  新婚
  
 
  
      
  手塚とリョーマが『駆け落ち』したという噂は、テニス部だけではなく、学校全体にまで広まっていた。 
      「どこで何がどうなったら、オレと部長が逃避行しなきゃならないんスか。学校来てんのに」 
      「…それよりも、その噂がどこから流されているかが問題だ」 
      「僕は英二から聞いたよ。英二は大石と乾から聞いたって」 
      昼休みの屋上に手塚とリョーマと不二が座り込んで話をしていた。 
      ぽかぽかと暖かな日差しに、本当ならいい気分で寝転がりたいくらいなのに、そうすることもできずにリョーマは小さく何度目かの溜息をついた。その溜息とほぼ同時にリョーマの背後にあるドアがガチャリと開いた。 
      「あ〜いたいた、大石と乾と、それから海堂も連れてきたにゃん!」 
      「桃は?」 
      「学食でパンをもう少し仕入れてから来るって」 
      最後に入ってきた河村が困ったように笑いながらそう言ってドアを閉めた。 
      「……すまない、みんな。大会も始まっているというのに、つまらないことで迷惑をかけて」 
      手塚が小さく頭を下げるのを見たリョーマも、一緒に頭をペコリと下げた。 
      「で、大石と乾はどこでこの噂のこと、知ったの?」 
      不二がいつもの微笑みを浮かべたまま二人に問いかけた。 
      「それなんだが、実はこんなものが校内のメイン掲示板に貼られていたんだ」 
      「ああ、あの昇降口正面の大きな掲示板?」 
      不二の言葉に頷きながら、大石はポケットから折りたたまれた紙を取り出して丁寧に拡げた。 
      「なにこれ」 
      思わずリョーマが呟いた。 
      拡げられたB4判の紙には、お互いを見つめ合う手塚とリョーマの写真が大きく貼られており、その下に「その時の会話」らしき文章が載せられていた。 
      乾が小さく咳払いをして話を始めた。 
      「今朝学校に来た時に大石を見かけてね。珍しく部室の鍵を家に忘れてきたと言うから、一緒に職員室の竜崎先生のところまで鍵を取りに行くことにしたんだ。そうしたらメイン掲示板のところでこの張り紙を見つけたんだが…」 
      乾から視線を流されて、大石も慌てて頷いた。 
      「そうなんだ。見つけた時はビックリして、でもとにかくこの紙は剥がした方が良いだろうと思ってすぐに剥がしたんだけど……遅かったみたいで……」 
      尻すぼみになる大石の言葉を乾がまた引き継いだ。 
      「すでに何人かの生徒に見られたあとだったらしい。そこから『噂』が急速に広まったようだ」 
      「なるほどね」 
      不二が小さく眉間にシワを寄せて頷いた。 
      「で、本当のところはどうなの、手塚。今朝は時間がなくて聴けなかったけど」 
      不二に視線を向けられて、手塚は小さく溜息を吐いた。 
      「昨夜、越前の隣の家が火事になって、消火のために放水された水が、越前の部屋にまで入り込んでしまったんだ。隣家の方々に空いている部屋を提供することになった越前家では部屋が足りなくなってしまって、だから、短期間だけ、俺の部屋で越前を預かることにした」 
      「それでここに書かれてるように『俺の部屋に来い』なんだ…」 
      「ああ」 
      納得する大石に、手塚は深く頷いた。 
      「ではこちらの目撃証言は?」 
      乾がもう一つの写真を指さした。手塚とリョーマが連れ立ってコンビニに入ろうとしている写真だった。 
      「確か手塚の家の近くって、コンビニはなかったよな」 
      大石がまた心配そうな瞳で手塚を見つめる。 
      その大石に向かって、今度はリョーマが口を開いた。 
      「部長の家がリフォームすることになって、暫く部長が一人で暮らすことになったんスよ。だからオレはその部長の部屋に居候することになったんス」 
      「ああ…」と、その場にいた手塚とリョーマ以外の全員がそれぞれ納得して声を漏らした。 
      「それにしても、一体誰が……」 
      不二の言葉に全員が考え込んだその時、バーン、と勢いよくドアが開いた。 
      「遅れましたーっ………って、あれ、みんなどうしたんスか?」 
      唐突に現れた桃城に一斉に視線が集まる。海堂は舌打ちをして苛立たしげに溜息をついた。 
      「……テメェは脳天気すぎだっ」 
      「あぁ?なんだぁ?なんか文句あんのか、マムシっ」 
      「俺はマムシじゃねぇっ!」 
      「こらこらこらこら」 
      顔を突き合わせて睨み合う二人を、大石が宥めに入った。 
      「今はお前達が諍いを起こしている場合じゃないだろう?手塚と越前の身になってみろ」 
      「え?越前、お前どうかしたのか?」 
      桃城がきょとんと目を見開いてリョーマを覗き込む。 
      その桃城を、リョーマもきょとんと見つめ返した。 
      「桃先輩、知らないんスか?オレと部長の噂」 
      「噂?」 
      さらに目を丸くする桃城に、ほぼ全員が溜息を吐いた。 
      「ホントに桃ちん知らないにゃ?手塚と越前が駆け落ちしたって、スゴイ噂にゃん」 
      「はぁっ?駆け落ち?」 
      桃城は暫しポカンとしてから、いきなり豪快に笑いだした。 
