  お買い物
  
  <2>
  
      
  いつも通りに放課後練習が始まり、そして何事もなく終わった。 
      「解散!」 
      手塚の号令で部員たちが散らばり、一年と二年生の当番の者は片づけを始め、他の部員は部室へと向かう。 
      「越前」 
      手塚に呼び止められ、リョーマは「はい」と返事をして手塚の元に駆け寄った。 
      「なんスか、部長」 
      どこか嬉しそうに見上げてくるリョーマに、手塚はほんの少し表情を和らげた。 
      「昼に決めた『囮』の件なんだが」 
      「ああ、はい」 
      「俺は今日からでもいいと思うんだが、越前はどう思う?」 
      リョーマは怪訝そうに首を傾げ、じっと手塚を見つめた。 
      「オレはいつでもいいっスよ。他の先輩たちも大丈夫なら、今日からでも」 
      「わかった。では、部室で待っている」 
      「ういっス」 
      にこっと笑みを浮かべてから踵を返し、リョーマが小走りに戻って片づけに加わる。 
      そのリョーマの後ろ姿を見つめていた手塚は、そっと視線を外して溜息を吐くと水飲み場に向かった。 
      水飲み場には先客がいた。不二と乾が何やら真剣に話している。手塚が近づいていくと、不二が先に手塚に気づいた。 
      「お疲れ、手塚」 
      「ああ」 
      手塚が眼鏡を外して顔を洗い始める。いつもよりも少し勢いよく水を出して顔を洗っていると、日に当たっていたせいで温くなっていた水がどんどん冷たくなってきて清々しい気分になった。 
      顔を洗い終わった手塚に、乾がタオルを差し出した。 
      「すまない」 
      「いや。…手塚、例の囮作戦の件だが、今度の土曜はどうだ?」 
      手塚は黙って顔を拭き終えると眼鏡をつけた。 
      「俺たちは今日からでもいい。さっき越前にも意思を確認した」 
      「今日からでも?」 
      「ああ」 
      乾が表情を動かさずに、眼鏡の位置を直す。不二は黙って腕を組んだ。 
      「やはりお前たちだけには言っておこうと思うが、俺と越前は付き合っているわけではない。犯人が此方に関心を持つようにと、二人で話し合って付き合っているフリを続けているだけだ。だが、屋上で解散したあと不二に言われた言葉をよく考えて、……もっともだと思った。こんな状態を長引かせるのは、俺もよくないと思う」 
      不二が僅かに目を見開き、そしてすぅっと細めた。 
      「みんなの協力の下、俺たちが囮になって犯人がすぐに捕らえられるのなら、早くそうした方がいいと思う。むろん、一回で捕まえられるかどうかはわからないがな」 
      「………みんなに都合を訊いてみないとならないね、乾」 
      「そうだな。とりあえず俺は大丈夫だが、不二は?」 
      ニッコリといつものように微笑んで「僕も大丈夫」と不二は頷いた。 
      「…勝手を言ってすまない」 
      「手塚と越前がそうしたいって言うなら、僕たちは喜んで協力するよ。ね、乾?」 
      不二に同意を求められて乾が頷いた。 
      「だが、二人が付き合っているフリをしているということは、俺たちの胸に留めておこう。敵を欺くにはまず味方から、と言うしな。まあ、この場合は、『敵を煽るには』、というところかな」 
      「そうだね。もしこの情報が漏れたら、犯人が煽られているだけだと知ってどういう行動に出るかわからないからね。どこから情報が漏れるかわからないし、他のみんなには悪いけど、僕も黙っていた方がいいと思うよ」 
      「………」 
      手塚は黙ったまま頷いた。 
      「じゃあ、みんなの予定を訊きに行こうか。たぶんみんな協力してくれると思うけど」 
      微笑む不二に、手塚と乾は同時に頷いた。
 
 
 
 
  *****
 
 
 
