  束縛
  
 
  
      
  いつもと同じ朝練の風景の中、いつもと違う様子の二人がいた。 
      さわさわと、微かな風のように部員たちが囁き合う。 
      「い……っ、部長、押しすぎ」 
      「ああ、すまない。強すぎたか」 
      コートの隅で、手塚とリョーマが仲睦まじくストレッチをしている。 
      その光景に、部員の大半は呆気にとられたように視線を奪われていた。 
      だが二人がストレッチを終えて立ち上がると、それまで様子を窺っていた全員がわざとらしく目を逸らし、ワラワラと動き始める。 
      「どうしたの、二人とも?」 
      不二が今日もいつもの微笑みで二人に歩み寄ってきた。 
      「はよっス、不二先輩」 
      「おはよう、越前。手塚も、おはよ」 
      「ああ、おはよう」 
      いつも通り愛想の足りない二人を交互に見て、不二は首を傾げた。 
      「仲良いフリしてるわけ?わざと挑発して犯人の動向を窺うつもり?」 
      小声でそう言いながら不二がリョーマの瞳を覗き込むと、手塚は自然な仕草でリョーマを引き寄せ、不二から離れさせた。 
      「?………手塚?」 
      「…犯人を挑発しているつもりはない」 
      「え?」 
      不二が目を丸くした。その不二の後ろから大石と乾が歩いてきた。 
      「おはよう手塚、不二、越前も。………不二?どうかしたのか?」 
      呆然と手塚たちを見つめている不二に、大石は訝しげに声をかける。 
      「なんでもない。さあ、練習を開始しよう、大石」 
      「あ、ああ」 
      いつもの口調の手塚が部員たちを招集するためにコート中央に歩いてゆく。リョーマも手塚の後に続いて歩いていった。 
      「不二?」 
      「……手塚と越前、本当に付き合いだしたのかもしれないね」 
      「えぇっ?」 
      大声で叫んでから、慌てて大石が自分の口を両手で塞いだ。 
      「ほう?あの手塚が越前と…」 
      乾が意味ありげに微笑みながら眼鏡の位置を直す。 
      落ち着き払っている不二と乾の間で、大石だけが狼狽えていた。 
      「付き合いだしたって……男同士だぞ?」 
      「べつに好きならいいんじゃない?乾はどう思う?」 
      「……まあ、俺も大筋では不二と同意見だ」 
      大筋ではって何?と苦笑してから、不二は手塚の後ろ姿をじっと見た。 
      「…しばらくは様子を見てみようか。本気にしろフリにしろ、ラブラブなあの二人を見て犯人が動くかもしれないし」 
      「そうだな」 
      乾も二人の後ろ姿を見つめながら頷いた。 
      大石はと言えば、口の中で「ラブラブ…手塚と越前が、ラブラブ…」と呪文のように繰り返しつつも、練習が始まればなんとかいつも通りに爽やかさを取り戻していた。 
      その後、瞬く間に「手塚と越前は本当に恋人同士」という新たな話題が学園内を駆けめぐった。
 
 
 
 
  *****
 
 
 
