
      相手が何か言う。それは熱く、甘い囁きのような気が、した。 
      それにまた勝手に身体が頷くと、リョーマの視界がゆっくりと闇に包まれてゆく。 
      (やっと目が覚めるのかな……変な夢……) 
      そうして完全に闇に包まれた視界の中で、リョーマの意識も闇の中へと落ちていった。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
  目が覚めたリョーマは夢のことを覚えていた。 
      (何だったんだろう……変な夢見たな……) 
      カーテンの向こうはうっすらと明るくなっていて、朝になっていることがわかった。 
      部屋の電気はいつの間にか消されており、たぶん、母親か誰かが、照明をつけっぱなしにしてリョーマが寝てしまっていることに気付いて消してくれたのだろうと思うことにする。 
      リョーマは手を伸ばして枕元の時計を手に取ってみた。 
      時刻は午前五時ちょうど。 
      (もう一眠りできそう…) 
      そう考えたリョーマは、寝返りをうとうとして、妙に体がだるいことに気付いた。心なしか、腰から下が重点的に重く、股関節には少し鈍痛がある。 
      それはまるで長距離を走らされた時のような疲労感と筋肉の軋みだった。 
      (昨日練習しすぎたっけ?) 
      首を傾げなからも、リョーマはまた目を閉じて、目覚ましが鳴るまでの短い時間を有効に、睡眠に当てることにした。
 
 
 
 
  今日も「通りがかり」の桃城に拾って貰って部活に出ると、朝から大石が妙なテンションで部員たちに声をかけていた。 
      (大石先輩……無理しちゃって) 
      リョーマはこっそりと溜息を吐いた。 
      そういえば、ここのところ、日に日に大石のテンションが乱れてきていた。沈んでいたかと思えば、いきなりやる気に漲った目をしたり。 
      きっと大石は前から手塚の出発日を知らされていたのだろう。だから、手塚が旅立つ今日という日は、朝からハイテンションなのだ。人はそれを『空元気』とも言うが。 
      「大石先輩、はよっス」 
      「おお、越前、おはよう。今日も練習頑張ろうな!」 
      「ういーっス」 
      適当に返事をしておいてから、リョーマは目だけで手塚をザッと探してみる。 
      だが、コート内に手塚の姿はなかった。たぶん、竜崎のもとで出発前の挨拶などをしているのだろう。 
      「なんか今日の大石先輩、変だな」 
      リョーマに遅れてコートに入ってきた桃城が、あちこちで声をかけ回っている大石を見ながら、どこか呆れたように呟いた。 
      「…………桃先輩、ストレッチしません?」 
      「ん?ああ、向こうでやるか」 
      「ういっス」 
      桃城とリョーマはコートの奥の方へ移動する。 
      手塚が今日出発するのだということを、敢えて桃城には自分の口からは言わないでおこうとリョーマは思う。なぜ知っているのかと、いろいろ詮索されるのがいやだったからだ。 
      コートの端を少し走ってからストレッチを始める。 
      「あ…っ、痛…っ」 
      いつものように桃城に軽くのし掛かられただけで、リョーマは珍しく声を漏らしてしまった。 
      今朝感じた身体の鈍痛と違和感が、まだ抜けないのだ。 
      「何だ?どうかしたのか、越前?」 
      「…べつに」 
      「ふーん、続けるぞ?」 
      「ういっス」 
      前屈するたびに腰に鈍痛が起こる。さらに開脚すると股関節に痛みが走る。 
      (なんなんだよ、もう!) 
