  手料理
  
  <1>
  
      
  リョーマは辺りを見回して、不二と菊丸の姿を探しながら住宅街の中を駆け抜ける。 
      「どこにいるのかな……あ」 
      「お、越前」 
      角を曲がった先、車道脇の歩道を市ヶ谷がこちらに向かって歩いてくるのが見えた。市ヶ谷もリョーマを見つけたらしく、軽く手を挙げて走り寄ってくる。 
      「手塚先輩の家の近くの公園って、この道を真っ直ぐ行けばいいのか?」 
      「そうっスよ。今日は一人なんスか?」 
      「現地集合なんだよ。…ったく、いきなり呼びつけやがって。人使い荒いぞ、お前」 
      大きく溜息を吐きながら、それでもニヤッと笑ってくれる市ヶ谷に、リョーマはほんの少し感謝する。 
      「見回りに協力してくれるのって、アンタのファンの女子なんスよね。あんまり危険なことはしないように、まとめ役の人に言ってくれました?」 
      「ああ、ちゃんと言ってある。それで、さっきから俺の携帯にちょこちょこと連絡があるんだけどさ。なんか、黒っぽい服装に帽子被って自転車に乗ってるって言う、いかにも怪しげな男があっちこっちに出没してるぜ?」 
      「あっちこっちに出没?」 
      「ああ、全然違う地域からほとんど同時に連絡が来たりするみたいなんだ」 
      「ふーん……」 
      リョーマは視線を足下に落として少し考え込んだ。 
      「いかにも、っていうのはフェイクなのかな…」 
      「フェイク?」 
      腕を組んで怪訝そうに首を傾げる市ヶ谷に、リョーマは眉を寄せて頷いてみせた。 
      「フェイク、つまりそのいかにも怪しげな奴らは囮みたいなもので、本物はもっと違う……」 
      「本物って?」 
      「放火魔」 
      「はぁっ!?」 
      怪しげな人物をチェックしろとは言われたものの、それが「放火魔」だというのを初めて聞かされた市ヶ谷は、口をパックリ開けて言葉を失った。 
      「……なんでそんなモンをお前らが追っかけているんだよ」 
      「話すと長くなるからパス。それよりこの先の方でテニス部の先輩見かけなかったっスか?」 
      「いや?この先に青学の生徒はいなかったぜ?」 
      リョーマは「そっスか」と呟いて前髪をくしゃりと掻き上げた。 
      「しょうがないか……ねえ、市ヶ谷先輩はもう少し見回り続けてくれません?」 
      「続けたら、あとでキスくらいさせてくれるのか?」 
      「なんで?アンタとキスするなんてイヤっスよ」 
      「はー……」 
      市ヶ谷は額に手を当てて天を仰いだ。 
      「お前、悪魔」 
      「は?意味わかんないっス」 
      「もーいいや。とりあえず俺は公園に向かいながらもう少し見回ってやるよ。お前はどこに行くんだ?」 
      リョーマは小さく溜息を吐いた。 
      「…先輩探してるんだけど見つからなくて……」 
      そこまで言いかけて、狭い歩道を塞いでいたリョーマは通行人のために少し身体をずらした。向かいから歩いてきた若い男が「すみません」と言いながら軽く会釈してリョーマたちの横を通り過ぎる。 
      「…………」 
      リョーマは相手につられてペコリと軽く頭を下げたまま、擦れ違った男を視線で追いかけた。 
      黙ったまま男の背中を見つめ続けるリョーマに、市ヶ谷が怪訝な表情をした。 
      「………どした?越前」 
      「あの人……なんか妙な匂いがした」 
      「匂い?」 
      男を見つめたままリョーマが頷く。 
      「なんか……鼻につんと来るような……きつい…」 
      「そうか?」 
      「……市ヶ谷先輩、オレはあいつをつけてみるから、部長にこのこと伝えてくれないっスか?」 
      「あー、はいはい、わかった。気をつけろよ。まだ俺はお前のこと諦めたわけじゃねえんだからよ。誰だかわかんねえヤツに変なコトされるなよ?」 
      「なにそれ。バカじゃないの?アンタじゃあるまいし」 
      短く言い捨ててリョーマは歩き出した。  
      背後で市ヶ谷の大きな溜息が聞こえたが、リョーマは振り返らずに、目の前の男を見失わないようにすることに集中した。
 
