  日常
  
  <1>
  
      
  いつものように朝が来る。 
      そして、いつものように、青学テニス部では朝練が始まろうとしていた。
 
  「おはよう、手塚、越前」 
      「おはようございまーす」 
      「おはよう、大石」 
      校舎から出てきた大石はにこやかだった。今日も貼り出された写真はなかったらしい。 
      三人で部室に向かうと、すでに乾と不二が部室の前に来ていた。 
      「あれ、早いな、乾、不二。待たせちゃってごめん。すぐ開けるから」 
      それぞれ朝の挨拶を交わしながら、五人は部室に入っていった。 
      「でも当番の一年より先に僕たちが来ちゃうのって、どうも恐縮させちゃうみたいだね。僕たちも掲示板を見回る当番でも作ろうか」 
      不二がいつものように微笑みながら言う。 
      「…いや、その必要はない」 
      制服を脱ぎながら手塚が言った言葉に、不二が怪訝そうな顔をした。 
      「それはどういう意味?手塚」 
      「犯人がわかるのは、時間の問題になってきたということだ」 
      「え?」 
      制服を畳んでロッカーに置いてから、手塚がみんなを振り返る。 
      「ほ、本当か?手塚!」 
      大石がホッとしたような、嬉しそうな、期待に満ちた顔で、思わずといったふうに手塚の二の腕を掴んだ。 
      「ああ」 
      手塚がしっかり頷くと、大石はほぅっと溜息を吐いて笑った。 
      「そうか、いよいよ犯人の目星がついたのか。さすが手塚だな」 
      「いや……学校の掲示板に俺たちの写真を貼った犯人の目星が、だ」 
      不二が眉を寄せる。乾は黙ったまま眼鏡の位置を直した。 
      リョーマは、着替えを続けながら微かに溜息を吐いた。 
      「どういう…」 
      困惑する大石に乾が視線を向けた。 
      「…つまり、学校の掲示板に手塚と越前の写真を貼った犯人と、その写真を撮ったであろう人物は別人、ということだ。そうだな?手塚」 
      大石から手塚に視線を移した乾は、手塚が頷くのを見て「やはりそうか…」と口の中で呟いた。 
      「昨日も越前と話をしたんだが、最初の写真を撮った人物と、例のネットの掲示板に書き込みをした人物は同じだと思える。だが、学校の掲示板に写真を貼りだしたのは女子らしいからな。たぶん別人なのではないかと仮説を立ててみたんだ」 
      「なるほどね。そう考えた方が妥当かもしれない…」 
      不二が頷く。 
      「二回目の写真を誰が撮ったのかはわからないが、写真を貼り出した女子については、たぶん、判明するのにさほど時間はかからないと思う。その女子からいろいろ話が聞けるならば、一気に事態は解決へと向かうだろう」 
      「それに、菊丸が親父さんから例の火事の写真を撮って投稿してきた人物の名前を調べてくれると言っていたからな。それがわかるのも今日の予定だ」 
      乾がまた眼鏡の位置を直しながら言った。 
      「………それに」 
      少し、手塚の口調が変わったので、リョーマ以外の三人が、じっと手塚を見つめた。 
      「…俺たちはもう………いや、越前が、家に戻ることになった」 
      「え?」 
      三人はそれぞれに目を見開いた。 
      「じゃ、じゃあ、手塚と越前は……その、も、もう、付き合ってないということか?」 
      「初めから俺たちは…青学テニス部の部長と部員。先輩と後輩と言うだけだ。他に何もない」 
      おずおずと訊いてくる大石に、手塚は淡々と言った。 
      黙ったままだったリョーマも着替えを終えて口を開く。 
      「写真貼った犯人を刺激してみようかって、部長と話しを合わせて付き合ってるフリしてただけっス。大石先輩には黙っていてすみませんでした」 
      ペコリと、リョーマが帽子を取って頭を下げる。 
      「そ、そうだったのか……」 
      「………」 
      「………」 
      どこか安心したような大石とは反対に、不二はきつく眉を寄せた。乾は表情には出さないが、小さく溜息を吐いて腕を組む。 
      「とりあえず今は、情報が入ってくるのを待つだけだ。他には動きようがない」 
      言いながら手塚が背を向けて着替えを再開する。 
      「じゃ、オレ、先に出るっス」 
      「ああ」 
      チラリとリョーマを見遣って頷いた手塚は黙々とウェアを着込んでゆく。 
      リョーマが部室を出て行くのと入れ替わりに、準備当番の一年が数人部室に入ってきて身を固くした。 
      「おっ、おはようございます!部長、副部長、不二先輩、乾先輩!」 
      「ああ、おはよう」 
      「遅くなってすみません!」 
      練習開始時間よりも充分に早いのだが、慌てて着替え始める一年部員を見て大石が笑った。 
      「ああ、気にしないでいいよ。俺たちは、ちょっと用があって早く来ていただけなんだから」 
      「は、はいっ!」 
      「俺も先に行く」 
      わたわたと着替える一年の脇を素通りして、手塚も外に出て行った。 
      「………乾、あの二人、どう思う?」 
      不二が隣で着替える乾にそっと尋ねる。 
      「『一人虚を伝うれば、万人実を伝う』か、もしくは『炒り豆に花』ってところかな」 
      「『嘘から出た実』じゃないの?」 
      乾は眼鏡の位置を直しながらクスッと笑った。 
      「嘘が本当になったのか、それとも、あり得そうにないことがすでに起きていたのか……。どちらにせよ、犯人探しは時間の問題のようだが、あの二人に関しては、時間が経つとどんどん頑なになりそうだ」 
      「そうだね。でも二人とも、この件に関しては他人の意見を素直に聞きそうにないし」 
      「困った『最強カップル』だな」 
      「何の話だ?」 
      不二と乾がクスクス笑っていると、大石が瞳を輝かせて覗き込んできた。 
      「ねえ大石、大石がもし好きな人になかなか想いを告げる勇気が出なかったとして、どうしたら告白する勇気が出る?」 
      「え!」 
      唐突に不二からそう訊かれた大石は、いきなり真っ赤に頬を染めて口籠もった。 
      「そ…そうだな……その時にならないとわからないけど……でも…」 
      「でも?」 
      不二が微笑みながら首を傾げて先を促す。 
      「………もしも、一生に一度のチャンス!とか……何かのきっかけ…みたいのがあったら……言う、かもしれないな」 
      「一生に一度のチャンス、か……」 
      「無人島に二人きり、とかか?」 
      「乾、飛躍しすぎ」 
      不二は笑ってそう言ったが、三人の間に奇妙な沈黙が流れる。 
      「さて、と、僕もそろそろ行くよ」 
      「ああ、俺も」 
      「あ、あれ?二人ともいつの間に着替え終わって……俺もすぐ行くから先に行ってくれ」 
      不二と乾は「お先に」と大石に軽く手を挙げてから部室を出た。 
      「乾…」 
      「……」 
      部室を出た二人の視線の先、コートの手前に手塚が佇んでいた。 
      手塚の瞳は、コートの中の、ただ一人だけを映している。 
      「………ホントに無人島に二人を置き去りにしたくなってきたよ」 
      「よせよ不二。犯罪行為だ」 
      不二は大きな溜息を吐いた。 
      「もどかしいね」 
      「まったくだ」 
      「乾ならどうする?まだ告白してないんでしょ?」 
      いきなり自分のことに話を振られて、乾はちょっと驚いたように不二を見た。 
      「俺だったら………自分で無人島に連れ出すかもしれないな」 
      「犯罪だってば」 
      二人でクスクス笑っていると、手塚がこちらに気づいた。 
      「どうした、二人とも。アップしないのか?」 
      「ちょっと乾と、今日のメニューについて話していたんだよ」 
      「そうか」 
      頷く手塚に不二は苦笑する。 
      「…恋愛に関しても、あれくらい素直に人の言うこと信用してくれたらいいのに」 
      「ああ」 
      二人の大きな溜息は手塚には届かなかった。
 