      「か、駆け落ち?越前が部長と?なんだそりゃ、男子校じゃあるまいし」 
      「ホントっスよ。この学校、どーなってんスか?」 
      リョーマがぷっくりと頬を膨らませて呟いた。 
      「桃、笑いすぎだよ。……で、これからどうする?手塚」 
      不二が静かに微笑みながら言葉で桃城を制して手塚に視線を向ける。手塚は少しの間考え込んでから、ふと、顔を上げた。 
      「誰がこんなことをしたのかはわからないが、今のところは特に被害もないし、俺は犯人探しをするつもりはない。越前はどうしたい?」 
      「え……」 
      手塚に意見を求められて、リョーマは少し驚いたように目を見開いた。 
      「オレは……オレも、今のところはべつに……無視してればいいかなって…」 
      「確かにな」 
      手塚に同意してもらえてリョーマは小さく安堵の息を吐いた。 
      「……二人がいいって言うなら、僕たちも何も言わないけど……とりあえず、竜崎先生には事情を話しておいた方がいいかもしれないね」 
      「竜崎先生にはもう俺から話はしてある。他の先生方にもそれとなく話をしてくださるそうだ」 
      大石が「さすが手塚だ!」と大きく頷いた。 
      「でも、考えてみれば確かにこのままの方がいいかもしれないにゃ〜」 
      「え?このままって……?」 
      大石が今度は菊丸の方に身を乗り出した。 
      「だってさ、手塚は前からそうだけど、最近はおチビも女の子に人気が出てきたにゃん?でも二人とも騒がれるのは好きじゃないみたいだから、このまま二人が付き合っていることにしといた方が、煩くなくていいにゃん?」 
      「うむ、なるほど、菊丸にしてはいい考えだ」 
      「あーそれ、なんかひどい言い方にゃ〜乾〜」 
      「ああ、ごめんごめん」 
      口を尖らせる菊丸に笑いかけながら、乾は眼鏡の位置を直した。 
      「それについてはどう思う?手塚」 
      大石がどこか深刻そうに眉を寄せながら手塚を覗き込む。 
      手塚は短い逡巡の後でリョーマに視線を向けた。 
      「?」 
      リョーマが目を見開いて手塚を見つめ返すと、手塚はまた少し考え込んでから顔を上げた。 
      「否定も肯定もしない、ということにしたい」 
      全員が一瞬黙り込んだ。 
      「…………それはつまり、このまま越前と付き合っていると思われていても構わないと、そう言うことか?手塚」 
      「俺は構わない。だが越前は……」 
      全員の視線を一身に浴びて、リョーマは言葉に詰まった。だがすぐに、ふぅっと小さく息を吐いて「べつに」とだけ言った。 
      「なんだそりゃ」 
      桃城がクスクスと笑っているのをチラリと睨んで、リョーマは続けた。 
      「オレも構わないっスよ。ついでに『詮索するな』って、部長命令とか、生徒会長命令とか、出してもらえるとありがたいんスけど」 
      溜息混じりに言ったリョーマの言葉に、手塚は小さく目を見開いた。 
      「ああ、それ、いい考えかもしれないね。どう?手塚」 
      不二が頷き、手塚に微笑みかける。 
      「………考えておく」 
      「決まりだな」 
      乾がスクッと立ち上がった。 
      「とりあえず、今回の『駆け落ち』の件は、わざと否定しないで生徒たちの、いや、噂を広めた犯人の動向を窺う、ということにしよう。みんなもそのつもりで」 
      乾の言葉に、それぞれが頷いた。 
      「部員たちには俺から言うよ。当事者が口止めみたいなことをしたら、余計にややこしくなりそうだからね」 
      大石が引きつった笑いを浮かべながら手塚に提案する。 
      「そうだな……すまない、大石」 
      「いや。たまには副部長らしいこともしないとね。越前も、なんかあったらすぐに俺たちに相談しろよ?」 
      「ういっス」 
      小さく笑みを作りながら頷いたリョーマに、大石はニッコリと微笑み返した。 
      一呼吸おいて不二が立ち上がる。 
      「じゃあ、しばらくは様子見だね。……いろいろ大変だろうけど、頑張ってね、越前」 
      「え?あ、はぁ…」 
      きょとんとしながらも返事をするリョーマに、不二は柔らかく微笑んだ。 
      タイミングよく予鈴が鳴り始める。 
      「じゃあ、放課後に」 
      全員が立ち上がり、ゾロゾロと屋上をあとにした。 
      「越前」 
      最後に手塚がドアを閉め、階段を下りかけていたリョーマを呼び止める。 
      「なんスか」 
      リョーマの隣まで階段を下りてきた手塚が、じっとリョーマを見つめてから口を開いた。 
      「本当に、いいのか?俺と噂になったままで」 
      「べつに。部長こそいいんスか?部長のファンの女子がガッカリするんじゃ…」 
      「それは問題じゃない。越前こそ、迷惑ではないのか?今ならまだ…」 
      リョーマはちょっと考え込むフリをしてから、手塚を見上げて笑った。 
      「べつに」 
      「………」 
      小さく目を見開く手塚に「じゃ、失礼します」と言って、リョーマはまた階段を下り始めた。 
      リョーマの姿が見えなくなってから、手塚も小さく溜息を吐いて、階段を下りていった。
 
