  ダブルベッド
  
  <2>
  
      
  タオルで汗を拭いながら、リョーマは手塚をそっと盗み見た。 
      手塚は不二と、何やら真剣な雰囲気で話をしていた。 
      (テニスのこと、かな……そうだよな……部長が部活中に他のことなんて……) 
      いつの間にか二人をじっと見つめてしまっていたリョーマは、一瞬不二と目が合ったような気がして、慌ててそっぽを向いた。 
      不二に、微笑みかけられた気もする。 
      そろりと視線を戻してみると、不二はすでに手塚に背を向けて歩き出していた。 
      手塚をもう一度見遣ると、何やらひどく難しい顔をしていた。 
      家では見たことのない、厳しい表情。 
      他の部員たちはそんな手塚の表情を見て顔を引きつらせているけれど、リョーマは知っている。その表情は、手塚が何か深く考え込んでいる時のものだと言うことを。 
      (何を…考えているのかな……やっぱり、犯人のこと、だよな……) 
      さっき、大石の思い違いで桃城を疑いそうになった一件を、リョーマは思い返した。 
      桃城ではありえない、と心の中では思っているはずなのに、大石の言葉でそれは簡単に覆されそうになった。 
      桃城は、リョーマにとって、どこか兄のような存在である。実際にはリョーマに兄はいないので、「兄」という存在がいたならばこんな感じだろうかと想像するに留まってはいるのだが。 
      しかし、なぜか遠い昔に「兄」がいたような奇妙な感覚もないことはなく、その妙な感覚が余計に、桃城を「兄」のような存在だと認識させている気がした。その遠い記憶の中の「兄」のような存在のイメージと、桃城とが重なるからだ。 
      (何かって言うとちょっかいかけてきて、意地悪したりするくせに、案外優しかったりもするんだよな) 
      桃城はリョーマのことを「守る」と言ってくれた。それはありがたいとは思うが、「守る」と言われて素直に喜ぶ気にはなれない。 
      なぜなら、リョーマも「男」だからだ。 
      男が男に守られては、はっきり言って、恥だ。自分は男としては弱くて情けないヤツなのだと、証明されているようなものなのだから。そんなのは御免だった。 
      確かに、「腕力」だけで言えば、桃城には敵わないかもしれない。しかし、テニスのレベルや、精神的な強さで言うならば、決して負けているとは思わない。むしろ、案外ナイーブな一面を持つ桃城より、自分の方が精神的な強靱さでは勝っていると思う。 
      桃城の人柄を嫌っているわけではない。一緒にいると、気を遣わなくていい分気楽だし、結構趣味が似ているところもあるので話も合って楽しい。 
      だから、そんな桃城が、自分を、そして尊敬しているらしい手塚を、陥れるようなことをするはずがないのだ。 
      なのに、自分は一瞬、桃城が犯人なのではないかと疑ってしまった。 
      元来、何でも自分の目で見たものだけを信じ、それを材料にして判断し、接してきたリョーマである。それなのに、さっきは冷静な判断が出来なかった。 
      (焦って、いるのかな……オレは……) 
      犯人を、早く捕まえたいと思う。 
      なぜなら、「犯人」は、手塚にとって迷惑な情報を流そうとするからだ。 
      その目的は未だ全く理解できないが、犯人は、どうしても自分と手塚を「恋人だ」と、学校中に示したいらしい。写真まで撮って。 
      (部長が、可哀相だ……) 
      優しい手塚は、口にも態度にも表さないが、たぶん、きっと、困っているのだろう。 
      (オレなんかと……男なんかと、ウワサになっちゃってさ……) 
      自分はいい、とリョーマは思う。自分は、手塚のことが好きなのだから。 
      だけど手塚は違うのだ。 
      確かに最初は、自分と噂が流れることによって、手塚の周りにまとわりつく女子を遠ざけ、手塚の煩わしさの元凶を少しでも排除できれば、などと考えていた。そうして、その目論見は、かなり成功している。 
      最近では練習を覗きに来る女子はかなり減った。それでも数人はフェンスに貼り付いているが、以前のように癇に障る黄色い声でキャーキャーと騒ぐことはなくなった。 
      不二や菊丸目当ての女子も、それにつられているのか、あまり騒がなくなった。 
      練習に集中できて嬉しい反面、どうしてか、罪悪感が募る。 
      (あの盗撮していたヤツ……部長にひどいこと言ってた……) 
      ホモ野郎、気持ち悪い、吐きそうになる……と、言葉の凶器で手塚を傷つけようとした。 
      許せない、とリョーマは思った。 
      だが、学校の生徒の中にも、あの男と同じように思っている連中が、必ずいるのだ。だから、手塚にまとわりつく女子は減ったし、校内では好奇の的になっている。 
      (だから、早く犯人を捕まえて、「全部でっち上げだ」って、証明させなきゃ……) 
