  日常
  
  <3>
  
      
  練習が進み、部員たちは手塚の号令で、一旦休憩に入った。 
      「ぁ、タオル忘れちゃった。ちょっと部室に行って来ようかな」 
      不二がラケットを置いて部室に行こうとするのへ、手塚も「俺もラケットを替える」と言いながらついていった。 
      「相変わらず仲がいいよな、あの二人」 
      「一年の時から、なんだかんだで一緒にいるんだってな」 
      「ライバルであり、親友、って感じかな。なんか世界が違うよな〜」 
      後ろで呟かれた二年部員たちの言葉に、リョーマはチラリと視線を向けた。 
      「あっ、越前…っ、い、いつからそこに…いや、その、仲がいいからって、べつに部長と不二先輩が付き合ってるとか言うんじゃないからな」 
      「…オレも部長と付き合ってるわけじゃないっスよ」 
      「え?そ、そうなのか?」 
      意外そうに目を見開く二年部員から視線を逸らして、リョーマは自分のラケットに目を留めた。 
      (……そろそろ張り替えかな……) 
      指先でガットに触れながら、無理矢理に思考を切り替えようとしている自分に気づいて小さく苦笑し、リョーマはふと、顔を上げて部室を見遣った。 
      今聴いた先輩たちの話を鵜呑みにしているわけでは、ない。 
      普段の二人を見ていても、そこに恋愛感情など存在しないであろうことはよくわかっているつもりだし、むしろ、手塚の方は不二の含みのある言動に、いつも眉を顰めているほどで、どちらかと言えば二人の関係は『腐れ縁』の様相がある。 
      それでも。 
      「オレもラケット……替えようかな……」 
      誰にともなくそう呟きながら、リョーマはふらりと部室に向かって歩き始めた。
 
