  
        関 係 
          
         
        
        
         
        青学なんて、どうでもよかった。 
だから、その青学の柱になれと言われても興味なかった。 
自分には関係のない話だと、リョーマは思っていた。 
ただ、あの男に負けたことが悔しくて悔しくて、いつか、完膚なきまでに伸してやろうと心に決めた。 
勝ちたい相手がいるからテニスをする。 
今までも、これからも、リョーマがテニスをする理由は、変わらない。 
ただ、その「勝ちたい相手」が、自分の父親から手塚国光という名の青学テニス部・部長に、変わっただけだった。 
         
         
         
         
         
***** 
         
         
         
         
         
関東大会一回戦。青学は強豪・氷帝学園とぶつかり、なんとか勝利を収めた。 
しかしこの試合で、部長の手塚は肩を壊してしまったため、東京を離れて治療に専念することになった。 
         
         
         
* 
         
         
         
「おい、青少年。いいモンやろうか?」 
「いらない」 
「…おい」 
玄関でシューズを履きながら即答したリョーマに、南次郎は小さく舌打ちをした。 
「せっかくプロの試合見せてやろうと思ったのにな〜、あ、そ〜、いらないんだぁ〜、じゃ、捨てちゃおうかな〜」 
「………いつ?」 
リョーマが肩越しにチラリと視線を向けてきたことに、南次郎は内心ふふんとほくそ笑んだ。 
「明日の日曜日だよーん。あ、でも関係ないよなぁ、いらないんじゃあ……」 
「………」 
リョーマはゆっくり立ち上がると、素早く南次郎の手にあるチケットをひったくった。 
「ぁ、ドロボー!」 
「2枚もいらないんだけど」 
自分のノリについてこない息子に小さく溜息を吐いてから、南次郎はポリポリと頭の後ろを掻いた。 
「誰かにくれてやれよ。それ、なかなか手に入らない決勝戦のチケットだぜ?ほれ、最近人気のあるナントカっていう男前のプレイヤーの……」 
「………ちょっとコートに近すぎない?」 
「お前にゃちょうどいいんじゃねえの?チビだし」 
笑いながら言う南次郎にジロリと視線を向けてから、リョーマはチケットをポケットにしまった。 
「じゃ、部活行ってくる」 
「おう。頑張れよ、青少年!」 
リョーマは小さく溜息を吐くと、黙ったままバッグを担ぎ上げて外へ出た。 
(桃先輩でも誘おうかな) 
どこかに一緒に出掛けるような相手は、今のところ桃城くらいしかリョーマには思いつかない。 
(いっつも自転車の後ろに乗っけてもらってるし、ま、お礼ってことで…) 
「おーい、越前!」 
「ぁ、桃先輩、はよっス」 
まるでリョーマが家を出るのを見計らっていたようなタイミングで桃城が後ろから自転車で追いついてきた。 
「ほら、乗れよ、越前」 
「ういーっス」 
ニカッと笑いかけてくれる桃城の後ろに、いつものようにリョーマは乗り込んだ。 
「しゅっぱぁ〜つ!」 
桃城が楽しげに自転車を漕ぎ始める。 
桃城の肩に手を置いてバランスを取りながら、リョーマは桃城の耳元に唇を寄せて「桃先輩」と声をかけた。 
「うわっ、………なんだよ越前」 
「明日の日曜日、暇っスか?」 
「え?」 
なぜだか耳まで紅く染めている桃城に怪訝そうに眉を寄せてから、リョーマは先のチケットの件を話すつもりで言葉を続けようとした。 
しかし、 
「悪ぃな、明日はちょっとダメなんだ」 
「………そっスか」 
「前々から弟たちと約束していたからさ………」 
「べつに気にしなくていいっスよ。大した用じゃないっスから」 
「悪ぃ……」 
ガックリと項垂れる桃城に、リョーマはまた首を傾げた。 
(べつにオレ一人で行けばいいや) 
桃城が深く溜息を吐くのをチラリと見遣りながら、リョーマは改めてチケットを一枚、無駄にすることに決めた。 
         
