ダブルベッド


<1>



翌日。
少し早めに登校したリョーマと手塚は、青い顔で校舎から出てくる大石を見つけて声をかけた。
「大石」
「先輩、はよっス!」
「手塚……越前……」
大石は二人の顔を見るなり泣き出しそうに顔を歪めた。
「どうしたんだ、大石」
「先輩?何かあったんスか?」
両手を握り締めて俯く大石を、手塚とリョーマは心配そうに覗き込んだ。
「あの写真を貼り出した犯人、………もしかしたら桃かもしれない」
「え?」
「桃城が?」
手塚とリョーマは驚いて顔を見合わせた。
「どうしたらいいんだろう、手塚。桃がこんなことするなんて、俺には信じられないよ…っ」
「落ち着け、大石」
涙ぐむ大石の肩に、手塚は優しく手を置いた。
「詳しく聴かせてくれるか?」
「うん」
大石は何度か深呼吸をしてから、ゆっくりと話し出した。



「今朝もいつものように、写真が貼り出されていたら困ると思って、出来るだけ早めに登校してきたんだ。ほら、昨日、町中に出て犯人を刺激するようなことをしただろう?だから、挑発された犯人が、また反撃してくるかな、って」
手塚とリョーマはチラリと互いを見つめてから小さく頷きあった。夜の作戦のことは、今は大石には言わないでおこう、と。
「だから部室に行く前にメイン掲示板を見回ろうとして………そうしたら人影が見えたから、そっと、気づかれないように隠れながら掲示板に近づいたんだ。そしたら……そこに…いたんだ、桃が……」
「桃先輩も掲示板、見回ってくれたんじゃないんスか?」
「俺も最初はそうだと思って声をかけようとしたんだ。そしたら…桃が、ポケットから、紙を……」
大石は自分の額を押さえて大きな溜息を吐いた。
「紙を?桃城は紙をどうしたんだ?大石」
手塚が静かに、全く動揺を見せずに続きを促す。
リョーマは食い入るように大石を見つめた。
「桃は、紙を拡げて……掲示板に押しつけるようにして、じっと見ていた」
「………」
「……そんな…桃先輩が…」
三人の間に沈黙が流れる。
手塚は小さく息を吐くと、ゆっくりとした動作で腕を組んだ。
「そのあと、桃城はその紙をどうしたんだ?」
「…またポケットにしまっていたよ」
「貼らなかったんスか?」
リョーマはどこかホッとしたように大石に尋ねた。大石はリョーマに頷いてみせる。
「ああ。掲示板に押しつけてじっと見たあとで、大きな溜息を吐いて、また折りたたんでポケットに入れたんだ」
「じゃあ、まだ、桃先輩が犯人って決まったワケじゃないんスよね」
「あ…ああ、まあ、そうだけど……」
嬉しそうに小さく笑うリョーマをチラリと見て、手塚はゆっくりと瞬きをした。
「仮に、桃城が犯人だとしても、その目的がわからない。越前と俺の噂を広めることが、桃城にとってどんなメリットになるというんだ。むしろあいつは……」
言いかけて、手塚は口を噤んだ。
桃城がリョーマに想いを寄せていることは、今は黙っている方がいい気がした。
「そ……そうだよな!昨日だって、お前たちのために頑張ってくれたんだし……俺の、思い過ごしなんだ……きっと…」
どんどん尻すぼみに声が小さくなってゆく大石に、リョーマは溜息を漏らした。
「訊いてみればいいんスよ。桃先輩に。何で掲示板の前にいたのか」
「え?」
大石が驚いたようにバッと顔を上げた。
「そ、そんなこと…っ」
「いや。そうした方がいい。はっきりさせた方が、お互いのためだ」
表情を変えずに頷く手塚に、リョーマも小さく微笑んでから頷いた。
「桃先輩、部室にいるかな」
「行ってみよう」
「ういっス」
バッグを担ぎ直して真っ直ぐ部室へ向かう二人に、大石も困惑した表情で後に続いた。




部室の前には桃城が一人でぽつんと立っていた。
「はよっス、桃先輩!」
「おう、早いな越前……あ、おはようございます、手塚部長、大石先輩!」
「ああ、おはよう」
「おはよう、桃」
どうしてもぎこちない表情になってしまう大石をチラッと見遣ってから、リョーマが桃城の前に歩み出た。
「…さっき、掲示板のところにいたみたいっスけど、何してたんスか?こんな朝早くから」
「え…」
桃城は大きく目を見開いた。
「何だ、見てたのかよ、越前。参ったな…」
ほんのり頬を染めて頭を掻く桃城に、リョーマは怪訝そうに眉を寄せた。
大石は黙ったまま部室の鍵を開ける。
「お待たせ、桃。中に入ってから、その話、聞かせてもらおうか」
「え?はぁ……」
強ばった表情で言う大石に、今度は桃城が怪訝そうな顔をした。



