  ダブルベッド
  
  <4>
  
      
  ドスン、ドスンと、重く鈍い音が講堂の地下室に響いていた。 
      「あ〜あ、なんか目ぇ覚めちゃったんじゃねぇの?」 
      リョーマの耳に絶望的な声が聞こえた。 
      「お前が薬ケチるからだ」 
      「薬自体がインチキだったんだよ」 
      「ネットで買ったんだからしょうがねぇよ」 
      いきなり、ガガガッと箱自体が動かされるような振動をリョーマは感じた。 
      バリッというような音をさせてリョーマが蹴り続けていた部分がドアを開けるように開かれた。 
      「!」 
      急に光が目に入り、眩しさにリョーマは目を瞑って顔を背ける。 
      「バカだな、お前。俺たちが昼飯買ってくる間大人しくしてりゃ、放課後までほっといてやったのに」 
      「どうする、やっぱもうヤっちまう?」 
      「あと10分くらいしかねぇよ。一人3分で終わるのかよ」 
      「やっぱおまえらもヤるのか?……俺のモンにするのに…」 
      「最初は譲ってやるよ」 
      下卑た笑いを交えて交わされる不穏な会話を聴きながら、リョーマは何とか諦めずに機会を窺おうと自分を奮い立たせる。それに、どうやらこの三人は午後の授業には出る気らしいので、何とか時間さえ稼げればこの場をしのげるかもしれないと思った。 
      (目一杯暴れるか……それとも油断させて手とか足とか解かせるか……) 
      どちらにしろ三人が相手では難しいとは思う。 
      でも諦めたくはない。 
      せめて、手塚に想いを告げる時は、誰の手にも触れられぬままの身でありたい。 
      「ヤベェ、誰か来る!」 
      「…そいつ隠せ!」 
      「俺が一緒に入る」 
      茶髪の一人がリョーマとともに箱に入り、また箱の入り口が閉ざされた。だが入り口が閉められただけで、今度は箱の向きが変わることはなかった。 
      「…静かにしてろよ……でないと、怪我するぜ?」 
      男がカッターを取り出してリョーマの頬に当てた。 
      (カッターならせいぜい切られるくらいだな……これならスキを見て体当たりすれば、何とかなりそう…) 
      「ここで何をしている!」 
      突然、地下室に響き渡った聞き慣れた声に、リョーマの身体がビクリと震えた。 
      (部長!?) 
      「ちっ」 
      リョーマにカッターを当てている男が舌打ちした。 
      「これはこれは、生徒会長様、ここで何を…って俺たちが使うスピーカーとか、機材の点検っスよ」 
      「もうすぐライブなんで、ちょっとね」 
      手塚は答えない。 
      リョーマは迷った。 
      このまま箱から飛び出せば状況は一変するだろう。だが、それは、同時に手塚を危険に巻き込むことにもなる。体の自由が利かないリョーマを庇いながら三人を相手にするのは、手塚にとってはひどく不利に思えた。 
      (いや……でも、部長なら……) 
      公園での手塚の身のこなしを思い出した。 
      飛びかかってくる相手の力を利用し、受け流すようでいて一撃を加えた手塚の技は、「ちょっと習った」どころのものではなかった。その道を極めようと思えば、今頃、それこそ全国レベルに達していたかもしれない。 
      それに。 
      リョーマはふっと笑った。 
      (部長は、負けない) 
      手塚なら、誰にも、何にも負けない気がした。 
      柔道の心得があるとか、冷静に相手を観察できて咄嗟に行動できるとか、そんなことではなく、もっと根底的なところで、どんな困難な状況でも持てる力をフル活用して、必ず勝利する心の強さを持つ男だと、リョーマには思えた。 
      恋情抜きで考えても、手塚はあらゆる信頼に応えてくれる男だと。 
      「頭数が足りないようだが?」 
      手塚の低い声が地下室に響く。 
      その怒りを抑えたような声に、リョーマは心が震えるような感覚があった。 
      手塚が、たぶん自分のために、ひどく怒ってくれている。家での優しい、穏やかな手塚を知っている分、リョーマにはその怒りの凄まじさがビリビリと伝わってくるようだった。 
      静かな怒りは、確実にその人の強さになる。 
      だから、手塚の怒りは何もかも信頼できる手塚の強さを、さらに引き出すための起爆剤のようにリョーマには思えた。 
      「頭数って?最初から俺たちは二人でいたんスけど?」 
      彼らが三人組であることを、どうやら手塚は知っている。 
