  ダブルベッド
  
  <5>
  
      
  5時間目が終わると、手塚は足早に保健室へと向かった。 
      「失礼します」 
      ノックをしてから保健室のドアを開けて中に入ると、養護教諭が書類を茶封筒に入れながら顔を上げた。 
      「ぁ、手塚くん。越前くん、まだ寝てるわよ」 
      「そうですか」 
      「来てくれて早々悪いんだけど、ちょっとこの書類職員室まで届けるから、5分くらい外してもいいかしら」 
      「はい」 
      養護教諭は大きめの茶封筒を手にして立ち上がった。 
      「越前くん、ちょっと寝不足気味かもしれないわね。夜更かしするなって、可愛い後輩に言ってやって」 
      「はい」 
      「じゃ、ちょっとだけ、ごめんなさいね」 
      養護教諭が部屋から出て行くと、手塚はリョーマの眠るベッドへ向かった。 
      そっとカーテンを開けると、もう見慣れてしまったあどけない寝顔があった。 
      手塚は近くのイスを引き寄せてリョーマの枕元近くに腰を下ろす。 
      (寝不足…か……確か不二もそんなようなことを言っていたな……) 
      自分の横で確かによく寝ていたはずなのに、と怪訝に思いながらも、すぅすぅと寝息を立てているリョーマを見つめて小さく微笑み、だがその唇に目をやった瞬間、手塚は眉を寄せた。 
      事情があったとはいえ、リョーマに口づけてしまった。 
      それもただ触れるだけでなく、深く、貪るように。 
      キスくらい、と何でもないように言われた瞬間、手塚はリョーマを問いつめて、何もかも聞き出したい衝動に駆られた。 
      いつ、どこで、誰と、どんなふうに、キスをしたのか。 
      キスくらい何でもない、と思えるほど何度もしたのか。 
      キス以上のこともしたのか。 
      すべてを暴き出して、その記憶のすべてを自分のもので塗り換えてやりたかった。 
      だが、そんなことが出来るほどの横暴さは自分にはない。 
      そんなことが出来るくらいなら、リョーマへの恋情に気づいた時点でリョーマのすべてを奪い尽くしているだろう。 
      (越前には、想う相手がいるのだったな……) 
      リョーマが想いを寄せている人間と、想いのこもったキスを交わしているのなら、自分にはそれが誰なのか聞き出す権利も問いつめる正当な理由も、あるわけがないと手塚は思う。 
      溜息を吐いて、手塚はそっとリョーマの髪を撫でた。 
      どんな形であれ、自分が初めて想いを込めて口づけたのがリョーマでよかったと思う。 
      リョーマには気を遣わせないために「初めてではない」と嘘をついたが、手塚にとってはリョーマへ抱いた想いが初めての恋だった。 
      初めての恋。 
      初めてのキス。 
      そして、きっと最後の恋。 
      もしかしたらリョーマと離れたあとで、自分は周囲に乞われて家庭を持つこともあるかもしれない。だがそれはたぶん、自分の「恋」から育まれた感情でそうするのではなく、誰かの幸せを願う、大きな意味での「愛」がそうさせるのではないかと思う。 
      こんなにも、胸が熱く、苦しくなるような恋は、きっと二度と出来ない。そう、手塚には思えるのだ。 
      髪を撫でていた手を滑らせ、手塚はそっとリョーマの頬を撫でる。 
      (もう一度……) 
      手塚はゆっくりとリョーマの唇に指先で触れた。 
      出来るならもう一度だけ、指ではなく唇で、この柔らかな唇に触れたい。 
      「ん……」 
      小さく身じろぐリョーマに、慌てて手塚は指を離した。 
      「……ちょ…う……」 
      「?」 
      手塚が見つめる先で、リョーマの唇が言葉を紡ぐ。 
      「ぶちょ………き……」 
      言葉の最後は聞き取れなかったが、言い終わった途端リョーマの頬がほわりと色づき、手塚はドキリとした。 
      (俺の、夢……?) 
      幸せそうに微笑んで、また穏やかな寝息を立て始めたリョーマを見つめながら、手塚の鼓動だけがドキドキとうるさく鳴り続けていた。
 
 
 