      こんな身体の不調は初めてだった。いつだってそれなりに体調には注意していたし、こんなふうに痛みが残るような練習はしてこなかった。 
      (寝違えた?) 
      だが首や肩ならまだしも、下半身を寝違えるなど、あまり聞いたことがない。 
      考えていても仕方がないと思い、痛みに耐えて身体を解すと、何とかいつものように動くようになってきた。 
      「そろそろ交代な」 
      「ういっス」 
      リョーマが立ち上がり、桃城が替わりに腰を下ろして前屈を始めた直後、コートの入り口の方から部員たちの挨拶の声がさざ波のように広がった。 
      「おはようございます!」 
      「おはようございますっ」 
      部員たちの声が明らかに緊張と尊敬を含んだ硬いものになる。だからリョーマには誰が来たのかがすぐわかった。 
      「………」 
      足音が、こちらへ近づいてくる。リョーマは視線を向けずに動きを止める。 
      桃城が先に顔を上げてリョーマの後方を見遣った。 
      「おはよっス、部長!」 
      「ああ、おはよう、桃城、越前」 
      「………はよっス」 
      声をかけられて、漸くリョーマも手塚に視線を向けた。 
      「………なんスか?」 
      少しの間、手塚にじっと見つめられてリョーマは眉を寄せた。 
      「いや。昨日はありがとう、越前」 
      「べつに。チケットが余っていただけっスから」 
      素っ気なくリョーマが答えると手塚は小さく溜息を吐いた。 
      「そうか」 
      穏やかにそう言っただけで、手塚はまた背を向けてコートの中央の方へ歩き出した。 
      「………昨日、部長となんかあったのか?越前」 
      リョーマは小さく溜息を吐いた。結局桃城には詮索される結果になってしまった。 
      「……桃先輩が用事があるって言ったから部長を誘ったんスよ。昨日までやっていた有明の試合の観戦に」 
      「え!」 
      桃城がひどく驚いたように勢いよく身体ごとリョーマの方を向いた。 
      「一昨日お前が言いかけてたのって、有明の試合観戦に誘ってくれようとしていたのかっ?しかも決勝戦かよ!」 
      「そっスよ」 
      あっさりとリョーマが答えると、桃城はガックリと肩を落とした。 
      「なんだよ……それならそうと言ってくれれば俺の方の用事を来週に回して一緒に行ったのに……」 
      「来週は試合じゃないっスか。約束破ると嫌われるっスよ」 
      「う………」 
      それに、とリョーマは心の中で付け足す。 
      もしも昨日、桃城と試合を見に行っていたら、あのリングとは出逢えなかった気がする。だからリョーマにしてみれば、昨日は手塚を誘って正解だったのだ。 
      「次、なんかチケット余ったら、桃先輩にも声かけますよ」 
      「余ったら、かよ…」 
      「わざわざ自分で買ってまで桃先輩は誘わないっしょ。デートするんじゃあるまいし」 
      桃城は一瞬リョーマをじっと見つめてから、スッと視線を逸らした。 
      「ま、そうだよな」 
      「?」 
      「みんな、こっちに集合しとくれ!」 
      コート中央で竜崎の声があがった。 
      「あれ、ばーさん、なんだろ。今日は早いな」 
      桃城が不思議そうに首を傾げる。 
      リョーマはチラリと桃城に視線を向けてから、小さく息を吐いた。 
      たぶん竜崎の口から、手塚が今日出発することが告げられるのだろう。 
      キャップを深く被り直して、黙ったままリョーマが歩き出すと、桃城も慌てたようにリョーマの後を追って歩き出した。
 