 
  『妙な匂いのする男』はしばらく歩いたあとで、いきなりしゃがみ込んで靴の紐を直し始めた。 
      見た目は好青年。ストライプのシャツに白っぽいジャケットを羽織り、ブラックデニムのパンツを穿いている。身体の線は細く、先程擦れ違った時の様子だけではわからないかもしれないが、特に目立った特徴もない、普通の男だった。 
      電柱に身を隠して、だいぶ距離を置いて男を観察しながらリョーマは「オレにも携帯があれば…」と苛立ちを感じていた。 
      「絶対に母さんに言って、携帯買ってもらおう…」 
      しばらくして立ち上がった男は、またゆっくりと歩き始めた。 
      (このまま行くと部長の家の前?) 
      だがリョーマがそう思った途端、男は右に折れて歩いていった。 
      (そっちなら桃先輩たちがいる、かも) 
      充分に距離を取って、リョーマも男が曲がった角を右に曲がった。 
      しばらく歩くと、男はまたしゃがみ込んで靴紐を直し始めた。 
      (よく解ける紐だな……結び方が甘いんじゃないの…?) 
      両足の靴紐を結び直した男は、また立ち上がってゆっくりと歩き出す。リョーマも足音を消して歩き始める。 
      それから男は何度も角を曲がり、何度も靴紐を結び直した。その度にリョーマも立ち止まり、息を潜めて男を観察する。 
      (変だ……こんなに何度も結び直すなんて) 
      しばらく男の後をつけて歩いているうちに、リョーマは見慣れた一角に出た。 
      (ここは……もうすぐ部長の家?) 
      グルグルと回り回って、結局手塚の家の前に出たようだった。  
      リョーマは少しだけホッとして家の前にいるであろう手塚の姿を目で探す。だが、すでに辺りは闇が深くなりつつあり、遠くから見たのでは手塚を捜し出すことは出来なかった。 
      手塚を目で捜しているうちに、リョーマは男の姿が視界から消えていることに気づいた。 
      「ヤバっ…」 
      慌てて手塚の家の前に躍り出たリョーマは、キョロキョロと辺りを見回したが、男の姿は見あたらない。手塚の姿もなかった。 
      手塚の家にはもちろん明かりは灯っておらず、手塚が言っていたように、夜になっても家人がいないことが誰の目にもわかるようになってしまっている。 
      また、玄関の脇や庭へ通じる狭い通り道に何ヶ所かブルーシートをかけた材料置き場のようなものがあり、この家が何かの工事のために空き家になっていることが安易に想像できた。 
      「本当に……恰好の獲物、って感じ…」 
      「ねえ君、ここの人?」 
      「え?」 
      いきなり背後から声をかけられ、リョーマが驚いて振り向くと、そこにはリョーマがずっと後をつけ続けていた男が立っていた。 
      「違いますけど?」 
      平静を装ってリョーマが答える。 
      「そっか。…それで、なんで君は俺の後をつけてきたわけ?」 
      「…っ」 
      リョーマの身体がビクリと揺れた。 
      男は探るようにリョーマを見つめている。 
      その、男の瞳を見て、リョーマは背筋が寒くなる思いがした。 
      (なんだ、この人の目は……っ) 
      その瞳にはなにも映っていなかった。まるで、なにもかもを吸い込むような、底の知れない闇色の目をしていた。 
      竦みそうになる身体を叱咤して、リョーマは強気に微笑んでみせる。 
      「…なんだ、つけていたの、バレてたんだ?」 
      「………」 
      男は少しも表情を崩さずに、ただじっとリョーマを見つめている。 
      「アンタはなにしているの?暇ならオレと遊ばない?」 
      リョーマの言葉に男はほんの少し眉を上げた。 
      「…男が好きなの?」 
      「さあね。ただ、今、片想いしてる人に、アンタ、似てるんだ」 
      リョーマは自分でも驚くほど自然に話していた。もちろん、この男と手塚とは似ても似つかないのだが、片想いしているのは本当のことだったからなのかもしれない。 
      「へえ……片想い、なんだ…」 
      男の目が一瞬だけ揺らめいた。 
      「じゃあ慰めてあげようか?」 