  部室の前まで来たリョーマは、ドアが薄く開いたままになっているのを見て首を傾げ、「失礼します」と断ってからそっとドアを開けた。 
      そしてその直後、リョーマは大きく目を見開いて息を止めた。 
      手塚が壁に不二を押しつけて口づけている………ように、リョーマには見えた。 
      「あ…越前」 
      手塚の肩越しに不二と目があったリョーマは、何も言うことも、反応することも出来ず、ただそこに呆然と立ちつくしてしまっていた。 
      「え?…越前…?」 
      手塚が振り返る。 
      その手塚と目があった途端、リョーマは弾かれたように部室の外へと飛び出した。 
      心臓がドキドキと嫌なリズムで音を立てている。 
      (なんで出てきちゃったんだろ……) 
      あの場面で部室を飛び出してしまっては、絶対に変に思われてしまう。リョーマの頭の中では、そうとわかってはいるが、あの場に居たくなかった。 
      瞳が、感情が、いや、全身が、あの二人が触れあっていた事実を拒絶する。 
      だがリョーマは、ハッとしてピタリと足を止めた。 
      (もしかして…部長の好きな人って……) 
      ゆっくりと部室を振り返る。手塚も、不二も、自分を追っては来ない。 
      (そうか……部長の好きな人って……) 
      手塚に、好きな人はどんな人だと訊ねた時、「時折真っ直ぐに見つめていられないほど輝いているヤツ」だと言っていた。 
      (不二先輩……だった…のか…?) 
      テニスをしている時、不二はとても楽しそうにキラキラと笑っている。もちろん、鋭い瞳で相手を見据えている時もあるけれど、練習も、試合も、何もかも含めてテニスを楽しんでいるのがわかる。 
      不二の薄い色の髪と太陽の日差しが相俟って、そこだけがライトを浴びたように輝いて見える時もあった。 
      (ああ……部長は、オレにも、『フリ』をして見せていたんだ…) 
      不二とはなんでもないようなフリ。 
      片想いをしているようなフリ。 
      自分のことを、越前リョーマのことだけを、特別に気に掛けてくれているようなフリ。 
      自分たちが周りの人間に『付き合っているフリ』をして見せたのとは反対のことを、手塚はもうずっと以前から続けていたのだろう。不二と一緒になって。 
      重い足取りで水飲み場に来たリョーマは、帽子を取って頭から水を被った。 
      自分でも気づかぬうちに、少し、期待してしまっていた。 
      こんな形で自分の浅はかさを思い知るなんて。 
      (バカだな……) 
      あるはずのないことなのに、勝手に期待して、希望を見出して、あろう事か、告白までしようだなんて。 
      そんなことをしても、手塚の心の奥には触れることなんて出来ないのに。 
      あまりに熱く手塚が触れてくるから、誤解しそうになっていた。あの手は、きっと不二へ向けたものだったのだ。 
      ずっとリョーマと一緒にいたせいで不二に触れられなくて、それで、リョーマを不二の代わりにしたのだろう。 
      いや、そういえば手塚は 「今まで他人とこんな(性的な)行為をしたことがない」と言っていた。自分よがりなことをしてすまない、と。そうであるならば、触れたことのない不二の肌を想ってリョーマに触れたのかもしれない。 
      情けなくて涙が出た。 
      期待しすぎていた自分に。手塚の優しさを誤解した自分に。 
      そして、こんなにも、手塚への想いを大きくしてしまっていた自分に。 
      流れてゆく水に紛れて一粒の涙の雫はすぐに消えてしまったが、水になど流せない想いが、リョーマの心を抉った。 
      だがふいに、その水が、蛇口の締まる音ともに止まってしまった。 
      不思議に思って顔を上げると、そこに桃城が立っていた。 
      「何やってんだよ、越前」 
      「………」 
      答えずに、じっと桃城を見つめていると、桃城が困ったような笑みを浮かべた。 
      「タオルも持たねぇで……ったく…」 
      そう言いながら桃城はリョーマの頭に自分のタオルを乗せてガシガシと拭いてやる。 
      「…いいっス!」 
      リョーマは、あのマンションで手塚に頭を拭いてもらった時のことを思い出してしまい、思わず強い口調で叫んで桃城の手を払いのけた。 
      「越前…?」 
      「ごめん……桃先輩……」 
      「………」 
      桃城は何も言わずにリョーマの頭をタオルの上からポンポンと叩いた。リョーマが顔を上げようとすると、それを遮るようにギュッと抱き締められた。 
      タオルが、はらりと足下に落ちる。 
      「桃、先…ぱい…?」 