 
  面と向かってまとわりついてくる女子が減った代わりに、手塚とリョーマは、男女を問わずあからさまな好奇の視線に始終晒されることになった。 
      だが、周りの目をあまり気にしない二人にとっては、その視線に気づいていても特に気に障るようなことはほとんどない。ただ、リョーマに対して向けられる視線に、邪な種類の気配を感じるようになった手塚は、その点だけは懸念していた。 
      (案外そういう嗜好の輩は多いということか…) 
      リョーマについて最近気づいたことが、手塚にはあった。それは、リョーマがひどく華のある顔の作りをしているということ。 
      少し切れ上がったキツイ大きな瞳、それを縁取る長めの睫毛、すっきりと流れる意志の強そうな眉、スッと通った鼻筋、うっすらと色づいた唇は、下唇がぽってりとしていてキツイ瞳の印象を和らげている。 
      一緒に暮らし始める前からそれには気づいていたものの、華のある作りな上に間近で見るリョーマの生き生きとしたプライベートな表情がプラスされれば、老若男女問わず惹きつけられるものがあると手塚は思う。実際、手塚自身何度か魅入りそうになったほどだ。 
      手塚と付き合っているという噂が流れたことで、リョーマが「男もOK」なのだと認識されてしまったようで、ねっとりと絡みつくような視線をリョーマに向ける男子生徒を何人か見かけるようになった。 
      (校内でも一人にするのは危ないかもしれないな…特に昼休みや放課後は……) 
      「会長?」 
      「?」 
      呼びかけられて、手塚は慌てて意識を現実に戻した。 
      (しまった、今は委員会の最中だった) 
      大まかには耳に入っていたので、手塚は溜息をひとつ吐いてから現在の議題に対する意見を述べ始めた。 
      「裏庭の焼却炉に関しては、やはり環境への配慮も含めて、今後はゴミの焼却に使用するのを廃止する方向で行きたいと思う。反対の者は意見を聞かせて欲しい」 
      何事もなく意見を述べることができ、手塚は内心ホッと胸を撫で下ろす。 
      そうしてこの頃の自分は、リョーマのことばかり考えていることにふと気づいた。特に、あの高架下のコートでの試合を申し込もうと考え始めてからというもの、リョーマの一挙手一投足が、なぜか気にかかる。いざ試合を終え、成り行きで一緒に暮らすようになって、それは顕著になった気もする。 
      (フリをしているだけでもこの有様か……本当に誰かに恋などしたら、俺はどうなるのだろう…) 
      手塚は前髪を掻き上げて、誰にも気づかれないように小さく溜息を漏らす。 
      誰か一人のことで頭の中がいっぱいになるなど、今まで考えたこともなかった。常に周囲に気を配り、しかし自分は自分であると考えて行動してきた。 
      それが今、恋しているわけでもない相手に、ずっと思考を占拠されている。 
      だが不思議なのは、手塚自身がそんな状態の自分を疎ましくは思っていないことだった。 
      (あの人の言動に惑わされているのか…) 
      手塚は母の笑顔を思い浮かべる。 
      身内である存在であるからこそ、自分を陥れようという謀を胸に持っていない分、余計にその真意がわからない。 
      (もしも本当に越前と恋愛関係になった時、あの人はどんな反応を示すのだろう) 
      今の通り喜ぶのだろうか、それとも本気になるなと咎められるのだろうか。 
      「………っ」 
      そこまで考えて、手塚はまた自分が委員会に集中していないことに気づいた。 
      (…らしくない…) 
      心の中で苦笑して、手塚は思考を完全に委員会へと切り替えた。
 
 
 
 
  *****
 
 
 