 
  手塚の見つめる先で、リョーマは黙々とウォーミングアップをしている。 
      (越前……) 
      手塚は、今朝リョーマが一瞬見せた表情が忘れられずにいた。
  いつもと変わらない朝になるはずだった今朝、いつものように目玉焼きを作る手塚の背中に、リョーマの声がかかった。 
      「おはよ、部長」 
      「ああ、おはよう」 
      「皿、出すね」 
      「ん?…ああ、頼む」 
      カチャカチャと音をさせながら皿を持ってきたリョーマは、手塚の隣に立ち、ふと、視線を足下に落とした。 
      「部長………明日から、目玉焼き、一人分でいいっス」 
      「………」 
      「短い間だったけど、お世話になりました」 
      皿を抱えたまま、リョーマが手塚に向かって深く頭を下げた。 
      「…俺の方こそ礼を言いたい」 
      「え…」 
      手塚はゆっくりとリョーマに視線を向けた。 
      「お前と暮らしていて、とても楽しかった。ありがとう」 
      「…っ」 
      リョーマは大きく目を見開いた。そうしてキュッと眉をきつく寄せると、唇を噛んで俯いた。 
      泣くのかと、手塚は思った。 
      それほど、ひどく切なげな顔だった。 
      「またいつでも遊びに来てくれ。あとひと月ほど、俺はここで暮らしているから」 
      「………はい」 
      再び顔を上げたリョーマは、晴れやかな表情をしていた。先程の切なげな影は、その表情のどこにも残っていなかった。
  手塚の脳裏に、あの時のリョーマの表情が浮かぶ。 
      泣きそうに見えた。 
      もし泣いたら、抱き締めてやりたいと、思った。 
      だが、リョーマは泣かなかった。 
      (何をバカなことを……泣くわけが、ない……) 
      手塚はリョーマを見つめながら眉を寄せた。 
      リョーマが少しでもいいから、自分と離れることを「寂しい」と感じてくれたら、と手塚は思う。 
      今日、あのマンションに帰っても、もうリョーマはいない。リョーマの荷物も、あの、二人で毎日のように行ったコンビニから、宅急便で出してしまった。 
      手塚の胸の奥には、どうしようもない寂しさが込み上げてくるのに、リョーマは今朝のあの表情以外、至っていつもと変わりなく見えるのが手塚にはつらい。 
      それはまるで、恋しているのは自分だけなのだと、思い知らされているようで。 
      「………っ」 
      溜息を吐いて、手塚は視線を落とす。 
      (だめだ。こんなことでは、全国大会に、行けなくなる……っ) 
      部活に集中しなければならないと、頭ではわかっている。 
      だが昨夜、リョーマに触れてしまった唇が、そしてこの手が、指先が、リョーマの感触とともに熱い感情を思い起こさせてキリキリと胸を締め付けてくるのだ。 
      それでも。 
      「全員、Bコート前に集合!」 
      手塚は顔を上げて、部員の招集をかけた。 
      今は自分のやるべきことをしなければならないと、痛む心から目を逸らした。
 
 
 
 
  *****
 
 
 
 
  朝練に姿を見せなかった菊丸が、一時間目の始業前に手塚のクラスに顔を出した。 
      「手塚、ちょいちょい」 
      手招きされ、手塚が眉を寄せながら廊下に出る。 
      「朝練に間に合わなかったにゃ。ごめんにゃ」 
      両手を合わせて拝んでくる菊丸に、手塚は溜息を吐いた。 
      「練習を休めばその分自分に返ってくるだけだ。俺に謝らなくてもいい」 
      「うー、キビシイ……」 
      「用はそれだけか?」 
      「違う違う」 
      そう言って慌てて菊丸はポケットから小さなメモを取り出した。 
      「はいこれ、約束の品」 
      「え?……あ」 
      思い当たったように目を見開く手塚に、菊丸は「へへっ」と笑って頷いて見せた。 
      「ホントは社外に漏らしちゃいけない情報らしいけど、友達の一大事だって言って調べてもらったにゃん。で、昨日夜遅くに帰ってきたらしいんだけど、俺、寝ちゃってて。それで朝教えてもらおうと思ったら、父ちゃんってばなかなか起きてくれなくってさ。朝練、出られなかったにゃん」 
      「そうだったのか……すまない、菊丸」 
      始業のチャイムが鳴り始める。 
      「おーっと、時間切れにゃ。またあとでにゃ〜」 
      「ああ。ありがとう」 
      手塚に手を振りながら菊丸は自分のクラスめがけて猛ダッシュしていった。 
      (これが……写真を撮ったかもしれない人物の名前) 
      自分の席に着いてから、手塚はそっと折り畳まれた紙を開いた。 
      『織原 誠(おりはらまこと) 15歳 東京都○△区』 
      さすがに住所は全部書いてなかったが、フルネームと、だいたいの住んでいる場所もわかった。 
      手塚はメモを元通りに折り畳んで胸ポケットにしまい込んだ。 
      (越前にも知らせてやろう…) 
      昼休みになってから、リョーマのクラスへ行こうと、手塚は思った。
 
 
 
 
  *****
 
 
 
 
  昼休み。 
      早めに昼食を済ませた手塚は菊丸がくれた情報を伝えるためにリョーマのクラスへ赴いた。 
      教室を覗き込むと、やはりシンとなってしまったが、手塚は気にかけずにリョーマを探す。 
      しかし、リョーマの姿が見あたらない。 
      「あ、手塚部長」 
      背後から名を呼ばれて手塚は振り返った。 
      「堀尾か。越前を知らないか」 
      「ああ、越前なら、図書館のカウンター当番っス」 
      「そうか。ありがとう、堀尾」 
      「い、いえっ、恐縮ですっ!」 
      手塚はすぐに踵を返して図書館に向かった。
 
