  駆け落ち
  
 
  
      
  昔も今も変わらず、物語というものは、日常の劇的な変化から始まってゆくものである。 
      その劇的な変化が、普通の中学生だった、都内に住むある二人の身に降りかかろうとしていた。
 
 
 
 
  *****
 
 
 
 
  「母さん、おい、倫子」 
      菜々子がキッチンを離れた隙に、南次郎が声を潜めて倫子に話しかけてきた。 
      「なあに。なんかつまみたいの?」 
      「いや、その、リョーマのことなんだが………」 
      「え?」 
      倫子は視線を手元から南次郎へと移した。 
      「アイツ……カノジョができたぞ」 
      真剣な顔で告げてくる南次郎の顔をまじまじと見た倫子は、小さく溜息を吐いて「あらそう」と、また手元に視線を戻した。 
      南次郎は構わずに続ける。 
      「ここンとこ、どーも変だとは思っていたんだよなぁ。ミョ〜にソワソワしてやがるし、かと思うといきなり考え込んでしかめっ面してるしよ」 
      倫子は黙ったまま丁寧にジャガイモの皮を剥いている。 
      「今日も行き先も言わずにバッグ担いでどっかにフラッと行きやがるから、帰ってきた時にからかい半分に訊いたんだよ『デートか』って。そしたらお前、アイツ否定しなかったんだ」 
      「ちょっとどいて」 
      レンジの前にいた南次郎が身体をずらすと、倫子が鍋を火にかけた。 
      「でな、そのあとアイツが珍しく俺をコートに誘ったんだよ」 
      そう言ったまま南次郎が黙り込んだので、倫子はまた視線を南次郎に向けた。南次郎はその時のリョーマの様子を思い出しているらしく、嬉しそうな瞳をして、小さく笑っていた。 
      「アイツ、これからもっと強くなっていくぜ。誰かがアイツを変えたんだ。アイツの魂に火をつけてくれた」 
      「………」 
      倫子は小さく目を見開くと、南次郎に気づかれないようにこっそりと微笑んだ。 
      「あんなふうにアイツを変えちまうなんて、一体どんな相手なんだろうな。どっかの誰かみてぇに気の強い子かな。それとも……」 
      南次郎が今度は「うーん」と唸って黙り込んだ。倫子はまた小さく溜息をついて南次郎を見る。 
      「男、とか……」 
      チラリと視線を向けられて、倫子は目を丸くした。 
      「男?」 
      「んー、日本だって最近じゃ、ありえなくはないと思うぜ?」 
      「………」 
      言葉を失くしているように見える倫子に、南次郎は探るような視線を向ける。 
      「やっぱ反対?相手が男じゃ、ダメか?」 
      「あのねぇ…」 
      倫子は何度目かの溜息を吐いてから、南次郎に真っ直ぐ向き直った。 
      「憶測でものを言うんじゃないわよ。あの子に確かめもしないで…」 
      南次郎はポリポリと頭の後ろを掻いた。 
      「まあな。だが、アイツを変えた存在がいることだけは確かだぜ。それはつまり、アイツにとって、ある意味、俺たち肉親よりも強烈な存在感のある人間ってコトだ。『特別』ってヤツ」 
      「……いいんじゃない?べつに」 
      「あ?」 
      倫子はレタスを水でキレイに洗いながら穏やかな表情をしていた。 
      「あの子が前に進むために必要な存在なら、性別なんて私は関係ないと思うけど?男でも女でも、理解し合って、想いが通じ合うことが、一番だと思うわ。それに、あの子が自分で選んだ相手なら、たぶん大丈夫よ」 
      「………」 
      今度は南次郎が目を丸くした。 
      「お前………さすが、グローバルな考え方してるな。だてにアメリカで勉強してない、ってか?」 
      「あなたと結婚しちゃったくらいですからね。常識に囚われていたら、今頃ここでレタスなんか洗ってないわよ」 
      「そりゃそうだ」 
      楽しそうに笑う南次郎の後ろから、菜々子が慌ててキッチンに飛び込んできた。 
      「おばさま、おじさま、大変!お隣が火事みたい!」 
      「なにっ?」 
      「消防署に連絡を!」 
      南次郎が玄関に走り、倫子は電話に走る。菜々子はとりあえず、レンジの火を消した。
 