 
  6時間目が終わったところで、リョーマは養護教諭に起こされた。 
      「気分はどう?まだ頭痛、する?」 
      「いえ。治ったみたいっス」 
      小さく微笑みながらリョーマはベッドを降りた。 
      「睡眠不足もあるんじゃないかしら。手塚くんが来た時もずっと寝ていたくらいだからね」 
      「え?部長が来てくれたんスか?」 
      「ええ。6時間目が始まるギリギリまであなたの傍にいたわよ」 
      リョーマは内心狼狽えて言葉に詰まった。 
      (部長が……) 
      そう言えば手塚は5時間目が終わったらまた様子を見に来ると言っていた。きっとその言葉通りに、手塚は様子を見に来てくれたのだろう。 
      「部長、なんか言ってました?」 
      「え?」 
      養護教諭は怪訝そうに眉を寄せた。 
      「べつに何も。6時間目が終わったら起こしてやってくださいって、頼まれただけよ?」 
      「そ……っスか」 
      リョーマはホッと胸を撫で下ろした。 
      5時間目の途中辺りから眠ってしまったのだろう自分は、ずっと手塚の夢を見ていた。 
      夢の中では自分は素直に手塚に好きだと想いを告げ、手塚にも好きだと言ってもらえた。そのまま抱き締めてもらい、優しく髪も撫でてもらった。 
      嬉しくて嬉しくて、何度も何度も手塚に「好きだ」と言い続けた。 
      (寝言とか……言ってないよな……オレ……) 
      自分が時折はっきりとした寝言を言うらしいことを母から聞いているリョーマは、ついさっきまで夢の中で告げていた言葉をうっかり口にしていないかと不安になった。 
      だが手塚の様子に変わったところがないのなら、たぶん、大丈夫だったのだろうと思う。 
      「今から教室に戻ればHRに間に合うわよ。元気なら、もう行きなさい」 
      「はい」 
      リョーマは服を整えると、養護教諭にペコリと一礼して保健室を出た。
 
 
  リョーマが教室に戻ると、堀尾が「大丈夫かぁ?」と声をかけてきた。 
      「うん。……サンキュ、堀尾」 
      「へ?」 
      珍しくリョーマにニッコリ微笑みかけられて堀尾はなぜか頬を染めた。 
      「ぁ、そうだ。手塚部長がHR終わったら教室で待っていろって。なんかやったのかよ、越前」 
      「これからなんかやるんだよ」 
      「はぁ?」 
      堀尾が眉を繋げたところで担任の教師が教室に入ってきた。 
      (さてと。あの三人にはたっぷりお礼しなきゃね…) 
      担任の話を聴きながら、リョーマはこっそりと人の悪い笑みを浮かべた。
 
 
  HRが終わり、リョーマが帰り支度をしていると、教室が一瞬、シンと静まった。 
      「越前」 
      堀尾に肩を叩かれて、リョーマは「わかってるよ」と答えた。 
      見なくてもわかる。手塚が来てくれたのだろう。 
      「じゃ、先行くから、堀尾」 
      「あ、ああ…」 
      リョーマはバッグを担ぐと、教室を出て廊下の壁に寄りかかって腕を組んでいる手塚の目の前に立った。 
      「おまたせ。部長」 
      「ああ」 
      二人は肩を並べて歩き始める。 
      「体調の方はどうだ?」 
      「もう大丈夫っス。心配かけてすみませんでした」 
      「いや…よくなったのなら、それでいい」 
      昇降口に着き、二人はそれぞれ靴を履き替える。 
      「……何をする気なんだ?」 
      靴を履き替えて手塚の元に駆け寄ったリョーマに、手塚は硬い表情で訊いた。 
      「…大したことじゃないっスよ」 
      それだけを言って、リョーマは微笑みながら部室へと歩き始めた。 
      手塚は大きく溜息を吐いて、ただリョーマを追うように歩き始めるしかなかった。
 
 
 
 
  ***
 
 
 
