  お風呂
  
 
  
      
  「すまないな、越前」 
      二人で住むマンションの部屋に戻るなり、手塚がリョーマに謝った。 
      「え?」 
      少し驚いたような目で振り向いたリョーマを困惑した表情で見つめ、手塚は黙ったまま深く溜息を吐くと寝室の方を見遣った。 
      「ああ……布団の件っスか?」 
      「………」 
      手塚はリョーマに視線を戻し、小さく頷いた。 
      母・彩菜に「布団がひと組欲しい」と手塚が言うと、ニッコリと微笑まれて「必要ないでしょ?」と返された。設置してあるのはセミダブルよりも一回り大きなベッドなのだからと、丁寧に寸法の説明までされてしまった。 
      「…すまない」 
      「べつにいいっスよ。昨夜も問題なかったし」 
      部屋の隅にバッグを置きながら、リョーマは小さく笑った。 
      「『恋人』通り越して『新婚』って思われちゃってるんだから、しょうがないじゃないっスか。あ、でも、部長は狭く感じた、とか?」 
      「いや、俺も問題はなかったが……」 
      「じゃ、いいっスよ。オレ、ベッドの方が好きだし」 
      「そうか」 
      そう返事を返してから、手塚は内心首を捻った。 
      母の言動が、やはりどうも変だ、と思う。 
      ずっと前からおおらかな人だとは思っていた。思い込みが激しいところがある、とも。 
      だが今回の件に関しては、少し様子が違うような気がする。 
      (男同士だというのに少しも動じた素振りを見せないとは……いや、むしろ、俺と越前が絆を深めることを本当に望んでいるような…) 
      手塚は母の笑顔を思い浮かべた。 
      (考えすぎだろうか。単に、あの人が俺たちのことを本気にはせずに楽しんでいるだけなのだろうか……) 
      「部長」 
      「え?」 
      自分の内側に向いていた思考を外に向けると、すぐ目の前にリョーマの瞳があったので、手塚は大きく目を見開いて一歩後退った。 
      「お湯溜まったから、お風呂、お先にどうぞって、言ったんスけど」 
      「ああ……いや、お前が先に使え。もらってきた食材を冷蔵庫に入れなければならない」 
      安かったからたくさん買ったのだと言って、彩菜から数日分の食材を手渡された。この部屋に元々設置されている冷蔵庫では入りきらないかもしれない。プラスチックのトレーなどを外して小分けし、嵩を減らす必要があった。 
      「ういーっス。じゃあ、お先に」 
      「ああ」 
      「あ、そうだ。部長、昨日買ったコンビニの袋ってどこ置きました?」 
      「それならそこに…」 
      手塚が指を差した部屋の隅に視線を向け、「ああ、あった」と言いながらリョーマが嬉しそうに笑った。袋を漁るリョーマの手元を見ていると、袋の中から『登別温泉』と書かれた箱が出てきた。 
      「ぁ、バスタオル…」 
      しまった、と言うような顔をするリョーマに、手塚は「余分にある」と言って自分の着替えの入ったバッグからバスタオルを取り出してリョーマに渡した。 
      「ありがとうございます。じゃ、行ってきます!」 
      「ああ」 
      いそいそと風呂に向かうリョーマの後ろ姿に、手塚は小さく微笑んだ。 
      (風呂好きなんだな…) 
      昨夜もコンビニでどこか楽しそうに入浴剤を選ぶリョーマに、思わず頬が緩んだ。 
      そんなに種類は置いてなかったので、その全部をひとつひとつ手に取って眺めてから最終的に二つまで絞り込み、その二つを両手に持って「うーん」と唸るリョーマに両方買えと言いそうになって、やめた。選ぶ楽しさもあるのではないかと、手塚は思ったのだ。 
      選び終えるまでリョーマをじっと待っていると、片方に決めたリョーマが振り返り、そこで初めて手塚の存在を思い出したかのように、すまなさそうな、どこか恥ずかしそうにも見える顔をした。 
      (コートとは全然違う表情をする) 
      意外にクルクルと変わるリョーマの表情を見ているのが手塚は楽しかった。 
      コートでは帽子に隠してしまうせいもあるのか、リョーマの表情の変化はあまり見たことがない。せいぜい、人食ったような不敵な笑みと、悔しそうな強い瞳が印象に残っているくらいだった。 
      だが、まだ一晩とはいえ一緒に生活を始めて、手塚はリョーマのいろいろな面を見た気がする。部活だけではわからなかったリョーマの食べ物の好みや、いわゆるプライベートな表情。そして思いの外あどけない寝顔は、年相応に見えて、案外可愛らしかった。 
      冷蔵庫に食材を詰め込みながら、手塚はふと顔を上げてベッドを見た。 
      (今日もちゃんと眠れるだろうか…) 
      昨夜はリョーマが寝てしまっていたので気にはならなかったが、今夜はどうだろうか、と手塚は思う。 
      (考えても仕方がない、か…) 
      手塚は溜息をひとつつくと、冷蔵庫を閉めて立ち上がった。
 