         
         
         
         
リョーマが部室で着替えてコートに入ると、すでに手塚が奥のコートの隅で屈伸などをしながら身体を解しているのが目に入った。 
ラケットすら持てない状態であるにも拘わらず、律儀に朝練にも顔を出す手塚にリョーマは脱帽する。 
(そう言えば部長、いつ出発するんだっけ…) 
治療に行くとは聞いたが、いつ出発するのかは聞いていない。 
リョーマはじっと手塚を見つめた。 
黙々とストレッチを続ける手塚の動きが、一瞬、ぐっと硬直するように止まる。 
(あ……痛む、のかな…) 
だが手塚は眉ひとつ動かさずに、またストレッチを再開する。 
(どうしてそこまで…) 
リョーマの中で、確かに『青学』という存在は、入学当初よりは大きなものになってきているのは自覚がある。 
だがそれは、長く接していた愛着に似たような感覚であって、『青学』自体に拘っているのではなくて、単に馴染みがあるだけのものだと思う。 
なのに、手塚は違う。 
『青学』の勝利のために、自らの身体をギリギリまで酷使した。どうしても、何がなんでも、青学を全国大会に導きたいという想いが、傍で見ていたリョーマに
もヒシヒシと伝わってきた。 
その、『青学』への『想い』を、手塚はリョーマに託そうとしている。 
それは単に、リョーマが他の下級生よりも少しだけテニスの腕が立つからなのだろうか。 
だとしたら、手塚は大きな間違いを犯そうとしている気がする。 
(オレには関係ない…) 
手塚にとって大切な、選手生命すら賭けても構わないと思えるほどの想いを、そんな大きなものを、託されても困る。 
強くなりたいとは思う。 
もっともっと強くなって、手塚に勝ちたいと、思っている。 
だが、それは誰かのために、とか、それこそ青学のために、とか、そんな綺麗事ではなく、自分が自分のためにそうなりたいと思うからだ。 
どこまでも貪欲に、ただ自分のためにだけ、強くなりたいのだ。 
(アンタとオレのテニスは違うんだ) 
手塚への感情は、どこか、心の奥からじわりと滲み出てくる反抗心にも似ているかもしれない。 
(アンタのテニスは、オレには理解できない) 
「なんだ?越前」 
「え?……あ」 
自分でも知らないうちに、リョーマは手塚の近くまで歩み寄っていた。 
すぐ傍で見下ろすリョーマを、手塚は怪訝そうに見上げてくる。 
「いや、その……部長…」 
「ん?」 
手塚はゆっくりと立ち上がり、ジャージに付いた土をさっと払い落とした。 
「ぁ、明日…」 
「?」 
リョーマの口が、勝手に言葉を紡いでゆく。 
「明日、空いてないっスか?」 
「明日?」 
「親父が、プロの試合の決勝戦のチケットを、知り合いから貰ったらしくて……よければ、一緒に、行きませんか?」 
「俺と?」 
手塚が珍しく意外そうに目を見開いた。 
「………俺とで、いいのか?」 
「……他に誘う人いないんで」 
リョーマは自分でそう言っておきながら、内心混乱していた。 
(なんでオレ、部長を誘っているんだろう…?) 
「そう言うことなら、遠慮なく受けさせて貰おう。有明で開催されている大会の決勝か?」 
「ぁ、はい」 
「ありがたいな。決勝に残っている選手のプレイは、結構好きなんだ」 
そう言ってほんのりと微笑む手塚の表情に、リョーマは一瞬目を奪われた。 
(部長が、笑った……?) 
「東京を離れる前でよかった」 
「ぁ……」 
いつ行くのかと、手塚に訊ねそうになってリョーマは口を噤んだ。 
訊いてどうするというのか。 
手塚が旅立つ日がいつなのか知ったところで、自分には関係ないのに。 
「じゃ、じゃあ、明日、春野台の駅の改札に、9時でいいっスか?」 
「ああ」 
「それじゃ、失礼しますっ」 
クルリと踵を返して、リョーマは急いで手塚の元を離れた。 
なぜだか、鼓動が早かった。 
         