「で、何してたんスか?」
部室に入った途端、リョーマに正面からじっと見つめられ、桃城はまた頭を掻いた。
「…大石先輩ばっかにやらせちゃ悪いと思って、俺も掲示板の見回りしようと思ってさ」
「や、やっぱりそうか、桃!」
「へ?」
ガシッと肩を掴まれて、桃城はビックリして大石を見つめた。
「な、なんスかっ、一体………あっ」
桃城は思い当たったように目を見開いた。
「まさか俺のこと疑ったんスか?みんなして?そりゃひでぇな…ひでぇよ…」
大石は引きつったように笑いながら桃城の肩をポンポンと叩いた。
「…でもなんか紙を持っていたって。何の紙っスか?」
「あー……その、それはだなぁ…」
どこか言いづらそうに口籠もる桃城に、リョーマは思いきり不審そうな目を向けた。
「いや、その、………今朝、俺の下駄箱ンとこに、手紙が入っていて……」
「手紙?」
不審そうな表情はそのままのリョーマに問われて、桃城は小さく頷いた。
「だからそのっ、ら、ラブレターってやつ!」
「は?」
「ラブレターぁっ!?」
きょとんと目を見開くリョーマの横で、大石が頬を染めながら素っ頓狂な声を上げた。
「ラブレターって、ええと、その、………女子からの告白?」
「……見せましょうか?」
「いや、いい」
桃城がポケットから手紙を取り出そうとするのを、それまでずっと黙っていた手塚が制した。
「それはその手紙をくれた方に失礼になる。桃城の言葉を信用しよう」
「……ありがとうございます」
どこかホッとしたような顔で桃城は手塚に頭を下げた。
「納得したか?大石」
「ああ。…ごめん、桃。疑ったりして…」
大石が頭を下げるのを見て桃城が慌てる。
「うわわっ、そんなっ、いいっスよ。俺も紛らわしいコトしたみたいっスから」
「ホント、紛らわしすぎ」
リョーマが唇を尖らしてぼやくのへ、桃城は苦笑しながら「悪ィ悪ィ」と謝った。
「でも、ということは、今日は犯人は写真を貼り出さない気なのかな」
大石が、ふと思い出したように手塚に言う。
「ああ。もしくは昨日は写真を撮らなかったか、だな」
「………」
リョーマは黙ったまま、昨日の自分たちの行動を思い出してみた。
みんなで取り組んだ『囮大作戦』はそれほどでもないが、昨夜の、二人だけの『囮大作戦』はかなり「使えるネタ」があったはずだった。
そっと手塚に視線を向けると、手塚も同じようなことを考えていたらしく、リョーマに向かって眉を寄せて頷いて見せた。
「このまま犯人がやめてくれりゃあいいのに……なぁ、越前」
桃城に肩を抱き寄せられそうになり、リョーマはするりと身をかわした。
「そっスね」
「よし、じゃあ着替えて練習を始めようか、みんな!」
爽やかさを取り戻した大石の明るい声に、リョーマたちは頷いた。