 
  ついに作戦は決行と相成った。 
      手塚とリョーマは『夕飯の買い物をする』という『テーマ』で街を歩くことになった。そのついでに所々の店に立ち寄り、仲睦まじい姿を披露しろ、という指示が乾から出されている。 
      学校を出て、とりあえず二人はバスに乗って駅前まで出る。 
      乾と海堂は二人と同じバスにさりげなく乗り込み、手塚とリョーマはバスの前方に立ち、乾と海堂は最後部の座席に座った。あとの者(不二の予想通り全員参加になった)は次のバスに乗ることにした。 
      「まるで軍師だな、乾は」 
      運転席のすぐ後ろに手塚とリョーマは並んで立っていた。手塚が後方の乾をチラリと見遣り、小さく溜息を吐く。 
      「もしかしてこの行動も、データ取られているんスかね?」 
      バスに揺られながらリョーマが眉を寄せて小声で手塚にそう言うと、手塚は小さく目を見開いてクスッと笑った。 
      「そうかもしれんな」 
      「何のデータになるんスか」 
      「プライベートに活用するんじゃないのか?」 
      「プライベート?」 
      怪訝そうな瞳でリョーマに見上げられて、手塚はちょっと考え込むようなフリをした。 
      「乾にも想いを寄せる相手が現れるだろうから、その時に活用するんじゃないのか?」 
      「乾先輩の好きな人って……どんな人っスかね……」 
      「さあな。人は思いも寄らない相手に突然恋をするものだから、何とも言えないな」 
      リョーマはふと、手塚の横顔をじっと見つめた。 
      (部長もそうなのかな…) 
      思いの外じっと見つめてしまったらしく、リョーマの視線に気づいた手塚が怪訝そうにリョーマと視線を合わせた。 
      「……ん?なんだ?」 
      「あ、えっと……最初にどこの店に入るんでしたっけ?」 
      「バスを降りたすぐ右側にある店で俺がシャーペンを選ぶんだそうだ」 
      「ういーっス」 
      間延びした返事をしてからリョーマがクスッと笑う。手塚が「何だ?」という顔をすると、リョーマはさらに笑みを深くした。 
      「これって、部長とデートしてるみたいっスね」 
      手塚は一瞬目を見開き、すぐにリョーマから目を逸らした。 
      「………ああ、そうだな」 
      「そういえば、今日の夕飯はどうするんスか?」 
      「ん?ああ……俺の家からはまだ電話は入らないな……。越前の家は今日まで居間が使えないと言っていたな」 
      「ういっス」 
      「どうせ買い物するなら、うちで食べるか……」 
      リョーマが首を傾げた。 
      「うちって、部長の家っスか?」 
      「いや、マンションのことだ。俺たちの」 
      「………」 
      リョーマは大きく目を見開いた。そのリョーマを見て、手塚も目を見開く。 
      「どうした?何をそんなに驚いて…」 
      「べ、べつに……っ」 
      (だって、あのマンションのこと、「俺たちのうち」って……) 
      リョーマの心臓がドキドキと煩く音を立てている。大した意味もなく手塚がそう言ったのはわかっているが、リョーマはその言葉が何となく嬉しかった。手塚が、自分と一緒に使っているあの部屋を「家」だと思ってくれていることが嬉しかったのだ。 
      (何を喜んでいるんだろ、オレは……) 
      リョーマは勝手に高鳴る鼓動に内心戸惑った。それでも、一度舞い上がった心はそのままふわふわと舞い続けている。 
      「じゃ、夕飯、何作るんスか?」 
      瞳を輝かせて見上げてくるリョーマに、今度は手塚が目を見張った。 
      (そんな嬉しそうな顔をして……) 
      手塚は小さく眉を寄せた。また錯覚しそうになっている自分の心が哀れになってきた。 
      「あまり手の込んだものは作れない。……何か食べたいものはあるか?」 
      平静を装って手塚がリョーマに小さく微笑みかけた。リョーマが「うーん」と言って首を捻る。 
      「じゃあ……」 
      リョーマが言いかけたところでバスが急ブレーキをかけた。 
      「うわっ」 
      「越前ッ!」 
      吊革につかまらずに立っていたリョーマがよろけるのを、手塚が咄嗟に捕まえて抱き寄せた。 
      「わ…」 
      「………っ」 
      どうやら右折しようとしたところで、運転手が横断歩道を渡っていた歩行者に気づくのが遅れ、慌ててブレーキを踏み込んだようだった。スピードはさほど出てはいなかったので、なんとか、車内には転倒したものは出ずにすんだ。 
      運転手がアナウンスで「申し訳ありません」と丁寧に謝るのを聞きながら、手塚はふぅっと安堵の息を吐いて腕を緩めた。 
      「…大丈夫か、越前。この先、駅に入るところでカーブも多くなる。気をつけろ」 
      「…あ、はい…」 
      車内で手塚に抱き締められたままなのがどうにも恥ずかしくてリョーマは俯いて返事をした。 
      手塚もふとリョーマを抱き締めたままの自分の腕に気づき、さりげなくリョーマを解放した。その浮いた手で吊革につかまろうとして、手塚はまたリョーマに視線を向けた。 
      「俺の腕につかまっていろ」 
      「え?」 
      手塚は右腕をリョーマに差し出した。 
      リョーマは少し躊躇ってから、素直に頷いて左手で手塚の右腕をそっと掴んだ。 
      「………すみません」 
      「いや」 
      それきり、二人は何も喋らなくなった。
 