      (きっと堀尾が伝えてくれたんだ…) 
      「……越前をどうした?」 
      「はぁ?なんスかそれ?」 
      声からしてたぶんあのリーダー格の長身の男が、しらばっくれて笑った。 
      「少し前にもここを覗いたんだが………そこのスピーカー」 
      「えっ?」 
      明らかに長身の男の声音が変わった。 
      「さっきと向きが違うな。点検するのに向きを変えたのか?」 
      「そ、そっスよ。いろいろ調べなきゃならないんス」 
      男の声の慌てぶりから見て、リョーマは自分が入れられている「箱」が、スピーカーのようにカモフラージュされているのだと知った。 
      何のためにこんなものが存在するのかはわからないが。 
      「俺にも見せてもらっていいか?」 
      「ちょっ…」 
      足音が近づいてくる。そうして箱の前で、止まった。 
      「……っ」 
      リョーマにカッターを突きつけていた男の注意が箱の入り口の方に向けられた。 
      そのチャンスを、リョーマは逃さない。 
      「うわっ」 
      男の身体へ、リョーマは全身でぶつかっていった。 
      鍵などない箱の扉は、呆気なくリョーマと男を外へと吐き出した。 
      「越前!」 
      「わ、バカ野郎!」 
      手塚と長身の男が同時に叫んだ。 
      リョーマに駆け寄ろうとする手塚の前に、何とか起きあがった茶髪の男がカッターを構えて立ち塞がる。 
      「どけ…っ」 
      怒りのあまり表情が抜け落ちた手塚の気迫に、その茶髪の男は一瞬気圧された。だがもう一人の茶髪の男が後ろから手塚に抱きつくようにして動きを封じ込めにかかった。 
      「…っ」 
      「う、ぐぁっ」 
      またもやそれは一瞬の出来事だった。 
      男が手塚の両腕を拘束にかかった瞬間、手塚は腰を落として男の腕をすり抜け、代わりに思い切り、いわゆる「肘鉄」を食らわせたのだ。 
      息を詰まらせて転がり回る男を尻目に、手塚はカッターを構える男をもう一度ひと睨みしてから、身を竦ませて動けない男の横を素通りしてリョーマに駆け寄り、猿ぐつわを外す。 
      「大丈夫か、越前」 
      「部長…」 
      手塚はふっと表情を緩めると、ギュッとリョーマを抱き締めた。 
      「よかった…」 
      「部長…っ」 
      深く深く、強く抱き締められてリョーマは身体の力を抜いて手塚に身を預けた。 
      「あらら、やっぱウワサ通りなんだ。ちょっと妬けるね」 
      長身の男が嗤う。だが手塚とリョーマが睨み返した男の瞳は、少しも笑っていなかった。 
      「どうする?」 
      鳩尾を押さえながら立ち上がった茶髪の男が長身の男に問う。カッターを持った男も長身の男の傍に戻ってきた。 
      「…ナイトが現れたんじゃ、そう簡単にはヤれねぇよな」 
      手塚がリョーマの手足の拘束を手早く解いてから、自分の身体の後ろに隠すように庇って男たちの方を向いた。 
      「でもねぇ、手塚先輩。これは俺とそいつとの取引なんスよ?」 
      「取引?」 
      手塚がきつく眉を寄せる。 
      「そう、取引。俺はそいつに、ある情報を提供したんスよ。だからそいつは、俺に『情報料』を支払う義務がある」 
      「……どんな情報だ?」 
      「アンタも情報料、支払ってくれるんだ?」 
      「情報の内容による」 
      長身の男はフンと鼻で笑った。 
      「…掲示板にアンタとそいつのツーショット写真を貼りだしたのは、二年生の女子だ。後ろ姿だけだが、同じ階の廊下で見かけたことがあるから間違いないと思う」 
      手塚は不審そうに目を細めた。 
      「それだけか?」 
      「……今朝もその女を見かけた。あの掲示板近くの昇降口の方で」 
      「また後ろ姿を?」 
      「そうっスよ」 
      真っ直ぐ見つめ返してくる長身の男の瞳に、嘘はなさそうだと手塚は思った。 
      「どんな後ろ姿なんだ。もう一度見れば、すぐわかるのか?」 
      「ああ、わかりますよ。女の髪型には結構うるさい方なんだ、俺」 
      「髪型?」 
      「セミロングの、すっげぇ綺麗なサラサラの髪した子。身長は越前と同じくらいかな。ちなみに越前みたいな硬めのショートも好みだぜ?」 
      じろりと、手塚は男を睨みつける。男は苦笑して両手を上げて見せた。 
      (サラサラの髪…?) 