「手塚」
朝練が開始されてすぐ、乾がそっと手塚に声をかけた。
「練習中に申し訳ない。昼休み、また屋上に来てくれないか。ちょっと興味深いことがわかったんだ」
「……わかった」
「越前にも伝えておいてくれ。他のみんなには俺から伝えておく」
手塚は黙って頷いた。
(興味深いこと、か…)
乾が得た情報ならば、確実に今の状況から進展できる内容に違いないと手塚は思った。
喜ばしいと思う反面、心のどこかでなぜか落胆する自分がいる。
(女々しいな……このまま犯人探しが長引けばいいだなどと……)
早く犯人を捕まえ、その行為をやめさせたいと思う。だが、今のままリョーマと「恋人ごっこ」を続けたいと願う自分も確かに存在するのだ。
手塚は小さく溜息を吐いた。
(いや……越前のために、出来るだけ早く犯人を捕まえなくてはならない)
もう一度、手塚は眉を寄せて溜息を吐いた。
リョーマへの想いを自覚した途端、それは急激に膨れあがってきている。以前言われた母の言葉ではないが、自分の意志にかかわらず、いきなりリョーマに襲いかかってしまうのではないかと自分で自分が信用できない。
昨夜も、手塚は眠れなかった。
同じベッドにリョーマがいると思うだけで体が熱くなった。少し微睡みかけても、隣で寝ているリョーマが微かに動くたびに目が覚めた。
あの公園で、まるで甘えるようにすり寄ってきたリョーマの体温が忘れられない。
ぴったりと寄せられた張りのある太股、頭を乗せられた肩の感触、右腕全体に触れたリョーマの身体。それらすべてが鮮明に蘇り、手塚の熱を煽る。
そして、ずっと繋いで歩いた右手。
リョーマに背を向けていた手塚は、そっと、ベッドを揺らさないように気をつけながら、リョーマの方へ寝返りをうった。
あどけない表情で、リョーマが此方を向いて眠っていた。
相変わらず小さく丸まり、薄く開いた唇からすうすうと寝息を零している。手塚はそっと手を伸ばして、頬にかかる髪を払ってやった。
(越前……)
愛しさに、胸が詰まった。
伸ばした手で、そのままリョーマの頬に触れる。柔らかくて、温かかった。
(好きだ…越前……)
だが手塚は眉をきつく寄せて、リョーマの頬に触れていた手を無理矢理引き剥がした。
(触れては、いけない…)
あの盗撮犯の言葉が、手塚の胸に痛みを伴って蘇る。