      男がうっすらと笑みを浮かべる。リョーマの全身を激しい嫌悪感が駆け抜けた。 
      「……やっぱいいっス。よく見たら、アンタ似てない…」 
      「目を閉じていれば、顔なんてわかんないよ。さあ…」 
      男が差し出す右手を、リョーマは思いきり叩いて払い除けた。 
      「怖いの?大丈夫だよ。すぐよくしてあげるから、少し眠ってて?」 
      「え?」 
      見た目と違い、ひどく俊敏な動きでリョーマの背後に回り込んだ男は、ポケットに突っ込んでいた左手を出してリョーマの口を押さえ込んだ。その手にはハンカチ。 
      (しまった!この匂い…っ) 
      市ヶ谷たちが自分に嗅がせた薬品と同じ匂いがしたので、リョーマは咄嗟に息を止めた。少し藻掻くフリをしてから、ぐったりと力を抜き、気絶したフリをする。 
      「…今日はいい日だなぁ。燃やす前にこんな可愛い子が手に入るなんて…」 
      (間違いない。やっぱりこいつが放火魔だ……っ) 
      今になって思えば、この男は靴紐を直すフリをして、辺りを物色していたに違いない。 
      男はリョーマの身体を軽々と抱き上げて、手塚の家の門扉を開けた。塀と家の間の細い道をゆっくりと抜け、裏の勝手口の前に出る。 
      男が歩く振動にゆさゆさと揺さぶられているうち、リョーマは眩暈を起こしたように頭がクラクラとしてきた。 
      (ヤバイな…ちょっと吸い込んじゃったかも…) 
      リョーマが顔を顰めてなんとか正気を保とうとしていると、急に男の足が止まった。 
      「ここでいいかな…」 
      ゆっくりとリョーマの身体が地面に下ろされる。 
      (くっそぉ……身体に力が入んない…) 
      男は、投げ出されているリョーマの両腕を背中に回し、親指だけを紐のようなものできつく括った。それだけで腕の自由が利かなくなることを、男は知っているのだ。 
      続いて両足が縛られる。すぐには解けないようにきつく縛られ、リョーマは微かに痛みを感じて小さく呻いた。 
      「あれ?なんだ、まだ意識があるの?しょうがないなぁ。ちゃんと吸い込まなきゃダメじゃない」 
      そう言って笑うと、男はまた左のポケットからハンカチを取り出して、小さな小瓶に入った液体を染みこませてからリョーマの口と鼻を塞いだ。 
      「大丈夫だよ。眠っているうちにいい気持ちにしてあげるから」 
      なんとか息を止めて吸い込まないように堪えていたリョーマだが、今度は念入りにハンカチを押しつけられてしまい、やむなく一呼吸分、その匂いを吸い込んでしまった。 
      途端に視界が狭くなり始め、身体が鉛のように重くなる。 
      「おやすみ。準備が出来たら、綺麗な炎、見せてあげるからね…」 
      優しくも聞こえる男の言葉に背筋を凍らせながら、リョーマの意識はどんどん暗い淵へと吸い込まれてゆく。 
      (部長……) 
      今度こそダメかもしれない、とリョーマは思った。 
      この男は、あの市ヶ谷たちのように悪ぶった「犯罪者もどき」ではなく、紛れもなく、本当の、本物の犯罪者なのだ。 
      それに、学校のような限られた敷地内ならともかく、こんなにも広範囲な地区で、これから物陰かどこかに隠されるだろう自分を見つけ出すことなど、誰にも出来はしないだろう。 
      例え、あの市ヶ谷たちとの一件の時、奇跡のように現れてくれた手塚でさえ。 
      ただ、ひとつ希望があるとすれば、今すぐ手塚が戻り、自分の家の敷地内をしっかりと見回ってくれたなら、もしかしたらリョーマを見つけ出してくれるかもしれない。 
      (部長……どうして、ここに…いないんスか……) 
      どうして、自分の傍にいてくれないのか。 
      (好きって、言えば良かったのかな……) 
      そうしたら、今この時も、手塚は傍にいてくれたかもしれない。 
      (そうだ、オムライス、作るって約束したんだっけ……それに…部長の目玉焼き…もう一回食べたかったな……) 
      こんな場面に似合わないような、手塚との穏やかな日々がリョーマの脳裏を駆け抜けた。 
      「ぶ…ちょ…」 
      ガクリと、完全にリョーマの身体から力が尽きたのを見下ろして、男は静かに微笑んだ。
 