      手塚の後ろでリョーマはふと、似たような印象の後ろ姿を見たような気がして俯いた。 
      印象に残るほど綺麗なサラサラの髪。それは、その持ち主が少しでも動くたびに綺麗な音でもしそうなほど優雅に肩や背中を流れていた。 
      「あ……っ」 
      「どうした?越前」 
      「桃先輩を呼び出していた人かも」 
      「桃城を?」 
      手塚に頷いてから、リョーマは長身の男に視線を向けた。 
      自分の推理が正しいかどうかを、今すぐ桃城に訊ねてみる必要がある。そのためには、今、この場を何とか巧く切り抜けねばならない。 
      そうしてふと、リョーマはちょっとした「いいこと」を思いついた。 
      「ねえ、情報料だけど、オレと部長とで払ってもいい?」 
      「は?」 
      リョーマはふっと笑みを浮かべた。長身の男の目には、どこか妖艶にも映る、笑みを。 
      「気持ちよくて、楽しいこと、でしょ。一回相手すればいいんスよね?」 
      「越前?」 
      手塚が驚いてリョーマを振り返った。 
      「部長もオレと同じ情報聴いたんだから、部長と二人でアンタたちの相手をするよ。それでいいっしょ?」 
      長身の男も呆気にとられたように目を見開いていた。 
      「あ…ああ、まぁ、二人でもいいけど……、マジかよ……」 
      「じゃあ、放課後に部室に来てよ。部長と二人で、アンタたち三人の相手をするから」 
      「………逃げる気じゃねぇよな?」 
      好色そうに、だが不審げに、男がリョーマを見つめる。 
      「どこに逃げるって?同じガッコなんだから、逃げられないっしょ」 
      見据えるように真っ直ぐ見つめ返してくるリョーマに、男はゴクリと喉を鳴らした。 
      「越前…」 
      「大丈夫っス。部長には、あいつらの指一本、触れさせやしないから」 
      眉を寄せて覗き込んでくる手塚に小声でそう言うと、リョーマはニッコリと微笑んだ。手塚はさらにきつく眉を寄せる。 
      「俺のことはどうでもいいんだ。お前に何かあったら俺は……っ」 
      リョーマはふわりと微笑んだ。 
      「オレに何かあっても、それはオレの責任っス。部長には何の責任もないから気にしないで下さい。でもこの人たちの相手するのは、ちょっとだけ、付き合ってもらえます?」 
      手塚は目を見開いた。どこか、肝心なところでリョーマに拒絶されたような気がした。 
      「……わかった」 
      「すみません」 
      「何コソコソ話してるんだ」 
      リョーマはまたクスッと笑ってみせた。 
      「三人いっぺんに相手するのは、オレも部長も初めてなんで、お手柔らかにお願いしまーす」 
      「………」 
      手塚は、ただ黙って男の方を向いた。 
      リョーマが何を考えているのかはわからなかったが、今は、口を挟まずに黙っておこうと思った。 
      「………なんか信用できないな。アンタらが逃げないっていう、担保が欲しい」 
      「担保?」 
      リョーマが怪訝そうに首を傾げた。手塚はきつく眉を寄せる。 
      「そ。担保。……そうだな……」 
      男はニヤリと笑うと、ポケットから携帯電話を取り出した。 
      「キスシーンの写真、撮らせろよ。ディープなヤツ」 
      「は?」 
      「…っ!」 
      手塚とリョーマは同時に目を見開いた。 
      「アンタらがちゃんと俺らの相手をするなら、写真のデータは消してやるよ。でももし逃げたり誰かに話したりしたら、写真をばらまくぜ」 
      男に笑いながら「どうする?」と訊かれて、手塚とリョーマは顔を見合わせた。 
      (キス……?) 