 
 
 
  *****
 
 
 
 
  「リフォーム?」 
      夕食の最中に彩菜の口から出た言葉を、手塚は繰り返した。 
      「そうなの。この家もたいぶ古いところが目立ってきたでしょう?耐震構造に変えるためにも、お父さんにお願いしていたんだけど、やっと目途がついたの」 
      「はあ」 
      手塚が父の国晴に視線を向けると、困ったような笑顔で頷かれた。 
      「でね、ちょうどお父さんも海外に短期で出向が決まったから、そのついでに思い切ってやっちゃおうと思って」 
      「出向で海外に行かれるんですか?」 
      もう一度手塚が視線を父に向けると、黙々と箸を口に運びながら国晴がまた頷いた。 
      「それで、お祖父さんは警察の方で寮を手配してくださるの。私は実家の方に寝泊まりするとして、国光、あなた、どうする?」 
      「は?」 
      「この家、全面的に改装するから、住んでいられないのよ」 
      ニコニコと、彩菜は話を続ける。 
      「あなたは学校があるから私の実家に一緒に行くことはできないでしょう?だからね、学校の近くに部屋を借りられたらって、思っているんだけど」 
      「……期間はどれくらいなんですか?」 
      「全部終わるのは一ヶ月ってところかしら」 
      手塚は少し考えてから頷いた。 
      「わかりました。それくらいなら、何とかなると思います」 
      「よかった!実はもうお部屋の方は申し込んじゃってあるの。すぐにでも入れるわよ。はいこれ、鍵」 
      「…………」 
      手塚は零れそうになった溜息を飲み込んで、差し出された鍵を受け取った。 
      「……よろしければ食事のあとで、借りている部屋まで連れて行って頂けませんか。運べる荷物は少しでも運びたいですし」 
      「そうね。あなた、車出してくださる?」 
      国晴はやはり、黙ったまま頷いた。 
      「じゃ、お祖父さんがお帰りになったらみんなで見に行きましょうか」 
      「お願いします」 
      満面笑顔の彩菜の横で、国晴は小さな溜息を漏らした。
 
 
 
 
  *****
 
 
 