         
         
         
         
***** 
         
         
         
         
         
翌日。 
リョーマは珍しく早くから目が覚めてしまい、余裕を持って手塚との待ち合わせ場所に着くことが出来た。 
だがすでに改札の近くには、手塚が到着していた。 
(………センスいいな…) 
今日の手塚はネイビー系のジャケットにVネックのTシャツを着、ボトムスにはブラックデニムを穿いている。遠目ではよくはわからないが、胸元にはさりげな
くシルバーらしきペンダントまでかかっていて、シンプルな服装に、邪魔にならない、見事なアクセントを加えていた。 
私服の手塚は、あまり見たことがないせいか、ひどく新鮮に見えた。 
リョーマの方はといえば、ニットの膝丈のボトムに、淡いブルーと白のストライプのTシャツと白を基調としたパーカーという、至ってカジュアルな装いであ
る。 
(大人と子ども?) 
手塚が大人すぎるのだと自分に言い訳しながら、リョーマは手塚の元へ駆け寄った。 
「部長、はよっス」 
「ああ、おはよう。早いな」 
「え?ぁ、なんか、目覚まし鳴る前に目が覚めちゃったんで……部長こそいつもながら、早いっスね」 
「楽しみにしていたからな」 
「え?」 
柔らかな表情でそう言われたリョーマは、一瞬、手塚の言葉に頬を染めた。 
「プロの試合は久しぶりに見る」 
「ああ……」 
なんだ、と思ってしまってから、リョーマは慌てて自分の思考を打ち消した。 
(なんか今オレ、ガッカリしなかった?部長が楽しみにしていたのが試合の方だって聞いて……) 
「越前、もうすぐ快速が来るぞ。乗ろう」 
「ぁ、ういっス!」 
小さな動揺など微塵も顔に出さずに、リョーマは手塚に頷いてみせた。 
         
         
         
         
         
手塚と見る試合は、リョーマにとって、思いの外充実した時間となった。 
普段、部活ではほとんど口をきいたことすらないのに、試合を見ながら、手塚はよく話をしてくれた。 
リョーマが自分の考えを呟くと、さりげなく聞いていたらしい手塚が、それを肯定したりさらに深く解説してくれたりと、ひとつのショットについてだけでも充
分に深みのある知識を与えてくれた。 
おかげで二時間以上かかった試合はあっという間に終わってしまい、リョーマは物足りないような、もっと手塚と試合を見ていたかったような、不可解な感情に
襲われた。 
「腹は減らないか?」 
会場をあとにして、最寄りの駅まで歩きながら手塚がふいにそんなことを言った。 
「あ、……実はペコペコっス」 
「新橋の方に出て、何か食べるか」 
「ういっス!」 
きっと、今までの接し方しかしていなかったなら、空腹を我慢してでもリョーマは手塚と別れるまで「腹が減った」などとは言わなかっただろう。手塚と二人き
りで食事を摂るなど、考えただけでも胃が悪くなりそうだったからだ。 
だが、今は違う。 
試合中、ずっと手塚と話しているうちに、普段、部活や学校行事の時に見かける手塚は、自分の役職を意識して堅そうに振る舞っているのだとわかった。 
だから、こうしてプライベートで向き合う手塚には、ほんの少し好感が持てた。 
         
         
         