 
  「よぅ、越前リョーマ」 
      カウンターに座るリョーマを覗き込むように身を屈めてきた男を見上げて、リョーマは「あ」と言った。 
      「えーと、新宿さんだっけ?池袋さん?秋葉原さんとか?」 
      「てめぇ、山手線になってんぞ」 
      「ぁ、そうか、中央線だった」 
      「はー……」 
      隣に座るもう一人のカウンター当番が吹き出して笑いそうになるのを、市ヶ谷はギロリと睨んで黙らせる。 
      「なんスか?リベンジ?」 
      「ちげーよ。ちゃんと『お言いつけ』を守ってご報告に伺いました!」 
      「へーえ。ずいぶん早いっスね」 
      「おう。隣のクラスの女だった。だからすぐわかったんだ」 
      市ヶ谷は真面目な顔をすると、隣に座るもう一人の当番の生徒には聞こえないように、リョーマに顔を近づけて小声でその女子の名前を言った。 
      「その人のクラスは?」 
      「8組だ。2年8組」 
      「8組……桃先輩と同じクラスだ…」 
      「ああ。よく桃城と話、してるぜ、その女」 
      「え?」 
      目を見開くリョーマに、市ヶ谷は怪訝そうな顔をした。 
      「その話は本当か?」 
      いきなり背後から低い声で問われ、市ヶ谷は一瞬身体を硬直させた。 
      「あ、ああ……手塚先輩っスか……」 
      「部長…」 
      手塚はリョーマをチラリと見て頷いてから、市ヶ谷を鋭い瞳で真っ直ぐに見つめた。 
      「その女子は、桃城と親しいのか?」 
      「さあね。親しいかどうかは知らないっスよ。同じクラスだから、話もするだろうし」 
      「………」 
      手塚は険しい表情のまま何事か考え込んだ。 
      「んじゃ、俺はこれで。ちゃんとアンタらの言うこと聞いたから、これで昨日の件はチャラ、な」 
      「ありがと、市ヶ谷先輩」 
      不自然なほどニッコリとリョーマに微笑まれて、市ヶ谷は意外にも頬を真っ赤に染めた。 
      「あ、そうだ。これ、やるよ」 
      そう言いながら市ヶ谷は胸のポケットから細長い紙切れを取り出した。 
      「なんスか?」 
      「俺らのライブのチケット。青学のOBがやってるライブハウスで、2曲だけ歌わせてもらえるんだ。暇だったら来いよ。再来週の日曜だから」 
      「暇だったらね」 
      チケットを受け取りながらリョーマが素っ気なく言うと、市ヶ谷はガックリと肩を落とした。 
      「お前、ホント、いい性格してるよな。んじゃな、越前」 
      市ヶ谷は手塚にも小さく目礼して図書館を出て行った。言動や見かけの割には案外普通の男かもしれないなと、リョーマはどうでもいいことをチラリと考えた。 
      「部長」 
      「ん?」 
      市ヶ谷が完全に出ていくまでその背中を睨んでいた手塚は、リョーマに呼ばれて表情を和らげながら振り返った。 
      「部長は何でここに?本借りに来たんスか?」 
      「…お前に用があるんだ」 
      「オレ…?」 
      リョーマは嬉しそうに微笑みかけて、だが、すぐに顔を引き締めた。 
      「もしかして菊丸先輩から情報入りました?」 
      「ああ。これがそうだ」 
      手塚は菊丸から渡された紙をそのままリョーマに渡した。 
      「例の女子の名前もわかりましたよ。さっき市ヶ谷先輩が………」 
      言いながら手塚から受け取った紙に目を通したリョーマは、そこに書いてある名前を見た瞬間、大きく目を見開いて黙り込んだ。 
      「………どうした?越前」 
      「部長、この名前……」 
      「え?」 
      困惑したように顔を上げて見つめてくるリョーマを、手塚は訝しげに見つめ返した。
 
 
 
 
  *****
 
 
 
 
  「越前」 
      放課後の部活もいつも通りに終わり、リョーマが他の一年部員と混じってコート整備をしていると、フェンスの外から桃城が声をかけてきた。 
      「なんスか、桃先輩」 
      軽く手招きされて、リョーマは面倒くさそうにフェンス際に歩み寄った。 
      「お前、もう手塚部長と一緒に帰らなくていいんだろ?じゃあ、今日は俺とマックな?奢ってやるぜ?」 
      「………いいっスよ」 
      「じゃ、待ってるからな」 
      「ういーっス」 
      さっさと桃城に背を向けて整備に戻るリョーマを見ながら、桃城は嬉しそうに微笑んだ。 
      (桃先輩にも、いろいろ訊きたいことがあるんだ…) 
      リョーマは、桃城を疑っているわけではない。ただ、確かめたいことがあるのだ。 
      小さく溜息を零してから、リョーマはさっさと整備を終わらせるために、歩調を早めた。
 
 
  部室で着替えようとしていた手塚は、自分の携帯が鳴っていることに気づき、通話ボタンを押しながら部室の外に出た。 
      「はい、もしもし」 
      『国光?お母さんだけど、部活終わった?』 
      「はい。今終わりました。これから着替えて帰るところです」 
      『ちょうどよかったわ』 
      手塚は眉を寄せて、訝しげな顔をした。 
      『なんかね、リョーマくんのお母さんが今すぐリョーマくんに連絡取りたいそうなのよ。電話貸してあげてくれる?』 
      「…わかりました」 
      『じゃあ、また電話するわね』 
      「はい」 
      手塚は通話を終えると、そのままリョーマのもとへ向かった。 
      フェンス際で桃城と何か話をしているリョーマを見つけた。様子を窺っていると、すぐにリョーマは桃城と離れて整備に戻っていった。どこか嬉しそうにしている桃城を見てきつく眉を寄せると、手塚はコートの入り口のところでリョーマを呼んだ。 
      「越前」 
      「あ、はい!」 
      駆け寄ってくるリョーマに、手塚は眩しげに目を細める。 
      「なんスか?」 
      夕陽が頬にあたり、まるで嬉しげに頬を染めているように見えてしまい、手塚は胸に湧き上がる恋情に小さく溜息を吐いた。 
      「整備の途中で悪いが、お前のお母さんが、至急連絡して欲しいそうだ。これを使っていいから、今すぐ電話してみろ」 
      そう言って手塚は自分の携帯を差し出した。 
      「なんだろ……あ、じゃあ、ちょっと借ります」 
      リョーマに携帯を手渡して、手塚は腕を組んだ。 
      手早くボタンを押して電話をかけるリョーマを見てから、チラリと視線を走らせて桃城がいた方を見遣る。 
      桃城がこちらを見つめている。 
      「ぁ、もしもし、母さん?なんかあった?」 
      電話が繋がったらしいリョーマは、どこか不安げに母親に問うた。 
      「え?………はぁ?」 
      だが話の内容は緊急事態と言うほどのものではないらしく、リョーマは拍子抜けしたような声を出した。 
      「………うん。べつに、いいけど……わかったよ。じゃ」 
      素っ気なく通話を終えたものの、リョーマの顔がどこか嬉しそうに見えて、手塚は小さく眉を寄せた。 
      「…どうかしたのか?」 
      リョーマが手塚を見上げてニッコリと笑った。昼休みに市ヶ谷に向けた笑顔とは大違いの、素直で柔らかな笑顔だ。 
      「部長、今日はうちで晩ご飯、食べてください!」 
      「え?」 
      「部長を捕まえて帰って来いって、母さんが」 
      笑いながら言うリョーマにつられたように手塚も小さく微笑んだ。 
      「いいのか?」 
      「ぜひ!…母さんもお礼がしたいからって」 
      「………わかった」 
      「じゃ、今日も一緒に帰りましょうね、部長」 
      手塚の携帯を差し出しながら、リョーマが心底嬉しそうに笑う。 
      どこか久しぶりにさえ思えるリョーマの輝くような笑顔に、携帯を受け取りながら手塚も嬉しくなった。 
      「さっさと整備終わらせてきます!」 
      「手は抜くなよ」 
      「ういーっス!」 
      風のように駆け戻ってゆくリョーマを見ていた手塚は、ふと、彩菜が心配するといけないと思い、越前家に招待されたことを伝えるために携帯のボタンを押した。
 