 
  越前家の隣の火事は、家屋をほぼ全焼させて鎮火した。 
      隣の家の住人たちは皆無事に避難していて、無傷で済んだことは幸いだった。 
      「明日からどうすればいいんだろう…」 
      「今日寝るところだって……」 
      隣の家は老夫婦とその息子夫婦との二世帯が住んでいて、焼け出された四人は道端に座り込んで途方に暮れていた。 
      日本に帰国して以来、隣の家族にはいろいろとよくしてもらっていた南次郎と倫子は、顔を見合わせて頷き合った。 
      「あの……差し出がましいようですけど、よかったら暫くうちにいらっしゃいませんか?」 
      「え?」 
      柔らかく声をかけた倫子を、座り込んだ四人が一斉に振り仰いだ。 
      「幸いうちの方には被害は出ませんでしたし、古い家ですけど、部屋数はありますので、いろいろ落ち着くまで、よかったら…」 
      「あ……ありがとうございますっ、越前さん」 
      絶望のどん底で女神を見つけたかのように、四人はそれぞれ涙ぐんで倫子を見つめた。 
      「でもこんなに大勢で押しかけたら申し訳ないのでは…」 
      「大丈夫ですよ。二階にすぐ使えそうな部屋がありますから。ねえ、リョーマ?」 
      倫子はカルピンを抱えて隣に歩み寄ってきたリョーマに同意を求めた。 
      「べつにいいけど………でも、あのさ、母さん」 
      「え?なに?まさか嫌だとか言うんじゃないでしょうね?」 
      倫子の声が半音低くなったので、リョーマは慌てて首をブンブン振って否定した。 
      「違うよ、そうじゃなくて、オレの部屋が」 
      「え?」 
      「………オレの部屋が、水浸しで寝るとこないんだけど」 
      「…………え?」 
      隣の家への放水で、窓を開けたままでいたリョーマの部屋も水を被ってしまったようだった。 
      家に戻り、リョーマの部屋を確認した倫子と南次郎は、その惨状に愕然とした。 
      ベッドも床も机も壁も、辺り一面ぐっしょりと濡れてしまっている。たぶんベッドはもう使い物にはならない。床のカーペットも、壁紙も張り替えねばならないだろう。テレビもゲーム機も、壊滅状態だった。 
      「あちゃー」 
      南次郎が頭をガシガシと掻いた。 
      「どうしましょう…」 
      暫し呆然としていた倫子は、キリッと表情を変えると、普段使っていない部屋を確認し始めた。 
      「使える部屋は二部屋ってとこね…」 
      他にも部屋はあるものの、物置状態になっていて使い物にはならない。それに二部屋あるうちの一部屋に四人の家族を詰め込むのは気が引ける大きさだった。 
      「リョーマは暫く居間で寝るしかないわね」 
      「……べつに…いいけど…」 
      「おばさま、居間もちょっと濡れてきたみたいです」 
      「え?」 
      リョーマの部屋の真下にある居間の天井から、ぽたぽたと水が落ちて来始めた。どうやらリョーマの部屋に染みこんだ水分が、重力に従って下がってきたらしい。 
      「こんなところには寝かせられないわね」 
      「んじゃあ、久しぶりに親子三人で川の字になって寝るか!」 
      「そうね、そうしましょうか」 
      「え…」 
      リョーマは思い切り嫌そうな顔をした。南次郎のいびきがこの世の人間のものとは思えないほど凄まじいのをリョーマは知っているのだ。隣で母が平然と寝ていられるのが、いつも不思議でしょうがなかった。 
      「とりあえず、お隣さんに、何か温かいものでも出しましょう」 
      倫子が外に出て行くのを追いかけるように、リョーマの腕からカルピンがするりと抜け出した。 
      「あッ、待て、カル!」 
      リョーマが慌ててカルピンの後を追う。玄関から外に走り出たカルピンは、消防車やまだ残っている野次馬たちの間をすり抜けて逃げてゆく。 
      だがその野次馬が途切れたあたりで、カルピンはピタリと足を止めた。その少し先に一台の乗用車が止まったのだ。 
      「カル!」 
      座り込んでいたカルピンを、リョーマは難なく捕まえて抱き上げた。 
      「越前?」 