  
『どけよ、ホモ野郎!』
  『…誰が野郎同士のいちゃつきなんか撮るかよ。気持ち悪ぃ』
  『考えただけで吐きそうになるぜ』


手塚は奥歯を噛み締めた。
自分の想いは、世間の目にはああいうふうに映るのだ。それがどんなに純粋で、どんなに真剣なものであっても。
(越前も、そう思っているのだろう…)
自分に言い寄るような輩は『変態』だから『ぶっ飛ばす』と桃城に言っていた。
今はまだこの想いはリョーマには知られていない。だからこそ、あの公園では自分に身体を預けるような素振りをしてくれたのだ。
だがきっと、この心にある本当の想いを知られてしまったら、リョーマに拒絶されてしまう。
あんなふうには、二度と触れてきてはくれない。
「………」
手塚はゆっくりと起きあがってベッドを降りた。そのままキッチンに向かい、コップに水を注いで一気に飲み干す。
(大丈夫だ。あと少しの間なら、隠していられる)
リョーマは自分の部屋の補修工事が完了し次第、ここを出て行ってしまうだろう。だから、それまでこの想いを封じ込めていられれば、きっと一生隠していられるはずだ。今までの距離に戻ってしまえば、リョーマとの接点は、部活以外にはほとんどないのだから。
手塚は静かに、大きく深呼吸をしてから、そっとベッドに戻った。
敢えて背を向けず、リョーマの寝顔を見つめる。
目を閉じる時間が惜しくなった。
もうすぐこの部屋からいなくなってしまうのなら、少しでも長く見つめていたいと。
(手を伸ばせば届くのに、な…)
無防備に眠るリョーマを見つめながら、手塚は小さく微笑んだ。
「…どこにも行くな……ずっとここにいろ……」
聞こえないとわかっているリョーマに、そっと囁いてみた。想いが伝わることはないが、言葉に出来たことで手塚はひどく満足した。
そのままずっとリョーマを見つめていたら、いつの間にか夜が明けていた。
飽くことなくリョーマを見つめていられたことに、自分の想いの強さを改めて感じて、手塚は苦笑した。
(この想いは、きっと長くは隠し通せない。早く犯人を見つけて、『恋人ごっこ』を終わらせなければ…)
自分に課せられたメニューを終えたリョーマが此方に歩いてくる。手塚が見つめていると、目があってふわりと微笑まれた。
愛しさという熱い鎖が、手塚の胸を締め付ける。
「越前」
「はい」
名を呼ぶとリョーマはどこか嬉しそうに駆け寄ってきた。
「今日の昼休み、また屋上に集合だ」
「………ういっス」
小さく頷いて、リョーマは帽子を深く被り直した。
「あ」
だがリョーマは急に何か思い出したように手塚を見上げてきた。
「すみません、今日は行けないっス。昼に、図書委員の当番でカウンターに入らないとならないんス」
「……そうか……委員会の仕事ならそちらを優先しないとならないな。わかった。今日の話はあとでお前にも伝えよう」
「すみません」
リョーマはペコリと頭を下げるとフェンス際に置いてあるタオルを取りに向かった。
「お昼のデートはナシ、か。残念だったね、手塚」
突然かけられた声に驚き、手塚は自分が無意識のうちにリョーマの後ろ姿を見つめていたことに気づいた。
「不二…」
不二がニッコリ笑う。
「今日の帰りも『囮大作戦』やるの?」
「いや、今日は家に一旦戻らなくてはならないんだ。だから…」
「じゃあ中止だね」
頷く手塚に、不二はふと真顔になって真っ直ぐな視線を手塚に向けた。
「乾が何か情報を掴んだみたいだね」
「ああ」
「もうすぐ『ごっこ遊び』も終わるかもね。ホッとしてる?それとも寂しい?」
手塚は真っ直ぐに不二を見つめ返した。
「今は部活中だ。無駄な話はするな」
「はいはい」
再びいつもの微笑みを浮かべて不二はクルリと背を向けた。だが数歩歩いてまたチラリと振り向いた。
「手塚、寝不足?顔色があまり良くないみたいだけど」
「いや」
「越前も今日はよくアクビしているね。二人して寝不足?」
「そんなはずはないと思うが…」
不二の言葉に手塚は眉を寄せた。
自分はほぼ一晩中起きていたようなものだったが、リョーマはよく眠っていたはずだ。隣で見ていたのだから間違いはない。
「ふぅん、そう?朝だから眠い、ってだけかな……」
不二は納得したようなしないような、不思議な微笑みを浮かべてまた歩き出して行ってしまった。
「………」
万が一にでも、リョーマが自分のように一晩中浅い眠りの中にいたとしたら。
そう考えて、手塚は内心動揺した。
(まさか……聴かれた……?)
傍にいろと、思わず声に出して語りかけてしまった言葉を、リョーマは聴いてしまったのだろうか。
しかし、思い返してみても、リョーマの態度は朝からいつもと変わりなかった。
(大丈夫だ……あいつは、ちゃんと寝ていた……)
手塚は自分でも気づかぬうちに眉をきつく寄せてコートを見つめていた。
「手塚ぁ〜そんなコワイ顔してるとみんな怖がって動けなくなるにゃ〜」
「?」
菊丸に覗き込まれて手塚はほんの少し表情を和らげた。
「俺たちはもう慣れたけどぉ、ほら、一年生とか、泣きそうにゃん」
手塚がチラリと周囲の部員に視線を向けると、目の合った部員たちは皆ビクッと身体を揺らして、慌てて「青学ファイトォー!」と叫んだ。
軽く咳払いをして、手塚が菊丸に視線を戻す。
「………考え事をしていただけだ」
「手塚が練習中に考え事するなんて珍しいにゃん。集中集中!」
菊丸にニッコリ笑われて手塚は組んでいた腕を解いた。
「…すまない。そうだな。菊丸の言う通りだ。もっと練習に集中しなくてはならないな」
「いろいろあるけど、きっと最後はうまくいくにゃん。大丈夫」
「え?」
「大丈夫になるって考えてると、大丈夫になるにゃん」
「…………」
根拠のない菊丸の理屈に、手塚は心の力がふっと抜けた気がした。
「ありがとう」
「うんにゃ。練習練習!」
菊丸が腕をブンブン回しながらコートに入っていくのを見送って、手塚は小さく溜息を吐いた。
(確かに今ここでいろいろ考えていても仕方がない。なるようになる、か……)
菊丸の楽観主義を、少しだけ羨ましいと手塚は思った。
菊丸のように無邪気にしていられたら、あの二人分のベッドの温もりにも、心委ねて喜びの中で眠ることが出来たかもしれないのに、と。
(素直に、か…)
リョーマのことを想うと心が軋む。それは報われない現実を感じて苦しいと思うからだ。
(報われなくとも、越前を好きになれたことを喜べるようになりたい…)
手塚はまた腕を組んでコートを見つめる。
(そうだ、あいつと出逢えた幸運を…喜べるように、なろう)
人は一生のうち、何もかもを投げ出しても構わないほど愛せる存在に、必ず出逢うとは限らないだろう。
だとしたら、こんなにも強く深く想うことのできる存在に出逢えた自分は、きっと幸運なのだと。
(越前…)
手塚の瞳はリョーマを捉えて柔らかく細められた。
胸の痛みは相変わらず感じるが、リョーマを想う熱さや喜びも、痛みの中に確かに存在している。
(今夜は…眠れるかもしれないな……)
手塚の中で、リョーマへの想いが、ひとつ成長したような気がした。










                            




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20050611