 
  部室の前にはすでにあの三人組が来ていた。 
      「よう」 
      リーダー格の長身の男が片手を上げてニヤリと笑う。 
      「どこでヤるんだ?部室か?」 
      「ちょっと待って」 
      全身を舐めるように見られ、顔を近づけられそうになって、リョーマは自然な仕草で男をかわした。 
      「準備してくるから、ここで待っててくれません?」 
      「早めに頼むぜ」 
      「ういーっス。…行こう、部長」 
      「…ああ」 
      手塚は小さく頷き、リョーマに続いて部室に入った。部室にはまだ人影はなく、リョーマと手塚しかいない。 
      いつもと変わらずにウエアに着替え始めるリョーマをチラリと見遣って、手塚もすぐ横で着替え始める。 
      (まさか…テニスで打ち負かすというのではないだろうな…) 
      「ねえ、部長」 
      「ん?」 
      「……気持ち悪かった?男のオレとキスして」 
      着替えながら、どこか普段の会話のように何気なく訊いてくるリョーマに、手塚は一瞬面食らった。 
      「……いや」 
      どうにかそれだけを言うと、手塚は黙ったまま着替えを終えて、改めてリョーマを見た。 
      「お前はどうだったんだ?気持ち悪かったか?」 
      「全然」 
      リョーマも着替えを終えて手塚に向き直った。 
      「部長って、キス、巧いんスね」 
      「そうか?」 
      夢中で貪っただけだ、とは言えなくて、手塚は後ろめたさにリョーマから視線を逸らした。 
      「……家に帰ったら、もう一回してくれないっスか?」 
      「え?」 
      「気持ちよかったんで」 
      「あ………ああ……わかった」 
      戸惑いながらも頷く手塚にニッコリと微笑んで、リョーマは帽子を被って背筋を伸ばした。 
      「行くよ、部長」
 
 
  しっかりとウエアを着込んだリョーマと手塚を見て、三人の男たちは眉を顰めた。 
      「何の準備したって?まさか『テニスしましょう』とか言うんじゃねぇよな?」 
      「そうっスけど?」 
      平然と答えるリョーマに、三人の顔色が変わった。 
      「てめぇ、あの写真バラまかれてもいいのかよ!」 
      「よくないけど、オレと部長とでアンタらの相手するって言ったら、アンタ合意したじゃん。そこでもう取引成立してるんだけど?」 
      「なんだと!」 
      「テニスも『気持ちよくって、楽しいコト』っスよ?」 
      「ふざけるなっ!」 
      殴りかかりそうな勢いで詰め寄る長身の男を見上げながら、リョーマはニヤリと笑った。 
      「でも、ただテニスしましょうって言うのはつまんないから、負けた方は勝った方の言うことを何でも聞くってコトにしません?」 
      「なに?」 
      「ちゃんとアンタたちにハンデはあげるよ」 
      そう言ってリョーマは手塚を振り仰いだ。手塚は黙って頷く。 
      「対戦は、アンタたち三人一組のチームと、オレと部長のペア。つまり三人対二人。変形のダブルスってとこかな」 
      手塚はゆっくりと腕を組んだ。 
      「ハンデその一は、アンタたちがサーブする時は、誰が、どこから打ってもいいってコト。でも、まあ、エンドラインよりは後ろってコトで」 
      長身の男は不審そうに目を細めながらリョーマの出す条件を聞いている。 
      「ハンデその二。オレたちにサーブ権がある時は、アンタたちが一球でもサーブを打ち返せたら、その瞬間にこの試合はアンタたちの勝ち。ゲームオーバー」 
      「なに?」 
      男の顔が緩んだ。勝機を見出したらしい。 
      「お前、俺たちの運動神経、ナメてんじゃねえの?軽音だからって油断しちゃって。本当にそんな条件でいいのか?」 
      「いいっスよ。ねえ、部長」 
      手塚はチラリとリョーマを見遣ってから頷いた。 
      「こちらはそれで構わない。他にハンデはいらないのか?」 
      「……バカにしやがって」 
      「いらないみたいっスよ、部長」 
      リョーマが肩を竦めてみせる。 
      手塚は小さく溜息を吐いて、組んでいた腕を解いた。 
      「よし、では少し体を温めてから、試合を始めよう」 
      「そんなチンタラやってやれるかよ。さっさと始めようぜ」 
      「怪我をするぞ?」 
      手塚に真っ直ぐ見つめられて、男は鼻白んだ。 
      「テニスで怪我なんかするかよ。ラケット貸せよ、早く!」 
      「………その言葉、忘れるな」 
      手塚は一瞬男を鋭く睨んでから、部室にある初心者用のラケットを三本渡した。 
      「三人いりゃあ、ちょろいぜ」 
      「ああ。絶対にあの生意気な越前に、泣きながら許してくださいって言わせてやろうぜ」 
      「よがらせて啼かせるってのもいいな」 
      手塚がきつく眉を寄せるのを見て、リョーマはそっと手塚の腕に触れた。 
      「部長。勝手に決めてごめん。……でも部長なら、大丈夫だと、思うから…」 
      曇りのないリョーマの瞳に真っ直ぐ見上げられて、手塚は身体の奥が震えるような感覚を覚えた。 
      リョーマが全面的に自分を信頼してくれていることが嬉しかった。 
      そして、リョーマが持つ揺るぎない自信が眩しかった。 
      「手塚、越前?どういうこと、これ」 
      二人がコートに入ろうとすると、不二を先頭にしてレギュラー陣が姿を現した。 
      「これから彼らとワンセットマッチの試合を行う。申し訳ないが、しばらくCコートを借りる」 
      表情を動かさずに説明する手塚に、不二はきつく眉を寄せた。 
      「何で試合なんか………彼らに何か、弱みでも握られているわけ?」 
      「…そんなところだ」 
      「部長、行きましょう」 
      「僕が審判をやってもいい?」 
      不二が制服のまま一緒にコートに入ってきた。 
      「ああ。頼む」 
      手塚が頷くと、不二は硬い表情のまま審判の席に着いた。
 