      「え?」 
      顔を上げると、そこに手塚が立っていた。 
      「部長?なんでここに…?」 
      「越前こそ………まさか、さっきの大きな火事はお前の家か?」 
      ハッとしたように訊いてくる手塚に、リョーマはちょっと意外そうに目を見開いてから、首を横に振った。 
      「オレの隣の家っス。隣は全焼しちゃって大変で……うちは…塀と庭がちょっと焦げたのと、オレの部屋が水浸しになったくらいで……」 
      「水浸し?」 
      手塚の眉がきつく寄せられた。 
      「国光?その子は?」 
      手塚の後ろから彩菜が顔を出した。 
      「テニス部の後輩の越前です」 
      紹介されて、リョーマはペコリと頭を下げた。 
      「まあまあ、こんばんは、あなたが越前くんなのね。……国光の母です」 
      ニッコリ微笑まれて、リョーマは「こんばんは」と言いながらまたペコリと頭を下げた。 
      「リョーマ!…ああ、よかった、どこに行ったかと………あら、こちらは?」 
      今度はリョーマの後ろから倫子が現れた。 
      「テニス部の先輩、手塚部長。と、部長のお母さん」 
      手塚は礼儀正しく一礼する。彩菜も丁寧にお辞儀をした。 
      「テニス部の?…まあ、いつもリョーマがお世話になっております。リョーマの母です」 
      「いえいえこちらこそ、越前くんのお話はたまに国光から聞くんですよ」 
      「あら、まあ、そうなんですか?」 
      いきなり意気投合し始めた二人の母親から少し離れて、手塚は改めてリョーマに向き直った。 
      「それで、お前の部屋が水浸しとは……どの程度なんだ?」 
      「もうダメっス。ベッドとか床とかビチャビチャで。無事だったのはクローゼットの中の服がちょこっとと、制服と、ドアの近くに置いといたラケットが入ったバッグとウエアくらいっス」 
      教科書も半分くらい無事だったかな、と付け足すリョーマの話を、手塚は眉を寄せながら聴いていた。 
      「他の部屋は大丈夫なのか?」 
      「オレの部屋の下にあった居間も、ちょっとヤバイ感じっス。余っている部屋は、隣の人に貸すことになっていて……」 
      「国光!」 
      「はい」 
      話の途中、いきなり大きな声で呼ばれ、手塚は驚いて彩菜を振り返った。 
      「今夜から、あなた、リョーマくんと一緒にあの部屋に住みなさい」 
      「は?」 
      「へ?」 
      手塚とリョーマは、ほぼ同時に目を見開いて素っ頓狂な声を上げた。彩菜の横で倫子も目を丸くしている。 
      「ちょっとした事情で国光一人で暫く暮らすことになって、ちょうど今、その部屋を見てきたところなんですけど、やっぱり国光一人で使うには広すぎるかなって思っていたところだったんですよ。お話を伺ったら、越前くん、困っているみたいだから、ちょうど良いじゃない、ねえ国光」 
      「は……はぁ」 
      「…なんで部長が部屋借りて一人暮らしするんスか?」 
      隣で不思議そうに訊ねてくるリョーマに、手塚は眉を寄せたまま視線を向けた。 
      「家をリフォームすることになってな。ほとんど改築になるから、暫く家を出なくてはならないんだ。それで…」 
      「ふーん」 
      リョーマは納得したようだったが、一呼吸おいてから彩菜に真っ直ぐな視線を向けてきっぱりと言った。 
      「でも部長に悪いですから。いくらテニス部の後輩でも、そこまで甘えるわけにはいかないっス」 
      手塚は意外そうに目を見開いた。リョーマならば簡単に承諾するかと思っていた。 
      「でも…」 
      まだ言い募ろうと身を乗り出した彩菜を、手塚がそっと制した。 
      「国光…」 
      見上げてくる母の心配そうな瞳に、手塚は柔らかな瞳で頷き返した。 
      「越前」 
      「はい」 
      「困った時はお互い様と言うだろう。遠慮しなくていい。二、三日、俺の部屋に来い」 
      「………」 
      リョーマは大きな瞳でじっと手塚を見つめ、暫く逡巡したあとで小さく頷いた。
 