      二人は困惑した。 
      「アンタらが今ここでキスすんのが嫌だって言うなら、手塚先輩、アンタの目の前で、今すぐコイツ、ヤるよ?」 
      「!」 
      「アンタ、有段者かなんか知らないけど、所詮は人数がものを言う。油断さえしなけりゃ、こっちに分がある」 
      手塚はぐっと奥歯を噛み締めて男を睨みつける。 
      (どうすれば……) 
      その時、手塚の背後で小さく笑う声が聞こえた。 
      「べつにいいっスよ。キスくらい。ねえ、部長?」 
      「………っ」 
      手塚は驚いてリョーマを振り返った。 
      「……初めてじゃあるまいし。部長は初めて?」 
      リョーマは精一杯見栄を張った。 
      挨拶代わりのキスならそれなりに経験はある。それでもマウス・トゥ・マウスは出来るだけ避けてきた。 
      だから、リョーマにとって本格的なディープキスなど初めてということになる。 
      それでも、いや、そうだからこそ、これでいいとリョーマは思う。 
      ギャラリーはいるが、自分の、一度しかない「ファーストキス」を手塚と出来るならこんなに嬉しいことはない。ファーストどころか、これが最初で最後のキスになるかもしれないけれど。 
      (部長も初めてだったら嬉しいけど……) 
      だがリョーマの問いかけに少し沈黙してから、手塚は「いいや」と答えた。 
      「…初めてじゃない。だから、俺のことは気遣わなくていい」 
      「ふーん。部長も経験ありなんだ。ちょっと意外かな」 
      リョーマは微笑みながら、心の奥が静かな音を立てて砕けるような感覚の中にいた。 
      どこか、手塚にはキスの経験どころか、恋愛の経験もないだろうと、リョーマは考えていた。 
      (そんなわけ、ないか…) 
      これほど見た目も中身も完璧な手塚を、周りが放っておくわけがなかったのだ。 
      リョーマは微笑む。まるで仮面を被るように。 
      「じゃ、いいっスね。キスしても」 
      「ああ」 
      無表情で頷く手塚を見つめていられなくて、リョーマは長身の男に視線を向けた。 
      「準備はいいっスか?ちゃんと……」 
      リョーマの言葉は、手塚に頬を撫でられて途切れた。 
      「ぶ…ちょう…?」 
      手塚は小さく微笑んだ。 
      「すまない」 
      ゆっくりと手塚の顔が近づく。 
      (あ………) 
      リョーマはそっと瞼を閉じた。 
      手塚の唇がリョーマの唇にふわりと触れて、すぐ離れた。 
      「ディープなヤツって言ったろ」 
      長身の男が携帯のカメラを構えながら薄く笑う。 
      「いいよ、部長……もっと……」 
      「……」 
      リョーマが目を閉じたまま薄く唇を開くと、再び手塚の唇が重なってきた。 
      最初は先程のように軽く唇を触れ合わせただけですぐ離れ、だがすぐに戻ってきた唇は、熱を帯びて深く重なってきた。 
      「ん……」 
      手塚の舌がそっと差し込まれる。 
      優しく触れてきた柔らかな感触に、リョーマの舌は反射的に奥に逃げ込もうとした。だが頬に添えられていた手塚の手がするりと後頭部に回されてぐっと引き寄せられ、逃げられなくなったリョーマの舌はあっさりと手塚の舌に捉えられた。 
      もう片方の手塚の腕がリョーマの腰に回される。 
      (部長……) 
      リョーマの思考の中から、すべての状況が吹き飛んだ。残ったのは、ただ、手塚への熱い想いだけ。 
      「…ん……」 
      手塚の舌先がリョーマの舌の付け根を優しく撫で上げる。そのまま口蓋を滑り、また舌に絡まり、徐に強く吸われた。 
      「んっ」 
      リョーマの背筋にじわりとむず痒い快感が這い上る。 
      瞼を震わせながらリョーマが薄く目を開けると、手塚の瞳に見つめられていた。 
      (部長……好き……) 