      「……失恋でも、したか?」 
      「………」 
      何も答えようとしないリョーマの顔を、桃城はそっと覗き込んだ。 
      「…越前、お前、バカだろ」 
      「……は?」 
      「バカだ、バカ。すっげーバカ」 
      「なんスか、それ」 
      リョーマはムッとして桃城を突き放した。 
      「俺はな、越前。お前のことを心の底から好きだと思っている人間を、二人知っているぜ」 
      「……え?」 
      「でもお前は、その二人に想われているってコトを、全然わかってねぇんだ」 
      リョーマはきつく眉を寄せて桃城を見つめた。 
      桃城が、何を言っているのかわからない。 
      「……何が、言いたいんスか?」 
      「お前が好きになっちまった相手もわかってる。お前はその人のことが好きすぎて、何も見えなくなってるってこともな」 
      「なんで桃先輩にそんなこと……っ」 
      「好きだからだよ、お前が」 
      「え?」 
      きつく桃城を睨んでいたリョーマの瞳から、ふっと力が抜けた。 
      「お前のことを心の底から好きだと思っている人間、二人のうち、一人は俺だ」 
      「ええっ?」 
      素っ頓狂な声を上げるリョーマに、桃城は苦笑して溜息を吐いた。 
      「やっぱ全然気づいていやがらなかったか……」 
      「え……だって、桃先輩は部長のことが好きなんじゃ…」 
      「…んだそれ?なんでそーなんだよっ」 
      「う……」 
      リョーマは、今朝の自分の誤解を漸く理解した。理解したが、だからといって桃城が失恋することに変わりはない。 
      どう対応すればいいのかと悩みかけたリョーマに、桃城は、ニカッと笑ってみせた。 
      「俺は諦めないぜ?」 
      「え…」 
      「お前が誰を好きでも、俺の気持ちは変わらないんだよ。変えるつもりもないしな。でも…」 
      どこか挑むような瞳で、桃城はリョーマを覗き込んだ。 
      「もう一人の『お前を心の底から好きだ』って人が誰かは、俺の口からは教えてやらねぇよ」 
      「……べつに……そんなの…興味ないから」 
      桃城はふふんと鼻で笑った。 
      リョーマはチラリと桃城を見遣ってから、小さく溜息を吐いた。 
      「………あの、桃先輩は、ここまでオレに告りに来たんスか?」 
      「え?あー……告ったのは勢いだ。ま、近いうちに言おうとは思っていたからいいんだけどよ……そうじゃなくて、織原の件」 
      急に真面目な顔になった桃城がリョーマをじっと見つめた。 
      「…ありがとな、越前。お前、部長と二人だけで話を聴きたいって言ってくれたんだってな」 
      「………」 
      リョーマは黙ったまま静かに頷いた。 
      「今朝、部長も言っていたけど、桃先輩のことを好きな織原って人が、どうしてあんなコトしたのかはだいたいはわかっているんス。でも、どうしてオレと部長だったのかが訊きたくて…」 
      「………そっか」 
      「それから、部長に……謝って欲しくて」 
      桃城は黙ったまま、俯くリョーマを見つめた。 
      「部長、好きな人がいるのに、オレなんかとウワサになっちゃって………きっと、本当はもの凄く迷惑しているんだろうなって、思って…」 
      「ふーん…」 
      「………なんスか、その、気のない返事は」 
      不審そうに眉を顰めて見つめてくるリョーマから視線を外して、桃城は「べつに」と言った。 
      「…それで、織原を呼び出すって件だけど、今日だったらあいつの兄さんも家にいると思うから、直接会いに行った方が早いと思って」 
      「あ……そうなんスか。……そっスね、その方がいいかな……部長にも……」 
      言いかけてリョーマは口を噤んだ。 
      先程、手塚と不二が二人でいるシーンを見て逃げ出してしまった手前、どんな顔をして手塚と話せばいいのかわからない。 
      「……桃先輩から、部長にも伝えておいてください」 
      「え?」 
      「じゃ、そういうことで、お願いしますっ、桃先輩!」 
      リョーマは髪を濡らしたまま帽子を被ってその場から走り出した。 
      「ちょっ……おい、越前っ!」 
      桃城の呼び止める声も聞こえたが、リョーマは振り返らなかった。 
      頭の中にいろいろなことが浮かび、それが全部ごちゃ混ぜになって渦巻いていた。 
      どうしたいのか、どうすればいいのか、リョーマは自分で自分がわからなくなってきた。 
      コートに戻れば、少しは落ち着くような気が、した。
 