 
  「どうした、海堂。顔が赤いぞ」 
      「え、いや……その…」 
      バスの最後部の座席に並んで座っていた乾と海堂は、手塚とリョーマを監視しつつバスの中に不審な人物がいないか目を光らせていた。が、先程から海堂がどうも落ち着かず、二人を見ては目を逸らし、下を向いたり窓の方を向いたりと忙しい。さらに、今の急ブレーキで手塚がリョーマを抱き留めるのを見た瞬間、海堂の頬はユデダコのように赤くなってしまった。 
      「……部長は、越前のこと…大切にしてるんスね」 
      「………ああ」 
      乾は少し躊躇ってから頷いた。 
      実際、手塚がリョーマのことを後輩として大切に想い、また、特別に期待しているだろうことは、乾も何となく気づいている。テニスに関しては冷徹でさえあるはずの手塚が、地区予選の時に見せた意外な行動がそれを物語っていると乾は思う。 
      (今までの手塚なら、あんな怪我をした選手を棄権させずに試合を続けさせるなどありえない) 
      そしてリョーマを庇った今の行動。 
      (過保護だ……) 
      乾は小さく溜息を吐きながら眼鏡の位置を直した。 
      リョーマほどの運動神経の持ち主ならば、少しよろけたくらいで転倒したりはしないだろう。確かに横に立つ人間がよろければ手を差し伸べたくはなるが、抱き寄せてやるなどという行動は、よほど大切なものにしか示さない行動だと思える。 
      (無意識、か…) 
      「やれやれ」 
      ボソッと呟いた乾に、海堂が視線を向けた。 
      「なんスか?」 
      「いや………あの堅物、どうにか出来ないかと思ってね」 
      「はぁ…?」 
      海堂は乾の言っている意味が全くわからずに、困惑して眉を寄せた。そんな海堂に、乾はふっと笑いかける。 
      「海堂はそのままでいい」 
      「はぁ…」 
      さらに訳がわからなくなって海堂は首を傾げながら視線を前方の二人に移した。その二人が腕を絡め合って寄り添っているように見えて、海堂は絶句したまま耳まで真っ赤になってしまった。 
      「やれやれ……」 
      海堂を見つめながら零れた乾の呟きは、その海堂の耳には入らなかった。
  それから程なくして、バスは終点の駅前に到着した。
 
 
 