      リョーマはギュッと目を閉じて手塚の首にゆっくりと腕を回した。リョーマの後頭部を押さえていた手塚の腕がそのまま下に滑り降りてリョーマの身体を大事そうに抱き締めてくれる。 
      口づけは終わるどころか激しさを増すばかりで、何度も角度を変えながら、手塚は飽くことなくリョーマの唇を貪るように求めてくる。 
      (部長……どうして…こんな……) 
      切なくなって、リョーマは小さく眉を寄せた。 
      こんなふうにしっかりと抱き締められて、そんなにも熱い口づけを贈られたら、誤解してしまう。 
      もしかしたら、と。 
      自分の都合のいいように自分の願望だけを膨らませて、現実を無視して、ありもしない可能性を期待してしまう。 
      それでも、手塚を突き放して唇を離すことがリョーマには出来ない。 
      もう自分ではどうしようもできないほど、手塚が好きなのだ。 
      例えこのキスが偽りのものであっても構わないと思った。 
      現実にはありえないことだと思う切なさよりも、今、この瞬間、手塚に口づけられているという喜びの方が、リョーマの中で大きく膨れあがった。 
      「…っすっげぇ……」 
      だが、リョーマの胸を満たしていた喜びが、その一言で瞬時に罪悪感のような苦しみに変わった。 
      手塚の唇がゆっくりと離れてゆく。 
      「………ぁ…っ」 
      遠ざかる手塚の唇を見つめていると、リョーマの口元を手塚の指がそっと拭った。まるで汚れを拭き取るかのように。 
      手塚は何も言わず、長身の男を睨む。 
      「……これでいいのか?」 
      その言葉を聴いた誰もが凍り付くような、冷たい怒気を含んだ声だった。 
      「ああ、バッチリ撮らせてもらった」 
      男がそう答えるのと、講堂の地下室の入り口が騒がしくなるのとがほぼ同時だった。 
      「部長!ここっスかっ?」 
      「手塚、越前は?」 
      ドヤドヤと桃城たちが一斉に入ってきた。長身の男は携帯を自分のポケットにしまい込んでニヤリと笑う。 
      「じゃ、お二人さん、またあとで」 
      「てめぇっ!」 
      出てゆこうとする男の胸ぐらを、桃城が掴み上げた。 
      「よせ、桃城」 
      手塚の静かな声が地下室に響く。 
      「話は付いた。その男に手を出すな」 
      桃城は手塚の言葉にギリッと唇を噛むと、投げ出すように男から手を離した。 
      薄く笑いを浮かべながら出てゆく男たちを見送り、桃城は視線を手塚とリョーマに戻した。 
      「部長、越前は………」 
      言いかけて、桃城は言葉を飲み込んだ。 
      桃城だけではなかった。そこにいた全員が、二人を見つめていた。 
      「すまなかった、越前」 
      手塚の腕の中で、リョーマは俯き、唇を噛み締めていた。 
      「………部長…」 
      「ん?」 
      リョーマはそっと手塚の背に腕を回してしがみついた。 
      「……ごめん、部長……オレのせいで……こんなことさせて……っ」 
      「…俺のことは気遣うなと言っただろう」 
      手塚が、そうすることが自然なことのようにリョーマをしっかりと抱き締めた。 
      「お前こそ、嫌だったんじゃないのか……俺なんかに……」 
      手塚の腕の中で、リョーマはふるふると首を横に振った。 
      (オレは、嬉しかったよ、部長) 
      リョーマはその言葉を口には出さなかった。その代わり、違う言葉がリョーマの口から零れた。 
      「頭痛い……」 
      手塚の胸に、甘えるように額を擦りつけながら、リョーマが呟いた。 
      「え?」 
      実際、どうやら薬が残っていたらしく、緊張が解けてそれが一気に主張を始めたようだった。 
      「変な…薬、嗅がされて……その、せいかな…痛くて……」 
      手塚は眉をきつく寄せてリョーマをぎゅうっと抱き締めた。 
      「あいつら………っ」 
      手塚が鋭い瞳で宙を睨み、血が滲みそうなほど強く唇を噛み締めた。 