 
 
 
  *****
 
 
 
 
  リョーマは手塚が苦手だった。 
      いや、今も「苦手」ということに変わりはない。
 
  地区予選も終わって、その試合中に負った瞼の怪我が治ってすぐに、手塚に試合を申し込まれた。 
      その時は、その試合になんの意味があるのか全くわからなかったリョーマだが、今日、手塚と一戦交えたことで、自分の中で、何かが変わったのをはっきりと感じている。 
      手塚は、リョーマのことを想って、大切なものに気づかせてくれようとしたのだと、わかった。 
      家に帰ってからリョーマは手塚についていろいろ考えた。 
      取っつきにくい人だと思っていた。 
      実際、手塚とはテニスの話題でさえ、ろくに言葉を交わしたことがない。テニス以外の話など、皆無だ。 
      頭の固い人だとも思っていた。融通が利かない、機械のような冷たい人間なのではないかと。だがそれは、地区予選の不動峰戦の時に、ほんの少し薄らいだ。 
      あれだけ副部長の大石が反対するのをあっさり押し切って、時間の制限は設けたものの、怪我をしたリョーマに試合を続けさせてくれた。つまり手塚は、越前リョーマというプレイヤーを認め、信頼してくれたのだ。 
      たぶんその時から、リョーマの中で、手塚に対する印象が、少しずつ変わってきていたのかもしれない。 
      そして今日、手塚と対戦し、こてんこてんに伸された。 
      なのに、青学を支えてゆく柱になれと言われた。 
      (わけわかんない人…) 
      正直言って、今の手塚に対するリョーマの感想は、その一言に尽きた。 
      冷たいのか、優しいのか、せっかちなのか、気が長いのか。小さなコトですぐグラウンドを走らせるほど心が狭いかと思えば、一年生のリョーマに青学を支えていけと、常識に囚われない大胆なことを言ったりもする。 
      本当に、リョーマにとっては「わけがわからない」のだ。 
      でも。 
      悪い人間ではないことはわかった。自分の利益や、体面を気にするような人間でないことは。 
      だから、数日だけとはいえ、ひとつの部屋で過ごしても良いと、リョーマは思った。 
      手塚国光という人間に対するよくわからない安心感が、リョーマの胸に芽生えていた。 
      たぶん、他の先輩だったなら、短期間といえども、二人きりで一緒に過ごすのは絶対に断るだろうとリョーマは思う。 
      明確に言える理由があるわけではなかったが、なぜか、そう、思えるのだ。 だがリラックスできるかというと、そうではなく、むしろ手塚の傍に立つと、ほんの少し、心が緊張を覚える。背筋が、いつもより心持ち、真っ直ぐになる。 なのに、それは嫌な感じではない。それどころか、心の奥が引き締まるような爽快感を感じる。 
      手塚の纏う凛とした空気を、リョーマは結構気に入っているのかもしれない。 (「部長」だから、かな……) 
      手塚は「部長」として部全体のことをよく見ているとリョーマは思う。その、愛情とも言える熱い想いは、常に「青学テニス部」に注がれていて、だから、自分を信頼してくれるのも、間違ったテニスへの心のベクトルを軌道修正してくれたのも、すべてが「部長」として「青学テニス部」のためにしたのだろうと思える。 
      つまり、手塚が見ているのは「青学でテニスをする越前リョーマ」であるのだから、私生活にまで口出しはしてこないだろうとリョーマは思うのだ。 
      リョーマは、干渉されるのが好きじゃない。だから、手塚なら一緒にいても大丈夫だと、そう結論を出した。
 
 
  無事な服を何枚かと、教科書やらラケットやら、とりあえず必要なものだけを持って、リョーマは国晴の運転する車に乗せてもらうことになった。 
      「じゃあ、申し訳ありませんけど、よろしくお願い致します」 
      倫子が深々と頭を下げ、その少し後ろで南次郎も珍しく真面目な顔で頭を下げている。 
      「お気になさらないでください。お友達の家に泊まる、くらいの感覚でいてくださいね。でも、ちゃんと、責任もって、リョーマくんをお預かりします」 
      車に乗り込む前に、彩菜は倫子と南次郎にニッコリと微笑みかけた。 
      「リョーマの部屋と居間だけですので、すぐ何とかなると思います。それまで、よろしくお願い致します。リョーマ、手塚さんにご迷惑をおかけしないでね」 
      「わかってる。夕飯くらいは食いに帰っていいんでしょ?」 
      「当たり前よ。ぁ、そうだわ、ご飯食べに来る時は手塚さんもお連れしなさいね」 
      「あ……そうだね。わかった」 
      「お気遣いなく」 
      リョーマと倫子の会話を聴いていた手塚がさりげなく断りを入れる。 
      「本当に、お宅の息子さんはしっかりしていて……リョーマに爪の垢でも煎じて飲ませたいくらいだわ」 
      「そんなことありませんよ。越前くんみたいに可愛い息子、一人欲しかったところなんですから」 
      「あらそんな」 
      完全に意気投合しているらしい二人の母親を見て、リョーマと手塚はほぼ同時に溜息を吐いた。 
      「部長のお母さんって、明るいっスね」 
      車外の母たちには聞こえないように小声でリョーマが手塚にそう言うと、手塚も声を潜めて言った。 
      「お前のところも明るい上に行動力と判断力があるようだな」 
      一向に車に乗り込もうとせずに話を続けている母親たちを見て、二人はまた溜息を吐く。 
      「部長、本当にいいんスか?」 
      「ん?」 
      「急にオレが押しかけることになっちゃって……すみません」 
      手塚はちょっと意外そうに目を見開いた。その表情を見て、リョーマは少しムッとする。 
      「…なんスか、その意外そうな顔は。オレだってちゃんとジョーシキくらいわかってますよ」 
      「いや…すまない……コートに立つお前の印象が強くてな」 
      そう言って手塚はふわりと瞳を和らげた。 
      「気にしなくていい。いろいろ不自由があるかもしれないが、よろしく頼む」 
      「え……あ、……う、ういっス。こちらこそ、ヨロシクお願いします」 
      なぜかしどろもどろになりながら、リョーマはペコッと小さく頭を下げた。 
      (部長って、こんな優しい顔、できるんだ) 
      それからは二人とも黙ったまま、母親たちの話が終わるまで後部座席に並んで座っていた。
 