 
 
 
  *****
 
 
 
 
  「不二、菊丸!」 
      漸く灯り始めた街灯の下、細い小道に入ろうとしていた二人を、手塚が呼び止めた。 
      「手塚?どうしたの?」 
      不二が目を丸くする。その横で菊丸も同じように目を見開いて、息を切らす手塚を見つめた。 
      「越前を、見なかったか?」 
      「さっき乾にも訊かれたけど、僕たちは見てないんだ。どうかしたの?」 
      「お前たちのところに行くと行ってこっちの方に来たはずなんだが……見つからないんだ」 
      手塚は大きく息を吐き出すと、なんとか呼吸を整えた。 
      「僕たち、結構細い道に入ったりしていたからかな。……僕たちも一緒に探そうか?」 
      「いや、いい。気に留めておいてくれれば、それで…」 
      「見つけたら捕まえておくから」 
      「ああ」 
      頷いて、手塚は走り出そうとした足を止めた。ひとつ先の街灯の下、こちらに歩いてくる人物がいた。 
      「ぁ、手塚先輩」 
      市ヶ谷だった。ズボンのポケットに両手を突っ込んだまま「やっと見つけた」と大きく溜息を吐く。 
      「何か用か?」 
      剣呑な手塚の瞳に、市ヶ谷は一瞬たじろいだ。視線をずらすと、横にいる不二や菊丸も、あまり穏やかではない瞳で見つめている。 
      市ヶ谷はもう一度小さく溜息を吐くと、めげずに手塚へ真っ直ぐ瞳を向けた。 
      「さっき、いや、結構前っスけど、越前に会って…」 
      「なに?」 
      瞳を鋭く光らせながら、手塚が市ヶ谷ににじり寄る。 
      「……それで?」 
      「え、ああ、越前が『変な匂いがするヤツ』を追いかけていったっス」 
      「変な匂い?」 
      菊丸が首を傾げる横で、不二の瞳がスッと細められた。 
      手塚もきつく眉を寄せている。 
      「なんか、鼻につんと来る匂いがしたとかなんとか……俺はわかんなかったっスけど…」 
      「そいつをつけていったのか、越前は」 
      「そうっスよ。この道から二・三本南寄りの道から、西の方に歩いていったっス」 
      「わかった。……市ヶ谷」 
      「!………なんスか」 
      いきなり手塚に名を呼ばれて、市ヶ谷はひどく驚いたように目を見開いた。 
      「俺はお前があいつにしたことを許せてはいない。だが、あいつはお前を許すと言った。だからもう、俺も、あの件に関しては、お前を責めるのはやめる」 
      「は……?」 
      「…手を貸してくれてありがとう、市ヶ谷。感謝する」 
      「!」 
      そう言い残して、手塚は背を向けて走り出した。 
      「………」 
      「心が広いんだか狭いんだがわからないよね、手塚って」 
      どこか呆然としたように手塚を見送る市ヶ谷に向かって、溜息混じりにそう言って不二が笑った。 
      「本当は許していないけど、越前がもういいって言ったから手塚も忘れるってことでしょ。越前が許さなかったら、君はずっと手塚からすごい目で睨まれることになるところだったよ」 
      「………やっぱ…あの二人はデキてるんスか…」 
      ボソッと呟く市ヶ谷に、不二も菊丸も困ったように笑った。 
      「そうだったら、僕たちもこんなにヤキモキしないんだけどね…」 
      「え……」 
      「ところで、越前が追っていったヤツのこと、もっと詳しく教えてくれない?」 
      それまでの表情を一変させ、鋭い目を市ヶ谷に向けながら不二が言った。 
      「ああ……なんか、普通のヤツっスよ。確かストライプのシャツ着て、白っぽいジャケット着て、黒っぽいデニム…かな?穿いてて……気の弱そうな…すごく痩せてる男」 
      「ん、わかった。この情報、乾にも連絡しておこう」 
      「俺が連絡するにゃ」 
      菊丸が「やっと俺の出番」とばかりに携帯を取り出してニッコリ笑った。 
      「えーと、乾の電話番号…」 
      かけようとしたところでいきなり某アイドルグループの軽快な着メロが鳴り響き、驚いた菊丸は携帯を落としそうになった。 
      「はいはいは〜い、あれ?大石からにゃ?……もしもし?」 
      『英二、そっちで白っぽいジャケットにストライプのシャツ着た黒っぽいズボン穿いた細身のヤツ、見かけなかったか?』 
      「え?な、なんで大石がそいつ知っているのにゃ?」 
      『え?』 
      「おチビがそいつ追っかけてどっか行っちゃったにゃん」 
      『なんだって!』 
      携帯から漏れ出た大石の叫ぶ声が不二の耳にも届いた。 
      『その男、放火魔かもしれないんだ。不自然なほど靴紐を結び直したり、立ち止まったりしていて、俺たちずっとつけていたんだけど見失っちゃって。早く越前を見つけ出した方がいい!今から俺たちもそっちに行くから!』 
      「う、うん、え?あ、今いるところは……」 
      話を続ける菊丸を、眉を顰めながら見つめていた不二の携帯が、鳴った。 
      「もしもし、乾?」 
      『複数見かける怪しげな風体の奴らの目的がわかったぞ』 
      「え?」 
      少しだけいつもよりも早口で話す乾の言葉に、不二は目を細めた。 
      『彼らはネットで放火魔が密かに募っていた〈囮役〉の奴らだ。怪しげな恰好をしてこの辺りを自転車で動き回り、警察や追跡者の目を逸らさせるのが目的のようだ』 
      不二はきつく眉を寄せて宙を睨む。 
      「どこでその情報を?」 
      『海堂が、その怪しげなヤツを一人尾行してくれたんだが、そいつが見回っていた警察官に職務質問にあってな。その警官との会話を聞いていたんだ。報酬をまだもらっていないから罪にならないと思ったのか、あっさり喋っていたらしい』 
      「なるほどね」 
      頷いてから、不二は自分を落ち着かせるように深く息を吐いた。 
      「乾、実は越前が……」 
      不二は市ヶ谷の話を簡潔に乾に伝えた。 
      『まずいな……一度集まろう。手塚の家の前でいいか?』 
      「うん。今からこっちに大石たちが来るみたいだから、合流してから行くよ」 
      『わかった』 
      不二が電話を終えたのを見て菊丸が口を開いた。 
      「桃ちんには?」 
      「乾がかけるんじゃないかな」 
      「そだね」 
      「君は先に、君たちの集合場所へ行っていていいよ」 
      不二に言われて黙ったまま頷くと、市ヶ谷は西の方へと走っていった。 
      「越前……無茶してないといいけど……」 
      不安げな不二の言葉に、菊丸も眉を寄せて頷いた。
 
 
 