 
 
 
  暫くしてガチャリとユニットバスのドアが開いた。 
      「部長」 
      手塚は予習していた英語の教科書から目を上げ「なんだ?」と返事を返す。 
      「風呂、すぐ入ります?お湯溜める?」 
      「ああ、頼む」 
      ドアから顔だけ出して訊いてくるリョーマに手塚は頷いた。 
      「ういーっス」 
      リョーマがまた引っ込んで、蛇口から勢いよく湯を出す音が響いた。 
      少し間をおいてリョーマが腰にタオルを巻いて出てくる。 
      「ここのバスタブ、結構広いっスね。もっと狭っ苦しいかと思ってました」 
      「そうだな。俺も昨日入った時にそう思った」 
      「あ、やっぱり?」 
      ニッコリ笑うリョーマの髪からぽたりと雫が落ちた。 
      「髪、よく拭いたのか?ちゃんと拭かないと風邪をひくぞ」 
      「大丈夫っスよ」 
      そのまま自分のバッグから着替えを出そうとするリョーマに小さく溜息をついてから、手塚は立ち上がった。リョーマのバッグの横に置いてある自分のバッグからフェイスタオルを取り出す。 
      「ほら、こっち向け」 
      「えーっ」 
      しゃがみ込んでいたリョーマに膝立ちのまま身体を向け、手塚はリョーマの髪をタオルでガシガシと拭き始めた。 
      「うわっ、部長、自分でやりますってば!ガキみたいじゃないっスか」 
      抗議するリョーマを無視してそのまま拭いていると、リョーマがクスクスと笑い出した。 
      手塚も手を止めてクスッと笑う。 
      「ガキ扱いされたくなかったらちゃんと自分で拭いてから出てこい」 
      「ういーっス」 
      リョーマの頭をポンと軽く叩いてから手塚は立ち上がった。 
      「ぁ、部長」 
      「ん?」 
      「入浴剤入れる?」 
      風呂上がりのせいか上気した頬でリョーマが見上げてきた。手塚はちょっと考えてから首を横に振った。 
      「俺はいい。あれはお前が使え」 
      「でも7袋も入っているっスよ?」 
      「………じゃあ、ひとつ使わせてもらおう」 
      「ういっス。どうぞご遠慮なく」 
      そう言って笑うリョーマの笑顔に、手塚も小さく微笑み返した。 
      「そろそろ溜まったか…」 
      思い出したように手塚が言うと、リョーマがスクッと立ち上がった。 
      「オレが見てくるっス」 
      「ああ、すまない」 
      まだタオルを腰に巻いただけの姿でリョーマが小走りに風呂の様子を見に行く。その間に手塚は自分のバッグからバスタオルと着替えを出して風呂の用意をした。 
      「部長、入浴剤入れておきますよー」 
      「ああ、ありがとう」 
      リョーマと入れ違いに手塚が浴室に入ろうとすると、リョーマが急に足を止めた。 
      「あ」 
      「ん?」 
      自分を見つめて目を見開くリョーマに、手塚は怪訝そうな顔をする。 
      「部長の眼鏡取った顔、初めて見たっス」 
      「ああ………何か変か?」 
      「…べつに」 
      小さく笑ってリョーマが部屋に戻ってゆく。擦れ違う瞬間、リョーマからふわりと立ち上るフルーティーなボディソープの香りを感じて、なぜか手塚はリョーマを振り返りたくなった。 
      華奢な背中をこちらに向け、リョーマがまた着替えをバッグから取り出し始める。とりあえず下着を手にしたらしいリョーマが立ち上がって腰に巻いたタオルをするりと落とした。 
      途端に、手塚はそのまま見ていてはいけない気がして急いで浴室に入りドアを閉める。 
      「…………」 
      ドアに寄りかかり、深く息を吐いた。 
      胸の奥に、何か違和感がある。むず痒いような、チクチクとささくれ立っているような。 
      (なんだ……この感じは……?) 
      少し考えてもその違和感の正体がわからなかったので、手塚は諦めて風呂に入ることにした。 
      服を脱ぎ落とし、バスタブに身を沈める。かけ湯をしないで入るところがユニットバスでのちょっとした抵抗感なのだが、身を沈めてしまえばその心地よさに目を閉じた。 
      リョーマの入れてくれた入浴剤が、湯を柔らかくしてくれている。仄かに薫るその香りも、主張しすぎずに絶妙な配分になっているように手塚は感じた。 
      (こういう風呂が好きなのか……) 
      再び、入浴剤を選ぶリョーマの姿を思い出し、次はどんなものを選ぶのだろうかと、手塚は微かに頬を緩めた。
 