 
  コート整備を終えて、リョーマが他の一年とともに部室で着替えていると、すぐ横に桃城が立った。 
      「越前、さっき、なんかあったのか?」 
      「え?」 
      「手塚部長と…」 
      「あ。ごめん、桃先輩、さっきの話、キャンセル」 
      「え…?」 
      ウェアを脱ぎながら、リョーマが申し訳なさそうな顔をした。 
      「うちの母さんが、どうしても部長を家に連れて来いっていうんで。マック行くのは来週でもいいっスか?」 
      「またかよ……ま、しょうがねぇな。部長が相手じゃ」 
      あはは、と力無く笑う桃城に怪訝そうに首を傾げつつ、リョーマはまた着替えを再開した。
 
 
  いつも通りの部活内容だったので取り立てて書くような特記事項もなく、手塚は竜崎に日誌を届けて早々に部室へと戻ってきた。 
      「ぁ、部長」 
      ぽつんと独りで部室の壁に寄りかかっていたリョーマが顔を上げて急いでバッグを担ぎ、手塚の元に駆け寄ってくる。 
      「待たせたな」 
      「べつに。行こうよ、部長」 
      「ああ」 
      肩を並べて歩きながら、手塚はチラリとリョーマを見遣った。 
      ウキウキ、と言う言葉が当てはまりそうなリョーマの足取りに、手塚は小さく微笑む。 
      「部屋の方は、もうすっかり元通りなのか?」 
      「そうみたいっス。居間の方も、ついでに壁紙とか変えたみたいで、前より綺麗になったって、喜んでました」 
      「そうか」 
      静かに答える手塚を、今度はリョーマがチラリと見遣った。 
      「…火事にあった隣の人たちも、一時的に住む家が見つかったみたいで、今日、そっちに移ったみたいっス」 
      「どんどん、元通りになっていくんだな」 
      「………そっスね…」 
      それから少しの間、二人は黙ったまま歩いた。 
      話したいことは、いや、話しておきたいことは、たくさんあった。 
      だが今こうして二人でいられることだけで、何も語らなくても構わないほど、それぞれの心は幸福感でいっぱいだった。 
      相手の存在が自分の心を切なく締め付けるのに、相手がいることで感じるこの幸せが、ひどく愛しく思えた。 
      バスに揺られた時に、あるいは道を歩いていて人を避けた時に、そんなふとした瞬間に触れる腕や肩から、ほんのりと相手の体温が感じられて、さらに幸福感が増した。 
      (傍にいたい) 
      ずっと、このまま。 
      すべてが元通りに戻ってゆく中で、自分の心だけは元にはもう戻れないと思う。 
      (こんなにも、好きになってしまったから) 
      リョーマが揺れる瞳で手塚を見上げる。 
      手塚も柔らかな瞳でリョーマを見つめる。 
      (もっと、触れあいたい…) 
      心の想いを口に出せないまま、二人はリョーマの家に到着した。
 
 
 
 
  「いらっしゃい、手塚くん。突然呼んだりしてごめんなさいね」 
      玄関先で、リョーマの母・倫子が出迎えてくれた。 
      「お邪魔します」 
      「ただいま、母さん」 
      倫子はニッコリ笑うと、二人に部屋に上がってくつろぐようにと促した。 
      「部長、オレの部屋に荷物置こう」 
      「ああ」 
      リョーマが先に階段を上り、部屋のドアを開ける。 
      「よかった、ホントに元通りだ」 
      部屋をぐるりと見回して、リョーマは安堵の溜息を吐いた。 
      「なんかベッドがちっちゃく感じる」 
      バッグを無造作に放り出すと、リョーマはベッドに仰向けに寝転がった。 
      手塚も部屋の隅にバッグを置いてから窓に歩み寄る。 
      隣の家があった場所には、だいぶ処理は進んだものの、まだあちこちに黒く焦げた土が残っているのが見える。 
      「ねえ、部長…」 
      手塚が振り返ると、いつの間にか起きあがったリョーマが此方を見ていた。 
      「明日……練習が終わったあとで、桃先輩に、あの女子を呼び出してもらいましょう」 
      「……ああ、そうだな」 
      手塚はしっかりと頷いた。 
      そうすることが、すべての解決への、一番の近道だった。 
      「あ」 
      ふいに、リョーマの表情が緩んだ。 
      「おいで、カル!」 
      リョーマの視線を辿って手塚が振り向くと、そこに一匹の猫がいた。 
      「カル」 
      リョーマが手を差し伸べると、その猫は独特な鳴き方をしながらリョーマの方へ近寄ってきた。 
      「その猫は……」 
      確か、あの火事の晩に、リョーマが抱えていた猫だ、と手塚は思い出した。 
      「あ、カルピンって言うんです。オレの一番古くからの友達、かな」 
      足下まで近寄ってきたカルピンを抱き上げて、リョーマが幸せそうに頬擦りする。 
      「ただいま、カル。いい子にしてたか?」 
      リョーマをじっと見つめていたカルピンは、ふんふんとリョーマの唇に鼻を近づけてから、どこか嬉しそうな声で鳴いた。 
      「カル」 
      リョーマが愛しげにカルピンを抱き締める。 
      そのリョーマの声音を、いつだったか聴いた気がして、手塚は内心首を傾げた。 
      「部長、猫、好き?」 
      「ん?ああ……可愛いな」 
      柔らかく微笑むと、リョーマは嬉しそうに瞳を輝かせる。 
      「たまに指とか噛まれるんだけど、全然痛くないんスよ。滅多に引っ掻いたりもしないし、コイツ、すごく頭がいいんス!」 
      嬉々として愛猫の自慢をするリョーマに、何かが引っかかるのを感じながらも手塚は微笑みながら頷いた。
 
 
 