      だがリョーマが腕の中で小さく呻くのを聴いた瞬間、手塚の表情が心配そうな焦りを含んだそれに変わる。 
      「保健室に行こう」 
      そう言いながら、手塚はリョーマの身体を軽々と抱き上げた。 
      「…すまない、みんな。詳しいことはあとで話す。今は、越前を早く保健室に連れて行きたい」 
      「わかった。僕も付き合うよ」 
      不二が笑顔を消して頷いた。 
      「すまない、頼む、不二」 
      「うん。……乾、越前がミーティング中に急に気分が悪くなったとか、越前の担任の先生にうまく言っておいて」 
      「わかった」 
      乾が大きく頷く。 
      「…すまない、みんな」 
      もう一度そう言ってから、手塚はリョーマを抱えたまま歩き出した。 
      「越前……」 
      桃城が心配そうにリョーマを覗き込む。 
      「桃城、あとで話がある」 
      手塚にそっと囁かれ、桃城はギクリと身体を揺らした。顔を上げて手塚を見ると、小さく頷かれた。 
      「………はい」 
      桃城は手塚の目を見て、しっかりと頷いた。
 
  手塚は何も言わずに地下室を出て保健室に向かった。 
      ぐったりしたリョーマを抱きかかえて歩く手塚に、生徒たちの視線が集まる。だが傍に不二がいることで、「体調の悪い越前を保健室に運んでいる」と、普通に解釈してもらえたようだった。 
      保健室につくと、養護教諭がすぐにベッドを整えてくれた。 
      不二が養護教諭にリョーマの症状と状況の説明(もちろん何があったか本当のことは言わず、適当に話を作った)をしている間、手塚はベッドにそっとリョーマを降ろし、胸元のボタンをいくつか外して楽にしてやった。 
      「…すみません、部長」 
      「いや」 
      手塚は小さく微笑みかけてリョーマの前髪を払ってやり、そのまま頬に手を添える。 
      「大丈夫か?…あまり顔色がよくないな」 
      「……たぶん、もう少し横になってれば治るっス」 
      気持ちよさそうに手塚の手に頬をすり寄せながらリョーマは言う。 
      「そうか。無理はするなよ」 
      「ういっス」 
      無理に微笑もうとするリョーマに、手塚は柔らかく目を細めた。 
      「少し眠った方がいい。たまにはベッドを占領して、な」 
      「でもこれ、シングルだから狭い」 
      「贅沢を言うな」 
      手塚が、ちょん、とリョーマの額を小突いた。 
      「………なに?いつも二人で同じベッドに寝てるの?」 
      養護教諭との話を終えた不二が目を丸くして手塚に小声で問いかける。 
      手塚は内心舌打ちしながらも、当然だと言わんばかりに頷いて見せた。 
      「ダブルに近いセミダブルなんだ。…男同士なんだから、べつに問題はないだろう?」 
      「まあね」 
      不二は手塚をチラッと見遣って、大きく溜息を吐きながら言った。だがリョーマにはニッコリと微笑む。 
      「じゃあね、越前。次の時間は寝てるといいよ」 
      「ういっス」 
      「先生、では、越前のこと、よろしくお願いします」 
      養護教諭に一礼をして、手塚と不二は保健室を出ようとした。 
      「部長……」 
      だが、心細げなリョーマの声に呼ばれ、手塚は引き返してリョーマを覗き込んだ。 
      「どうした?」 
      「あ………その……なんでもないっス。……じゃあ、放課後の部活で」 
      「……ああ。…いや、5時間目の終わりに、また様子を見に来る」 
      リョーマは小さく頷いた。手塚も頷くと、後ろ髪を引かれる想いを断ち切って保健室を出た。
 
  「……本物の恋人同士にしか見えなかったんだけど?」 
      歩きながら、不二が困ったように微笑んで手塚に言った。 
      「……あんな危険な目に遭ったんだ。越前だって、心細くはなるだろう」 
      「キミも動揺したの?だからあんな、大切でたまらない恋人を見るような瞳で越前のこと見つめるわけ?」 