 
 
 
  着替えを終えたリョーマは冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出して喉を潤した。 
      ペットボトルを持ったままテーブルの上に拡げられた英語の教科書を覗き込んで、リョーマは眉を寄せた。 
      「…何この文章…」 
      ずいぶんと堅苦しい言い回しの文章だなと思いつつ、ノートに視線を移す。 
      (綺麗な字…) 
      リョーマはふと、手塚の指を思い浮かべた。あのすらりと長い指がラケットを持つととてつもなく強力な、それでいて繊細なショットを生み出す。それが、この字にも表れているように思えた。 
      (それに……顔まで綺麗だし……) 
      先程見上げた眼鏡のない手塚の素顔に、正直言ってリョーマは見惚れてしまった。普段は眼鏡と厳しい表情に隠されて気づかなかったが、手塚はひどく整った顔をしていた。 
      (テニス巧くて、頭も良くて、背も高くて顔もいいなんて…………ズルイ) 
      なぜか腹が立ってきて、リョーマは大きく溜息を吐いた。 
      「………寝よ」 
      開いている手塚のノートに「先に寝ます」と書いて、リョーマはベッドに潜り込んだ。そうしてふと、昨夜は手塚がベッドに自分を運んでくれたことを思い出した。 
      (……おまけに優しいし……) 
      急に頬が熱くなってきてしまい、リョーマはパチパチと瞬きして首を捻った。 
      「……なんか今夜は暑いな…」 
      一人呟いてから、俯せになって枕を抱え込んでみた。ヒンヤリとした枕が、熱い頬に心地いい。 
      (明日起きたら、お礼言おう……) 
      そのまま目を閉じるとすぐに、リョーマは深い眠りへと落ちていった。
 
 
 
 
  手塚が風呂から上がってくると、部屋の中はしんと静まりかえっていた。 
      「越前、寝たのか?」 
      ベッドの方を見ると、こんもりと丸く盛り上がった布団がゆっくりと上下に動くのが見え、すぅすぅと寝息が聞こえてきた。 
      手塚は小さく溜息を吐いてタオルで髪を拭きながら予習の途中だった教科書とノートに目を落とした。 
      「ん?」 
      ノートのど真ん中にリョーマからのメッセージが書いてあった。「先に寝ます」と書かれているだけなのに、手塚はなぜか心が温かくなるのを感じた。
 
  数行残っていた英文の訳を終えて、手塚は翌日の授業の用意をしてからベッドにそっと入った。 
      アラームをセットしてから、ふと、手塚は今日もネコのように丸くなって眠るリョーマを覗き込んだ。 
      コートではどこか人に懐かない野良猫のような雰囲気のあるリョーマと、その寝方が妙にマッチしていて思わず笑みを零す。 
      「…おやすみ、越前」 
      囁くように声をかけ、手塚も深くベッドに身を沈める。 
      「ん……」 
      手塚が目を閉じると同時にリョーマが小さく身じろいだ。再び目を開けた手塚がリョーマの方を見ると、リョーマがベッドを揺らしてこちら側へ寝返りをうった。 
      「ダメ……そんなとこ……噛むなよ……あっ」 
      ビクリと身体を揺らすリョーマに、手塚は知らず目を見開いてその様子を見つめていた。 
      (噛む?) 
      「やめ…っ」 
      手塚はなぜかリョーマから目が離せずに凝視している。 
      「………大好き…だよ……」 
      リョーマがうっとりとした表情で呟いた。 
      手塚はしばらく固まったようにリョーマを見つめていたが、リョーマがまたすぅすぅと穏やかな寝息を立て始めると、ゆっくりと瞬きをして息を吐いた。 
      ずいぶんはっきりとした寝言だと、手塚は思った。 
      (大好き……?) 
      もう一度リョーマを見ると、ひどく幸せそうな顔をしている。 
      そうしてふいに、手塚はハタと、ひとつの結論に行き着いた。 
      (そうか、越前にはもう好きな相手が……だから周囲の目を逸らさせるために俺と……) 
      胸に湧いていたすべての疑問がストンとおさまった気がして、手塚は納得した。 
      リョーマは自分よりも年下で、まだ幼さを残す顔立ちをしているとはいえ、育ちはアメリカだ。きっと恋愛に関しては自分よりも進んだ感覚を持っているに違いないと、手塚は思った。 
      (……ならば協力してやらないとな…) 
      手塚はひどくすっきりとした心地で目を閉じた。 
      (明日からは、もっと相応な態度を心がけよう…) 
      大切な後輩が自分の恋のために必死に頑張ろうとしているのなら、先輩として、手を貸してやらなければならない、と手塚は決意した。 
      幸い、決まった相手も、想いを寄せる相手もいない自分ならば、周囲の目を眩ませてやるのに全面的に協力できる。 
      だが、そこまで考えた手塚の胸の奥で、ちくりと、棘が刺さったような痛みが走った。 
      「……?」 
      手塚はふっと目を開けて、隣のリョーマを見た。 
      幸せそうに眠るリョーマの顔。 
      その寝顔に微笑みを零しながら、手塚もゆっくりと目を閉じる。 
      胸の奥の、わけのわからない小さな傷みは、もう気にしないことにした。
 