新橋に着くと、手塚はザッと周囲を見回して小さく溜息を吐いた。 
「…越前の好みに合う店はありそうか?」 
「オレは何でも……いっそのこと、そこの立ち食い屋でもいいっスよ」 
「…………」 
リョーマの指さす店を暫し見つめてから、手塚は溜息を吐いた。 
「あまりバランスのよくなさそうなメニューだ」 
「………」 
立ち食い屋にバランスの取れたメニューを望むこと自体に無理があるとリョーマは思ったが、敢えて口には出さなかった。 
「いろいろ見ながら、少し歩こう」 
「ういっス」 
大通りの方へ歩き出す手塚にくっついて歩きながら、リョーマは自分でも気づかないうちに小さく笑みを零していた。 
つい昨日までは単に手塚のことを「倒したい相手」とだけしか見ていなかった。 
手塚にとってみれば、リョーマは「自分の想いを託したくなるほどに期待をかけている一年生」なのだろうが、リョーマにしてみればそれはただ迷惑なだけで、
とにかく自分よりも強い手塚を倒して、胸にあるムシャクシャした感情を一掃したかった。 
そう、昨日まで、は。 
今の自分は、手塚と一緒にいるこの時間を、微かに「楽しい」と感じている。そんな自分が不思議でもあり、どこか可笑しかった。 
リョーマは、横を歩く手塚を、そっと見上げてみた。 
ほんのり淡い色をした髪が風になびいている。その髪は、触れたら柔らかいのだろうか。それとも硬いのだろうか。少し薄めの、だが決して酷薄そうには見えな
い唇は、心を許した相手にはどんな話をするのだろうか。 
「……は、どうだ?」 
「えっ?」 
見つめていた形のよい唇が動き、いきなり手塚に視線を向けられて、リョーマは激しく動揺してしまった。 
「な、なんスか?部長」 
「………いや………そこの店はどうだと、訊いただけだが」 
真っ赤になってしまっているだろう頬を隠すように、リョーマは手塚が指さす店の方に、身体ごと向きを変えた。 
「ぁ、ああ、いいっスよ。いろいろあって、美味しそう…っスね…」 
店の入り口に啓示してあるメニューを覗き込みながら、リョーマは適当に感想を言ってみる。 
「ではここにするか」 
「ういっス」 
ドキドキと、鼓動がうるさい。 
リョーマはいつもの自分を取り戻すために、手塚に気付かれないように大きく深呼吸してから店に入った。 
         
         
         
         
         