 
 
 
  何事もなかったように、いつも通り練習は進み、だいぶ日が傾いた頃に終了した。 
      「越前」 
      コート整備を始めるリョーマに、手塚が歩み寄ってきた。 
      「はい」 
      いつも通りの手塚のポーカーフェイスに、リョーマも負けじといつも通りを装って顔を上げる。 
      「…桃城から話は聴いた。大石にも事情を話して、今日の日誌は大石に届けてもらうことにしたから、すぐに出られるが……それでいいか?」 
      「ういっス」 
      「コート整備が終わるまでに、日誌を書き終えておく。……じゃあ、またあとで」 
      「ういっス」 
      背を向けて部室の方へ歩き出す手塚を見送り、リョーマは小さく眉を寄せた。 
      (笑って、くれなかった……) 
      いつもなら、何か言葉を交わすたびに、手塚は少しだけ微笑んでくれた。なのに今、手塚は、静かな瞳を向けてくるだけで、ほんの少しも微笑んではくれなかった。 
      先程部室で見た光景についても、手塚は何も言うつもりはないらしい。 
      それは当然だと、リョーマは思う。むしろ、あのシーンを見られてしまい、リョーマから二人の関係がばれてしまうことを懸念しているのかもしれない。 
      それでもよかった。 
      手塚が、自分に微笑みかけてくれさえすれば。 
      (もう、終わるんだ……) 
      手塚と過ごした数日間の優しい日常が、ゆっくりと消えてなくなってゆくように、リョーマは感じた。
 
 
 
 
  手塚は歩きながら、握り締めていた両手をゆっくりと開いた。 
      手の平に、自分の爪が食い込んだ痕が残っていた。 
      (もうすぐ…終わるのか……) 
      きつく眉を寄せて手の平の爪の痕を見つめながら、手塚は休憩の際の不二とのやりとりを思い出していた。
 