      大好きな手塚を、これ以上貶めることは出来ない。 
      早く手塚の潔白を証明し、自分が離れていかねばならない。 
      そう思う気持ちが、たぶん、リョーマを焦らせているのだろう。 
      (桃先輩にも、悪いことしたな…) 
      桃城は「ひでぇな」と笑っていたけれど、きっと落胆していたに違いない。 
      そんな自分に比べて、手塚はいつも冷静だ、とリョーマは思う。 
      大石の話を鵜呑みにせず、冷静に「桃城が犯人では、目的が不明」だと、まず判断した。そうして実際に桃城の話を聴いたあと、その大きな心で桃城を信じると言い切った。 
      やはり手塚はスゴイ、とリョーマは思った。自分とは人間としての器が違うのかもしれない、とまで思えた。 
      そんな手塚だから、きっと自分は好きになってしまったのだけれど。 
      「………」 
      リョーマは溜息を吐いた。 
      手塚が自分を好きになってくれたら、どんなに嬉しいだろうか、と。 
      以前、桃城に「守る」と言われた直後くらいに、手塚にも「護る」と言われ、その時は、桃城の言葉と手塚の言葉に、なぜ違う感情が湧くのかはわからなかったが、今ならその理由は分かり切っている。 
      手塚が好きだからだ。 
      だから手塚に「護る」と言われて、護ってもらう行為そのものではなく、それほど大事に想われることが、とても嬉しかったのだ。 
      でも手塚にとってそれは、きっと「好き」とは違う感情なのだろう。そう思うと、リョーマの心は切ない音を立てる。 
      その時は無自覚だった手塚への想いも、昨日自覚してしまってからは、手の施しようがないほどの猛スピードでリョーマの心の中を手塚が占領していった。 
      何をしていても、手塚のことばかり考えてしまう。 
      昨夜もコンビニで買い物をしてマンションに帰ってからが大変だった。 
       買って帰った某有名メーカーのカップ入りアイスを、早速二人して食べた。手塚がバニラを。リョーマはストロベリーを買った。 
      「ここのストロベリーは、ホントにイチゴって感じがして美味しいんスよ。食べたことあります?」 
      アメリカの、吐きそうになるほど甘いアイスにうんざりしながら育ったリョーマは、日本人向けに甘さを控えたアイスの美味しさに、すぐにハマったのだと説明を加えた。 
      手塚は柔らかく目を細めて「そうか」と言った。 
      「他のイチゴ味のアイスとは全然違うんスよ。食べてみません?」 
      そう言ってリョーマはアイスをスプーンで一口分掬って、手塚の口元に差し出してみた。手塚は一瞬戸惑いの色を瞳に浮かべたが、素直に口を開けた。 
      リョーマのスプーンに乗ったアイスが、手塚の舌の上で溶かされるイメージが、ふいにリョーマの脳裏に浮かんで、頬が熱を帯びた。 
      「……うん、これは美味いな。他のメーカーのとは違うようだ」 
      「……でしょ?」 
      心の動揺を隠してリョーマが微笑むと、手塚も自分のスプーンにアイスを乗せてリョーマに差し出した。 
      「お礼だ」 
      「……っ」 
      リョーマは頬を真っ赤に染めて口を開けた。 
      手塚のスプーンが口の中にそっと差し込まれ、冷たい感触と程良い甘さが舌の上に広がる。 
      思わずうっとりと目を閉じて味わっていると、手塚が「美味いか?」と柔らかな声音で訊いてきた。 
      「うん。美味しいっス」 
      ニッコリ微笑んだら手塚も微笑み返してくれた。 
      嬉しくて嬉しくて、リョーマは叫びたいほど心が熱くなった。泣きそうなほど、手塚が好きだと思った。 
      それでも、何でもないような顔をしてリョーマはスプーンで自分のアイスを掬った。 
      (部長が使ったスプーンだ…) 
      些細なことにひどく感動しながら、リョーマはストロベリーアイスを口に運ぶ。 
      (間接キス、なんてね) 
      何だか初恋に胸を躍らせる女子のようだと、自分を情けなく思いつつも、心は素直に喜びを心臓から全身に伝えさせる。 
      手塚もアイスを口に運ぶ。リョーマが使ったスプーンで。 
      そう思うと、リョーマの心臓はさらに加速して早鐘のようなスピードで脈打つ。 
      じっと手塚の口元を見つめていると、手塚がクスッと笑った。 
      「…もっとこっちが欲しいのか?」 
      「え……ええっ?いやっ、そんなことないっスよ!」 
      「もう一口、食べるか?」 
      リョーマは心の中ではかなり動揺したが、素直に頷いていた。 
      「ほら」 
      差し出されたスプーンに、素直に口を開ける。 
      「親鳥の心境だな」 
      リョーマがまた目を閉じて味わっていると、手塚に笑われた。 