 
  市ヶ谷がリョーマと会ったという地点までとりあえず足を運んだ手塚は、そこから西へ向かって、また走り始めた。 
      辺りはすっかり暗闇と化し、数メートルおきにある街灯の明かりで、かろうじて視界が保たれていた。 
      家々の窓から漏れる明かりは塀によってかなり遮断され、足下に暗く影を落としている。 
      (細い道に入り込まれたら見つけられないかもしれない…) 
      そう思いかけた手塚は、「いや」と呟いて首を横に振った。 
      (諦めない。絶対に越前を見つけ出す。どんなことをしても、必ず…!) 
      そして。 
      その時こそ自分は、リョーマを抱き締めて想いを告げようと思う。 
      だから。 
      (お前も諦めるな、越前!) 
      手塚は歯を食いしばった。どうしても湧き上がりそうになる不安を噛み殺すように。
 
 
  なるべく人通りの少ない道を選んでリョーマを探す。 
      通りの一本一本に目を向け、人がいればさりげなく走り寄って、その傍にリョーマがいないか確かめた。 
      (もう俺の家か…) 
      「ん?」 
      家の前には桃城たちがいるはずだったが、どこにも見あたらなかった。自分とリョーマのバッグが向かいの電柱の横に立てかけたままになっている。 
      手塚は自分の携帯を取り出して着信がなかったか確認したが、一件も電話は入っていなかった。 
      溜息をついて、携帯をポケットにしまおうとした時、自分の家の奥から、何か物音が聞こえた気がした。 
      「………?」 
      手塚は携帯をマナーモードに切り替えてから、足音を忍ばせて、様子を窺いながら自分の家の門扉をゆっくりと開けた。 
      裏の勝手口の方から、静かな、人の話し声のようなものが聞こえる。 
      「あれ?なんだ、まだ意識があるの?しょうがないなぁ。ちゃんと吸い込まなきゃダメじゃない」 
      手塚はハッと目を見開き、その場に出ていこうとして後ろから腕を掴まれた。 
      「な…ッ」 
      「しっ、俺です、桃城っス」 
      「…?」 
      手塚は口から出かかった言葉を飲み込んで小さく息を吐いた。 
      「どこにいたんだ」 
      「玄関脇のブルーシートの影に。越前のヤツ、どうやら犯人らしきヤツをつけてきて、とっ捕まっちまったみたいっス」 
      手塚はきつく眉を寄せて桃城を睨んだ。 
      「お前はそれをただ見ていたのか」 
      「……そうっスよ。越前の苦労を無駄にしないために」 
      「……っ」 
      手塚はギリッと奥歯を噛み締めた。桃城を殴りつけたい衝動に駆られたが、今は、そうすべきではないと自分に言い聞かせる。 
      「誠さん、スタンバって」 
      「ああ」 
      桃城に促され、誠はカメラを抱えたまま、放火魔とは反対側に出るように庭の方へそっと歩いていった。 
      「大丈夫だよ。眠っているうちにいい気持ちにしてあげるから」 
      勝手口の方からまた微かに声が聞こえる。 
      手塚はグッと両手を握り締めた。怒りのあまり、全身が小刻みに震える。 
      「おやすみ。準備が出来たら、綺麗な炎、見せてあげるからね…」 
      「ぶ…ちょ…」 
      小さな、とても小さな、消えてしまいそうなリョーマの声が、聞こえた。 
      それを聴いた瞬間、手塚から、ストンと表情が抜け落ちた。 
      「部長…?」 
      呼ばれて僅かに振り返った手塚を見て、桃城が息を飲んで目を見開いた。 
      静かな、だが、すべてを威圧するような青白い怒りの炎が、手塚の全身にまとわりついているようだった。 
      何も言わず、手塚がゆっくりと歩き出す。 
      「待っ……」 
      手塚を止めようとして、しかし、桃城にはそれが出来なかった。手塚に触れることさえ出来なかった。触れた瞬間、自分の身もただではすまないのではないかと、そんな恐怖が一瞬、桃城の胸をよぎったからだ。 
      そのまま犯人のもとへ向かうと思われた手塚は、思いの外冷静に、角のところで息を殺して犯人の行動を観察し始めた。 
      男は、嬉々とした表情で、傍に摘んであった古新聞の束を解し、リョーマの周りに並べ始める。 
      すべて並べ終わると、男はポケットから、液体が1リットルほど入りそうな瓶を取り出し、古新聞に振り撒き始めた。辺りに、揮発油独特の、つんと鼻を突く異臭が漂う。そうしてすべて撒き終え、空になった瓶にもう一度フタをしてポケットにしまい込んでから、徐にライターを取り出した。 
      「さあ、いくよ…」 
      男の瞳が暗闇でもわかるほどに爛々と禍々しい光りを帯びる。息遣いも荒くなり、男が異常なほど興奮している様子が伝わってきた。 
      二・三歩後退った男がライターに火を点し、まさに古新聞めがけて投げようとしたその瞬間、庭の方でフラッシュが焚かれ、連続してシャッターを切る音が鳴り響いた。 
      「な、なんだっ」 
      怯んだ男が何かに躓いて尻餅をついた。その衝撃で男の手から火のついたままのライターが零れ落ちる。 
      「あっ」 
      「…っ!」 
      ボウッと音がして、滑るように淡い色の炎が古新聞の上に広がった。 