 
 
 
  *****
 
 
 
 
  動物園の檻の中のような状態で放課後の練習が始まる。 
      まず、リョーマがコートに姿を現すとさわさわと風が動いた。部員たちと、そしてコートを取り囲むようにして見つめてくる無数の好奇の目にリョーマは溜息をつく。 
      「早まったな、とか思ってるんじゃない?越前」 
      いつの間にか背後に立っていた不二が、リョーマの耳元でそっと囁いた。弾かれたようにリョーマがバッと振り向く。 
      「…っ、驚かさないでくださいよ、もう……」 
      「ああ、ごめんね。…今からでもきっぱり否定したら?」 
      「………べつに…」 
      リョーマは不二から視線を外してストレッチを始めた。 
      「ふぅん…」 
      不二が何かを言いかけ、だがそのまま言葉を飲み込んだように微笑んで、リョーマに背を向けた。 
      「お〜い、越前、ストレッチ一緒にやろうぜ」 
      不二と入れ違いに桃城がリョーマの方に歩いてきた。 
      「あ、ういーっス。お願いします」 
      「おぅ」 
      桃城がどこか楽しげに、前屈をするリョーマの背中を押してやる。 
      「いててっ……桃先輩、ちょっと押しすぎ…」 
      「あぁ?やってもらって文句言うなよ」 
      そう言いながらも少し手を緩めてくれる桃城に、リョーマは小さく微笑む。 
      「なぁ、越前」 
      だが背中を押しながら、桃城がいつもと少し違う低めの声でリョーマに話しかけてきた。 
      一瞬、怪訝に思いながら、リョーマはいつものように「なんスか」と答える。 
      「……なんで部長との噂、否定しないんだ?」 
      「………べつに、深い意味はないっス」 
      「ああいう類の噂、お前は真っ向から否定すると思っていたんだけどなぁ」 
      「…………」 
      納得がいかない、というような桃城の言葉にリョーマは何も言い返さなかった。 
      実はリョーマなりに少し思うところがあってのことなのだが、それを桃城に説明するつもりはなかった。 
      「桃先輩、替わります」 
      「ん?ああ」 
      リョーマが立ち上がり、今度は桃城が足を伸ばして座った。リョーマが桃城の背中に手を置いた時、辺りの空気が変わった。 
      自分が現れた時よりも激しく、木々さえもざわめいているように、リョーマには思えた。 
      手塚がコートに姿を現したのだ。 
      「部長、ちーっス」 
      あちこちから手塚への挨拶の声があがる中、リョーマたちの方へ歩いてくる手塚に、リョーマも軽く帽子をあげて挨拶した。桃城も座ったまま挨拶をしている。 
      「ああ」 
      手塚はいつものように頷くと、リョーマの後ろを通り過ぎようとして、ふと、足を止めた。 
      辺りが、しん、と静まる。 
      「桃城、シューズの紐が解けている。気をつけろ。怪我をするぞ」 
      「あ?は、はいっ」 
      桃城が慌ててシューズの紐を結び直した。 
      そのまま、リョーマには何も言わずに乾のいる方へ歩いてゆく手塚に、辺りの緊張は、どっと緩んだ。 
      「やっぱ手塚部長は、存在感がケタ違いだな」 
      「………そっスね」 
      素直に返事を返すリョーマに、桃城はほんの少し目を見開いた。 
      「お前……やっぱり部長のこと……」 
      「え?なんか言いました?桃先輩」 
      「……いーや、なにも。もちっと強く押していいぜ、越前」 
      「ういーっス」 
      「あたたたたたたたたたたたたたっ」 
      遠慮なく全体重でのし掛かられて、桃城は悲鳴をあげた。 
      「バカッ、体重かけすぎだっつうの!」 
      「まだまだだね」 
      ニヤリと笑ったリョーマは、次の瞬間桃城にヘッドロックをかまされていた。 
      そして数秒後、二人は手塚に「グラウンド十周」を言い渡されることになる。
 