 
  「そろそろ降りていらっしゃい」 
      階下から倫子の声がして、リョーマと手塚は階下へと降りていった。 
      「…」 
      倫子の隣にいる大学生ふうの女性を見て、手塚は軽く会釈した。 
      「いらっしゃい、手塚さん。リョーマさんの従姉の菜々子です」 
      菜々子が静かに頭を下げると、綺麗な黒髪が肩からさらりと流れ落ちた。 
      「…お邪魔しています」 
      「ゆっくりしていらしてくださいね」 
      「ありがとうございます」 
      どこかリョーマに似た印象の笑顔に、手塚も小さく微笑み返した。 
      「ねえ、親父は?」 
      リョーマが居間を覗きながら不思議そうに言った。 
      「お父さんは、お隣さんたちを一時的に住むことになった家まで車で送ってあげているの」 
      「ふーん。そんな遠いとこなんだ」 
      「何でも親戚の方がオーナーのマンションを借りるんですって。車で片道一時間くらいかしら。保険会社の人となんだかんだ話してて、ついさっき出たところだから、まだ当分帰ってこないわね…。電車の方が早いけど、お年寄りにはキツイでしょう?だから車でお送りすることにしたのよ」 
      「ふーん。あ、部長、ここ座って」 
      リョーマは手塚の手を引いて居間に用意された食卓の前に連れて行った。 
      「そういえば、部長って、嫌いなものとか、あります?」 
      「いや」 
      リョーマは「さすが」と言って楽しそうに微笑んだ。 
      「部長のお母さんにはかなわないけど、うちの母さんの料理も結構いけるっスよ。まあ、半分くらい、菜々子さんに手伝ってもらってるみたいっスけど」 
      手塚の耳元に唇を寄せてそう囁くリョーマに、手塚の鼓動はドキッと大きく鳴った。 
      リョーマとはもうキスもした。 
      お互いのカラダにも触りあった。 
      なのに、こうしてリョーマの息が耳にかかるだけで、手塚の心臓は暴走しそうなほど高鳴ってしまう。 
      「なぁに、なんか悪口でも言ってるの?リョーマ」 
      「べつに」 
      倫子が小鉢やコップ類をお盆に乗せて持ってきた。 
      「ねえ、手塚くん。今日はうちに泊まっていきなさいよ。彩菜さんの許可ならもう取ってあるから」 
      「え?」 
      驚いて小さく目を見開く手塚の胸の内を代弁するかのように、リョーマが声を上げた。 
      「明日はうちからテニス部の練習に行きなさい。ね、そうして?」 
      「あ………はい」 
      「ホントに?部長!」 
      倫子の迫力に押されて手塚が頷くと、リョーマが瞳を輝かせて手塚を覗き込んだ。 
      「…迷惑でないなら、そうさせてもらってもいいか?」 
      「迷惑なわけないっスよ!ぁ、じゃあ、部長のウエア、今から洗濯しとくね。朝には乾いてるから!」 
      「え、ああ」 
      「オレのもついでに洗おうかな…」 
      リョーマは勢いよく立ち上がると「部長のバッグ勝手に開けるよ!」と言い残して自室にすっ飛んでいく。少ししてすぐにすごい勢いで階段を駆け下りてきて、そのまま洗濯機のある洗面所の方へ向かったようだった。 
      「………騒がしくてごめんなさいね」 
      「いえ」 
      笑いを堪える倫子に、手塚も小さく微笑んだ。 
      「あんな嬉しそうなあの子見るのは久しぶり……手塚くんと一緒にいるのが本当に楽しいみたいだわ」 
      「そう…でしょうか」 
      「ありがとう、手塚くん」 
      柔らかな瞳で倫子に見つめられて、手塚は不思議そうに倫子を見つめ返す。 
      「あの子を青学に入れてよかった。うちのお父さんもそう言っているけど、私はね、手塚くん、あなたと出逢えたことが、あの子にとって最高によかったことだと思うの」 
      「そんなことはありません」 
      困ったように微笑みながら首を横に振る手塚に、倫子はニッコリと、さらに笑みを深くした。 
      「我が儘で、意地っ張りで、気ばっかり強い子だけど、どうかこれからもよろしくお願いしますね」 
      「はい」 
      手塚が頷くと倫子もホッとしたように頷いて立ち上がった。 
      「さて、先にご飯、始めちゃいましょうか!」 
      少ししてリョーマが戻ってくると、四人は食卓を囲んで楽しい夕食を摂った。
 
 
 
 
  夕食が終わってしばらくして南次郎も帰ってきた。 
      二階からリョーマとともに降りてきた手塚が礼儀正しく挨拶すると、南次郎は暫し手塚を眺めてからふっと笑った。 
      「まあ、ゆっくりしていけや」 
      それだけを言って、南次郎は「腹減った〜」と情けない声を出しながらダイニングへと駆け込んでいった。 
      「あ、ちょっとリョーマ」 
      また二階へ上がろうとしたところを倫子に呼び止められた。 
      「なに?」 
      手招きされてリョーマが倫子のもとにいくと、「手塚くんの布団、どこに運ぶ?」と訊かれた。 
      「え?べつにオレの部屋で……」 
      「お隣さんたちが使っていたから、他にも綺麗なお部屋あるわよ?それでもあなたの部屋で一緒に寝たい?」 
      「………」 
      リョーマはほわりと頬を染めて俯いたが、ふと、思い出したように顔を上げて倫子を見つめた。 
      「やっぱ、オレの部屋でいいよ。母さんにも話すけど、部長と話さなきゃならないことがあるんだ」 
      「……部屋で待ってて。お父さんの食事の用意したら、すぐ行くから」 
      「うん」 
      頷いて、リョーマは階段のところで待たせていた手塚とともに、自室へと戻った。
 
  それからすぐにリョーマの部屋のドアがノックされた。 
      「入るわよ」 
      倫子がエプロンのまま部屋に入ってくる。 
      リョーマと手塚はお互いを見遣って頷きあった。
 