      「うわっ!しまった!」 
      思わず桃城が声を上げた。 
      「部長…っ」 
      桃城が視線を向けるより早く、手塚は炎の中に飛び込んでいた。 
      「部長ッ!越前ッ!」 
      桃城は慌てて学ランを脱いで炎を鎮めようと振り回し始める。だが炎の勢いは凄まじく、忽ち手塚とリョーマに襲いかかってきた。 どうやら液体は新聞以外にもあちこちに撒かれていたようで、あっという間に二人は炎に囲まれてしまった。 
      「越前!」 
      手塚はリョーマの名を叫びながらぐったりした身体を揺さぶった。だがリョーマが目覚める気配は全くなく、苦悶に歪められたまま意識をなくしているリョーマの顔を覗き込み、手塚は顔を顰めた。 
      「越前…」 一瞬だけ力いっぱいリョーマを抱き締めてから、手塚は背後の炎を見遣り、グッと顎を引いた。 
      (お前は俺が護ってやる) 
      手塚はリョーマを抱き寄せて、スクッと立ち上がった。 
      「行くぞ、越前」 
      リョーマの身体をギュッと抱き締めながら、手塚は炎に向けて突っ込んでいった。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
  *****
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
  頭の奥の方がズキリと痛んだ。 
      「……ってぇ…」 
      「…目が覚めたか」 
      「え」 
      ハッとして、リョーマは声のした方を見た。見た、というよりも、その声の主に寄りかかるようにしている自分に気づいたリョーマは慌てて身体を離した。 
      「部長!?あれ?なに?ここ、……タクシー?」 
      「ああ。もうすぐ着くと思うが、それまで寝ていていいぞ」 
      「え、あの、なんで?…いや、それより、放火魔は?部長の家は燃やされてない?先輩たちも、どうなって……」 
      次々に繰り出される質問に手塚はふっと微笑むと、落ち着かせるように優しくポンポンとリョーマの背中を叩いてから、その身体を引き寄せて自分に寄りかからせた。 
      「あ…」 
      「あの放火魔は捕まえた。怪我人も一人もいない。俺の家も勝手口付近が焼けただけですんだ。安心しろ」 
      「………」 
      リョーマは大きく目を見開いてから、盛大な安堵の溜息を吐いて身体の力を抜いた。 
      「よかった……」 
      「…結局、ここ半年に起きた放火事件は、すべてあの男が起こしたものだったようだ。最初は恋人に料理が不味いと詰られてムシャクシャしていたから、という理由で犯行に及んだようだが、いつしか放火すること自体に快感を感じるようになり、今では放火することでしか快感を得られなくなったと、警官に話していた」 
      静かに語る手塚の声が耳からじわりと流れ込み、密着した身体にも心地よく響く。その、あまりの気持ちよさにリョーマはうっとりと目を閉じた。 
      「近々、俺たちからも事情聴取があると警官が言っていたから、その時はみんなで一緒に行こう」 
      「……うん」 
      リョーマは目を閉じたまま小さく頷き、手塚の腕にそっと触れた。 
      「部長…手、繋いで……」 
      「ん?……ああ」 
      手塚はリョーマの左手に自分の右手の指を深く絡ませて、しっかりと握ってやった。 
      「……部長が…助けてくれたんスか…?」 
      「………ああ」 
      「ありがと……部長……」 
      手塚はギュッとリョーマの手を握り締めた。嬉しくて、リョーマもギュウッと握り返す。 
      「あー…まだちょっと力入んないや……」 
      クスクスと笑うリョーマの髪を、手塚は左手でそっと撫でた。 
      「お前を助けて、犯人を警察に引き渡したあとで、俺は不二や乾や、桃城に、散々に言われた」 
      「え……?なんで?オレのこと助けてくれたのに、なんで部長が散々なこと言われるんスか?」 
      不思議そうに見上げてくるリョーマにチラリと視線を向けてから、手塚はふぅっと、ひとつ溜息を吐いた。 
      「不二に言わせると、俺は、……いや、『俺たち』は、鈍すぎるらしいぞ」 
      「オレたち、って……?」 
      「俺と、お前だ」 
      「え?」 
      リョーマがきょとんと目を丸くする。 
      「いくら男同士とはいえ、何とも思っていない相手と抱き締め合ったりキスしたりするのはおかしいと言われた」 
      「あ……」 
      呟くような手塚の言葉に、ほわりとリョーマの頬が染まる。 
      「アイスクリームの食べさせ合いもしないと断言された」 
      「う…」 
      「市ヶ谷の時もそうだが、なにも手掛かりがないのに相手を見つけ出せるのは、普通では有り得ないとも言われた」 
      「……」 
      「気を失う直前に、ただの先輩の名前を呼ぶヤツもいないと」 
      「……」 
      手塚がグッと、握り合う手に力を込めた。 
      「強引に身体を触られても怒らないのは……有り得ない、と」 