 
 
 
  *****
 
 
 
 
  練習が進むうちにギャラリーも減り、手塚が解散を言い渡す頃にはコートを取り囲む生徒は誰もいなくなっていた。 
      「興味津々のクセに、案外根性ねぇなぁ」 
      桃城がぽつりと零すのを、傍にいた河村が笑った。 
      「大石がね、頑張ってコートの外で説明して回っていたんだよ。見ていても二人はいつもと同じだからって。今までと変わったことなんかないんだって、ね」 
      「へーえ、大石副部長、いつの間に…」 
      桃城が大石に視線を向けると、大石は手塚や竜崎と何やら話し込んでいた。その横をボールのカゴを抱えたリョーマが横切ったので、桃城は「ぁ」と言ってリョーマを追いかけた。 
      「おい、越前、今日も寄っていくか?マック」 
      リョーマは「あ…」といいながら足を止めて桃城を振り返った。 
      「今日は……」 
      そう言いながらリョーマがチラリと手塚に視線を向けると、手塚もリョーマの視線に気づいて「なんだ?」という顔をした。 
      「部長……今日、一緒に帰ります、よね?」 
      「あ………ああ、そうだな」 
      手塚が頷いたので、リョーマも頷き返して桃城へ向き直った。 
      「というわけで、桃先輩、今日はパス」 
      「………あー……わかった」 
      桃城の了解を得たことを確認して、リョーマはカゴを抱え直してまた歩き始めた。 
      そのリョーマを見送って、桃城は頭をポリポリと掻きながら河村と共に部室に入っていった。
 
 
  コートの片づけも終わり、リョーマたち一年部員が着替えも終えて帰り始める頃、手塚と大石も竜崎との話を終えて部室に入ってきた。 
      「じゃあ、明日は委員会の会議があるんだな、手塚」 
      「ああ。終わり次第こちらに来るつもりだが、かなり遅れることになると思う。すまないが大石、代わりに指示を出しておいてくれ」 
      「ああ、わかってるよ。でも手塚がいないと部が引き締まらないんだから、なるべく早めに来てくれよ」 
      「わかった」 
      何とはなしにその会話を聞いていたリョーマは、手塚が思いの外多忙なのだと、改めて知った。 
      知らず、じっと手塚を見つめてしまっていたリョーマに、手塚がふと視線を向ける。 
      「越前」 
      「え、あ、はい」 
      ワイシャツのボタンをとめながら、リョーマが手塚に向き直った。 
      「……少し待っていてくれるか。これから日誌を書かなくてはならないんだ」 
      「あ、はい。いいっスよ」 
      リョーマの返事に頷いて、手塚は日誌を拡げた。 
      「部長、お先に失礼します」 
      「お先に失礼しまーす」 
      着替え終えた部員たちが次々と挨拶して帰っていく。リョーマは帰り支度を済ませて、隅のベンチにちょこんと座った。 
      「ぁ、そうだ、今日は部室の鍵……」 
      大石が呟くのへ、手塚が顔を上げる。 
      「ああ。日誌を置きに行くついでに鍵も返しておこう」 
      「ごめん、手塚。よろしく頼むよ。じゃあ…」 
      「気をつけて帰れよ」 
      「越前も、また明日な!」 
      「お疲れッした」 
      大石が出ていき、いよいよ部室の中には手塚とリョーマの二人だけになった。 
      急激に、部室内がしん、と静まりかえる。 
      リョーマは壁に寄りかかってボンヤリと天井を見つめた。
  『ああいう類の噂、お前は真っ向から否定すると思っていたんだけどなぁ』
  ふいに、桃城に言われた言葉が胸をよぎった。 
      確かにそうだ、とリョーマは思う。 
      まだアメリカに住んでいた頃、少し歳の離れた近所の青年に身体を触られそうになってからというもの、その類の話には敏感に反応し、だが冷静に、きっぱりとはねのけてきた。 
      今でも、たぶん噂になったのが他の先輩だったならきっぱりと否定していただろう、とリョーマ自身思っている。 
      リョーマが手塚との噂を否定しないのにはちょっとしたワケがあった。
 