      「…じゃ、オレも親鳥になります」 
      そう言って自分のアイスを掬って手塚に差し出すと、手塚もそっと口を開けてくれた。 
      「…ありがとう」 
      手塚が微笑みながら礼を言ってくれた。リョーマの心は舞い上がりっぱなしになった。 
      うっかりと好きだと口走りそうになるほどに。 
      「お前があんなふうに好きだと言ったのが、わかった気がする」 
      それはアンタのことを言ったんだけど、と心の中で呟きつつも、リョーマは笑って頷いた。 
      「部長も、好きになった?」 
      (オレのこと、ちょっとは好きになってくれた?) 
      本当は、そう、訊きたいのだけれど。 
      「ああ、気に入った。好きな味だ」 
      アイスの味じゃなくて、と言いたいのを堪えた。 
       その後、アイスを食べ終えても、リョーマはずっと手塚のことを考えていた。 
      風呂の用意をして、手塚が風呂を使っている間は、壁に掛かっている手塚の制服をずっと眺めていた。 
      自分が風呂に入っている間も、手塚のいろいろな表情をずっと思い浮かべていた。 
      そうして風呂から上がり、水分を補給してからベッドに入って眠ろうとしたが、当然のように眠れなかった。 
      (眠れるわけないじゃん…) 
      大好きな手塚と同じベッドに入って、眠れるはずがなかった。 
      いつものように丸くなって目を閉じて。それでも眠気は全くやってこない。 
      そう言えば、ベッドに手塚と同時に潜り込むのは初めての気がする。 
      初日はうっかり寝てしまった自分を手塚が運んでくれたし、その次はさっさと一人でベッドに入って寝てしまった。そう言えば昨日も寝そうになってしまった自分を手塚がそっと揺すって起こしてくれて、抱き上げられはしなかったがベッドまで連れて行ってもらって先に寝た。 
      (部長が寝るとこ、初めて見る) 
      そっと目を開けて手塚の様子を窺った。手塚はこちらに背を向けて寝ている。 
      リョーマは切なくなった。 
      (やっぱ、こっちは向いてくれないよね……) 
      ダブルベッドに近い大きさであるこのベッドは、二人の人間が寝ても充分に余裕がある。 
      だが今は、その大きさの余裕が恨めしかった。 
      もっと狭いベッドだったなら、触れるほど近くに、身体を寄せ合うようにして寝られたかもしれないのに。 
      (いや、それでも部長は背を向けるんだ……) 
      肉親や、すごく仲のいい友人同士でも、寝る時はたぶん背を向けてしまうだろう。相手の寝息が気になったり、何となく照れくさかったりして。 
      狭いベッドで向かい合って眠るのは、きっと恋人同士だけだ。「恋人ごっこ」の自分たちでは、ありえないことなのだ。 
      リョーマは小さな小さな溜息を吐いて目を閉じた。強引にでも目を閉じていれば、いつかは眠れるような気がした。 
      案の定、リョーマはゆっくりゆっくりと眠りに落ち、そうして幸せな夢を見た。 
      夢の中はふわふわと、ひどく心地よくて、傍には手塚もいた。 
      想いを込めて手塚を見つめるリョーマの頬に、手塚がそっと触れてくれた。温かな、大きな手だった。 
      その手はすぐに離れていってしまったけれど、リョーマの頬には優しい感触がいつまでも残っていた。 
      だが夢の中の手塚が、ふいっと背を向けて遠くに行ってしまいそうになって、リョーマは慌てて後を追いかけた。 
      (待って……部長!) 
      声が巧く出せなかった。足がもつれて、走るどころか、歩くことさえままならなかった。いっそのこと空を飛びたいと願うと、リョーマの身体がふわりと浮くような感じがした。 
      身体が揺れて、空を飛んでいた。 
      手塚を見つけて、傍に降り立って、名を呼ぶとやっと振り返ってくれた。 
      (部長、アンタが好きなんだ。すごくすごく、大好きなんだ) 
      切々と語るリョーマを、夢の中の手塚は優しげな瞳で見つめてくれる。 
      (どうしたらいい?ねえ、部長。オレは、どうしたら……) 
      手塚の指が、リョーマの唇に触れた、気がした。 
      『…どこにも行くな……ずっとここにいろ……』 
      甘く熱く、囁くように、手塚はそう言ってくれた。 
      リョーマは嬉しくて嬉しくて、手塚の胸に飛び込んでいった。 
      (ここに居てもいいの?ずっとずっと、アンタの傍に、いてもいい…?) 
      手塚はしっかりとリョーマを抱き締めてくれた。抱き締めて、額や頬に口づけてくれた。 
      (部長…) 
      顔を上げて手塚を見つめると、柔らかな瞳に見つめられていた。 
      手塚の顔がゆっくりと近づいてきて、リョーマはそっと目を閉じた。 