      「……きっと、口でしちゃうのも、ましてや……の、飲んじゃうのなんて、絶対に有り得ないっスよ……」 
      手塚は目を閉じて、小さく息を吐いた。 
      「……そうだな」 
      「フリなんかしなくていいのに、こうやって、恋人繋ぎしちゃうのも、ヘン?」 
      「ああ」 
      手塚はもう一度溜息をつくと、ポケットから一枚の写真を取り出した。 
      「……何よりも……こうして、こんな表情で見つめ合うのが、一番変だと言われた」 
      手塚の差し出す写真を受け取り、車内に差し込む僅かな光りの下でそこに写っているものを見たリョーマは、ほんのりと染まっていた頬を一気に真っ赤に染め変えた。 
      「これ……」 
      「夜の囮作戦をやったあと、コンビニに入る時の俺たちだろうな。……こんな瞳で、互いを見つめ合っていたなんて……」 
      「………」 
      その写真には、コンビニのドアの前で見つめ合う手塚とリョーマの表情がはっきりと映し出されていた。 
      愛しくて堪らないものを見つめるような、恋情と慈しみに満ちた手塚の瞳。そしてそれを見つめ返すリョーマの瞳は普段からは想像もつかないほど柔らかく、頬もほんのりと赤らんで、うっとりと相手を見つめているのが手に取るようにわかった。 
      だがその二人の表情にはどこか憂いも混じっており、相手への切ない想いが、見るものの胸さえも締め付けるほどに、よく伝わってくる。 
      「……桃城は、その写真を彼女から見せられたそうだ。それでお前の本当の心の在処に確信を持ち………焦れていたらしいぞ」 
      「部長……」 
      手塚は、少し困ったような笑みを浮かべた。 
      「あの…っ、オレ……」 
      「お客さん、この辺りでいいですかね?」 
      角を曲がり、見慣れたコンビニが見えてきたところで、タクシーが停車した。 
      「はい。お世話様でした」 
      手塚は料金を支払うと、トランクに入れてもらっていた二人分のバッグを出してから、リョーマに手を差し伸べた。 
      「降りられるか?越前」 
      「……はい」 
      ふらつく足をなんとか踏ん張って、リョーマは自力でタクシーを降りた。 
      静かに走り去るタクシーのテールランプをボンヤリ見つめていたリョーマは、そっと名を呼ばれて漸く手塚を見上げた。 
      「中で話そう。……話したいことが、たくさんあるんだ」 
      「オレも…まだまだ訊きたいこと、いっぱいあるっス」 
      手塚が自分を助け出してくれた時のことや、どうして先輩たちに手塚が詰られることになったのか、そして織原兄妹はどうしたのか。ついでに市ヶ谷たちのことも聞いておこうかとリョーマは思う。 
      だが本当に一番訊きたいことは、そして一番話したい大切なことは、もっと違う話だ。それを考え始めると、今から緊張して、頬も火照ってくる。 
      (今日こそ、ちゃんと話すんだ……ちゃんと、落ち着いて…) 
      リョーマは小さく溜息を吐いてから、ふと、思い出したように「ぁ、そうだ」と言って手塚に笑いかけた。 
      「ねえ、部長。冷蔵庫に卵、ある?」 
      「え?」 
      「約束したじゃないっスか。いつかオレのオムライス食べさせてあげるって。部長の作った目玉焼きもまた食べたいし」 
      あの放火魔に薬を嗅がされて意識が途切れる直前に思い出したささやかな約束。それを果たすことが出来ることを、リョーマは心の底から嬉しく思う。 
      「ああ……じゃあ、買っていくか」 
      手塚はもうすっかり馴染みになったコンビニを見遣った。 
      「アイスもね」 
      「わかっている」 
      微笑んで頷いてから、手塚は胸ポケットを探った。 
      「…家に電話しておけ。さっき俺も家にかけるのに使ってしまったが、あと少しくらいは使えるはずだ」 
      「ぁ、バッテリー。どうしたんスか?」 
      「乾に借りた」 
      リョーマは「ふーん」と気のない返事をしてから手塚の携帯を受け取り、家に電話をかけた。 
      「ぁ、もしもし、母さん?あのさ、今日……」 
      言いかけて、リョーマはそっと手塚に視線を向けた。 
      手塚が、ゆっくりと頷く。リョーマの頬がほんのりと染まった。 
      「今日、部長のところに泊まるから……うん、大丈夫……じゃぁ……」 
      何度も母親に向かって使った「部長のところに泊まる」という言葉が、今日は、今までと違う意味を持っている気がした。 
      加速してゆく鼓動に気づかぬふりをして電話を切ろうとしたリョーマは、「ぁ」と小さく声を上げて手塚を見上げた。 
      「どうした?」 
      「今、バッテリーの電池もなくなったみたいっス」 
      リョーマから携帯を受け取ってチラリと画面を見た手塚は、バッテリーを取り外して携帯と一緒にポケットにしまった。 
      「……ちょうどよかったな」 
      低く呟いた手塚の言葉がしっかりと聞こえて、その意味を深く考えてしまったリョーマは、また頬を真っ赤に染め上げて俯いた。 
      (もう誰の邪魔も入らないって……こと、かな……いや、違うか…単に電池が切れるタイミングが……) 