 
  「まずはシャーペン?」 
      「ああ」 
      手塚とリョーマは、バス停のすぐ近くにある文具ショップに入った。 
      店に入って、手塚は「なるほど」と思った。この店はバス停に近すぎるのか、駅前だというのに客が少ない。おまけに店内は万引き防止のためかすっきりと、見渡しやすく商品棚が配置されていて「犯人」の動きにはすぐに対処できそうだった。 
      (バスを降りてすぐ犯人が動くとも思えないが、な) 
      「あ」 
      リョーマがさりげなく手塚に店の奥を示した。 
      「……」 
      乾と海堂がいた。 
      いつの間に店に入ったのか、彼らも自然な様子でノートを選びながら此方をチラリと見遣り、小さく頷いた。 
      「乾たちがこの店を出たら俺たちも動こう」 
      「ういっス」 
      シャーペンを選ぶフリをして手塚が顔を寄せ小声で言うと、リョーマも小さく返事を返す。ついでに「仲睦まじく」を演出するために、二人は微笑み合ってみた。途端に店の奥でガタンと音がした。 
      手塚とリョーマが何事かと視線を向けると、蹲る海堂を乾が心配そうに覗き込んでいるのが見えた。 
      「……どうしたんだ、海堂は…」 
      「貧血……って、タイプじゃないっスよね」 
      リョーマは溜息をついて「目立ちすぎ」と呟いた。手塚はもっともだと思いつつ、こうして視線を向けてしまった自分たちの行動もマズイのではないかと思った。 
      「出るぞ、越前」 
      「え?」 
      手塚は乾にそっと目配せしてからリョーマの手を引いて店を出た。 
      「どうしたんスか、部長?」 
      「作戦変更だ。すぐ次の店に行こう」 
      手塚は自分たちが降り立ったバス停に次のバスが到着したのを見て、歩き始めた。 
      「たぶん不二たちはあのバスに乗ってきただろう」 
      「ああ…とりあえず後ろの監視があればいいってことっスね」 
      「そうだ」 
      リョーマの手を掴んだまま手塚はずんずんと商店街の中に入っていく。 
      「ぶ、ぶちょうっ」 
      「ん?」 
      「手……」 
      「あ……すまない」 
      手塚は掴んだままでいたリョーマの手をそっと離した。 
      「ぁ、でも、繋いでいた方がいいっスか?STEADYに見える、とか?」 
      真剣に訊ねてくるリョーマを、手塚はじっと見つめて柔らかく微笑んだ。 
      「嫌なことを我慢する必要はないんだぞ。すまなかった」 
      「え……あ……」 
      「行こう」 
      リョーマは俯き加減に「はい」と小さく返事をした。 
      嫌なわけではなかった。手塚に手を引かれて、リョーマの心は、むしろワクワクしていたのだ。 
      このまま手を繋いでいたら、なんだかもっと手塚と親密になれる気がした。本当に、手塚と二人で買い物に来ている気になってしまいそうだった。 
      (バカだ……オレ……部長は早く犯人を捕まえたくて、この作戦に乗っただけなのに……) 
      リョーマはそっと手塚の背中を見つめた。 
      部活中の手塚は氷の壁に囲まれているようにどこか近寄りがたいものがある。だが、家でくつろぐ手塚は演技などではなく、リョーマによく微笑みかけてくれる。その微笑みはリョーマを落ち着かなくさせるけれど、本当は自分がその笑顔を結構気に入っていることを、リョーマは何となくわかっていた。 
      そしてその微笑みは、「部長」や「生徒会長」としての手塚しか知らない連中は、きっと見たことがないだろう。そう思うと、誰もが近寄りがたかった存在のテリトリーの内部へ、思いがけず、自分だけが入れてもらえたようでリョーマはひどく嬉しくなった。 
      犯人を煽るために学校でも手塚が微笑んでくれるようになってからは、リョーマの瞳は常に手塚を探した。そうして見つけて、見つめて、目が合えば、手塚は優しい瞳で見つめ返してくれた。 
      その笑顔がまるで自分だけのもののような気がして、リョーマは有頂天になっていたかもしれない。 
      (そんなはず、ないのに) 
      手塚は本来は優しい人間なのだ。一緒にいて、リョーマにはそれがよくわかった。 
      だからきっと手塚は、本物の恋人が出来たならば、リョーマに向けている微笑みよりもずっとずっと、何倍も何十倍も穏やかで優しさに満ちあふれた笑顔を向けるのだろう。 
      きっとその日は、そんなに遠くないような気がする。 
      (こんな、完璧にカッコイイ人……誰も放っておかないよな…) 
      手塚が今まで誰とも付き合ったことがないのは、イコール『もてない』、という意味でないことをリョーマは確信していた。 
      (真面目で、テニスばっかり夢中になっていたから女子に目が向いてないだけなんだ) 
      その気になれば、手塚にはすぐに恋人が出来ることだろう。リョーマとは大違いな、可愛くて、柔らかくて、素直で優しい、恋人が。 
      (だから、今だけなんだ) 
      手塚を独占できるのは。 
      手塚の恋人として、堂々と隣を歩けるのは。 
      それがたとえ偽りのものだったとしても。 
      「?……越前?」 
      リョーマはそっと手塚の袖を掴んでいた。
 