 
  グルグルと腕を回しながらリョーマはコートに入った。手塚も軽く身体を解しながらリョーマのあとからコートに入る。 
      「さっさとしろよ!」 
      長身の男が苛立ったように怒鳴った。 
      「越前」 
      男をチラリと睨んでから、手塚はリョーマを呼び寄せた。 
      「なんスか?」 
      「……すべてエースで行くぞ」 
      リョーマは一瞬目を丸くしてから、ふっと笑った。 
      「了解!」 
      サービスエースはもちろんだが、リターンエースも狙っていくと手塚は言ったのだ。 
      リョーマは全身が震えるほど心が高鳴るのを感じた。 
      手塚にパートナーとして認められたことが嬉しかった。 
      審判席に着いた不二が三人組の男を見て口を開く。 
      「そう言えば、名前訊いてもいい?どうせすぐ忘れちゃうけど」 
      「俺は市ヶ谷、隣が大久保、その向こうが中野だ」 
      「へぇ…」 
      不二はニッコリと微笑んだ。 
      「君たちバンド組んでいるんだよね。もしかして、バンド名って、『CENTER LINE』とかいったりして?」 
      「お?何だ、俺たちって、結構有名なのか?アンタ、見所あるな。ライブのチケットやってもいいぜ?」 
      「なーんだ。もっと捻った名前つけりゃいいのに。『中央線』だなんて」 
      機嫌のよかった長身の男(市ヶ谷と名乗った)の表情が、そのリョーマの一言で凍り付いた。不二がクスクスと笑う。 
      「………なに?」 
      「アンタたちの名前がJRの中央線の駅名と同じだからでしょ?わかりやすいね」 
      「てめぇ……」 
      市ヶ谷の顔が怒りで真っ赤になる。 
      「越前リョーマ、俺たちが勝ったら……覚えていろよ…」 
      「安心していいよ。アンタたちが勝てなくても、二日くらいは覚えていてあげるから」 
      さらに顔を真っ赤にする市ヶ谷を見て、手塚は深く溜息を吐いた。 
      「越前、そのくらいにしておけ」 
      「ういーっス」 
      「じゃあ、試合を始めるよ。ワンセットマッチ、市ヶ谷、トゥ・サーブ」 
      不二の声でコートの空気は一気にピンと張りつめた。 
      「くらえっ」 
      市ヶ谷のサーブがリョーマたちのコートに叩き込まれる。 
      「なかなかいいサーブだ」 
      言いながら手塚が鋭く打ち返した。 
      「うわぁっ」 
      サーブを打った体勢を立て直す間もなく手塚に足下へ鋭く打ち返されて、市ヶ谷は尻餅をついた。 
      「0ー15」 
      不二が淡々と告げる。 
      「ち…っくしょう」 
      市ヶ谷が尻をさすりながら立ち上がった。 
      「中野、次はお前がやれよ」 
      「あ、ああ」 
      中野と呼ばれたのは、リョーマにカッターを突きつけていた男だ。 
      「い、いくぜ!」 
      それなりの球威を持ったサーブが、リョーマの構えるコートに打ち込まれる。 
      「まだまだだね」 
      手塚同様、リョーマの打ち返したショットも中野の足下に突き刺さり、驚いた中野はやはり体勢を崩して尻餅をついた。 