      あれこれ考え込んでいたリョーマに手塚は怪訝そうな顔をした。 
      「…どうした?……コンビニ、寄っていくんだろう?」 
      「あ、ういっス」 
      まだ怪訝そうに眉を寄せている手塚に、リョーマはクスッと笑みを零した。 
      「お茶も買おうよ。それから、なんか腹減ったから、おにぎりとか……ぁ、そうだ、ケチャップ!」 
      「ああ。オムライスは明日だな」 
      穏やかに微笑みかけられて、リョーマも嬉しそうに微笑み返した。 
      「でも朝は部長特製の目玉焼きがいいっス」 
      歩き出したリョーマに歩調を合わせながら、手塚が小さく苦笑する。 
      「普通の目玉焼きだぞ?」 
      「部長が作ると特別なんスよ」 
      手塚は一瞬真剣な瞳をしてから、ふわりと柔らかく笑う。 
      「…ならばきっと、お前の作るオムライスも、特別な味がするのだろうな」 
      「………それは……わかんないっス。だって……」 
      足を止めてリョーマが手塚を見上げる。 
      「だってそれは、……部長が、どう感じてくれるかだから……部長次第っスよ」 
      呟くようにそう言ってから俯いてしまったリョーマの手を、手塚はそっと握り込んだ。 
      リョーマが驚いて顔を上げる。 
      「部長…?」 
      「だったら大丈夫だ。きっと、今まで味わったこともないような、特別な味がするに決まっている」 
      「………」 
      頬を染め、揺れる瞳で見上げるリョーマに小さく微笑んで、手塚はリョーマの手を握ったまま歩き出した。 
      絡め合う指に、熱が籠もり始める。 
      電車の走る音がなぜかいつもより遠くに聞こえるのも、固いはずのコンクリートの歩道が雲の上を歩いているようにフワフワに感じるのも、まだ身体に残る薬のせいだけではないと、リョーマは思う。 
      (部長が、オレの世界を変える…) 
      そう、あの高架下のコートで手塚と試合をした時から、いや、本当は四月に手塚と出逢った瞬間から、手塚だけが、リョーマを『変える』ことが出来た。 
      誰も触れることの出来なかったリョーマの内面を、精神を、テニスへの想いをも、手塚だけが触れ、その静かな情熱で変えていってくれた。 
      「部長…」 
      「ん?」 
      優しい手塚の声に、リョーマの胸はきつく締め付けられたように苦しくなる。 
      手塚のことが好きすぎて、息ができない。 
      切なさに眩暈がする。 
      自分がこんなふうになるなんて、リョーマは思ってもみなかった。 
      (こんなふうにオレを変えたのも…アンタなんだ……部長…) 
      コンビニまでもうすぐというところで、リョーマは急に立ち止まった。 
      「越前?」 
      「部長……オレ……」 
      手塚がスッと真剣な表情になってリョーマに向き直る。 
      「オレ、部長が……す」 
      ふいに、手塚の指先がリョーマの唇に触れた。 
      「?」 
      目を見開くリョーマに、手塚は微かに溜息をついてから呟くように言った。 
      「まだ……言わないでくれ」 
      「え……」 
      リョーマの唇に触れていた手をそっと下ろして手塚が小さく微笑む。 
      「買い物をして、部屋に戻るまで……まだ、言うな…」 
      「部長…」 
      「そうでないと……」 
      手塚は珍しく口籠もってリョーマから視線を逸らした。 
      「部長…?」 
      「行こう」 
      「………うん」 
      何となく、手塚の言いたいことを察したリョーマは、小さく頷いてまた手塚とともに歩き出した。 
      (オレは、またアンタに変えられちゃうのかな…) 
      不安がないといえば嘘になる。 
      だが、市ヶ谷に捕まった時も、放火魔に捕まった時も、リョーマが思い描くのは手塚のことだけだった。 
      そして、その時胸に湧き上がった後悔の念を、もう二度と味わわないようにしようと決めた。 
      手塚がコンビニのドアを開ける。 
      店内の眩しさに、リョーマはゆっくりと瞬きをした。 
      再びこのコンビニのドアを通り、手塚の部屋のドアを潜った時、きっと自分は、いや、自分たちは、何かが変わるだろう。 
      (でも、この先オレがアンタにどんなふうに変えられても、アンタのことが好きだって想いだけは、きっとアンタでさえ、変えることは出来ないんだ) 
      リョーマの瞳が、真っ直ぐに、手塚の背中に向けられた。 
      (オレは、アンタから目を逸らさない) 
      もう二度と後悔しないために。 
      失くしてからでは遅い大切なものを、決して手放さないように。
  このままずっと、手塚しか見えなくなってもいいと、リョーマは思った。
 
 
 
 
 
  
      続
 
 
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      20050903 
      
      
  
    
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