  地区予選が終わって間もない頃、青学の勝利を聞きつけた女子生徒たちが、暫くコートの周辺に張り付いていた時期があった。目当ては手塚や不二、菊丸といった『青学テニス部トップ3』と女子の間で謳われている三人。なんの『トップ3』かと言えば、もちろん『人気』のランキングだった。 
      手塚と不二は共に「眉目秀麗」「才色兼備」「品行方正」ではあるが全く違うタイプで甲乙つけがたいらしく、常に並び称されているらしい。菊丸は気分屋ではあるが、普段のその猫を思わせる愛嬌の良さが大きなポイントになっているようだった。 
      もちろんその三人だけでなく、大石の意外に端正な顔と誠実さを褒めちぎる者、乾の不思議な雰囲気を好む者、河村の優しさが一番だと言う者もいる。海堂や桃城も案外人気が高く、今のところは少数とはいえ、他の生徒に比べればその人気は校内でもかなり上位に入るだろう。 
      とにかく青学テニス部レギュラー(及び、準レギュラー)陣は、バスケ部、サッカー部と共に、かなり高い人気を、例年誇っているのである。 
      人気があることは、しかし、時には様々な問題を生じることもある。 
       その日も放課後の練習時に、多くの女子生徒がフェンスに張り付き、黄色い声を発していた。 
      初めは不二や菊丸が動くたびにキャーキャーと声を上げ、二人が移動すれば、少しでも近くに行こうと女子生徒たちもフェンス際をゾロゾロと移動した。 
      だが手塚が現れると、この日に限って大部分の女子生徒が手塚の周辺に移動した。 
      手塚は自分の練習時には顔色一つ変えずにいつもと変わらず練習に集中していたが、他の部員はそうはいかなかった。周り中からの視線に浮き足立ち、練習に集中できない者が続出したのだ。 
      リョーマの隣に立っていた手塚は、近くにいたリョーマだけが聞こえるほどの小さな溜息を吐いて、フェンスの方に歩いていった。 
      「すまないが、静かにしてもらえないだろうか」 
      手塚が近づいてきたことによってまた黄色い歓声を上げ始めた女子生徒たちに、手塚は凛とした声でいきなりそう言った。黄色い歓声は、ほんの少しトーンを下げ始める。 
      「君たちに騒がれると、部員たちの練習に支障が出る。静かにしていられないなら、帰って欲しい」 
      黄色かった歓声は、明らかに不満の声に変わった。それでも立ち去ろうとしない女子生徒たちに手塚は表情を少しも変えずに言い放つ。 
      「もう一度言うが、騒ぐなら帰ってくれないか。練習の邪魔になる。迷惑だ」 
      「ヒドイ、そんな言い方しなくたって!」 
      誰かが叫んだ。 
      途端にザワザワと嫌な空気が蔓延する。 
      「なんか嫌な感じよね」 
      「もっと優しい人かと思っていたのに」 
      「冷たいんだ、手塚さんって」 
      自分たちのしていることを棚に上げて好き勝手を言い始めた女子生徒たちに向かって、手塚が更に言い募ろうとした時、後ろから不二が手塚の肩を叩いた。 
      「ダメだよ、ストレートにそんなこと言っちゃ」 
      女子たちには聞こえないように小声で手塚にそう言ってから、不二が一歩前に歩み出た。 
      「ごめんね、みんな。手塚は部長だから、部のことを思って言っただけなんだ。怒らないであげて」 
      ニッコリと不二が微笑みかけると、重苦しかった空気が一変した。 
      「手塚や僕はね、本当は君たちに応援してもらえてすごく嬉しいんだけど、一年や二年の部員の中には君たちみたいな可愛い女の子に見つめられるのに慣れていない連中もいて、どうも緊張しちゃうみたいなんだ」 
      可愛い、と言われたことに敏感に気づいた女子生徒たちは、うっとりと不二の言葉に頷き始める。 
      「だからね、今日のところはもう引き上げてくれるかい?一年生や二年生は、今、とっても大事な時なんだ。もちろん、僕たち三年もだけど」 
      「わかったわ、不二くん。頑張ってね」 
      「いやぁ〜ん、不二くんの笑顔って最高よね〜」 
      手塚の言葉に反発していたのが嘘のように、女子生徒たちは引き上げ始めた。 
      「手塚さんも頑張ってください」 
      一人がそう声をかけてきたのへ、手塚は少し迷ってから「ありがとう」と礼を言った。 
      それに気づいた連中が「やっぱり素敵」などと言いながら手塚にも声をかけ始める。だが手塚は何人かには礼を言ったものの、それが性に合わないらしく、くるりと背を向けてコートの中程の方へ歩いていってしまった。 
      手塚は、リョーマの傍を通り過ぎる際に、深い溜息をついていた。 
      そんな手塚が、リョーマは少し気の毒に思えたのだ。そして、完全人間に思えた手塚が実は案外不器用な人なのだと知って、ほんのりと好感を持った。 
      その想いは不動峰戦を経て、急速に明らかな「好意」に変わっていたらしく、似たようなことがあるたびにリョーマは、手塚を避難する女子たちに腹が立つようになった。自分たちで勝手に手塚にまとわりついていたくせに、拒絶されると手の平を返したように手塚を避難する連中を、どうにかして手塚から遠ざけてやりたいと思うようになった。 
      だから、手塚との噂が広まったのを知って、このままでいれば、手塚にまとわりつく連中が減るかもしれないと考えた。 
      つまりは、菊丸が言っていたことそのままを、リョーマはまさに狙っていたのだ。 
      自分と噂になっていれば、手塚が少しは楽になるのではないかと。 
      偶然にも手塚と数日間とはいえ一緒に暮らすことになったのだし、恋人同士と偽るには好都合だとリョーマは思った。 
      自分にできる精一杯のことを、手塚にしてやりたいと、そう、思ったのだ。
 