 
 
 
  *****
 
 
 
 
  手塚が旅立ち、数週間が過ぎた。 
      あれ以来、リョーマは妙な夢を見ることはなく、いつものように日々が過ぎてゆく。 
      学校へ行き、部活で練習をし、疲れて家に帰って熟睡する毎日。 
      そうして関東大会も順調に勝ち進み、王者立海大附属中さえも倒し、青学は関東を制した。手塚との約束通り、全国大会への切符を手に入れたのだ。 
      そして。 
      約束を守った青学メンバーの前に、約束通りにあの男が帰ってきた。 
      「お帰り、手塚」 
      「お帰りなさい、部長!」 
      青学の部員全員に迎えられて、手塚は帰還した。故障を治し、完全な体調に戻って。 
      (部長……) 
      ずいぶん長いこと会っていなかった気がする。それほど、手塚のいない間に、いろいろなことがあった。それらをいちいち手塚に話して聞かせようとは思わないが、自分が強くなったことの証明をしたいと、リョーマは思う。 
      「部長、オレと試合してください」 
      部員たちの歓迎ムードに紛れ、リョーマは手塚を真っ直ぐに見上げて声をかけた。 
      手塚は一瞬柔らかく目を細めたが、一度瞬きをしてから静かに言った。 
      「今は全国大会のことを考えろ。お前との試合は、全国のあとだ」 
      「………ういっス」 
      予想通りの答えにリョーマは内心溜息を吐く。 
      手塚の最優先事項は『全国大会制覇』だ。いつでも戦えるリョーマのことなど、二の次、いや、三の次以降かもしれない。 
      「越前」 
      だが、背を向けて歩き出そうとしたリョーマを、手塚は呼び止めた。 
      「俺はお前との約束通り戻ってきた。これから戦う全国大会を、共に勝ち抜こう」 
      「………」 
      リョーマは黙ったまま小さく頷いた。 
      いつそんな約束を交わしただろうかと考えて、リョーマは、ああ、と思い出した。 
      手塚と試合観戦に行った日、食事の後で手塚から治療に行く日にちを聞いた時に、「全国までには帰る」と、約束めいた言葉を手塚が口にしたのを思い出した。 
      「じゃあ今度は、全国大会が終わったらオレと試合するって、約束してください」 
      本当は今すぐにでも手塚と戦いたかったが、手塚の心がリョーマに向いていない状態で試合をしても意味がないと、リョーマは思う。 
      (全快したアンタと、全力で戦いたいんだ) 
      「……わかった」 
      手塚が静かに、だがしっかりと頷いた。 
      それを見届けてリョーマは手塚に背を向ける。 
      心の奥が熱くなってきた。 
      やはり手塚国光という男は、自分にとって特別なのかもしれないとリョーマは思う。 
      なぜなら、傍にいるだけで、心が熱を持つ。落ち着かなくなる。戦いたくて堪らなくなる。 
      他の学校にも、戦ってみたいと思う相手は何人かいた。 
      だが、戦ってみて、すぐにその熱は冷めた。 
      いつまでも、何度でも、戦いたいと思うのは、やはり手塚以外にはいない。 
      (だから、アンタが心おきなくオレと戦えるように、青学を勝利に導いてやるよ。………でも) 
      全国大会が終わってから、と言ったことを後悔させてやりたいと思う。試合をこなしていくうちに、リョーマは自分自身がさらに強く、成長していくのを感じるからだ。 
      (全国が終わった頃には、アンタと互角以上に戦えるよ、オレは) 
      リョーマは立ち止まり、肩越しに手塚を振り返った。 
      大石や菊丸や河村たちに囲まれて、ほんのりと表情を和らげている手塚がいた。 
      「…っ」 
      一瞬、リョーマの胸の奥で、不快な炎が揺らめいた。 
      だがそれはすぐに消え去り、何事もなかったかのように静まりかえる。 
      (なんだ……今の感じ……?) 
      リョーマは眉をきつく寄せて、手を胸に当てた。 
      「変なの」 
      はっ、と短く息を吐き出して、リョーマはまた歩き出した。 
      「桃先輩、少し打ちませんか?」 
      「おう!」 
      ニカッと笑う桃城にリョーマも小さく微笑み返しながら、手塚から一番離れたコートに入った。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
  翌朝。 
      五時過ぎに目を覚ましたリョーマは、また身体の違和感を覚えていた。 
      (まただ……この前のと同じ…) 
      いや、この前感じた身体の不調とは比べものにならないほど、身体が軋む。その痛みはやはり下半身が中心で、股関節は疲労しきったように重く、腹部も無理な筋トレのあとのように鈍痛がある。 
      そして何より、今まで感じたことのない場所の痛みを、リョーマは感じていた。 
      ジンジンと鼓動と同じリズムで後孔が痛む。 
      (なんで……?) 
      リョーマは下着の上から、そっと自分の後孔に触れてみた。 
      「…っ?」 
      普段こんなところには指で触れたことがないのでよくはわからないが、どう考えても腫れている気がする。 
      (なんかしたっけ?) 
      昨日の行動や食べたものをいろいろ思い起こしてみるが、こんなふうに不調の原因になるようなものは一切ない。 
      「風呂……入って暖まってみよう……」 
      リョーマは痛みに顔を顰めながら身体を起こし、手摺にしがみつくようにして階段を下りて浴室に向かった。 
      急いで浴槽に湯を溜めて、お気に入りの入浴剤を多めに入れてから、掛け湯もせずに身体を沈めた。 
      「い、っつ……っ」 
      ぴりっとした痛みが乳首に走った。恐る恐る見下ろすと、両方の乳首が擦れたように紅くなっている。 