 
  部活も後半にさしかかる頃、リョーマは小休止の合間に水飲み場で桃城に捕まっていた。 
      「本当に手塚部長と付き合ってるって、マジか?越前」 
      リョーマはじっと桃城を見上げたまま否定も肯定もしない。 
      実は今朝、出がけに手塚と決めたことがあった。もし誰かに真意を尋ねられても、言葉では肯定しないでおこう、と。 
      それはひとつの「逃げの口実」でもあるが、実際恋人ではないのだから、公言してしまうとあとが面倒になる。だから、それらしい雰囲気に装って見せても、言葉での肯定は控えようと決めた。 
      いつか周囲に真実を話す時のために。そして、お互いに、本当の恋を見つけた時のために。 
      だからリョーマは黙ったまま桃城を見つめるだけで、何も答えようとはしなかった。 
      「……お前、男相手でもOKなのか?」 
      「OKって、何がっスか?」 
      桃城はふと視線を外すと、心なしか頬を染めて頭をガリガリと掻いた。 
      「桃先輩?」 
      「………だからっ、い、いろいろだよっ」 
      「は?」 
      眉を寄せて首を傾げるリョーマに、桃城は溜息をついた。 
      「だから…………キ、キスとか……セッ……いや、そ……その先とか」 
      「SEX?」 
      「ば……っ、お前、そんな平然と……っ」 
      リョーマは面倒くさそうにふぅっと息を吐き出した。 
      「OKかどうかなんて、そんなのわかんないっス。その場になってみないと」 
      「わかんないって……じゃあ、とりあえず、手塚部長とは、まだ、なんだな?」 
      「え…まあ……」 
      反射的に答えてしまってから、リョーマは肯定してもよかったのかと内心首を傾げた。 
      男同士の場合「付き合う=身体の関係有り」と見なされやすいことをリョーマは何となくわかっていた。だから、付き合っているのを装っている以上、身体の関係があることも匂わせた方がいいのだろうか、と。 
      (今日帰ったら部長に確認してみよう…) 
      そんなふうに手塚のことを思い出した途端、今ここに手塚がいないことにリョーマは突然物足りなさを感じた。 
      (部長……早く来ないかな……) 
      今日は委員会の会議が遅くまであると言っていた。話し合わねばならない議題が山積みなのだろう。今頃は教職員用の大会議室を借りて会議を開き、眉間にシワを寄せて座っているかもしれない。 
      (笑うと優しい顔になるのに…なんでいつもコワイ顔してるのかな……) 
      リョーマは昨夜見た手塚の素顔を思い出した。 
      眼鏡を外した手塚の顔は、リョーマが今まで見た誰よりも整っているように感じた。すでに大人の男を思わせる顎のラインにキリッと引き締まった唇、低くはなく、だが決して高すぎもしない鼻梁、深い色を湛えた澄んだ瞳、意外に長い睫毛、そしていつもは引き寄せられているがプライベートの時は男らしさを演出するために作られたような眉。どれを取っても絶妙としか言えないようなバランスで配置されていると、リョーマは思う。 
      その完璧に整った顔に柔らかく微笑まれると、なぜだかリョーマは落ち着かなくなる。それは決して嫌なのではなく、逆に嬉しくなってきて胸がいっぱいになってしまうのだ。 
      同じ男に微笑まれて嬉しさに胸をいっぱいにしている自分が、どこか恥ずかしかった。 
      (オレ、どっかおかしいのかな……) 
      「おい、聞いてるか?越前」 
      「え?」 
      少し大きな声で桃城に名を呼ばれ、手塚のことで頭がいっぱいになっていたことに、リョーマはやっと気づいた。 
      「だからさ、気をつけろよって言ったんだよ。校内でも人気のないところへは行くなよ?」 
      「なんで?」 
      桃城は「だぁぁぁっ」と妙な言葉を発しながら頭を両手でガシャガシャと掻きまわした。 
      「やっぱ聞いてねえのかよ。お前、自分のかわいさを自覚しろって言ったんだよ!」 
      「はぁっ?なにそれ」 
      思い切り不愉快そうに顔を顰めて言うリョーマに、桃城は深く溜息を吐いた。 
      「この学校、推薦とかで体育会系の奴らが結構いるだろ?そのせいかどうかは知らねえけど、多いみたいだぜ、お前みたいな『可愛い』ヤツが好みって言う男が」 
      「………マジ?」 
      「マジ」 
      リョーマはげっそりと肩を落とした。そんなのはかつて住んでいたアメリカでのことだけだと思っていた。 
      「だから、例の犯人煽るためなんだったら、不用意に手塚部長と付き合っているとか言うのはやめとけよ。今まではとりあえず理性とかモラルで抑え込んでいたのが、『越前は男もOK』って言うことになればそういう趣味の奴ら、何がなんでもお前をゲットしようと狙って来るかもしれねえぞ」 
      「…………」 
      リョーマはきつく眉を寄せた。忌々しそうに下唇を噛み締める。 
      「ま、そういう奴らばっかりじゃあないと思うが、気をつけるに越したことはないって……越前?」 
      「………ざ……な…っ」 
      「え?」 
      「…ふざけんな…っ」 
      俯き加減で、怒りのあまり唇を震わせて呟くリョーマに桃城は目を見開いた。 
      「えち…」 
      「誰が可愛いって?ふざけんな…っオレは男だ。そんな変態なんかぶっ飛ばす」 
      「……え…越前さん?」 
      帽子に隠されてその表情は見えないものの、桃城は初めて見る『本気で怒るリョーマ』に、顔を引きつらせた。 
      「桃先輩」 
      「はい?」 
      俯いたままのリョーマに怒りを抑えたような静かな声で名を呼ばれ、桃城はビクリと身体を揺らした。 
      「ご忠告、ありがとうございました」 
      ペコリと殊勝に頭を下げながらも、再び顔を上げたリョーマに桃城は目を見開いた。 
      リョーマは怒っていた。 
      だが、怒りながらも、薄く笑みを浮かべていた。 
      「………」 
      桃城は、リョーマのその複雑な表情に言葉を失くした。 
      リョーマはたぶん、先程の言葉の通り、強引な手段を用いて自分に言い寄る男子がいたならば、容赦なく制裁を加えるのだろう。 
      自業自得だと言わんばかりに。 
      二度とリョーマを『女扱い』したいと思わなくなるように。 
      そのリョーマの強気な微笑みは、見栄でもはったりでもないことを桃城は知っている。そしてそれと同時に、その強気こそが危険なのではないかとも思う。 
      「……いいか、越前。仮にその『変態野郎』に遭遇しても、お前一人でぶっ飛ばそうと思わない方がいいぜ。現実問題として、自分の腕力、把握しとけよ?」 
      リョーマは笑みを消して、不服そうに眉を寄せた。 
      「…お前の腕力の足りない分は、俺が守ってやるから」 
      「え?」 
      訝しげに眉を寄せるリョーマに、桃城がさらに何かを言おうとした時、リョーマの視線が桃城の背後に「その人」を捉えて、煌めいた。 
      「桃城、越前、そろそろ練習再開するようだぞ。コートに戻れ」 
      制服のままの手塚が、部室に行きかけて偶然二人を見つけたとでもいうように、表情を動かさずに声をかけてきた。 
      「早かったんスね、部長。もっと遅くなるのかと思っていたっス」 
      桃城の元を離れてリョーマが手塚の方へ駆け寄ってゆく。 
      「まあな。議題は多かったが、意見が割れる項目が少なかったんだ。だから予想よりも少し早く終わった」 
      「そっスか」 
      どこか嬉しそうに声を弾ませるリョーマに、手塚は柔らかく目を細めた。そんな手塚の表情を初めて見た桃城は思わず目を見開いた。 
      「早くコートに戻れ。俺もすぐ行く」 
      「ういっス!桃先輩、戻りましょっか」 
      そう言いながら振り返ったリョーマの表情を見て、桃城はさらに目を見開いた。 
      「桃先輩?」 
      「あ……ああ……」 
      リョーマに覗き込まれて我に返ったかのように、桃城は小さく笑みを浮かべた。 
      「…んじゃ、後半もはりきっていくか、越前!」 
      「ういっス!」 
      くるりと背を向けてさっさと歩いていくリョーマを見送り、桃城は手塚に一礼をしてから、リョーマの後を追うようにコートに戻っていった。
 