  黙々と日誌を書く手塚を、リョーマはチラリと見遣った。 
      先輩で、部長で、生徒会長で、自分よりもテニスが巧くて、たぶん頭も良くて、なのに、人に対してひどく不器用なこの人を周囲の煩わしさから少しでも切り離してあげたいと、リョーマは思う。 
      様々な面で自分よりも明らかに上位にいる者に対して、こんなふうに救いの手を差し伸べてやりたいと思うことなど、初めてだった。 
      だから、今の自分に、リョーマは少し戸惑っていることも確かだった。 
      「……退屈だろう。すまないな」 
      「え?………いや、べつに……」 
      いきなり手塚に話しかけられてリョーマは驚いた。 
      知らず小さく溜息をついていたようで、それが手塚に聞こえてしまったらしい。 
      日誌を書きながら、手塚も小さく溜息をつく。 
      「あと一箇所書くだけだ。すまない」 
      「いいっスよ。ぁ、そうだ、部長、今日、うちに来ます?」 
      「え?」 
      手塚が顔を上げて振り返った。 
      「晩ご飯。食べに来ません?」 
      「……いや、それは申し訳ない…」 
      言いかけたところで手塚のバッグの方から携帯の着信音が響いた。 
      「部長のじゃないっスか?」 
      「ああ」 
      手塚は立ち上がってバッグを探り、携帯を取り出した。 
      「…はい、……ああ、はい。そうです。今終わるところですが………」 
      会話からして手塚の家からだろうことがわかったリョーマは、手持ち無沙汰に、天井に視線を向けたり、窓のサッシを覗き込んだりしていた。 
      「越前」 
      急に名を呼ばれてリョーマは目を丸くしながら手塚を見る。電話はまだ繋がったままのようだ。 
      「今日の夕飯、うちに来ないか?」 
      「え?だって…」 
      「まだリフォームの工事は始まってはいないんだ。母が、お前と話をしたいそうなんだが…」 
      リョーマはきょとんとしてから、昨日会った、あの優しく明るそうな手塚の母を思い出して小さく笑った。 
      「…じゃあ、お邪魔します」 
      「ん。……もしもし、では越前と一緒に帰ります。……はい。……よろしくお願いします」 
      電話を終えた手塚に、リョーマはもう一度困ったような笑みを向けた。 
      「部長のお母さん、変わってますね。オレなんかと話して、楽しいのかな」 
      「あの人は、ああ見えてかなり人を見る目がある。……だから、お前とは話してみたいと言うのだろう」 
      「ふーん」 
      返事をしてから、リョーマは「ん?」と内心首を傾げた。今、手塚に言外に誉められたような気がする。 
      「よし、書き終わった。すぐに支度をする」 
      「ういーっス」 
      着替えを始めた手塚をボンヤリと眺めていたリョーマは、手塚がウェアを脱いだ瞬間、その身体を見て少し羨ましくなった。 
      中学生にしては高めの身長に、張りのある綺麗な筋肉がバランスよくついている。その筋肉の分量がリョーマの目には理想的に見えて、思わずそのまま見惚れてしまった。 
      そのリョーマの視線は手塚が学ランに身を包み終えるまで釘付けになっていて、手塚が振り向いた瞬間、リョーマはそれまで自分のしていたことに気づいて頬を染めた。 
      「待たせたな。行こう」 
      「ういっス」 
      手塚はいつもの口調でリョーマを促して部室を出た。 
      手塚のあとをついて歩きながら、リョーマの頬の熱は、なぜか暫く引くことはなかった。
 