      「0−30」 
      不二の声が静かに響く。だが、小さく押し殺したような笑い声がさざ波のように聞こえてきた。 
      フェンスの外側には、いつの間にか大勢の部員が貼り付いていた。 
      その後、大久保という名前らしい男も、同様に尻餅をつかされ、周囲の笑いを誘った。 
      次のショットは市ヶ谷と中野の、ちょうど真ん中に叩きつけられて二人は動けなかった。 
      そうしてサーブ権は移った。 
      リョーマが左手でポーンポーンとボールをバウンドさせる。ラケットは右手。 
      桃城がククッと笑う。 
      「早々と出るぜ。越前の…」 
      高いトスが上がった。 
      「ツイストサーブ!」 
      「はぁっ!」 
      ギュンと回転のかかったサーブが市ヶ谷に向かって放たれた。 
      「打ち返してやる!」 
      突っ込んできた市ヶ谷は、しかし、いきなり自分に向かって跳ね返ってきたボールに悲鳴をあげた。 
      「うわぁぁっ」 
      避けきれなかった市ヶ谷は顔面でボールを受け、脳震盪を起こした。 
      「15−0」 
      「市ヶ谷ッ!」 
      「ひぃぃ、なんだ今の……っ」 
      「次、行くよ」 
      リョーマはさっさと移動して構えている。手塚は構えもせずに倒れている市ヶ谷を見ていた。 
      「ま、まて…」 
      構わずにリョーマは高いトスを上げた。 
      「はぁっ!」 
      「ひぃ…っ!」 
      今度のサーブは中野の顔面にヒットした。 
      「30−0」 
      倒れたまま起きあがらない二人を交互に見ながら、大久保は逃げ腰に構えた。 
      「次はアンタね」 
      また高いトスが上がる。 
      「はぁっ!」 
      竦んで動けない大久保は、哀れ、見事にリョーマのツイストサーブを鼻に受けて吹っ飛ばされた。 
      「40−0」 
      「くそ…」 
      市ヶ谷がよろめきながら起きあがってきた。 
      「頑張ってよ。市ヶ谷サン」 
      じっとリョーマに見つめられて、市ヶ谷は歯を食いしばった。 
      「ち……」 
      「そうそう、その調子で。じゃ、行くよ」 
      軽い言葉とは裏腹に、凄まじいパワーを持ったサーブが、再び市ヶ谷を吹き飛ばした。 
      「ゲーム、2ー0」 
      周囲からわぁっと言う歓声が上がった。 
      どうやらこの三人は、校内でも質の悪い連中として有名だったらしく、部員の中にも被害に遭った者がいるようだった。 
      「いいぞ越前!どんどん吹っ飛ばせ!」 
      「やれやれぇ!」 
      乾が周囲を見回して苦笑した。 
      「…ここにいる全員グラウンド10周だな…」 
      「でも越前のヤツ、ヒーローみたいだな」 
      大石が困ったように笑いながら菊丸を見た。 
      「ってゆーかぁ、おチビの方が悪役っぽくにゃい?」 
      「あはは、ごもっとも」 
      引きつった笑いを浮かべて大石が胃を押さえた。
 