 
 
  練習を終え、今日もリョーマは手塚が日誌を書き終えるのを部室の隅のベンチに座って待っていた。 
      「……あの…部長…」 
      「ん?」 
      二人きりになってすぐに、珍しくリョーマが手塚に声をかけてきた。内心驚きつつも、日誌から目を上げずに手塚が返事を返す。 
      「あー……やっぱいいっス。すみません」 
      手塚はふと顔を上げてリョーマの方を向いた。 
      「…どうした?」 
      「いえ……べつに……」 
      そう言いながら表情を曇らせるリョーマに、手塚は小さく眉を寄せる。 
      「………桃城に何か言われたのか?」 
      「え…」 
      「さっき…声をかける少し前からお前たちの様子を見ていたんだ。何を言われた?」 
      リョーマはチラリと上目遣いで手塚を見てから溜息を吐いた。 
      「……部長とオレが付き合っているって噂が広まったせいで、オレを狙う奴らが増えるんじゃないかって」 
      「………」 
      「なにそれ、って感じなんスけど……なんか面倒なことになったのかなって……」 
      手塚は左手に持っていたシャーペンを静かに置いて、身体ごとリョーマの方へ向き直った。 
      「やはりやめておくか。俺たちで犯人を捜し出そうとするのは」 
      「え?」 
      リョーマは勢いよく顔を上げた。 
      「あんな写真を貼り出されてお前が腹を立てるのはわかるが、迂闊に犯人探しをしようとしてお前が傷つくことにでもなったら元も子もない」 
      「オレはあんな写真気にしてないっス。でも、部長が変なふうに噂されたら悪いなって……思うから……」 
      「………」 
      「………」 
      二人は同時に、何か心に引っかかるものを互いの言葉の中に感じて黙り込んだ。 
      だが手塚はすぐに深く考え込むのを放棄して再び日誌に向かう。 
      「…とりあえず、もう少しで書き終わるから、まずは家に帰ろう。詳しい話はそれからだ」 
      「…ういっス」 
      小さく返事をしてから、リョーマは何も言わずにベンチの上で片膝を抱えた。 
      手塚もただ黙々と日誌を書き続けた。 
      程なくして日誌を書き上げた手塚は、少し硬い表情のまま、リョーマと共に部室をあとにした。
 