手塚との食事も、驚くほど楽しいものになった。 
話はやはりさっき見た試合のことが中心になり、試合運びや、細かなショットの打ち方から、メンタル面についてなどもいろいろと話をした。 
「やっぱ、あそこでポイント取られたせいで精神的に追いつめられたんスね」 
「ああ。だがその後なんとか立て直してからの追い上げは、やはりプロと言うべきなのだろうな。見習いたいものだ」 
「そっスね」 
グラスを引き寄せてジンジャエールを飲もうとしたリョーマは、いつの間にかグラスが空になってしまっていることに気付いた。 
「あ……と、もうなくなっちゃった」 
「ん?…俺のでよければ飲むか?」 
「え?」 
普段は炭酸飲料を口にしない手塚が、今日に限って珍しくリョーマと同じジンジャエールを頼んでおり、だが、まだ半分以上残っているグラスを差し出されて、
リョーマは困惑した。 
「え、その……いいんスか?」 
「全部飲み干すなよ?俺の分も残しておいてくれ」 
そう言って小さく微笑みながら、手塚はグラスをリョーマの前に置いた。 
「……じ、じゃ、いただきマス……」 
「ああ」 
リョーマはグラスを手に取ると、ストローに口を付けてジンジャエールを一口飲んだ。 
「ここの店の料理は結構美味いな。覚えておこう」 
店内を見回してから手塚は独り言のように呟く。 
ジンジャエールをすすりながら、リョーマもコクリと頷いた。 
「…ありがと、部長」 
三口ほど飲んで満足したリョーマは、グラスを手塚に返した。 
「もういいのか?」 
「だってなくなっちゃうっスよ」 
「…そうだな」 
手塚はグラスを目の前に翳して見つめてから、ストローを口に銜えた。 
(あ……) 
リョーマの心臓がドキリと大きな音を立てる。 
(これって……) 
思わず手塚から目を逸らして、リョーマは俯いた。 
(間接キス…) 
一気に頬が熱くなる。 
(なんで……こんなことくらいで、オレ……) 
間接だろうと直接だろうと、リョーマにとって「キス」など日常茶飯事だった。特にアメリカにいた頃は、挨拶代わりに頬にキスされるのは当たり前で、相手の
機嫌がいい時などは唇にまでキスされたことだってある。 
もちろん、そこに恋愛感情などは存在しなくて、ただ唇が触れるだけのキスに相手も自分も何も意識などしなかった。 
なのに、今の自分は、たかがストローを手塚と共用したと言うだけで、こんなにも動揺してしまっている。 
(なんなんだよ一体) 
「そろそろ出るか?」 
「えっ」 
グラスを置いた手塚が言った言葉に、リョーマは勢いよく顔を上げた。 
「ん?まだ何か追加で頼みたいのか?」 
「あ、いや、……べつに…」 
口籠もるリョーマに小さく笑みを零すと、手塚は伝票を持って立ち上がった。 
「ぁ、部長?」 
「チケットの礼をさせてくれ。ここは俺が払う」 
「でも、そんな…チケットは、親父から貰っただけだし…っ」 
必死に食い下がるリョーマを見つめてから、手塚は小さく溜息を吐いた。 
「わかった。ここはそれぞれ会計することにしよう」 
「ういっス!」 
相手が桃城だったなら、きっと自分はあっさりと奢ってもらっただろうとリョーマは思う。 
なのに、なぜか手塚には奢ってもらうのに抵抗があった。 
奢ってもらって、チケットの礼をされてしまったら、この楽しい時間が本当に終わってしまう気がしたのかもしれない。 
そんなふうに思ってしまうほど、手塚と過ごす時間はリョーマにとって有意義であり、何より楽しかった。 
         
         
         