  その後も三人組は散々な目に遭った。 
      自分たちのサーブでは打ち返されたのがわからないほど鋭い手塚のショットに呆然とし、リョーマのライジングは顔面や腹に打ち込まれてボロボロにされた。 
      サーブ権が移れば、今度は手塚の迫力のサーブに立ちつくしたまま終わり、再び自分たちにサーブ権が戻っても、もうラケットを握っているのがやっとの状態だった。
 
  「ゲームセット。ウォンバイ、手塚・越前ペア6−0」 
      文字通り、手塚とリョーマの圧勝だった。 
      三人組はコートに倒れ込んだまま起きあがる気力も体力もないようだった。 
      「どうっスか、先輩たち。気持ちいい汗いっぱいかいてるみたいっスけど、楽しかったでしょ?」 
      「…………」 
      答えずに、市ヶ谷がハァハァと息を弾ませながら、息ひとつ乱れていないリョーマをじろりと睨んだ。 
      「まずは携帯を出してもらおうか」 
      リョーマと同じく、涼しい顔をした手塚が無表情のまま市ヶ谷を見下ろす。 
      市ヶ谷は言葉も出ないらしく黙ったままポケットから携帯を取りだした。 
      「あっ」 
      横取りするかのようにリョーマがパッと携帯を奪い取る。 
      「てめ…」 
      市ヶ谷が動けないのをいいことに、リョーマは勝手に携帯を操作し始める。 
      「画像は…っと……あ、これか」 
      「…他に送信していないか確認した方がいい」 
      手塚に指摘されてリョーマは送信履歴を見てみたが、どうやらそこまで狡猾ではなかったらしい。 
      「じゃ、この画像消すから」 
      「……勝手にしろ」 
      リョーマは自分と手塚のキスシーンをほんの少しだけ見つめた。 
      (記念に欲しかったな…) 
      だが手塚は家に帰ってからもう一度キスしてくれると言った。 
      気持ちよかったから、などと言う理由を手塚は疑問にも思わなかったらしい。キスに慣れているふうを装っておいてよかったとリョーマは思う。 
      (こんな写真があったら、いつまでもうじうじしそうだしね) 
      だがリョーマが溜息を吐くのと同時に、いつの間にか覗き込んでいた手塚も溜息を吐いたので、リョーマは少し驚いた。 
      「部長?」 
      「ん?いや……早く消してしまってくれ。見ているとつらくなる」 
      「………はい」 
      リョーマは強ばりそうになる表情を必死に微笑みに変えて頷いた。 
      (やっぱそうだよな。部長にとってはこんな写真、見るのも嫌なんだ…) 
      いくつかボタンを操作してリョーマは画像を消去した。 
      だが、携帯を持ったまま、リョーマは首を傾げてみせる。 
      「あれ?、どうやって消すんスか、これ。ああ、これかな」 
      手塚がリョーマの手の中を覗き込むと、「メモリー全消去」が選択されていた。 
      「越前……」 
      「これでいいんスよね?部長」 
      ニヤリと笑うリョーマに、手塚は小さく目を見開いてから溜息を吐いた。 
      「……俺にも操作方法はわからないが、たぶんそれでいいんだろう」 
      「ういーっス、じゃ、消去!っと。はい、おまたせ」 
      リョーマは未だ寝転がったままの市ヶ谷に携帯を差し出した。 
      「ちっ」 
      舌打ちしながら携帯を受け取ると、市ヶ谷はやっと身体を起こす。 
      「で、なんでも言うことひとつ聞くんだろ?早く言えよ」 
      溜息混じりにそう言いながら、市ヶ谷は携帯をポケットにしまい込んだ。 
      リョーマは手塚を見上げた。手塚が「いいか?」と小さく確認をとると、リョーマは黙って頷いた。 
      「お前が目撃した女子の名前を確認して、俺たちに知らせて欲しい」 
      「え?」 
      「廊下で見かけるんスよね?だから、その人の名前、確認してよ」 
      市ヶ谷は目を見開いた。 
      「そんなことでいいのか?」 
      「べつに。だってそれはオレと部長が一番知りたいことだから」 
      市ヶ谷は短い沈黙の後で、小さく笑いながら立ち上がった。 
      「やっぱお前いいな、越前。真っ向勝負で行けばよかったかもな」 
      「残念でした。オレ、もう好きな人いるから」 
      手塚がふと、視線を落とす。 
      「あっそ。ま、振られたら俺が拾ってやるから、俺の顔、忘れるなよ?」 
      「だから、二日くらいは覚えているってば」 
      「あーくそ、さっさとヤっちまえばよかった」 
      ギロリ、と手塚が市ヶ谷を睨みつける。 
      「ダメか。このナイト様がいるんじゃ」 
      「そうっスよ。最高で最強なんスから、アンタじゃ無理」 
      リョーマが手塚を見上げて微笑む。手塚もぎこちなく微笑んで見せた。 
      「じゃ、これからテニス部の練習だから、さっさと帰ってくんないっスか?」 
      「あー、わかったよ。ほら、お前ら、行くぜ」 
      漸く起きあがってきた仲間二人を促して、市ヶ谷はコートを出て行った。
 