 
  その後、やっと話を終えた彩菜が車に乗り込み、車を出す頃はすでに十時近かった。 
      手塚の家に寄って国一を降ろし、本格的に手塚が移住するために必要なものを積み込んでから、借りの住まいに向かう。 
      「じゃあ、何かあったら電話しなさいね。はい、これ、あなたの携帯よ、国光」 
      「………ありがとうございます」 
      プリペイド式の携帯電話を渡されて、受け取ったそれをまじまじと見つめてから手塚はしっかりと頷いた。 
      「じゃ、これ、明日の朝ご飯用の食材。すぐ近くにコンビニもあるから、足りないものは自分で揃えなさい。じゃあね」 
      「はい」 
      「越前くんも、何か希望があったら遠慮なく国光に言ってね。短い間とはいえ、あなたにも快適に住んで欲しいから」 
      「はい。ありがとうございます」 
      彩菜はニッコリと二人に微笑みかけると「ぁ」と言って手塚に耳を貸すように手招きした。 
      怪訝そうに眉を寄せながらも耳を貸す手塚に、彩菜はそっと耳打ちする。 
      「いくら可愛くても、越前くんのこと、いきなり襲わないようにね」 
      「はっ?」 
      「じゃ、おやすみなさい」 
      目を見開いたまま呆然と立ちつくす手塚の横で、リョーマは「おやすみなさい」と言ってペコリと頭を下げた。 
      「部長?」 
      「………え?」 
      静かに去ってゆく車を見送ってから、リョーマはきょとんとした瞳で手塚を見上げた。 
      「オバサンから何言われたんスか?」 
      「……………いや、なんでもない。部屋に入ろう」 
      深く溜息を吐く手塚に、リョーマは小さく眉を寄せた。
 