  リョーマは倫子にこれまであったことを掻い摘んで話した。 
      二度にわたって貼り出された二人の写真とその時の会話、隣の火事も含めた放火の疑い、ネットの掲示板の書き込みについても、リョーマは大雑把ではあるが、丁寧に順序立てて話した。 
      そして、だからこそ、自分と手塚がその写真の通りに付き合っているように振る舞って、写真を貼った犯人を刺激してみようと思ったことも。 
      「なるほどね、そういうことだったの」 
      「それで、写真を貼ったのは、二年の女子ってとこまではわかったんだ」 
      「そう……女の子が、ね……」 
      倫子が困ったように微笑みながら溜息を吐いた。 
      「…何?母さん」 
      「女の子がそういった大胆な行動を取る時はね、理由は二種類だと思うの。ひとつは、心の底から湧き上がるような憎悪。そしてもう一つは、恋愛関係」 
      「恋愛関係?」 
      目を見開くリョーマと手塚に、倫子は微笑みながら頷いて見せた。 
      「中学生の女の子って、意外に中身はもう立派な『女』なのよね……だから、自分の恋のために、何でもしちゃうところがあって……男の子にはわかんないかもしれないけど」 
      「はぁ…」 
      「貴方たち、ひどく恨まれるような覚えはないんでしょ?だったら、理由はやっぱり恋愛絡みね」 
      「でもそれでは行動の意味がよくわかりません。俺たちのどちらかに想いを寄せてくれているのなら、なぜ、俺たちが恋愛関係にあるような噂を広める必要があるのですか」 
      手塚は眉を寄せて腑に落ちない、と言ったふうに倫子に訊ねた。 
      「その女子が好きなのは、貴方たちじゃないのよ、きっと」 
      「え?」 
      「手塚くんの言ったように、貴方たちのどちらかを好きなんだったら、貴方たちが付き合うのを邪魔するはずでしょ?なのに、その子は逆のことをしている。そして、貴方たちが付き合っているという噂が広まった方がメリットがあるとしたら、理由はひとつ」 
      ゴクリ、とリョーマは喉を鳴らした。手塚も食い入るように倫子を見つめている。 
      「その女の子の好きな人が、貴方たちのどちらかを好きなのよ」 
      「は?」 
      素っ頓狂な声を上げたリョーマの横で、手塚はきつく眉を寄せた。 
      「証拠みたいな写真や会話を貼り出してあなたと手塚くんが付き合っているという噂を流して、それを、その女の子の好きな人が信じてくれれば、もしかしたら自分の方を向いてくれるかもしれないって…」 
      「ちょっと待ってよ」 
      リョーマが慌てたように口を挟んだ。 
      「その女子が好きなのは、女の子なわけ?じゃなかったら、その女子の好きな男子が、男のオレたちのどっちかを好きだってこと?」 
      「そうよ」 
      あっさりと頷いて見せた倫子に、リョーマはポカンと口を開けた。 
      「そんなに驚くことでもないわよ。中学生は多感な時期だから、同性に恋心を抱くことは珍しくはないの。ま、それを実行するかしないかで、その人の生き方も変わってくるのでしょうけど」 
      「珍しくないの?」 
      「ええ。うちのお父さんも、青学にいた頃、同性にもてまくっていたみたいよ?一回や二回は経験済みなんじゃない?」 
      「なっ!」 
      笑いながら平然と話す母を目の当たりにして、リョーマは唖然とした。 
      「へ、平気なの?母さんは……そんなことがあっても…」 
      「なんで?」 
      「だって、男同士……」 
      「男同士でも女同士でも、恋愛は恋愛でしょ?いちいち昔のことに囚われていられないわよ」 
      「………」 
      リョーマは改めて母の『凄さ』を知った気がした。そしてそれが、あの自由奔放な父を惹きつける魅力なのかもしれない、と。 
      手塚も同じようなことを考えていたらしく、リョーマが手塚を見ると小さく笑って頷いた。 
      「…これで謎が解けた気がします」 
      静かに、手塚が言った。 
      「部長…?」 
      手塚はもう一度リョーマに小さく微笑んでから、倫子に向かってきっぱりと言った。 
      「ですが、例えどんな理由があろうとも、越前を侮辱したことにかわりはありません。あの写真については、きちんと訂正してもらうつもりです」 
      「……そうね。その子にそんなつもりはなくても、貴方たちに迷惑をかけたのだから、そのことはちゃんと謝ってもらうといいわ」 
      「はい」 
      倫子は柔らかく微笑んでからスッと立ち上がった。 
      「話はおしまいね。手塚くん、よかったらお風呂どうぞ。タオルはリョーマに用意させるから」 
      「はい。そうさせていただきます」 
      「リョーマ、和室のタンスからバスタオル出してあげなさい。じゃあね」 
      「母さん」 
      部屋から出て行った倫子を追いかけてリョーマがドアから顔を出した。 
      「あの……ありがと。母さん」 
      「ん?」 
      「……なんでもないっ」 
      急に頬を染めてリョーマは部屋に引っ込んでしまった。倫子はクスッと笑みを零すと、ゆっくり階段を下りていった。
 
 
 
 
  手塚が風呂に入り、そのあとでリョーマも風呂に入り、二人はとりとめのない会話をしながらリョーマの部屋でくつろいでいた。 
      「でね、部長、カルピンのヤツ、その時寝ぼけてオレの左の親指にガブって。結構痛かったんでその時から右手でもラケット持つようになったんスよ」 
      「カルピンのおかげだったのか。まさに怪我の功名というヤツか」 
      「うん。ぁ、もうこんな時間だ。部長、もう寝ます?」 
      言われて手塚も時計を見てみると、時計の針はすでに11時を回っていた。 
      「ああ、もう寝た方がよさそうだな」 
      「なんか飲みます?水とか持ってきておきましょうか」 
      「ああ、頼む」 
      「了解!…じゃ、部長、布団敷いてて」 
      「わかった」 
      部屋を出てゆくリョーマを見送ってから、手塚は自分用に用意された布団をベッドの隣に敷き始めた。 
      枕を置こうとして、ふと、手塚はリョーマのベッドを見遣る。 
      (もう…二人で寝ることはないんだな…) 
      昨日の夜、初めて自分はリョーマの方を向いて寝ることが出来た。手もしっかりと握りあって寝た。朝になってもその手は解けることなく自分とリョーマをしっかりと繋いでいた。 
      そのままずっと、幸せそうに眠るリョーマと手を繋いでいたかった。 
      だが時間がそれを許してくれず、仕方なく手塚はリョーマの指を解放した。 
      (最後の夜に…いい思い出が出来た…) 
      手塚は自分の両手をじっと見つめた。 
      ベッドの中で、リョーマの身体に触れた手。 
      片方はリョーマの熱塊にこの手で触れ、リョーマの熱液でしっとりと濡らされた手。 
      そしてもう片方は、中心にばかり意識が集中していたリョーマの上衣をそっと捲り上げ、その肌の感触を味わった手。 
      胸の小さな蕾に触れた指先のコリッとした感触は、今でも思い出せるほど感動的だった。 
      (だがもう二度と、触れることはない…) 
      手塚は両手をグッと握り締めた。 
      ちょうどそこへリョーマがミネラルウォーターのペットボトルを抱えて戻ってきた。 
      「今飲みます?」 
      「いや」 
      「じゃ、これ、目覚まし時計の横に置いておきますね」 
      そう言ってリョーマはベッドのヘッド部分の棚の上にペットボトルを二本置いた。 
      「ありがとう」 
      「ぁ、それから、部長」 
      「ん?」 
      ベッドに腰掛けながらリョーマがほんのり頬を染めた。 
      「部長の方に落ちたらごめん」 
      「え?」 
      「た、…たまに落ちるから、オレ……その、ベッドから」 
      手塚はきょとんと目を丸くしてから、クスッと小さく笑った。 
      「大丈夫だ。ちゃんと受け止めてやるから」 
      今度はリョーマが目を丸くしてからプッと吹き出した。 
      「なにそれ」 
      笑いながらリョーマはベッドに備え付けの小さな明かりを灯し、部屋の電気を消した。 
      「おやすみ、部長」 
      「おやすみ」 
      ベッドの明かりも落として部屋は闇に包まれる。 
      二人はそれぞれの布団で、目を閉じようとした。 
      だが、当然、眠れるはずもなく。 
      「ねえ、部長」 
      「ん?」 
      「……部長は、怖い夢とか、見ないんスか?」 
      「怖い夢、か………よく、遅刻しそうになる夢は見るな」 
      ギシッとベッドを軋ませてリョーマが手塚を覗き込む。 
      「他には?」 
      「試験問題が全く解けない夢。試合中に足が動かない夢。試合にラケットを忘れていく夢」 
      「全部有り得ないっスね」 
      「そうならないように日々努力しているんだ」 
      「あ、なーるほど」 
      少し沈黙してから、手塚がそっとリョーマに訊ねる。 
      「今日は……大丈夫そうか?」 
      「え?」 
      「昼間……あいつに会って、思い出したりしていないかと……」 
      「あ」 
      リョーマは昨夜、自分が打った一世一代の芝居を思い出した。怖い夢を見たからと、手塚に手を繋いでもらうだけのつもりが、思いがけずもっと深く触れあえた。 
      今、もしも、また芝居をしたら、手塚に触れてもらえるのだろうか。 
      「ね…寝てみないとわかんないっス。寝て、夢見て、もしまたそれが怖い夢だったら、……部長の方に行ってもいい?」 
      「……ああ。少し窮屈だろうが、俺は構わないぞ」 
      暗くて表情はわからないが、手塚の声音はとても優しかった。嬉しくて、リョーマは今すぐにでも手塚の布団に潜り込みたい気持ちを必死に押さえ込んだ。 
      「何なら今からこっちに来ておくか?」 
      「え…」 
      「冗談だ。早く寝ろ」 
      「…うん……」 
      気落ちしたように聞こえるリョーマの声が気にはなったが、手塚は無理に目を閉じて寝ることにした。
 