 
  日誌を竜崎に届け、二人で校門を出ようとした時に手塚の携帯が鳴った。 
      「はい、…ああ、はい」 
      手塚が歩きながら応対する。今日も手塚の母・彩菜からの電話らしい。 
      リョーマは手塚の歩調に合わせて黙ったまま歩いた。 
      「え……そうですか…わかりました。はい。…では」 
      通話を終えた手塚が隣を歩くリョーマに視線を向けた。 
      「?なんスか?今日も部長の家に行くんスか?」 
      「いや、今日はお前の親御さんが夕飯を届けてくれるらしい」 
      「は?」 
      「今日・明日と居間が使えなくなっていて、とりあえず夕飯にちらし寿司を作ったそうなんだが……食べる場所がないのでこっちまで届けてくれるそうだ」 
      リョーマは、ああなるほど、と頷きながらふとした疑問を口にした。 
      「もしかしてオレが携帯ないから、部長んとこ経由して、伝言?」 
      「そういうことだ。……どうやらうちの母と越前の母上とは非常に気が合うようだな」 
      「みたいっスね」 
      小さく笑いながらリョーマが頷くと、手塚も何かを思い出したようにクスッと笑った。 
      「あの人があんなに楽しそうに誰かと話すのは久しぶりに見た気がする」 
      「え、オレの母さんと話していた時っスか?」 
      「ああ」 
      「いつも楽しそうに見えるけど」 
      手塚は静かに微笑む。 
      「それはお前のこともとても気に入っているからだろう」 
      「ふーん………あー…なんかお腹空いた……」 
      リョーマはどこか恥ずかしくなってしまい、わざと話を逸らした。実際、先程から腹の虫が鳴り続いていたことは確かではあるが。 
      「すぐに届けてくれるらしいぞ。だから俺たちは真っ直ぐあのマンションに帰ればいいらしい」 
      「ういーっス。んじゃ、ランニングでもしながら帰ります?」 
      手塚はちょっと考えてから「いや」と言って首を横に振った。 
      「以前そうやってバッグを担いだまま走って帰ったことがあったんだが…帰ってからバッグを開けたら、中がすごいことになっていた記憶がある」 
      「ぁ、それ、オレも経験あるっス!」 
      「そうか」 
      手塚はちょっと目を見開いてから困ったように笑った。リョーマもプッと吹き出す。 
      「ペンケースとか中全部出ちゃってたし、そのせいでシャーペンの芯全滅だったし、テキストとかノートとかあっちこっち折れちゃったし…」 
      「俺のはシャーペンがノートに刺さっていたぞ」 
      「うわ、なにそれ、どーゆー走り方したんスか!」 
      リョーマが声をたてて笑う。 
      可笑しそうに笑うリョーマを見て手塚も柔らかく笑った。 
      そのまま二人はずっと「すごいことになったバッグの中身」について笑いを交えながら話した。 
      気がついた時にはもうマンションに着いていた。あまりに早く到着したので、二人は不思議そうに自分の腕時計を眺めてしまったほどだった。 
      だが、互いの時計を見比べても時計が壊れているわけではないらしいので、二人は内心首を捻りながら、最上階の部屋に戻った。
 