 
 
 
  手塚の家に着くまで、二人はあまり会話を交わさなかった。 
      元々喋る方ではない手塚と、必要以上話そうとしないリョーマとの組み合わせでは、会話が弾む確率など皆無に等しい。 
      そんな二人でも、手塚の母・彩菜の前に出ると調子が狂った。 
      「おかえりなさい!まあまあまあ、越前くん、よく来てくれたわね。急に来てもらっちゃってごめんなさいね」 
      「あ、いえ、お邪魔します」 
      ペコリと頭を上げるリョーマに、彩菜はニコニコと微笑む。 
      「あ、そうだ、すみません、電話借りてもいいっスか?一応、家に連絡入れておきたいんスけど」 
      「ええ、どうぞ。電話はそっちの部屋にあるから」 
      彩菜が指さす方へリョーマは視線を向け、電話を見つけると「お借りします」と言って電話をかけ始めた。 
      「国光」 
      「はい」 
      彩菜が声を潜めて手塚に手招きした。 
      「昨夜はどうだった?越前くんと、いろいろ話し、したの?」 
      「え………いえ、あまり…」 
      「だめじゃないの。話をしながら、お互いの距離を縮めて行かなきゃ」 
      「は?」 
      彩菜の言うことがよくわからず、怪訝そうに眉を寄せる手塚に、彩菜はにじり寄った。 
      「だからね、越前くんと…」 
      そこまで言いかけたところで、電話で話していたリョーマが「えぇっ」と大きな声を発した。手塚と彩菜は何事かとリョーマの様子を窺いに行く。 
      「そんな……すぐ済むんじゃなかった?なんでそんなに………え?……うん……」 
      リョーマの声がだんだんと力をなくしてゆく。 
      手塚と彩菜は顔を見合わせた。 
      「なにかしら。越前くんの家、どうかしちゃったのかしらね」 
      「………」 
      手塚は何も言わずに、また視線をリョーマに向けた。 
      その視線の先でリョーマが静かに耳から受話器を外した。 
      「あの……すみません、うちの母さんから、ちょっと話が……」 
      「あら。私に?」 
      彩菜が目を丸くして訊くと、リョーマはこくりと頷いた。 
      リョーマから受話器を受け取り、彩菜が話をし始める。手塚はすかさず俯き加減のリョーマを覗き込んだ。 
      「……どうかしたのか?」 
      「それが………部長、オレ、もう少し部長のとこに居候しててもいいっスか?」 
      「え?」 
      すまなそうに眉を寄せるリョーマに、手塚は首を傾げた。 
      「オレの部屋と居間、なんか元々かなり傷みがヒドイらしくて、ちゃんと直すためにもう少し時間がかかるって……」 
      「そうか。お前の家もかなり古そうだからな。……そういう事情なら俺は構わないぞ。落ち着くまであの部屋にいていい」 
      「部長……ありがとうございますっ」 
      ホッとしたように表情を緩めてペコリと頭を上げるリョーマに、手塚も表情を緩めた。 
      「だがそうなると、もう少しあの噂は長引くことになると思うが、……いいか?」 
      「え、ああ、オレは全然構わないっス」 
      「そうか」 
      手塚に小さく笑いかけられて、リョーマは頬が熱くなるのを感じた。滅多に見ない手塚の微笑みに、リョーマはなぜか落ち着かなくて足下に視線を落としてしまう。 
      そこへ、ちょうど電話を終えた彩菜がやってきた。 
      「国光、話はもう聴いた?」 
      「はい」 
      「そう、よかったわね」 
      「は?」 
      ニッコリ笑う彩菜に、手塚はまたその言葉の意味がわからずに眉を寄せた。 
      「さあ、お夕飯の用意を急がなきゃ。もう少しだから、貴方たち、お部屋で待っていて」 
      「はい」 
      訝しげに首を捻りながらも、手塚はリョーマを促して自室へと向かった。 
      その二人を見送った彩菜は、クスッと笑うと小さくガッツポーズを取った。
 
 
 