  「ねえ、手塚。今日にも解決しそうだね。全部」 
      部室に入るなり、不二はニッコリと笑ってそう言った。 
      手塚は「ああ」と短く返事をして自分のバッグからラケットを取り出し、手に持っていたラケットと取り替えた。 
      「…越前のこと、どうするつもり?」 
      「………どういう意味だ?」 
      「越前がね、この数日間は『大事件の連続』だって、キミと同じこと言っていたよ。キミとは何があったか知らないけど、さっきもキミのこと見つめるまなざしが、尋常じゃなかった」 
      「尋常じゃ、ない…?」 
      手塚は怪訝そうに不二を見た。 
      「強姦でもしたの?」 
      「な…っ!」 
      そんなことはしていない、と言おうとして、手塚は口を噤んだ。昨夜と、今朝、自分がリョーマにしたことを思い出したのだ。 
      (あれは……強姦、かもしれない…) 
      リョーマは拒まなかった。「嫌じゃない」と、むしろ、気持ちいいと、微笑んでくれた。 
      だが、もしかしたらリョーマは、拒めなかったのかもしれない。本当なら唾棄すべき行為だったのに、自分を傷つけないために、無理して笑ってくれたのかもしれない。 
      そう思うと、手塚には何も言えなくなってしまった。 
      「図星?」 
      「………」 
      「思ってたより酷い男なんだね、キミは。一時の感情で越前を踏みにじって、事件が解決したら、放り出す気なんだ」 
      「…っ」 
      手塚はラケットを床に落とし、不二の胸ぐらを掴んで壁に押しつけていた。 
      「……わかったふうなことを言うな……っ………俺がどれだけ……っ」 
      胸の痛みに喘ぎながら絞り出されたような手塚の低い声に、不二はスッと瞳を細めた。 
      「自分だけが苦しいとでも思っているの?」 
      「なに……?」 
      「越前はたぶん…………あ、越前」 
      「え?…越前…?」 
      ふわりと表情を変えた不二に気づいて手塚も部室のドアを振り返った。 
      ドアの前で、呆然といったふうに立ち尽くすリョーマと、目があった。 
      「…っ」 
      しかし、目が合った途端、リョーマは弾かれたようにドアから飛び出していってしまった。 
      「越前っ?」 
      追いかけようとして、だが手塚は足を止めた。 
      「……追わないの?」 
      静かな不二の声に、手塚はゆっくりと首を横に振った。 
      「…追いかけてどうするんだ。何を弁解するんだ。俺とあいつは……そんな関係じゃない……」 
      「………」 
      不二が大きな溜息を吐いた。チラリと視線を向ける手塚に、不二は薄く笑ってみせる。 
      「ここまで来ると、二人とも天然記念物並みだよね」 
      「?」 
      不二の言わんとする意味がわからずに、手塚はきつく眉を寄せる。 
      「ねえ、手塚。キミは試合中、相手の動きを読んで打ち返したり、相手の動きを予測してボールに回転を加えることで自分の元に戻ってくるように出来るのはなぜ?」 
      「え?」 
      「どうやって相手の動きを読むの?」 
      手塚は怪訝そうに不二を見つめた。今の状況と、その質問がどう結びつくのかが全くわからない。 
      「相手の表情や、クセや、目の動き、それに相手の立場に立って自分なら次はどこに打つかとかを、見たり考えたりして判断するんじゃないの?」 
      「ああ……そうだ」 
      「じゃあ、冷静に観察すれば越前のことも『読める』んじゃないの?」 
      手塚は驚いたように目を見開いた。だがすぐに眉を寄せて俯き加減に首を横に振る。 
      「出来ないの?なぜ?」 
      「………これは、ゲームじゃない」 
      手塚の言葉に、今度は不二が目を見開いた。 
      「試合中は、どうやって相手に勝つかを考えているから冷静になれる。だが俺は越前に勝ちたいわけじゃない」 
      「でも強姦したんでしょ?」 
      「………そう受け取られても仕方がないようなことは、……した」 
      不二は手塚をじっと見つめてから、クシャッと自分の前髪を掻き上げた。 
      「…その時越前はなんて言ったの?」 
      「え…」 
      「強姦まがいのことされて、越前は、キミになんて言ったの?抵抗、されなかった?」 
      珍しく苛立ったように言う不二を見遣って、手塚は頷いた。 
      「抵抗はされなかった。むしろ……」 
      言いかけて、手塚は口を噤んだ。これ以上の説明は、リョーマのプライバシーにも関わることだ。 
      「ふぅん」 
      不二もそれは察したらしく、それ以上は追求しなかった。 
      「じゃあ、越前がキミに気を遣っていると思っているわけだね。部長だから?…それとも他の理由で?」 
      「………」 
      手塚は唇をひき結んだ。つくづく、不二は敵にはしたくない男だと思う。こちらの考えが、不二には筒抜けになっている気すらした。 
      「越前には想いを寄せる相手がいる。……だから、俺に向けているのは恋愛感情ではなくて……どこか、親近感というか……兄への想いのような……そういった類のものなんだろう」 
      不二がクッと笑った。 
      「越前が兄弟のように懐いているのはキミって言うより桃の方だと思うけどね。その論理で言うと、キミがしたことと同じことを桃がしても、越前は抵抗しないってわけだ」 
      「!」 
      手塚はきつい瞳で不二を睨んだ。桃城がリョーマに触れる場面を想像しただけで、手塚は腹の底が冷える気がした。あの柔らかな肌に自分以外の誰かが触れるなど、許せない。 
      だが。 
      「ばかな……」 
      手塚は、自分の思考の危うさに思わず不二から目を逸らして呟いた。 
      リョーマは自分のものではない。なのに、自分以外の者が触れるのを許さないとは、なんというエゴなのだろう。 
      「………これ以上、越前のことには触れないでくれ。……そろそろ戻ろう。練習再開だ」 
      「………手塚、最後にひとつだけ」 
      「…なんだ?」 
      手塚は落ちていたラケットを拾い上げてから不二を振り返った。 
      不二は大きく息を吐くと、小さく微笑む。 
      「もっと素直に行動した方がいいよ。キミはいろいろ考えすぎる傾向があるから。案外、物事はシンプルに出来ているものだよ?」 
      「………」 
      「でも、さっき越前がどうして逃げ出したのか、その理由はよく考えてみて」 
      手塚は小さく眉を顰めただけで何も答えず、不二に背を向けて部室をあとにした。
 