 
  部屋に帰り着いてそれぞれ部屋着に着替え終わる頃、玄関のチャイムが鳴った。 
      手塚が相手を確認してからドアを開けると、満面笑顔の倫子が立っていた。 
      「こんばんは、手塚くん。うちのリョーマ、ご迷惑おかけしていませんか?」 
      「こんばんは。越前はきちんとしてくれていますよ。今朝もゴミ出しをやってくれました」 
      「え?リョーマがゴミ出し?」 
      どこかリョーマに似た目を大きく見開く倫子に、手塚は怪訝そうな顔をした。 
      「はい。風呂の用意もしてくれますし、とても助かっています」 
      「リョーマが……」 
      「オレがゴミ出したり、風呂の用意するの、そんなに驚くことなワケ?」 
      手塚の後ろからひょこっと顔を出して、リョーマが頬を膨らませた。 
      「そりゃそうよ。今まで一度もゴミ出しなんかしたことないじゃない」 
      リョーマはそっぽを向いて「そうだっけ?」と嘯いた。 
      「このままずっと手塚くんと暮らしたらいいんじゃないの?」 
      「あ、オレもそうしたい。なんてったって、俺たち『新婚』だからさ」 
      「こら、越前」 
      手塚がリョーマを振り返って困ったように眉を寄せた。 
      「ああ、彩菜さんからその話は聴いているわよ。貴方たちがラブラブだって。ベッドもひとつなんでしょ?」 
      「…………」 
      「…………」 
      同じように目を見開いて、手塚とリョーマが倫子を凝視した。 
      「まあ、でもほどほどにしておきなさいよ?学校や部活に影響が出るのは頂けないわ」 
      からかい半分にそう言ってクスクスと笑う倫子に、どこからどう否定しようかと、二人は言葉に詰まった。だが手塚はその責任感の大きさから、黙ったままではいけないと、無理に口を開いた。 
      「それは充分考慮しています」 
      手塚は倫子を安心させようと思ってそう言ったのだが、その一言が倫子にはかなり衝撃的な発言だったことには手塚は気づかなかった。 
      「そ、そうなの?…考慮して…。……手塚くんがそう言うなら大丈夫ね。リョーマ、下にお父さん待たせているから、もう私は帰るけど……あなた本当に大丈夫なのね?」 
      「?…うん。べつに」 
      「…………」 
      倫子はじっとリョーマの顔を見つめてから、おもむろにリョーマの腕を掴んでドアの外に引きずり出した。 
      「ちょっと失礼」 
      「何?なんだよいきなり…っ」 
      手塚がきょとんと二人を見つめるのへ愛想笑いを向けてから、倫子がリョーマに小声で訊ねた。 
      「ちゃんとコンドームはつけてるの?」 
      「……………は?」 
      「男同士だから妊娠の心配はないけど、衛生面とか、身体のケアのこととか、ちゃんとしなさいよ?」 
      「☆■○▲◎※!!!」 
      倫子の言葉の意味がわかって、リョーマは一気に真っ赤になった。 
      「な…っ……なに言ってんだよ!そんなこと、母さんが心配しなくたっていいよ!」 
      「え…?」 
      そして、またこのリョーマの発言で倫子が大いに誤解したことを、リョーマも手塚も気づかなかった。 
      「……あー…あの……、ああ、これ、ちらし寿司と、ちょっとしたおかず作ったから、食べてね」 
      倫子は四角い風呂敷包みをリョーマに手渡した。 
      「ありがと、母さん」 
      「お心遣い、感謝します」 
      「それじゃ」 
      ぎこちなく微笑んでそそくさと帰っていく倫子を見送ってから、二人は首を傾げた。 
      「なんか、今日の母さん変だ…」 
      「何か俺が気に障るようなことを言ったのかもしれない…」 
      二人の脳裏に、倫子の引きつった微笑みが浮かんだ。 
      「いや、部長のせいじゃないっスよ。なんか変な誤解してるみたいっス。さっきも妙なこと訊くし…」 
      「妙なこと?」 
      リョーマはさっき倫子が言ったとんでもないことを思い出して頬を染めた。手塚にそのまま伝えるのには抵抗がある。 
      「あ…えーと、……これ、食べましょうよ。オレ腹減って死にそう」 
      「ああ、そうだな。いただこう」 
      手塚の柔らかな微笑みに、リョーマも微笑み返した。 
      「部長、ちらし寿司、好きっスか?」 
      「ああ。好きだ」 
      「オレも大好きっス」 
      ワクワクと嬉しそうに瞳を輝かせるリョーマを見た手塚は、なにか胸に温かいものが込み上げ、ひどく穏やかな気持ちになって微笑んだ。 
      部屋に入り、いそいそと食事の用意をするリョーマを、手塚はじっと見つめる。 
      (他人といて、こんなに心が安らぐのは初めてだ…) 
      「部長、ウーロン茶でいいっスか?それとも温かいお茶煎れます?」 
      「今はウーロン茶でいい。温かいお茶は食後に俺が煎れよう」 
      「ういーっス!コップコップ」 
      リョーマがパタパタと走り回る。その姿が微笑ましくて、手塚は自分でも気づかないうちにまた穏やかな笑みを浮かべていた。 
      「部長、何してるんスか、早く座ってよ」 
      「ああ」 
      風呂敷を解き、重箱を開けてリョーマが歓声を上げる。 
      そのリョーマの笑顔を見つめながら、手塚はひとつ、決意した。
 
 
 