 
  手塚とリョーマが住むことになった部屋は五階建てマンションの最上階、東端の部屋だった。 
      いわゆる「マンスリーマンション」と言われるひと月単位で契約して部屋を借りるものなのだが、狭いなりにキッチンも完備され、六畳程度のリビングと、やはり六畳あるかないかの広さの寝室が設えてあった。 
      寝室にはセミダブルベッドが据え置かれており、クローゼットの作りもかなりしっかりとしている。 
      バスはユニットバスだがかなり広めの浴槽が設置され、洗面台は、ちょっと洒落たシティホテル並みの造りになっていた。 
      「なんか………部長の家って、もしかして金持ち?」 
      「………あの人は……母は、かなり凝り性なんだ」 
      溜息混じりに言う手塚を見上げ、リョーマはプッと吹き出した。 
      「部長も、オバサンの前ではまだまだっスね」 
      「………」 
      クスクスと笑うリョーマを恨めしげに見つめてから、ふと気づいたように手塚は寝室を見た。 
      「越前、ベッドがひとつしかないんだが……」 
      「ぁ、べつにオレ、その辺に転がってても寝られるっスよ」 
      「そう言うわけにはいかないだろう」 
      「じゃ、一緒に寝てくれるんスか?ベッド広いし」 
      リョーマの言葉に、手塚はベッドをじっと見つめてから頷いた。 
      「越前はそれでもいいのか?」 
      「いいっスよ。部長、いびきかかないよね?」 
      「?たぶんな」 
      「よかった」 
      心底ホッとしているようなリョーマに、今度は手塚がクッと笑った。 
      「管理人への挨拶は明日にしよう。今日はもう寝るか?風呂、先に使っていいぞ」 
      「あー……その前に、部長、なんか食べるものあります?オレ夕飯食い損ねていたんだった……お腹空いた…」 
      「え?そうなのか?…なにか…」 
      「ああ、そーいえば近くにコンビにあるって言っていたから、オレちょっと行ってきます」 
      財布をポケットに突っ込んで靴を履き始めるリョーマを、手塚は慌てたように追いかけた。 
      「俺も行こう。こんな時間、一人で出歩かせるわけにはいかない」 
      「………大丈夫っスよ。女の子じゃないんだし」 
      「だが未成年だろう」 
      「……アンタもね」 
      言葉に詰まる手塚を見て、リョーマはクスクスと笑った。 
      「部長もなんか買います?だったら一緒に行きましょっか」 
      「……ああ」 
      仏頂面で返事をしながら手塚も靴を履き、二人は並んでコンビニへと出掛けていった。
 
 
 
 
  コンビニで欲しいものを仕入れ、部屋に戻ってやっと夕食にありついたリョーマは、満たされた腹を撫でながら満足げに息を吐いて寝転がった。 
      「もうこんな時間か………食べてすぐ寝るのはよくないが…どうする?越前」 
      「…………」 
      「越前?」 
      返事のないリョーマを覗き込むと、すでにスゥスゥと寝息を立てていた。 
      「越前」 
      そっと身体を揺すってみるがリョーマは起きない。 
      「…………」 
      手塚は小さく溜息を吐くと、リョーマを静かに抱き上げた。思いの外軽い身体に、手塚は少し驚いてリョーマをじっと見つめる。 
      (こんな華奢な身体のどこに、あんな………) 
      手塚は今まで自分が見てきたリョーマの試合を思い浮かべた。どの試合でもリョーマは相手を真っ直ぐに見据え、時には挑発し、そしてその挑発に乗ってきた相手を実力でねじ伏せてきた。 
      それでもどこか、リョーマの「目指しているもの」に疑問を感じて、ずっと見守っていた。そうして、リョーマが父である「越前南次郎」に囚われるあまり、テニスへの情熱をねじ曲がった方向へ向けていることがわかった。 
      だから、気づいて欲しかった。 
      テニスの、本当の楽しさに。本来向けるべき、情熱の対象に。 
      そのためには、また肘を痛めることになっても構わないとすら、手塚には思えた。それほどリョーマに期待している自分に、手塚は少しばかり驚きもしたけれど。 
      そうして挑んだ今日の試合で、リョーマは手塚の想いに応えてくれた。言葉や態度には表さないが、リョーマの中で、何かがはっきりと変わった手応えがあった。 
      だから、この先の青学を、託したいと思った。そして素直にそれを伝えることができた。 
      本音を言えば、あんな試合をしたあとで、自分たちは、前よりも一層ぎこちない関係になるのではないかと手塚は思っていた。だから、思いもかけずにリョーマと話すきっかけができ、こうして二人で過ごす時間を与えられ、手塚は少しばかりホッとしている。 
      「これからもよろしく頼む。越前…」 
      あどけない寝顔ですやすやと眠ってしまっているリョーマに、聞こえないとわかっていて手塚は語りかける。 
      そのまま、手塚はリョーマを寝室に運んでそっとベッドに降ろし、ふと、気になって靴下を脱がせてやった。 
      静かに寝室から出た手塚は、リョーマが食べ散らかしたリビングを片づけ、翌日の英語の予習をしてからシャワーを浴びて寝室に戻った。 
      目覚ましをセットし、ネコのように丸まって寝ているリョーマの隣に、なるべくベッドを揺らさないように気をつけながら身体を滑り込ませる。 
      ベッドの中はとても温かかった。 
      (思っていたほど抵抗はないな……) 
      他人とひとつのベッドで寝たことなどない手塚は、リョーマの存在が気になって眠れないのではないかと思っていたが、実際にベッドに入ってみれば、気になるどころか、その温もりが案外心地良いことを知った。 
      「おやすみ」 
      小さく丸まっているリョーマに、返事などないことを承知でそっと声をかける。 
      そのまま手塚は、なぜだかひどく穏やかな気持ちで眠りについた。
 