会計をそれぞれ済ませて店を出ると、二人はまた並んで歩き始める。 
「部長……」 
「ん?」 
「いつ……行くんスか?」 
前を見つめたまま、リョーマは手塚に訊ねる。手塚は、少し黙り込んでから、やはり前を見つめたまま答えた。 
「明日だ」 
「………そっスか…」 
「だが全国までには必ず戻る」 
きっぱりと言い切る声に、リョーマはふと顔を上げて手塚を見上げた。 
「関東大会は、頼んだぞ、越前」 
「………ういっス」 
真っ直ぐ見つめてくる手塚の瞳を、リョーマも真っ直ぐに見つめ返した。 
絶対に、関東大会を制覇して、全国への切符を手に入れようと、思った。 
それは青学のためなんかじゃなかった。 
手塚を、全国大会に連れて行ってやりたいと思った。 
手塚の夢の手伝いを、してやりたいと、思った。 
(……らしくないな、オレ…) 
ふっと、手塚が微笑む。 
リョーマもふわりと微笑んだ。 
(アンタが自分の身を投げ出してまで叶えたい夢、オレが手伝ってあげるよ) 
そうしてやりたいと思うのがなぜなのかわからなかったが、今はわからないままでもいいとリョーマは思う。 
自分がしたいことを、したいようにやるのがリョーマの主義だ。 
だから、今は自分がしたいと思うように、何も考えずに進んでいこうと思う。 
そうして再び視線を前に向けたリョーマは、その視界の隅に見つけたものに、強く興味を持った。 
「あれ、こんなところでアクセサリー売ってる」 
「ん?ああ……」 
それは若者たちの多い街でよく見かけるような、道に広げた布の上にシルバーのアクセサリーを並べただけの「店」だった。 
「ちょっと覗いていってもいいっスか?部長」 
「ああ」 
手塚に頷いてもらえて嬉しそうに微笑んだリョーマは、その「店」に駆け寄って品物を覗き込んだ。 
「いらっしゃい」 
その「店」を出しているのは日本人にしては少し彫りの深い顔立ちの、若い男だった。品物を覗き込むリョーマに一声かけただけで、しつこく売り込もうとはし
てこない。 
リョーマはしゃがみ込んで、品物のひとつひとつをじっくりと眺めた。手塚もリョーマの傍らに立ち、商品を見ている。 
「あ」 
興味を惹くものを見つけ、リョーマは目の前に座っている男に「手に取ってみてもいいですか?」と尋ねた。男に快諾されてリョーマはひとつのリングを手に
取った。 
「うわ……これ、すごくいいな……あー、でもサイズが合わないや…」 
右手の中指や人差し指に嵌めてみるが、どの指にもそのリングは大きすぎた。 
「そのデザインならこっちにもあるぞ、越前」 
「え?」 
手塚に指さされてリョーマがそちらに視線を向けると、ほぼ同じデザインのリングが見事な細工の小さな箱と並んで置いてあった。 
「ぁ、ホントだ」 
そのリングを手にとって指に嵌めてみると、右手の薬指にちょうどいいサイズだった。 
「やった、今度はバッチリだ」 
リョーマが手塚に視線を向けると手塚が微笑みながら頷いてくれた。 
「あの、これ、いくらですか?」 
値札が付いていなかったので、リョーマは目の前の男に視線を向けた。 
「いくらでも結構ですよ」 
「は?」 
予想外の返答をされて、リョーマは目を丸くした。 
「い、いくらでもって……」 
「あなたなら、そのリングをいくらで買ってくださいますか?」 
「………うーん…」 
リョーマは自分の財布の中身を考えた。さっき手塚と食べた昼食代に支払った分を差し引いて、確か財布には片手ほどの千円札が入っているはずだった。 
「二千八百円………くらい……じゃ、だめですか?」 
おそるおそる訊ねるリョーマに、男は心底嬉しそうに微笑んだ。 
「結構です。二千八百円で」 
「ホントに?」 
「はい」 
「じゃ、これ下さい!二千八百円で!」 
「ありがとうございます」 
男は恭しく頭を下げると、小さな巾着をポケットから取り出して、リョーマの手から受け取ったリングを入れてから、またリョーマに差し出した。 
「大切にしてやってください。きっとあなたに幸福が訪れますよ」 
「え……」 
代金を支払いながら、リョーマは少し驚いたように目を見開いた。 
「可愛がってやってください」 
「あ、はい」 
ニッコリと微笑む男につられたようにリョーマも微笑みながら、気に入ったデザインのリングを思いがけずに手に入れることが出来たことにひどく満足してい
た。 
「お待たせ、部長」 
嬉しそうに瞳を輝かせるリョーマを見て、手塚は一瞬、小さく目を見開いた。 
「……お前も好きなんだな、シルバーアクセサリー」 
「ういっス。部長も好きっスか?」 
「ああ」 
歩き出しながら、手塚はチラリと「店」を振り返った。 
「部長も何か買えば良かったのに」 
「ああ………いや、いいんだ」 
「そっスか?」 
そのまま二人は駅までの道のりを、シルバーアクセサリーのデザインなどについて語り合いながら歩いた。 
「でもオレ、リング買うのは滅多にないんスよ。でもこれは、なんていうか…どうしても欲しいって思っちゃって……」 