 
  「え?それってどう言うことっスか?」 
      食事を終え、温かい玄米茶を飲んでいたリョーマは、手塚の言葉に少し驚いて目を丸くした。 
      「学校にいる時も、出来るだけ俺の傍にいろと言ったんだ」 
      「………なんで?」 
      手塚はリョーマをじっと見つめてから、ふっと視線を湯飲みに移した。 
      「桃城の言ったことは、間違ってはいない。俺とお前の噂が流れるようになってから、何人か、あからさまな視線をお前に向けてくるヤツもいた。気づかなかったか?」 
      「全然」 
      手塚は溜息をついて「そうだろうな」と呟くように言った。 
      「お前に何かあっては、俺を信頼してお前を預けてくれた親御さんに顔向けが出来ない。このまま犯人探しを続けるのなら、出来るだけ俺の傍を離れるな」 
      リョーマは大きな目をさらに見開いて手塚を見つめた。手塚も真っ直ぐリョーマを見つめる。 
      少しの間があって、リョーマの瞳に強い光が宿った。 
      「………わかりました。犯人が見つかるまで、っスよね?」 
      「ああ」 
      頷く手塚にリョーマも頷いてみせる。 
      「朝も、昼休みも、放課後も、ずっと部長の傍にいます」 
      「ああ。俺の傍にいてくれれば、邪な考えの輩がお前に何かしようとしても、護ってやれる」 
      リョーマはドキリとした。 
      同じことを桃城が口にした時は何でもなかったのに、今、手塚の口から聞いた力強い言葉に、リョーマの心が震えた。 
      「よろしくお願いします」 
      ペコリと頭を下げるリョーマに頷いてから、手塚はふと瞳を和らげた。 
      「少しの辛抱だ。犯人さえ見つけられれば、こんな偽りの関係も終わる」 
      「…はい」 
      リョーマはこくりと頷いて小さく笑った。 
      「ぁ、今日は部長が先に風呂入ってくださいね。もう用意します?」 
      立ち上がるリョーマに手塚が頷いた。 
      「すまないな」 
      「いいっスよ。また入浴剤もいれちゃいますよ」 
      「ああ、頼む」 
      「ういーっス」 
      返事をしてすぐにリョーマは風呂場に向かった。 
      浴槽を綺麗に洗い流し、温度を調節してから湯を溜め始める。 
      (少しの辛抱、か…) 
      リョーマは流れ出るお湯を見つめながら溜息を吐いた。 
      他人から干渉されることも、束縛されることも、リョーマは大嫌いだった。 
      自分のことは自分でやるし、その行動にいちいち文句を言われたりすると、無性に腹が立った。もちろんそれは何かを学ぶ時は別で、自分よりも知識や技術を持った存在はちゃんと尊敬するし、その人から言われた言葉には、多少横柄な態度は取るものの、素直に従ってきた。 
      リョーマは手塚を尊敬している。 
      それは面と向かって言葉に表すことはないだろうが、あの高架下のコートでの試合から、リョーマの中で『手塚国光』という人間は特別なポジションにいる。 
      (だから、なのかな…) 
      今、自分は手塚にある意味干渉され、束縛されようとしている。 
      なのに、嫌悪感が湧かない。 
      嫌悪感どころか、手塚とずっと一緒にいられると思うと、心が騒ぐ。嬉しさで、胸がいっぱいになる。 
      (変だ……) 
      リョーマはまた大きく溜息を吐いた。 
      「やめた」 
      どこか複雑な感情を自分なりに分析しようと思ったが、やめた。きっと、さらにややこしいことを考えてしまうに違いないからだ。 
      (今は、犯人探しのことを考えよう) 
      リョーマは浴槽の縁を握り締めて「よしっ」と呟いた。 
      手塚に嫌な思いをさせている犯人を、絶対に見つけてみせる。 
      「………」 
      だが、リョーマは、あることにふと、気づいた。 
      (束縛されているのは、オレじゃなくて部長の方かも…) 
      本来なら一人で悠々と使うはずだったこのマンションにリョーマが押しかけてしまい、独りの時間を奪ってしまった。さらには学校でも手塚の時間を自分のために使わせることになってしまったのだ。 
      (オレが、部長のことを束縛しているんだ……) 
      リョーマはきつく眉を寄せた。 
      (だったら尚更…) 
      尚更、早く手塚を解放してやらなければと、リョーマは思う。 
      早く犯人を見つけ出し、一連の噂をきちんと訂正させ、今まで通りの生活に戻すのだ。 
      「………っ」 
      溜まってゆくお湯を見つめながら、リョーマは小さく眉を寄せた。胸の奥が、さっきからチクチクと痛い。 
      (部長との生活も……オレは結構好きだけどね……) 
      そう考えてしまってからリョーマは苦笑した。 
      (何考えてんだろ、オレ…) 
      ちょうどいい湯量になったところで蛇口を締め、入浴剤を入れる。 
      「部長、もう入れるっスよ」 
      わざと明るい声を出しながら、リョーマは手塚に声をかけた。 
      「ああ、すまない」 
      流しで食器を洗っていた手塚が振り返った。 
      「ありがとう、越前」 
      「…っ!」 
      手塚に優しく微笑みかけられて、リョーマの心臓が大きく跳ねた。 
      「あ、お、オレがやるから、早く部長はお風呂に…っ」 
      「もう終わる」 
      皿の洗剤を落としながら優しく諭すような口調で手塚が言う。手塚がそんな声音で話す人だったということを、リョーマは一緒に暮らし始めるまで知らなかった。 
      「…………部長」 
      「ん?」 
      蛇口をキュッと締めてから手塚がリョーマを振り返る。 
      「ぶ、部長は、男同士とか、どう思うんスか?」 
      「え?」 
      「オレのこと狙うヤツがいるとか、そう言うの聞いて……」 
      手塚は一瞬目を見開いてから、スッと視線を外し、タオルで手を拭いた。 
      「男でも女でも、相手を尊敬しない好意はただの自己満足だ。本当の愛情ではない」 
      「………」 
      「お前のことを心から愛するというのなら、俺は性別にかかわらず、その想いは認めてやると思う」 
      リョーマはふと、視線を足下に落とした。 
      「そうじゃなくて、そんなふうに、『可愛い』とか言われて男に好かれちゃうオレ自身のことを、部長はどう思うんですか」 
      「お前自身?」 
      コクッと小さく頷くリョーマに、手塚は怪訝そうな顔をした。 
      「お前は何も悪くないだろう?生まれついての顔かたちなどはお前には何の責任もないんじゃないのか?」 
      「……そうっスけど……」 
      手塚はリョーマの表情を見て、リョーマが拘っている点を察した。 
      「男に好かれるからと言って、お前が女性的だというわけじゃない。お前はこの先、青学テニス部を支えていく立派なテニスプレーヤーになると、俺は思っているが」 
      リョーマはふっと顔を上げた。 
      「……部長みたいに…」 
      「え?」 
      「あ……いや、何でもないっス。……お風呂、冷めちゃうね。変なこと聞いてすみませんでした」 
      「いや…」 
      手塚は何か言いかけたが、そっと口をひき結んで手早く着替えなどの用意をし、風呂に向かった。 
      浴室のドアが閉まると、リョーマはふぅっと深く息を吐いた。 
      (オレ、さっき、何を言おうとしたんだ…?) 
      リョーマは前髪を掻き上げた。
 