  「部長、お疲れ!」 
      「ああ、越前もよくやった」 
      リョーマと手塚は拳をぶつけ合って微笑んだ。 
      「ところで」 
      リョーマに向けていた微笑みをあっさりと消して、手塚がフェンスに貼り付いていた部員たちを見渡した。 
      「アップもせずに、今の試合を見ていた者全員、グラウンド10周!但し、その原因を作った俺と越前は、グラウンド30周する!行け!」 
      「えぇぇっ」 
      「ひぃぃっ」 
      部員たちが口々に何か叫びながらグラウンドを走り始めた。 
      「越前、走るぞ」 
      「ういーっス」 
      間延びした返事をしてから、リョーマはクスッと笑った。 
      部員たちの後ろについて走り出しながらリョーマが手塚を見上げる。 
      「やっぱ部長は最強っスね」 
      「けじめはつけなければなるまい」 
      前を見つめたまま、手塚が答える。 
      「今夜、疲れて寝相悪かったらすみません」 
      「大丈夫だ。あのベッドはかなり広い」 
      そう言って手塚はふっと笑った。 
      「それでもだめなら、俺がしっかり押さえ込んでやる」 
      「うわ、うなされそう」 
      リョーマが声をたてて笑う。 
      手塚も小さく笑ってから、気がついたように咳払いをした。 
      「…真面目に走れ。一応、罰で走っているのだからな」 
      「ういーっス」 
      それでもリョーマの表情から笑みが消えることはなかった。 
      結果的に見て、今回、市ヶ谷たちから得たものは大きかった。 
      写真を貼りだしたのが二年の女子であったことがわかったのが一番大きな収穫だが、それ以上に、リョーマは手塚と心が近づいたようで嬉しかったのだ。 
      あんな、人の寄りつかないような場所に閉じこめられている自分を見つけてくれたこと。 
      自分を庇って三人と対峙してくれたこと。 
      具合の悪い自分を、人目を気にせず抱き上げて保健室に運んでくれたこと。 
      授業の合間にわざわざ自分の様子を見に来てくれたこと。 
      そして、一緒にペアを組んでコートに立てたこと。 
      (でも一番嬉しかったのは……) 
      リョーマはそっと、隣を走る手塚を盗み見た。 
      (部長と……) 
      その唇を見つめて、リョーマはほんのりと頬を染めた。 
      部活中は常に厳しい言葉を発し、家では柔らかな言葉を紡ぐその唇が自分の唇に触れ、まるで愛しい者にするように舌で口内を愛撫された。 
      思い出すだけでリョーマの中心が熱を帯びそうになるほど、情熱的だった。 
      そして、そのキスを、手塚も気持ち悪いとは言わなかったことがひどく嬉しい。 
      さらには、ダメもとで言ってみたリョーマの言葉に頷いて、家に帰ったらまたキスしてくれるとまで言ってくれた。 
      普通に考えたら、それは妙な話なのかもしれない。気持ちよかったからとはいえ、男同士で、強制されたわけでもないのにキスすることを承知してくれるなんて。 
      だから、手塚にとって、自分は少しだけ特別なのかもしれないと、リョーマは思う。 
      もしそうならば、自分の想いを告げるのは、もう少し先に延ばそうと思う。 
      今のままで、充分すぎるほどリョーマは幸せだった。 
      (ごめん、部長。アンタの優しさに、ちょっとだけつけ込ませてもらうから……) 
      リョーマは睨むように前を見つめた。 
      (きっともうすぐ、母さんから連絡が来て、家に呼び戻されるんだ) 
      だからその前に、少しでもたくさん、手塚との時間を持ちたい。あのベッドで眠る時間さえも記憶していられたらいいと強く思う。 
      やっておきたいことが、まだまだ、たくさんたくさん、リョーマにはあるのだ。
 
  部員たちが10周を終えてコートに戻る頃、リョーマと手塚は残りの20周を二人きりで走った。 
      それすらも、リョーマにとっては至福の時間だった。 
      チラリと手塚を見ると、不思議なことに手塚と目があった。 
      「…なんだ?」 
      「べつに」 
      リョーマが楽しげに笑うと、手塚も少し笑ったようだった。 
      今この瞬間も、手塚と心が通っている気がして、リョーマはこのままずっと走っていたいと思った。
  (もう少しだけ、近づいても、いい…?)
  リョーマは心の中でそっと手塚に囁いた。
 
 
 
 
 
  
      続
 
 
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      20050622 
      
      
  
    
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