  「どうした?」 
      手塚の目にどこかひたむきなリョーマの瞳が映る。 
      「手、繋いでもいいっスか?」 
      「………」 
      手塚は小さく目を見開いた。そうして少しの間迷ってから、曖昧に頷いた。 
      「今だけ……っスから……」 
      俯き加減に小さく呟かれたリョーマの言葉が手塚の心に冷水を浴びせかけた。微かに眉を寄せて、手塚は唇をひき結ぶ。 
      (……そうだな……今だけ、だ…) 
      手塚の胸に苦いものが湧き上がった。 
      リョーマから、「犯人さえ捕まえたら、こんなふうに手を繋いだりなんかしない」と言われた気がした。 
      それはもっともな話だと手塚は思う。 
      好きでもない相手と、ましてや男同士で、手を繋いで町中を歩きたがる者などどこにもいない。 
      そっと指を握ってくるリョーマの手を優しく解き、指を組むようにして手塚はしっかりとリョーマの手を握り込んだ。 
      「…っ」 
      リョーマが驚いて手塚を見上げてくる。リョーマの手が、熱い。 
      「恋人はこうして手を繋ぐんだ」 
      途端にリョーマの頬が真っ赤に染まる。そんな初々しいリョーマの反応に、手塚は心が軋むような感覚を覚えた。 
      (期待なんかしない) 
      「……こうした方が効果的だろう」 
      手塚がわざと感情を込めずにそう言うと、頬を染めていたリョーマの瞳が見開かれ、そしてふいっと逸らされた。 
      「そっスね」 
      「…次はあの本屋だ」 
      「ういっス」 
      リョーマは手塚を見ずに返事をした。そのまま二人は少し先にある本屋に向かう。 
      手塚はチラリとリョーマを見遣った。俯き加減のリョーマの表情は、見えない。 
      (冷たい……) 
      さっきまで熱かったリョーマの手が、どんどん体温を失っていくかのように冷たくなってきている。 
      (そんなに嫌なのか?……そんな無理をしてまで、犯人を捕まえたいのか…?) 
      手塚は自分でも気づかぬうちにきつく眉を寄せていた。 
      「部長、本屋で何………」 
      言いながら微笑んで見上げてきたリョーマの顔が、一瞬強ばった。足までも竦んでしまったかのように、その場で立ち止まってしまう。 
      「え?」 
      「………」 
      「どうした?」 
      手塚が表情を和らげて微笑みかけると、リョーマは目を見開いたままふるふると首を横に振った。 
      「あ、いや……その……やっぱこれはやめときますか。なんか恥ずかしいっス」 
      そう言ってリョーマは繋がれた手を持ち上げて困ったように笑ってみせた。 
      「そうか」 
      手塚が小さく微笑んで手を離すと、リョーマは一瞬、離れてゆく手塚の手を見つめて微かに眉を寄せた。 
      「すみません、オレが言いだしたのに」 
      「さっきも言ったが嫌なことを無理してやることもない。普通に、買い物に来ていると思えばいい」 
      「オレはイヤじゃないっス」 
      リョーマに真っ直ぐ見上げられ、訴えかけられるように言われて、手塚は目を見開いた。 
      「無理もしてません。部長はオレと手を繋ぐのなんかイヤなんだと思ったからやめようって言っただけっス」 
      きっぱりと言い切られて、手塚は言葉に詰まる。 
      「…すみません。オレが手なんか繋ごうって言ったから……部長に嫌なコトさせちゃっ……」 
      「俺も嫌ではないぞ」 
      リョーマの言葉が終わるのを待たずに、手塚は言い切った。俯きかけていたリョーマが弾かれたように見上げてくる。 
      「でも……嫌そうな顔してたじゃないっスか……」 
      「え?」 
      「さっき…すごく……嫌そうに、眉間にシワ寄せて……」 
      そう言われて初めて、手塚は先程リョーマが何か話しかけて口を噤んでしまった理由がわかった。 
      「そうじゃない」 
      手塚は困ったように微笑んで、さっきまで握っていたリョーマの手をもう一度優しく掴んだ。 
      「お前の手がどんどん冷たくなるから……俺の方こそ、お前はそんなに嫌がっているのかと……」 
      「え……」 
      リョーマの手を、手塚は両手で柔らかく包み込んだ。リョーマの頬がまたほんのりと染まってゆく。 
      「……また温かくなってきたな……さっきは緊張でもしていたのか?」 
      「………そうかも……しれないっス」 
      リョーマは曖昧に笑った。「この方が効果的だ」などと、手塚にこれが『演技』なのだとはっきり言われて気分が沈んだとは、口が裂けても言えないと思った。それではまるで自分が『演技』であって欲しくないと言うようなものだからだ。 
      (あれ?……オレ、もしかして……) 
      「そうか…そうならよかった……あ、いや…そんなに嫌なのに無理矢理演技をさせているのかと、少し滅入ってしまったんだ」 
      そう言って微笑みながら、手塚は心の底から安堵している自分に気づいた。リョーマは自分と手を繋ぐことが嫌なのではないと言った。男同士であるとか、ここが町中であるとか、手を繋ぐこと自体が問題ではないのだと。自分が嫌がっているのだと感じて、やめようとしただけなのだと。 
      そうして手塚は唐突に気づいた。 
      リョーマが自分の作る目玉焼きを美味しいと言って笑う時は、演技などではなかったと。なぜなら『演技』する必要がない場面だったからだ。そこには自分とリョーマしかいなかったのだから。 
      (なぜ今までそれに気づかなかったんだ) 
      だとしたら、今まで二人でいた時のリョーマの笑顔はすべて、本当に自分に向けられていたものなのではないかと、手塚には思えてきた。そしてそう思った途端、急激に手塚の心の温度が上昇するのを感じて愕然となった。 
      自分が、なぜ『越前リョーマ』が関わると感情が不安定になるのかが、わかってきてしまったのだ。 
      (俺は……まさか……) 
      リョーマはじっと手塚を見つめて、徐々に頬の赤みを濃くしていった。 
      手塚もリョーマをじっと見つめたまま口を噤んだ。 
      (オレは、部長のこと…) 
      (俺は、越前のことを…) 
      二人は手を握りあって互いを見つめたまま、その場に立ちつくした。
 