      「………」 
      手塚は眉を寄せて不二を見た。 
      不二が、クスッと笑う。 
      「僕の目には、キミが越前のことを心から愛しているようにしか見えないんだけどね」 
      「……バカを言うな」 
      手塚は不二の横をすり抜けて階段を上り始めた。だが少し上ったところで、手塚は足を止めた。 
      「不二」 
      「なんだい?」 
      振り向かずに言う手塚に、不二はいつもの口調で聞き返す。 
      手塚が小さく溜息を吐いた。 
      「今のこと、越前には言うな」 
      「…べつに言うつもりはないけど、どうして?」 
      「………」 
      手塚は答えずに再び階段を上り始めた。 
      溜息を吐いて、不二も後に続く。 
      二階に上がったところで、昼休みの終了を告げるチャイムが鳴り始めた。
 
 
 
 
  「熱はないわね。この薬飲んで、少し眠りなさい」 
      養護教諭は計り終えた体温計をリョーマから受け取り、代わりに薬と水を渡した。 
      身体を起こして薬を飲もうとして、ふと、リョーマは顔を上げた。 
      「先生、オレ、昼飯食ってない」 
      「あら、そうなの?何か食べてからの方がいいかしら。…いつもは軽く食べられるものを置いているんだけど、ちょうどきらしちゃってて。何か買ってくるわ。ちょっと待ってて」 
      「はーい」 
      間延びした返事をして、リョーマは再びベッドに横になった。 
      養護教諭が出ていくのをそれとなく確認してから、リョーマは深い溜息を吐いた。 
      (何も食べたくない、かも) 
      リョーマはそっと、自分の唇に指先で触れてみた。 
      (部長とキスしちゃった…) 
      それも、軽く触れるだけのキスではなく、深く舌を絡み合わせるような激しいディープキスを。 
      手塚の舌の感触を思い出して、リョーマは頬を染めた。 
      (部長……) 
      手塚は初めてではないと言っていた。ならば、どんな相手とあんなふうにキスを交わしたのだろう。 
      軋む心を宥めながら、リョーマは目を閉じて手塚の舌の動きをひとつひとつ鮮明に思い出そうとする。 
      熱いキスだった。その激しさに、意識さえ持って行かれそうになった。 
      なのに、ひどく甘かった。 
      唇だけでなく、身体までしっかりと抱き締められて、まるで恋人同士の口づけのようだった。 
      「………」 
      熱い吐息がリョーマの唇から零れる。 
      頬だけでなく、全身が熱を帯びてきた。 
      手塚の唇の感触、舌の動き、抱き締めてくる腕の強さ、合わさった胸の逞しさ…… 
      それらを思い起こしているうちに、リョーマの中心がジンジンと痺れるように熱を持ち始めた。 
      (部長……) 
      リョーマはそっと、自分の中心に手を伸ばした。 
      「あ…っ」 
      ズボンの上から押さえてみただけで、全身を快感が縦に突き抜ける。 
      (キスだけなのに…) 
      こんなふうに、自分の身体まで変化するとは思っていなかった。 
      (呆れられる、かな……) 
      リョーマは唇を噛んだ。 
      きっと、今夜手塚と一緒にベッドに入ったら、同じように反応してしまうだろう。 
      そんなじぶんの状態に気づかれてしまったら、きっと手塚は呆れてしまう。それこそ告白するどころか、もう二度と同じベッドでは寝てくれなくなるかもしれない。 
      「どうしよう……」 
      リョーマは頬を赤くしたまま途方に暮れた。
 
 
 
 
 
  
      続
 
 
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      20050620 
      
      
  
    
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