 
 
 
 
 
 
  翌朝。 
      目覚ましのアラームが鳴る前に目を覚ました手塚は、そっとベッドを抜け出して朝食の用意を始めた。 
      暫くしてリョーマが寝室から目を擦りながら出てきた。 
      「……はよっス…」 
      「おはよう。簡単なもので悪いが朝食は用意した。食べられるか?」 
      「…ぃーっス」 
      夢の世界を引きずりながら席に着いたリョーマの前に、手塚はトーストと目玉焼きと、インスタントのコーヒーを置いた。 
      「………部長、目玉焼き、巧いっスね……」 
      「……そうか?」 
      眠そうだったリョーマの目が大きく見開いていて、手塚も少し驚いたようにリョーマをじっと見つめる。 
      「うん。ちょうどオレの好きな焼き加減って言うか……黄身がトロトロで美味しそう…いただきまーす」 
      「ああ」 
      「わっ、スゴイ、美味しいっスよ!部長」 
      キラキラと輝く瞳でリョーマに見つめられ、手塚はビックリして一瞬言葉が出なかった。 
      リョーマの年相応の表情を、初めて見た気がした。
 
 
  その後、二人は身支度を整え、前日と何も変わらぬように朝練に参加した。 
      だが、変わらなかった二人の様子とは裏腹に、二人を囲む雰囲気は前日とは全く違うものになっていた。 
      手塚も、そしてリョーマも、部内の空気がいつもと微妙に違うことにすぐに気がついた。 
      微妙に違う空気は、だが刺々しいものではなく、どこか遠巻きに観察されているような、好奇の的にされているような、そんな雰囲気だった。 
      「よくわからんが、気にするな。みんな、お前の家の隣の火事のことを知っているのかもしれない」 
      「ああ、なるほど……」 
      そんな会話をリョーマと手塚が交わしているところへ、不二がニコニコと微笑みながら近づいてきた。 
      「あ、不二先輩、はよっス」 
      「おはよう、手塚、越前」 
      「おはよう」 
      不二は手塚とリョーマを交互に見、クスッと笑ってから「ふぅん」と言って腕を組んだ。 
      「君たち、どうやら噂になってるみたいだよ」 
      「噂?」 
      手塚が眉を小さく寄せて聞き返した。 
      「うん。結構衝撃的な、ウ・ワ・サ」 
      ニコニコと微笑みを浮かべる不二をじっと見つめてから、手塚とリョーマは顔を見合わせて同時に眉をきつく寄せた。 
      「どんな噂っスか?不二先輩」 
      堪らずにリョーマが訊ねると、不二はふわりとその瞳を見開いて、真っ直ぐにリョーマを見つめた。 
      「君たちが、昨夜、『駆け落ちした』って」 
      「…………」 
      「…………」 
      三人の間にひゅるりと風が流れた。
 
 
  
      「駆け落ち???」
 
 
  
      同時に叫んだリョーマと手塚の声が、コート中に響き渡った。
 
 
 
 
 
  
      続
 
 
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      20050510 
      
      
  
    
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