      (な……っ) 
      それだけではなかった。 
      入浴剤の色に染まった湯の中に浸った身体をよく見ると、ところどころに紅く鬱血したような痕が残っている。 
      「なにこれ…」 
      リョーマは愕然とした。 
      疲労しきった股関節と腹部、紅くなった乳首、肌に残る鬱血のあと。 
      そして何より、後孔の腫れ。 
      自分の身体に残るそれら全部を考えてみると、有り得ないはずの、ひとつの状況が頭に浮かんでくる。 
      (オレ……誰かと……?) 
      リョーマは大きく目を見開いて、ブルブルと頭を振った。 
      (そんなはずない。オレはちゃんとベッドで寝ていたし、そんなコトした記憶なんか全然……っ) 
      だがリョーマの身体は、誰かがリョーマの身体に触れたような痕跡を見事に残している。 
      「そんな……ばかなこと……っ」 
      誰かがリョーマの部屋に忍び込んだのだろうか。 
      そう考えて、リョーマはすぐに否定する。 
      リョーマの住む家は新築ではないが、寺の方にはそれなりに重要な仏像などもあるので、セキュリティーに関しては普通の家よりはしっかりと備え付けられている。外からの侵入には特に厳しくなっており、リョーマの部屋へ誰にも気付かれずに忍び込むことなど出来るはずがない。 
      (きっと違うんだ…これは…何か違う原因があるんだ…) 
      だいたい自分が知らないうちに誰かと肌を合わせるなど有り得ない。まだ未経験の自分が、初めてのことを、無意識に求めるはずがない。 
      しかも、後孔が腫れていることから見ても、相手は男。 
      (だったら、絶対に有り得ない) 
      アメリカにいた頃、周囲にもそう言う嗜好の人間はいたし、南次郎の友人にもゲイがいることはいた。 
      だがリョーマはゲイではない。それどころか、恋愛自体に全く興味がない。性行為についても、知識はなくはないが、自分でもしてみたいなどと思ったことはほとんどない。 
      「なんなんだよ……なんでこんな……」 
      リョーマは両手で顔を覆おうとして、リングを指に嵌めたまま風呂に入ってしまったことに気付いた。 
      「ぁ、ヤバ…っ」 
      慌てて外そうとして、リョーマはハッとした。 
      「抜けない…?」 
      サイズはちょうどよかったはずのリングが、しっかりと指に食い込んでいるかのようにビクともしない。 
      リョーマは冷静にボディーソープを手にとってリングを嵌めている指につけた。 
      (こうすればどんなにきついリングでも外れ……) 
      「?」 
      リョーマはまた目を見開いた。 
      ボディーソープを潤滑油代わりにしても、リングはピクリとも動かない。 
      「うそ……なんで?」 
      痛みはない。だか、リングが皮膚の一部になってしまったかのように、回して外そうとすると皮膚も一緒に動くのだ。 
      「そんな……」 
      ボディーソープにまみれた両手を、リョーマは力無く湯船の中に落とした。 
      「どうしよう……」 
      リョーマはもう一度右手を持ち上げてリングを見つめた。 
      「どうして……」 
      左手でリングを撫でると、なぜか急に手塚の顔が脳裏に浮かんだ。 
      (何でこんな時に関係ない部長のことなんか……) 
      でも、とリョーマは思う。 
      (オレが部活にリングなんか着けていったら、部長はなんて言うかな……) 
      帰ってきたばかりの手塚からお小言をくらいそうだとリョーマは思う。 
      (いや、きっと事情を話せばわかってくれる。部長なら、わかってくれる) 
      なぜそう思うのかはわからないが、リョーマにはそんな確信があった。 
      手塚ならわかってくれる。 
      手塚だけは、自分を理解してくれる、と。 
      (あれ……?) 
      そうしてリョーマは、自分が存外手塚を信頼していることに、改めて気付かされた。 
      リョーマにとって手塚は特別だ。 
      たぶん、手塚にとっても、リョーマは特別な存在なのではないかと思う。 
      (部長に……相談してみようかな……) 
      リョーマは、ふと、視線をリングに落とした。 
      「部長…」 
      声に出して手塚を呼ぶと、リングが一瞬だけ熱を持った気がした。 
      「?」 
      リョーマはパチパチと瞬きしてから、もしやと思ってリングを回そうとしてみた。 
      しかし、やはりリングは動かなかった。 
      諦めて、深い溜息を吐いて、リョーマは浴槽の淵に頭を乗せて天井を見上げた。 
      (朝から変なことばっかり………今日は最悪だ…) 
      湯に浸かっていたせいか身体の軋みはほとんどひいたが、後孔の違和感はまだひかない。 
      (この身体のことは相談できないな…) 
      身体に残った痕については、手塚だけでなく誰にも相談は出来ない。自分で解決するしかない。 
      痛みさえひいてしまえば、普通に振る舞えるのだから、隠しておくことも可能だ。 
      だがリングはそうはいかない。人の目に触れてしまう。いちいち説明するのは面倒だが、どうしても抜けないのだと、きちんと言うしかない。 
      「カッコ悪……」 
      リョーマはもう一度溜息を吐いた。 
      今日は一日、ちょっと面倒な日になりそうだと、思った。
 
 
 
 
  
      続
 
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      20051116 
      
      
  
    
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