  10分、20分、一時間…時計の秒針の音が響く部屋で、手塚はやはり眠れずにいた。 
      起きて水でも飲もうかと思ったその時、ベッドがギシリと軋んだ。 
      「部長…」 
      「………」 
      手塚はとりあえず寝ているフリをした。すぐに返事をしたのでは起きていたごとがばれてしまうと思ったのだ。 
      「部長?」 
      リョーマが身を乗り出す気配がする。 
      手塚はもう少しこのままでいようと思う。 
      「………」 
      しばらく、また静かな部屋に戻る。 
      時計の秒針が一回りする頃、リョーマが動いた。 
      「…ごめんね、部長」 
      小さく呟きながら、リョーマが手塚の布団に入ってきた。 
      いつ、目を覚ましたことにしようかと手塚がタイミングを計っていると、リョーマがそっと身を寄せてきた。 
      「部長……き」 
      「ん…?」 
      リョーマの言葉が聞き取れなくて、つい手塚はそっと聞き返してしまった。 
      「ぁ、起こしちゃった?ごめん、部長」 
      「…いや、いい…」 
      自分の声が思ったよりも掠れてしまい、手塚は寝起きの芝居をする必要がなくてホッとした。 
      「…また見たのか?」 
      「……うん」 
      「………」 
      手塚は黙ったまま左腕でリョーマの頭を抱え込むようにして腕枕にしてやった。 
      「ぶちょ……」 
      「大丈夫だ。こうしててやるから、安心して寝ろ」 
      「うん……」 
      左腕でリョーマの肩を引き寄せ、右手で優しく髪を梳いてやる。 
      「……部長って、ホントに優しいよね」 
      「誰にでも、じゃあないぞ」 
      どうも、口が勝手に言葉を紡いでゆく気がする。 
      リョーマの体温が心地よくて、抑えられていた眠気が一気に押し寄せてきたようだった。 
      「…じゃ、オレは……もしかして、部長にとって『特別』の部類に入る?」 
      「ああ…」 
      腕の中で、リョーマが熱い吐息を吐いたようだった。 
      「オレもね……部長は……特別っスよ……」 
      (特別…) 
      その甘い響きの言葉の意味を問う前に、手塚の唇は意思に反して動かなくなってしまった。 
      「………」 
      「部長?寝ちゃった?」 
      返事をしようと思うのに、巧く声が出せない。 
      クスッと、リョーマが笑った。 
      リョーマがゆっくりと身体を起こしたと思った途端、唇に柔らかいものが触れた。 
      リョーマの唇だった。 
      「部長…」 
      唇を少し離してリョーマがそっと名を呼ぶ。 
      もう一度触れてきた唇から、そろそろと舌が伸ばされ、手塚の下唇を遠慮がちに舐めた。 
      (越前…?) 
      「部長……」 
      リョーマの指先が、手塚の髪をそっと梳いてゆく。 
      手塚はゆっくりと瞳を開いた。 
      「あ……すみませ…」 
      リョーマに、最後まで言わせなかった。 
      自分の髪を梳くリョーマの手を掴み、手塚は一気に体勢を入れ替えてリョーマを組み敷いた。 
      「ぶちょ……っ」 
      半覚醒状態のまま、手塚はリョーマの唇を貪った。理性が眠りかけている分、昨夜よりももっと情熱的にリョーマの唇を奪い尽くしてしまう。 
      「んんっ、んっ……、…ちょ…う…?」 
      手塚は何も喋らずに、ただ、呼吸だけを乱しながら、リョーマに口づけ続ける。 
      いつの間にかリョーマの腕が背中に回されていた。 
      腰を押しつけると、リョーマの雄も反応している。 
      「あ…っ」 
      手塚は完全に覚醒したあとも、熱い衝動が止まらなかった。 
      口づけながら震えそうになる手でボタンを外し、息を荒げながらリョーマのパジャマをはだけさせる。 
      「部長…っ」 
      手塚がリョーマの脇を撫で上げると、リョーマの身体がビクリと揺れた。そのまま手を滑らせて胸を柔らかく揉みしだき、突起を摘み上げる。 
      「あぁ…っ」 
      リョーマの小さな喘ぎに、眩暈がしそうなほどの衝動が手塚を突き動かす。 
      手塚は左腕でリョーマを抱き締めたまま、乱暴なほどの勢いでリョーマの下着の中に右手を突っ込み、勃ち上がりかけている熱塊を直に握り込んだ。 
      「あっ」 
      リョーマの腰が揺れる。 
      「ぶちょ……声……出る……っ」 
      「…すぐに終わらせる」 
      自分でも驚くほど冷静な声が出た。リョーマの身体がビクリと揺れる。 
      「うん……」 
      リョーマは小さく笑ったようだった。その微笑みの意味を深く考えないままに、手塚はリョーマの身体を俯せにさせ、腰を高く上げさせた。 
      「や……っ」 
      その格好が恥ずかしいのか、リョーマが微かに抵抗する。 
      構わず手塚はリョーマの尻をむき出しにすると、後ろから手を回してリョーマを握り込みながら手早く己の熱塊を取り出した。 
      「ぶちょ…」 
      「足を閉じて」 
      「ん…」 
      言われた通りにリョーマが足を閉じてくれた。手塚はその太股の間に自身の熱塊を捩り込んだ。 
      「う…」 
      乾いた太股は大きな抵抗力で手塚の肉棒を拒んでくるようだった。だが構わずにその間を出し入れしていると、手塚自身の先走り液でリョーマの太股がしっとりと濡れ、滑りがよくなってきた。 
      リョーマを握り込んだ手を自身の動きに合わせて扱いてやると、リョーマの戸惑っていた声が甘い喘ぎに変わってくる。 
      「あ……あぁ……部長……気持ちいい……部長は…?」 
      「ああ…」 
      それだけ答えて、手塚は腰を動かし続ける。 
      部屋の中に、ぬちゃぬちゃと粘り気のある水音が響いた。 
      「ぶ、ちょ…も、出る……」 
      手塚の腰の動きも加速した。 
      手塚の熱塊が出し入れしている間にずり上がり、リョーマの袋の辺りを強く抉るように動くせいで、ひどく刺激されたリョーマはあっさりと熱液を迸らせた。 
      「あぁっ、あっ」 
      硬直するリョーマの股の間を手塚の熱塊が出入りし、弾ける寸前で引き抜いてリョーマの腰から背中にかけて熱液を降り捲いた。 
      「…っく、うっ、……ぁっ、は、あ……っ」 
      暗闇の中でもリョーマの背中が濡れていくのがわかり、手塚は食い入るようにそれを見つめながら射精し続けた。 
      すべてを吐き出し終えて、肩で息をしながら手塚はベッドヘッドにあるティッシュボックスに手を伸ばした。 
      「……すまない」 
      そう言ってリョーマの背中をティッシュで拭ってやる。 
      「……気持ちよかった?部長…」 
      リョーマも息を弾ませながら、微笑んだようだった。 
      手塚は黙ったままリョーマの背中を綺麗にし、リョーマ自身も綺麗にティッシュで拭ってやってから、最後に自分のものの始末をした。 
      「ちょっと布団に零れちゃった…」 
      自分の手の中に出させたつもりだったが、やはり零れてしまっていたらしく、手塚はまた「すまない」と言って布団に零れたリョーマの精液を手探りで確かめてティッシュで拭った。 
      「…部長、すっきりした?」 
      「……ああ。ありがとう」 
      「オレも、すごく気持ちよかったっスよ。おかげでぐっすり眠れそう」 
      リョーマはそう言いながら手塚に背を向けてパジャマを身につけた。 
      「ね、部長。オレのベッドで一緒に寝ません?布団、濡らしちゃったし」 
      「……いいのか?」 
      「うん。でもそのかわり狭いから、オレとくっついて寝ることになるけど、いい?」 
      「ああ。お前がそれでいいなら」 
      リョーマは手塚を振り返って笑った。 
      「オレが誘ったのに、嫌がるわけないっしょ」 
      「………そうか」
 