そう言いながら、リョーマはずっと手に持ったままの小さな巾着を見つめた。 
「天然石などは、その人が必要としているパワーを持ったものがどうしても欲しくなるとは聞くが…それには石はついていなかったな」 
「うん。でも、なんか、一目見てすごく欲しくなって……こんなこと初めてっス」 
「そうか」 
ウキウキと話すリョーマに手塚は柔らかく目を細める。 
だが駅を目の前にして、手塚は急に足を止めた。 
「部長?」 
「すまない、ちょっと用事を思い出した。今日はここで」 
「え……ぁ、そっスか……ういっス。じゃあ……」 
「すまんな。買っておかなくてはならないものを思い出したんだ。明日は出発の前に少しだけ部活にも顔を出すから……また明日」 
「ういっス、また明日」 
微笑むリョーマに手塚も微笑んで頷いた。 
「気をつけて帰れよ。今日はありがとう、越前」 
リョーマは頷いて切符売り場に向かった。少し歩いて振り返ると、もう手塚の姿はなかった。 
(治療で行くところに持っていくもの、買うのかな…) 
リョーマは小さく溜息を吐くと、切符を買って改札を通り抜けた。 
楽しかった時間が唐突に終わってしまったことに、ほんの少し落胆している自分に気付く。 
(べつに……もっと部長と話がしたいとか…思ってないし……) 
頭ではそう思いつつも、感情の方は小さな寂しさを訴えてくる。 
ホームに立ち、電車を待ちながら、リョーマは沈みかけている気分を変えるために先程買ったばかりのリングを巾着から取り出して指に嵌めてみた。 
「……うん、やっぱ、買って良かった」 
買ったばかりとは思えないほど、そのリングはリョーマの指にしっくりと馴染んでいた。 
アンティーク加工の施されたリングは程良いボリュームを持っていて、優美な曲線とところどころの透かし細工が絶妙に絡み合い、不思議なフォルムを生み出し
ている。 
「…部長を誘ってよかったな…」 
充実した楽しい時間を過ごせたのも、こんなにも気に入るリングを手に入れることが出来たのも、すべてがなぜか手塚のおかげのような気がした。 
リョーマは小さく微笑みながらリングを唇に当てる。 
(ありがと……部長…) 
さっき別れた手塚のことばかりが頭に浮かぶ。 
初めて知った手塚の素顔は、思っていたよりもずっと気さくで、優しくて、カッコイイと、リョーマには思えた。 
「このリング、部長のこと見直した記念になるな…」 
リングを見つめながら小さく呟くと、なぜかそのリングが一瞬熱を持ったように思えた。 
だがそれはほんの一瞬のことだったので、リョーマは気のせいだと思うことにした。 
ホームに電車が入ってくる。 
昼間にしては混んでいる車内に乗り込みながら、リョーマはふと、窓の外に視線を向ける。 
(誰かのために勝つっていうのも、たまにはいっか…) 
手塚を倒したい気持ちに変わりはない。 
自分のために強くなりたいと思う気持ちにも、変化などない。むしろそれは日に日に強くなるほどだ。 
だが、今は、やむを得ず青学を離れなくてはならない手塚のためにも、関東大会を勝ち抜こうと思う。 
自分のレベルアップだけではなく、手塚の夢を叶える手伝いもしてやりたいと、思う。 
(オレには関係ないんだけどね) 
青学自体には興味なんてない。 
だが、青学の勝利は、イコール自分の、そして手塚の勝利になる。 
昨日までは手塚の夢などに興味はなかったが、今は、それがリョーマの夢になってしまったかのように、それの実現へ向けて全力を尽くそうと思う自分がいる。 
「………」 
リョーマは黙ったまま、また右手のリングを見つめた。 
(関係なかったけど……) 
今までのように手塚とは何も関係などないと思うには、今日過ごした手塚との時間はリョーマにとってはあまりにも新鮮すぎた。 
新鮮で、大切な時間に思えた。 
(アンタとなら……関係があってもいい、かな…) 
先輩と後輩という関係、ライバルという関係、同じく高みを目指す同志のような関係、そういう一言で表せない関係があってもいいとリョーマは思う。 
そんなふうに思うようになるなど、昨日までの自分では考えられなかった。 
(これのせいかな……) 
なぜだか、右手の薬指に嵌めたリングが、手塚と自分を関係づけるもののように思えた。 
         
         
         
そして、それがただの思い込みではないということを、リョーマは後に、身を以て知ることになるのであった。 
         
         
         
         
         
         
        
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        20051111 
        
         
         
          
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