      だが、いつまで待っても、手塚は触れてきてはくれなかった。 
      そっと目を開けると、朝になっていた。 
       ベッドの横には、すでに手塚の姿はなく、キッチンの方から食器の音や、目玉焼きのいい匂いがしてくる。 
      (夢……だったんだ……) 
      あまりに幸せな夢を見たせいで、リョーマの心はひどく落ち込んでしまった。夢と現実とのギャップに、打ちひしがれそうになった。 
      ノロノロと起きあがって目を擦っていると、手塚が起こしに来てくれた。 
      「…越前、そろそろ起きた方がいいぞ。朝食の用意は出来た。早く来い」 
      「……っス」 
      こっくりと頷くリョーマを見て、手塚はまたキッチンの方へ消えていった。 
      リョーマは顔を両手で覆って大きく溜息を吐く。 
      夢の中で手塚に触れられた頬が、未だにその感触を記憶している。リョーマはそっと、手塚が触れた頬に自分も触れてみた。 
      手塚の手は大きかった。温かかった。優しかった。
  …どこにも行くな……ずっとここにいろ……
  手塚の言葉が耳の奥に蘇った。 
      こんなにもはっきりと、夢の中で言われた言葉を覚えているなんて不思議だと、リョーマは思う。 
      それほどまでに手塚を想う気持ちが強いのかとも思えて、リョーマは苦笑した。 
      (こんなに好きになっちゃって……どーすんだろ、オレ……) 
      「越前、どうした?」 
      「今いきます!」 
      手塚に呼ばれて、不自然なほど愛想よく返事をした。 
      そうだ、自分は残された手塚との短い時間を、楽しく、優しく、いい思い出として残るように過ごしていこうと決めたのだった。 
      だから、微笑まなくては。 
      部活中でも、校内でも、自分は手塚に微笑みかけようと思う。 
      「いただきまーす!」 
      美味しいと言ってリョーマが微笑むと、手塚も柔らかな微笑みを返してくれる。それだけでいいのだ、と。 
      心の中が手塚で満たされることで自分は苦しいのかもしれない。でもそれ以上に、きっと嬉しいとも感じている。 
      (今はまだ、部長と一緒にいる時間を楽しまなきゃ) 
      つらい時にも微笑んでいれば、何かいいことがある、と母が言っていた。 
      ピンチの時に相手を嗤ってやれば、勝機が訪れると言ったのは父。 
      表現やシチュエーションはだいぶ違うが、大まかには意味は同じ。 
      笑顔が、何かを変えるかもしれないのだと。 
      変えたいから、変わって欲しいから、手塚にだけは本当の笑顔を見せよう。 
      意地や、見栄や、強がりの色づけはすべて取り払って、手塚にだけは素直に、心からの笑顔を。 
      そうすることが、今、自分に出来る最善のことだと、リョーマは思うから。 
      「おぅ、次、お前だぜ、越前」 
      「ういーっス」 
      桃城に肩を叩かれてリョーマは顔を上げた。 
      コートに向かいながら、チラリと手塚を見る。 
      菊丸が、何やら手塚に声をかけている。手塚の表情がほんの少し和らいだのを感じた。 
      リョーマの表情も、ふわりと穏やかになる。 
      (ごめん、部長……早く、アンタに普通の生活を、取り戻してあげるから……) 
      リョーマは帽子を深く被り直した。 
      やはり自分も昼休みに屋上へ行って、早く乾の得た情報を聴きたいと、思った。 
      (当番、代わってもらおうかな…) 
      授業の合間に、隣のクラスの図書委員に当番を代わってもらえないか訊いてみることに決めた。 
      早く情報を聴いたからと言って、何かが進展するものではないかもしれない。でも、リョーマはどんな些細なことでもいいから、何か情報が欲しかったのだ。 
      手塚のために。 
      手塚がこれ以上、嫌な思いをしなくていいように。 
      手塚を早く『偽りの関係』から解放してやるために。 
      「………」 
      零れそうになる溜息を、リョーマはぐっと飲み込んだ。 本当は手塚とは離れたくはない。だがそれは自分の我が儘だと知っている。 
      だから、その我が儘を無理矢理押さえつけるために、リョーマは自分でも気づかないうちにほんの少し、いつもの冷静さを失っていた。 
      焦っていた。
  その焦りがリョーマに危険をもたらすものであることを、この時リョーマは気づかなかった。
 
 
 
 
 
  
      続
 
 
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      20050614 
      
      
  
    
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