  『部長みたいに、格好良くなれますか』
 
  自分の唇は、確か、そんな言葉を紡ごうとしていた。 
      「なんだよ、それ……」 
      確かに手塚は男の自分から見てもとても魅力的だとリョーマは思う。見た目も、中身も、テニスの腕前も、すべてに置いてパーフェクトだと言える気がした。 
      だからといって、リョーマは『手塚のようになりたい』とは思わない。 
      そうではなく、さっき自分が言おうとしたのは、手塚への賛辞だったのではないだろうか。自分が手塚を素晴らしい人だと思っているということを、それとなく、さりげなく、伝えようとしたのではないのか。 
      自分が、手塚に尊敬と好意を抱いていると、知って欲しかったのではないか。 
      (なんで……) 
      リョーマは小さなテーブルの前にぺたりと座り込んだ。飲みかけの湯飲みを見つめ、溜息を吐く。 
      (ここんとこ、部長のことばっかり考えてるよな……) 
      まるで思考回路が手塚に縛られているかのようだ、と思う。 
      (部長は……オレのこと考えたりする時もあるのかな……) 
      手塚の頭の中が自分でいっぱいになることなどないとは思うが、もしそうなったら、と考えて、リョーマは頬を染めた。 
      もしも、手塚の頭の中をすべて自分のことに縛り付けられたら…、 
      「ヤバイ……嬉しい……かも…」 
      リョーマは大きな溜息を吐き出して、ごろりと仰向けに転がった。 
      「母さんや部長んとこのお母さんが変なことばっか言うから……オレまで、なんか変なことになりそう……」
 
  他人から干渉されるのも束縛されるのも、リョーマは大嫌いだった。 
      だが相手が手塚だとしたら、干渉されても束縛されても構わないと思う自分。
 
  「なんか………ヤバそう……」 
      複雑な想いを抱え込んで、リョーマはゆっくりと目を閉じた。
 
 
 
 
 
  
      続
 
 
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      20050525 
      
      
  
    
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