 
 
 
  「な〜にやってるにゃん?あの二人」 
      「み、見つめ合って動かないぞ英二。お、俺たちは、ど、どうしたらいいんだっ」 
      「僕たちはあの二人を見守りつつ、周囲を監視する役でしょ。見てればいいんじゃない?」 
      少し離れた場所から、菊丸、大石、不二が、それぞれ別の表情で二人を見ていた。 
      不二が通りを挟んで向かいの店にいる河村と桃城に目をやると、向こうでも顔を引きつらせながら不自然な笑みを浮かべている。 
      「ラブラブビーム炸裂〜って感じにゃん」 
      「ホント。スゴイビームだよね。最初の犠牲者は海堂みたいだし」 
      不二が可笑しそうにクスクスと笑った。 
      先程、最初のチェックポイントの文具ショップで乾と海堂を見つけた時には、海堂は顔をユデダコのように真っ赤にして乾に支えられるようにして立っていた。 
      「あの二人のラブっぷりに当てられたようだ。少し熱を冷まさせてから合流する」 
      そう言って苦笑した乾の顔を、不二は思い浮かべた。 
      (そう言う乾だって…) 
      思い出して、また一人でクスクスと笑う不二に、菊丸が不審そうな目を向けた。 
      「不二〜?楽しい?」 
      「うん。すごく」 
      ニッコリと微笑む不二に、菊丸は大きく溜息をついた。 
      「なーんか俺たち、デバガメしてる気分になってきたにゃん」 
      「デ、デバガメ?」 
      大石が真っ赤になってよろめいた。 
      「ありゃりゃ、犠牲者第二号は大石にゃん」 
      「僕たちまで足止め食うわけにはいかないから、大石は置いていこうか」 
      不二と菊丸がニッコリと意地悪く微笑み合うのを、大石は口をぱくぱくさせながら恨めしげに睨んだ。 
      「ぁ、ほら、二人が動いた。本屋に入るよ」 
      そう言って不二が向かいの河村と桃城に目で合図を送ろうとして、ふと、桃城が自分たちよりも、もっと後方を見つめているのに気づいた。 
      その桃城の視線を不二が辿ってみると、青学の女子生徒が何人か連れ立ってファンシーショップに入るのが見えた。 
      (桃……?) 
      もう一度桃城に視線を戻すと、向こうも見られていたことに気づいたようで曖昧に笑ってから、クイクイと前方を指さした。 
      何も見なかったように不二が頷くと、桃城も頷いて河村と何か会話を交わして移動を始めた。 
      「……行くよ、英二」 
      「うんにゃ」 
      「お、俺も行くぞ」 
      大石も足下をふらつかせながら二人に続く。 
      「犯人は、現れるかな」 
      何とか立ち直った大石が不二に向かってそう言うと、不二は大石を振り返って呟くように言った。 
      「案外もう近くにいるかもよ?」 
      「え?」 
      「にゃっ?」 
      ビックリしたような目で大石と菊丸に見つめられて不二はニッコリと微笑んだ。 
      「可能性、の話」 
      「なんだ…」 
      「驚かすなよー、不二ぃ」 
      不二はごめんごめんと謝りつつ、視線をチラリと向かいの桃城に流した。 
      (そう、まだ今は、単に『可能性』にしか過ぎないんだけどね…) 
      乾が合流してきたら、この『可能性』についてこっそり意見を聞いてみようかと、不二は思う。
  それぞれの視線の先で、手塚とリョーマはどこかぎこちなく肩を並べて本屋へと入っていった。
 
 
 
 
 
  
      続
 
 
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      20050602 
      
      
  
    
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