  そうして二人は一本のミネラルウォーターを交互に飲んで喉の渇きを潤してから一緒にベッドに入った。 
      「ぁ、部長、あっち向いて」 
      「え?こっち、か?」 
      「うん」 
      リョーマは壁際に横になり、手塚には自分に背を向けるように言う。手塚は言われた通りにリョーマに背を向けて横になった。 
      「…ごめんね、部長…」 
      リョーマはそっと手塚の身体に腕を回して身体を密着させてきた。 
      「部長、苦しくない?」 
      「ああ。大丈夫だ。いいのか、こんな体勢で…」 
      「だって向かい合って寝たら、恋人みたいじゃないっスか」 
      背中から伝わるリョーマの声が震えていたような気がして、手塚がリョーマを振り返ろうとすると、リョーマに強く抱きつかれてそれは叶わなかった。 
      「越前…?」 
      「おやすみ、部長」 
      「………おやすみ」 
      再び部屋に静寂が訪れる。 
      時計の秒針が告げる時の流れの中で、手塚は吐精後の気怠さに目を閉じた。背中の温もりもひどく心地よかった。 
      SEXのような行為をしてしまった。 
      昨夜よりも、さらにエスカレートした行為を。 
      リョーマの肌に触れて、その身体を揺さぶって、自分の激情をリョーマの身体に浴びせかけてしまった。 
      でも本当は、まだ自分の中で欲望が燻っている。 
      もっとリョーマに触れたい。そう、リョーマの奥深くに自分を埋め込み、この想いを注ぎ込みたい。 
      リョーマを、抱きたい。 
      手塚はゆるりと目を開けて自分の身体に回されたリョーマの腕にそっと触れた。リョーマの身体が微かに揺れた気がした。 
      たぶん、リョーマは今の行為を受け入れられずにいるに違いない。 
      そう思うと、手塚の心に昨夜よりももっとひどい罪悪感が込み上げる。 
      「……すまない、越前。少し…強引だったな」 
      ふるふると、リョーマは首を横に振ったようだった。 
      「俺は今まで、他人とこんな行為をしたことがないんだ……自分よがりなことをして…すまない」 
      リョーマはまた首を振る。 
      「越前は……男にこんなことをされるのは、本当は気持ち悪いのではないのか?……相手が俺だからと我慢して……」 
      ギュッと、リョーマに抱きつかれて、手塚は口を噤んだ。 
      「………他の人はヤダけど、部長は、特別だから……いいんス…」 
      「越前……」 
      「眠いよ、部長。もう寝よう…ょ…」 
      言い終えるか終えないかのうちに寝息が聞こえてきて、手塚は小さく溜息を吐いた。 
      リョーマの言う『特別』の意味を確かめたい。 
      自分の心が、どうしようもなく、期待し始めているのを手塚は感じている。 
      (いや、自分の都合のいいように考えているだけではないのか……) 
      リョーマには想いを寄せる相手がいるのだから。 そう思いつつも、こんなことまで許してくれるのはただの『特別』では片付かないような気がする。 
      確かめたい。 
      だが、確かめて拒絶されるのを恐れる自分もいる。 
      (情けない男だ……俺は……) 
      何か、自分を後押ししてくれるような、きっかけが欲しい。 
      あとほんの少し、誰かが、何かが、背中を押してくれたなら、リョーマに向けて、大事な一歩を踏み出せる気がするのに。 
      (いや……『誰か』、でも、『何か』、でもなく、自分で『きっかけ』を決めればいいのかもしれない) 
      手塚は宙を見据えた。 
      そして、そっと、自分に回されたリョーマの手を握り込む。 
      初めての恋に戸惑い、臆病になる自分に、勇気を与える『きっかけ』。 
      それは、自分とリョーマを結びつけることになった『きっかけ』の解決ではないのか。 
      一歩踏み出せたとしても、それでうまくいくとは限らない。 
      うまくいかないかもしれない。 
      拒絶されて終わるかもしれない。 
      むしろ、その可能性の方が大きい。 でも。 
      何もせずにいても、いつかはリョーマにこの想いが知られてしまうことは間違いない。 
      それほど想いが溢れそうになっている。 
      想うことをやめられないなら、どんな結果になっても、想い続ければいい。 
      もう引き返すことが出来ないなら、前にだけ、進めばいい。
  (…覚悟を、決めよう)
  恋を、愛を、何よりこの想いを、リョーマの瞳を見つめながら語れる日が来ることを夢見て。 
      手塚はゆっくりと目を閉じた。 
      背中に、愛しい温もりを感じながら。
 
 
 
 
 
  
      続
 
 
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      20050702 
      
      
  
    
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