  『案外、物事はシンプルに出来ているものだよ?』 
      同じようなことを、母にも言われた気がする。 
      「シンプル……か」 
      だが手塚にとって、何をどう「シンプルに」考えればいいのかがわからない。 
      ただひとつ、とてもシンプルにわかっていることといえば、自分が、越前リョーマという男を本気で愛し始めているということだけだ。 
      そしてそのリョーマは、同性である手塚国光を恋愛対象になどしないと言うこと。 
      『さっき越前がどうして逃げ出したのか、その理由はよく考えてみて』 
      もう一つ、不二がくれた言葉が、ふと、手塚の足を止めた。 
      (越前が、逃げ出した理由…?) 
      リョーマの立っていた位置からして、自分と不二がどういうふうに見えたのかはだいたい想像が出来る。 
      だがなぜ、「それ」を見てリョーマが逃げ出したのだろうか。 
      (邪魔をしてはいけないとでも、思ったか…) 
      そう思おうとして、手塚は「違う」と思い直した。 
      あの時のリョーマの表情は、明らかに衝撃を受け、切なさに堪えきれずに逃げ出したように見えた。 
      (まさか…) 
      手塚はそっと部室を振り返った。 
      (あいつが好きなのは……不二、なのか?) 
      リョーマの想い人は、リョーマよりも年上でスケールの大きい人間だと言っていた。 
      スケールが大きい、という言い方があっているかは疑問だが、時折不二は、底の知れない深い考えをその心に抱いている時がある。 
      リョーマの想い人が不二だというなら、その想い人が自分以外の相手と触れあっているのを見れば、いたたまれなくもなるだろう。 
      手塚はきつく眉を寄せた。腹の底にどす黒い感情が湧き出しそうになっている。 
      リョーマのファーストキスの相手が不二かもしれないと考えて、手塚はその黒い感情に飲み込まれそうになった。 
      手塚は深く息を吸って、ゆっくりと吐き出す。 
      (だが、越前の身体には、きっと俺以外触れていない) 
      それは確信に近い推測だった。 
      肌に触れた瞬間、リョーマが小さく震えたのを、手塚はしっかりと覚えている。リョーマの熱塊に触れた時のリョーマの表情も、おおよそ「慣れ」など感じなかった。むしろ、初めての経験に戸惑い、ひどく困惑する心の内が手に取るようにわかった。 
      だからきっと、リョーマが他人に触れることを許したのは、自分が初めてなのだ。 
      手塚の心にある黒い感情が少し薄れた。 
      だが、リョーマの想い人が不二である以上、この黒い感情は、二人を見るたびに湧き上がってきてしまうのだろう。 
      リョーマに触れた最初の人間になれたという喜びだけでは飽き足らず、リョーマの中に熱を刻みつける最初の人間にもなろうと思ってしまうかもしれない。 
      手塚は自分でも抑えきれない欲望に、嫌でも気づかずにはいられなかった。 
      そう、だからこそ。 
      これ以上自分の想いが膨らみすぎないように、本当にリョーマを無理矢理犯してしまわないように、この想いを、胸の奥に押し込めておかなければならない。 
      だがそれも今回の事件のすべてが解決するまでのこと。 
      そしてそのあとで、リョーマを驚かせないように、きちんと順序立てて、自分の想いを説明しよう。 
      拒絶されるなら、二度とリョーマの前に姿を現さないようにする覚悟も出来ている。 
      (もうすぐだ……もうすぐ、すべての決着がつく…) 
      自分が進む先にあるのは、今の自分が待ち望んでいるような世界だとは思えないが、それでも、何もせずに、ただありきたりな日常を過ごすことは、きっともう出来ない。それほど、リョーマを想う気持ちは、もう破裂寸前まできているのだ。 
      (どういう形になるかはわからないが、答えは、出るんだ) 
      手塚は自分の心の奥で、最後の覚悟が決まった気がした。 
      
 
 
 
 
 
  
      続
 
 
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      20050802 
      
      
  
    
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