 
 
 
  *****
 
 
 
 
  「部長の目玉焼き、やっぱ最高っスね」 
      どうやらリョーマは、手塚の作った目玉焼きで目を覚ますらしく、今日も昨日に引き続いて手塚の作った目玉焼きを満足そうに平らげていた。 
      「ごちそうさまでした」 
      「越前」 
      両手を合わせてペコリと頭を下げたリョーマに、手塚は柔らかな声をかけた。 
      「なんスか、部長」 
      「……その…もう少し、親密に振る舞ってみるか?」 
      「は?」 
      唐突な申し出に、リョーマは思いきり目を見開いてポカンと口を開けた。 
      「周囲に俺たちが付き合っていると思わせるには、もう少し親密さを見せつけた方がいいのではないかと…」 
      「ああ、なるほど!」 
      リョーマは合点がいったというように大きく頷いた。 
      「そうすれば女子に煩くまとわりつかれないし、もしかしたらあの写真を撮った犯人もリアクション起こすかもしれないっスね」 
      「ああ」 
      今度は手塚が深く頷いた。 
      「いっそのこと、テニス部の先輩たちにも『本当に付き合いだした』とか言ってみます?」 
      「え?」 
      リョーマは秘密の作戦会議をするかのように手塚の方へ身を乗り出し、声を潜めた。 
      「部長はこーゆーふうに考えるのは嫌かもしれないけど、ちょっとおかしいと思ったんスよ。昨日のみんな」 
      「おかしい?」 
      眉を寄せる手塚にリョーマは頷いた。 
      「まず、大石先輩が家に部室の鍵を忘れてくるのってありえなくないっスか?あんなに真面目なのに」 
      「……だが初めてというわけでもないぞ?」 
      冷静に意見を言う手塚に頷いてから、リョーマは続けた。 
      「じゃあ、乾先輩。乾先輩は、いつもはもっとゆっくり来るじゃないっスか。なのに、昨日だけどうしてあんなに早く来たんでしょうね」 
      「………あいつは時々理解不能な行動を取るからな……」 
      うーんと唸ってからリョーマはさらに続けた。 
      「あと、桃先輩も変でしたよ。朝からあれだけ噂になっていたのに、オレと部長のこと知らないなんて……」 
      「ああ、それには同感だ。桃城は意外に策士なところがあるからな……」 
      やっと同意を得られてリョーマは嬉しそうに微笑んだ。 
      「それから不二先輩も」 
      「不二?あいつは何も変わらなかったが……」 
      「写真が趣味って聞いたことあるっス」 
      手塚も言われて思い出したらしく、「ああ…」と言って頷いた。 
      「他にも、オレのことよく思わない人もいるかもしれないし。………生意気だって、先輩たちには思われているみたいだから」 
      「………」 
      手塚はきつく眉を寄せて黙り込んだ。リョーマの言葉に、自分が一年の時に味わった「いじめ」を思い出したのだ。 
      黙り込んでしまった手塚に、リョーマは小さく眉を寄せた。 
      「…すみません。部長がみんなを信頼してるのはわかるんスけど……」 
      「越前」 
      「はい」 
      ふいに、少し固い声で名を呼ばれて、リョーマは姿勢を正した。少し饒舌になりすぎたかと、リョーマは自分の失態に内心舌打ちした。 
      「やはり犯人を捜し出した方がいいのかもしれないな」 
      「え?」 
      リョーマは予想と違った言葉が手塚の口から出てきたので、少し驚いて目を見開いた。 
      「心の闇というものは、今は小さくとも、何かの拍子に突然大きくなってしまうこともありうる。そうなってしまった時、お前や俺はもちろんだが、闇を抱えた本人にも、いいことは何もないだろう」 
      真剣な手塚の瞳に、リョーマも神妙な顔で頷いた。 
      「そうなる前に、やはり、俺たちの手で犯人を捜し出そう」 
      「…ういっス!」 
      手塚とリョーマはしっかりお互いの目を見つめて深く頷き合った。
 
 
 
 
 
  
      続
 
 
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      20050520 
      
      
  
    
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