 
  「すみません、部長」 
      「ん?」 
      部屋に入るなり、リョーマは手塚に小さな声で謝った。 
      「そんな長引くと思ってなかったから……」 
      「気にするな」 
      手塚の声音が驚くほど優しくて、リョーマはゆっくりと顔を上げた。 
      「だが、もう少し長く一緒にいるならば、いくつかルールを作っておかないか?」 
      「ルール?」 
      小さく目を見開くリョーマに、手塚は頷いて見せた。 
      「掃除、洗濯、食事、ゴミ出し、それから買い物、公平になるように分担しよう」 
      「あ…ういっス」 
      リョーマは姿勢を正して頷いた。 
      「それと、布団がひと組、いるな…」 
      「え、ああ、……そっスね」 
      「それについては、あとで俺から母さんに相談してみよう」 
      「ういっス」 
      返事をしてから、リョーマが小さく笑ったので、手塚は何だ?と言うふうにリョーマを見つめた。 
      「…なんか、ちょっと前までは、部長とろくに話しもしたことなかったのに…一緒に住むことになるなんて、思ってもみなかったから…」 
      「………そうだな。人と人との繋がりは、いつどこで何がどうなるか、全く予測できないからな」 
      「オレの母さんも、いつも言ってるっス。なんで親父と結婚したのか、未だに自分が信じられないって」 
      「そうなのか?」 
      クスッと手塚に笑われて、リョーマはなぜか嬉しくなった。 
      「あのっ、日本では一緒に生活を始める時に言う言葉があるんスよね?」 
      「言葉?」 
      「ええと、確か……『不束者ですが、よろしくお願いします』とか、そんなんだったと思うんスけど」 
      「…………」 
      思わず沈黙する手塚の耳に、ドアをノックする音が聞こえた。返事をすると彩菜が満面の笑顔で入ってきた。 
      「今の聞こえちゃった。やっぱり貴方たち、そうだったのね」 
      そう言いながら彩菜はリョーマの手を取った。 
      「ありがとう、越前くん、いえ、リョーマくん。可愛い息子がもう一人出来て嬉しいわ。末永くよろしくね」 
      「?……はぁ…」 
      「母さん、違います、越前は…」 
      否定しようと身を乗り出した手塚に、彩菜はニッコリと微笑みかけた。 
      「男同士だから不安なのね。でも大丈夫。母さんは貴方たちを応援しているから心配しないで。ちょうど新婚生活が出来てよかったじゃないの」 
      「新婚?」 
      リョーマが思い切り目を見開いた。 
      「誤解です、母さん。越前はアメリカでずっと暮らしていたので日本語を曲解しているところが……」 
      「まあ、細かいところはいいじゃないの。お夕飯出来たから、二人とも降りていらっしゃいね」 
      輝くばかりの笑顔を振りまきながらそう言うと、彩菜はすぐに部屋を出ていってしまった。 
      「…………」 
      「…………」 
      二人の間に気まずい空気が流れる。 
      「部長……オレ、なんか、変なこと言ったんスか?」 
      「………変というか……お前がさっき言った言葉は、結婚する男女の間で交わすものなんだ」 
      「え?そうなんスか?」 
      手塚は頷いて小さな溜息を吐いた。 
      「母はおおらかではあるが、思い込みの激しいところがあるんだ。すまない、俺がきちんと説明して…」 
      「いいっスよ」 
      「え?」 
      ケロリとした様子でリョーマが言ったので、手塚は不思議そうにリョーマを見た。 
      「どっちみち、学校ではオレたち付き合っていることになっているんスから、べつにまた誤解されても構わないっス」 
      「………だが……」 
      「敵を騙すには、まず味方からって、言うじゃないっスか」 
      「………」 
      手塚はリョーマを見つめたまま黙り込んだ。 
      「新婚ごっこ、しましょうよ」 
      「新婚、ごっこ…?」 
      リョーマはニヤッと笑って悪戯っ子のような顔をした。 
      「決まった相手がいる人間を、そうしつこく追い回す女子もいないでしょうし」 
      「!」 
      その一言で、手塚はリョーマが何を考え、何を狙っているのかがすべて理解できた気がした。 
      「わかった」 
      手塚は短く息を吐くと、改めてリョーマを真っ直ぐ見つめた。 
      「これからしばらくの間、よろしく頼む」 
      「こちらこそ、よろしくお願いします」 
      二人は右手を差し出し合い、しっかりと握手を交わした。
 
 
  手塚の母親をも巻き込んで、二人の「新婚生活」が始まった。
 
 
 
 
 
  
      続
 
 
  ←前                            次→
 
 
  
       掲示板はこちらから→  お手紙はこちらから→ 
 
  
  
      20050515 
      
      
  
    
  |